ナチ占領下の小国で少年少女とスパイがナチを相手に冒険を繰り広げる話
1.逃亡者たち
密偵というものは、目的を達成するため非情に徹するものだ。少なくとも、潜入任務の途中で人を助けてなにもかもを台無しにするような馬鹿には務まらない仕事である。そう、いまここで人を助ければ、なにもかもが台無しになるのだ。
アレンヴァルト・シュナーベル親衛隊大佐の黒いマント姿の背を眺めながら、〈ちとせ〉はあくまで冷徹な親衛隊員の外観を崩さぬままなんども自分にそう言い聞かせていた。シュナーベル大佐の前には、ひとりの少年が立っている。色とりどりの民族衣装を着込み、大地と同じ色の顔のなか、黒く大きな瞳に敵意を滲ませた少年は、一様に黒い制服を着込んだドイツ人たちの中にあってただ一人だけ色彩を保っているかのようであった。
「ふむ。ミラン・トリエスティ。どうしても、〈契約の石〉を渡してはくれないのかな」
黒い男たちの頭目が、くぐもった声を発しながら少年にゆっくりと歩み寄った。ミランが強く握りしめた手からは、金の鎖で下げられた大振りな青い宝石がちらりと姿を見せている。その宝石こそが、シュナーベル大佐と彼の部下たちの狙う〈契約の石〉であるのだ。
だが、ミラン・トリエスティは幼い顔を強張らせたまま、ふるふると顔を左右に振るばかりだ。
「〈契約の石〉なんて知らない。これは、俺が母さんから、母さんが婆ちゃんから、婆ちゃんはそのまた母さんからずっと受け継いできた大切なペンデュラムなんだ。誰にも渡しちゃいけないって言われてる」
震える声でミランが発した言葉は、〈ちとせ〉の脳裏につい先刻見たばかりの光景を強制的に思い起こさせた。それは、少年と同じ極彩色の衣装を着た女が、あざやかな赤い血を割れた脳天から吹き出して事切れる光景だ。──いや、思い出すまでもない。今も、すこし振り向くだけで女の死体は目に入るはずだ。占い小屋に親衛隊員たちが押し入った瞬間、彼女は奥にいる少年に向かって逃げるよう叫び声を上げ、その直後、放たれた銃弾で額を貫かれたのだから。
そして今、逃げるよう言われた息子にも、母の命を奪ったのと同じ拳銃が向けられている。シュナーベル大佐が、愛用のルガーをミランに向けたのだ。
「〈石〉の価値も知らない劣等民族が! 〈契約の石〉が、振り子だと? それは、お前たちのような汚らわしい種族の、いかがわしい占いの道具などではない!」
占い小屋に、怒声が響き渡った。このとき大佐の顔が見えていたならば、さぞ怒りに歪んでいたことだろう。だが、〈ちとせ〉は大佐の斜め後ろに立っていたし、仮に彼が大佐の顔を覗き込んだとしてもその面貌を拝むことはかなわなかったはずだ。小屋の中に置かれた様々な道具のなか、丁度大佐の正面には小さな鏡が掛かっている。鏡に映るものは、奇妙な鳥の顔のような革製のマスクを制帽の下に着けた不気味な姿だ。シュナーベル大佐は、ペストマスクと呼ばれる古い疫病医のマスクを常に着用しているのだ。その求めるところと相まって、奇人と呼ぶにふさわしい存在であることに疑いはない。
仮面越しの怒声はなお続いている。声が発せられるたび狭い占い小屋に草をすりつぶしたような強烈な芳香が漂うのは、ペストマスクの中には古式に従って様々な薬草が詰め込まれているためだ。
「良いか、〈契約の石〉とは、我らアーリア民族の先祖たるアトランティスの民に伝わる、神との契約の証。本来ならば貴様のような劣等民族がこれを持っていること自体が許されることではないのだぞ!」
くぐもった怒声とともに、シュナーベルの握るルガーは何度も振られ、銃口が上下する。指が引き金に掛かった状態でのことだ。何度めかにルガーが振りかぶられたとき、全く脈絡なく銃声が響き渡った。
「うわあ!」
と、ついにミランの口から悲鳴が上がり、同時に鏡の割れる音も響き渡った。あたりには、血のついた硝子の破片がいくつも飛び散り、投げ出されることとなっている。銃弾はミランの肩口をかすめて背後へと抜け、掛かっていた鏡を砕いたのだった。
飛び散ったのは、鏡の破片だけではない。占い台の上には、青い石が投げ出されてもいる。ミランが握りしめていたはずのペンデュラム、あるいは〈契約の石〉だ。肩を銃弾に砕かれた痛みのあまりに、ミランはペンデュラムを思わず手放してしまっていたのだ。
無論、すぐに少年は家宝であり商売道具でもある宝石に手を伸ばした。だが、それよりも手術用のゴム手袋に覆われた手のほうが、ほんの少しだけ動きは早かった。
「ふむ。いかんな、血で汚れてしまった。レルヒマン少佐、消毒を」
鎖をつまんでかかげられたペンデュラムにはたしかにミランの血が飛び散り、青く透き通った宝石の表面を汚していた。異変が起きたのは、命令を受けたレルヒマン少佐がすかさずアルコールスプレーとコットンで表面を丹念に拭ってシュナーベルに返した、その瞬間のことだ。
「おお、これは──」
汚れを落とされて一段と透明感を増した〈石〉の奥底に、ゆらりと炎が揺らめくように青い光が立ち上がっていた。光の具合やカットの仕方によるものではない。明らかに、宝石の中で常ならぬ現象が起きている事に間違いはなかった。
「やはり、間違いない。〈石〉が契約者の血筋に戻されて、目を覚まそうとしているのだ。ああ、早く完全に目覚めさせる方法を探らねばならぬ」
炎が揺らいでいた時間はそう長いものではなく、一瞬で石はただの宝石へと戻ってしまった。だが、それでもシュナーベルは悦びを隠そうとはしない。巨大な烏のような男は、一刻も早く〈石〉について調べたいといわんばかりに、占い小屋の出口へと向かい始めた。
「──かえせ、泥棒! それは俺たちがずっと、ご先祖様から受け継いできたものなんだ──」
あと少しで小屋を出るというとき、黒衣の背に苦しげな声が投げかけられた。ミランが肩口を抑えながら立ち上がり、シュナーベルに手を伸ばしているのだ。だが、シュナーベルは今しがた自分が撃った少年の方を振り向きもせず、そのまま小屋を出ていった。薄暗い仮面の奥は見えないが、おそらくは恍惚とした表情で長年追い求めてきた成果物を眺めていることは想像に難くない。
代わりに少年に答えたのは、レルヒマン少佐だった。
「泥棒? それは、お前たちの話だろう」
レルヒマン少佐は、上官に代わり返答するだけにはとどまらなかった。略奪者に追いすがろうとしている少年を蹴り飛ばすと、磨き抜かれた軍靴でその肩口にできたばかりの傷を踏みにじったのだ。
「お前の薄汚い先祖が一体いつ我らの祖先よりこの〈石〉を盗み取ったかは知らないが、ようやく本来の持ち主の手に戻ったというだけの話だ。──ハルト・シュラー親衛隊大尉!」
痛みに身をよじり、悲鳴を上げる子供を足蹴にしながら、少佐は下僚の名を呼んだ。
「この劣等民族を始末しろ」
レルヒマン少佐の青い瞳は、〈ちとせ〉を真っ直ぐに見ている。当たり前だ。ハルト・シュラー親衛隊大尉というのは、〈ちとせ〉がナチスドイツ親衛隊に潜入するに際して名乗っている名と身分なのだから。
ハルト・シュラー親衛隊大尉は実直かつナチズムに極めて翼賛的な、極めて優秀な親衛隊員である。上官からの信頼も厚く、レルヒマン少佐がミラン・トリエスティを、流浪の民の少年を射殺するよう命じるのも当然の選択と言えよう。
「了解いたしました」
「ハルト・シュラー親衛隊大尉」は眉一つ動かすことなくレルヒマン少佐の命令を拝命し、ベルトに挿したワルサーPPKを少女に向けた。アーリア人らしい、と評される精悍な白皙の顔には、微塵も動揺は浮かんでいない。
〈ちとせ〉の任務は、シュナーベル率いる特捜隊に潜入し、彼らが目的としている〈契約の石〉を使用方法とともに持ち帰ることだ。いま、〈石〉はシュナーベルの手にある。その使用法までは、まだシュナーベルたちも探りきれていない。だが、多大な信頼を受けるハルト・シュラー大尉ならば、使用方法の研究を見届けた後、難なく〈石〉を奪取することも可能だろう。そう、簡単な話だ。機が訪れるまで、あくまで忠実な親衛隊員ハルト・シュラーとして振る舞えば良いのだから。──
「──どうした、シュラー大尉」
訝しむ声が、〈ちとせ〉の耳を打った。「ハルト・シュラー」は、ワルサーPPKを構え、その銃口を少年に向けたまま静止していたのだ。銃口の先では、少年ががたがたと震えながらも〈ちとせ〉の顔をじっと見返している。いつのまにか、周囲の親衛隊員たちはシュナーベルに従って外に出ていた。残っているのは、ミランと〈ちとせ〉、それにレルヒマン少佐の三人だけだ。外に出た隊員たちは、ハルト・シュラーと同種の命令を受けているものらしい。散発的に聞こえる銃声は、あたりに響く悲鳴と合わせて考えるに、森の中に隠れ住んでいた他のツィゴイネルたちを撃ち殺している音だろう。彼らにとって、ツィゴイネル、今でいうところのロマは、「殲滅すべき劣等民族」だ。引き金を引いて当然、ためらうのは怯懦の証──彼らの論理と倫理は、そう判じるはずだ。
「まさか、撃てないというのじゃあないだろうな? 見た目こそ子供の姿だが、駆逐すべき劣等民族だということは分かっているだろう」
少年の黒い瞳が正面から〈ちとせ〉を睨み、レルヒマン少佐の声が背中から「ハルト・シュラー」を追い詰めている。〈ちとせ〉の理性は、いまは「ハルト・シュラー」として命令に従うべきだと告げている。そうしなければ、折角築き上げてきた信頼が台無しになるだけではない。〈ちとせ〉が帯びた任務も達成が困難になり、下手をすれば「ハルト・シュラー」の正体を露見させる恐れすら存在するのだ。
銃口は、ミランの眉間へと真っ直ぐに向いている。距離は一メートルも開いていない。引き金を引けば間違いなく命中するだろう。〈ちとせ〉は、右手の人差し指に力を込めようとした。けれど、錆びついて固着したかのように、引き金は動かない。代わりに起きたことといえば、レルヒマン少佐が小さく息を吐いたことだけだった。
「……シュラーくん、正直失望したよ。まさか、小僧一人始末できないとはな。退け」
軽蔑を隠しもしない声とともに、少佐の背が銃口と少年の間に割って入った。狭い占い小屋にいやに大きく響き渡った金属音は、撃鉄を起こすかすかな音だ。レルヒマン少佐の握るワルサーの銃弾を受け、占い台の前に立つ少年が先刻母親がたどったのと同じ運命をたどるまで、ほんの数秒も猶予はないだろう。
もはや誰もハルト・シュラーを睨むこともなく、命令を下しもしない。〈ちとせ〉はいま、この場で唯一殺すものと殺されるものの関係から疎外された存在だった。だというのに、彼は自らに生殺与奪の権利が与えられていた時以上に動揺し、その表情を歪ませている。
そして、ついに銃声が鳴り響いた。
血と脳漿の入り混じった体液が、占い小屋に所狭しと詰め込まれた様々ながらくたに赤い汚れを飛び散らせた。粉々に砕けた鏡の上には、銃を構えた親衛隊員と驚愕に目を見開く少年、そして、砕けた頭から血をほとばしらせながら倒れてゆく親衛隊少佐の姿がバラバラに映っている。
ミラン・トリエスティが〈ちとせ〉を見た。その目は、先刻までとは違い驚きと疑問に見開かれている。
「……どうして」
と、少年が口を開こうとした。足元には事切れたレルヒマン親衛隊少佐が倒れ、その向こうには未だ硝煙の上がるワルサーPPKを構えたままの「ハルト・シュラー少佐」が立っている状況でのことだ。少年の反応はごく自然なものと言えよう。
けれど、疑問の言葉があとに続くことはなかった。〈ちとせ〉が音もなく自らが撃ち殺した男の死体を踏み越え、ミランの口をふさいだのだ。
「静かに。外に聞こえるとまずい、僕の言うことに従ってくれ」
占い小屋は、木の枠組みと布の天幕で構成された、ほぼテントに近いものだ。別段声を張り上げずとも音が外に丸聞こえであることは、いま外から小屋を焼き払う算段が筒抜けに聞こえていることからもよく分かる。どうやらシュナーベル大佐は、「汚らわしい劣等民族」の死体ごと占い小屋を焼き払って「消毒」を完了させる心づもりであるらしい。
金髪の大男から耳元で囁くように伝えられる言葉に、ミランは不安げな様子ながらも一つずつ、しっかりと頷いてみせた。
「ありがとう。……うまく行かなかったらそのときはすまない」
小屋の中には、シュナーベル大佐が置いていった香草の臭いや今しがた漂い始めた血の臭いをも覆い尽くす勢いでガソリンの臭いが漂い始めている。森の中に作られたロマたちの小さな隠れ里の周囲にたっぷりとガソリンを撒いているのだ、とは、〈ちとせ〉が何食わぬ顔で出ていったその周囲の作業を見て初めてわかったことだった。
「お疲れ様です、シュラー親衛隊大尉」
〈ちとせ〉は、声を掛ける隊員を無視し、シュナーベルの姿を探した。自らの蛮行の証を燃やす作業は部下に任せ、シュナーベルは別のことをしているようだ。嫌でも目立つペストマスク姿は、隊員たちの向こうに停められたメルセデスの近くで見つかった。どうやら運転手と何やら話しているようだ。大方、延焼の恐れがあるから車を離しておくようにとでも言っているのだろう。
「おや、レルヒマン親衛隊少佐どのは怪我をされたのですか。手当をしないと」
脇目も振らず、メルセデスへと大股に近づいていく〈ちとせ〉に、別の隊員から声がかかった。「ハルト・シュラー」が、黒服の人物に肩を貸しているのを見てのことだろう。〈ちとせ〉はそれにも答えず、救急箱を持って近づく隊員を振り切るように脚を早めた。再度、シュラーの名を呼んでも答えがなかったところで、周囲は異変に気づきだしたらしい。
だが、すでに〈ちとせ〉は少年をメルセデスの後部座席に放り込んだところだった。オープンタイプのメルセデス・ベンツはこの場合、カージャックを企む者たちにとっては非常に都合のいい乗り物だった。ミランが服の上から着込んでいたレルヒマン少佐の黒服は簡単に脱げ、制帽の下からは長い黒髪が溢れ出たが、もうここまでくれば正体の露見など気にすることではない。
「シュラー親衛隊大尉!? 一体何を」
「おい、小屋の中を見ろ! 死体がある、レルヒマン少佐だ!」
「何だと、それじゃああれは──」
「あの小僧だ、大尉は何を血迷ったんだ!?」
背後から、喧騒が迫っている。だが、それよりも〈ちとせ〉が運転手の頭部を撃ち抜いて車から引きずり下ろし、鳥頭のマスクに銃を突きつけるほうがはるかに早い。
「動くな!」
追いすがろうとする無数の靴音が、一斉に止まった。シュナーベル親衛隊大佐は、事態が飲み込み難い、というようにあたりを見回している。丸い風防硝子のついたペストマスクが、呆けた表情のように見えて何処か滑稽だ。
「親衛隊大佐、ルガーをこちらへ」
「シュラーくん、一体どうしたのかね。子供ひとりを殺すのがそれほど嫌だったのか?」
「黙れ、ルガーを早く」
シュナーベルは肩をすくめ、渋々、といった体でルガーを差し出した。受け取った拳銃は、即座に〈ちとせ〉によって車の外へ投げ出された。
「そのまま、助手席に座って手を座席の後ろへ。坊や、そこにケーブルが有る、それでこいつの手を縛り上げるんだ」
後部座席のミランは、言われたとおりに座席の下から牽引用ケーブルを取り出し、シュナーベルの手を縛り上げはじめた。その間も〈ちとせ〉は先刻までの同僚たちに目を配りつつ、親衛隊大佐に銃を突きつけている。
はっきり言って、〈ちとせ〉に今後の展望があるわけではない。最も手っ取り早いのは正体の露見も何もかも考えず、日本公使館に駆け込んで保護を求めることだろうが、残念ながら日本公使館はドイツの進駐とともにさっさと引き払ってしまっている。ただ、やってしまったものはどうしようもないのだから、この際一番マシな選択をしようとしているだけにすぎない。つまり、この場合は生きてこの場を離れる、ただそれだけが目的だ。
「うん、緩みもない、これで解けないと思うよ」
ミランが、シュナーベルをしっかりと拘束したことを報告した。
「よし、よくやってくれた」
すでにエンジンは掛かっている。シュナーベルは、不気味なほどに静かなままだ。奇妙なマスクのために表情が見えないことも相まって、そう見えるのかもしれない。どうやら、少なくともいま生存するという目的だけは達成できそうだ、〈ちとせ〉は内心安堵の息を吐きつつ、車のドアに手をかけた。
「いいか、こちらには人質が居る。この車に攻撃を加えた場合、人質への責任を放棄したものと見做す、意味は────」
〈ちとせ〉がベンツに乗り込みつつ親衛隊員たちに脅しの言葉を掛けている、その最中のことだった。ぶつん、と何かの破断する音とともに、
「あっ、こいつ、ナイフを!」
との声が、後部座席より上がった。だが、言葉の意味を理解するよりも、〈ちとせ〉の視界に銀色の刃先がきらめくほうがよほど早かった。
すんでのところでナイフを避ける事ができたのは、本来の身分である密偵としての訓練の賜であったのか、偽りの身分である親衛隊員としての訓練の成果であったのか。その問いへの答えは判然としない。確かなことは、シュナーベルの手に握られたメスの切っ先に切り裂かれるはずだった〈ちとせ〉の両目はすんでのところで難を逃れ、その代りに大きく仰け反った大男の体はバランスを崩したということだ。
袖に仕込んでいた医療用メスで窮地を難なく脱したシュナーベルは、その機を逃しはしなかった。運転席に斜めに座り、ドアにもたれかかるような形となった〈ちとせ〉の体の上に、黒く巨大な怪鳥が羽を広げる。黒いマントを翻したシュナーベルが、反逆者の喉元にメスを突き立てようとしているのだ。だが、〈ちとせ〉も簡単に殺されるわけにもいかない。狭いわけではないが大きいわけでもないメルセデス・ベンツの運転席で、二人の男たちはしばしもみ合い、つかみ合う事となった。その間にも、親衛隊員たちはメルセデスに駆け寄り、大佐に加勢をしようとしている。まるで場の空気を煽るようにエンジンの回転音が上がっているのは、もみ合いの中で〈ちとせ〉の足がクラッチペダルとアクセルを思い切り踏み込むことになっているためだ。
シュナーベルが上位を取っていたのはこの際、幸運と言えただろう。部下たちは、上官にあたることを恐れて銃の仕様を控える羽目になったからだ。けれど、だからと言って〈ちとせ〉が有利であるとも言えない。メルセデスの周囲には黒服どもがわらわらと集まってきていて、たとえシュナーベルをどうにかしたところでこの状況から打開が可能であるとも思えないが──
「──おじさん、クラッチお願い!」
と、唐突に耳元で声がした。ミランの声だ。後部座席に居たはずのミランが体を乗り出し、二人の男の間を縫って手を伸ばしている。その先にあるのは、シフトノブだ。エンジンは高らかに鳴り響いている状態でのことだ。意図するところは明らかだった。
シフトレバーを操作する音に合わせ、不自由な姿勢の中、〈ちとせ〉はクラッチペダルから足を離した。車体がわずかに揺れたと思ったのもつかの間のこと。十分以上にエンジンをふかしていた黒いメルセデス・ベンツは次の瞬間には一気に加速し、糸杉の森の中を疾走しはじめた。くぐもった悲鳴が後方へと飛んでいったのは、運転席の上で後ろ向きに立つ形となっていたシュナーベルが急加速に絶えきれず、車の後ろに転がり落ちていったことによるものだ。
「ああ、畜生、やっちまった」
木々の合間を縫い、下草や枯れ葉を轢き潰しながら突き進んでいくメルセデスのハンドルを握ったまま、〈ちとせ〉は呟いた。理性では、少年を撃つべきであると分かっていた。だが、その命令に従うことはできず、のみならず少年を殺そうとする親衛隊員を撃ち殺して、出奔している。これまで偽りの人生を送ってきた時間も、築き上げてきた信頼も、もはや何もかもが台無しだ。無論、このまま本国に帰るわけにも行くまい。そもそも、その手段も何一つ準備していないのだ。──
黒い車体を操りながら思索にふける〈ちとせ〉を、一つの物音が我に帰らせた。タイヤが枯れ葉を踏む音と鳴り響き続けるエンジン音に混じり、小さな泣き声が聞こえてきたのだ。視線を横にやれば、いつのまにか助手席に収まっていたミランが涙を流し、すすり泣いているところだった。
「どうして」
と、泣き声の合間に、震える声が上がった。
「どうして、俺だけ助けたんだ。どうして、母さんや、他の人たちを助けてくれなかったんだよ」
答えを返そうと〈ちとせ〉は口を開きかけたが、言うべき言葉を見つけることはついぞできなかった。何を言っても、少年を助けた理由でさえも、ただ自分の心の弱さを告白することにしかなりそうにはない。
「──すまない」
結局、口にできたのはその一言だけだった。あとは、森の中に響くのはメルセデスの発する音ばかりとなった。かすかに辺りに漂い始めているガソリンの臭いは、車から漂うものではなく森の奥で撒かれたものが風に乗り、その臭いを辺りにばらまいているものだ。
同時刻、森の奥では炎が燃え盛っていた。燃えているのは、占い小屋を始め、ロマたちが使う移動式の商店や芝居小屋、それに家代わりの馬車などだ。彼らはナチの侵攻に合わせて、移動のために使っている
炎を背景に、影絵のごとくに黒服の男たちがうごめいている。奇妙なことに、誰ももう逃亡者を追おうとはしていない。代わりに彼らは黙々と、今しがた自分たちが殺したロマの死体を並べている。しかも、死体はすべて、奇怪な鳥の仮面を被った親衛隊大佐の前に供物を捧げるかのように並べられているのだ。そのさまはさながら、死体を食らう猛禽の前に生贄を差し出す異教の供犠のようですらある。だが、彼らは一体何をしているというのか?
その答えは、シュナーベルが握る〈契約の石〉にありそうだ。無数の供物の上に掲げられて、〈石〉は再び青い炎をともし、のみならず、周囲に光を発し始めているのだ。
「キリスト教以前の古代世界においては、人を生贄に捧げる祭儀というものはごく一般的に行われていたものだ。あの偉大なローマ帝国でも、ハンニバルの脅威に際して奴隷を神に捧げる人身御供の儀式が行われたという。我らアーリア民族の祖先は、偉大なる民族として隷属する民族の処遇をよく知っていたということだ」
並べられ、積み上げられる死体が邪教の供物であるならば、シュナーベルはその祭司といったところか。彼一流の「説話」においてローマ帝国とアーリア民族の祖先とが直結しているのは歴史的には完全な間違いであるが、ナチの世界観においては一定の根拠のあることである。ローゼンベルクの『二十世紀の神話』でナチズムの神話として採用され、体系化された数々のオカルティックな疑似歴史学説においては、かつて極移動によって北極海に沈んだアトランティスに端を発する高貴な神話的種族が世界に散らばり、人類の文明を勃興させ、発展させてきたことになっているのだ。その説に従えばエジプトの偉大な古代王朝も黄河の辺りに生まれた文明も、あるいは古代ギリシア文明も古代ローマ帝国も、原アーリア人とでも呼ぶべき同じ一つの祖先をもつ民族が作り上げたものということになる。彼らは歴史の流れの中で他の劣悪な人種と交雑し、血を汚し、堕落して消え去っていったが、現存する中で最も原アーリア人の要素を残しているのが他でもないゲルマン民族なのだ。──と、言うのが、ローゼンベルクがまとめ上げたナチズムの神話であり、シュナーベルの言葉もその歴史観によるものであったのだ。
「──そして、生贄の儀式というのは往々にして、人を焼き、煙の形で捧げることが最上の形とされたものだ。ケルト民族のウィッカーマン、アモン人らのモレクへの祭儀などが有名なところだな。──あるいはユダヤ教における燔祭もまた、こういった人身御供の形骸を残したものだろう。旧約聖書に記されたイサクの燔祭は、神への供物が人から動物へと移行したことをひとつの物語として伝えたもので間違いあるまいよ」
小屋を焼く炎はなお一層赤く空を舐め、シュナーベルの手の内にある青い炎もまた、これ以上ないほどに大きく燃え上がっている。熱を伴わない炎が積み上げられた死体へと移り、その身を喰らい始めるのも時間の問題かと思われた。実際に、〈契約の石〉を掴むシュナーベルの手からは、まるでその手を丸ごと飲み込むように青色の火がほとばしりさえしたのだ。
「──さあ! 神よ、原始の力よ! 契約の証はこの手にある! 我こそは失われた民族の末裔、約定を果たすべく神話の彼方よりどうか御身を現し、我らを導きたまえ!」
シュナーベルは、高らかに祈りを唱えた。青い炎はいまや、辺りをのみこまんとしている。
だが、その次に起きた光景は、怪鳥のごとき司祭の望むものとは違っていた。
「何故。どうしたというのだ、これだけの生贄では足りないと言うのか」
一度は大きくなり、生贄を舐め尽くすかと思われた炎は、次の瞬間には勢いを弱めて消え去っていたのだ。それどころか、〈石〉の中の炎すらも消え、黒煙を上げて燃え盛る赤い火に照らされるばかりになっている。積み上がった死体もそのままだ。シュナーベルの言ったとおり、〈石〉に刻まれた契約を履行するには、生贄の数が足りないというのだろうか?それとも、全く別の原因があるものであろうか?
シュナーベルの問に答えるように、〈石〉が震えはじめた。振動はやがて音へと変わり、音はひとつの声へと変わってゆく。
『──〈契約〉コードを含む血液、および必要な環境が確認されず。〈契約〉を履行する権限が不足』
天空より呼びかけるような、遥か高みより託宣を下すかのような声で、〈石〉は契約の履行の不許可を告げた。伸ばした腕の先に残る青炎の残滓に照らされて、表情の変わるはずのない怪鳥の仮面にはまるで、怒りの形相かのような影が落ちている。
「……場所はともかく、私でも、あるいはこの場にいる他のどの親衛隊員でも、契約の履行者としては不適格だと言うのか。それとも──」
揺らめく青い種火が、再び震えた。
『なお、〈契約〉は盗人を許さない』
声が新たな託宣を告げるや、シュナーベルの仮面にはめ込まれた硝子の目が、青い炎を映して揺れた。
「あの小僧だ! 不当に〈石〉を所有し続けた一族の末裔たる奴の血を捧げねば、神の怒りは贖われぬのだ!」
くぐもった怒声が辺りに響き、その残響の消えぬうちに無数のエンジン音が暗い森にとどろき渡った。シュナーベルの命令を受けた親衛隊員たちが、遅まきながら逃亡者を追いはじめたのだ。エンジンの音は煙とともに風に乗り、追われるものたちに追跡者の存在を知らしめることにもなる。
遠いエンジンの唸りを聞きながら、〈契約の石〉の託宣によって追われる身となった少年は、不安げにハンドルを握る男を見上げた。
「ああ、分かってる」
ほどなく、ベンツは林道の真ん中に停車した。エンジン音はまだ遠いが、追いつかれるまでそう時間があるわけでもない。
「このまま道なりに森を抜ければ、こちらの居場所は容易に知れることとなる。ここからは森の中を歩くことになるが、我慢してくれ。ええと、地図は……このあたりにあったはずだが……」
〈ちとせ〉は運転席近くに放り出していたはずの地図を探しはじめた。だが、暗い中でのことだ。懐中電灯を片手に車の中を探し回るも、すぐには見つからない。そうしているうちにもエンジン音は次第に近づいてきており、思わず〈ちとせ〉が悪態をついたときのことだ。
「こっち。人に見つからない道、知ってるよ」
黒服の袖を引き、ミランが暗がりの中、音もなく走り出した。考えてみれば当たり前の話だ。ミランや彼の仲間たちはルントラント王国が占領されてからこちら、この森の中に隠れ住んでいた。その地理については、〈ちとせ〉や他の親衛隊員たちよりもよほど詳しいはずなのだ。
森の中は暗く、月明かりも届かないほどだ。そんな中を、少年と黒服の男は二人、一言も交わすこともなく駆け抜けてゆく。移動を続けていた追手の乗るバイクのエンジン音はやがて、放置したベンツの辺りで停止した。周辺を同じく徒歩で捜索に掛かったのだろう。だが、確たる道をたどっていく二人と、周辺をくまなく捜索する必要のある追手とでは格段に移動の速度が違う。今度こそ、逃亡者たちは今夜の命を拾うことができたようだ。
遠く、赤い炎は燃え上がり、森の中になお一層黒黒と影を投げかけている。炎の前に立つシュナーベルの足元からも、不気味な仮面をうつしとった影が森の中に落ち、黒い大鴉が羽根を広げんとしているかのようだ。
「馬鹿な下士官のせいで、計画に遅れが出るとは。──だが、それもそう長くはあるまい」
くぐもった声は、火の爆ぜる音に混じり闇の中へと溶け込み、森に広がる張り詰めた空気に一滴の緊張を添えた。赤い炎は勢いを落とすことなく、夜空に浮かぶ月すらも焦がすかのようであった。
2.新たな任務
〈ちとせ〉というのは、無論本名ではない。彼が訓練を終えるとともに付与された、一種の識別符号にすぎない。それ以前に名乗っていた名もあったが、もともと、孤児院で十把一絡げにつけられた名だ。それが符号に変わったところで何も変わりはしない、孤児院に拾われてから使い続けていた名が〈ちとせ〉という符号にすり替わったときに感じたのは、その程度のことだった。
「君のような日本人の存在は、実に有用だよ。なにぶん、現地で雇う協力者はいまひとつ、忠誠心に難がある。その点君は素晴らしい、一から日本で生まれ育っているのだからね」
〈ちとせ〉という符号とともに、彼は上官からそのような評価も受けたものだった。彼の外見は、それこそ第三帝国親衛隊に混じってもわからないほどに、見るからに西洋人らしい外見である。日本の孤児院で育ち、日本人としての教育を受けて日本の国籍を持ちながら、完全に西洋人そのものの外見である、という点が、彼を諜報員として拾い上げた上官にとっては最大の利点と見えていたようだ。その評価を、良いとも悪いとも思いはしなかった。そうでなければ、徴兵されたばかりの一兵卒を諜報員として引き抜くこともないだろう、そう思った程度のことだった。
「君には、潜入任務を命じる。少々厄介な案件でね、オカルティズム、と言って通じるかな? そういったものが関わってくる」
そうして命じられたのが、〈アーネンエルベ〉への潜入任務だった。〈アーネンエルベ〉というのは、親衛隊長官ヒムラーのもと作られた、考古学研究を旨とする親衛隊下部組織の一つだ。考古学研究と言っても、この場合まっとうな研究ではない。アーリア民族が優れた民族であることを過去の遺物を使って証明するような、はじめからねじ曲がった目的のために考古学を利用するような研究から、聖遺物だの古代隕石で作られた仏像だのといったオカルティックな物品の収集まで、とにかく胡散臭さのオンパレードのような活動が〈アーネンエルベ〉の主たる目的であるのだ。
「そう、連中の活動は十中八九、九割型はほぼ無為なものだ。──だが、全てがそうではない」
任務について語る上官は、〈アーネンエルベ〉について記された無数の資料の上に、一束の書類を放った。〈アーネンエルベ〉の生え抜きでありながら一個大隊を任されるに至っているという経歴もさるものながら、書類の束の右上にあった不気味な仮面の写真は、それまでにみたどの情報よりも〈ちとせ〉の記憶に残ったものだった。
「その男が次に探し求めているという〈契約の石〉。現在得ている情報が確かであれば、その〈石〉がドイツの手に渡れば、我が国にも影響が及ぶ可能性がある。君には、それを我が国のものとしてもらいたい」
日の差し込む窓を背に、上官は〈ちとせ〉にそう命令をした。かくして、〈ちとせ〉は「そうではない」僅かな成果を上げているペストマスク姿の親衛隊員のもとに「ハルト・シュラー」として潜入を開始し、順調に信頼を得てきたのだった。それは、〈石〉の在り処がルントラントであろうと推測し、軍の侵攻に先んじて現地入りを果たしてからも変わらなかった。そして──
「絶対おじさんのほうがちょっと大きいって! 釣ったのは俺なんだから、俺が大きい方をもらうべきだろ?」
「焼いてるときに反ったからそう見えるだけだろう、それとさんざん言ってるが僕ァおじさんって年じゃあ……」
「だって俺、おじさんの名前知らないもん。とりあえず魚、おじさんの方貰うね」
そして今、〈ちとせ〉は川辺で焚き火をしつつ、ツィゴイネルの少年と魚を取り合っていた。任務を途中で放棄する形となっていることだとか、今後の展望だとか、シュナーベルに奪われた〈契約の石〉だとか、考えねばならないことはいくらでもあるが、ともかく腹が空いている以上は何かを食べるべきだ、というのは〈ちとせ〉とミランの意見の一致するところであったのだ。
夜のうちに惨劇の現場となった森を抜けたふたりの逃亡者たちは、翌日の昼に至ってもまだ、今の所掴まってはいなかった。どうやら辺りにはすでに二人の人相書きが出回っているようだが、幸い森森地帯ということもあり、人目を避けて移動するには不自由しない環境だったのも味方したのだろう。
けれど、いつまでも森の中だけを移動し続けるわけに行かないのも明白だった。逃げるなら逃げるでどうにかして偽名の旅券を手に入れる必要があったし、何をするにしても、一旦は人里に出て服装を変える必要がある。〈ちとせ〉の黒服にせよミランの民族衣装にせよ、どちらも追われる身としてはあまりにも目立ちすぎるのだ。
「……この近くの村というと、バウムヒュッテになるのかな」
魚を齧るのをやめて、〈ちとせ〉は焚き火の向こうに座るミランに問いかけた。地図のないままで歩きつづけているため、地理については〈ちとせ〉の記憶とミランの知識が全てとなっているのだ。せめてドイツならばまだしも、よりによってここはルントラント王国である。こうなるとわかっていれば別だが、細かな地理までは覚えてはいない。
「ん、ええと……バウムヒュッテに出るまでにたしか、小さめの集落があったと思うけど……でも、直接顔を出す訳にはいかないんじゃないの?」
「ああ、だからまあそこは、夜のうちに少々……」
と、そこまで口にしたところで、唐突に〈ちとせ〉は口をつぐんで振り返り、背後の茂みに向けて手元にあった石を投げつけた。だが、石は地面を穿っただけで、他の何にも当たってはいない。
「何、どうしたんだよ」
ミランが訝しむ声を上げるが、答える暇もなく〈ちとせ〉はワルサーPPKを構えた。
「誰だ、親衛隊の追手ではないな。姿を見せろ」
しんと静まり返った森のなかに、焚き火の爆ぜる音と〈ちとせ〉の言葉だけが響く。一見するに、薄暗い森のなかには〈ちとせ〉とミランのほかには人影は見受けられないが、一体何に対して〈ちとせ〉は呼びかけているというのか?
しばし、森には風の音と小鳥の声だけが流れていた。だが、唐突に静寂を打ち破り、
「我が国の国民から窃盗を働くのはやめていただきたいな」
との声とともに、どさりと足元に紙袋が投げられた。
「ただでさえ、あんたのお仲間があちこちで我が国の財産を掠め取って回ってるんだ」
紙袋の中からでてきたのは、真新しい服だった。それも、子供と大人、二人分が用意されている。
服を手にあたりを見回す〈ちとせ〉をよそに、がさり、と頭上の梢が揺れて一つの影が降ってきた。
「……いや、あんたからすりゃあ連中は仲間でも何でもないかもしれんがね、ええと、ヘル……〈ちとせ〉、だったかな」
影は、〈ちとせ〉の黒く陰気な制服とは対象的に、ナポレオニックの大仰さを残す派手な軍服を纏って立っていた。古風な軍服には、見覚えがある。この国、ルントラント王国の小さな軍隊に所属する兵隊たちが纏っているものに他ならない。だが、そんなことは〈ちとせ〉にはどうでも良かった。青い軍服に身を包んでいるのが、黒髪を短く切りそろえた女だというのもこの際気にするところではない。それよりも、
「お前、どうしてその名を」
と、問いかけるのが何よりの急務であったからだ。
女は肩をすくめ、首を左右に振った。
「お前とは失礼だな、私はエイル、エイル・フォン・ゾンマー中佐だ。我が国のような小国は、生き残るための情報の収集には余念がなくてね……と、言いたいところだが」
エイルが何かを〈ちとせ〉に向けて放り投げた。受け止めた手の中にあったのは、小さな徽章だ。日本陸軍の階級章だ、と気づくまでには一拍ほどの間が必要だった。
「学術調査の名目で我が国に入っていた君たちが占領軍に化けるとともに大慌てで逃げていった、貴国の駐在武官どのの置き土産だよ。安全な出国ルートと引き換えに、実に色々と教えてくれたものだ」
「は? それは──まさか」
「ま、有り体に言うと、キミは見捨てられたというわけだな。仕方あるまいさ、なんだかよくわからない任務についていて、特に利益になるとも思えないオカルティックな情報ばかりこまめに報告してくるのだものな」
本国への定時報告は、シュナーベルたちがルントラントへ来てからは日本公使館の駐在武官を通して行っていた。それをあまり快く思っていないのは分かっていたが、まさか土壇場での取引材料として情報を売り飛ばされるとは。
いや、まだ情報を漏らす相手がルントラント王国側であっただけマシというものか。少なくとも、正体がわかっているからと言って目先の点数稼ぎのために密偵を突き出すつもりはないらしいのも、そうでないことを思えばよほど運に恵まれている。
手の中の服を握りしめたまま、〈ちとせ〉はルントラント国軍の中佐に向き直った。
「……では、占領された国の軍人が、見捨てられたスパイに何を求めるつもりだ?」
「これは話が早い」
エイルは両手を広げ、大げさな身振りで〈ちとせ〉に歩み寄った。森の濃い緑の匂いの中に甘い香りが混じったのは、中佐のまとうコロンの香りだろう。
「わがルントラント王国は、ドイツに対する強力な交渉材料を求めている。意味は、わかるな?」
ムスクの香りとともに、新たな状況が〈ちとせ〉を包み込んでいくようだった。
3.幼い女王
ルントラント王国。オーストリアとイタリアとスイスの狭間に位置する、小国である。いや、鉤十字をかかげたドイツがついに戦争の火蓋を落とした今となっては、小国であった、というのが正しいところであろう。古来、人の住む地ではあったものの特に資源や戦略的価値のある場所ではなかったことから権力者に存在を見過ごされていた一種の「隠れ里」であり、十三世紀半ば、政争に負け現在の首都ロイテンゲンに入った元神聖ローマ帝国貴族フランツ・フォン・フェーンブルクが同地の開墾に尽力、ついに王として迎えられたことで生まれた国だと伝えられている。
一九三九年九月、ドイツがポーランドへ侵攻、これを受けポーランドの同盟国であった英仏がドイツに対して宣戦を布告をした。第二次世界大戦のはじまりである。以降一九四五年に至るまで、ドイツは欧州じゅうを焼き尽くし、最後には自らも灰燼に帰すこととなる。
だが、今はまだ一九四〇年の六月に入ったところだ。ドイツはまさに快進撃を続け、ベルギーを道路代わりとばかりに蹂躙し、フランスを攻め落とさんとしているころである。オーストリアとイタリアとスイスの狭間という立地にあったルントラント王国もまた、同様の運命を辿ったことは言うまでもない。首都ロイテンゲンにはいまや、石畳の街路のあちこちに赤白黒の鉤十字が翻り、あろうことか、王宮たる古い城塞の大拱門の両脇にすらも巨大な旗印が掲げられている始末だ。
鉤十字に覆われた二つの防衛塔の合間を抜け、数台の軍用車が王城へと入っていった。先頭のトラックの助手席には、見覚えのある姿がある。猛禽にも似た仮面の親衛隊大佐、シュナーベルだ。
重ね稲妻の親衛隊徽章が描きぬかれた車列の帰還は、城内にすぐ知れ渡った。往時であれば城の本来の主やその係累の帰還を知らせる喇叭が響き渡っていたであろう中世の石城には、いまやエンジンの音が嫌というほど響き渡っていたためだ。城を我が物顔で闊歩するドイツ兵や親衛隊員らは例の右手を掲げる敬礼でシュナーベルを迎えてみせたが、無論、城内のすべてが同様の行動をとったわけではない。
「陛下、陛下! 居室へお戻りください!」
城塞を見下ろす塔の螺旋階段を、声を上げながら駆け上る侍女がいた。向かう先は塔の屋上だ。
中世に建造された王宮は、元来は外敵から身を護るための要塞として作られたものとあってどこも無骨な作りとなっている。塔の最上部にもうけられた胸壁は、装飾のためではなく実際に戦に投入されることを前提に作られたものだけあって、凸部分は大人の背丈ほどもあり、凹部分はごく狭い。
侍女が階段を登りきったとき、せまい狭間からは細い煙が見えていた。胸壁の手前に立つ小さな背中は、狭間に身を乗り出してその光景を食い入る様に見つめている。
「フィーネさま、どうぞ居室の寝台へお戻りください、あの男が帰ってまいりました。恐らく、今日も陛下を脅そうとしてくるはずです。いましばらく、大臣や将軍がたが対策を練ることができるまで、陛下はご病気ということにしなければならないのです」
遠く西方の森より昇る煙を眺めていた少女、ヨゼフィーネ・フォン・フェーンブルクはゆっくりと振り向いた。赤みがかった金髪に縁取られた可愛らしい顔にはしかし、子供らしからぬ険しい表情が浮かんでいる。
「そのように言って、はや一ヶ月ほどが過ぎています。その間にも、わが国の民には幸運ならざる出来事が降り掛かりつづけているではありませんか」
「なにぶん相手はあのドイツ国、それもナチなどという野蛮人共に率いられたものでございますから、なかなかに我が国のような小国では有効な手立てがなく……」
「有効な手立てとは、無いのではありませんか。ラジオで、先日ベルギーが占領されたと聞きました。わずか数日でのことだったとも。いまは、あのフランスへ攻めかかっているそうですね。それほど強大な国を相手に、わがルントラントほどの小国が交渉をする余地など存在しているのですか」
侍女は口をつぐんだ。彼女の仕える幼い女王が聡明なことは分かっていたが、限られた情報でこれほど的確に現状を把握しているとは思っていなかったのだ。
「──おっしゃる通りです。ですが、このような場合においては、交渉を延期し続けるのもひとつの交渉手段とご承知ください、その間に戦局が変わればまた手立ても──」
「ふむ。そういうことだったか」
と、フィーネの説得を試みる侍女の声に、くぐもった声が被さった。
「いや、女王陛下のご容態が悪くないのならば何よりだ。なにしろフィーネさまは、我がドイツ国の子供であればドイツ女子連盟で健やかに活動していてしかるべき年頃、それがひと月近く臥せり続けていては心配になるというもの」
想像に違わず、軍靴の音をことさらに響かせながら螺旋階段の暗がりより現れたのは、猛禽を思わせる異形の仮面姿であった。くぐもった笑い声が小さく響いたのは、とっさに侍女がフィーネの前に立ちふさがったその姿に思わず笑いを漏らしたものであるらしい。
「素顔を見せぬまま、女王陛下に謁見をするなど非礼にもほどがあります」
シュナーベルと対峙しようとするフィーネと、回り込んでフィーネに近付こうとしようとするシュナーベルの双方を引き離そうとしながら、侍女は声を上げた。りんと声を張って言い放っていたならばこの上なく凛々しいシーンであっただろう。けれど、残念ながら、その語尾は彼女の全身と同じく震えていた。
しかし、勇気を振り絞って告げた言葉は、仮面姿の親衛隊大佐にはそれなりの効果があったらしい。
「これはまた、怯えられたものだな。安心したまえ、仮面の下に化物が隠れてなどはいないよ」
シュナーベルは制帽を脇に抱え、頭の後ろへと両手をやった。小さな金属音とともに、不気味な仮面が顔の位置からずれ、外れて落ちる。
「ルントラントの領主たるフェーンブルク家のヨゼフィーネ女王、貴国の今後について話し合うべく、ぜひとも謁見の場をいただければ恐悦至極」
わざとらしく跪き、仰々しい言い回しでシュナーベルはフィーネ女王に語りかけた。その顔は、鳥ににた仮面にも覆われておらず、無論当人が言ったとおり化物の顔などでもない、ごく普通の人間の顔だ。いや、仮面の革ベルトに押されてやや乱れた金髪のかかった白皙の顔は、よく通った鼻筋や青く涼し気な目元、薄い唇、細く流線的な顎、どれをとってみても「整った」という形容が成されてしかるべきものだった。美貌、とすら言えるほどだろう。
だと言うのに、薄い唇に微笑みを浮かべたシュナーベルの顔は、不気味な仮面に覆われているときよりもどこか禍々しく、恐怖を感じるものだった。その正面に立っていた侍女が、彼女の仕える幼い女王を思わず抱きしめたのは、主君を守るためと言うよりも当人の恐怖に突き動かされたための行動であったやもしれない。
「無論、公的なものではなくただのお話です、紅茶やお菓子も用意しましょう」
黒衣の男は、侍女の存在を完全に無視して少女の前に膝をつき、手を差し伸べた。笑顔を浮かべ、口調も穏やかであるのに、その姿は総体としてやはりどこか空恐ろしい。
差し出された手を前に、フィーネは無論、怯えを隠せてはいない。だが、やがて何かを決意したように侍女の手をそっと押しのけ、前へと進み出た。
「陛下、駄目です」
侍女が慌てて止めようとするが、もう遅い。少女の手はすでに手術用手袋に覆われたシュナーベルの手に重なり、引き寄せられていた。
「なかなか、女王陛下は他の大臣や将軍がたと違って話のわかるお方だ」
シュナーベルは再び仮面を着用するとフィーネを抱き上げ、侍女の声を振り切って螺旋階段を降り、執務室へと向かった。執務室の壁には、歴代の王たちの古い肖像画と並んでヒトラーの肖像画と、ハーケンクロイツの旗が掛けられている。本来は王が執務を行うための部屋もいまやドイツ人たちに接収され、彼らの仕事場になっているのだった。
ハーケンクロイツが存在を主張する部屋の中、ロイテンゲンの街を見下ろす窓際で、山盛りの菓子と紅茶のポットの置かれたテーブルを間に挟み、征服者と被占領国の小さな女王との「お話」は始まった。意外なことに、話の口火を切ったのは少女の方だった。
「昨晩、西方の森から火の手が上がっておりました。シュナーベル親衛隊大佐、あなたが諸用で城を開けているときのことです。あれは、我が国の国民に対して何らかの危害を成すものではありませんでしたか」
フィーネが言う火の手とは、まさにシュナーベルが命じてツィゴイネルたちの集落を焼き払わせた時のものだ。シュナーベルの目が、仮面の奥で二つほど瞬いた。
「さすがに、女王陛下はよく国民のことを案じておられる。ですが、ご安心ください。あそこにいたのは、出頭命令に従わず隠れ住んでいたツィゴイネルたち、ジプシーたちです。その家屋が大変不衛生な状況になっていたため疫病が流行る前に焼き払わせた、それだけのことです」
ルントラントに駐留する親衛隊は、ほかの被占領国で行われているものと同様の民族政策を行おうと画策している。つまりは、ロマ、ユダヤ人、その他劣等民族とみなされたものは抹殺の対象とし、残る住民のうち民族ドイツ人と見られるものを積極的に支配層に登用していく、というものだ。元々、ルントラントは民族的にはドイツ系であるために主要な国民は難を逃れているが、そうでないものがこれからたどるであろう運命については、昨晩行われた蛮行がすべてを物語っているだろう。
「そこに住んでいた者たちはどうしたのです」
「専用の施設に収容し、労役に就かせております」
堂々と欺瞞を口にしたシュナーベルを前に、フィーネは眉根をひそめた。
「我が国は元来が流民の集まり、ゆえに、我が国に生まれ育ったものはみなルントラントの国民です。それを民族で選別し、労役を課しているのですか」
シュナーベルにしてみれば、殺したものを殺していないとごまかしたつもりであったろうが、フィーネにしてみれば民族によって人を選別して施設に収容する時点で異様な扱いである。紅茶のカップを手にしたまま、少女は険しい顔でケーキスタンドの向こうにあるシュナーベルを見据えた。けれど、仮面に覆われたシュナーベルからは、いかなる動揺も伺えはしない。
「ルントラントの感覚においては異質に思えるやもしれませんが、これは、我がドイツ国における標準的な扱いなのです。そして、それは今後の世界において標準的な扱いになるということ」
フィーネが、驚いた顔をして首を傾げた。それを、言葉の内容に興味を持ったと見たシュナーベルは身を乗り出した。
「無論、我々とて良心が傷まぬわけではありません。ですがそれは、彼らを同じ人間と見ているがゆえのこと。つまりは、古い考え方が刷り込まれているからなのです」
フィーネがコクコクとうなずいた。わずかに見えるシュナーベルの目が細められる。自分の言葉で少女を説得し、あらたな価値観を植え付けることに成功していると思っているのは間違いない。
けれど、フィーネの視点に立ってみれば、事態は全く違っている。というのも、シュナーベルの真後ろ、石を四角くくり抜いて作られた窓の外に、必死で口の前に指を立て、首を振り、「静かにしてくれ」とジェスチャーで伝える人間が居るのだ。執務室は、小高い丘のうえに作られた城塞の中程、地上からは数十メートルほどの位置にある。もちろん、外にいる人物もロープで外からぶら下がっている状態でのことだ。不安定な状態のなか、必死に身振りで伝えたいことを伝えようとする金髪の大男を前にしては、フィーネが驚いたのも、何度もうなずいたのも無理はあるまい。
「で、ですが──彼らは、ドイツ人ではなく、ルントラント国民です。わたしは、国民がひどい扱いを受けるのを見過ごせはしません」
ふとシュナーベルが振り向こうとして、慌ててフィーネが言葉を継いだ。シュナーベルの後ろでは、金髪の大男──〈ちとせ〉が必死で上に向かって何かを合図している。このとき、城の屋根の上を見張っているものが居たならば、壊れたウィンチを必死で叩いたり、人力でロープを引き上げようとしたりするミラン・トリエスティの姿を見つけることができただろう。だが、屋根を見張っていた歩哨は、その横で昏倒させられている。
シュナーベルは、まっすぐに少女を見た。
「女王陛下は実に気高く、責任感のある方だ。しかし、その姿は痛ましくもあります」
フィーネも、眉間にシワを寄せてシュナーベルを真っ直ぐに見返す。──そうしないと、その後ろで必死にロープをよじ登る〈ちとせ〉の姿に思わず笑ってしまいそうだったのだ。
「早くにご両親をなくし、幼い身で国家元首などという重責を背負わされ、その責任に応えようとする精神は、まことに美しく、りっぱなものです。しかし、本来あなたのような年齢の少女は、友人とともに学校に通い、団体活動を通じて自らの成長に専念するものなのです。私は、フィーネさま、あなたに他の少年少女のように、正しくアーリア民族の子供として教育を受け、健やかに育っていただきたい、そう考えています」
少女は大きく深呼吸をして、手元のカップの中身を飲み干した。〈ちとせ〉は、どうやら自力での登坂に成功したらしく、窓の外から姿を消している。同時に、カップの中身とともに、フィーネも笑いを飲み込むことに成功していた。
「ん、ええ、そう思っていただくのはありがたいことですわ。ですが、そも、私はアーリア民族ではなく、ルントラント人です。我が国では、その……民族で人を量るということは、あまりしません」
「いえ、あなたは間違いなくアーリア民族です。その青い瞳、赤を帯びた金の髪、白く透けるような肌、そして聡明な頭脳、どれを取ってみても間違いなく世界の支配民族たるアーリア民族の特徴なのです」
シュナーベルの語る声が熱を帯び始め、フィーネが目を見開いて口元を覆った。無論、今度フィーネが示した反応もまた、窓の外に起因するものだ。
「アーリア民族とは、かつてアトランティスに住み、優れた文明を築き上げた太古の種族の末裔。ですから、我らはまず自らの血統をほかの種族からより分け、より純粋で優れたものへと変えるとともに、劣等種族を隷属させねばならないのです」
熱っぽく語る仮面の男の後ろでは、窓枠の上から逆さ吊りになる形で浅黒い肌の少年が室内を覗き込んで、こちらもぎょっとした顔を浮かべている。無論、覗き込んでいるのはミランだ。フィーネは何度もまばたきをして窓の外へ意識を向けないようにしながら、その表情を返答を考え込んでいるがゆえのものに偽装するべくややうつむいてみせた。
「優れたなにかを持つものは、弱いものを慈しみ、すくい上げるためにその力をつかわねば、たちまち滅びることになる。それが我がフェーンブルク家に伝わる、ひいてはルントラント人が尊ぶべき精神です」
「美しい精神です、しかし、属国の王族が言ったとてなんの意味もなさない言葉だ」
シュナーベルを見る──ふりをして、フィーネは再び視界の端で窓の外を見やった。けれど、そこにはすでにミランの姿はなかった。どうやら、今度は比較的短期間で引き上げていったらしい。
「あなたの国は弱く、自らを守る力すらも持たなかった。あなたはもはや、家訓に従うための力すら持っていない」
意識を窓からシュナーベルとの対話へともどしたフィーネは、はっと息を呑んだ。対話の相手の声色にはいつしか、仮面の中でくぐもっていても分かるほどに、明確な侮蔑が乗せられていたのだ。
「ですが、女王陛下。もしあなたの願いを叶えたいのならばただ一つだけ、方法があるのです」
侮蔑を顕にしながら、絶対的な強者は立ち上がって身を乗り出し、わざとらしい猫なで声を出した。すっかり冷えたカップを両手でぎゅっと握りしめたまま、フィーネは震える声を出した。
「方法、とは」
窓の外に広がるよく晴れた青空を背に、シュナーベルの姿は逆光で黒い影となっている。黒い影の中、仮面のガラスの奥の目が、すっと細められた。
「あなたの国は、わが国に併合された暁にはひとつの行政地域、大管区となる予定です。無論そうなれば、大管区長は私だ。──と、なれば、話は簡単だ。あなたは、私の妻となれば良い」
「えっ」
驚愕を張り付かせたフィーネ女王の頬へと、小さなテーブルに載った無数のケーキやクッキーを超えて、シュナーベルの手が伸ばされた。けれど、この場合の驚愕は、半ばほどはもちろんシュナーベルの提案に対するものであったが、残り半分はそうではない。フィーネを本当に驚かせたのは、窓の外でロープにぶら下がった〈ちとせ〉とミランが、外壁を蹴って一旦窓から離れたあと、ターザン式のやりかたでいままさに室内へと飛び込もうとしていた光景であったからだ。
4.仮面の男
「……はあ、それで、国軍のフォン・ゾンマー中佐から依頼されて、その〈契約の石〉とやらを取り戻しに来たと」
「そのとおりです。女王陛下にはたいへんご迷惑をおかけして申し訳のしようもない……おい、ミラン、何をしてるんだ」
「えっ? ついでだからこの鳥頭野郎、二、三発殴っとこうと思って」
「起きられると面倒だ、デコにロリコン大佐って書くぐらいに留めておけ」
「あら、やっぱりシュナーベル親衛隊大佐はロリコンさんなんですか」
「いや、僕に聞かれても……まあ、そうでなきゃあ自分の娘くらいの年の子供に求婚はせんだろうしなあ」
執務室の中では、〈ちとせ〉を結節点として会話が錯綜している。主要な会話は〈ちとせ〉によるフィーネ女王への状況説明であるのだが、その横で執務机の足に気絶したシュナーベルを縛り付けつつ額に落書きをするミランがいるのでどうにも話が逸れていきがちなのだ。
「ミラン、落書きが終わったら〈石〉……きみの振り子を探してくれよ。落書きじゃあなく、あれが目的なんだ」
〈ちとせ〉は話しながらも執務机の引き出しをひっくり返し、中に入っていた書類だのインク壺だのをばらまき続けている。〈契約の石〉を探しているのだ。シュナーベルをいたぶるのに夢中になっていたミランは、そう言われて初めて〈ちとせ〉が〈石〉を探していることに気づいたらしい。その顔に、キョトンとした表情が浮かんだ。
「俺の振り子なら、その後ろ、ちょび髭の肖像画を除けたら小さい金庫があるだろ。その中だよ」
訝しげな表情を浮かべていた〈ちとせ〉の表情が驚きへと変化するまでは、そう時間はかからなかった。ミランの言ったとおりの場所にはたしかに金庫があり、鍵を破ると幾つかの古文書とともに〈契約の石〉がしまい込まれていたのだった。
「まあ、まあ、こんなところに金庫があったなんて、わたくし知りませんでしたわ。一体どうしてわかったんです?」
驚いたのは〈ちとせ〉だけではなく、フィーネも同じであるようだった。なにしろ、部屋にターザンまがいの方法で突入してからこちら、ミランはその肖像画を触ってもいない。もちろん王宮の執務室になど入ったことのあるわけもないミランが、そこに金庫があることを知るよしなどありそうにもないのだ。
「はい、ええと、女王陛下。あの……俺は占い師の家系で、その振り子はうちで代々占いに使ってきたものなので、多少離れてもちょっとぐらいなら場所がわかるんです」
「占い師ってすごいんですねえ、先生たちは占いの本なんてくだらないと言うのですが、あなたのことを言ったらきっと見直してくれますよ」
「えへへ、ありがとうございます。でもすごいのは俺じゃなくて振り子の方で、あんまり自分の力を過信しちゃ駄目だって言われてて──」
子供たちは、同じ年頃ということもあってかすぐに打ち解け、話に花を咲かせはじめている。けれど、その内容はにわかには信じがたいものだ。──いや、信じない訳にはいかないことは、実のところ〈ちとせ〉も認めざるを得ない。何しろ、〈石〉を奪還する算段を立て始めたとき、迷うことなく〈石〉が王宮にあるといい、いざ王宮にまで連れてきたところ、この執務室に置かれていると迷いなく言い当てたのだ。
「〈契約の石〉。眉唾ものだと思っていたが、この調子じゃあ存外に、洒落にならんのじゃあないか?」
金庫にしまい込まれていた古文書を眺めながら、〈ちとせ〉はつぶやいた。〈契約の石〉は太古の昔に神とひとつの種族とが契約を結んだ証であり、正しい血筋の持ち主であれば契約に基づいて神の力を履行できる。その古文書を読み解いて、シュナーベルが達したのがそのような結論であったことを〈ちとせ〉は思い出していた。
ミランとフィーネの話し声を背に、〈ちとせ〉が〈石〉と一緒に古文書や、めぼしい研究資料類をバックパックに詰め込んでいるときのことだった。
「すみません、シュナーベル親衛隊大佐!」
慌ただしいノックの音とともに、親衛隊員の声が執務室に響き渡った。少女たちの声がやみ、室内の空気は一気に張り詰める。
「──なんです、いま親衛隊大佐は、女王たるわたくしと話をしているのですよ」
答えを返したのは、フィーネだった。分厚い扉の向こう低い声がかわされたのは、どうしたものかを話し合ったものだろう。つまり、ドアの外にいる親衛隊員は複数人。まともに鉢合わせるのは得策ではない。すぐさま〈ちとせ〉はバックパックを背負い、ミランとともに窓辺に駆け寄った。フィーネにはすでに、侵入者に脅されたと言うようつたえてある。いま〈ちとせ〉たちが逃げても問題はないはずだった。
だが、〈ちとせ〉がロープを再び掴もうとしたときのことだ。
「はい、フィーネ女王陛下には大変失礼をいたします。ただ、屋上にて何者かが侵入した形跡を発見いたしまして、緊急事態につき、ぜひともシュナーベル親衛隊大佐にご報告の必要があるのです」
扉の向こうから新たな声がかかり、〈ちとせ〉とミランは窓の前で顔を見合わせた。
「まあ、それは大変。親衛隊大佐、どうぞおいでになってください。あら、だけれどあのマスクを付けなければならないんですよね、ええと、何処においたのかしら」
ふたたび、フィーネが応答する。応答しながら、幼い女王はシュナーベルのマントと、シュナーベルの顔に落書き擦るために床に投げ捨てられたペストマスクを指さした。その意図するところは、明らかだった。
一分ほどの後、執務室の扉が開いた。
「侵入者だと? 一体何者が侵入したというのだ」
ペストマスクごしの、くぐもった声が廊下に響く。待機していた親衛隊員たちは一斉に右手を伸ばし、かかとを打ち鳴らした。ペストマスクにマント姿の、彼らの上官が現れたのだ。
「は、まだ侵入者は見つかっていないのです」
「侵入の目的も不明、ですが残されていたロープからして、執務室の真上に侵入した可能性が高いと──」
そりゃあ、見つかるわけがない。口々に伝えられる報告を聞きながら、ハーブ臭い仮面の内側で〈ちとせ〉は小さく呟いた。何しろ、侵入者は今、ここに居るのだ。
「ならば、すぐに城内に警戒態勢を取らせろ。紛れられると厄介だ、極力非戦闘員は室内に留まり、何かがあったらすぐに内線で報告をするよう通達を出せ」
数人の隊員が、すぐさま命令を伝達すべく駆けていった。ぶっつけ本番での演技だが、一年ほど部下をやっていただけあってなかなか上手く口調を真似ることはできている。声も、仮面越しとあって多少音程を寄せるだけでそれなりに似てくれるものだ。と、思わず〈ちとせ〉が内心自画自賛をしたのが悪かったのかもしれない。
「親衛隊大佐どの、着替えでもなさったのですか」
とっさに着用した乗馬ズボンの裾が、革の長靴にしっかりと収まりきっていなかったのを見咎めるものが現れた。元々、シュナーベルが制服を厳格すぎるほどにきっちりと着用するタイプであったので余計に目立ったものだろう。どう答えるのが最も怪しまれないか、一瞬の間に〈ちとせ〉の脳内は高速で回転した。
「──野暮なことを聞くものじゃあない、ホップ中尉。私は、未来の妻と二人きりになっていたのだよ。することなど決まっているだろう」
「へ、はっ!? いえ、これは……失礼いたしました。えっ妻って、えぇ……?」
問いかけた中尉だけでなく、その場に居た他の隊員らの間にも動揺が広がり、執務室の戸を開こうとして咎められるものまで現れた。いま、背中に受ける視線がひどく痛いが、それは自分ではなくシュナーベルに向けたものなのだ、何も問題はない。〈ちとせ〉はそう考えて、自分に向けられる氷のような視線をやり過ごすことに努めた。
シュナーベルのふりをしたまま、〈ちとせ〉は侵入者捜索の陣頭指揮を取り、親衛隊員を自ら配置し、侵入経路の推測までやってのけた。元々がシュナーベルの側近であり、その部下や部隊の構成についても把握していたぶん、このあたりは得意なものだ。
「……親衛隊大佐どの、この配置だと地下ががら空きになっておりますが……」
城の配置図を囲む緊急警戒の指揮チームのひとりが、おずおずと手を上げた。そう、〈ちとせ〉の指示通りに人を配置すると、下水道へと続く地下室ががら空きになるのだ。
「分かっている。そうしておけば、侵入者は地下室に行くほかなくなるだろう。ならば、あとは王宮より出る下水道を押さえればいいだろう」
「ああ、そうか。すみません、思い至らず」
「構わんよ。では、次は下水道の警戒についてだ。これは現地に向かったほうが良いな、だれか車を用意して──」
あまりにも順調に事は進んでいた。そのままの調子で手っ取り早い脱出を図るべく、〈ちとせ〉が車の手配を命じようとした、その時のことだ。
ノックの音が、臨時指揮室に響き渡った。
「すみません、ちょっと」
と、顔を出した隊員は、ちらりとペストマスクにマント姿の〈ちとせ〉を見やったあと、近くに居た他の隊員を呼び寄せて、廊下へと連れ出すと何やら話し込みはじめた。そのうちに、話に参加した他の隊員もまた廊下から部屋を覗き込み、また引っ込み、を繰り返しはじめた。
これは、まずい流れだ。というか、バレた。
事態を理解した〈ちとせ〉は、無言のままに部屋の窓へと近づき、窓枠へと飛び乗った。
「──取り押さえろ! そいつが侵入者、ハルト・シュラーだ!」
叫び声が廊下から〈ちとせ〉の背を追ったが、もう遅い。すでに〈ちとせ〉は窓枠を蹴り、窓の外すぐに生える糸杉の枝をへし折りながら、地上へと落下し始めているところだった。臨時指揮室の場所を指定したのも〈ちとせ〉だ。はじめから、その場ですぐに逃げ出す事を考えた配置にしていたのだ。無論、入り組んだ中世の城塞の中をくまなく捜索にあたっている隊員たちが、すぐに逃亡者の追跡に当たれないことも織り込み済みだ。
「馬鹿な! 貴様らの目は節穴か!? 逃げ回っていたのならばともかく目の前に居て、なぜ気づかなかった!!」
短期間に複数の命令が行き交って混乱の広がる城の中、執務室には怒号が響き渡っていた。無論、怒鳴っているのはいましがた発見され、拘束を解かれたばかりのシュナーベルだ。その前でホップ中尉が顔を伏せたまま怒鳴られるに任せているのは、合わせる顔がないというより、上官の顔に書かれた『ロリコン大佐』との文字がまだ落ちていないことによるものだろう。
「いや、私の存在に気づかないのは百歩譲って許すとしよう、女王の姿が見えないことに誰一人気づかなかったなど有り得んだろう!」
「んっ、いや、それは……はい、申し訳ございません」
〈ちとせ〉の出任せの内容を口にして火に油を注ぐ気にはなれないらしく、ホップ中尉は黙って頭を下げ続けている。だが、彼の忍耐のときもそう長い時間ではなかった。アルコールを染み込ませた布で執拗に顔を拭い続けて、落書きが落ちきるとともにシュナーベルの怒りも下火になってきたと見える。
「……ハルト・シュラーめ、おそらくは国内の抵抗組織にでも拾われて女王を誘拐に来たのだろう。だが、詰めが甘いな。地下に人を配置していなかったと言ったな、──」
シュナーベルの言葉が一旦途切れた。一度に怒鳴りすぎたためか、咳き込んで言葉を続けられなくなったのだ。
「──ならば、女王をつれた共犯者が地下経由で脱出を図ったに違いない。すぐに市内の下水道を捜索にあたらせろ」
一通り咳き込み終わった後、続けて命令を下した声は、革の仮面ごしのくぐもったものであった。シュナーベルは、あの不気味な仮面を再び着用し、立ち上がったのだ。ホップ中尉はようやく顔を上げ、かかとを打ち鳴らして直立不動の姿勢をとってみせた。その表情は、上官をようやくまともな目で見ることの出来る開放感に満ちている。
「は、了解いたしました。ただ、下水道の捜索に充てるには少々人員が足りませんが、国防軍にも協力を仰ぎますか」
「要らぬ貸しは作りたくないところだな。ハルト・シュラーを追う人員を回せ」
「よろしいので? 取り逃がせば何をしでかすか」
「構わん、私の足元どころか眼の前で女王をみすみす奪われるほうがよほどの名折れだ。それに……」
と、鳥頭のマスクが窓際の小さなテーブルへと向いた。小さなテーブルは、〈ちとせ〉たちがシュナーベルの後頭部を蹴り飛ばして室内に突入するとともに、満載していた菓子類をぶちまけて倒れたままになっている。
「それに、ヨゼフィーネ・フォン・フェーンブルクは、私の妻にふさわしい存在だからな」
どこか遠い場所へと語りかけるような口調で、シュナーベルがつぶやいた。ホップ中尉が、笑いと驚愕と嫌悪とその他諸々の思いを一緒くたにして、それを無理に押さえつけようとしたかのような甲高い奇声を発したのはその直後のことだった。
5.月明かりのルンテン湖
ルントラントは、国土のほぼ全土がアルプス山脈の上にある立地である。それゆえに、少し市街地から離れればアルプスの急峻な地形と深い森とに直面することとなる。それは古来、これだけの小国でありながらも周辺の大国に吸収されることがなかった所以のひとつであり、そして今の時代においては、征服者たちに反旗を翻すものたちがひそかに活動を続けられる理由にもなっていた。
鬱蒼とした森の奥、切り立った崖の上に立ついまにも崩れそうな山小屋の前に、ひとりの男の姿がある。髭をたくわえ、古びた綿のシャツの上から擦り切れた革のベストを羽織り、古いマスケット銃を片手に切り株に座ったその姿は、絵本に出てくる猟師をそのまま写し取ったかのようなものだ。けれど、その姿勢、その眼光だけは、男の正体が別にあることを物語っている。
男は、ふいに立ち上がった。静寂そのものの森のなかに、遠く、枝を踏む音が響いたのだった。音は断続的に鳴り響きながら、次第に山小屋へと近づいてくる。
「──『リックの店のお薦めは』?」
音がすぐそこまで近づき、黒い幹の間に防寒着姿の人影が見えるようになったところで、男はつぶやいた。同時に、マスケット銃はぴったりと人影へと向けられ、答えを誤れば即座に銃弾で脳天を撃ち抜ける状態となっている。
すぐに、人影は両手を上げて立ち止まった。
「『カフェ・アメリカンでは時の過ぎゆくままに』。撃たないでくれよ、ゾンマー中佐はどうした? いや、あんたでもいい、話がある、僕じゃあ場所がわからないんだ」
決められた符丁を口にするとすぐに銃口が下ろされ、〈ちとせ〉は息をついた。事前の指示ではたしかに、落ち合う場所までは決めていたが誰が待っているとも言っていなかった。符丁を口にしたということは、エイル・フォン・ゾンマーの仲間なのだろう。
男は山小屋を指差して背を向けた。話は中で、ということのようだ。
立て付けの悪い木戸をくぐると、湿度の高い温まった空気が〈ちとせ〉の全身を包みこんだ。小さな暖炉の中で燃える赤い炎に照らされて、小屋の中にはいくつかの人影が長く伸びている。どうやら、炎の前に居並ぶ人影が、ルントラントにおいてシュナーベルの他に〈契約の石〉を求める者たちであるようだ。その中にはエイルの姿もあった。
「すまない、場所を教えてほしい。〝エメラルドの小道”の先というのはどこだ。ミラン・トリエスティと、そこで落ち合わなければならない。安全を期すために、彼に〈契約の石〉を渡して僕が囮になったんだ」
無数の目が、怪訝そうに〈ちとせ〉を見た。
「……場所は、わかる。だが、なぜお前がその名を知っている? それは、王族と近衛だけが知っている王宮からの脱出経路のひとつ」
エイルの声が、小屋に低く響いた。明らかに、〈ちとせ〉を怪しんでいる様子だ。
「フィーネ女王が、ミラン・トリエスティの脱出に協力してくれているんだ」
「女王陛下が? 協力って……まさか、陛下も一緒にいるということか!」
暖炉の前に座るもののうち、古式ばった制服を着用したものたちが、一斉に色めき立った。どうやら今のやり取りから判断するに、彼らは王宮付きの近衛兵であると見える。
「ああ、成り行き上そういう事になった、申し訳ない。ただ、理由が一つある、聞いてくれ」
たちまちのうちに周囲を取り囲み、今にも殴りかかりかねない勢いの近衛兵たちにむけて両手を上げつつ、〈ちとせ〉は弁解を試みた。逃走途中に射殺されるならまだしも、便宜上、一時的には仲間であるはずのものたちに殴り殺されるのはいくらなんでも勘弁願いたいものだった。
「何だ、一応聞いてやろう」
「シュナーベルがフィーネ女王に求婚していた」
「よし理解した、キミの判断を尊重する、冷静で的確な判断だ」
ふたたび一斉に、〈ちとせ〉を取り巻いていた敵意が消え失せた。どころか、〈ちとせ〉の肩を叩いて勇気を褒め称えるものからポットから注いだ紅茶だの備蓄されていたクッキーだのを勧めるもの、果ては誰かの祖母が手編みしたであろうセーターを着せようとするものまで現れ、一気に歓待が始まるのだから実に切り替えが早い。
一通りの大騒ぎが落ち着いたところで、暖炉の前にはルントラントの地図が広げられた。けれど、どこか妙なところがある。サンタクロースの柄のセーターとしろくまの柄のセーターを重ね着した状態で二つの紅茶のカップを両手に持ち、口の中に詰め込まれたクッキーを咀嚼しながら〈ちとせ〉は地図を覗き込んだ。
「脱出経路というのは、正確にはわが国の地下深くにある巨大な鍾乳洞のこと。〝エメラルドの小道”はその中にある一つの経路だ」
エイルが、古い地図の上に一枚の薄い紙を追加した。無数の線が書き込まれた紙は、どうやら鍾乳洞内に存在する経路を現したものらしい。──つまり、この地図はルントラントの地上の様子ではなく、地下の様子を描いたものであるのだ。〈ちとせ〉は地図の違和感の正体を理解し、目を見張った。なにしろ、地図の領域は、国土の全域なのである。
「そう、わが国はいわば二階建てなんだ。と言ったってまあ、ただ地下に空間があるだけなんだが」
と、エイルはもう一枚、こちらは地上の様子を描いた地図を地下道の地図の上に重ね、炎に透かしてみせた。地図の上で、〝エメラルドの小道”の先は首都ロイテンゲンの南方、円形の湖に隣接する一つの記号へと通じている。
「これは……」
ようやくクッキーをすべて飲み込むことに成功した〈ちとせ〉は、地図に顔を寄せた。古い髭文字で書かれた文字は、周囲の地形と重なって酷く読み取りづらい。
「ルンテンゼー遺跡だ。文字通り、丸い|湖のほとりにある古い神殿だな」
鍾乳洞を加工した神殿は、キリスト教以前の信仰を伝えるものとしてそれなりに有名であるのだそうだ。だが、その奥にある神像を動かせば、更に奥へと続く道があることを知っているのは、ルントラント王家のものと近衛兵だけだ、と、エイル・フォン・ゾンマーは誇らしげに説明をした。ちなみに、王宮からは地下礼拝堂奥の祭壇から鍾乳洞に降りることができるのだそうだ。
「では、女王陛下はこの場所に必ず来るとして……しかし、そんな古式ゆかしい偽装の仕方では、何者かが地下鍾乳洞の存在に気づくこともあるんじゃないか。この場合、ナチに気づかれでもしたら──」
「ああ、それは問題ない」
エイルは重なっていた紙のうち、上の二枚を取り払った。残ったのは、ルントラント国土の下に眠る鍾乳洞だけを記した地図である。自然に、あるいは人工的に形作られた地下空間を表す金色の筆跡は、全く不規則につながった迷宮のように入り組んでいる。
「もちろん、ここに書かれているのは主要な洞窟だけだ。実際には、全く調査の及んでいない横穴だの縦穴だのも無数に存在しているし、なんとなれば、侵入者を歓迎するための仕掛けも存在している。そこに何の知識もなく入り込んで、生きて帰れると思うか?」
エイルの赤い唇が、ニッと吊り上がった。二杯目の紅茶を飲み干した〈ちとせ〉は、
「地下に入る必要があるときには、ぜひともエスコートをお願いしたいもんだな」
と、肩をすくめる他なかった。
その他、細々とした装備だとか、連れて行く人員の人数だとかの打ち合わせがおおよそ済んだときのことだ。
「お客人」
と、〈ちとせ〉声をかけるものがあった。暖炉の前で動くことのなかった幾つかの人影のうちの一つだ。途端、それまで騒がしかった近衛兵たちの声が静まり、全員が一斉に直立不動の姿勢を取ってみせた。どうやら暖炉の前に座る老人たちが、この「抵抗組織」の首魁であるらしい。
「本来国家の命運を切り開かねばならぬ立場の我らが言うのも妙な話だが──いまひととき、我が国に味方をしてくれたことに感謝をする。どうか、我が国のための仕事を完遂させて欲しい」
いかにも貴族的な服装の老人に向け、〈ちとせ〉は黙って会釈をした。老人たちの、この組織の外での地位についても近衛たちの反応からはおおよそ予測は付いたが、あえて明らかにすることもないだろう。
そして夜半、月影の揺れるルンテンゼーの湖畔には、無数の影が蠢くこととなっていた。
ルンテンゼー、丸い湖と呼ばれるこの湖は、ルントラントのほぼ中央に位置している。昼にはごく小規模ながら漁業も行われているというが、空に満月の浮かぶ時刻ともなればあたりに居るのは夜行性の動物たちか、人目をしのぶ必要のあるものくらいになる。つまりは、
「子供二人の足でも、〝エメラルドの小道”を踏破するに半日もかからないはずだ。もしかすると、陛下がたをおまたせすることになっているかもしれんな」
などと話しながら小さな石造りの祠の前に立つ、エイルとその仲間たちだ。エイルは祠の中へと足を踏み入れかけ、ふと振り向いた。
「お客人、どうした。早く来い、見咎められると厄介だ」
声をかけた相手は、湖に向かって立つひとつの人影だ。〈ちとせ〉が、ルンテンゼーの水面を眺めたまま立ち止まっていたのだ。
「すまない。いや、湖に所々、随分と青い部分があると思ってな」
「ああ、湖底でところどころ、結晶化した地層が露出しているんだ。わが国随一の景勝地だよ」
祠の入り口を塞ぐ石を避けると、その先には古い階段が暗闇に向けて口を開けている。空気があるかどうかを確かめるために投げ入れた松明は、階段の底まで転がり落ちて小さく当たりを照らし出した。
神殿として手を加えられた洞窟の中には無数のレリーフが彫り込まれている。いかにも異教の神殿らしい、と感じるのは、レリーフの中に無数の生贄の儀式と思しき意匠が彫り込まれているためだろう。多少なりとも考古学や民俗学の知識を持つものならば、アステカやマヤの遺跡に残された無数の彫刻群との類似を見出したかもしれない。少なくとも、キリスト教はもちろん、ケルトや北欧のキリスト教以前の文化とすらも隔絶しているのは確かだった。
「ここの祭神はなんと言うんだ」
遺跡の中を初めて見た〈ちとせ〉がそんな疑問をいだいたのも、自然な流れであったろう。
「そこまでは判明していないんだ。ただ、おそらくは天空神を主神とする多神教であったろうとは言われているが」
先に立って歩くエイルは振り返りこそしなかったが、歩調を緩めて手にした松明をレリーフの上部へと近づけてみせた。そこに彫り込まれた彫刻は、たしかに雲を意匠化した乗り物で空を飛ぶ何らかの神のように見えないでもない。
その後は、特になんの会話が起きることもなく、一行は神殿の最奥部にまでたどり着いた。
「これは……どうなっているんだ?」
神体の祀られる祭殿にたどり着いた〈ちとせ〉は、思わずそんな声をあげた。巨大な神像が睥睨する空間は、〈ちとせ〉の予想していたよりも大きく、なにより明るかったのだ。それも、炎の明かりではない。青く透き通った、ステンドグラスを通したような光だ。
「湖の底が一部結晶化していると言ったろう。そこから、月の光が入っているんだ」
「ああ。──じゃあ、ここは湖の底なのか」
見上げた天井には、確かに湖の青と同じ色の結晶が生え、柔らかな光を放っている。さながら、天然のシャンデリアのような具合だ。その光をどこかで見たような気がして〈ちとせ〉は首を傾げたが、神像を避けるために手を貸すよう言われ、その思考は中断された。
名もなき神像は、大きさの割に大人四人ほどが上手く力を加えれば簡単に横へと避けられる作りとなっていた。はじめから、その奥に存在する巨大な空間へと続く道を隠すために作られた証拠だろう、とはエイルの言だ。
「だが、フィーネ女王とミランがまだ着いていないな。まさか、迷ったということは……」
祭殿と同じ青色に照らされた空間には、少女たちの姿は見えない。
「〝エメラルドの小道”は、一番わかりやすい道だ。女王陛下も何度か、ルンテンゼーへの移動のために通られた事がある。まず迷うことはないはずだが──」
〈ちとせ〉のあとに続き、エイルが祭殿の奥を覗き込んだときのことだった。
「──あら、近衛のみなさんですわ」
「それに、おじさんもいる。先に待っててくれたんだね」
「地下が、下水道の工事で少し崩れているところがあって。正しい道を見つけるのに少し時間がかかってしまって。お待たせしてごめんなさいね」
との声が、小さな足音とともに聞こえてきた。無数の青い鍾乳石の合間から、二つの小さな影が現れるまでは、ほんの少しの時間だった。すぐに〈ちとせ〉は少女たちに駆け寄ろうとした。が、そうできなかったのは、
「陛下ぁ!」
「フィーネさま、よくぞご無事で!」
「我ら近衛隊、おそばに居ることすらままならず申し訳ございません!」
「あの鳥頭の仮面が陛下に無礼な申し出をしたとか!」
「ともかく、よくぞ単身ここまで脱出なさいました、すぐに安全な場所へ向かいましょう!」
と、口々に叫びながら駆け出した近衛兵たちに後ろから突き飛ばされ、地面に転がり、背中を踏まれるハメになったためであった。
「くそお、いくらなんでも恨むぞ……」
彼らの小さな女王を囲んでいたわる近衛兵たちに恨み言を言いつつ痛む背中をはたく〈ちとせ〉の前に、影が落ちた。顔を上げた先にあったのは、誇らしげな笑顔を浮かべたミラン・トリエスティの顔だった。その手には、古い写本と〈契約の石〉が入ったバックパックがある。
「ありがとう、ミラン。土壇場で無茶な事を言ったのに、よく無事に届けてくれた。感謝するよ」
〈ちとせ〉はミランの頭を撫で、その体を抱きしめた。
「あはは、俺なんてフィーネさまが道案内してくれるとこにくっついていってただけだよ、大げさだなあ」
ミランはくすぐったそうにしながらも、そこはかとなく嬉しそうでもある。
「それに、振り子はもとは俺のなんだし、俺が持って逃げるほうが当たり前だろ」
と、ミランが続けた言葉を聞いて、〈ちとせ〉ははっと表情を固くした。そう、ここまでのところでは問題になっていないが、現状だと、ミランの持ち物である〈石〉をルントラント国軍近衛隊に引き渡す、という必要が出てくるのである。シュナーベルが〈石〉を求めていることと、おそらくは〈石〉に宿っているであろう何らかの力を背景に交渉を有利に進める、という目的のためではある。が、いずれにしてもミランの手から一度〈石〉を譲り渡してもらうために話をする必要はあるだろう。
「……ミラン。その、〈石〉なんだが」
「ナチと交渉するために使うんだろ。いいよ、渡しても」
「ああ、もちろん渡したくないのは分か……えっ?」
なんなら、一通りの交渉が終わったあとにすぐミランの手に返すよう念書でも書かせるとか、そのあたりの条件を念頭に話をはじめた矢先、予想外の答えが帰ってきて、〈ちとせ〉は数度瞬きをした。
「良いのか、君の家に伝わる大事なものなんだろう」
「うん。大事な物って言っても商売道具だからって話であって、ナチが居る限りは商売なんてできやしないし。それに──」
と、ミランは横を向いた。その先にあるのは、相変わらず大騒ぎを繰り広げる近衛兵たちに囲まれたフィーネの姿だ。少女をみる少年の黒い目は、遠い星を見るように、あこがれに揺れている。
湖と青い結晶越しに降り注ぐ青い光に照らされた少年の髪を、〈ちとせ〉はぐしゃぐしゃと撫でた。
「うわっ、何するんだよ」
「いや、うん、若いのって良いもんだと思ってな。よし、そういうことなら話は早い、直接渡してこい、少年」
〈ちとせ〉はバックパックから〈契約の石〉を取り出し、少年の手に押し付けた。ミランは一瞬、誰に渡すのかを測りかねたようだったが、〈ちとせ〉が横へと視線をやったことで、意味を理解したらしい。青く大きな宝石を手に、少年は近衛兵に囲まれたフィーネの元へと走っていった。
(そういえば)
と、〈ちとせ〉は頭上を見上げた。そこにあるのは、青い光を落とす巨大な結晶だ。
(同じ結晶のようだが……この辺りに特有の鉱石なんだろうか?)
そう、ミランの持つ振り子に使われた石と、頭上の結晶とは、同じ色、同じ形状をしていたのだ。〈契約の石〉のほうはそのような形にカットしたものと思っていたが、祭殿を照らす石も同じ、三角錐を二つ上下に融合させたような複雑な形をしているところを見るに、どうやらはじめからそのような形に結晶する特性を持っているらしい。
〈ちとせ〉が青い宝石に思いを巡らせている脇で、大きな歓声が上がった。ミランが〈石〉を渡すと宣言した事に、近衛兵たちが反応したもののようだ。「将来はぜひ近衛兵に」「推薦状を書いてやろう」「家格でハネられそうならうちの養子ということに」などと口々に調子のいいことを言っている。
とはいえ、ミラン当人はいま現在フィーネに石を手渡すことにすべての神経を集中させているところであり、外野のあらゆる声は聞こえていないらしい。少年は真剣な表情で幼い女王の前に跪き、青い宝石を捧げ持っている。
「フィーネさま、どうぞ、受け取ってください」
「まあ、あなたの大切なものではないのですか?」
「ええ、でも、これがフィーネさまの役に立つならそのほうが良いです。だから、どうか」
黒い瞳に浮かぶ真剣な色に押されたものだろう。フィーネの手が、〈契約の石〉へと伸びた。
「──どうか、女王陛下に神の加護がありますように」
少女の手が、青く透明な石へと触れた瞬間。あるいは少年が祈りの定型文を口にした瞬間。それは、起きた。
視界が白く焼け、目の奥に殴られたかのような衝撃が走った、と〈ちとせ〉には感じられた。だが、過去の経験がそれに当てはまる現象を導き出し、言葉へと変える。
「閃光弾!? 何だ、この光は」
祭殿の中には、いまや湖ごしの月光などとは比べ物にならないほどの閃光がほとばしっていた。まともに目にしたものは〈ちとせ〉と同じく目を焼かれ、暫くの間動けなくなるほどの光だ。
いや、全員が全員同じ光景を見て、そのような状態にあったわけではない。〈契約の石〉に手を触れていた二人の子どもたち、他の誰よりも光源に近かったはずの二人だけは、呆然とそこに現れた光景を眺めていた。その光景とは、強烈な光に満ちた祭殿ではない。〈石〉から溢れつづける水のような青い炎が宙に描く、ひとつの形だ。
冷たい炎は、ひとつのおぼろげな形へと収斂していき、やがて子どもたちの前にひとつの姿を形づくった。それは、男とも女ともつかない、なんとなれば現生人類の姿ともつかない姿であったが、ただ、フィーネにもミランにも
「きれい」
と、いうことだけは伝わってきた。
青い炎に形作られた姿は、崩れかかりながらも何かを伝えるように両手を広げた。いや、実際に、何かを伝えようとしているのだ。
『──ゲストユーザ──理者として───、──に必要な──不足──動──終了──』
空気そのものが震えはじめ、託宣のような声が子どもたちの耳に鳴り響こうとした。けれど、その音が声になるまでの僅かな、僅かであったはずの時間の間に──
「────走れ! 奥にいけ、奥へ!」
「クソ、銃撃戦なんて想定してないってのに」
「一体何があったんだ、あの光は何だって言うんだ」
「おい、起きろ、寝てる場合じゃあないぞ!」
何かが弾ける音とともに、祭殿には現実が舞い戻ってきた。現実というのは、遠くから近づく銃撃の音と軍靴の音、幾つもの喧騒、そして祭殿に倒れ伏した何人もの人々の姿だ。
「う、何だ──意識を失っていたのか? この騒ぎは、一体」
喧騒に飛び起きた〈ちとせ〉が目にしたのは、近衛兵たちが通路に向けて散発的な銃撃を行う光景だった。それも、通路をやってくる敵に応戦しているのははじめから祠に入ったものではなく、湖畔に見張りとして残ったはずの者たちだ。
「さっきの光で、ナチに気づかれたんだよ!」
銃声の中、一人の近衛兵が〈ちとせ〉の疑問に答えた。祭殿にいた者たちには気づきようもないことだが、祭殿に満ちた光は天井の結晶を通して湖から立ち上り、近くにいたドイツ国防軍の一隊を呼び寄せるに至っていたのだ。
祭殿にいた者たちも順次目を覚まし始め、鳴り響く銃声で置かれた状況に気づきはじめた。
「地下へ! 地下に入れば我々のほうが有利だ!」
「陛下を先に! 絶対に守りきれ!」
こうなれば、選択肢などあってないようなものだ。誰が先ともなく、防衛側は名もない神像の奥に広がる広大な地下空間へと飛び込み、めいめいに走り出した。いや、走り出そうとしたはずだった。
祭殿よりも遥かに広く、複雑に入り組んだ空間に、一斉に銃声が鳴り響いた。続いて、うめき声もあげずに幾つもの人体が冷たい石の上に倒れる音が幾つも重なり合った。
「いやあ! どうして──」
一拍の間のあとに響き渡ったのは、フィーネの悲痛な叫びだ。けれど、その声も続けざまに鳴り響く銃声にかき消されてゆく。
無数の死体と、即死は免れたものの動くこともできずに倒れ伏した者たちを、唐突に強い明かりが照らし出した。あちこちの透明な鍾乳石から漏れ出す青い月光とは違う、人工的な明かりだ。無数の投光器を背に、黒い影が幾つも立っている。逆光で詳細が見えないために、制帽に制服を着用したそのシルエットだけでは親衛隊とも国防軍とも判別がつかない。しかし、ただ一つの影の存在によって、彼らの正体は明白となっていた。
それは、際立って特異な影だ。制帽の下に巨大な嘴をそなえた仮面を被り、全身を覆う黒いマントを羽織ったその姿は、すなわち──
「──シュナーベル親衛隊大佐」
フィーネの絞り出すような声が、奇怪な親衛隊大佐の名を呼んだ。
「これは、女王陛下。ご無事で何よりです。ルントラント国内の過激派に誘拐されたと聞き大変心配しておりましたが、このような場所に連れ去られていたとは。下水道から偶然この空間を発見できたのは僥倖といえましょう」
わざとらしい慇懃さで、シュナーベルは深々と少女の前に跪いてみせた。仕草としては、今しがたミラン少年がやったものよりよほど洗練された、優雅なものだ。
しかし、黒衣の大佐が差し出した手を、幼い女王は毒虫でも払うかのように叩き払った。
「触らないで、下郎が! ──我が国の国民、私の兵を殺しておいて、私もともに亡き者にしようとした上で、心配していたなどとよくも──」
フィーネの言葉が途切れた。しばし叩かれた手を眺めていたシュナーベルが、その手を振り上げ、フィーネの頬を打とうとしたのだ。少女はびくりと身を震わせ、来るであろう衝撃に備える。
だが、その次に起きたことは、その場にいる誰の想像をも超えたことだった。
炎が、フィーネの前に幕を作っていた。無論、熱を伴う炎ではない。少女の手の中に握られた〈石〉が放つ、冷たい炎だ。炎、と形容してはいるが、この場合、それは何らかの力場と言う方が正しいかもしれない。青い炎の作る幕は、フィーネの頬を叩こうとしたシュナーベルの手を弾き返し、再度伸ばそうとした手もまた再び押し返したからだ。
自体を把握したシュナーベルはおもむろにルガーを取り出し、数発の銃弾を炎の幕へと撃ち込んだ。フィーネの悲鳴が響くも、少女の体から血が吹き出ることはない。
「素晴らしい」
炎の幕で留まり、地面に転り落ちた銃弾を眺めながら、シュナーベルが言った。仮面で隠された顔は恍惚とし、喜びに歪んでいるであろうことが伺える、そんな声だった。
「素晴らしい、〈契約の石〉の求める血を持つものが、ここに存在していたとは。近衛どもが身を挺して守ったものかと思ったが、そういう事だったか」
シュナーベルはひとり得心し、炎の幕と、その発生源である〈石〉を舐めるように見つめている。
「お嬢さん、是非とも協力していただこう。あなたの血筋が〈石〉に選ばれたものだとすれば、話が早い。おそらくは、正しい場所もあなたならばご存知のはずだ。拒否するとは言わせんよ、君の兵、君の国民がこれ以上死ぬところなど見たくはないだろう」
数発の銃声が鳴り響いた。ただし、銃口の先はフィーネではなく、地面に倒れた近衛兵たちの体だ。銃声とともに幾つかの悲鳴が響いたのは、未だ虫の息ながらも生きながらえていたものがとどめを刺されたことによるものだろう。
「やめて! やめてください」
叫び声とともに、少女を包んでいた炎の幕が消え去った。フィーネが抵抗の意思をなくしたことによるものか、あるいは他の要因によるものかは判然としない。
「協力します、だから、生きている人は手当をしてあげてください、お願いです」
うう、とうめき声を上げたのは、フィーネのすぐ足元に倒れ、腹から血を流していたエイル・フォン・ゾンマーだ。征服者に膝を折った主君に近付こうとでもしたものだろうか。エイルは手近な場所に立つ親衛隊員の足にすがりつき、その体に掴まって立ち上がろうとした。だが、当然その手は振り払われ、傷口を蹴りつけられて再び地面に倒れ伏すこととなる。その間にもフィーネは手荒な真似はやめるよう訴えながら仮面の親衛隊大佐のマントの中へと引き込まれているが、主君も臣下も、いまこのときにあって、互いの苦境を救う手立てなど持ってはいなかった。
「──少尉、あとは頼む。あまり音は立てないようにな。終わったら、シュナップスでも飲むといい」
幼い女王をマントの中に隠し、部下たちを連れて去ってゆく直前、シュナーベルは投光器の前に立つ少尉に命令を下した。あまり具体的でない指示だったが、彼にはそれで上官の意図が理解ができたらいしい。少尉は無言でうなずき、数人の隊員たちに合図を送った。その場に残るように、との合図だ。
無数の足音が暗がりの奥へと遠ざかり、ついに聞こえなくなったとき、ホップ中尉は再び隊員たちに合図を送った。すぐさま投光器の強い明かりを反射して閃いた無数の光は、親衛隊員たちが取り出した銃剣だ。そう、シュナーベルの命令は、迂遠な処刑命令であったのだ。
「かかれ、終わったら上がりだ」
少尉の命令とともに、親衛隊員たちは処刑を執行すべく足を踏み出した。
6.岐路
今にも飛び起きて駆け出しかねないミランの体を、〈ちとせ〉は必死で押し留め続けていた。〈ちとせ〉がほぼ全身で覆いかぶさる形となっているためどうにか抑え込めてはいるが、そうでなければ、少年はすぐにでも去ってゆく足音に向けて走り出していたことは想像に難くない。
〈ちとせ〉とミランがほぼ無傷でそこに倒れているのは、偶然の産物だった。祭殿の奥へと駆け込むのが遅れ、一度目の斉射で倒れた近衛兵たちに紛れて地面に伏せることが出来たこと、二度目の射撃で死体が折り重なったために体が隠されたこと、その二つのどちらかが欠けていれば、運良く斉射で殺されずともその後シュナーベルに射殺されていたことは想像に難くない。
けれどその幸運も、人生をごく僅かに引き伸ばすだけに終わるかもしれなかった。去り際にシュナーベルが下した命令の意味を、〈ちとせ〉はしっかりと理解していた。済ませた後にシュナップスを飲めと言われる命令など、処刑の命令の他には存在しない。
「いいか、ミラン。もう少しだ。もう少ししたら、連中が近づいてくる」
銃剣と銃口の擦れ合う音を聞きながら、〈ちとせ〉はミランの耳元で囁いた。同時に、右手は自身のベルトに挿したワルサーPPKを探る。
「そうしたら、僕が手近な敵を倒す。君は、その隙に奥に向かって走るんだ」
「わかった。……でも、おじさんは」
「あとから行く、心配するな」
体の下では、ミランの頭が揺れたのがわかった。それを了承の意味と受け取り、〈ちとせ〉は拳銃を握った手をゆっくりと胸元へと引き上げていった。少年が駆け出す時間を捻出するには、跳ね起きるとともに、確実に一人は敵を殺せる状態にしておかなければならない。──いや、より安全を期すならば、できれば二人は倒しておきたいところだ。それが達成できたならば、ごく僅かに伸びた人生の使い道としては悪くないほうだろう。
少尉の短い命令が下され、靴音が近づいてくる。行動を起こすまでの秒読みに入り、〈ちとせ〉が呼吸を落ち着かせ始めた、その時のことだ。
「おい、生きてるやつは伏せていろよ」
と、低い声とともに、何か硬いものが地面に転がる音がした、と思ったのもつかの間のこと。直後、轟音が地下空間に響き渡った。
あたりには、きいん、という甲高い音が満ちている。いや、それは実際の音ではない。麻痺した耳が耳鳴りを起こしているのだ。耳が正常に働いていたならば、〈ちとせ〉が聞いたものは降り注ぐ石の破片が立てるごうごうという音と、痛みにのたうち回る親衛隊員らの悲鳴、それに爆発音の残響であったはずだからだ。爆発はすぐ近くに居た二人の親衛隊員の体を引き裂き、やや離れたところに居た残る三名にも致命的な怪我を与えていたのだった。
死体の下から這い出た〈ちとせ〉は、血の臭気に満ちた光景を半ば呆けたように眺めていた。親衛隊員たちと、それに近衛たちの死体についた傷を見れば、爆発音と合わせて手榴弾が使われたことは明白だ。手榴弾の殺傷力は飛び散った破片によるものであり、破片は人体を遮蔽物とすれば回避することができる。死体の下に潜り込んだ状態だった〈ちとせ〉とミランが無傷であったのも、そのおかげだろう。
だが、一体誰が、どこにそんなものを隠し持っていたのか。戻ってきた聴覚がドイツ人たちの苦悶の声を拾い上げる中、未だどこか呆けた頭で〈ちとせ〉はあたりを見回した。
その目が一対の瞳を見出したのは、一つの鍾乳石の影でのことだった。
「やあ、あんたは無事だったか」
青い光を放つ鍾乳石にもたれかかったまま、男は〈ちとせ〉を見上げていた。名前は知らない。が、あの山小屋で〈ちとせ〉とはじめに顔を合わせた、あの見張りの男だということはわかった。
「あんたは……あんな物を持っていたなら、はじめから」
「持っていたら、はじめから使っているよ。あれはそこの」
と、男は親衛隊員たちの近くに転がった一つの死体を指さした。損傷は激しいが、髪型からしてエイル・フォン・ゾンマーのものだとかろうじて分かる。
「近衛の隊長さんが連中からもぎ取ったものだ。俺はそれを受け取っただけさ」
そう。エイルは親衛隊員にすがりついたとき、その腰にぶら下がっていた手榴弾をすりとっていたのだ。そして、奪い取った手榴弾は残念ながらその場では使われなかったものの男の手に渡り、いま、とどめを刺しに来たナチを吹き飛ばしたのだった。
「多分、隊長さんはあの場で連中を吹き飛ばしたかったんだろうが、気づかれずに手榴弾を手にするのに時間がかかってな。だが、今ので祭殿側への入り口も塞がれた、結果としちゃあまずまず──」
男の言葉は、途中で途切れ、咳へと変化した。痰の絡んだような、水気のあるものが喉からこみ上げたときの咳だ。事実、彼の口元は黒く汚れている。それは、青い光の中で黒く見える、赤い鮮血にほかならない。
慌てて〈ちとせ〉は男の背を支え、介抱をしようとした。だが、男はそれよりも前に〈ちとせ〉の服を掴み、すがるような表情を向けた。
「ゴルトシュタインだ」
「え」
脈絡のない言葉に、〈ちとせ〉は瞬時に意図を理解できず、ただ目を瞬かせるほかない。
「ユージーン・ゴルトシュタイン。先の大戦では、ヴェルダンでファルケンハイン将軍の下で戦った。この頬の傷を負ったときには鉄十字勲章ももらったんだ」
ヴェルダン。ファルケンハイン将軍。鉄十字勲章。再度発せられた言葉で無数の単語が繋がり、ようやく〈ちとせ〉の脳内で意味を成し始める。ユージーン・ゴルトシュタインは、第一次世界大戦西部戦線における激戦の一つ、ヴェルダンの戦いのことを言っているのだ。ルントラントは、先の大戦では出兵をしていない。ドイツの将軍であるファルケンハインの下で戦い、鉄十字勲章をもらったとなれば、指し示す事実は一つしかないだろう。
「あなたは、ドイツ人か」
「元、だな。大戦後、軍事顧問としてルントラントに招聘されているうちに本国があのざまになって、そのまま亡命した」
「ああ……」
ゴルトシュタインと言う名は、ユダヤ系ドイツ人に典型的なものだ。国外に住む民族ドイツ人でユダヤ系のような名を持つものもまれに居るが、わざわざ亡命したと言うからにはそうではないのだろう。ドイツ本国に居たならば、迫害は免れ得ない立場であるのは言うまでもない。
「ここはな、いい国だよ。田舎だし、俺が来るまで騎兵がスナイドル銃をまだ使っていたような国だがな、みんな素朴に暮らしていて、王家を尊敬していて、今日より明日は良い日だろうって思えるような、そんな国なんだ。そこを、よそものが踏みにじって、めちゃくちゃにして良いはずがないんだ」
〈ちとせ〉の服を掴む手に力が入り、直後、その手に血が掛かった。再びユージーン・ゴルトシュタインが吐血したのだ。今度は、先程の血よりも量が多く、泡が混じっている。再度、〈ちとせ〉は応急キットを取り出して手当をしようとしたが、今度は明確にゴルトシュタインの手が〈ちとせ〉を押し返した。だが、その力はひどく弱い。
「お前がなけなしの良心に従って連中とたもとを分かったのなら、お願いだ、──」
すべてを言い切らないうちに、ゴルトシュタインの手はぱたりと地面に落ちた。同時に、青い結晶にもたれた体も力を失い、ずるずると倒れ込む。その背が接していた場所にはどす黒い血がこびりつき、座り込んだ足元からは血が辺りに流れ出していたことに、いまさらながら〈ちとせ〉は気がついた。
しばし、〈ちとせ〉は血溜まりの中に立ち尽くしていた。月光を伝える青い結晶は、手榴弾で崩れてもなおその断面から青い光を放ち続けている。いつしか親衛隊員たちのあげるうめき声も消え去り、青い月光に照らされた静寂のにあっては、古式ばった制服に身を包んだ死体も黒い制服を纏った死体も、血の臭気さえなければ数千年前からそこに存在したかのように遠く見える。唐突に危機もなにもかもが身の回りから去ったために、神経が多少おかしくなっているのかもしれない。
そう思いながら見回した景色の中でのことだ。
青く焼き付いた暗闇のなかに、ただ一つ、動くものがあった。それがなにか、など考えるまでもない。
「ミラン。怪我はないか」
〈ちとせ〉が眺める景色の中で、ただ一人、ミラン少年だけが生きて動いている。親衛隊員たちを覗き込んで回っているのは、どうやら、彼らが生きているかを確かめているものらしい。
少年は振り返り、小さくうなずいた。その表情は奇妙なほどに静かで、いかなる感情にもとづくものであるのか、容易には読み取り難い。
「こいつらも、こんなにあっさり死ぬんだな」
「ああ、そりゃあ、至近距離でM24を喰らえば誰でも死ぬよ。おいで、あまり見るもんじゃあない」
〈ちとせ〉はミランを呼び寄せて歩きはじめ、しかし、数歩進んだところでまた立ち止まった。今度は、呆然と立ち尽くしたわけではない。単純に、行くべき先がわからないのだ。広大な地下空間は、いま見渡せる限りでも明らかに複雑に入り組んでいる。おまけに、ルンテンゼー湖畔の祠から祭殿まではぐるぐると円を描く形で地下へと潜ってきたために、大まかな方向感覚さえつかめないのだ。
なんの準備もなしに入り込んで生きて出られると思うか、と言ったエイル・フォン・ゾンマーの言葉が、今更ながらに〈ちとせ〉の脳裏に蘇ってきた。そう言った本人は、〈ちとせ〉の後ろで体を引き裂かれ、無残な死体へと変貌している。あのとき見せられた地図を彼女は持ち込んでいるだろうか? ためらいながらも、死体を漁るために〈ちとせ〉が振り向こうとした、その時。
「王宮からルンテンゼーの遺跡へ抜けるのは〝エメラルドの小道”、緑の小石を埋め込んだ鍾乳石をたどればいい」
空中に書かれた文章を読み上げるように、ミランがひとつづきの言葉を口にした。
「スイスへ出るなら〝十字の小道”、十字を刻んだ鍾乳石をたどった先にある石造りの階段を登って、蓋になっている岩をどければそこはもうルントラントではない。……って、フィーネさまが教えてくれたんだ」
続く言葉を暗証しながら、ミランは近くの青く光る鍾乳石の根本を覗き込み、指差した。そこには、小さな十字が彫り込まれている。スイスの国旗に使われているのと同じ、ギリシア十字だ。
「そうか。安全な出国ルートというのは、地下鍾乳洞経由でスイスへ脱出するということか」
スイスは第二次大戦においても中立を貫いた国であり、ルントラントの立地からすればスイスへの脱出が最も手早くドイツ軍から逃れる方法であるのは間違いない。おそらく、ドイツ軍の侵攻とともにすぐさま逃げ出した駐在武官もこのルートをエイル・フォン・ゾンマーから教えられ、スイスへと出国したのだろう。
「よかった、ここから無事に出られるぞ」
ギリシア十字の刻まれた鍾乳石は、探せば十数メートルほどの間隔ごとに存在していることがすぐにわかった。
「よくフィーネ女王から話を聞いておいてくれたな、これなら、すぐにでも出国して──」
急激に開けた展望に体すら軽くなったような思いに駆られて三つほどの鍾乳石を続けざまに見つけ、よろこびの中〈ちとせ〉は振り返った。けれど、振り返った先にあったものは、青い光に照らされた暗闇と、反響する自分の声ばかりだった。ミランの姿はというと、幾つもの鍾乳石を隔てた向こうで、〈ちとせ〉の方を見ることもなく別の方向へと歩きだしている。
「おい、ミラン? どうしたんだ。下手に動き回ると危ないぞ」
慌てて駆け戻りながら声を上げると少年はちらりとこちらを見はしたが、立ち止まることはなく、首を左右に振った。
「いま、フィーネさまが振り子を持ったまま、この洞窟の奥に向かって歩いていってる。たぶん、どこかへ案内させられてるんだと思う」
「ん、それは──そうか、あの〈石〉の場所がわかるのだったな。だが……」
「あの振り子、〈契約の石〉だっけ? そんな言葉聞いたことないけど、さっきの様子を見るに、とんでもない力があるのは確かだろ。そんなもの、あの鳥頭に──ナチどもに好きにさせたら大変なことになる。だから、取り戻しに行こうと思って」
青い月光を放つ天然の列柱の向こうで、ミランはまるでちょっと忘れ物を取りに行くような調子で洞窟の奥を指さした。フィーネを連れたシュナーベルたちはそちらへと向かっているということだろう。
「それに、フィーネさまがあいつとほんとに結婚させられるとか、絶対嫌だし」
最後にそう肩をすくめると、少年は再び前を向いて歩き出した。〈ちとせ〉がついてきているかどうかも気にはしていないようだ。いや、もともと、脱出口を教えた時点で〈ちとせ〉の助力を当てにしてなどいないに決まっている。
〈ちとせ〉は、遠ざかる背を見送り、自身は〝十字の小道”を辿りはじめた。いや、辿ろうとした。
青く光る鍾乳石の影で、〈ちとせ〉は足を止めていた。唐突に、今まで棚上げにしていたすべてのことが脳裏によぎり、足を重くしているかのようだった。思い浮かぶのは、まずは途中で放棄した形となっている密偵としての任務であり、それは今現在の自分の身分が「任務を投げ出した密偵」か「抗命の末に逃亡した親衛隊員」のどちらかであるという実際的な問題と混ざって足元に絡みついていた。その上、さらに彼の足を重くしたのは、先程何かをいいかけて、いい切ることができぬままに死んだ男の姿だった。お前がなけなしの良心に従って連中とたもとを分かったのなら、お願いだ。その先に続く言葉など、決まっている。もう一度良心に従ってくれ、この国を救ってくれ、その他にどう続くというのか。
「──そこまで、関わり合いになれるかよ。そりゃあ目の前の子供を救うぐらいはしたが、国なんてもう僕の手には余る」
とにかく〈ちとせ〉は〝十字の小道”を進むための言い訳をひねり出そうと必死に考え、先へと進もうとした。実際、その言い訳は数歩ぶん、彼を先に進ませることには成功したようだ。だが、その次にはまた、どうして他の人たちを助けてくれなかったのか、と泣いていた少年の顔が脳裏をよぎり、足を止めさせたところで──
そう遠くない場所で、ガコン、と何かが作動するような音と、短い悲鳴が聞こえ、〈ちとせ〉は何を考える間もなく走り出していた。方向は、ミランが進んだ先だ。地下には無数の仕掛けがある、と言っていた言葉が今更ながらに蘇る。進む方向がわかったからと言って、そのあたりにある罠を避けられるわけではないのは当たり前の話だ。
鍾乳石の間を駆け抜けた先に、黒い穴が見えた。四角い蓋が開いてできた、明らかに人工的な落とし穴だ。蓋は閉まっていない。その蓋の端に手をかけて、ミランがどうにか落下を免れているのだ。
「ミラン! 手を離すなよ」
〈ちとせ〉は手を伸ばし、少年の体を引き上げた。ミランの体重ぶんの負荷がなくなるとともに落とし穴の蓋は再び跳ね上がり、地面の岩肌にすっかり同化してしまった。そこに穴があると知っていなければ、薄暗い中でこれを避けるのは至難の業だろう。
「正しい道を外れると、おそらく罠が張り巡らされているんだ。フィーネ女王たちが通った道を正確に追うことはできるか? 無理そうなら、なるべく人の歩いた痕跡を探して行くほうがいいな。落とし穴ならまだしも、もっと即死性の高い罠が存在するかも──ん、どうした?」
〈ちとせ〉は首を傾げた。地下の様子について推測する〈ちとせ〉を、ミランが奇妙な生き物でも見るような目で眺めているのだ。
「助けてもらったのは嬉しいけど、おじさん、もうずっと遠くに行ったものだと思ってたからさ」
「それは──いや、考えたんだが、あの〈石〉がどうなったかの顛末までを見届けないと、任務を失敗するにしても報告のしようもないと思ってな」
「そういえばおじさん、スパイなんだっけ。でも任務には失敗してるんだ」
「ああ。どうも、僕には向いていなかったみたいだな」
〈ちとせ〉は少年と並び、歩き出した。行く先に待っているのは少なくはない部下を引き連れたシュナーベルだというのに、不思議と肩に負っていた重荷を下ろしたような気分が胸の中には広がっていた。
「ああ、そういう細い道はやめておいたほうがいい、罠があったときに致命的になりやすい。なるべくならこういう、広い場所を選ぶほうが挽回が効きやすいはずだ」
晴れやかな気分のままに、〈ちとせ〉は細い横道へ入っていこうとするミランを止め、同じ方向へ続いているように見える別の洞窟の壁に手をついた。
「いや、フィーネ様の通った道を通ったほうがいいって言うから──うわあ!」
壁についた手の真下でカチリとなにかのボタンを押したような感覚がしたのと、ミランがなにかに驚いた声を上げたのと、〈ちとせ〉の頭上から、冷たい風が吹き下ろすのとは同時だった。
数秒後、二人は巨大な丸い岩の転がる先を、必死に逃げる羽目になっていた。
7.ルントラント地下迷宮物件
ひたすらに軍靴の音が響き続ける地下空間に、遠く、地響きのような音が鳴った。先刻、爆発音のようなものも響いたあとでのことだ。
「どうも、抵抗が激しいようだな。まあ、万に一つ生き残りが居たとて、我々の行く先などわかりはしまいが」
とのシュナーベルの言葉に、フィーネは肩を震わせ、振り返った。罠のある場所へと案内されては困る、ということで、仮面の親衛隊大佐とその部下たちは幼い女王を先頭にして歩かせているのだった。
「あの場に残したものは、生き残っていたら助けてくれると言ったではないですか」
「おや、そのような約束をしたかな? もし約束していたとしても、連中が抵抗した結果だ、仕方あるまい」
「そんな──それならば」
「それならば、もう協力をしない、とでも? それならばそれで構いはしない、我々は地上へ戻り、ルントラント人に属国のあるべき姿を教えるだけだ」
〈石〉を叩きつけようと振りかぶったフィーネの手が、シュナーベルの脅しの言葉とともに静止した。
「そう、国民のことを思うなら、大人しく我々に従うのが身のためだ、女王陛下。なんとなれば、〈石〉さえ奪えばあなたと同じ程度の純血を保つ人間など、他に探しようはいくらでもあるのだしな」
青い宝石を掴んだままゆっくりと下がってゆく小さな手をシュナーベルの手が包み込み、少女の胸元へと押し付けた。フィーネは、悔しさのにじむ目で眼前の不気味な仮面を睨みつけたが、それ以上何を言うこともなく、うなだれて再び歩き始めた。
フィーネが先導する先には、通常の鍾乳石に混じって石を削って作った像が現れ始めている。ルンテンゼー湖畔の祠の奥にあったものと同じ、キリスト教以前の信仰の産物と思しき像だ。どうやら、シュナーベルが案内させようとしている先への目印は、この神像であるようだ。だが奇妙なのは、進む方向に対して、目印となる神像が背を向けているところだ。
「ふむ。これはなかなか興味深い。行くべき先は神々の守る地だ、とでも解釈すべきかな」
シュナーベルも神像の向きには興味を持ったらしい。立ち止まって青く光る結晶で出来た像を上から下まで眺め渡し、部下に写真を取るよう指示さえしはじめた。
シュナーベル当人は像の向いた方角を地図上に記し、それぞれの像の特徴を記録し始めてちょっとしたフィールドワークが始まろうとしたときのことだ。
「まさか」
と、やや先へと歩いていた少女が振り返り、否定の言葉を口にした。
「神々すら背く場所を見つけたならば、けしてその先を辿ることは許されない。──この先にあるのは、我がフェーンブルクの一族でさえも立ち入りを厳重に禁止された禁足地。我が国を作り上げた古き神々は人間に、この先に立ち入るなと警告しているのです。はじめにも、そう言ったはずですが」
カメラのシャッターを切っていた親衛隊員が、ぞっとした様子で神像から離れた。他の隊員たちも、あまりいい気分はしないらしく像から離れ、なにかから身を護るように互いにより集まりはじめた。もとより、進むごとに光よりも暗闇が勢力を増していく見知らぬ地下でのことだ。薄気味悪さを感じていないものなど居なかったのだろう。
けれど、シュナーベル当人は少しも怯えた様子など見せてはいない。それどころか、フィーネの言葉を聞いて何やら得心し、しきりに頷いている。
「いいや、お嬢さん。それこそが、この先にあるのが聖地ということを示しているのだ。あなたも王の血族ならば、中世の庶民らが王を見たならば目が潰れると言って貴種を見ることすらも禁忌としたことを知っているだろう。それと同じことだ、尊いことと禁忌とされることは両立しうるのだよ」
さあ、そうとわかったなら先に進もうじゃないか、と、自分がその場にとどまり始めたことも棚に上げ、シュナーベルはフィーネを促した。
「そうですか。警告はいたしましたよ。念の為に申し上げておきますが、これより先はわたくしもいかなる罠、いかなる仕掛けも知悉しておりません。どのようなことになっても後悔はなきよう」
少女は、冷え冷えとした声で返答し、再び歩き出した。隊員たちはやや先へ進むことを尻込みしていたが、彼らの上官が何一つためらうことなく少女のあとに続くのを見て、不承不承、あとに続き始めた。
それと、ほぼ同時刻。
およそ一時間ほどの差でフィーネのあとを追い始めた〈ちとせ〉とミランが今、どうなっているかと言うと──
「だぁぁから! おじさん、もう下手に動かないでって!」
「今度は僕ァ動いてない、向こうから先に来たんだ!」
「どっちにしてもなんでおじさんばっかり色々引っかかるんだよ、っていうかこいつどうすりゃいいの!?」
などと叫びながら、どこかから現れた白いワニを相手に、近くの小さめの鍾乳石を折り取って作った棍棒で戦いを挑んでいるところだった。場所は、一体どこでそんなところに迷い込んだのか、人工的に鍾乳洞を掘って作った水路の中でのことだ。もちろんフィーネも親衛隊員たちも、そんなところを通ってはいない。どういうわけか〈ちとせ〉がちょっとでも動くたびにあらゆる罠を作動させ続け、それを避けているうちに全くフィーネたちとは別の方向へと進んでいたのである。
無論、先を進むフィーネもシュナーベル以下の親衛隊員たちも、同じ地下空間の隔たった場所で繰り広げられる白いワニとの死闘など知る由もない。異教の神像が背を向ける先へと進むにつれて暗くなる視界を懐中電灯の明かりで切り開きながら、彼らはある一つの場所へと至ろうとしていた。
「これは……列柱か? なんとも薄気味悪い」
一人の隊員がそんな声を上げたのも無理はあるまい。神像をさかしまにたどり続けた先に待っていたのは、両脇に神像が何百体も並び立ち、その先に行くことを戒めるかのように来るものをにらみつける暗い階段であったのだ。階段の先へと投光機の明かりを投げかけたものもいたが、底までも光は届かないようだ。
──いや。よく見れば、そうではない。
流石にフィーネも恐怖を隠しきれないらしく、階段に近づくのを躊躇している横で、シュナーベルがなにかに気づいたようであった。
「明かりを消せ。懐中電灯もだ、とにかく全員すぐに光を消すんだ」
すでに、周囲には月光を伝える青い結晶は一つも見当たらない。ここに至るまでの道は、全て緩やかな下り坂だった。つまりは、あの湖底の祭殿よりもさらに地下へと潜っているということだ。ルントラントの地上に突き出た青い結晶から伝わる月光も、その限度を超えているのだろう。つまり、この場所には人工物の他には光を出しうるものは存在しないはずなのだ。
けれど、親衛隊員たちが上官の命令に従って明かりを消したとき、そこは完全な暗闇ではなかった。ほのかな青い光が、暗い中に居並んでいる。そう、光源は、地下空間のさらに地下へと向けて口を開ける長い階段の両脇、一対の深い溝の縁に並ぶ神像であったのだ。
「どういうことだ」
「地上からはずいぶんと離れているはずだが……」
「いや、そもそもあの神像は、今までの鍾乳石とは違うぞ」
「本当だ、あれは、天井とつながっていない」
階段を覗き込む隊員たちは、もはや怯えを隠してもいない。彼らの言うことは、すべて真実だった。階段を薄ぼんやりと照らし出す青い結晶の神像は、全て地面とだけ繋がるものばかりであり、頭上の岩盤とは一切つながっていないのだ。つまり、地上を照らす月明かりが地下へと漏れたものではない、ということだ。
もし、この場で誰か一人が叫び声を上げたならば、隊員たちは一人残らずこの場から脱兎のごとくに逃げ出していただろう。それほどの緊張、それほどの恐怖感が、辺りを包み込んでいた。もちろん、フィーネも全身を震わせて、ぎゅっと〈契約の石〉を握りしめ続けている。
この場にあって、恐怖に囚われていないのは、ただ一人だけだった。
「地下へと続く道……そう言うことなのか?」
やはり、またひとり何かを得心し、シュナーベルは明かりも持たず階段を駆け下り始めた。もはや、フィーネのことすら二の次と言った様子だ。
今までの様子とは逆に、階段を降りるにつれ、神像が放つ明かりは強くなっていった。青い光に照らされた鳥頭の仮面は、辺りの光景に負けぬほどの不気味さを放ってもいる。あるいは、自身も奇怪であるからこそ、奇怪な様子に恐怖を覚えずに居るのかとすら思えるようなありさまだ。
「そうだ、やはりそうだ。アガルタ、シャンバラ、約束の地──呼び名はなんでもよい、とにかく、この先にあるのが、正しい場所、正しい地なのだ」
階段を降りきった先、一面が青に照らされた空間で、シュナーベルは歓喜の声を上げた。彼の眼前にあるのは、巨大な鉄の扉だった。その表面には、これまで並んでいた像と同じ造形の神の姿が真正面から描かれ、来るものを睨みつけている。神像が背を向ける先を目指すならば、この扉をくぐる必要がある、そういうことだろう。
シュナーベルは扉を手で探った。常人ならば、扉に描かれた異教の神の姿に怯みそうなところだが、彼はすぐにでも扉の向こうを見たい、そんな具合だ。だが、ただ推したり引いたりするだけでは巨大な扉は開きそうにもない。そのうちに、シュナーベルも自身が無駄なことをしていると気づいたらしい。同時に、正しいアプローチの仕方にも。
ペストマスクが大きく階段の上を仰ぎ、くぐもった声が辺りに響き渡った。
「お嬢さん! 降りてきたまえ! いや、誰でもいい、フィーネ・フォン・フェーンブルクをここへ!」
命令に従い、重い足取りで降りてきた部下たちの足が途中で更に遅くなったのは、扉の意匠に怖気づいたものだろう。だが、それでも忠実な親衛隊員たちは、命令を遂行した。足がすくんで動けない少女は隊員たちに担ぎ上げられ、怪鳥のごとき親衛隊大佐の前に差し出されたのだった。
「さあ、女王陛下、あなたの出番だ。この扉を開けるんだ」
地面に座り込み、立ち上がることも出来ない様子の少女を無理矢理に立ち上がらせ、シュナーベルは命令した。けれど、フィーネは首を左右にふるばかりだ。
「無理です、わたくし、この先のことは何も知らないんです」
「ならば、なにか呪文だとか言い伝えだとか、心当たりがあるだろう。その石は、あなたの血筋に反応するものなのだ」
「そんなこと、本当に何も」
と、フィーネが困惑しきって首をふったとき。唐突に、フィーネの手の中で〈石〉が光りはじめた。
「おお! 素晴らしい、正しい血の持ち主が、この場に来ることがきっかけであったのか。考えてみれば、あの炎の盾も自動的に発動していた。持ち主の意思にはよらず、効果を発揮するものなのか──」
興奮するシュナーベルの声に、ごうごうと濁流の流れるような音が被さり、次第に大きくなりはじめた。どこからか水が流れ、扉へと迫ってきているのだ。
「水を使った仕掛けか。流れてきた水が左右の溝を通って扉の下に隠された水桶に溜まって重しになり、扉を開く、といったところだろうな、実に巧妙な仕掛けだ」
フィーネの持つ〈契約の石〉と、階段の左右で薄ぼんやりと光る神像に照らされて青く染まった仮面は、扉を開く仕組みを推測し、感激したように幾度もうなずいている。その耳には、階段の上方から聞こえる「わーっ」とか「なんだこれは」とか言う悲鳴も聞こえていないらしい。
話はおよそ五分前、やや離れた場所で発生している白ワニとの死闘へと移る。いや、正確には、その時点ではすでにどうにか白いワニとの決着はついていたため、その直前まで白いワニと死闘を繰り広げていた二人に、だ。
「よくやった、よくやってくれた、もうちょっとで死ぬところだった」
「おじさんが囮になって、俺に銃剣を渡してくれたからだよ、俺一人じゃ絶対無理だった」
「それにしたって口につっかえ棒をするつもりで突っ込んだ鍾乳石が折られたときにはもうだめだと思ったもんだ、あそこでキミがワニの背中に飛び乗る選択をしていなかったら駄目だったと思うよ」
銃剣で背中を刺し貫かれて血を流す巨大な白いワニの死骸を前に、〈ちとせ〉とミランは二人して互いの健闘を褒め称えあっていた。二人の果敢な連携プレーによって、地下に潜む巨獣はついに敗れ去ったのである。
「さて……随分と本来の道を外れてしまったようだが、ミラン、ここからでも行き先は分かるか?」
〈ちとせ〉は、白いワニの背から銃剣を引き抜きながらミランに尋ねた。少年は少し何かを探るようにあたりを見回した後、力強くうなずいてみせ、
「うん、大丈夫。あっでもおじさん、とりあえずそこを動かないでね」
と、〈ちとせ〉が何らかのアクションを起こすことを強く牽制した。ここに来るまでに、ちょっと振り向いただけで四方から次々に槍が繰り出される罠を作動させ、槍の罠をくぐり抜けたと思った途端隠し扉へもたれかかって二人揃って謎のスロープを滑り落ち、蛇の生簀に放り出されたところから脱出すべく蔦に手をかけた瞬間に頭上から油と火矢の降り注ぐ火攻めの罠を発動させたとなれば、警戒するなというほうが無理という話ではある。
「分かってる、何にも触らない、キミが先に歩いてくれ。俺はその後だけを忠実に歩い、て──……」
と、断固たる口調で〈ちとせ〉が自ら能動的に動かないことを宣言した、その言葉はしかし、後半になるに連れて弱々しくなり、しまいには途切れてしまった。そのかわりに、狭い水路にはどこか遠くから、ごうごうという水音が次第に近づいて来ている。
いや、この状況で、どこから水音がするか、など考えるまでもないだろう。
「……おじさん、もしかしてめちゃくちゃ運悪い?」
「今日まで気づかなかったけどな、もしかしたらそうかもしれない」
水音は、〈ちとせ〉のすぐ後ろまで、水しぶきを立てて迫っている。二人が互いの手をしっかりと握りあってどこかから流れ込んできた濁流に飲まれたのは、その直後のことだった。
それから、だいたい五分後のことである。
〈ちとせ〉とミランは、濁流とともに洞窟内を流され続け、そして、おおよその予想に全く違うことなくあの扉へと至る階段にまで流れ着いたところだった。水はどうやら本来の想定よりやや多いらしく、階段にまで溢れ出ている。
「わーっ!」
「なんだこれは!?」
との親衛隊員たちの悲鳴が上がったのは、半分は流れ込んだ水に対するものであり、もう半分は、濁流とともに複数匹の白いワニも押し寄せてきたことによるものだ。どういうわけか、濁流の中ではまたも新たな白いワニが現れ、流されていく二人を追いかけていたのだ。
階段の底に僅かな時間、水が堆積した。やはり、本来想定しているよりも水が多すぎて排水が間に合わなかったらしい。〈ちとせ〉とミランと、白いワニと黒服の親衛隊員と、それにその他の無数の機材だの何だのが、ほのかな青い光を伝える水の中で錐揉みになり、ぶつかり合う。
けれど、そんなシュールな光景もごく一瞬のものだった。薄暗い水の中に一条の光が差し込んだかと思うと、その光に向けて何もかもが押し流されたのだ。
8.神の力
それは、例えるならば神の殿堂であり、あるいは神の代理人たる王の座する場所であった。
比喩を用いずに表すならば、光にあふれる広大な空間だ、というのが率直な表現だろう。どのような立地になっているのか、一応は大理石の床と四方を囲む列柱は存在するものの、入ってきたはずの扉の他にあるべき壁はない。だが、それ以上に奇妙なのは、列柱の向こうに見える光景だ。部屋から眺め渡せる景色は星々の瞬く天と広大な地の結ぶ、はるかな光景であるのだ。
この地上に存在するとも思われぬ雄大な光景を前に、ようやく水の中から開放された者たちは、一様に目を丸く見開き、呆然とするばかりだった。黒衣の親衛隊員らの中には、彼らが追うべき存在であったはずの「ハルト・シュラー親衛隊大尉」とツィゴイネルの少年が混じっているというのに、誰も何のリアクションも起こしはしない。
事情は、〈ちとせ〉とミランにしても同じことだった。二人は、一応は互いの無事を確認はしたものの、その後は全く見知らぬ光景を前に、ただ辺りを見回す他なくなっている。唐突にここまで周囲の状況が一変してしまった場合、人はいかなる行動も取りえないものなのかもしれなかった。
だが、誰もがいつまでも呆けているわけではない。
「そうだ、フィーネさまだ。フィーネさまは──」
真っ先に我に返ったのは、その場で最も小さな少年だった。そう、その場には扉の前で水に飲まれた者はほぼ全員揃っていたが、フィーネとシュナーベルの二人の姿だけはどこにも見当たらなかったのだ。ミランはぐるりとあたりを見回したあと、ぱっと部屋の奥へと向かって駆け出した。彼には、〈石〉の場所を感知する力がある。その方向に振り子を持ったフィーネ・フォン・フェーンブルクが居ることを感じ取ったものだろう。
「おい、下手に動くんじゃない!」
次に動いたのは、ミランの後を追った〈ちとせ〉だった。
「状況があまりにも不明すぎる、何が起きるかわからないのはわかっているだろう」
部屋の中央あたりまで来たところで〈ちとせ〉は少年に追いつき、手を伸ばした。その手が少年の肩へと伸び、指先が触れようとした、その時のことだ。
部屋の床を真横に二分する場所に、横一列に黒い点が並んだ、と思ったのもつかの間のこと。次の瞬間には、その穴から一斉に黒い棒が突き出て、空間を二分する檻となったのだ。丁度それは、〈ちとせ〉が伸ばした手の先と、ミランの体の間に存在した空間でもあった。
「──やあ。丁度いいタイミングで目を覚ましてくれた」
同時に響き渡ったのは、革の仮面越しに発せられ、くぐもった男の声だった。つまりは、シュナーベルの声だ。一体それまでどこに居たものだろうか? 奇怪な仮面姿の黒衣の男は忽然と檻の向こうに姿を表し、ミラン少年にむけ、友好的な態度で声をかけてみせた。
檻の向こうの景色には、シュナーベルが現れた他にも変化が起きている。黒い猛禽のような姿の向こうには白い祭壇のような、あるいは操作卓のような直方体が現れ、更にその向こうにはフィーネの姿がある。よく見れば、白い直方体の上には青い光で宙に幾何学模様が浮かんでおり、その光は直方体の一部にはめ込まれたあの〈契約の石〉から放たれたものであることも見て取れた。
「ミラン、おい、駄目だ、そいつに近づくな」
目の前に出現した檻を揺らし、ワルサーPPKの銃弾をあるだけシュナーベルに向けて撃ち込もうとしながら、〈ちとせ〉が叫んだ。檻の向こうでは、ミランが昂然とフィーネに向けて駆け出していたのだ。だが、黒い檻は微塵も揺らぐことはなく、銃弾はどういうわけか、檻の隙間を通り抜けることすらできず、白い床に落ちるばかりだ。
フィーネとシュナーベルは、ほぼ同じ場所に立っている。フィーネに駆け寄るということは、シュナーベルに近づくということでもある。自ら駆けてくる少年にくちばしのついた奇怪な仮面を向けたまま、シュナーベルは空中に浮かんだ幾何学模様に触れた。どうやらその模様は、何らかの操作系統として作られているらしい。無数の記号が並んだ外観は、二十一世紀以降の人間であれば、タッチ操作端末の視覚的入力機構に似ている、と感じたかもしれない。実際、つい先程部屋の中央に折りを出現させたのも、シュナーベルたちの姿を隠していたのもその幾何学模様の入力機構を利用したものであったのだ。
ただし、その機能にはいま現在、制限があるらしい。シュナーベルは一つの記号に触れたが、その記号は震え、
『〈契約〉の履行に必要な権限が不足、実行不能』
と、権限の不足が告げられた。
「ふむ。どうにも、やはり女王陛下だけでは〈石〉の力を十全に発揮できないようでね。〈石〉に刻まれた契約の求めるところに従って盗人の血も捧げるにも手間がかかる」
成すすべなく檻の前で膝をついていた〈ちとせ〉が、はっと目を見開いた。シュナーベルがルガーを抜き、ミランに銃口を向けたのだ。
「やめろ」
と、〈ちとせ〉の掠れた怒声が響くが、それをかき消すように銃声が鳴り響く。白い床に赤い血が飛び散り、遅れて少年の体が転がった。
「っ──痛ってえ……」
けれど、すぐにミランは苦悶の声を上げ、傷を押さえながらも立ち上がろうとした。血はごく少量であり、少年の体についた傷といえば、転んだときにできた膝の擦り傷と、肩についていた傷が開いた程度のものであったのだ。
ルガーを握るシュナーベルは、仮面に覆われた首をかしげ、ミランの様子を見やっている。
「うん? 当てたと思ったんだが、しぶといな。そうしがみつきたくなるほど上等な生を送っても居ないだろうに」
シュナーベルは再度、ルガーを構えて少年に向けた。銃口とミランの額の間には、一メートルほどの距離しか存在していない。再び銃声が、今度は数度続けて鳴り響く。小さいとは言え膝を怪我したミランには、咄嗟に射線から身を躱せるほどの瞬発力は残っていない、はずだった。
けれど、銃声の残響が消えたあと、ミランは両手で顔をかばう姿勢のまま、先程まで負っていた傷以外には何一つ傷を負っていなかった。それだけではない。少年の体の前には青い炎が膜を作り、放たれた銃弾を焼き尽くし、消し炭に変えていたのだ。
フィーネに起きたのと全く同じ現象が、ミランの身にも起きていることにしばし、シュナーベルは驚愕していたようだ。だが、すぐに振り返り、白い直方体の向こうに立つフィーネに手を伸ばし、その頸に手をかけた。今度は、炎はフィーネを守ろうとはしない。まるで、〈石〉にとってはミランのほうが優先順位が高いかのような状態だ。
「……そうか、あなたがその少年を助けようとしているのだな。この期に及んで余計なことを──良いか、私は〈契約の石〉の力、太古の祖先らが契約を結んだ超自然の力を使い、この世界に蔓延るあらゆる汚れを浄化し、選ばれた種族だけが生きる美しい世界を作り上げねばならないのだ」
仮面の奥の顔は、ほんの僅かにも伺うことができない。けれど、もしも今すぐに黒死病を防ぐ古い時代のマスクを剥ぎ取ったならば、シュナーベルの顔は間違いなく憎しみに歪み、狂気すらにじませるものであることがわかっただろう。そう思わせるほどに、仮面越しにくぐもった声は低くこもり、偏執的ななにかを感じさせるものであった。
対象的に、驚くほどに静かなのは、フィーネ・フォン・フェーンブルクの顔だ。そう言えば、少女はミランが窮地に陥っているときも奇妙なほどに静穏なままであり、なんの反応も示さなかった。恐怖と異常な状況とが相まって、物事への反応が鈍麻しているのだろうか?
いいや、そうではない。そうではないことは、静かに発せられたフィーネ女王の言葉で、すぐに明らかになった。
「太古の昔に、ひとつの民族が神と契約を結んだ証がこの、青く光る美しい宝石であると。そして、神との契約を手にした民族は離散し、世界に散らばるうちにその血を薄めていき、やがて零落していったと。それが、あなたの信じる神話でしたね」
シュナーベルは、わずかにフィーネの首にかける力を弱めた。唐突に、自らが古文書を読み解き、その結果をナチズムの神話と融合させて提唱した〈石〉にまつわる神話をフィーネが口にしたのだ。多少なりとも、思うところはあったのだろう。
「そうだ。そして、その太古の種族の末裔こそがアーリア民族であり、我らがゲルマン民族であるのだ。無論、現在のゲルマン民族にも完全な純血を保っているものはおらず、少なからず混血を重ねているはずだが──」
「それは、あなたのお国のどなたかが作った、あなた方の耳に心地よい神話でしょう」
フィーネは、型通りのナチズムの神話を口にするシュナーベルの言葉を遮り、端的な事実を口にした。
本来ならば、言うまでもないことだろう。アトランティスに始まる、歴史上存在したあらゆる文明を創りあげながらも劣った種族との混血のために堕落し、消え去っていった優れた種族。その種族の血を最も強く受け継ぐものこそがアーリア人、ゲルマン人であるのだ、とする神話的な歴史観。ローゼンベルクの『二十世紀の神話』に見られるその種の見解は、十九世紀から二十世紀前半にかけて無数に存在したオカルティズムを継ぎ接ぎし、ナチズムの世界観に見合う形に整形した、作り物の歴史、作り物の神話だ。
「そんな神話、そんな歴史は、存在しません。あなたは最初の最初に代入するものをまちがったものだから、導き出す結論も全部間違ってしまっているのだわ」
仮面の中で、うう、とか、ああ、とか、判別しがたい声が発せられた。だが、その声はくぐもり、意味を成す声にはなっていない。
フィーネの首に、薄いゴムに覆われた指が食い込んだ。少し力を入れれば、細い首をへし折ることなどは簡単だったろう。
けれど、そうはならなかった。
シュナーベルの手に力が加わる、その直前。ペストマスクの眼窩にはめ込まれた丸いガラスに、青い炎が映り込んだ。白い直方体の上に浮かんだ幾何学の入力機構が映り込んだのではない。そも、この時点ではすでに、直方体の上には幾何学模様は浮かび上がってはいなかった。なぜならば、その場所には、
「フィーネさまから手を離せ、この鳥頭野郎!」
と叫ぶミラン少年が飛び乗り、一体いかなる理由によるものか、青い炎を纏った手で、いままさにシュナーベルに殴りかかろうとしているところだったからだ。
子供とは言え、高所から体重を載せて拳を叩き入れればそれなりの威力は出るものだ。だが、ミランの右ストレートをまともに食らったシュナーベルに入ったダメージは、明らかにそれ以上のものだった。
「ぐ──何だ、熱い、顔が灼ける!」
ミランの手を焼きはしなかった青い炎は、拳が仮面に触れた瞬間、実態のある炎へと変化したようだった。燃え移った炎は仮面を投げ捨ててもなお消えることはなく、革でできたペストマスクは僅かな時間のうちに消し炭へと変わり果てた。
それほどの高熱となる炎で、僅かな時間とは言え直接焼かれていたシュナーベルの顔も、無論、無傷というわけには行かない。
「仮面が──クソ、今まで炎が実体になることなどなかったのに」
拳を受けた顔の右半分を抑えながら、シュナーベルがミランを睨みつけた。手のひらの下の皮膚は赤くただれ、血を吹き出している。目は血走り、憤怒に顔面を歪ませた状態でのことだ。もとが整った容貌であるだけにかえってその表情は恐ろしく、悪鬼のような形相と見えた。
「貴様! 〈契約の石〉に触るんじゃあない、それは、お前が持っていて良いようなものでは無いのだ!」
顔を手で抑えながら、シュナーベルはなおも手をのばす。ミランは、フィーネの無事を確認すると白い直方体の上に手を伸ばし、〈契約の石〉を手にしようとしているところであった。〈契約の石〉に秘められた力は、太古の優良種族の末裔たるアーリア民族こそが使うにふさわしいと信じるナチスドイツ親衛隊大佐にとっては、ミランの行動は許しがたいものであったのだろう。
シュナーベルの手が、〈契約の石〉を掴み取った。だがそれよりもミランの手がわずかに早く、〈契約の石〉に触れていた。
その瞬間のことだ。
青い宝石から、ミランの体へと青い炎が流れ出した。同時に部屋には青く燃える記号が溢れかえり、記号は白い部屋じゅうにびっしりと整列し、濁流のように流れ始めた。二十世紀後半以降、コンピュータに触れたことのある人間であれば、プログラミングコードとの類似性に思い至ったかもしれない。
「本当に、わからないの?」
その場の誰にも読むことの出来ない言語が流れる中、静かな言葉が発せられた。呼吸を整えたフィーネが、中断されていた言葉の続きを口にしたのだ。
「ごく普通に考えれば、分かることでしょう。先祖からずっと受け継いできた〈石〉を持っている一族がいるのなら、その一族こそが、正当な〈石〉の持ち主に決まっている」
記号の濁流が静止した。そして、部屋全体が何度か青と白に点滅をしはじめ、その点滅が次第に早くなり、しまいには点滅とすらわからなくなった頃──
『血中の〈契約〉コードを確認、動作環境、全て正常。■■■■との約定に基づき〈契約〉の履行を開始する』
厳かな、神の託宣の如き声が響き渡り、広大な部屋の中には巨大な人の姿が浮かび上がっていた。その姿はおおよそ祭殿で一度現れたものと同じだが、明らかにその姿は以前よりはっきりとしている。その場にコンピュータディスプレイでの画像処理についての知識を持つものがいれば、「解像度が高くなった」とでも表現したかもしれない。細部までが観察できるようになったその姿は、祭殿に置かれていた神像とよく似たディティールを持っていた。
美しい炎の神像は跪き、燃える両手をミランの頬へと伸ばした。炎で形作られていながら、その手はもちろん、少年にとっては肌を焼くことも、肉を焦がすこともない。それどころか、青く燃える手の触れた場所は奇妙なほどに軽く、別の物質に置き換えられていくような感覚さえあった。
「そんな──そんな馬鹿な! 優れた種族とは、アーリア民族のことだ。けしてジプシーども、ツィゴイネルどもなどでは──」
隣では音程を外した叫び声が響いていたが、ミランの意識はもはやシュナーベルを捉えてはいなかった。それは、その場に居る他の面々にしても同じことだったろう。何しろ、部屋全体がディスプレイであるように、周囲の景色が次第に書き換わっていくのだ。驚くな、という方が無理な話だろう。
いつしか、部屋の中に居た者たちは全員いつの間にか暗い空間に放り出されていた。その足元には、暗い星空の中に一つの青く巨大な球体が浮かんでいる。それは、アポロ計画が始まっていないどころか、フォン・ブラウン博士がまだロケットを制作にかかってすらいない時代の人間は、誰一人見たことのない光景であるはずだった。
「これは、地球? ──ああ、そうか。俺の先祖は、この光景を見て、地球にやってきたものと契約を結んだのか」
だというのに、その光景を見るもののうち、ミランだけは瞬時にその光景の意味を、そして、与えられた権限を理解していた。まるで、炎の神像が持つ知識をすべて流し込まれた、そんな感覚だった。
いや、実際に彼は、炎の神像を全身に受け入れていた。白い部屋が衛星軌道から地球を見下ろした映像に切り替わる間に、少年の体はすっかり炎の神像と融合し、一体化し、その体の全ては炎に置き換わっていたのだ
──〈契約〉コード保持者には、■■■■の管理権限が与えられる。適宜■■■■の発展・管理に寄与することを求める。
声が、ミランに告げた。それとともに、宇宙空間に浮かぶミランの眼前には青い幾何学模様が出現する。先程まではその意味すらできなかったはずの文様に少年の燃える手が触れた瞬間、彼はそれが〈契約〉に基づいて権限を行使するための入力機構であることを完全に理解していた。
──現在、チュートリアルモード。ここでの操作は現実の■■■■には反映されないので留意せよ。なお、ゲストユーザには操作権限は付与されない。
ミランの燃える手が右上の文様に触れ、現れた二つの丸いスライドボタンを操作した。すると、少年の周囲に展開されていた景色が一変する。地球が急激に回転し、大陸の一点が拡大され、その中のさらに一点に向けて視点は急降下していった。
現れたのは、見知らぬ荒野だった。現実の世界で言えば、中東の乾燥地域に近い景色だろう。ただ一つだけ、巨大な星型八面体の青い結晶が、空から降ってきたかのように地面にめり込んで居るところだけが現実的ではない。
ミランは、迷うことなく入力機構の中央に位置するアイコンをタップした。すると、周囲の光景に方眼が重なり、まるでコンピュータグラフィックのような外観に変化する。この状態で空間に描画を行えば、実際の地形、天候もそれに合わせて変形することをミランはすでに知っていた。
燃える手が空中に線を引き、地の一部を消去した。それは、動作としてはほぼ、画面上に描画を行うのとそう変わらないものだ。だが、実のところその動作は、神の行いとも言うべきものであったのだ。
ミランが再び中央のアイコンをタップして操作を確定させたとき、空に引かれた線は嵐へと代わり、消去された地には巨大な地割れが出現した。どちらも、実体を持つ人間がその場に居たならば多大な被害が出たことは間違いのないほどの天災だ。
ミランは燃える手を使い、いくつかの操作を試していった。そのたびに周囲に広がる荒野は割れ、あるいは新たな山を生じさせ、豪雨が大地を削り、あるいは太陽が地を干上がらせてゆく。
それは、旧約聖書の記述を思わせる光景だった。視点を変えれば操作の対象は地球全体となり、僅かな動作で地球そのものを消し、また出現させることも、あるいは宇宙空間に新たな星を生むことも可能であるのだ。何度か星を消し、星を生み、その上に生命を生み育て、その発展を見、やがて生まれた文明の上に地を覆うほどの洪水を起こしたところで、ミランの手が止まった。自身の意志で止めたわけではない。
「──それだけの権能、それだけの栄光があったのならば──」
そんな叫び声を上げながら不意にシュナーベルがミランに躍りかかっただ。なぜこの男はこんな無駄なことをするのか? 顔の半分を失った哀れなドイツ人に対してミランが感じるものはもはや、憐憫でしかなかった。
シュナーベルは激しく咳き込みながら入力機構に手を伸ばした。
「この地上をすべてお前たちが王国として治めていたのならば、なぜ、世界を汚濁にまみれさせるに任せた。なぜ、弱い種族を生まれるに任せた。なぜ、私のような──」
シュナーベルの言葉は、最後まで言い切られることはなかった。咳の発作が言葉をつまらせた上に、使えもしない青く光る文様に触れた瞬間、彼の体が燃え上がっていたのだ。
『〈契約〉は盗人を許さない』
そう述べたのは、燃える神像の声であった。〈契約〉コードを持っていないものが何度も〈契約の石〉の操作を試みて弾かれれば、最後には保護機能が発動するに決まっている。今から考えれば、はじめから〈石〉を渡していたとしてもそのうちシュナーベルは自滅していたはずなのだ。断末魔の悲鳴を上げ、消し炭へと代わってゆく親衛隊大佐の姿を、ミランは別段の感慨もなく眺めていた。
そうして、そろそろ飽きてきていたチュートリアルを終わらせようかと思い至ったときのことだった。
「ミラン! ミラン! 駄目だ、こいつらを死なせてはいけない!」
と叫ぶ〈ちとせ〉の声が耳に飛び込んできた。いや、飛び込んできたのは声だけではない。気づけば、幾つもの炎がミランの視界には映りこんでいた。どうやら部屋の中に残っていたシュナーベルの部下たちの服に火が付き、燃え上がっているもののようだ。
「──駄目だわ、いま彼ら全員にこの場で死なれては、ルントラントへの報復は免れ得ない! ミラン、炎を消してあげて!」
今度は、フィーネの声がミランの耳を打った。いつの間にか、フィーネはミランの体にしがみつき、その行動を抑えようとしていたのだ。いや、フィーネだけではない。〈ちとせ〉も宙に浮かんだミランの体をどうにかして羽交い締めにしようとしているようだ。一体なぜ、そこまでされているのかミランには理解が及ばなかった。だいたい、ルントラントへの報復が行われるにしても、この〈石〉の力があれば問題にもならないはずだ。そのことはフィーネも〈ちとせ〉も知っているはずなのに、何故今更騒ぎ立てるのか、ミランには理解し難かった。だが、ともかく火を消してやればいいのだろう。そう思って、ミランは火を消すべく目の前の青い文様に手を伸ばした。手を伸ばそうとした。だが、
『〈契約〉は盗人を許さない』
燃える舌が、ミランの意思に反して声を発した。持ち上げた手も火を消すためではなく、体にまとわりつくフィーネを振り払うため、青い火花を散らしている。体が乗っ取られている。ようやくミランは、状況を理解した。
燃える神像と融合した少年の手が入力機構に触れ、荒野でのチュートリアルを終わらせた。周囲には白い部屋が戻ってきたが、親衛隊員たちが火に巻かれ、ミランの体が言うことを聞かない状態には全く変わりがない。
白い部屋の中、炎の姿となった少年は白いコンソールの上に浮かんでいる。その燃える手が、ミランの意思とは全く関係はなく列柱に向けて振るわれた途端、列柱の向こうの風景が切り替わった。
そこに映し出されたのは、世界中で起きている無数の出来事であった。それは、フランスの街を焼くドイツの爆撃機の姿であり、ポーランドで無数のユダヤ人たちを追い立てる親衛隊の姿であり、あるいはインドで圧政にあえぐ民衆、あるいは日の丸の翼の下で燃え上がる重慶の街、あるいはその他、無数に存在する悲劇のありさまにほかならない。
それらの光景に向けて、青く燃える腕が伸びた。チュートリアルでミランがやったのと同様の操作を、現実に対しても行おうとしている。おそらく今から振るわれるのは、洪水を起こすための身振りだ。個別の悲劇を解決するのではなく、何もかもすべてを押し流そうというのだ。もしかすると、太古の昔に起きた、神話の彼方の大洪水と同じように。
足元で叫び声を上げているのは炎に巻かれようとしている〈ちとせ〉と、その炎を消そうとしているフィーネだ。ほんの少し、ほんの少しだけでも手を下ろすことができれば彼らを助けることができるというのに、その行動すらミランには自由にはならない。あれだけの破壊と創造を行いうる力を持っていると言うのに、その力はそもそも、自分ではもはや制御すらできないのだ。──
『■■■■の状態を、正常化させる。現在の■■■■には、汚らわしい種族が多すぎる』
自らの舌が発した言葉に、ミランは自らの肌が総毛立つような感覚を覚えた。それまで気にもならなかったはずの、床の上で煙を上げるシュナーベルの死体から発せられる独特の臭気が、嫌に鼻につく。
「────そんな理由で」
列柱の外に映し出される風景に向けて払われようとする手が、静止した。燃える喉から発せられたのは、遠い神託のような声ではなく、少年の声だ。
「そんな理由で、こんな力を使って言い訳がないだろう!」
遠い世界に向けて振るわれようとした手がゆっくりと握り込まれ、やがて、拳が振り下ろされた。途端、広い室内には一斉に水が降り注ぎ、炎を一斉に鎮火させてゆく。
そして、燃える腕が宙を薙いだ。列柱の外に展開されていた光景がもとの遥かな空間へと戻るとともに、室内に溜まった水も一体どのような原理であるのか、床の外へと排出されていく。
消えたものは、物理的な炎だけではなかった。ミランの体の炎もまた全て消え去り、少年はすっかり元の肉体へと戻って白いコンソールの上に落下していたのだ。では、あの神像はどうしたかといえば──
『また、■■■■保全の義務を放棄するつもりか』
ミランの眼前に、青い炎が迫った。神像が燃える体を折り、コンソールの上に膝をついたミランを覗き込んだのだ。ただし、今までとは違い、神像の炎はミランに熱を伝え、肌をじりじりと焦がそうとしている。〈契約〉違反を侵したものの運命は盗人と同じだ、とでも言いたげな様子だ。
『お前の祖先も、同じ間違いを犯した。同じことを繰り返すのか』
炎の息が辺りの大気を灼き、少年の呼吸すらもままならなくさせる。それでもミランは息を吸い、まだ脳内に残っている神像のもたらした知識と自らの感覚とを照合させ、言うべき言葉を探し当てた。
「あんたは、世界中の人間を汚らわしい種族だと呼んだけれど──そこで死んでるやつは、俺のことをまさにそう呼んだ」
ミランは、コンソールの脇でくすぶるシュナーベルの死体を指差した。神像は、黙って話を聞いている。自らの経験によらない知識を使い、自分の考えを話すというのは、存外に体力を使うものであるらしい。あるいは、目の前の炎の神像が注いだ知識の残滓を使っているためかもしれない。一言を話すたびに、ミランは自身の脳内が焼かれ、平衡感覚がなくなるような感覚に襲われたが、それでも言うべきことを言い切るべく、炎の像を見つめ続けた。
「人間をなにかの基準で測り、正誤判定を下すことを、俺は管理保全だとは考えない。そも、この■■■■に意思を持った何者かの保全が必要であるとも思えない」
『〈契約〉は継続されねばならない。〈契約〉コード保持者がそれを放棄するならば、他の適任者を探さねばならぬ』
「それは──」
それは、まずい。あれだけの力が、今この世界でそれを欲するようなものに渡ればとんでもないことになる。ミランは反論しようとした。だが、息をつごうとした喉は灼熱の大気に焼かれ、声を出すどころではない。
「──では、■■■■のありかたに沿ったシステムの改修と、主要機能の凍結を要求します」
代わって、りんとした声が響き渡った。誰の声か、など考えるまでもない。フィーネだ。フィーネが、ミランに変わり神像に意見を述べているのだ。
巨大な神像が、ゆっくりとフィーネの方へと向き直った。部屋中に降り注いでいた水をかぶって濡れていたフィーネの服から湯気が上がったのは、神像の体から発せられる熱で一気に水分が蒸発したものだろう。
「あなたがかつて〈契約〉を行ってから、人類は歴史を重ね、あり方を変え続けています。ならば、管理のあり方もそれに沿って変化すべきです」
炎の神像は、ルントラントの幼い女王のすぐ眼前に迫っている。けれど、その熱が和らかなものになっているようなのは気の所為であったろうか?
フィーネを覗き込んでいた炎の神像が、ゆっくりと部屋を見回した。そうして、一番はじめに目をつけた物に手を伸ばし、その体へと冷たい炎を流し込もうとした。
「うわあ! 良くわからないがちょっと僕ァ頭の中がかなり偏ってるというか、いやだからって言ってこの部屋の他の大人ども全員かなり物凄く偏ってるんでサンプルには向かないというか」
冷たい炎に巻かれかけた〈ちとせ〉は、慌てて炎を払おうとしながら、神像に自らと、ついでに後ろに転がっている親衛隊員たちのサンプルとしての不適格を必死に説明し始めた。シュナーベルの部下の生き残りまでもが〈ちとせ〉の言葉に必死で頷き、二十億人ぐらい居るだとか人権思想が発生してだとか、人類の現状を口々に説明しようとしているのだから、よほどのことだ。
「ですから、地球人類二十億人ちょい、一度全部調べ……見たほうが良いんじゃないかなって、僕ァそう思いますね、はい」
〈ちとせ〉の訴えを受け入れたのか、あるいは親衛隊員たちの必死な様子が通じたものか、否か。
ややあって、神像は自身の体を大きく揺らがせた。巨人の体をなしていた炎がゆらぎ、球体へとその身を変えたかと思った次の瞬間。
冷たく青い炎が弾け、部屋中の人々の体を通り抜け、列柱の外にまでも広がった。
『──なるほど。社会の発展に伴う高度な抽象的概念の発生、及びそれに伴う人の意識の変化。──理解した』
神託の如き声が、託宣を告げるように厳かに、部屋に響き渡った。
『〈契約〉コード保持者に確認する、システム改修の許可を』
白いコンソールの上に倒れ込んでいたミランは、是も非もなくこくこくと頷いた。承認の意思を示すには、それで十分だったらしい。
『これより、システム改修、および改修のための情報収集を開始する。情報収集終了までは、〈契約〉は暫定的に休止モードに入る』
そして、炎は風にかき消されるようにその姿を消していった。残された者たちはと言えば、唐突な幕切れに呆け、あたりを見回す他にはどうしようもない。
どこか散漫とした空気の中、そのうちに、ああ、と声を上げたのはミランだった。
「ああ、畜生、せめて一瞬でも自由になったらルントラントの周りにでかい山かなんか作ったのにな。そうしたら、いま国内に居るドイツの奴らだけでも叩き出せばあとは攻められずに住むのに」
でも、そんな暇なかったもんなあ、と、心底悔しがるミランを前にしても、誰も今の有様を忘れたのか、と責めたり、あるいは笑ったりするものはいなかった。なにしろ時は一九四〇年、ナチスドイツは今まさにフランスを攻め落として連合軍をドーヴァーに追い詰め、その短い歴史の絶頂を極めようとしている頃のことである。人類史レベルの規模の問題を解決したところで、ルントラントが、このあともナチ占領下に置かれるという問題は解決されていないのだ。周りが山に囲まれたら物流が死にますし空爆されたら終わりですから、と別方向の問題で後悔を相殺しようとするフィーネの言葉も、いまのミランには慰めにならないらしい。その場の誰も、少年を慰めるすべを見いだせずにいる中、
「……あー。その辺については、僕に少しばかり考えがある」
と、〈ちとせ〉が改まった声を出した。
「ただ、そのためには少々協力が必要なんだが……ときに君たち、最上級者の指揮下に入る気はあるか?」
〈ちとせ〉がそう問いかけた相手は、無論、満身創痍の親衛隊員たちである。彼らにとっては未だ、目の前に立つ金髪の大男は「逃亡中のハルト・シュラー親衛隊大尉」であり、そして、シュナーベルやその側近が死んだ今となっては、ルントラントに駐在する親衛隊の中での最上級者ということになる。
火傷の痕を大理石の床に当てて冷やしていたホップ中尉が、座ったままでシュラー大尉に向け、敬礼をしてみせた。続いて残る者たちも、同じくその場で敬礼をする。なにぶん、国防軍やその他の軍ではなく親衛隊でのことである。ローマ式、いわゆるナチ式の敬礼であったためにどうにも座ったままでは格好がつかないのはご愛嬌、と言ったところだろう。
〈ちとせ〉は敬礼に対して答礼で応えると、部屋の奥に立つ女王の方を向き、跪いた。
「ということで、女王陛下。ここは少々僕に任せてもらえませんか。ひとつ、上手い手があります」
9.ルントラント万歳
一九四〇年六月、パリは抵抗なきままにドイツ軍を迎え、独仏休戦協定が結ばれた。世界の目はあまりにもあっけないフランスの末路に向いており、同じく占領下にある小さな国で同時期に起きたことに注目しているものは誰も居なかった。
ラジオから流れているのは、コンピエーニュの森で行われた休戦協定への調印を伝えるドイツのニュースだ。アナウンサーは先の大戦での屈辱が晴らされたことを勇ましい口調で伝え、彼らの総統の偉業を讃えている。
けれど、そのラジオを聞くべき住人は家の中には居ない。ラジオを付け、食卓に手を付けかけた朝食が並んだ状態のまま、その家の住民は慌ててどこかへでかけていったかのようだ。
同様の現象は、その日、ルントラント全土で起こっていた。
首都ロイテンゲンに住んでいて家を空けずに住んだ住民たちは、窓の外に広がる光景を震えながら見つめていた。窓の外、小雨の降る石畳の通りで繰り広げられているのは、着の身着のままの老若男女が銃を構えた兵士たちの指揮のもと連行されていくという光景だ。連行される人々はに共通するのはただ一つ、ダビデの星の腕章をつけているという点だけだ。
「──兵隊さん! どうしてヨーズアを連れてくの?」
一つの家の窓が開き、小さな女の子が沿道に立つ兵士に問いかけた。どうやら、トラックへと流れてゆく列の中に、友達の姿を見つけたらしい。慌てて母親が我が子を抱き上げ、室内に引っ張り入れたが、少女は納得がいかない様子だ。なにしろ、親衛隊員だとかドイツ国防軍の兵士ならばともかく、そこに立っているのは今までならば陽気に挨拶をしてくれたり、時には飴をくれることもあったルントラント国軍の兵隊さんなのだ。声をかけるなと言われても、納得がいかないのだろう。
シュナーベル親衛隊大佐がルンテンゼー遺跡を調査する最中、何者かによって襲撃を受け命を落としたと伝えられたのは、わずか一週間ほど前のことだった。ルントラントに駐留する親衛隊のトップであったシュナーベルは、ルントラントがドイツに併合された暁には大管区長に就任するだろうと目されていた存在である。その突然の死に対しては何らかの報復があるものと噂されてはいた。だが、今日起きているこの事態は、そういった噂のさらに上を行くものだった。
「ルントラントは親衛隊からの提案に従い、自らの手で犯罪人とその係累、およびドイツ民族にとっての敵性民族をこの地上から消し去ることでドイツへの友誼を示す」
ルントラント政府は首相以下の連名でそのような声明を出し、国軍兵士を使って「犯罪人とその係累、およびドイツ民族にとっての敵性民族」の摘発を始めると発表、そして間髪をいれずに起きているのが今朝からのこの光景であるのだった。けれど、誰の目から見ても、連れて行かれるものたちはシュナーベル親衛隊大佐の暗殺に関わったことがあるどころか、「敵性民族」などとすら思い難いものばかりだ。連れて行かれるものもそうでないものも、ルントラントという国が生贄を捧げたことを理解しないわけにはいかない、そんな光景が、小さな国の至るところで発生していた。
ロイテンゲンの通りという通りに発生している遅々とした人の流れは、王城からもよく眺め渡すことができた。石造りの古い城塞の最上部、尖塔の屋上に立つ幾つかの人影もまた、小雨の中傘をさすこともなくその光景を眺め続けていた。
「本当に、よろしかったのですか。いずれは濯げる汚名とはいえ、今日明日のことではない。ことによれば、閣下がたの死後ようやく、ということになるかもしれないというのに」
訛りのないドイツ語が、城下を見下ろす老人たちに向けて発せられた。声を掛けたのは、尖塔を登りきって屋上に現れたばかりの〈ちとせ〉だ。
「うむ、名など、所詮は名だ」
一人の、前世紀の貴族のような服装の老人が振り返った。彼こそがルントラントの首相である──と説明するよりも、あの時、山小屋で〈ちとせ〉と話をしたあの老人だ、と説明するほうがわかりやすいだろう。
「あれだけの生命を救うことができるのならば、なんとなれば永劫に汚名が晴らされずとも構いはしないとも。なあ、諸君」
胸壁の前に立っていた他の老人たちも振り返り、そうだそうだ、と同意を口にし、頷いた。彼らもまた閣僚、あるいは国軍の将軍であり、そして、あの山小屋に居てルンテンゼー遺跡には向かわなかった「抵抗組織」の重鎮たちであった。
「それよりも、ハルト・シュラーくん。いや、ええと……〈ちとせ〉くんだったか。君こそ、ここからが正念場だろう。ぜひとも頑張ってくれたまえよ」
「は。お言葉、痛み入ります」
首相の言葉に、〈ちとせ〉は深々と頭を下げ、螺旋階段へと下がりかけ、ふと足を止めた。
「──そうだ、申し上げるのが遅れておりました。僕とあの少年とは、ですからひいては女王陛下は、フォン・ゾンマー近衛中佐のおかげで命拾いをすることになりました。自らを顧みぬ勇気に、心から感謝をいたします」
「うん。……そうか」
ルントラント王国首相クリスティアン・エリクセン・フォン・ゾンマーが客人に向けた短い返答は、こころなしか震えていた。
ルントラント国軍を動員しての国内におけるユダヤ人並びにジプシー、ロマをはじめとする少数民族の「処理」は、わずか半日ほどで終了した。その旨はルントラントに駐留する親衛隊を通じて「シュナーベル親衛隊大佐暗殺実行犯への報復」としてドイツ本国の親衛隊本部へと伝えられ、計画立案者は称賛を浴びることとなった。つまり、この場合書類上ではホップ親衛隊中尉がその対象である。
「うわーお。俺、すげえ昇進するっぽいですよ。特別行動部隊への指揮官待遇での異動の打診まで来てんですけど。あんた、そのまま残ってりゃあ出世コース間違いなしだったでしょうに」
親衛隊本部からの連絡を前に、ホップ中尉はにやりと笑いながら〈ちとせ〉を見た。実際のところ、ホップ中尉は次の司令官が赴任するまでの最上位者として書類上計画立案者ということになっていたに過ぎず、計画の青地図を引いたのは〈ちとせ〉であったのだ。
「ちょっと御免被りたい出世コースだな。お前、その異動蹴っとけよ。ボロを出されちゃ困る」
「分かってますよ、下手な真似して古代の神さまだか宇宙人だかに嫌われたくないですし。そっちこそことを露見させないでくださいよ、あんたはその時ゃ少なくともドイツの勢力圏外だろうが、こっちは全員抗命罪やら何やらで縛り首間違いなしなんですからね」
「任せておけ」
ホップ中尉の肩を叩き、〈ちとせ〉は胸を張って宣言した。
王宮の外はすっかり暗くなり、ルンテンゼーの湖上には掛け始めた月が浮かぶ頃となっている。ルントラントの地下には青い結晶を通じて月明かりが差し込んでいるだろう。青い月明かりの中に、何千人という人々が不安げな表情を浮かべている様子がありありと脳裏に浮かび、〈ちとせ〉はその責任の重さに身震いがする気になった。
山場は、今夜だ。〈ちとせ〉は自らの顔を叩き、王宮の地下へと続く階段を数段飛ばしで下り始めた。
そして、およそそれから一月後。
舞台は地球を半周ほどした先、日本列島のある一点へと移る。
恐ろしくよく晴れたある日、神戸の港に一隻の船が到着していた。だが、何やら手間取っているらしく、なかなか乗客は降りてこない。船の前には、どうやらその便を待っていると思しき一台の車が停まっている。ナンバープレートを見るまでもなく、カーキ色の制服を着込んだ陸軍軍人が運転席に収まっているところからして、軍の車だと分かる。
後部座席の陸軍少佐は、苛立った様子で葉巻をふかしつつ、何度も到着した船のタラップを眺めていた。そのタラップに人の姿が現れたのは、少佐がすっかりふてくされ、船の様子を見るのも諦め始めた頃になってのことだった。
「貴様! 〈ちとせ〉、一体どういうつもりだ、何のつもりであんなまねを、よりによって責任者を俺の名でッ」
「やーあこれはルントラント駐在武官殿、たいへんものすごくお久しぶりであります! 暗号名を天下の公道で叫ぶのはおやめいただきたく思いますな、まあ勝手に他所の国の兵隊に漏らしたほどですから秘匿すべき情報とも思っておられなかったのでしょうが」
タラップを駆け下りてきた〈ちとせ〉と二ヶ月ほど前までルントラント駐在武官であった陸軍少佐とは、港の街灯の真下で即座に殴り合いを始めかねない勢いで再開を果たした。どういうわけか握手を交わしているのは、互いに相手に殴られる可能性を重々承知した上で、その拳を使用不能にしようとした結果であったようだ。
「責任者の名については他に思いつかなかったのでそうさせていただいたまでです、が、しかし、掛けた迷惑に見合うだけのものは持ち帰ったつもりであります」
右手はガッチリと握手をしたままであるので残る左手で、〈ちとせ〉はポケットに入れていたものを取り出してみせた。金の鎖の先に下がった、大振りな青い宝石──〈契約の石〉だ。陸軍少佐がぎょっとした顔を見せたのは、事前に幾つかの国の日本大使館で無理を通しついでにその〈石〉のもつ力について、いくつかの情報を除いてはほぼ完全に報告をしていたからだ。
「これが、本当にその……?」
少佐は〈石〉に手を伸ばしかけ、しかし直前で引っ込めた。報告には、〈石〉に使用者として認められなかったシュナーベルが焼け死んだ旨をしっかりと明記しておいた。どうやら迷惑をかけられたことには怒りつつも、しっかりと報告にも目を通してくれていたようだ。ならば、話は早い。
〈石〉に見入りつつもその力を恐れた少佐は、自身が恐れを抱いたことを恥ずかしく思ったらしく、慌てて咳払いをした。
「う、うん。しかしだな、だとしても、貴様、あれは──そう、あれは一体どういうことか!」
と、怒りで表面を取り繕いつつ少佐が指差したのは、〈ちとせ〉が降りてきた船だった。いや、正確にはその甲板上だ。
そこには、無数の人々が居た。誰も彼も着の身着のままで、蒸し暑い異国の日差しに汗を拭い、見知らぬ景色に目を細め、やや怯えた様子すら見せている。仕方あるまい、何しろルントラント人は、ほぼ自分の国からでたことのないものばかりであるという。それが遠い日本の地にまで連れてこられて、困惑しないはずがないだろう。
〈ちとせ〉も少佐に倣って青空を背にするルントラントからの避難民たちを仰ぎ見つつ、ニッコリと笑顔をうかべた。ここまで来たのだ、あとはもう、失敗の余地など存在しないに等しい。
「はい、ルントラント駐在武官殿。はじめにスイスより打電いたしましたとおり、〈石〉を使用するには正当な血筋が必要、とシュナーベルは目しておりました。そして、自分こそその血筋を持つと目していたが──」
「実際には違ったと。そう、報告していたな。だから、その代わりに〈石〉とともに候補者を連れ帰る、と報告を受けたはずだが」
少佐はやはり、報告書の記載通りの答えを返した。どうやら、根がマメな男であるらしい。
「そう、そのとおり。で、ありますので、候補者を連れてきたのであります。一通り、全員を」
「一通り、全員を」
言葉をオウム返しにして、再度、陸軍少佐は船の上を仰ぎ見た。そこには老若男女、ナチが自らの勢力圏内に置きたくないと目したほかには共通点の何一つないルントラント人たちがすし詰めになっている。その様子を眺めつつ、少佐は口の中で「まさかこんな人数」とか「どうやってスイス経由で連れてきたんだ、内陸国だぞ内陸国」とか、もごもごとつぶやいたようだった。が、やがて更に空を仰ぎ見て、大きく深呼吸をした。
「分かったよ、来たものはもうどうにもしようがない」
「は、ありがとうございます」
陸軍少佐は、もはや目の前にあるものをそのまま受け入れることにしたようだった。追い返したら途中で通した他の大使やら駐在武官やら公使やらのメンツも潰すことになるのだ、追い返すわけがない。
甲板の上に居た人々が、ようやくタラップを降り始めた。〈ちとせ〉が声を掛け、降りるよう促したのだ。あたりには、ルントラント人たちの様子を困ったように見つめる役人の姿も見受けられる。おそらくは神戸市の職員だろう。一九四〇年の夏、神戸市にはリトアニア領事代理時代の杉原千畝からビザを受け取ったユダヤ人が到着しはじめてもいる。何重にも予期せぬ形で外国人を迎え入れることとなっている市職員たちにとっては、目の前の光景はさらなる難題が次々に上陸してくる光景に他ならなかったはずだ。
軍人たちの乗った車が遠ざかるのとともに、近づいてくる靴音があった。
「役人さん、ちょっと迷惑ついでに連絡を頼みたいんだが──」
市の職員が近づいてきたものと思い、朗らかな笑顔とともに振り向いた〈ちとせ〉の顔は、しかし途中で強張ることとなった。そこに立っていたのは、彼に〈ちとせ〉の暗号名を与え、偽りの身分をも与えてドイツへ送り込んだ上官であったのだ。
「連絡は必要ない、もう、一通りのことは把握している」
上官は、先程の陸軍少佐たちとは違い、上物の背広を着込んでいる。一見するに軍人と分かるものは居ないだろう。
「〈石〉を使用しうる候補者にしては随分と、どこかの国が嫌う民族ばかりを連れてきたようだ。果たして、あの中に本当に、〈石〉の力を使いうる人間は居るのかな?」
耳に入ってくる言葉に、軍人の高圧さは微塵も含まれていない。だというのに、〈ちとせ〉は上官が話せば話すほど、先程の陸軍少佐を相手にしているときよりも重々しいものが腹に溜まっていくような感覚を覚えていた。
ルントラント人たちはすっかりタラップを降りきり、〈ちとせ〉の様子をうかがっている。漏れ聞こえる言葉からするに、彼が市の職員と話しているとでも思っているようだ。
「──ええ。シュナーベルの説が正しければ、居るはずです。ですので、登戸でもそれ以外のどこでも、検査なり研究なりを進めてください」
「つまり、官費で彼ら全員を、結果が出るまで養え、というのだね」
ぎゃあぎゃあと海鳥のなく声がべたつく潮風に混じり、港にあふれている。〈ちとせ〉は体内の水分がすべて無くなるのではないかというほどに汗をかいているというのに、その横に立つ上官は、涼しい顔に汗一つ浮かんでは居ない。
「ま、適当な予算を取ってきてやろう。ものは実際に持ち帰ってきたんだ」
と、上官はいつの間に手にしたものか、青い宝石の下がった振り子を手に掲げ、青空に透かしてみせた。星型八面体を作る奇妙な結晶は、強い日差しを受け、青い炎をその裡に揺らがせたようであった。
〈ちとせ〉はほっと息をつき、頭を下げた。その様子を上官は本心の分かりにくい笑顔で眺めていたが、やがて、
「しかし、君は存外密偵には向かなかったな。うん、通常の軍務に戻るといい、このところ南方の情勢も不確かだからね、──」
と、あっさりと諜報員の任を解き、最後に〈ちとせ〉の本来の名を呼んでみせた。
汽笛が鳴り、わあ、と無数の声が上がった。どこかへ行く船が港をでて、見送る者たちが別れの言葉を告げたのだろう。
上官は来たときと同じく、靴音を立てて去っていった。途中、市の職員に何やら話していたのは、ルントラント人たちの処遇について話を通したものらしい。その場で対応を協議していたものらしい役人たちの顔は、責任の所在とするべきことが明確にされた瞬間見るからに明るくなった。
懐かしいはずの日本の景色を、どこか陽炎の向こうの景色のように見ていた元密偵は、袖を引く感覚に振り返った。
「ね、ちとせさん。いつまでここで待ってなきゃいけないの?」
そこに居たのは、船の中で彼に懐いてきていた少女だった。同じツィゴイネルだからだろうか、どこかミランに似た面差しに見える。少女の問いに、じきに案内が来る、とか、悪いようになることはない、とか返し、しばし会話を続けたあとのことだ。
「──お嬢ちゃん、将来ルントラントに帰る時がきたら、ミラン・トリエスティっていう男の子に伝えてくれないか。いや、そのときにはもう子供じゃないかもしれないし、名字も違うかもしれないが……そうだな、多分女王さまに聞いてみると分かるはずだ」
彼は少女と目線を合わせ、真剣な顔を浮かべた。彼の脳裏にあったのは、ルントラントに残った一人の少年だ。ミランだけは、〈契約の石〉の使用が本当に可能である関係上日本に連れてくるわけにはいかず、ルントラント貴族の養子という扱いにして本国に留まることとなったのだ。
少女は、コクリとうなずいた。
「いいよ、なんて伝えたらいいの?」
「僕の名前は、本当は…………」
結局、ミランは最後まで彼のことを〈ちとせ〉とすら呼ぶことはなく、おじさんと呼び続けたのだ。せめて本名を知ってもらいたいものだ、と彼は自身の名を口にしようとして、はたとその名が喉からでてこないことに気がつき、首を左右に振った。
「〈ちとせ〉だ。ちとせでいい」
少女の顔に、不思議そうな表情が浮かんだ。
「じゃあ、その、ミランって子にちとせさんが自分の名前はちとせだって言ってた、って伝えたらいいんだね。変なの、そのくらい、自分で伝えたらいいのに」
丁度その時、何かしらの算段を付けたらしい役人たちが手を振り、片言のドイツ語で注目を集めようとしながら近づいてきた。少女は両親に呼ばれて小走りに駆け出し、あとは、ちとせだけが誰からも離れたまま取り残された。
眩しいほどに青い空の下、陽の光をまともに浴びながら、ちとせは一人つぶやいた。
「僕は、多分、無理だ」
一九四〇年、夏。かねてより続く大陸での戦争はなお一層混迷を極める一方で、近衛内閣は大東亜共栄圏確立を閣議決定、国内では挙国一致の体制が形作られてゆく。欧州でのドイツの快進撃に触発された軍部の後押しを受け、同年九月には日独伊三国同盟が締結、翌年の太平洋戦争開戦へと至る道が開かれてゆくことになる。以降、日本は同盟国ドイツと同じく一九四五年の敗戦を迎えるまでの間、多大な戦禍を振りまき、自らも灰燼に帰す事となる。
誰もが大なり小なりの戦火、大なり小なりの悲劇を免れえなかったこの時代にあって、ルントラントという小国は、実に幸運であったと言えよう。一九四〇年七月、フォン・ゾンマー内閣はナチスドイツの求めに応じて併合を承認し、ルントラント王国は一時的に地図の上から姿を消すこととなる。ナチスドイツのいち行政地域となっていた間は無論、帝国内の他の地域と同様の扱いとなり、民族政策も同様のものが施行された。が。──
クノップ大管区指導者は、フォン・ゾンマー邸の廊下をあるきながら、神経質そうに髪をなでつけた。ルントラント王国改めティーフホーフ大管区に赴任してからというもの、彼にはどうにも許しがたいことがあったのだ。
「そこの。そこの、お前」
大管区指導者は、目の前を通り過ぎようとしている一人の少年を呼び止めようとした。けれど、少年はその声に気づかないかのようにすました顔で斜め前の部屋へと入ろうとしている。
「おい、聞こえないのか、お前、お前だよ」
革手袋に包まれた手が肩を叩くに至り、ようやく少年は大管区指導者の方を見た。その顔には、一体なぜ自分が声をかけられたのかがわからない、と言いたげな表情が浮かんでいる。
「お前って、失礼な人だな。俺にはちゃんと名前があるよ、前にも名乗ったろう」
「ああ、ミランとか言ったか。ふん、いかにも下等民族らしい名だ。こちらこそ前にも言ったはずだが、貴様のようなツィゴイネルが一体なぜ大手を振って私の大管区を歩いているのか──」
ごほん、と背後から咳払いがして、大管区指導者は振り返った。そこにあったのは、大時代的な服装にモノクルをつけた、いかにも貴族然とした元ルントラント王国首相の姿だった。
「大管区指導者殿、勝手に家の中をうろついて、子供を脅されては困りますな」
「これは失礼。なにしろ、かれこれ二時間ほど待たされておりましたのでな」
そう、クノップ大管区指導者はフォン・ゾンマー氏に文句をつけるべく邸宅に乗り込んだは良いものの、あまりにも待たされすぎてしびれを切らせて勝手に応接間から出歩いている最中であったのだ。
「そうしたら、お宅のなかにどういうわけかツィゴイネルの子供が居たので誰何していたまで。……ああ、このツィゴイネルは、あなたの養子であったのだったか」
そう、現在のミランはフォン・ゾンマー元首相の養子という扱いになっているのだった。名前も、ミラン・トリエスティではなく、ミラン・フォン・ゾンマーと名乗っている。
フォン・ゾンマー氏は大管区指導者の前に割り込みつつ、ミランに部屋へと入っているよう促した。
「おや、妙な話だな。我が国は総出で、貴国にとっての害となりうる存在をこの地上から消し去った。ゆえに、残っているのはすべてそちらのお眼鏡にかなう存在だけだよ。何なら、協力してくれた親衛隊の記録を見せてもらうといい」
「ルントラントではなく、ティーフホーフ大管区だ。これも一体何度言わせるんだ」
大管区指導者は耐え難いといいたげな表情でフォン・ゾンマー氏に詰め寄りかけたがひらりと躱され、たたらを踏む羽目になった。その隙にフォン・ゾンマー氏はと言うと、次の授業を待つミランとフィーネが揃って顔を出している図書室の中に素早く身を踊りこませていた。
「待て、おい、だいたい何だって子どもたちに正規の教育を受けさせないんだ」
「ドイツの兵士だとかドイツの母だとかになるための教育など必要はない。帝王学を教えられる教師を連れてきたら認めてやる」
大管区指導者の目の前で図書室の扉がピシャリと閉められ、内側から鍵のかかる音がした。
ミラン少年は極端な例にしても、同種の問題がある度、「ティーフホーフ大管区」では短い占領期間の間に行われた大規模な浄化作戦と、その際の記録とを引き合いに出して問題ではなくさせることが常態化していた。この際、元シュナーベル麾下の親衛隊将校たちがルントラント人の味方につくことが多かったのは、数々の証言や記録に残されているところである。
そして一九四五年。占領からほぼ五年が経ち、千年帝国を自称した一つの国が滅亡を迎えた後に、一つの巨大な「奇跡」が起きることとなる。これこそが、ルントラントというごく小さな国の名が世界に知られることとなった原因であることは論をまたないことながら、研究者によってはルントラントがふたたび国としての主権を取り戻し、今日まで存続することの出来ている理由であるとすら言うほどの「奇跡」である。
出ていったときとは違い、彼らは白昼堂々、陸路を使いルントラント唯一の駅のホームへ降り立ってきた。事前に政府より通達をされていたとはいえその内容に半信半疑だった人々は、汽車から流れ出る中に見知った顔を見つけてようやくそれが現実だと思い知り、手に手を取り合って喜びあった──とは、その日ルントラントを訪れていた米国の特派員が記した「奇跡の再会」の様子であった。
駅舎は、中も外も凄まじい混雑を見せていた。汽車が到着するたびに数多くの人が少しでも早く知人や友人、あるいは引き離された家族に合うべく改札につめかけようとするため、外に出ようとする帰還者たちと人の流れがぶつかり合い、コンコースでは駅員や国軍兵士が総出で誘導を行い、場合によっては怒鳴りつけてでも駅舎の外へと人を流そうとする、一種の狂騒が発生していた。だが、それでもその光景はあの日、雨の中人々がトラックに詰め込まれていく様相とは真逆の、喜びに満ちた光景なのは間違いない。
そんな狂騒のハイライトは、なんといっても駅前にある一台の車が停まり、その後部座席から一人の女性が降り立った時に訪れた。
近衛の青年にエスコートされる形で降りてきた女性はしばらくの間は誰にも気づかれず、到着する者を待つ市民の中に紛れていた。だが、じきに誰かがその存在に気づいたものだろう。
「ヨゼフィーネ女王さまだ」
「本当だ、女王陛下がいる」
「我々を迎えてくださっているんだ」
そんな声が上がるやいなや、誰もがフィーネ・フォン・フェーンブルクの存在に気が付き、滞留していた人の流れがフィーネへと向かい始めた。
「まずい、フィーネさま、一度車へ」
青を基調にした近衛の制服を着たミランが慌ててフィーネを車へと押し戻そうとしたが、すぐに周囲には人だかりができ、わずか数メートルを移動することすら困難な有様となってしまった。車の周りにできた人だかりを国軍の兵隊が押し留め、その間にどうにかこうにか車のドアを開こうとした、そんなときのことだった。
「女王陛下! えーっと、ミラン・トリエスティっていう男の子をご存知ですか!」
フィーネのために手足を突っ張り、ドアにかかる人の圧力を少しでも避けようとしていたミランがはっと顔を上げた。そこでは、神戸の港に降り立ったときから五年分歳を重ねた少女が、人混みに流されかけながらも声を上げているところだった。
「その子に伝言があるんです──」
と、再度少女が上げた声は、しかし、途中で途切れることとなった。バランスを崩して転びかけたわけではない。その後ろから誰かに声をかけられたのだ。振り返った少女は驚きを顔に浮かび上がらせた。
この時の様子を、先の特派員は次のように伝えている。
「────苦難の末にふたたび祖国の地を踏むこととなった帰還者たちを若き女王が迎えに出たとき、辺りは喜びと混乱の頂点に達した。近衛兵に守られて一度車へと戻った女王は、その途中で何かに気づいたようだった。恐らくはその場に参じた他の多くの市民と同様、旧知のものを見つけたのだろう。五年来、公の場では見られなかった笑顔が女王の顔に浮かぶと、辺りの興奮は頂点に達し、女王陛下万歳、ルントラント王国万歳、との歓呼の声が駅前の広場を包み込んだ。──」
補遺
なお、これは余談である。
現代において、アーリア人というのは、印欧語族のうち、古代のうちに欧州ではなく中央アジアへと向かった集団とみなされる。その集団も更に細かく別れていき、現代で言うインド、イラン、中央アジアの都市部、草原地帯などに広く散らばっていった。ナチズムのいう「アーリア人」像というのは、そのように広い地域に拡散した同じ言葉を話す民族の存在をもって「広い地域を支配下においたひとつの民族が存在した」と曲解した上で、それをゲルマン民族と祖を同じくする高貴な種族として逍遥する、何重かにねじれた理想像であるというのは言うまでもないが──
それでは、古代に中央アジアへと進出し、定住した印欧語族だけがアーリア人であるとして、その末裔が欧州に存在しないのか、といえば、そういうことはないようだ。あくまで一説ではあるが、欧州にもアーリア人の末裔とみなしうる民族はただひとつだけ存在している。ただし、それはアーリア人を自称したドイツ人ではない。
一説によればそれは、北インドから欧州に流れ込むという古代のアーリア人とは逆の動きをし、欧州において少数民族として迫害されてきた民族──ジプシー、ツィゴイネル、ヒターノ、その他様々な名前で呼ばれ、現在ではおよそ総称してロマと呼ばれる民族であるという。
〈ルントラント物語 終〉
参考文献 青木健『ゾロアスター教』
青木健『アーリア人』
ローゼンベルク『二十世紀の神話』
ナチ占領下の小国で少年少女とスパイがナチを相手に冒険を繰り広げる話