ひみつの関係
きれいな海が、どうか、いつまでも、きれいでいて、という祈りは、途方もなく、ぼくが、呼吸をしているあいだは、きれいでいても、そのあとのことはわからないから、さびしいな、と思う。
図書館で借りた、天地創造のことが書かれた本、であるが、さいしょの何ページかに目を通しただけで、返却してしまった。先生が、おもしろいよ、と絶賛していたそれであるけれど、まず、おもしろいとか、おもしろくないとか以前の、読解力、漢字力の問題であり、先生には、ごめんなさい、と謝った。それは、先生が、おもしろい、と思ったものを、共有できなかったこと、図書館で借りた本を、読まずに返してしまったこと、そもそも読めなかったこと、そのあいだに誰か借りたいひとがいたかもしれない、と少し思い悩んでしまったこと。先生は、
「そんなこと気にしない。気にしすぎない。きみは、やさしすぎるんだ」
と言って、ぼくのあたまを、なでる。先生は、ときどき、ぼくのあたまを、ちいさな子どもにやるように、なでる、のだが、これが結構、フクザツである。子ども扱いされることにふてくされる自分と、甘やかされて喜んでいる自分が、いて、ふたりのぼくが、ぼくのなかで、ほんとうのぼくになろうと、あらそっている。ひとりになろうとしている、先生に愛されるぼくは、ひとりで十分だというように、ぼくのなかの、あらゆるぼくが、あらそい、きそっている。胸の奥が、ずきずきして、どきどきして、がんがんするから、なんとなく、わかるのだった。
海が好きな先生と、いっしょにみる海は、格別にきれいだ。
先生が買ってくれた、自動販売機のサイダーも、世界でいちばん美味しいサイダーに思える。このあと、ホテルで、ぼくは先生の、儀式、とやらを見守ることになっている。
「あたらしいぼくに、なるんだよ」
先生は、そう言いながら微笑むばかりだったが、かんたんにいえば羽化をするのだと、おしえてくれた。
羽化。
つまり、いまの先生が脱皮して、あたらしい先生に変態すると、イメージしていればいいのか。
ぼくは妙に納得しながら、儀式、とやらをひそかに楽しみにしている。
先生と、ホテル、という場所に、はいることにも。
ひみつの関係