犬の糞

 職場と自宅を繋ぐ家路の道中、電柱のそばに何かが落ちていた。
 近寄って確かめてみると、それは犬の糞だった。
 それだけでは気にも留めなかった。犬の糞が路上に転がっていることなど日常風景である。マナーが悪い飼い主の存在には辟易するが、そんな感情は一瞬で消え失せる。今私に必要なのは仕事の疲れを癒す休養なのであって、犬の糞の存在に憤慨することではなかった。
 どうせ明日には片付けられているだろう――そう思いつつ、電柱を通り過ぎた。
 翌日、犬の糞はまだ電柱のそばに転がっていた。
 ここらへんの清掃員は怠け者なのかとのんきに思いながら、そのまま気にせず出勤した。
 さらにその帰りの晩、さすがに片付けられているものだろうと電柱の方を見遣ってみれば、未だにその犬の糞はそのそばに横たわっていた。
 犬の糞は、その翌日も、そのさらに翌日にもあった。電柱のそばの変わらない位置に、鎮座し続けた。誰も掃除しようとする気配はなかった。それどころか、その犬の糞の存在に気づいているのはまるで私だけかのように、道行く人々はそれに目もくれずに歩き去った。
 私はだんだんとその犬の糞が気になるようになった。正確には、いつまでもあり続けるその犬の糞に対して、言葉にもし難い妙なじれったさと苛立ちを感じるようになったのだ。
 犬の糞は、毎朝と毎晩、出勤と退勤のとき、電柱のそばでいつも私を待ち構えていた。我が物顔でそこに居座っている。私は目を逸らしてみるけれど、目を逸らせば逸らすほど、その存在を意識してしまう。あの黒交じりの茶色く硬い楕円形の物体を、排泄物特有の悪臭を放つ負の物質を、私はどうしようもなく自分の脳内から引き剥がすことができなかった。
 日に日に、その感覚は強くなっていった。
 あの電柱のところを通らないように、遠回りのルートに帰り道を変えてみたこともあった。しかし、何かの引力に引き寄せられるように、私はあの電柱を――あの犬の糞の前を通る道に足を向けてしまっていた。嫌だ嫌だと拒絶の感情が強くなっていくほど、私は抗いようがないほど犬の糞に引っ張られていってしまうのだった。
 どうにかあの犬の糞を始末できないかと、市の役所に相談してみたこともあった。町役場に言ってくれというのが役所の返答だった。だから今度は町役場に連絡を入れた。が、「あそこに犬の糞なんて落ちていない」というのが町役場の言い分だった。「いや、さすがにそれはおかしい」と私は反論した。「確かにあそこの電柱のそばには犬の糞が落ちている」と主張したが、電話の担当者は始終懐疑的で、要領を得なかった。いい加減に腹が立った私は、「じゃあおたくのところの誰かを寄越してください。私と一緒に電柱のところに行きましょう。そうしたらわかるはずです」と提案した。担当者は渋々といった感じで応じた。
 翌日、町役場の担当者と落ち合って、電柱まで犬の糞を確かめに行った。果たして、犬の糞はやはりそこにあった。不愉快な憎たらしい姿を恥ずかしげもなく晒していた。
「これです、これ」と私はさっそく担当者の方を見ながら、犬の糞を指差した。
 担当者はかけている眼鏡の位置を上げ、じっと目を凝らして犬の糞を見た。
「ね? ね? 犬の糞があるでしょう?」
「ふーん、確かにありますね」
「私は嘘をついていなかったでしょう。早く片付けてください」
「なぜですか?」
「は?」
「なぜ片付けるんですか?」
 担当者は心底疑問だという顔で首を傾げた。
「いや、犬の糞は片付けるものでしょう」
「だからそれはなぜですか? なぜ犬の糞は片付けるものなんですか?」
「そりゃ――見栄えが悪いとか、衛生的に良くないとか――」
「それだけですか?」
「え?」
「それだけなら別に片付けなくてもよくないですか?」
「いや、片付けるべきでしょう。誰かが踏んだらどうするんですか」
「それはその踏んだ人がその靴を洗えば済む話では?」
「そういうことではないですよ。だいたい犬の糞を片付けるのは他人を不快にさせないための最低限のマナーでしょうが」
「そのマナーを破ったのは私ではないのですが」
「わかってますよ、そんなことは。それとこれとは話が別でしょう。市民が不快な思いをしてるんですから、何かしらの対応くらいはしてくださいよ」
「それはクレーマー宣言と受け取ってよろしいでしょうか?」
「だから! 何でそうなるんですか!」
 私はつい感情が高ぶって声を荒げてしまった。担当者は打って変わって冷めた目をしていた。
「この程度で騒ぐのは私には理解しかねます」
「じゃあ想像してみてくださいよ。仕事に行くとき、仕事から帰ってくるとき、いつも道中の電柱のそばにあの犬の糞が落ちているんですよ。気が滅入りませんか?」
「まったくそうは思いませんが」
「ああもう、頭が固いな! とにかくですね、私が不快だと思うから片付けてくださいって頼んでるんですよ! それともなんですか? お金が必要ですか? だったら払いますよ。いくらですか? さすがに五桁はいかないでしょうが――」
 やけくそでまくし立てる私を、担当者は呆れ顔でそっと遮った。
「話になりません。あなたの言い分は支離滅裂だし、この犬の糞を片付ける正当な理由も見つかりません。私どもはこの犬の糞に関して一切関与しません。お引き取りください」
 担当者は一方的に頭を下げると、私を置いて歩き去っていった。
「支離滅裂なのはそっちだろ!」と去っていく背中に怒鳴りつけたものの、聞こえなかったのか、それとも意図的に無視されたのか、担当者は一瞬も振り返ることはなかった。
 それから町役場はおろか、役所まで私の話をまともに取り合ってくれなくなった。私がどれだけ必死に訴えても、軽い相槌を打たれるだけで終わった。
 いよいよ辛抱ができなくなった私は、仕方なく自分で行動を起こすことにした。いや、最初からそうしておくべきだったのだが、誰かがやってくれるかもしれないという日和見思想にかまけて怠けていたのだ。やはり他力本願は良くない。私は軍手を嵌め、指定のゴミ袋と数枚の古新聞、トングを携えて犬の糞を片付けるためにあの電柱へ出陣した。
 電柱のそばには、相も変わらず犬の糞。私はトングで慎重にその犬の糞を摘まみ上げる。犬の糞はその楕円形の形を保ったまま持ち上げられる。至って普通の犬の糞だ。どこに転がっていても普段なら気にも留めない、何の変哲もない汚らしい排泄物。私はそれを古新聞で包んで、ゴミ袋の中に放り込み、固くその口を結んだ。その日はちょうど燃えるゴミの日だったから、すぐにそれをゴミ捨て場に捨て、振り切るように帰宅した。
 軍手を脱ぎ、その軍手もゴミ箱に投げ捨て、手を念入りに洗った頃には、すっと肩の荷が下りたような開放感が全身に広がっていった。これでやっとあの忌々しい犬の糞がない平穏な日常が帰ってきたのだと、私は心底から胸を撫で下ろした。
 だが翌日、私の淡い希望は打ち砕かれた。
 あの電柱のそばに、犬の糞が転がっていた。
 その日から私は毎日のように犬の糞を片付けているのだけれど、犬の糞はいくら片付けようとも翌日は同じ場所に出現している。理由はわからない。原理もわからない。ただそこに犬の糞があって、それを片付けようとするは自分だけという事実があるだけだった。
だから私は今日も犬の糞を掃除する。道行く連中に素通りされながら、ただただそこに存在しているだけの犬の糞と、私は延々と格闘し続ける。
 通りすがりの野良猫が、そんな私を嘲笑するように鳴いた。

犬の糞

犬の糞

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-06-30

Copyrighted
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