ジュラ紀。廊下にて。

 数学が嫌いだから「先生。便所に行きます」と言い放って僕は赤ペンを持ち教室を出た。便所に向かって歩いていると目の前に恐竜がいた。理科室に近い廊下のど真ん中に緑色の恐竜が口を開き、どす黒い牙を見せつけ僕を威嚇した。グランドに時たま迷い犬が訪問する事はあるが、まさか恐竜が校舎の中に迷い込むとは。初めての体験の為、僕はすぐさまに二階に駆け下りた。あの大きさだ。恐竜はきっと階段の幅で通れるわけがない。僕は笑い、踊り場を曲がって二階に到着するが、今度は毛むくじゃらの象が鼻をしならせて窓ガラスを割っていた。僕は瞼をごしごしと掻くがその生き物は確かに存在していた。それに加えて毛むくじゃらの象の後ろに便所の看板があった。とても邪魔に思った。だが、そいつの前を通って行くなんて真っ平ごめんだ。僕は反対側の廊下を走って渡り廊下のドアを開けた。突然、ドバドバと海水が流れ込んでくる。それと共に触覚らしきものが僕の腕を締め付けた。ドアのガラス先からは巨大な目玉が僕をとらえた。僕は悲鳴を上げて胸ポケットに入れていた赤ペンをで触覚に突き刺した。触覚はブルリと震えて力を緩める。僕はその一瞬のうちに腕を引っ込めてドアを押し返した。僕は恐ろしくなって自分が居た教室に目指して走る。息をはあはあと吐いて、息を切らすも無事に三階に到着した。湿度が高く。暑かった。恐竜はいない。けど、廊下にはグローブほどある虫が這いつくばり、廊下の中天を始祖鳥が飛び、コケや樹がゆっくりと成長していた。僕はそれらに構わず、教室へと向かいドアを開いた。今まで見た出来事を説明しようとして僕は声を張り上げる。すると中にいた生徒たちがいっせいに僕を見た。学ランとセーラー服の頭の持ち主たちは皆、同じで、白い肌に黄色い目だった。先生はいない。ただ。先生のブルーチーズ色のワンピースだけが黒板の下に抜け殻のように落ちていた。冷たい汗が背中を伝っていく。僕は勢いよくドアを閉めた。それで屋上へと向かった。
 満月が一つのロケットを眺めていた。空が近い。パソコンの電源が切れたみたいな夜だった。何時夜中になった? だがそんな疑問を捨て僕は歩いた。太陽は死んでいた。空気は濃ゆかった。屋上の辺りを見渡す。大気が動いているのが分かった。鼓動も聞こえた。そうしてロケットへと近づいた。小学生が描いたラクガキに似たロケットで簡易便所よりも二回り大きかった。入り口の前には梯子が設置されていてる。ぼんやりとロケットの剥がれた塗装を見ていると背後からドアが吹き飛ぶ音がした。振り向くと恐竜がいた。口を開き鋭い爪を僕に見せている。僕を襲う気だろうか? 見た様子だと何故か怒っている。すると、ロケットの扉がキィーと音を鳴らして開き、少年の声が僕に質問した。
「ねぇ? ロケットに乗りたいの?」
「わからない」
 僕は答えた。
「でも、乗らないとあの恐竜に食べられちゃうよ」
「どうして?」
 僕は聞いた。
「だって、ストーリーはそういうものでしょ? 彼らは食べる為に現れる。だから登場するんだ。見て御覧なさい。彼が恋のキューピット。ラブストーリーが主な内容に合わないだろう?」
「僕は便所に行こうと思ったんだ。決して数学が嫌いだからなんて理由じゃない。嘘。ホントは嫌いだ。特に3と言う数字が嫌いだ。だからといって、こんなめに合う必要があるか。ああ。ない。授業中に便所に行く事はそれほどまでに悪質なのかい」
 僕の質問に対して声の主は冷たなった。
「悪いけど、ボクは君と話している時間はもうないんだ。乗るか、乗らないか。さあどうする?」
 だが僕は少年の問いが聞こえなかった『ふり』をした。それで僕は数秒考えた後に「いま、思い出したんだけど。あの恐竜の名前ってティラノサウルス?」と質問した。
「違う、ギガノトサウルスだ。見てわからないのか」
 少年は高圧的な態度だった。まるでこの世界の始まりから終わりを理解しており僕の骨が漆喰ほどに脆く安っぽい奴だと確信している。ああそうだね。少年は僕をバカにしているんだ。だが僕は彼に反論した。そしてそれは間違いなく、僕の方が正しい真実だった。
「あれは死だ」
赤ペンのインクはもうない。月は赤かった。
「あっそ」
 ロケットのエンジンがキュリキュリ、キュルキュルと動き始めた。
「僕はまだ、行けない。いや、多分、キミじゃないんだ。僕を助け、救ってくれる奴は」
「何時来るか分からない救出を待つのかい? とんでもないバカだな君は」
「確信しているんだ」
 僕は言った。それから深く息を吐いた。
「じゃあね」
「ちっ」
 少年の声は舌打ちをした。マッチを擦った音にも聞こえた。
 扉は閉まった。続いてガチャガチャと鍵が閉まる音がした。プシューと底からガスが抜ける。
細かい煙を掻き分けてギガノトサウルスは僕に飛びついた。僕は後ずさりをするがそんなものが一体何になるというのか? 彼の一歩は軽かった。僕の細い首に尖がった牙で噛みつく。皮、肉、神経、氷が溶けるようにゆっくりと徐々に沈んでいく。一撃で噛み砕かないのは意外だった。ロケットはアルファベット的に発音が良い口調でカウントダウンを行った。後悔はあるか? オーケー。それに対してはナイと言いたい。全てをやり終えたか。イエス? ノー? 僕が決める事じゃない。でもベストは尽くした。カウントダウンの数字は僕が嫌いなスリー(3)となった。僕は別にこの世界に期待とか可能性とかを見出し、勝利をしたいなんて思った事はない。何故なら、そもそも最初から空っぽで残酷で偽善しかないからだ。小指の神経から少しずつ意識が消えていく。僕の鼻孔は排気ガスの匂いも反応しなくなる。空が開けて割れればいいのにと思う。でもそんなものはない。
 でも僕には知らない希望があった。廊下から始まっていた。それが到着するまでなら助かるのか?違う。もしも到着しなくてもそれは僕をこのティラノサウルスもどきから救い出してくれるだろう。
 ロケットは四つの羽根が生えて回転して飛んでいた。やっぱりあれは偽物なんだと僕は思った。

 或る噂の女の子が廊下の隅っこに立っていた。もう授業が始まっている。女の子は廊下に設置されている窓を開けて中庭を眺めていた。その様子がふと気になった僕は女の子に近づいて聞いた。
「もう授業が始まってる」
「そう」
 彼女は僕の方を向かないで答える。夏の匂いがする風が吹いた。カタカタと音が鳴る。
「なら教室に戻らないと」
「嫌よ」
 彼女はまた僕の方を見ないで答えた。風は窓を通り、カタカタと音が鳴る。
「単位がなくなる」
「うるさいわね。別に単位くらいなくなっても構わないわ。貴方、何? 私に文句でも言いに来たの?」
「違う。廊下は危ないんだ」
「危ない?」
「ああ」
「ふうん。例えば、どんなふうに危ないのよ?」
「恐竜が出るんだ」
「恐竜?」
「そう、恐竜だ。名前はギガノトサウルス。とても凶暴で怖い奴だ。僕はね、そうだ。冗談に聞こえるかもしれないけど、一度、その恐竜に食べられたんだ。もの凄く痛かった。オスピンが足の裏に刺さるよりもね」
「貴方、バカ?」
「確かに僕は数学が嫌いで勉強が全くできないバカだ」
「そういう意味じゃないバカって意味よ? 所謂、頭がイってる奴って事よ」
 彼女はずっと中庭を見ながら答えていた。その間もカタカタと音が鳴っていた。
「君がどう思ってもいいんだ。でも僕は忠告した。それじゃあ、気を付けてね」
 僕がそう言って便所に行こうとすると彼女は言葉を返した。
「貴方も私をからかうの?」
「からかう? どうして?」
「だから話しかけたんでしょ?」
 彼女は言い終えてから僕の方を見た。彼女の右目は風車だった。青い風車。左目はごくごく一般的な瞳だった。窓から涼しい風が吹く。カラカラと音を鳴らして瞳の風車は回った。
「お洒落なコンタクトレンズをしている」
「コンタクトレンズじゃないわ。私の目よ」
「生まれつき?」
 僕は聞いた。
「生まれつき」
 彼女は答えた。
「この右目の所為で色々と面倒な目に合ってね私。コンプレックスなの。今日も、この右目についての文句を同じクラスメイトから散々言われて嫌な気持ちになっているの。チョコレートを口の中に入れたらアリンコも一緒に食べちゃったくらいによ。凄くハードでしょ」
 彼女は自分の右目を指さして言った。風車はカラカラと回る。
 僕はその瞳をジーと見つめた後、彼女に物凄く近づいた。名刺の厚み程だ。仕方ない。風車を見ようとしただけだ。卑猥な気持ちはこれっぽっちもない。
「ちょ、ちょっと……」
 彼女の言葉を無視して僕はゆっくりと回転する風車の羽を見た。青く光っていた。風車は大きかった。偉大に、ほどよく、心地よく羽を回転させていた。羽には映像があって、四つの羽にそれぞれの『時代』が生きていた。僕はその光景に驚いた。彼女の瞳は風車だという事は噂で聞いていた。もちろん。事実だと思っていた。風車の影響で彼女はからかわれているとも知っていた。しかしその事柄に僕はちっとも関心を示さなかった。確かに珍しいとも思う。でもそれは彼女の本質に対しては本心を付いていない事であって、もしも、僕たちの両目が風車で生まれてきたなら、それがごくごく普通の事で、両目が黒い瞳ならそっちのほうが珍しく思えて、つまり何が言いたいかと言うと、僕にとって風車は凄くカッコよくて羨ましいと感じたのだ。
「離れてよ」
 彼女はそう言ってから僕の胸を押して離れた。
「気持ち悪いでしょ」
「いや、凄くカッコいい」
「嘘」
「本当だ。君は自分の瞳を鏡で見た事はないの?」
「右目を閉じてね」
「もったいない」
 僕は答えてから「君の風車の中に四つの時代があるのを見たんだ。それも僕が探している奴もいた。白亜紀、ジュラ紀、三畳記、ベルム記、もっかい言うけど、君の瞳は物凄くカッコいいよ」と伝えた。
 彼女は少し顔を赤らめてから「貴方、やっぱり頭がイってる。もしかして私の右目の中に恐竜が住んでいるとでもいうわけかしら」と言った。
「そうだとしたら?」
「ほんの少しだけ、この目が好きになりそう」
 僕はゼロ接近で彼女に近づき、右目に唇を付けて息を流し込んだ。風車は静かに回転した。僕と彼女が立っている廊下の景色がピリピリと振動した。それから僕は強く、強く、徐々に強く息を流し込んで風車を回転させた。瞳の中に入る風車は勢いよく回った。まるで回る為に存在していた事を叫んでいるようだった。回転は二人が立っている廊下の景色を変えた。生い茂る草木。花。火山。海。濁流。空。砂漠。白亜紀、ジュラ紀、三畳記、ベルム記が風車と同期して時代を回転させていた。彼女は両手をおもいっきり広げていた。僕は彼女から離れてその移り変わる廊下を見ていた。四つの時代はゆっくりと、ルーレットの回転と共に止まっていく。そうしていると移り変わっている景色の中に一つの大きな影が近づいて来る。この影だけは時代の流れに影響を受けていなかった。
 生い茂る葉と硫黄の匂いと燃える火山の熱さ。落ちて来る星々が年若い地球の息吹を感じさせる。真夜中だった。でも小さな銀河が束になっている所為かほんのりと明るかった。
其処に恐竜がいた。でも炭火のように真っ黒だった。彼は腕をグウウと伸ばすが、彼女の右目のルーレットは完全に静止した。僕たちが見ている景色は日常的な廊下に戻る。しかし換気扇から煙が残るように彼もまた、肉体の一部が残る。薄い膜のような不完全な恐竜だった。彼女は右目を押さえていた。ポタリと涙が落ちた。カラカラと涼しげな音は聞こえなかった。
「化石のほうがもっと、らしい、わよ」
「それは見た目がって事か?」
「そうよ」
「君、右目が痛いのか?」
「誰の所為かしらね」
 僕は彼女に詫びるようにして言う。
「僕は或る日、恐竜に出会い、恐竜に食われた。それから赤ペンを無くしたことに気づいたんだ。もしかしたら学校の何処かで落としたのかもしれないし、恐竜の腹の中にあるのかもしれない。いや、インチキロケットの中にあるのかもしれない。でも探してもきっと見つからない。だから、僕は……」
「もう探さないの?」
「うん。嫌になったんだ。それでもう一度、恐竜に食べられてしまえば解決するんだ」
「すべてが」

 廊下の壁に恐竜のイラスト描いていた。赤いペンで。携帯が鳴って「もう下校しようよ」って彼女からの誘いがあった。夕陽に照らされた恐竜の絵はむしゃむしゃしてた。

ジュラ紀。廊下にて。

ジュラ紀。廊下にて。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-06-24

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