『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈1〉 ~フラットアース物語②

第二章〈()
子……云房内小者眠。小者全備。則小者而大者也。


〈1〉

どれくらい眠っていたのだろうか。ざわざわと注意を促す感覚に目を覚ました。
辺りは暗くて何も見えなかったが、もう一つの目が、体の下で動き回る小さな生物の存在を教えてくれた。それらは身動きすると、さっと地面の中に潜って行ってしまった。

顔を上げると、湿気を含んだ冷たい風が流れてくるのが感じられた。感覚を拡げて辺りの様子を探ってみると、そこは、ようやく翼を伸ばせるくらいの幅の穴の中だということが分かった。風は、穴の先の細い横道から吹いて来ていた。

意識を失う直前の出来事を思い出して、自身を確認したが、どこにも欠けたところはなく、気力も回復していた。むしろ、蓄えられた気力は少し増えていた。
つまりはそれだけ長い時間、眠っていたということだった。

(あの急斜面をどこまで落ちたのだろうか。)
垂直の崖の光景を思い出して、ぞっとした。
ともかくも外に出てみないことには、ここがどこだか知りようがない。そう思って立ち上がると、大きく伸びをした。

眠って気力を回復したせいだろうか、随分と体が軽く感じられた。いや、それどころか、実際に軽く地面を()るだけで、羽ばたかなくても地面から足が離れて、宙に浮くことが出来た。
そう言えば、()ける必要がない時はこうして移動するものだった、と思ってから、どこかでそうやって景色を眺めたことを思い出した。
しかし、それがどこだったかを思い出すことは、もうしなかった。どうやら記憶は、思い出そうとしても出てこないけれど、何かきっかけがあればすんなりと(つな)がるものだ、と半ば理解してきていた。

暗闇の中を、風の吹き込んで来る方向へと進んで行く。穴から続く短い斜面を上り、少し狭くなった入り口をくぐり抜け、広い場所に出た、と思ったその途端に、猛烈な風が吹き付けて来て、(あわ)てて頭を引っ込めた。
恐らく、穴の正面にある岩が風を弱めてくれていなかったら、そのまま吹き飛ばされて、壁に激突していたことだろう。

穴の外では、まるで嵐のように間断なく烈風が吹き付けて来て、ゴオォという低い唸り声をあげていた。何とか辺りの様子を知ることが出来ないものかと、風の弱くなる機会を(うかが)ったが、とても穴から出ることは出来なかった。しかたなく、一旦通路の中に引き返して、明るくなるのを待った。

太陽が昇って外が明るくなっても、風は弱まる気配を見せなかった。
冷たい強風が吹く中を、穴の出口ぎりぎりまで身体を寄せて、何とか外を(のぞ)き見た。そこはどうやら、切り立った岩壁が、雨か風かによって削られた(くぼ)みのようだった。出口のすぐ脇は岩壁になっていて、見上げると空の半分を岩壁が(おお)っていた。残る半分は、一面灰色の雲と、立ちこめる白い(もや)で占められていた。岩壁でない側、つまり外に開いた側は、せり出した大きな岩が邪魔になって、向こう側を(のぞ)き見ることが出来なかったが、もう一つの感覚が、その岩の向こうには何もないと教えてくれた。

分かったのは、ここがあの崖のどこかだろうということだけだった。大岩さえなければ、もっと良く分かるはずなのにと思ったが、その岩がなければ、烈風が穴の中まで吹き込んで来て、こうやって外を(うかが)うことさえ出来なかったことも、また確かだった。

絶え間なく吹き付けて来る冷たい風にさらされ、次第に体が冷えてくるのを我慢しながらも、その場に留まり続けて、なんとか外に出られる方法はないかと探った。
けれど、太陽が高くなり、穴の中に弱い陽光が差し込んで来るようになっても、強風は一向に収まらなかった。
太陽が西に傾き出した頃、雨が降りだした。雨は風に流されて岩肌を伝い、通路の中にも流れ込んで来た。冷たい風に加えて体が()れては、もう寒くて(たま)らない。だから(ほう)々の体で、風雨の入って来ない一番奥まで退散した。

続く何日かは雨だった。雨の降らない日は、穴の出入口近くまで出て、どうにかして外に出られないかと機会を(うかが)った。来る日も来る日もそうやって過ごしたが、何しろ風が強くて、開口部を遮る大岩に登るどころか、入り口から頭を出すことさえ出来ないまま、時間だけが過ぎて行った。

そのうちに雨に混じって、白い欠片が空から降ってくるようになった。
(雪だ……。)
穴の中に落ちて来た白い一片を手に取って、その冷たさに身を(すく)めた。
(雪はもっと温かいものだと思っていたけど……。それとも白くて小さくて温かいのは、別のものだっただろうか?)

雪は雨よりさらに厄介(やっかい)だった。風と一緒に穴の中に吹き込んで来ては、体の表面で水に変わって、熱を(うば)って行ったからだ。寒さの所為(せい)で、外を監視することが出来る時間は短くなり、その短い時間でさえも、雪が降り続くために何日も途切れた。

やがて、穴の入り口を雪が(ふさ)いで、外を見ることも出来なくなった。
だから時々、冷たくて、おまけにぐしょぐしょに濡れるのを我慢して、出口の雪を掘って外を見られるようにした。そうしたところで、厚い雲に覆われた灰色の空が見えているのは一時のことだった。すぐに新たに積もった雪で、せっかく掘った穴も埋もれてしまうからだ。
それでも、少しでも早く、ここから出られる機会を見つけたかった。それを逃してしまうのではないかと思うと、じっとしていられなくなるのだった。次第に、焦る気持ちだけが(つの)っていった。

ある日、穴を(おお)った雪を()き分けながら、早く早くと急ぐ、この気持ちは何の為だろうかと考えていた。安全で温かい場所に戻りたい、という気持ちは当然のことだ。それは身を守る為の本能のようなものだ。けれどそれなら、この小さな穴でも、最初に目覚めた卵の洞窟でも、安全で寒さをしのぐことが出来るはずだ。
(それなのに、早くと気持ちだけが急ぐのだ。早くしないと閉ざされてしまう、失ってしまうと、ずっと(ささや)いている……。)

突然、ドサッという音を立てて、掘り進んでいた雪が崩れ落ちて来て、考え事は中断された。顔といい体といい、全身をすっぽりと雪に覆われて、突き刺すような冷たさに感覚器が不平の声を上げていた。だが、不平を言いたいのはこちらの方だ。
(どうして、いつも邪魔ばかりされるのだろう。この雪も風も、ここに連れてきた何かも、どうして自由にさせてくれないのだろう。はやく……早く行かなくてはならないのに、どうして閉じ込めておくのだろう。早くしなくては、行ってしまう。失ってしまうのに!)

(いら)々とした気持ちに、雪の冷たさが追い打ちをかけた。
(雪なんて無くなってしまえばいい!)
その感情に身を(ゆだ)ねて、ありったけの力を解放した。やけくそになって、体を保つ為の気力(エネルギー)も全部注ぎ込み、全身の波動(ちから)を熱に変換して、体を覆う雪にぶつけた。
積もった雪が、じゅうじゅうと音を立てて水蒸気に変わって行くのを見ると、自然と笑い声が出た。周りに空間が出来て、体の動きが自由になっても、やめる気になんてなれなかった。

(全部なくしてやる。)
そう思って、更に波動(ほのお)を強め、辺りの雪を融かし続けた。頭上の雪が全て蒸気となって消え、鈍色の空が見えた、と思った時、ガクンと白い空間が大きく揺れて、足下の雪が崩れた。気がつけば、上下左右に(さえぎ)るものもない、真っ白な景色の中に身体が浮いていた。

時が止まったように感じたのは一瞬のことで、たちまち強い風にさらわれて、岩壁に叩き付けられた。勿論、結界を強める余裕などなかったから、衝撃は直接体に伝わって来た。そのあまりの痛さに、息をすることも出来ずに、風に押さえつけられたまま、岩壁をずるずると落下した。

しかし、そうやって落ちて行った先が、元の岩の(くぼ)みだったことは、幸運だったと言えるだろう。そのまま風の来ない穴の奥に転がり込んで、ようやくひと息つくことが出来たものの、激しい痛みで、しばらくの間は全く動くことが出来なかった。

その間にも雪は降り積もり、みるみるうちに穴の入り口を(おお)ってしまった。
暗闇に閉ざされた小さな穴の中では、突然の寒風と大量の水が入って来たことで、驚き慌てた小さな生物達が右往左往していた。もぞもぞと動き回る生物達に何だか落ち着かなかったが、追い払おうにも、動くことも、ましてや警戒線を張ることも出来なかった。

そのうちに小さな生物達は落ち着く場所と決めたらしく、温かさを求めて体の下に(もぐ)り込んで来た。集まった数は百余り、それらの波動でくすぐったいやら、ゾワゾワと総毛立つやら、追い払いたくても、これだけいると少しの動きで踏み(つぶ)してしまいそうで、身じろぎひとつ出来なかった。

やがて、集まった虫達は、体の直ぐ下の地面に半分体を埋めるようにして動かなくなった。動かなくなったのと同時に、その波動も急速に弱くなって行った。物質のようになった、とまでは言えなかったが、少なくとも生物としては変移に(とぼ)しく、物質と生物の境のような波動に変わってしまった。

(もしかして潰してしまったのかな……。)
ようやく痛みが引いて、少し動けるようになったところで、そっと浮き上がって体の下の生物達を眺めた。それらは全く動かなかった。試しに端にいた一匹を突っついてみたが、それは死んだように、(わず)かの動きも見せなかった。それでも、それらは微弱な波動を放っていたから、死んだ訳ではなさそうだった。

(どうなってしまったのだろう。)
こういう時に良い方法があったはずだけれど、と考えたが、考えてみたところで(つな)がってくれないのが記憶と言うものだった。
しばらく思い出そうと努力したが、やはりそれ以上は何も出てきそうになかったので、小さな虫達を避けて、(かたわ)らの地面に身を丸めた。とは言っても、何しろ穴の中は水浸しで、乾いた場所は僅かに残るだけ。集まった虫達を避けようにも隙間はほとんどなくて、少し身動きしても虫達に触れてしまいそうだった。

だから、せめて頭を虫達の方へ向けて休むことにした。そうやって虫達を視野に入れておけば、うかうかと踏んでしまうこともないだろうと思ったからだ。
(一体この虫達は何を考えているのだろう? こんな小さな穴の中に閉じ込められて、嫌にならないのかな。外に出たいと思うことはないのだろうか?)

雪に閉ざされた穴の中では特に何もすることがないので、そんなことを考えながら虫達を眺めていた。弱々しいけれど、緩やかに明滅する虫達の波動を見ている間に、だんだんと眠くなって来た。そして半分眠った頭の片隅で、その波動が何かに似ているとぼんやり考えていた。それが、卵になる前の粒子に似ているのだと思いついた時には、するりと体の外側が(すべ)り落ちて、内側に吸収されて行くような感覚があった。


最初、何がどうなっているの分からなかった。ただ、無性に寒くて、どうしてこんな冷たい所にいるのだろうと思った。辺りの様子を探ると、それほど遠くない所に仲間達の発する信号(におい)を感じた。
(良かった。はぐれたわけではなかったのだ。)
安堵(あんど)して、急いでそちらへ近寄って行った。寒くて食餌の少ない期間を乗り切るために、仲間達は身を寄せて、体力を使わないようにして過ごす。この時期に仲間達から離れて動き回ることは、則ち暖かい季節を迎えられないことを意味した。それだけは避けなくてはならない事だった。

仲間達の間に潜り込んでようやく安心した。それから周りの仲間と同じように、体の機能を最低限必要なものだけに絞って、体を丸めた。そうすると体の中心部にだけ、暖かな波動が残った。勿論、それらの事をひとつひとつ考えながら行ったわけではない。それは寒さに対する反射的な行動に過ぎなかった。

小さな穴の中に光が差し込み、(ぬる)んだ風が入り込んで来るようになると、体の中心に凝縮していた温かさが、解けるように全身に広がって行き、硬くなっていた足の先が動くようになった。もぞもぞと仲間の間から()い出して体の動きを確認した。

周りでは先に這い出して来た仲間が、目の代わりもする頭の先の感覚器を触れ合わせて、盛んに話をしていた。仲間達は、春だ、と言っているようだった。それとも、晴だ、だろうか。それはひどくそわそわする感覚だった。他の言葉で言うなら、長くて冷たい期間を耐えて来たのは、この季節(とき)のためなのだ、と体中が叫んでいるみたいだった。

一部の仲間達は、いそいそと寒くなる前に溜め込んでいた食餌を、掘り出しに取りかかっていた。それとは別に、洞穴の出入り口の方へ向かう仲間達もいた。

その仲間にくっついて、穴から続く通路へ出ると、そこには枯れ葉や大きな虫の体の一部と思われるものが、風に吹き寄せられて堆積していた。仲間は、早速それらを穴の奥へと運び始めた。仲間に(なら)ってそれらを運びながら、こんなものをどうするのだろうと考えた。

どうするも何も、それらは大切な食餌だ。それはごく当たり前のことだったが、何となく、それに違和感があった。
(こんなものを食べたことがあっただろうか?)
その考えは即座に否定された。勿論だ、食べなくては生きて行くことが出来ない。
それは仲間が生き延びるためにも、次に寒くなる前に蓄えておかなくてはならない食料だった。それに、それがなければ生まれてくる子供達を養うことも出来ないではないか、と考えてから、子供なんてどこにもいないのにと、不思議に思った。

それを仲間に問えば、だから子供はこれからつくるのだ、と答えがあって、その為に長い寒さを耐えて来たのだろう、と他の仲間が更に付け加えた。
本当にそうだろうかと思った。そんな事の為に、ここで耐えていたのだろうか、と口にすると、それが最も大切な事だ、と答えが返ってきた。そうかもしれないと思う一方で、何かを忘れていると感じていた。けれど、それが何なのかを思い出すことが出来なかった。

(まただ。いつも邪魔ばかりされて、すんなりと(つな)がってくれない。)
そんなことを考えていたから、食餌を運ぶ足が止まっていたのだろう。後ろから仲間に突つかれて振り返った。ぼやぼやしていると相手にされなくなるぞ、とささやかれて、何のことか分からずに、仲間にそれを聞き返した。

働かないものは食えない、食えないものは相手に選ばれない、と仲間は言うと、さっさと来た道を次の食餌を運ぶために引き返して行った。言われた事の意味が分からなくて、他の仲間を(つか)まえて聞いてみた。
仲間は邪魔をするなと言いたげだったが、質問には答えてくれた。食えなければ大きくならないし、艶も悪くなるだろう、そんな奴を誰も相手には選んでくれない、と言うと、その仲間も食料を抱えて足早に穴の奥へ去って行った。

(相手に選ぶ……って、誰が誰を選ぶのだろう? そうやって誰かに選ばれる事に何の意味があるのだろう?)
疑問は一向に解決しなかった。解決はしなかったが、どうやらこちらは選ばれる立場にあるらしい、ということだけは次第に分かってきた。

(だけど、大きくなることが選ばれる条件なら、こんなものを食べる必要なんてないのに。)
大きくなるには、大気に含まれる精気(エネルギー)を取り込めば良いのだ。そうすれば少しずつだけど大きくなれる。今までそうやって大きくなって来たのだから、と考える一方で、それだけだっただろうか、と反論する声も頭の中に聞こえていた。何だか変な感じがした。体の内側に別の何かがいて、そいつが話しているみたいだった。

違和感を感じながらも、仲間と同じように、新たな食料を探し求めては、それを穴に運び込むという生活を続けていた。
程なく、大気が熱を帯びて感じられる季節がやって来て、仲間達は一層そわそわしだした。この頃は、あれほど必死になっていた食料を運ぶ作業もそっちのけで、羽を広げて大きさを競っている仲間を見ることが多くなった。

それまで一度も空腹を覚えたこともなかったし、それに何だか食欲の湧くようなものでもなかったから、運んだ食料を食べたことはなかったが、それでも仲間内で一番体が大きかった。その為か、こちらに挑んでくる仲間はいなかった。

ある夕暮れ、その日は蒸すような暑さの一日だった。
太陽が沈み、辺りが薄暗くなると、急に風が止んだ。するとそれを待っていたかのように、穴の奥にいた仲間達が、一斉に外を目指して動き出した。そして穴の出入口まで来ると、みんな一様に羽を広げて、次々と飛び立って行った。

仲間達の流れに引きずられるようにして出口まで来たものの、ここでうっかり顔を出すと大変な目に()う、と忠告する声が頭の中て聞こえたので、仲間達の邪魔にならないように、傍らの大岩の陰に身を寄せた。そしてそこから、盛んに飛び交う仲間達を見上げていた。

辺りは仲間達の立てる羽音で、すごい騒ぎになっていた。呆れたことに、飛びながらも、まだ大きさを競っている奴らもいた。やがて争いに決着がつくと、負けた方は飛び去って行き、勝った方は、近くで成り行きを見ていた仲間に、誇らしげに近づいて行った。そして一組になってしばらく飛び回っていたが、そのうちに他の仲間に紛れて見えなくなった。

(こういうの、何て言うのだっけ?……えっと、確か……。)
考えていると体の内側にいる何者かが、それは、つがう、と言うのだと教えてくれた。そうそう、そうだったと思ってから、何故そんな言葉を知っているのだろうかと考えた。それは仲間達の言葉とは、異なる言語だったからだ。それからようやく、今までずっと、その異なる言語で考えていたということに気が付いた。

仲間が明確に発する信号(ことば)は食料の場所、その遠さや量、道のり、そして敵、危険、仲間というような単語で、それは匂いによる会話だった。仲間達から聞き出したと思っていた会話は、彼らの記憶とか感覚を読み取って、それを翻訳していたに過ぎなかった。それも〈同調音話(シンクロフォーン)〉の使い方の一つだった。

そこまで考えて、次々と浮かんでくる変わった言葉に戸惑いを覚えた。体の内側にいておかしな事ばかり言うそいつは、いったい何者なのだろう?

ふと、近くに誰かが寄ってきた気配がしたので身構えた。見れば仲間が誘うようにこちらを見上げていた。誘うように、ではなく実際に誘っているのだ。現に近くを飛んでいた仲間達が、誘われてこちらに近寄って来た。けれど、誘いをかけた仲間は、それらを追い払うように羽を広げて見せた。それから、もう一度じっとこちらを見て、来て、と匂い(ことば)をかけてきた。追い払われた仲間達は、それでも(あきら)めきれないように、少し離れた辺りを飛び回っていた。

けれど、こちらは言われた言葉の意味も良く分からなかったし、近寄って来た他の仲間達が常にはないほど、激しく乱れた波動を出している理由も、思い当たらなかった。その匂い(ことば)を聞いても、仲間達のような気持ちにはならなかったのだ。
何だか良く分からないけれど、少なくとも選ぶ相手を間違っている、という声がしていた。

だから、その場を離れた。それで、相手の誘いに応じる気はないと示したつもりだったが、相手は何を思ったのか、そのまま後を追って来た。少し歩いた所で振り返ると、相手は止まりもせずにこちらに近づいて来る。だから、羽を広げて来るなと示したのだが、相手は、そんなことでは(あき)めてくれなかった。

仕方なく足を早めて、目の前の大きな岩を登って行った。あまり先まで行くと危険だ、と頭の片隅でささやく声があったが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。しつこくつきまとう相手から、何とかして離れたかった。右に左にと、岩の上を、ただ相手から遠ざかるためだけに歩き回った。

そうやって追いかけられて、とうとう大岩の頂上近くまでやって来た時には、辺りを飛び回っていた仲間達は、ほとんどいなくなっていた。一組(つがい)になった仲間達は、大半が穴の中に戻って行ったようだった。一部の仲間は再び吹き始めた風に乗って、どこかへ飛び去って行った。

残るはまだ相手を探せないものばかり、それらの仲間達は、どうやら今回は機会が巡って来ないようだった。何しろ風が強くなってきて、飛ぶことが困難になってきていたからだ。吹き飛ばされないように、辛うじて岩壁に(つか)まっている仲間も多く見られた。

仲間ばかりでなく、大岩の上にいるこちらもまた、風に飛ばされないようしがみついているのが精一杯の状況になっていた。追いかけて来ていた相手はこの風で諦めてくれたものか、振り返っても姿が見えなくなっていた。それを確かめて、ようやく一息つく事ができた。

そうは言っても、そこは少しでも力を(ゆる)めると、風にさらわれてしまいそうな場所だったから、まだ休む訳には行かなかった。大岩の上から辺りを眺めて、元の穴まで戻るのは大変そうだと()め息をついた。それと同時に、何かが背中を()い上るような嫌な感触がして、体を思いきり震わせた。

すると、開いた羽に何か固いものが当たった感触があって、それからぽたりと、少し離れた所に何かが落ちた音がした。振り返って見ると、先程まで追いかけて来ていた相手が、大岩の(くぼ)みでひっくり返って、足をばたばたさせていた。
程なく、相手は羽を使って起き上がると、こちらも見ずにさっと飛び立ち、そのまま強い風に吹き上げられて、すぐにその姿は見えなくなった。
いつの間に、あんなに近くに来ていたのだろうかと頭を振って、今度は安堵(あんど)の溜め息をついた。

次の問題は、風に飛ばされずに無事に穴まで戻ることだと考えて、どこかに風を避けられる場所はないかと辺りを見渡した。
その時、視界の隅に朱色の光が見えた。
小さな光はこちらに一つ、あちらに二つと暗闇の底に点在して(またた)いていた。

その光をもっとよく見ようと思って、体を起こして頭を上げた。途端に、強い風に(あお)られて岩の上を転がった。何とか岩の突起を(つか)もうと足を伸ばしてみたが、風の勢いが強くて、(わず)かに届いた足の先だけでは、体を支えることが出来なかった。

そのまま転がされて、あっという間に、体が宙に浮いて足下の岩が遠くなった。背後が岩壁になっていた事を思い出し、とっさに頭と足を硬い甲殻の内側に縮めて、防御の姿勢を取った……つもりだったのだが、実際には、身体は全く別の反応を示した。

背中を丸めたのは、来る衝撃から身体を(かば)う為ではなく、外側の(から)を開いて内側から何かが出て行く為だった。弾けるように体の中から光が広がって全身を包んだ、と思うのと同時に、ぐんと身体が大きく(ふく)れあがった気がした。
そうして手を伸ばし、長いかぎ爪をしっかりと岩に立てて、飛ばされる体を引き止めた。それから風当たりの弱い岩の陰まで、ゆっくりと後退した。

『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈1〉 ~フラットアース物語②

『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈1〉 ~フラットアース物語②

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-29

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