20160704-役者くずれ(再掲示)

あでゅー 星空文庫

(一)

「ねえ、待った?」

 サラリーマン佐藤冬馬は、突然腕をからまれた。札幌地下街のオーロラタウンを斜めに横切る時、突然見知らぬ女子高生に捕まったのだ。彼女は、セーラー服を身にまとい、長い黒髪をバレッタで整え、額をスッキリ出して、どう見ても頭のよさそうな、どこかのお嬢様の様相だった。
 普通の男は、これで頭が真っ白になり彼女の言いなりだろう。だが、佐藤は疑った。彼女が美人局(つつもたせ)ではないかと。
「初めまして、お嬢様」
 佐藤は執事のように礼をしてそう言うと、作り笑いをする。
「あ、あら、そう見える?」
 彼女は、佐藤の態度に明らかに動揺していた。
「これから、どこに行きましょうか?」
「じ、じゃ、ホテル行きましょう」
「お嬢様。悪ふざけが過ぎます」
「ちょっと、なに言ってるの? 女の子がこっちから誘っているのに!」
「そんなこと言って。ほら、あの喫茶店に入りましょう。さあさあ」
「あれれれ」
 彼女は、からめた腕に引きずられるように、喫茶店の中へ吸い込まれていった。
 ピンポン、ピンポン、と入り口のセンサーが反応する。
 ふたりの入った喫茶店は、コーヒーやエスプレッソはもちろん、アイスを乗せたワッフルなどが売りの、ちょっと高めで落ち着いた感じのお店。
「いらっしゃいませー」
 ウエイトレスは、思いのほか冷たい声でそう言った。
「あ、どうも」
 彼女は、口ではなんとか取りつくろいつつも、心の中で(ちぇ、参ったなー……)と困っていた。
「お客様は、おふたりでよろしいでしょうか?」
「はい」
 佐藤は、思い切り作り笑いをして言った。
「こちらへ、どうぞ」
「どうも、ありがとう」
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
 そう言って、ウエイトレスは冷たい足音を残して行ってしまった。
 佐藤はそんなことは気にせず、水をゴクゴク飲んで、とりあえず喉の渇きを癒した。
 九月の終わりとは言え、ここ札幌ではまだまだクーラーが恋しい暑さ。佐藤は、ネクタイを緩めながら、この美人局をどう料理してやろうかと、思案していた。すると、佐藤の口の端が不敵に歪んだ。
「とりあえず、なに頼む?」
「アイスココア」
「……ぷっ」
(思い切りお子様だし)
 佐藤は、吹き出しそうになってしまった。そのせいで、先ほど思いついた名案はどこかへ行ってしまった。
 それを見て、彼女はあからさまに嫌な顔をした。
「ちっ」
「あははは」
「いいでしょう? なに頼んだって!」
「全く、君はそんなにお子様なのに、美人局なんて……あっ」
 佐藤は、彼女が美人局だと思っていることを思いっきりバラしてしまった。ふたりの間に、しばしの沈黙が……。
「そんなんじゃない。シャワー浴びている間に、お金頂こうと思って……」
「ふーーん。まあ、いいや。それで、君の名前は? あっ、本当の名前、言う分けないか」
「当たり前でしょ? 誰が言うもんですか。ふん」
 その時、ウエイトレスが佐藤たちの側を通り掛けた。
「ああ、お姉さん」
「はい。お決まりですか?」
「アイスココアとアイスコーヒーね」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 そう言ってウエイトレスは、頭を下げて厨房に注文を伝えにいった。
 ウエイトレスの目線が少々キツイが、それは女子高生と三十前後のサラリーマンがお互いの名前も言えず会話していることに、原因があるに違いなかった。
 見ると、サラリーマンは考え込んで煙草に火をつけようとするが、数年前に禁煙になったのを思い出したのか、あわてて煙草を箱にしまった。
「お待たせしました」
「どうも。チューチューチューチュー。プハー」
「君、凄く喉渇いてたね」
「煩い! 緊張して喉渇いてたんじゃない!」
「なに? もしかして初犯なの? へー」
「……」
「俺が言うのもなんだけど、余り無茶はするなよ。いつか、怪我すると思うから」
「……お金がいるの……」
「どうして?」
「……わたし、いじめられちゃってて……」
「へー、そうなの? いじめっ子タイプに見えるけど」
 彼女は、きっ、と佐藤をにらんだ。
(ほら、この性格でいじめられるって)
 佐藤には、にわかには信じられなかった。よく見ると、彼女はどうも本当にいじめられているようで、あちこちに痣がある。佐藤は、昔やっていた少林寺拳法の厳しい稽古を思い出し、思わず身震いする。
「分かった。君の言うことを信じる」
「ありがと……」
「明日、さっきの広場に来て。いじめっ子も連れて来てね」
「……どうするの? 口で言ったって分からないんだから。余計、いじめられちゃうよ」
「大丈夫。俺に任せなさい」
「本当に、大丈夫?」
「信用ないなー。本当に俺、こう言うの慣れているから」
「……分かった、信用する。お願いね」
「ところで、君の名前は?」
「なんで?」
「いや、芝居打つのに必要でしょ」
「芝居? ……そうよね、だったらわたしの名前を知らなきゃ変だよね」
「そう言うこと」
「わたしの名前は、伊藤遙十七才」
「俺は、佐藤冬馬二十九才。よろしく、遥」
 そう言って、佐藤は手を差し出した。おずおずと、それに応ずる遥だった。
 遥は、思った。本当にこんな人に頼っちゃっていいのかと、少し悩んだ。しかし、今以上に事態は悪くはならないと思う。あとは、運を天に任せる覚悟で彼に頼ることにした。


(二)

 翌日、いじめっ子と共に伊藤遥は来た。北海道札幌市の地下街、オーロラタウン。札幌駅から札幌大通りを南下し、大通公園より地下に潜り、そこから東におよそ三百メートルの間に地下街オーロラタウンはある。その地下街は照明が明るくとても地下街には見えなくて、多くの店がこぞって出店している。衣料店、靴屋、眼鏡屋、飲食店、本屋、ファストフード、コンビニ、あらゆる店がある。だが、電気店はない……。
 そのオーロラタウンの二個目の広場に、佐藤冬馬はいた。黒いスーツに身を包み、オールバックに、サングラス……。どうみても、堅気は見えない。遥は笑いだしそうなのを堪えて、ザ・ヤクザ佐藤の肩に抱きついた。
「冬馬おじさん、待ったー?」
「おう、遥。ほんの一時間待っただけや」
「ごめんね、遅くなって」
「いや、大したことないけん。で、相談てなんね?」
 佐藤は、ザ・ヤクザの格好でいじめっ子たちを……、にらんだ。
 これで、勝敗は決した。戦意をなくしたいじめっ子たちは、すごすごと退散した。遥はにっと微笑み、佐藤とハイタッチする。
「さあて、これからどうする?」
「じゃ、喫茶店に入ろう。わたし、喉渇いちゃった」
「OK」
 佐藤と遥は連れ立って、この前入った喫茶店に入っていった。この前、接客をしてくれたウエイトレスが、ザ・ヤクザの佐藤を見ると固まってしまった。
「い、い、いらっしゃいませ……」
「姉ちゃん、ふたりね」
「こ、こ、こちらへ、どうぞ」
 この前冷たかったウエイトレスは、この前とは違う意味で冷たくなっていた。
「ご、ご、ご注文よろしいでしょうか?」
「わしゃ、スコッチ。ダブルで」
「くくくく。えーとね、わたしはアイスココアといちごのクリームワッフルね」
「か、か、かしこまりました……」
 ウエイトレスが油の切れたゼンマイ人形のような動きで、歩いて行った。ところで、この喫茶店にはスコッチは置いてないはずだが……。
「あー、おかしい。もう演技はいいわよ。ありがとうね、おじさん」
「あれ? もういい? せっかくこの格好になったんだから、少しは雰囲気を楽しまなきゃ」
「ねえ、おじさん」
「ん、なんね?」
「おじさんて、なに者?」
「おお、よく聞いてくれた。わしゃ、役者くずれでのー。芸名は佐藤浩二。どうぞ、御ひいきに」
「……佐藤浩市じゃなくて浩二って……。まあ、似てないこともないけど」
「でしょー? 顔だけは自信あるんだ」
 そう言うと、佐藤冬馬は胸を張った。
「……」
 伊藤遥は、この男、ちょっとお調子者とは、長い付き合いをしたいと思った。だが、男女の付き合いはできないと感じた。それは、ふたりがセックスする場面を想像すると、ちょっと寒気がするからだ。
「お、お、お待たせいたしました……」
「おう、無理言って悪かったのー、姉ちゃん」
「い、い、いいえ……」
「くっくっくっく」
 遥は、口を押えても、笑いを抑えられない。それをウエイトレスが見て、不思議な顔をする。その時、佐藤がサングラスを外して、舌を出して見せた。
「あ!……」
 どうやら、ウエイトレスにも正体がバレたようだ。彼女は、口を押えて行ってしまった。肩が小刻みに揺れているのが分かる。それを佐藤は見て満足そうに、なみなみと注がれたスコッチに口をつけた。
「で、わたしたちの関係って?」
「さあー」
「お願い。友達になって」
 遥は両手を合わせて右目をつむり、佐藤を拝んだ。
「おう、分かった。これからもよろしく。遥」
 これで、これからの学園生活の安全は保障される。遥の気持ちは春の空のように晴れ渡っていた。そして、いちごクリームワッフルを美味しく頂いた。もちろん、ザ・ヤクザ佐藤のおごりで。ザ・ヤクザ佐藤は遥のワッフルを美味しそうに眺めていたが、スコッチとの食い合わせを考えて我慢した。
 ところで、ふたりは友達になるからと言って、お互いの携帯番号や家に住所は知らせなかった。もしも、誰かにふたりの関係を知られたら、面倒なことになると思ったからだ。定期連絡は、この喫茶店で月曜の夕方六時に会うこととした。

 一方、喫茶店の厨房ではウエイトレス佐久間路子が騒いでいた。
「店長ーー、明らかにヤクザですよ。ヤクザ。変わってくださいよー。しくしくしく」
「そんなこと言ったって……。頼むよー、うちは筋者お断りの看板は出していないんだ」
「店長。もし死んだら恨みますよ……。あっ!」
「どうした?」
「わたし、急いでスコッチ、買ってきます!」
「ああ、頼むよ……」
 店長の目に、涙が溜まるのだった。
 佐久間路子は走った。パンツが見えることも気にせず、大股で。そして、お酒を売っている店に付くと
「大将! スコッチ。大至急! ぜーぜーぜーぜー」
 お酒の店の亭主は、佐久間の形相にただならぬ物を感じて、急いでスコッチを佐久間に渡した。なににも包まずに。
「お代は、後でね」
「……ありがとう、大将!」
 店の亭主の心配りに、佐久間の目には涙が溜まって、今にも零れ落ちそうだった。だが、一刻も早くこのスコッチをあのヤクザの出さないと、大変なことになるかも知れない。佐久間はそう思い、お礼もそこそこにダッシュで喫茶店へ帰った。
「ぜーぜーぜーぜー」
「よくやった! 佐久間! 今すぐに用意するから」
 そう言うと、店長は用意していたブラウンのグラスに、スコッチをなみなみついだ。もはや、分量はどうでもよかった。早くヤクザに出すことが重要に思ったのだ、店長は。
「お、お、お待たせしました……」
「おう、無理言って悪かったのー、姉ちゃん」
「い、い、いいえ……」
「くっくっくっく」
 遥は、堪えきれずに笑っている。
 その時、ヤクザはサングラスを外して、舌を出した。
「あ!……」
 佐久間路子は、腰が抜けそうになる程驚いた。だって、目の前にいるのは先日も来た女子高生と援助交際オヤジじゃないか。
 変な引きつけ笑いを起こし、呆然自失のまま佐久間は厨房に帰って、店長に言った。
「わたし、もう上がらせて貰います……」
「え! 佐久間君! おーーーい、佐久間くーーん!」
 その後、厨房とフロアーを忙しく飛び回る店長を、見たとか見ないとか……。


(三)

 天高く馬肥える秋。昼休みの教室で、ぽっかりと浮かぶ雲を眺めながら、伊藤遥はひとりパンを食べていた。――ちなみに、チョコクリームパンだが――。いじめもなくなって今日も平和だなと、遥は目を細めていた。
 その教室を覗く者がいる。身長が百八十八センチもある硬派の武藤健一だ。遥は誰かの視線を感じ振り返ると、武藤と目が合った。遥は直ぐに目を反らしたが、武藤は怖い顔で近づいてくる。
(ちょっと、やだー。こっちへ来ないでよ)
「伊藤さん!」
「は、はい!」
「自分は、生涯硬派で生きて行こうと決めました!」
「え……」
「ぜひ、おじさんと言う人に、自分を紹介して頂けないでしょうか? お願いします!」
 そう言って、武藤は頭を九十度下げた。
「さあ、なにのことかな? 硬派なおじさんなんて、知らないんだけど」
「そんな。いじめっ子たちが話しているのを聞いたんだよ」
「しー」
 遥は武藤の耳を借りて、ささやいた。
「それは、皆には秘密だよ」
「そうですか……。でも、なんとか自分を、そのおじさんと言う人に会わせて貰えないでしょうか? お願いします」
 そう言って、武藤はまた頭を深々と下げた。これだけ頼まれたら、遥には断ることはできなかった。シブシブ頷いた。
 妙なことになったと伊藤遥は頭を抱えた。どうしたら、武藤を静かにできるか考えたが、やはり佐藤冬馬に頼るしかないことに、遥の結論はどうしても行き付くのだ。なにか、無限ループの中に落ち込んだ、鏡の中のアリスの気分で、妙に心がざわつくのだった。

 月曜六時の打ち合わせ通りに、ザ・ヤクザ佐藤冬馬は喫茶店で待っていた。アイスコーヒーをストローでチューチュー飲んで、美味しそうにいちごクリームファッフルを食べている。それは異様な光景だ。
「お待たせ、おじさん」
「おおー、遥。元気してたか?」
「こ、こんにちは。じ、自分は武藤と言います。よろしくお願いします!」
 そう言って武藤健一は深々と頭を下げた。もう、遥には見飽きた眺めだった。
(全く、武藤君は頭下げ過ぎだよ)
 遥が心の中でそう言ったのは確かだった。遥は席に着いて、この前お気に入りになったホットココアといちごのクリームワッフル注文をしたが、武藤は直立不動で立っていた。
「で、武藤君。君、俺みたいになりたいって?」
「はい!」
「はーーー……」
 ザ・ヤクザ佐藤は聞こえよがしに、ため息をついた。
「武藤君」
「はい!」
「俺の両親は、ヤクザに殺された。妻も、愛する息子さえも」
「……」
「そして今、俺はひとりで生きている。身寄りはない」
「……でも、伊藤さんがいるじゃないすか」
「遥は、赤の他人だ。ゆえ合って知り合いになっただけだ」
「……」
「そんな俺に憧れる? はっ、馬鹿言っちゃいけないよ。武藤君はまだ幸せになれる道がある。それを、見失ったらいけないよ」
「……」
「分かったら、もう行きなよ」
「……失礼しました……」
 武藤はそう言うと、肩を落として行ってしまった。自分にはできないと思ったのだろう。義理のために、親、兄弟、嫁、息子を犠牲にすることなど。
 遥は、佐藤冬馬の人生を憂いで、黙っていた。それでも、つい口が動く。
「ご両親と、ご家族の方は、残念でしたね……」
 遥は、そう言うと目に涙を溜めた。触れれば落ちる、そんな状態だった。
「なーにシリアスになっちゃってるの?」
「へ?」
「おやじとおふくろは、田舎で今も畑、耕しているけど」
「なに?」
「それに、俺は今まで結婚したことがないけど、なにか?」
「それじゃ、全部……」
「嘘に決まっているでしょう、そんなこと。ゲラゲラゲラ」
「全くー!」
 遥は、そう言いながら佐藤を叩いた。その時、ふたりはお互いの間に、友達以上のなにかを感じた。気のせいかも知れないが……。

 喫茶店の厨房で、ウエイトレス佐久間路子は心配していた。高校生がふたりも、ザ・ヤクザに扮したサラリーマンと話している。周りの客は、いつの間にかいなくなってしまって、この店も長くないなとウエイトレス佐久間は、ため息を付くのだった。
「どうしたの、佐久間君?」
「あ、店長。あの変な組み合わせの客、今日も来てますよ」
「どれどれ……。あー、あれね。しょうがないよ。別に店でヤクをやっている分けでもないし」
「そうですね。でも閑古鳥が鳴いています」
「うん……」
「あの女子高生。今にきっと生き地獄を味わいますよ」
「いや、それは違うよ佐久間君。あの女子高生の顔は、完全に安心した顔だよ」
「そうですか?」
「ねえ、佐久間君」
「はい?」
「君、人を見かけだけで判断するのは、よくないよ」
「……」
「さあ、今のうちにモップ、掛けちゃおうか」
「はい……」
 ウエイトレス佐久間路子が佐藤冬馬を色眼鏡で見るのは、仕方のないことだった。初めて見かけた時は、普通のサラリーマンだった。二度目は、ザ・ヤクザの格好をしていた。そして、今日もまたザ・ヤクザの格好だ。どれを信じていいのか、佐久間には分からなかった。
 それを、店長は人を見かけだけで判断するのは、よくないと言うのだ。こんな理不尽なことがあるだろうか? 佐久間は、店長に一言いいたかった。あんな格好をする方が悪いと。それでも、大好きな店長の言うことは聞かないと。ウエイトレス佐久間路子は、けなげだった。


(四)

 街路樹の木々もすっかり赤く染まり、肌寒くて人恋しくなる季節。オフィスビルの一角で、佐藤冬馬は休憩を摂っていた。紙コップのコーヒー片手に、煙草の煙をくゆらせて、物思いにふけっている姿は、さながら森の哲人と言われるオラウータンのようだ。
 どうして、人は誰かの真似をしなきゃ生きられないのだろう。極道にあこがれてそれを目指すことも、立派な人になることも、美味しいパン屋になることも、格好いい芸能人になることも、みんな誰かの真似だろう。
 だが、人はそうしないと生きて行けない動物。誰かから学んで、それを真似ることが悪いとは言わない。しかし、その中には人を平気で傷つける人もいる。それだけは、避けたいと思う佐藤だった。
 物思いにふけっていると、先輩社員の中野ゆかりが喫煙所に入って来た。彼女は、身長が百六十九センチあって、グッとくるようなスリムな身体をしている。

「あら、佐藤君」
「中野さん、お疲れです」
「ねえ、最近余り成果が上がっていないようだけど、どうしたの? ジュボ。ふー……」
「ふー……。どうもしませんよ。いつもの俺です」
「佐藤君のそういう所、嫌い」
「いやー、まいったなー。嫌われちゃった」
「ちゃんと成果、出してよね」
「ういっす。じゃあ、お先です」
 そう言って、佐藤は煙草を揉み消して、横目で形のいいヒップを眺めてから、喫煙所を後にした。
 中野は佐藤のことを気遣って尻を叩いてくれるが、佐藤はそんな中野のような女は要らないのだ。要るのは、戦いに疲れた時、優しく受け止めてくれる宿り木のような女性だった。佐藤は、中野のヒップを思い出し、返す返すも惜しいと思った。

 その日の昼。外は肌寒いのに、佐藤冬馬が大通公園のベンチで総菜パンを食べていた。味気なさそうに……。ふと、後ろから不意に声を掛けられた。
「よ、おじさん!」
「ん? なんだ、遥か」
 佐藤が見上げると、伊藤遥は薄いセーターを羽織っていた。暖かそうだが、寒そうなスカート見て女は大変だなと思った。
「あーその言い方、感じ悪ーい」
 そう言って遥は、ベンチに腰掛けて、後ろに手をついた。
「なんの用だ?」
「……今日はテンション低いわね。どうしちゃったの?」
「言いたくない」
「そんなこと言わないで言ってごらん。気が楽になるよ?」
「……実はさー。俺、最近悩んでるんだ。仕事のことで」
「うん、それでどんな仕事してるの?」
「広告代理店だけど」
「へー、それじゃ高給取りじゃない」
「いやいや、俺のは小さい会社だから、そんなに給料はよくないって」
「それで、なにが悩みなの?」
「うん、今の会社はそれなりにやり甲斐はあるけど、どこまで行ってもそれなりなんだよ。刺激がない」
「刺激がある職業なんて、……スポーツマン? それともヤクザ? あ、警察官も犯人逮捕で刺激があるか」
「前にも言ったけど俺、前は役者だったんだよね」
「うん、それで?」
「売れない役者だったけどね」
「……そうよね、売れてる役者だったら、止めないわよね」
「あの頃はいつもお腹が減っていたけれど、夢はいつも見ていて、生きている実感がしていたなー……」
 佐藤は、そう言って遠い目をした。その眼差しは、寂しそうだった。どうかして上げたいと遥は思い、しばし考え込んだ。
「うーーーん、そうだ! わたしの知り合いでDV旦那と別れられなくって、困っている人がいるんだけど?」
 それから、佐藤と遥は夢中で作戦を練った。昼休みが過ぎたことにも気が付かないで。
 遥は、佐藤の生き生きした目を見て思った。やっぱり佐藤は役者の方が向いているなと。これで、少しは恩返しできるんじゃないのかと、遥は嬉しく思った。

 十月の夜の雨は身体に堪える。一軒の小さな平屋のお宅に、真っ黒なベンツは横付けされた。
「じゃまするで」
 ザ・ヤクザ佐藤冬馬は、玄関の引き戸を乱暴に開けた。
「はーい。あ! ……あなた。お客さん」
「あん。誰だ?」
 DV旦那は面倒臭そうに、素足でズカズカ歩いて来た。
「あんたか、わしのバシタとまだ別れないのは? はん?」
 ザ・ヤクザ佐藤が下から凄んでそう言った。その様相にびびったDV旦那は急に態度を変え、丁寧語で話す。
「な、なに言ってるんですか?」
「もう、この女はわしの女じゃけん。なあ、春子」
「はい。わたしは、あなたの女です」
「な、分かったやろ? はよう離婚届にハンコ押してくれや。いいやろ?」
 そうして、ザ・ヤクザ佐藤はDV旦那に離婚届を突きつけた。
「……」
「なんなら、ここで勝負してもいいんじゃけど。どうする?」
 そう言うと、ザ・ヤクザ佐藤は握り拳をゴキゴキ鳴らした。
「は、はい、別れます。今直ぐ」
「じゃ、この離婚届に住所、名前、それにハンコ。よ・ろ・し・く」
「は、はい」
 話し合いは一分で終わった。DV旦那は名前と住所と書き、判を押し、そそくさと部屋の奥に引っ込んでしまった。ザ・ヤクザ佐藤は、ゆうゆうと女をベンツに乗せ走り去った。

「どうも、この度はお世話になりました」
「そんなー、あんなに簡単に終わっちゃって、拍子抜けですよ」
「あの、本当に謝礼は一万でよろしいんですか?」
「ええ、十分ですよ。たったワンシーンで一万なんて、貰い過ぎですよ。あははは」
「え? ワンシーンって?」
「いえ、こっちのことで。ところで、これからどちらに行かれます?」
「はい、実家に帰るのは怖いので、友達の町へ行って住みます」
「そうですか。あの手の男は、びびったらすぐ手を引くもんですが、万が一がありますからね。その方がいいでしょう」
「それじゃ、わたしはここで」
「駅まで送っていきますよ」
「ふふふふ。このベンツで?」
「あ、忘れていました。まあでも、かえって目立っていいんじゃないでしょうか、噂が立って」
「そうね、お願いしようかしら」
「はい」
 奥さんは、黒づくめのベンツに送られて、駅からひとりで旅立って行った。行先も告げずに、夜汽車に乗って。
 別れ際に、あなたが旦那だったらよかったのにね、と意味深なことを言われて、ザ・ヤクザ佐藤は顔を赤らめた。
(しかし、人妻の魅力はたまらんなー。ああ、車返してこないと)
 佐藤は、馴染みの修理工場へ行って一万借り賃を払って、自分の車ミニに乗って家路についた。
 その夜、佐藤はいい夢を見た。自分が死んだら、天国に行く夢だった……。

 翌日の月曜の夕方六時。いつもの喫茶店で、伊藤遥は怒っていた。入金一万、出金一万、収支ゼロ円だったからだ。
「全く、おじさんは欲がないだから……。必要経費は別に貰いなさいよ」
「いいじゃないか遥、その位。お小遣いだったら上げるよ?」
「そんなこと言ってるわけじゃないの。役者だったら、一円でも稼がないと、役者と言わないんじゃないの?」
「なんだ、俺の心配か? 俺はてっきり自分の取り分のことだと思った。うん、遥はやっぱかわいいな」
「ありがと」
 伊藤遥は、真っ赤になってホットココアを飲んだ。遥は分からなかった。自分がどうして顔を赤らめるのかが。
「遥。ところでさー、俺の役者芝居は、女を助けるだけ?」
「それは、どうしてもそうなっちゃうでしょ。おじさんは男なんだから」
「ふーーん。まあ、いいや。で、次の仕事って?」
「それはねー、……」
 佐藤は、嬉しかった。自分の芝居で、人が幸せになることが。遥が持って来てくれる仕事を、しばらくはやってみようと思う佐藤だった。そう、遥をマネージャーのように思っていた。
 もしかしたら、あの出会いは佐藤にとっては、この上ない幸運だったのかもしれない。だが、それにまだ気づいていない佐藤だった。

 ウエイトレス佐久間路子は首をひねっていた。どう考えてもあのお客はふに落ちなかった。
「どうしたの、佐久間さん?」
「あ、店長。それがですねー、あのお客今日も来てるんですけど、関係が分からないんですよ。エンコウでもないし、恋人でもないし、兄弟や親戚でもないし」
「それじゃ、友達とか?」
「そんなこと、あり得ます?」
「いいんじゃない? そういう関係も」
「そうですか……」
 ウエイトレス佐久間は、マスターの心の声を聞いたような気がした。肉体関係などなく、なんでも話せる異性の友達がいるなんて。佐久間はちょっと羨ましい気持ちになった。今度は、少しは暖かい表情であのサラリーマンに接しようと思った。


(五)

 街角の木々も、もうそろそろ冬支度を始める頃、高級ホテルのエントランス。佐藤冬馬は、高級車から一歩外へ出た。髪はソバージュで決め、高級スーツに身を包み、腕にはローレックスの時計をして、時間を確かめていた。ラウンジで待っていた上品なお嬢様は、にこやかに話し掛ける。
「文彦さん。御機嫌よう」
「やあ、綾子さん」
「こちら、お父さん、お母さん。お父さんたちも挨拶して」
「始めまして、南大路文彦です」
「いやー、噂はかねがね。父の西園寺幸夫です。こちらは、妻の福子です

「よろしくね、文彦さん」
「こちわこそ、よろしく。お母さん(キラ」
「あら、いやだ。おかあさんだなんて。おほほほ」
 キラキラ佐藤の歯が、キラっと輝いて両親を懐柔した。もはや、疑う者などいない。佐藤は、見事外資系社長を演じていた。
 このお嬢さんは、由緒ある家柄の令嬢だが、外資系の社長と恋に落ちてしまった。だが、社長には妻がいた。どうしても、諦められない令嬢は、二番目で生きていくことを決めた。
 そして、両親の薦める見合いを断るために、フェイクを求めていたのだ。
「それじゃ、お父さん、お母さん、わたしに綾子さんを任せてください」
「よろしくね、文彦さん」
「頼むよ、文彦君」
「結婚式は、いずれわたしのスケジュールがあいた時に、致しますから。ね、綾子さん」
「はい、文彦さん」
「では、もうそろそろプライベート・ジェットの時間が迫っていますから」
「分かった。それじゃ、元気でね。綾子」
「お母さんも元気でね」
「達者でな、綾子」
「うん、お父さん」
 ふたりはホテルの屋上のヘリポートから、元気に旅立った。
「上手く行ったわ、佐藤さん」
「ええ、そのようで」
「わたしは、このままプライベート・ジェットで彼の元へ参りますから」
「お元気で、西園寺綾子さん」
「ところで、報酬はたった百万でいいんですか?」
「いや、十分すぎるくらいですよ」
「そうですか……。ところで、このことは」
「はい、絶対に他言はしません。大丈夫です」
「もしも、約束を破ったら……」
「ええ、国際ボディガード会社の怖い方たちが来るんでしょ?」
「分かっていたら、いいんです。おほほほほ」
(とんだお嬢様だ。命がいくつあっても足りない……)
 綺麗なバラにはトゲがあると言うが、まさにこのお嬢様にことだ。笑いながらも背筋が寒い佐藤だった。お嬢様に貰った高級チョコレートを懐に、JRで帰って行った。

 月曜日の六時、いつものサラリーマン姿になった佐藤は、札幌地下街の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。しんみりと。
 そこへ伊藤遥は、学校を終わって駆けつけて来た。
「お待たせ―、おじさん。で、どうだった?」
「うん、上手く行ったよ……」
「あれ、元気ないな」
「いらっしゃいませ。ご注文は、お決まりでしょうか?」
「えーと、ホットココアね」
「以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
「少々、お待ちください」
「で、おじさん。どうしたの?」
「いや、経費が思ったよりも掛かっちゃって……」
「まさか、報酬の百万円は?」
「これだけだよ、残ったのは……」
 そこには数万と数千円しか残ってなかった。
 遥の目は点になった。まさか、これ程経費が掛かるなどとは、遥も思っていなかった。
「あーー、もっと貰っておけばよかった……」
 今度ばかりは、遥の計算が甘くて儲け損なった。ウエイトレスがホットココアを持って来ても、遥の表情は暗かった。
「でも、お嬢様が喜んでたのは、よかった。俺の気持ちは、それで十分さ」
 この佐藤の言葉にも、遥は複雑だった。
(お嬢様の笑顔が、そんないいのかよー!)
 こう遥は、心の中で叫んでいた。ますます不機嫌になる遥だった。
 困った佐藤は、なんとか遥の機嫌をよくしようと、あの手この手を試したが、効果はなかった。あきらめて懐に手を入れると、お嬢様に貰った高級チョコレートを思い出し、テーブルの上に置いた。
「なにそれ?」
 そう言って遥は、チョコレートを手に取った。見る見る表情が明るくなる。
「ゴディバ! あーーん、一度食べてみたいと思ったのよね。ありがと」
 もう、夢中で食べている。目じりが下がって、すこぶる上機嫌なようだ。
(よかった。機嫌直してくれて)
 佐藤は、ほっとして目を細めて遥を見てた。

 その様子を見ていたウエイトレス佐久間路子は、やっぱりこのふたりはできてると思った。ただし、できているのは優しい目で見つめるだけの関係だと思った。佐久間も上機嫌で、接客をした。


(六)

 冬の気配がした。朝起きると地面には雪の欠片が、所々に。昨夜遅くに降った雪は、朝日を浴びて地面から消えて行こうとする。その寒空にオネエ佐藤は歩を進めていた。ストーカーのいるアパートへ。
 ドンドンドン。
「ねえん、あ・な・た。居るのは分かっているのよ。出てらっしゃい」
 ドンドンドン。
「……あの、人違いじゃないですか?」
「あら、やっぱり居たのね、ダーリン」
「あの、どういったご用件でしょうか?」
「あたし、昨日コンビニであなたのこと見かけてから、ずーっと我慢してきたの。でも、もう我慢できない!」
「……警察。呼びますよ?」
「あら、警察だって暇じゃないし、事件が起こってからじゃないと、動かないんだから。ねえ、ここ開けなさいよ!」
 ドンドンドン! ドンドンドン! ドンドンドン! ~
 オネエ佐藤は、激しくドアを叩き続けた。留め金が外れてしまような勢いで。
「はあはあはあはあ。あなたも強情ね。いいわ、出て来るまで、ここで待ってるから」
 そう言って、オネエ佐藤はドアに張りついた。小便は排水溝に流し、用意したお菓子パンをかじって。だが、お腹がいっぱいになったのか、しばらくするとオネエ佐藤は寝てしまった。
 それをのぞき穴からジーット見ていたストーカーは、バイトに行くために、そーとドアを開けて外へ出た。その時だった。
「みーーけ!」
 いきなりオネエ佐藤は、ストーカーを後ろから羽交い絞めにして、首筋を舐めまわした。
「ひーーーーーー!」
 悲鳴はとどろき、ストーカーは元いたアパートの部屋に引きずられていった。
 その後、オネエ佐藤はあらゆる技を駆使して、ストーカーを撃沈した。最後までやったかは、さだかではない……。

 後日の月曜日の六時。いつもの喫茶店で佐藤冬馬と伊藤遥は、例によってコーヒーとホットココアを飲んでいた。他にメニューがないように。遥は、ワッフルを食べるとお腹がいっぱいになるので、晩御飯が食べれなくなるから、最近我慢している。
「いやー、あのストーカー。完全に感じていたよ。写メ撮って置きゃあよかった。あははは」
「……」
(こいつ、本当にホモか?)
 伊藤遥は、吐き気がしたが、この計画は佐藤冬馬と伊藤遥、ふたりで立てたので文句は言えない。いずれにしても、遥はもうそれ以上、聞きたくはなかった。遥は話題を変えようとして言った。
「ところでさー、次のターゲットだけど」
「いや、聞いてる? お尻を責めた時は、」
「いやーーーーー!」
「……ごめん。調子に乗りすぎた……。でも、入れたのは模造品だから」
「だったら、なんだって言うの? この変態! うわーーん、うわーん」
「ごめん……」
 伊藤遥には、明らかに分かってしまった。自分はこの変態が好きだと。だから、余計に泣けるのだ。そして、盛大に泣かれた佐藤も気づいてしまった。遥が自分のことを好きなのを。
 だが、今更分かった所でふたりは付き合う気にはなれなかった。それは、青少年保護条例のせいではなかった。初めに、お互いに友達と決めてしまったからだ。
 それも、初めに遥が佐藤に対して、付き合う場面を想像すると、寒気がするなどと思ったからだ。一度ついてしまった印象は中々消えない。それは、佐藤も同じだった。援助交際女子高生の印象がついてしまって中々ぬぐえないのだ。
 お互いの心の中を見せれなかったふたりは、お互いに言い出せないでいた、好きだと。

 伊藤遥は家に戻ってからも、心穏やかではなかった。今度のお客では男となるべく接触がないようにしようと持った。
 遥は色々考えたが、これで行こうと思った。レズの偽装結婚。実は、田舎の親戚で大好きなおねえさんがいる。そのおねえさんはレズなのだが、年老いた両親を安心させたいと思い、今回の偽装結婚を考えていたのだ。だが、その偽装を手伝ってくれる男が中々いない。みんな偽装とはいえ、結婚することに抵抗があるのだ。おまけにレズだ。なんの見返りもないのに手助けしてくれる男はいなかった。
 佐藤はその偽装結婚をやるのに、打ってつけなのだ。これでもう泣くことも、醜態をさらすこともないと、遥は心穏やかに眠りに付くのだった。

 伊藤遥の母親が、静かにドアを閉めて父親の待つ居間降りて来た。ふたりは顔を見合わせて静かに話し始めた。
「どうだ、遥の様子は?」
「大丈夫みたいよ、あなた」
「今日は、目を腫らして帰って来たから、またいじめられていると心配したんだ」
「でも、部屋で話を聞くと違うって。好きな男の子が無茶するんだって。でも、心配ないって言ってたわ。これからは、遥がちゃんとついているからって」
「……」
「ねえ、あなた。どうしたの?」
「いや、遥にも彼ができたかって思って……。寂しいな」
「遥はもう大人よ。黙って見ていて上げましょう」
「うん……」
「しょうがないな。もうひとり、作る?」
「聡子……」
 その後、遥に年の離れた兄弟ができたかは、分からない……。


(七)

 年の瀬も差し迫った、十二月二十四日。佐藤冬馬は緊張した面持(おもも)ちで結婚式場にいた。左腕には四十間近の花嫁をたずさえて。佐藤は、髪を七三に分け、分厚い丸眼鏡を掛け、背筋をピンと伸ばし、膝をぴったりつけていた。そう、あの『赤城の子守唄』で有名な東海林太郎(しょうじ・たろう)のように。
「それでは、東海林裕也さん、ならびに妻、小奈美(こなみ)さんの結婚式を今から執り行います。それでは、御入場お願いします。会場の皆様は盛大な拍手でお迎えください。それでは、御入場です」
 パチパチパチパチ。ぱんぱーかぱーん、~。
 スポットライトを浴びて佐藤と小奈美は、おごそかに入場した。会場の席は四十ほど。丸テーブルに座ってみんなこちらを見てる。にこにこして嬉しそうだ。佐藤たちは、バレやしないかと緊張を強いられた。だが、なんの問題もなく入場が終わって、ひな壇に付く。佐藤は小奈美と顔を見合わせて、ほっと息を吐いて、思わずお互いに微笑みあう。妙な感じだ。
 佐藤は、口に手を当てささやいた。
「小奈美さん。大丈夫ですか?」
「ええ、冬馬さん大丈夫です。すみませんね、色々」
 司会の人が、続けて会場をあおっている。時々笑いが沸き起こる。この偽装に気がついた者は、どうやらいないようだ。
「この分だと、大丈夫みたいですね」
「ええ」
 その時、ビールを片手に近づいて来た男がいた。身体はゴツイがニコニコして気がよさそうだ。
「いやーこの度は、おめでとうございます。俺は小奈美ちゃんの従兄ね。これから小奈美ちゃんをよろしく。さあ、一杯」
「どうも、恐縮です」
「ところで、あんたの方の身内は誰も来てないようだけど、なんで?」
「ちょっと、助蔵兄ちゃん。失礼ね。そう言うことは聞かないの」
「いやー、申し訳ない。気になっちゃってさ」
 佐藤は、咳ばらいをして、しんみり話した。
「そうでしょう。身内が誰もいないなんてね……。実は、全員交通事故で……」
 そう言って、佐藤は分厚い丸眼鏡を上げて涙をふいた。
 あわてた助蔵と言う人は、ペコペコ謝って、佐藤の前を辞した。
 小奈美は、口を押えて涙を溜めて言った。
「佐藤君。あなた、そんなことがあったの……。かわいそうに。ぐっすん」
「小奈美さん。嘘ですよ。両親は田舎で今も元気で畑を耕しています」
「……。あら、いやだ。わたしったら。うふふふふ」
 笑っている小奈美を見た小さな男の子が、大声で言った。
「あ、おねえちゃん。笑ってる」
 人々は口々に、いい旦那さんを貰ってよかったと言って、顔をほころばせた。
 佐藤と小奈美は苦笑いして、お互いの顔を見る。
(こんないい人たちを騙してすまん)
 佐藤は、そう心の中で謝った。
 こんな具合で、式は無事すんだ。式場の最上階、スイートルームで佐藤と小奈美は疲れてベッドに倒れ込む。その時、小奈美の右手が佐藤の胸に当たった。
「あ、ごめんなさい」
「いいえ」
「今日はありがとうね。これで一万円なんて少なすぎるわ」
「いいんですよ、そんなこと」
「そう。うふふふ。ところで、もう眼鏡取っていいんじゃない?」
「そうだった。ああ、生き返ったー」
 佐藤は、分厚い眼鏡を外し、目をまばたかせ、天井を見た。
「ねえ、セックスしない?」
「え?」
「わたし、子供が欲しくってさー。もちろん、わたしはレズだから子供はできない。だから、あなたに……」
 そう言って、小奈美は佐藤の頬にふれた。佐藤は慈善事業だと思って、抱くことにした。それに、先ほどから佐藤に当たっている大きな胸には、正直なん度も生唾を飲み込んだ。(遥。勘弁してくれ)そう、心の中で謝って、佐藤は小奈美を抱いた。

 月曜の夕方六時。札幌地下街のオーロラタウン。そこにある喫茶店で佐藤冬馬と伊藤遥は、美味しいコーヒーとホットココアを飲んでいた。寒い季節にもやっぱり合う飲み物だった。
「いやー、楽勝だったよ。フーフーフー、ズズズ」
「よかったわね。小奈美さんも喜んで。フーフーフー、ズズズ」
「本当、よかった……」
「うん? なにこの間は? レズだから、大人しくしてたんでしょう?」
「そ、そうだよ。まさかセックスなんてしないさ」
 佐藤冬馬からセックスと言う言葉を聞いた伊藤遥は、急に無口になった。あきらかに、佐藤を意識してのことだった。
 その時、もうひとりセックスの言葉に反応した人がいた。ウエイトレス佐久間路子だ。
(なに、セックスなんて?……)
 やはり、この年の差お友達は、セックスをしているのではないかと、佐久間は眉をしかめた。でも、他人ごとだし、援助交際でないならわたしが感知することではないと、佐久間は気にしないようにした。
「ところで報酬の。ほれ、五千円」
「ありがと……」

 それを見ていたウエイトレス佐久間路子は、胸の怒りが収まらなかった。厨房に飛び込み、店長に怒りをぶつけた。
「店長!」
「はい!」
「あのふたり、お金のやり取りをしてますよ。やっぱり援助交際だったんです」
「そんなこと、君が気にすることじゃないよ。いいから無視して」
「店長は、この前友達っていったじゃないですか。まさか、友達が偽装だったなんて」
「いや、違うよ。あのふたりはまだしてないよ。女に媚びる所が全くない。佐久間君の勘違いだよ」
「ほんと? そうかな……」
 ウエイトレス佐久間路子は、もし自分の勘違いなら、そうであって欲しいと願った。友達に恵まれない佐久間にとって、ふたりは理想の関係だったから。
 佐久間は生まれてこのかた、親友と言う物を持ったことがない。いつも大事な所で裏切られるのだ。それは、自分のせいでもあることは、彼女自身も知っている。佐久間は、小さい頃から他人を弁明したことがない。いつも、大事な所で口をつむり、友達を助けない。それは、大事なことを言う時に、声が出ないと言う、癖からだった。全く、厄介な癖を背負ったもので、このせいで幾多の残念な結果が彼女に降りかかった。一時引きこもりになりそうになったが、遠い親戚の店長に助けられた。だから、佐久間はなにがあっても、店長がいるこの喫茶店を止めるつもりはないのだ。
 佐久間は店長のことが大好きだ。でも、この癖のせいで口に出せないでいる。いまいましい癖を持っている佐久間には、店長と友達でいることの方が、ありがたかった。そのことに、店長が気づいているかどうかは、分からない。


(八)

 札幌市の大通公園。まだまだ雪が残っている三月下旬、佐藤冬馬と武藤健一は武道家らしい装束(しょうぞく)で礼をした。札幌市の観光課の要請でカンフーを見せるもよおしを仰せつかったのだ。伊藤遥の交渉ぶりには、最近凄い物があると佐藤は感じた。でも、報酬はやっぱり一万円……。
 欧米人や中国人と思われる観光客が見守る中、武藤がドラを「じゃーーん」と鳴らすと、エセ中国人佐藤がカンフーの技を披露すると言う、見世物をしていた。ふたりに息はぴったりだった。とても、一週間のつけ焼刃でできることではない。
 じゃーーん。
「はっ!」
 じゃーーん。
「ほっ!」
 じゃーーん。
「いやー!」
 じゃーーん。
「とう!」
 技の披露は十分近く掛かった。ドラは鳴り響き、エセ中国人佐藤は礼をして、終了した。集まった外国人も日本人も、みな腕が千切れるほど拍手をした。
 そんな中、ひとりの怪しい老齢の中国人が、ヒタヒタと佐藤の前に歩み出た。
中国語「若い人。あなたは中々カンフーの真似が上手いですね」
 佐藤は、しまったと思った。やはり、少林寺拳法とカンフーでは技の決め方が違う。少しかじっている人には、見破られてしまう。佐藤は、正直に言った。
中国語「いやー、すみません。ほんの一週間程で技を身につけたんですが、見破られてしまいましたね。わたしの習っていた武道は少林寺拳法なんですよ。お恥ずかしい」
中国語「ほーー、日本人が中国人から盗んだ、あのブドウね」
 すると、今までにこやかに話をしていた老人は、物凄い速さでツキを出してきた。すんでの所でかわした佐藤は、お返しとばかりに老人の足を払った。
「はっ!」
「とう!」
「はっ!」
「とう!」
「はっ!」
「とう!」
「はっ!」
「とう!」
 技の応酬は一分近く掛かったかも知れない。
中国語「はっ! ゴキ。う! あいたたたたー」
中国語「老子。大丈夫ですか!」
中国語「いやー、まいったね。歳には勝てないよ。おーいてててて」
中国語「凄いですね、このお歳であれだけ動けるなんて」
中国語「おい小僧、年寄扱いするな」
中国語「すみません。老子」
中国語「だから、年寄クサイ名前で呼ぶんじゃないよ。わたしにはジャッキー・チェンと言う名前があるんだ」
中国語「……」
 話を聞くと、老子の名はジャッキー・チェン。嘘のような本当の話で、今は引退して行ったことのない所へ旅して、悠々自適に過ごしているのだと言う。
 ところで、得意の酔拳をなぜ使わないんだと聞くと、「馬鹿者! あんな腰に悪い物、使えるか!」と怒ってらしたとか。
中国語「いやー、あなたの少林寺拳法は大したものですね。ぜひ、香港で我々と一緒に映画を作りませんか?」
 こうして、佐藤冬馬の人生は大きく進路を変わろうとしていた。無論、役者佐藤が断るはずもない。即座に返事をした。OKだと。
 それを、学校から帰った伊藤遥は聞くこととなる。

 翌日の月曜の夕方六時。札幌市地下街のオーロラタウンにある喫茶店。佐藤冬馬と武藤健一の所へ、伊藤遥は遅れてやってきた。
「お待たせ」
「どうも、あねさん」
「ちょっとー止めてよね、その呼び方」
「すみません。あねさん」
「全く……。ところで今日の出し物は。受けた?」
「いやーそれがね、凄い人が来たよ」
「なに、勿体ぶっちゃって」
「聞いて驚くな。ジャッキー・チェンだ!」
「えっ! 本当?」
「ああ、本物のジャッキー・チェンだよ」
「よかったわねー。わたしも学校サボればよかった」
「それがさー、ジャッキーが香港へ来いって言うんだよ」
「……。それで、なにするの?」
「香港で映画を撮ろうって、さそわれっちゃって」
「ねえ武藤君、これ本当の話?」
「そうなんですよ、あねさん」
「…………おじさん、本当に行っちゃうの?」
 目に涙を溜めて、遥は懇願した。しかし、役者で食っていけるチャンスをミスミス捨てることは、佐藤にはできなかった。いくら、遥が泣いてすがってもだ。今まで浮かれていた佐藤は、こうべを垂れて謝った。
「すまん……」
「ぐっすん。うわーーん、わーーん、わーーん」
 伊藤遥の鳴き声は、喫茶店中に鳴り響いた。だが、それを咎める物は、誰もいなかった。客は一緒にもらい泣きをした。
 佐藤の思いも同じだった。この地下街オーロラタウンで遥に声を掛けられたのが、全ての始まりだった。佐藤は、遥を助けるために芝居を打った。そして、いつの間にか遥の持ってきた仕事をするようになった。それが、今回の幸運を産んだのだ。佐藤は、遥に感謝してもし尽せない思いだった。
 だが、今ここで感謝の言葉を口にすると、遥と別れられなくなると思った。今から佐藤が歩む道は、困難な道だ。遥を連れていくことはできないと思って、佐藤はなにも言えなかった。こんなに愛しているのに……。

 ウエイトレス佐久間路子も、喫茶店の厨房でもらい泣きしていた。
「ひっく、ひっく。お嬢ちゃんの彼が、香港に行ってしまうんだって。ひっく」
「佐久間君、涙を拭きなよ」
「あーーん、店長」
「よしよし」
 そう店長は言って、佐久間路子を抱き締め、頭をぽんぽんした。
「あれ、店長?」
「えっ?」
「立ってる……」
「……ごめんよ」
「んーーーーーーーーーーーーー。プファー」
 それは、佐久間路子からの店長への長いキスだった。
 この時、佐久間は口が効けないなら、手を出せばすむと言うことに気がついた。二十五にもなってやっと分かったのだ。
「佐久間君」
「下の名前で呼んで」
「路子ー」
 ふたりは固く抱き合い、愛を確かめた。喫茶店が終わってからふたりがどこに行ったのかは、分からない。多分、愛をつむいのだろう。

 一方の伊藤遥は家に帰ってから、どんより暗かった。
(もう、おじさんに会えないなんて)
 そう思うと、遥の心臓は今にも千切れそうだった。部屋に入って電気もつけずに、ベッドにうつ伏せになって悲しみに堪えていた。
 帰って来た遥の顔を見た母親は、心配になり遥の部屋をノックする。
「入るわよ」
「……」
「なーーに、電気もつけずに」
 母親は、穏やかにそう言うと、蛍光灯をつけた。遥の頭を撫でながら母親は、諭すように言った。
「遥。あなたの名前、わたしがつけたのよ。どういう意味か分かる?」
 遥は、頭をわずかに横に振った。
「遥遠くの愛する人のために、努力して会いに行きなさいって意味よ。例え海の彼方にいようとも」
 遥は、それを聞いて置きあがった。母親の目を見つめ遥は、聞いた。
「もし、もしもよ。努力して……、一杯努力しても思いが伝わらなかったら?」
「ふふふ、大丈夫よ。きっと振り向いてくれるから、頑張りなさいよ」
「お母さん……」
「おお、よしよし。全くこの子は、大人のように見えても、まだまだ子供なんだから」
 遥は、改めて母親の優しさを感じた。わたしも、子供に名前をつける時は、母親に負けない位のいい名前をつけて上げようと思った。そう、いつか遥が子を宿す時には、必ず。
 遥の母は、娘は遠くの彼にきっと合えると信じていた。自分が果たせなかった思いを娘に託して、名前を遥と名づけたのだから。


(九)

 四月だと言うのに、雪がやっと溶けて、さくらもまだまだツボミの頃。伊藤遥は大学生になった。学部は文学部中国語学科。言うまでもなく、必死で佐藤冬馬を追っているのだ。その目には、彼しか映っていなかった。
 そしてもうひとり、彼を追っている男がいた。武藤健一だ。彼も佐藤を追って香港へ渡るつもりだ。
 大学の廊下で一緒になった伊藤遥と武藤健一は、並んで歩いていた。
「ねえ、武藤君」
「はい、なんでしょう? あねさん」
「……その呼び方、止めてくれる?」
 そう言って伊藤遥は、武藤をにらみつけた。
「すみんせん、あねさん」
「全くー。もういいわ。ところで武藤君、少林寺拳法始めたって本当?」
「はい、道場に毎日通っています」
「そう、あなたもおじさんを追っているのね……」
「はい」
「絶対に香港へ行ってやりましょう、ねえ武藤君」
「はい、あねさん!」
「……」
「ところで、兄貴の映画が封切になりましたよ」
「知ってるわよ。『少林寺。地獄の黙示録』でしょ。名前も出てないけどね」
「いやー、それでも凄く目立ってましたよ。もう槍の使い手まで出て来て」
「本当よね。でも、きっと傷だらけだと思うよ」
「早く、あねさんが行って介抱してやらないと」
「そうよね。きっと待ってる」
「はい!」
 ふたりは仲良さそうに、講義室の長椅子に腰かけた。
 これから、どんな困難が待っているのか、ふたりには分からない。けれど、どんなことがあろうともふたりは諦めない。佐藤を追うことを。
(おじさんは、ちょい役でも必死に頑張っている。わたしも、頑張って早くおじさんの所へ行かないと)
 遥は、講義室の窓から見える桜の蕾を見つめ、そう思うのだった。

 伊藤遥と佐藤冬馬が離ればなれになって四年。遥が大学三年の夏のことだった。それは、突然届いた。
「ただいま。お母さん」
「あら、遥お帰りなさい。ちょっとー」
「え、なに?」
「あなたに、エアーメールが届いているわよ」
「……? いったい誰から?」
「さあ、よく分からないわ。はい、これよ」
「どれどれ、TOUMA SATOU……」
 遥は、あわててエアーメールの封を開けて読みだした。

『やあ、元気? 佐藤冬馬だよ、伊藤遥さん。

 いやー、君の住所を調べるのに苦労したよ。こっちにいる日本人にも手伝ってもらって、片っ端から札幌市の伊藤さんへ電話してね。ああ、電話帳は俺が日本から持って行った。(笑い

 そんなことはいいんだけど……。
 ずいぶん御無沙汰して申し訳ない。こっちで、食っていけるまでは手紙も電話も止めとこうと思って。それで、ようやく目途がついたんだ。

 もし、もしもよかったら、香港へ来ないか?
 いいや、正直に言う。

 遥。君を愛してる。
 結婚して欲しい。

 もしよかったら、電話を掛けてくれ。……あれ、国際電話のコレクトコールってどうするんだっけ? 悪いけど、調べてくれ。

 それじゃ、待ってる。

 伊藤遥さんへ 佐藤冬馬から

 国際電話八五二-xxxx-xxxx-xxxx

PS
 直接、電話で返事を聞けない俺を、チキンと笑ってくれ。(フッ』

「なに、この馬鹿っぽい短い手紙は? それに、国際電話のコレクトコールって……。面倒くさいな」
「ちょっと、遥」
「えっ?」
「あなた、涙が零れているわ」
 遥が手で確かめると、確かに頬が濡れていた。だが、表情は晴れやかに笑っていた。
「そうだ! 武藤君も呼んで貰おう」
「え? なに? いったいどういうこと?」
 遥の母親は、ハテナの疑問符を連呼して、遥に聞いて来た。どうせ、話しても分からないし、話すのが厄介と言うか微妙なことなので、遥は母親を抱き締め、今の気持ちだけ言った。
「とても大切な人から手紙が来たの」
 母親は、一体どう言う人か分からず、でも遥が嬉しそうに言ったのを、身体で感じた。それ以上聞くのは余計なことだと思って、よかったわねと、頭を撫でた。

 それから遥は、日本と香港の時差を確かめたが、なんのことはない。一時間だった。遥は、ドキドキしながら佐藤冬馬に電話をしたが、すんなり出た。ただ、出たのは女性だった。しかも、日本人の。初めは嫌な感じがしたが、直ぐに打ち解けた。なんのことはない。その女性は子持ちのお母さんで、しかも佐藤のマネージャーだった。今、佐藤は仕事中なので、身体があいたら電話をくれると言って、電話は切れた。
 そして、そわそわしながら待つこと二時間半。ようやく電話が来た。久しぶりの佐藤の声に、思わず涙が出て、初めはなにを言ってるのか分からなかった。しかし、次第に落ち着きを取り戻し、会話が成立した。
「あのね、わたしあと一年で大学卒業なんだ」
『うん』
「それでね、一年待ってくれない?」
『いいよ。いつまでも待つよ。ところで、なに学部さ?』
「……中国語学科」
『え!』
「悪い? わたしが、中国語やってちゃ?」
『遥ー……。愛してるよ』
「あーあ、ここで言うかなー。場所と時を考えてよね」
『悪い……』
「わたしもよ」
『え?』
「わたしも、愛してるわ」
『遥ー』
「うふふふ。あ、ところでさー」
『なあに?』
「武藤君も、香港へ行っていいかな?」
『なに? あいつも中国に来るのか?』
「そうよ。あなたに憧れてね」
『へー、そうなんだ』
「武藤君、あれからずっと少林寺やってるし、中国語もバッチリだよ」
『そうか。まあ、一度来たら分かるよ。どんなに厳しい世界かって。もしも、駄目でも俺の付き人やって貰うから、いいよ』
「ありがとう。武藤君も喜ぶと思うよ」
『さあー、それはどうかな』
「え? どうして?」
『あいつは、男だよ。それも、筋金入りの硬派だ。そんな奴が、付き人なんかで満足できるかな?』
「面倒ね、男の子って」
『そうなんだ。面倒なんだ、俺たちは』
「あら、わたしだって面倒よ。わたしも、香港で仕事をするために勉強をしてたんだから」
『それって、どういう仕事?』
「同時通訳よ。中国語と日本語、それから英語のね」
中国語『日本人は、直ぐそんなことを言う。だけど、中国の歴史は四千年だから、簡単には理解できないよ』
中国語「大丈夫、任せなさい。だから、文学部中国語学科で歴史からみっちりと勉強したんじゃない」
『……遥は凄いな。きっと、仕事は見つかるよ』
「うん、応援してよね」
『ああ、これからは君の夢を応援するさ』
「……冬馬おじさん」
『ん?』
「ありがとう」
『いいや、なんのこれしき』
「違うの。あの日、わたしをいじめから救ってくれて、ありがとう」
「遥……」
「おじさんに出会っていなかったら、わたしはきっと惨めな人生を歩んでいたわ。こんな希望に満ちた道を歩むなんてできなかったと思う。
 だから……、ありがとう」
 佐藤は、遥の感謝の言葉を聞いて、以前言えなかった遥への感謝を口にした。
「俺の方こそ、ありがとう。遥に札幌地下街のオーロラタウンで声を掛けて貰えなかったら、今の俺はいないよ。つまらない人生を歩んでいた。だから、俺の方こそ、ありがとう」

 それからの遥と佐藤は、泣き続けてなにも話はできなかった。国際電話のコレクトコールの料金は莫大になっていたが、それを気にする余裕はふたりにはなかった。


 一年後に始まる新たな生活を夢見て、佐藤冬馬と伊藤遥、それに後から聞くであろう武藤健一は、必死で今できることをするだろう。それがどんなに苦しい道でも、希望に満ちて歩んでいく。いつか、成功する日を夢見て。



(終わり)

20160704-役者くずれ(再掲示)

20160704-役者くずれ(再掲示)

75枚。修正20190622。ある日地下街で、突然少女に逆ナンされる佐藤冬馬。その少女の正体とは。。。

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