『或る活版印刷所』

大神酒まいる 作

取り留めないで呉れ。
その男は厳かに言った。
文字を取り留めないで呉れ。
捕まえてやらないで呉れ。
かくして、
文字は音で在ったのに、
色と匂ひで在ったのに、
不憫だ。
やめてやって呉れ。と。
そうは出来ない約束だ。
と、
私は彼に言葉を投げつけた。
だってそうだろう、
かわいそうだろう、
せっかく皆に音を伝える、
色を匂いを。
僕等一個人で殺せというのか、
仕組まれた自由は
自由じゃあないよ。
放棄だろう。
そう私が言ふと
男は凄まじく、
それでいて哀しい顔で嗤って
本は栞の監獄か、
譜面は五線の檻か、
そういう話じゃあないんだよ。
そういうことじゃあないだろう…と
言ひながら
傘をふりふり帰って行った。
私にはわからない。
羽のない人間に、
翼をくれてやった飛行機も、
翼のない言葉に、
紙をくれてやった本も、
おんなじじゃないか。
齎している。
なにがちがうと言ふのか。
私には、さっぱりわからない。
そんなことを思っていると、
重深な本棚達がごとごとと
言い始め
しまいには本がみな
下に落ちて仕舞った。
かくして背から落ちるので
ぱかり、と
本が皆開かれ
ぺりぺり
夜空の如く黒碧い文字等が
くるくる舞いながら
飛んで行った。
てんでばらばらの方向であった。
一つ、
奥の方の大きな辞典が
弱々しく震えていた。
さて近づいてめくり上げると、
鏡という字が
飛び上がれずにひしゃげてゐた。
そっと手で掬い上げて
掲げてやると、
いかにもうれしそうに
三回私の頭上で旋回してから
飛んで行った。
それから私の店は、
音と、色と、匂いに塗れ
生きとし生けるもので
みち満ちた。
掃除なんかをしていると、
紙の間に間に
たまに何かを見かけるが
その正体は未だわからぬ。
おい、
少し右に傾いているんじゃあないか
と、
声を掛けてやると
恥じらうように、
すいっと佇まいを直すのもいる。
やはり捕らわれてなどないな。
と思った。
葉のように、
或りては落ち、落ちては飛びて、
そこに唯在るのみである。
言うという力は、
なんて偉大なのだ!

『或る活版印刷所』

『或る活版印刷所』

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-06-13

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