底辺男子は豪奢な夢を見る

「アンタの面倒を見るのは、もうたくさん! 今すぐこの家から出て行って!」
 数日前、花村(はなむら)亘(のり)宏(ひろ)はボサボサ頭に灰色のパジャマを着た状態であるにも関わらず、母親からの突然の勘当と共に、父親の手で強引に自宅を追い出されてしまった。あの日は強い雨が降っていた。それにも関わらず、自分を追い出したのだから余程ストレスを溜め込んでいたのだろう。
 原因は、自分でも分かっていた。分かっていたけど、どうする事も出来ず、学校にも行かず、仕事や就職活動もせずに、ただ家で携帯電話の画面に映る二次元美少女のあられもない姿を見ながら自慰に耽け、現実から目を背け続けながら自堕落な生活を送っていたばかりに、こんな有様となってしまった。
 いつかはそんな日が来るかもしれないと心のどこかで思っていたけど、いざ訪れたところで、成す術は全く無かった。せめて、なけなしの小銭と携帯電話だけでも、持たせて欲しかったのだが、勘当された以上、彼らがそんな事を聞き入れてくれる訳がない。
 家を失い、路頭に迷った事から、どうにか仕事を探さなくてはならないと思い、まずは近所のコンビニに入って、求人誌のフリーペーパーを手に取り、自分が出来そうな仕事を探した。
 しかし、学歴はおろか、何の資格も特技も無い人間が就ける仕事はそうそう見つからなかったので、すぐさま求人誌を投げ捨てた。だが、よくよく考えてみれば、履歴書の購入や無人で証明写真を撮る為の金も無かったので、仮に良い仕事が見つかったところで無意味だった事に気付くと、コンビニの壁に八つ当たりしたが、足を強く撃って思わず飛び上がった。傍から見れば、この光景は滑稽に映ったかもしれない。
 こういう場合、役場やNPOに相談するという手があるが、エロ画像ばかり見ていた亘宏がそんな事を知っている訳がなかった。
 携帯電話も母親から奪われているので、ネットで何か方法を探す事も情報を集める事も匿名掲示板やSNSで助けを求める事も出来ない。
 もうダメだと思いつつ、かといって行く当ても無く、彷徨いながら歩き続け、結局近くの駅のベンチで夜を過ごした。
 そんな生活を数日続けていたら、多少は痩せてくれても良いのだが、ウィンドウショッピングのガラスに映っていたのは、脂肪を溜め込んだ汚い浮浪者の姿だった。
 夕方になって、そろそろ空腹の限界が来た。今までは駅に近い公園の水道水で飢えを凌いでいたが、そろそろ固形の食べ物を口にしたくなった。だが、肝心の金が無いので、どうすれば良いのか全く分からなかった。
 そんな時、駅の入口で、若い男性が食べかけのハンバーガーをゴミ箱に捨てた。きっと味が不味かったのかもしれない。でも、ゴミ箱に入った、しかも男がかじったハンバーガーを食べるのは抵抗があった。
 どうせなら、可愛い女の子が食べたものが良かったのにと思ったが、空腹には勝てず、亘宏はゴミ箱の口に手を深く突っ込んだ。がさごそと音を立てながら、中を漁って取り出すと出て来たのは、さっきのハンバーガーの包み紙だった。では、肝心のハンバーガーはどこにあるのかと、こっそりと覗き込むと、先程のハンバーガーは、パンと具が無残にもバラバラになっていたので、がっくりと肩を落とした。
 その時、後ろから声が聞こえた。
「あっ、ゴミ発見!」
 振り向くと、そこにいたのは柄の悪い不良三人組だった。
「誰ですか?」
 亘宏は怯えながら尋ねた。
「俺達は、ゴミ清掃員だよ! と言っても、俺達が取り扱うのは、社会のゴミだけどな!」
 リーダー格と思われる中央の少年が嘲笑しながら答えた。コイツらのどこが清掃員なんだ。お前達の方が社会のゴミじゃないかと思ったが、そんな事を言い返す度胸は彼には無かった。
「お前みたいな奴がいるとな、駅の景観が汚れるんだよ!」
「そうそう。てめぇみたいな連中は、ここで排除しないとな」
 中央の少年が亘宏を強く突き飛ばした。壁に後頭部を強く打ち付けられた。更に、不良は亘宏の胸倉を掴み、拳を構えた。その時である。
「コラ! そこで何やってるの!」
 向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「ヤベエ!」
「マズイ、逃げるぞ!」
 犯行現場を見られて、チンピラ達は慌ててその場から逃げた。どうやら、助かった様だ。それにしても、一体誰が助けてくれたのだろう。声からして、若い女性の様だが。
「君、大丈夫? 怪我は無い?」
 心配そうに駆け寄って来たのは、黒いビジネススーツを着た女性だった。年齢は、恐らく二十代半ばで、自分より年上。ファッションには詳しくないが、海外の高級ブランドと思われる黒のパンツスーツを身にまとい、金のラインが入ったワインレッドのスカーフが印象的だ。長い黒髪も艶があって綺麗に整えられており、モデルか女優の様に清楚で美しい顔立ちである。
 きっと、彼女は学生時代、スクールカーストの頂点に君臨し、多くの友人に恵まれ、男性からもモテモテな学園のアイドルとして持てはやされ、非常に充実した学校生活を送っていたに違いない。
 彼女は、心配そうに亘宏の顔を見つめている。
「だ、大丈夫……です」
 亘宏は、軽く頭を下げたその時、腹の虫が鳴った。亘宏は思わず腹を抑えた。
「君、もしかしてお腹が空いているの?」
 亘宏は、羞恥心のあまり顔を俯けたが、ゆっくりと首を縦に動かした。
 すると、美女は「分かった。ちょっとそこで待ってて」と告げ、駅内のコンビニに入って行った。
 待つ事数分。美女はレジ袋を提げて、店から出て来た。
「はい、どうぞ」
 美女は亘宏にレジ袋を差し出した。中を覗くと、そこには幕の内弁当とペットボトルのお茶があった。もちろん、割り箸とお手拭き付きである。
 幕の内弁当の中身は、ごま塩が振りかけられた日の丸ごはんに、唐揚げとエビフライ、卵焼き、ポテトサラダ、焼き鮭などバラエティ豊かな品数だった。おにぎりやサンドイッチでも十分ありがたいのだが、贅沢にも弁当をくれるとは思わなかった。
 家にいた時も、これだけのおかずが出た事は滅多と無かったのに。
 亘宏は、お手拭きで手を拭いた後、割り箸を割ると、途中でお茶を飲みながら物凄い勢いで弁当を食べた。
「美味しい?」
「美味しいです」
 美女からの問いに亘宏は、食べ物を頬張りながら答えた。最初は何か裏があるのではないかと警戒していたが、こんな自分にもご飯を奢ってくれるなんて、何て良い人なのだろうと思った。
「あ、ありがとうございます……」
 弁当を食べ終えた後、亘宏は美女にお礼を言った。
「どういたしまして。ところで君、もしかして家が無いの?」
 突然、質問されて、亘宏は口を詰まらせた。痛い所を突かれた気分である。しかし、彼女ならきっと今の自分を助けてくれるかもしれないと思って、打ち明けた。
「そうなんです……僕、先日親から家を追い出されて、今完全にホームレスなんです」
 やっと、思いを伝える事が出来た。それを聞いて、美女は憐れみの表情を見せながらも「それは大変だったわね」と真剣に頷き、亘宏にある提案をしてきた。
「だったら、私の家で暮らさない?」
「えっ?」
 思ってもいない、お誘いである。それにしたって、家に暮らすというのは突然である。
「だって、あなたは今住む場所が無いんでしょ? だったら、ちょうど良いじゃない。今から家に電話をするから、許可が下りれば、あなたも住めるわ」
 美女はにこやかに話した。
 普通の人だったら、話が美味すぎて逆に怪しいと警戒してしまうが、早くもホームレス生活に限界を感じていた亘宏は、藁にも縋る思いで、
「分かりました、しばらく住まわせてください」
 と、美女に深く頭を下げた。
「分かったわ。じゃあ、今から電話するから待ってて」
 そう告げると、美女は少し離れたところへ歩き、スマートフォンで電話を掛けた。きっと、自分を家に入れたいと家族に連絡しているのだろう。
 数分後。美女は電話を切ると、亘宏に笑顔を向けた。
「許可が下りたわ。あなたも家に住んで良いって」
 それを聞いて、亘宏から笑みが零れた。これで野宿をする必要は無くなった。
「じゃあ、今から私の車に乗せてあげるから着いて来て」
 と誘うと、美女は駐車場まで歩き、白い車に乗った。見たところ、高級感のある外車である。どんな車なのかと、ロゴマークを見たら、何とベンツだった。
 これを見た瞬間、亘宏はゴクリと唾を飲んだ。世界的に有名な自動車メーカー・ベンツの車を間近で見るのは生まれて初めてである。若くして、こんな高級外車を運転しているなんて、きっと彼女は裕福な家に生まれた人であるに違いないと思った。
 運転席を見るとパッと見、二十代後半の男性が座っている。トレンディ俳優として出て来そうな気品のある顔立ちで、いかにも美青年という言葉が似合う。きっと、彼女の兄なのだろう。さすがに、彼氏ではないと願いたい。
「失礼します」
 亘宏は恐る恐る車の後部座席に座った。インテリアは黒を基調としており、高級感があるが開放的なデザインである。ベンツの中って、こんな風になっていたのかと感動のあまり身震いした。シートも皮を使っていて貫録があり、座り心地もちょうど良い。
 そして、美女が亘宏の隣に乗ると、運転手の男性に告げた。
「彼も家まで送ってあげて」
 それを聞いた男性は、爽やかな笑顔で答えた。
「かしこまりました、お嬢様」
 その会話に、亘宏は耳を疑った。兄妹間で「かしこまりました」と返すのは不自然である。そんな台詞を使うのは、主人に仕える使用人くらいだ。
 思わず、「兄妹じゃなかったの?」と尋ねようとしたが、質問を入れる間も無く、今まで兄だと思い込んでいた運転手の男性は、エンジンを掛けると、そのまま駐車場を出て、街の中を飛ばして行ったのであった。
 車に乗って十数分後、車内に沈黙が流れた。決して気まずい空気という訳ではないのだが、何だかとてつもない緊張感がある。
 まさか、今日会ったばかりの美女に夕食を奢ってもらうばかりか、自分の家に住まないかとお誘いを受けたのだから。運転手の男性も、先程のやり取りをした後、一切話しかけて来ず、運転に集中している。
「す、すみません……食べ物をくれるばかりか、わざわざ家にまで住まわせてくれるなんて……」
「そんなにかしこまらなくたって良いわよ。私、困っている人を見かけると放っておけない性分だから」
「そんな、まだ名前も聞いていないのに」
「あっ、そう言えばそうだったわね。私の名前は、里(さと)山梨(やまり)華(か)。あなたの名前は?」
「は、花村亘宏です……」
「亘宏君ね、覚えておくわ」
「あ、あの……さ、里山さん」
「梨華で良いわよ」
「り、梨華さん、ありがとうございます……」
 出会ったばかりであるにも関わらず、自分を助けてくれた美女に亘宏は二度目のお礼を言った。
 今まで、三次元の女は二次元と違って全員クソだと思っていたが、世の中にはこんなに優しくて綺麗な女性がいるとは思わなかった。きっと彼女は地上に舞い降りた女神ではないかと思った。
 もし、学生時代、自分のクラスに梨華の様な人がいたら、きっと当時の学生生活もずっと華やかなものになったに違いない。
 思えば、これまでの自分の半生は、あまりにも悲惨なものだった。
 花村亘宏は、貧しい家庭に育ちかつては公営住宅に両親と三人暮らしだった。
 母親は料理が苦手なので、家の食事はいつも御飯とインスタント味噌汁。おかずは、唐揚げか目玉焼きで、たまに出来合いの惣菜が出る程度だった。それだけでは物足りず、食事の後は、必ず隠れてお菓子を食べていたせいで、元々太めだった体型が更に肥えていった。
 顔も、帽子が入りきらない程の大きな顔に、手入れされていない伸び放題の眉毛、一重瞼の細い目、ペシャンコに潰れた団子鼻、脂ぎった肌、たらこの様に腫れた唇、いわゆるブサイクな容姿であり、同世代の女子達からは気持ち悪がられていた。
 おまけに頭も運動神経も悪い為、クラスでは男子からからかわれ、女子には陰口を叩かれ、教師には叱られて、彼女はおろか友人すら作れなかった。
 さすがに、これではいけないと思って努力をしたが、成績を上げる為に教科書を開いても小難しい表現や単語が頭に入らず、運動を続けようにも体力が長続きせずに挫折してしまい、どちらも失敗に終わった。
 その結果、努力をしても意味が無いと思う様になり、いつの間にか努力をする事自体を放棄してしまった。
 それでも、どうにか高校まで進学したが、進学先は名前さえ書ければ合格出来ると言われる程の底辺校であり、そこに通う生徒もそれ相応の連中で、いわゆるヤンキー校だった。
 当然、いじめもエスカレートした。大勢のクラスメイトがいる前であるにも関わらず不良に殴られたり、カツアゲされたりする事もあった。それでも、周囲は自分を嘲笑するばかりだった。正直、今でも思い出す事すら心苦しい程、筆舌しがたいものだった。
 教師に相談しても、「そんなんだから虐めに遭うんだ」「彼らも片親なんだから察してあげて」と言われて相手にされず、警察に相談しても、「具体的な証拠が無いと動けない」と言われ、大人達に激しい憎悪を抱いた。
 そんな中、身体の傷を見て心配した親から病院に行く様に勧められた。
 医者に殴られた跡を見せると、「誰かに殴られたのか?」と心配そうに訊かれると、遂に溜め込んでいたものを爆発させる形で、いじめに遭った事を話した。その後、医師がすぐさま警察に通報してくれた。
 当然その事は学校にも知れ渡ったが、不運にもいじめっ子達の耳にも入ってしまい、放課後、校舎裏に呼び出された。
 嫌な予感がしたので最初は断ろうかと思ったが、そうなったら後で何をされるか分からないので、不安を抱えたまま約束通り一人で校舎裏にやって来た。そこには五、六人のヤンキーが待ち構えていた。最初に、リーダー格の少年が亘宏に問い詰めた。
「お前、警察に俺達の事をチクっただろ」
 亘宏は黙っている事しか出来なかったが、返答をする間も無く、リーダーは亘宏の顔を殴りつけた。その拍子で亘宏が倒れた隙にリーダーはすぐさまマウントを取り、他の仲間も駆けつけて、一斉に顔面や胴体を殴りまくった。拳や蹴りの雨が激しく降り注ぐ。逆恨みとはいえ、激しい憎悪をぶつけんばかりの勢いだった。このままでは、殺される。
 そう思った亘宏は、手を強く握りしめ、リーダーの顎に強烈なアッパーを喰らわせた。
 殴られたリーダーの身体は弧を描く様に宙を舞い、地面に仰向けとなった状態で倒れ、そのまま気絶してしまった。
 非力ないじめられっ子が突如発揮した火事場の馬鹿力に、現場は一時静まり返ったが、状況を理解すると周りにいた少年達は恐れをなして蜘蛛の子を散らす様に逃げていった。
 これがきっかけで、いじめっ子達は逮捕され少年院に送致、自身の攻撃も正当防衛とみなされ、不起訴となった。
 この事は、地元のマスコミにも報じられ、学校も謝罪会見を開き、彼らを退学処分にすると発表した。あの医師には、今でも感謝している。
 いじめっ子達が逮捕された事をニュースで知った時は、内心「ざまあみろ」と嘲笑い、もう二度と学校でいじめに遭う事は無いと信じていたが、そう都合良くは進まなかった。
 いじめっ子が逮捕された翌日、明るい気持ちを抱きながら、教室に入ると一瞬ではあるが、クラスメイトが一斉に自分を睨みつけた。「何でお前が追い出されなかったんだ」と言わんばかりの憎悪の目だった。この時、今までとは違った恐怖を覚えた。当然、猫を被って「今まで、ごめんね」と謝って来る人は一人もいなかった。
 また、今まで学校に通っていたクラスメイトの何人かを見かけなくなった。
 授業中も先生から当てられる事は無く、休み時間になっても誰も声を掛けず、完全無視。他のクラスの同級生、先輩、後輩、教師すら自分と関わらなくなった。
 確かに、いじめは無くなった。だが、嫌われなくなった訳ではなかった。
 実際、ネットでは本人に直接面と向かって言えない文句や不満をぶつけるかの如く、自分の中傷や謂れの無い噂が広まっていった。
『何で、あんな無能なキモデブのせいで、自分達までヒドイ目に遭わないといけないの?』
『寧ろアイツの方が追い出されるべき! つーか、学校来んな!』
『警察に通報したからって、調子に乗りやがって。生意気な奴!』
『いじめられた奴も、あれがきっかけでいじめ返す様になって、マジ最悪』
 その噂は瞬く間に広がり、学校だけではなく近所からもますます白い目を向けられてしまった。
 自分は何も悪い事はしていないのに、何故自分がこんな目に遭わなくてはいけないのかと思い悩んだ。
 腫物扱いをされるのは気分が良くなかったが、それでも直接いじめや暴力を受けていた時と比べればマシと、自分に言い聞かせて学校に通い続けた。
 そして、数ケ月後が過ぎたある日の放課後。担任教師が大事な話があるから今すぐ校長室まで来る様にと言われた。
 嫌な予感をしながら担任教師に着いて行く形で校長室に入ると、黒い革のソファに腰かけた校長先生がいて、その向かい側の席には両親が座っており、三人とも神妙な面持ちだった。何の用事があるのかと父親が尋ねると、校長先生が重い口を開いた。
「もう、うちの学校ではこれ以上、花村君の面倒を見る事は出来ない。申し訳ないけど、退学してくれないか」
 この発言を聞いた時、亘宏は勢いよく立ち上がり「どうしてですか!」「納得がいきません!」と強く反論したが、それでも校長先生は冷静な口調で理由を話した。
 自身の成績・素行不良はもちろん、事件が地元のマスコミに大きく報じられた事で、他の生徒も近所で陰口を叩かれる等の風評被害を受けて、不登校、退学してしまった他、学校に来なくなったクラスメイトが教師に、「花村と関わりたくない」「あんな奴の顔を見るのは、もう嫌!」と告げていたのである。
 そのせいで、遂に教師も手に負えなくなってしまったのである。早い話が、厄介払いだった。
 実際、成績は悪かったし、素行も決して良いとは言えなかったけど、それにしたって事件の被害者を追い出すのは、あまりにも理不尽な仕打ちだった。
 向こうが丁寧に理由を説明しても亘宏は納得がいかず、感情的になって反発し、遂に校長先生を殴った。当然、現場は騒然となり両親と駆けつけた教師数人によって押さえつけられた。それでも、必死になって抵抗したが最後は体育教師に殴られて気絶させられて、そのまま学校から追い出されてしまった。
 今のご時世に体罰という名の暴力を受けるとは思わなかった。
 幸い校長は軽い怪我で済んだものの、この事が決定打となり自身まで強制退学処分となってしまった。それを知らされた時は、身勝手な連中だと教師を酷く恨んだ。
 さすがに、この事はマスコミで表沙汰にはならなかったが、近所ではあっという間に広まった。陰口を叩かれたりシカトされたりして、完全に自分を疎外していた。その結果、遂には外出する事すら苦痛になり、以後は自宅に引きこもらざるを得なくなったのである。
 両親は、息子の事情を分かっていたので、当初は何も言わなかったが、やはり自分達も非難を受けて次第に精神を病み、息子が二十一歳になったある日、遂に溜まっていたストレスが爆発したのか、強引に息子を自宅から追い出してしまった。
 きっと、息子のせいで自分達も肩身の狭い思いをしてしまい、それでも反省する素振りも無く家でゴロゴロしている息子に痺れを切らしたからだろう。
 そう考えると無理もないが、仮に「働け」と言われた所で職探しや仕事に行く事は出来なかった。
 仮に応募したところで不採用になるだけだし、運良く採用されても周囲からは陰口を叩かれ仕事でミスをして、すぐにクビになるのは目に見えていたからだ。そう思うと、実行に移す事は出来なかった。
 その結果、自宅を追い出された今となっては、そんな事を口にしてもどうしようもないのだけど。
 その後は、路頭に迷って完全に絶望していたが、そのおかげで素敵な女性に出会えたとなると、今までの不幸を全てチャラにしても良いとすら思えた。
 それにしても、この美女は一体、何者なのだろうか。どこに住んでいるのか、年齢は幾つか、誕生日はいつか、どんな仕事をしているのか、家はどんな感じなのか、趣味は何か、好きなものは何か、休日は何をしているのか、彼氏はいるのか、結婚しているのか、3サイズは幾つか。
 亘宏は、梨華ともっと話をしたいと思った。色々な事が聴きたかった。彼女の事が知りたかった。彼女と仲良くなりたいと思った。彼女の彼氏になりたいと思った。
 だが、母親以外の女性とロクに会話した事が無い童貞には、何からどう話せば良いのか全く分からず、結局それ以降は一切会話する事が出来なかった。

「着いたわよ」
 車で一時間後、梨華は家の駐車場に車を停めた。ようやく家に辿り着いた様だ。車窓から建物を覗くと、そこには豪邸が建っていた。まるで、ヴィクトリア朝を彷彿とさせる、おごそかで立派な屋敷である。ワインレッドを基調とした屋根とアイボリーの壁が見事にマッチしており、歴史の史料集に出て来たり、世界重要文化財に指定されたりしてもおかしくないレベルである。
「あ、あの……梨華さん、この屋敷って……」
 亘宏は指差しながら尋ねると、梨華はあっさりと答えた。
「ここは私の家よ」
 それを聞いて亘宏は「えぇっ?!」と、腰を抜かした。こんなに立派な豪邸に住んでいるなんて! 中が一体どうなっているのか、どんな暮らしをしているのか非常に気になった。
「さぁ、着いて来て」
 梨華はそう言ってスタスタと歩いて行ったので、亘宏もその後に着いて行った。
「ただいま」
 梨華がドアを開けると、そこには使用人達が左右両脇にズラッと並んでいた。まるで、漫画から飛び出してきたかの様な光景である。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
 使用人達は、一斉にかしこまりながら頭を下げた。全員かなり訓練されている様だ。更に、向こうから白髪に片眼鏡を掛けた黒いスーツの老人の男性がやって来た。彼がこの使用人達をとりまとめるトップである様だ。
「彼が、お嬢様がおっしゃっていた花村亘宏様ですね」
「そうよ。彼、路頭に迷っていたから、しばらくの間、この家に住まわせてもらえないかしら?」
 梨華の頼みに、執事は「かしこまりました」と礼をした。礼をする姿勢が様になっていた。
「紹介するわ。彼は私の執事の木(き)水(みず)よ」
 執事の存在は、漫画やアニメで既に知っていたが、実際にこの場で本物の執事を見るのは初めてである。現代の日本にも執事が実在しているとは思わなかった。立ち振る舞いもイメージ通り、いかにも紳士的である。
「は、初めまして! 花村亘宏です!」
 亘宏は、執事を前に緊張した面持ちで深く頭を下げた。
「初めまして、私は梨華様に仕える執事・木水と申します。亘宏様、今まで路頭に迷う生活を送られたそうで、さぞお辛かった事でしょう。では、こちらの部屋にご案内します」
 木水は、亘宏を部屋まで案内した。
 廊下にはワインレッドの絨毯が敷かれ、壁と床はアイボリーの大理石で出来ており、いかにも洗練された高級感を漂わせていた。更に、壁にはゴッホやピカソなど有名芸術家の作品が飾られていた。これを見て亘宏は、梨華は本物のセレブなのだと改めて分かった。今まで見た事が無い光景に、亘宏は案内されている間も辺りをキョロキョロと建物内を見渡していた。
「こちらが亘宏様のお部屋でございます」
 執事がドアを開けると、そこには、一流ホテルのスイートルームを彷彿とさせる部屋があった。部屋には、外国から輸入したと思われる重厚な造りの家具が置かれてあり、白に統一された、おしゃれなデザインで金色の細工が印象的だった。きっと、凄腕の家具職人が作ったものなのだろう。
 天井には、豪華なシャンデリアが吊り下がっており、毎晩、天井のシャンデリアを眺めながら、目を閉じたら、きっと素敵な夢を見られそうな気がした。
 更に、ソファやテレビ、パソコンも置いてあり、こんな部屋を今まで公営住宅暮らしだった自分が、果たして使って良いのだろうかと思った。
「今日はさぞかしお疲れになった事でしょう。この家にはお風呂がありますので、身体を洗ってください」
 そう言われて、亘宏は執事に案内され、浴室に向かった。服を脱いで扉を開けると、公営温泉並みの広さだった。しかも、浴槽には大理石が使われており、壁には芸術的な彫刻が施されている。
 身体を洗った後、亘宏は湯船に浸かった。温泉ではないので、身体的効能は特にないが、お湯はとても温かく心が和らいだ。これだけ広い温泉に一人でいると、何だか少し寂しい気もするが、今の亘宏はこれで十分満足だった。
「亘宏様、お風呂の湯加減はいかがですか?」
 お湯に浸かってリラックスしていると、扉の向こうから使用人らしき人物の声が聞こえた。若い女の声である。
「うん、凄く気持ち良いよ」
 すると、女性から声が返って来た。
「よろしければ、お背中を流しましょうか?」
 それを聞いて、亘宏の期待が膨らんだ。
「お、お願いします」
 亘宏が声を掛けると、「では、失礼します」の声と共にドアが開き、メイドが一人、入って来た。年齢は二十歳前後。黒いボブヘアーにぱっちりとした瞳、透き通る程の白い肌で、アンティーク人形の様に、小柄で愛らしい女性である。
「初めまして、亘宏様。私、この家に仕えるメイド・鳴海加奈(なるみかな)と申します」

 加奈は丁寧にお辞儀をすると、袖をまくって、タオルで亘宏の背中を丁寧に洗った。子供の頃に母親から身体を洗われた時を除き、女性から身体を洗ってもらうなんて生まれて初めての体験だ。しかも、こんなに可愛らしい女性に洗ってもらえるというギャルゲーにしかないシチュエーションを実際に体験出来るのは、願っても無い幸せだ。
 女性がタオルで背中を優しくこする。鏡越しで眺めるその光景は、何とも心地良い。
 欲を言うなら、バスタオルを巻いて登場して欲しかったけど、それでも十分に満足だった。
「それでは、お背中を流しますね」
 背中が洗い終わると、加奈は亘宏の広い背中をシャワーで洗い流した。
「綺麗になりましたよ」
 後ろから聞こえる可愛らしい声が、高揚感を増した。
 風呂から上がり、肌触りの良いシルクの生地で出来た寝間着に着替えると、亘宏はベッドに寝転んだ。マットは、ふかふかとしていてとても柔らかく、布団とシーツの手触りも非常に滑らかで、このまま眠りに就いてしまいそうなくらいに、心地良かった。
 その時、扉の向こうからノック音が鳴った。
「入っても良いかしら?」
 梨華の声だ。亘宏が「どうぞ」と声を掛けると、梨華と木水が入って来た。
「どうだった? 私の家は」
「うん、とても良かった。使用人の人達も皆優しいし、こんなに良い所だとは思わなかったよ」
 数々のおもてなしに亘宏は満足気に答えた。
「良かったー。合わなかったらどうしようかと思っていたけど、気に入ってもらえてとても嬉しいわ」
 梨華の顔からは満面の笑みが零れた。こんなに素敵な笑顔が見れると、こちらも嬉しくなる。
 そこへ、木水が口を挟んで来た。
「亘宏様、今日から我が邸宅にお住まいになりますが、その上でお願いがあります」
「えっ、お願いって?」
「一つは、この自宅には地下階に続く階段があるのですが、そこには決して立ち入らない事。二つ目は、梨華様からの許可なく、お一人で外出しない事。三つ目はこの家で周りに迷惑を掛ける行為はしない事。この三つを厳守していただければ、ご自由になさって結構です」
 それを聞いて、亘宏は若干躊躇した。何故、こんな事を守る必要性があるのかが分からなかったからだ。
 学校の校則も、教師が生徒を都合良く拘束する為の詭弁としか思えず、教師に叱られて癇癪を起こした事もあった。無論、これは自分が校則を守れなかった故の責任の押し付けではあるが。
 でも、三つだけならどうにか守れるだろうし、断ったら追い出されると思い、亘宏はこれ以上深く考えずに「分かりました」と承諾した。
「じゃあ、今日は色々とあって疲れたでしょうし、早く寝ましょう」
「分かった。それじゃあ、お休み」
 梨華と木水が部屋を出た後、亘宏は電気を消して、そのままベッドで目を閉じた。しかし、突然訪れた幸運に未だ興奮が収まらず、なかなか眠れなかった。
 これから先、どんな生活が待っているのだろう。そんな思いを馳せながら、亘宏は眠りに就いた。

 亘宏が寝静まった後、梨華は木水と共に、自分の部屋に戻った。
「お嬢様、今回も路頭に迷っている人に救いの手を差し伸べるとは、何とも心優しい御方ですね」
「そんな事はないわ。だって、困っている人を助けるのは当然の事でしょ。それに家に招いた以上、彼はお客様なのだから」
 それを聞いて、木水も穏やかな笑みで返した。
「そうでしたね。我々の目的は、あくまでお客様を楽しませる事」
「そうよ。何が起きるか、楽しみだわ」
 そんな事を呟く梨華は、三日月の様に微笑んでいた。

 梨華に誘われる形で、今まで貧乏暮らしだった自分には不相応な位に豪華な家に住む事になってしまった事に、亘宏は未だ受け入れられずにいた。
 決して嬉しくない訳ではないが、何せ身の回りにあるものが今まで実物で見た事がないものばかりだからだ。異世界とまではいかないけど、別世界に転移した気分である。
 ベッドで重い瞼を開けて目をこすりながら、亘宏はそんな事を思っていた。しかし、目を開けて真っ先に視界に入る、天井にぶら下がったシャンデリアが、これが夢ではない事を教えてくれる。
「失礼します」
 ドアの向こうからノック音の後に、若い女性の声が聞こえた。
「あっ、はい。どうぞ」
 亘宏が返事をすると、加奈が部屋に入って来た。
「おはようございます、亘宏様。お目覚めの方は、いかがですか?」
「あぁ、凄く気分が良いよ」
「それでは、朝の身支度を済ませたら朝食がございますので、お早めに準備してください。食堂までは私がご案内します。梨華様もいらっしゃいますので、お早めに」
 そう告げると、加奈は部屋を出た。

 身支度を終えて、加奈に案内される形で食堂に入った。
「おはよう、亘宏君」
 テーブルの向こう側に座っていたのは、梨華だった。そして、彼女の隣には料理服を着た女性が立っていた。それを見て、彼女がこの屋敷のシェフだと理解した。
「梨華さん、おはようございます」
 亘宏は、はにかみながら礼をした。梨華に話しかけるのは、未だに緊張する。
「亘宏君は、手前の席に座って」
 梨華に言われて、加奈が引いた手前の椅子に座った。
 テーブルには今日の朝食であるスクランブルエッグとバターロール、サラダ、コーンポタージュ、紅茶があった。彩りがきれいになる様に盛り付けられており、栄養バランスもきちんと考えられている様だ。
「それじゃあ、あなた達は部屋を出て良いわよ」
「はい。では、失礼します」
 と告げると、加奈とシェフは食堂から出て行き、残ったのは亘宏と梨華の二人だけとなった。食堂が広いので、二人きりだと何だか少し寂しい気もするが、運転手がいないので自動車に乗った時以上の緊張感がある。
「あ、あの……これ、食べても良いですか?」
「うん、良いわよ」
 そう言って、麗華は先に「いただきます」と口にした後、スプーンを手に取り、スクランブルエッグをすくって口に運んだ。マナーが良くて品があるので、少し見惚れてしまっていた。
 レストランには、ほとんど行った事が無いが、それでもマナー違反にならない様に、梨華の手つきを見ながら、それを真似て食事を摂る。
 梨華と二人きりで食事を摂れるのは嬉しいけど、やっぱりかなり緊張する。
「どう、お味は?」
 亘宏の緊張を察したのか、梨華が微笑みながら、感想を聴いてきた。
「あっ、お、美味しいです……」
 それを聞いて、梨華は「それは良かったわ」と喜んだ。正直、修学旅行で食べたホテルの朝食より絶品の味だったし、彼女の笑顔を見るだけで、その旨さが更に引き立つ気分だ。
「それじゃあ、紅茶も一口飲んでみたら? これ、私のお気に入りなの」
 梨華に勧められて、亘宏は野ばらをあしらったアンティークのティーカップに注がれた紅茶に目を向けた。紅茶の色は少し黒っぽくて色が濃く、芳醇な香りがする。普段、紅茶は飲まない亘宏だが、試しに一口飲んでみた。
 すると、亘宏の舌に電撃が流れる程の衝撃が走った。フルーティーな味わいでコクがあり、優しい味が口の中に広がっていくのが分かる。
「何だ、これ……凄く美味しい……」
 グルメリポーターの様に、大きなリアクションや気の利いたコメントは出来ないが、ただただ感心してしまった。本当に美味しいものは、口にした人間の言葉を一時的に失わせる程の力があるのだと、この紅茶を見て思った。
 どうにか、言葉を取り戻した後、亘宏は梨華に質問した。
「これ、一体どんな紅茶なんですか?」
「あぁそれ? アッサムよ」
「あっさむ?」
 聞いた事がない名前である。
「アッサムはコクが強いけど、濃厚で渋みも無いから美味しいの。ミルクティーで飲む人もいるけど、私はストレートで飲む事が多いわね」
「へ、へぇ……そうなんですか」
 紅茶に詳しくないので話についていけないが、とりあえず適当に相槌を打つ事にした。
 その時、せっかく梨華と会話出来る機会なので、亘宏は昨日から気になっていた事を質問する事にした。
「ところで、ちょっと気になった事があるのですけど」
「何かしら?」
「梨華さんの家は凄く立派ですけど、梨華さんのご両親って一体どんなお仕事をされているのですか? あと、梨華さんは、どんな仕事をされているのですか?」
 その質問に、梨華はすぐに答えた。
「ゴールデンウィングっていう会社、聴いた事あるかしら? あそこ、私のお父さんが社長を務めていて、私も今そこで働いているの」
「えぇっ?!」
 それを聞いて亘宏は思わず、椅子から転げ落ちそうになった。
 ゴールデンウィングという会社は、大手企業グループであり、CMでも度々流れているので亘宏も名前は聴いた事があった。
 ゴールデンウィングは、元々は金融業を営んでいたが、次第に業績を上げていく中で、エンタメ、介護、医療、飲食、出版、IT、ファッション、不動産、スポーツ界など幅広い分野に参入して勢力を伸ばしていき、近々社長が政界にも進出するのではないかと噂されている。それだけ勢力が大きい一流企業グループなのである。
 その社長令嬢が梨華であるとは。それなら、これだけ立派な豪邸や大勢の使用人を抱えていても、おかしくない。
 そんなお嬢様と出会えるなんて、案外世の中は狭いものなのかもしれない。
「ところで、今日はイメチェンをしてみない?」
「えっ?」
 突然のお誘いに、亘宏は耳を疑った。
「い、今なんて……い、イメチェンだなんて、そんな……」
 驚きのあまり、再び言語が崩壊しかけている亘宏に梨華は、
「だって、あんなよれよれのパジャマみたいな服にだらしない顔じゃ、カッコ悪いでしょ。だから、私がコーディネイトしてあげようと思って」
 それを言われて、亘宏は内心軽いショックを受けた。自分がブサイクである事は自覚しているが、それでもサラッと言われるのは、たとえ恩人であっても心が痛かった。
 おしゃれに関しても、お金を掛けられる程の贅沢は出来なかったのだが、やっぱりテレビに映っているイケメン俳優やアイドルが着ていた服と同じものを着たいと思った事は、数えきれない程あった。
「でも、大丈夫なんですか? 自分で言うのもなんですけど、僕、周りからブサイクだと言われてたんですよ」
 すると、梨華は笑顔で返してきた。
「大丈夫。男の人だって綺麗にすれば、見違える様になるから」
 それを聞いて、微かな希望が生まれた。もしかしたら、これを機にイケメンに生まれ変われるのかもしれない。しかも、今まで指をくわえてみるだけだった、あの服が着れるチャンスかもしれない。そう考えた亘宏は、答えた。
「だったら、お願いします!」

 朝食を終えた後、すぐさま使用人が現れて部屋まで案内された。
 部屋に入ると、そこには複数の使用人がいたが、制服は着ておらずシンプルな私服を着ていた。
「お待ちしていました。梨華様、亘宏様」
 突如、現れた女性と後ろにある色とりどりの服が洋服店の様に陳列されており、亘宏は豊富過ぎる服に目をパチクリさせた。
「こ、ここは……」
 亘宏は恐る恐る陳列する服を指差しながら、梨華に尋ねた。
「ここは、試着室よ。私が着替える時、使用人に着替えさせてもらっているの。ここにいる人達は、全員私の専属スタイリストとファッションデザイナーで、ここにある洋服だって芸能人や海外のセレブから結構人気が高いブランドばかりよ」
 それは、カラフルで個性的なデザインの服を見れば、何となく分かる。だが、興味こそあるが、ファッションに極めて疎い亘宏には、自分にどんな服が似合うのか全く分からなかった。
 そもそも、致命的なまでにルックスが醜悪な自分に、似合う服なんてあるのかどうかも怪しい。
「亘宏さん、初めまして」
 最初にやって来たのは、若い女性スタイリスト。気さくで、親しみやすい雰囲気がある。
「ねぇ、彼の服をコーディネイトしてあげて」
 梨華は亘宏の肩を叩きながらお願いした。
「かしこまりました。さぁ、どうぞ」
「えっ? ちょっとちょっと……」
 スタイリストは、それぞれ亘宏の腕を引っ張り、彼の服を脱がした。
「いや、服は自分で脱げますから……」
 慌てる亘宏を見て梨華は、
「それじゃ、私はちょっと部屋を出るわ。出来上がりを楽しみにしているわよ」
 と言い残して、部屋から出て行った。亘宏は、梨華に「待って!」と声を掛けようとしたが、その言葉は届かなかった。
「それでは、まず採寸しますね」
 スタイリストはメジャーを取り出して、亘宏の身体を採寸した。自分の身体を直接測られるなんて、何だか照れくさい気がした。
「3サイズは、上から、100 100 100ですね」
 グラビアアイドルではないので、今まで3サイズなんて意識した事すら無かったが、まさか3サイズの数値が一緒とは思わなかった。
「あ、あの……でも、僕に似合う服なんてありますか?」
 恐る恐る尋ねる亘宏に対して、スタイリストは、
「大丈夫ですよ。あなたにも、似合う服はちゃんとありますから」
 と笑顔で答えた後、「では、少々お待ちください」と言って、数々の服を選ぶが、やっぱり不安は拭えなかった。
 数分後、スタイリストが「お待たせいたしました」と言って、服を持ってこちらにやって来た。
「こちらの洋服はどうですか?」
 スタイリストが持ち込んで来たのは、青のチェック柄のシャツと白いTシャツ、ジーンズ。割とカジュアルな服装である。
 スタイリストから服を受け取ると、亘宏はそれに着替えた。

 十分後、
「着替え終わった?」
 扉の向こうから、梨華の声が聞こえた。
「うん、今開けます」
 亘宏は扉を開けた。
 そこには、今まで地味で寝間着同然の服とは違い、とてもカジュアルでおしゃれな亘宏の姿があった。生地の肌触りも良く、明るい感じである。
 これなら、都会の街を歩いても、問題ないだろう。
「キャー、すっごく似合っている!」
 梨華は、拍手をしながらはしゃぐ様に褒めた。
「とても、よく似合っていますよ」
 スタイリストも絶賛だ。
「そ、そうかな……?」
 梨華やスタイリストから誉められて、亘宏は照れ笑いした。
「そんなに謙遜する事ないわよ。さっきの寝間着みたいな服と比べたら、断然カッコ良いわよ。これを着て、街を歩いたら、可愛い女の子から声を掛けてくれるかもしれないわね」
 梨華がチャーミングな笑顔で返した。単に、お世辞を言われているだけかもしれないけど、梨華に褒められると、たとえお世辞であったとしても嫌味が無くて、素直に嬉しい。
 このファッションで街に行ったら、本当に可愛い女の子から声を掛けてくれるかもしれない。

 おしゃれな服で、街を意気揚々と歩く自分。誰もが自分に注目している。
「キャー、亘宏さんよ!」
「嘘、本物?!」
「あぁ、花村スゲーカッコ良すぎるぜ」
「あっ、私、亘宏さんと目が合っちゃったー!」
 自分が道を歩けば若い女性が必ず振り返り、キャーキャーと黄色い声で手を振ってくれる。男性達も突如現れた街の有名人に驚きの歓声を上げている。まさに、自分はこの街のスターだ!
 そんな彼を周りの人達は放っておかない。
 早速、パリコレモデル並みに抜群のスタイルを持った美女が、キュートすぎる笑顔で亘宏に声を掛けた。
「ねぇ、今晩私の家で過ごさない? 場所は、六本木のクラブよ」
 パリコレ美女から、逆ナンという形でお誘いを受けてしまった。しかも、セレブが大勢住む六本木なら、幻想的な夜景を見ながらデートをする事が出来るかもしれない。更に、パリコレ美女は、亘宏の耳元で蠱惑的に囁く。
「今晩は、寝かさないから」
 今ここで、パリコレ美女のお誘いに乗れば、夜はきっと強烈に甘いひと時が過ごせるのだろう。
 そこへ、また別の美女が現れた。今度はウェーブのかかった黒髪と豊満な体型が印象的なセクシー&グラマー美女である。
「ちょっと、あなた。私の亘宏さんに何をしているの?!」
 グラマー美女は、亘宏の腕を自分の胸に挟み、誘惑してくる。
「亘宏さん、こんな女と付き合うより、私と一緒に過ごした方が楽しいわよ。今日、おしゃれなバーがあったから、そこで二人きりで飲みましょう」
 グラマー美女からの熱烈なアプローチに、心が惹きつけられる。バーで、美女と二人きりでカクテルを飲み、その後はホテルのベッドで一夜を共にする。そんな夜も悪くはない。
「待ちなさい! 花村君は私だけのものよ!」
「私だって、亘宏君とデートするんだから!」
「皆して、ズルイ! 花村さんとドライブに行くのよ!」
 その後も、亘宏を放っておかない美女達が次々と押し寄せて来て、取り合いになる。
 一見すれば、このまま取り合いが続けば修羅場と化して、警察が駆けつける程の騒動になってしまいそうだが、妄想の世界で大勢の美女達に揉まれる体験は亘宏にとっては、昇天しそうになった。

 甘くて心地の良い妄想に浸っていると、別のスタイリストが声を掛けた。
「では、こちらの服はどうですか?」
 今度は、黒を基調とした服を持って来た。
 黒の唾広帽子とスーツにワインレッドのシャツが目立ち、いかにもマフィアの様な渋い雰囲気である。チョイ悪と言われるには、まだ早すぎる年齢だが、割と絵にはなっている気がした。
「凄い凄い、とってもよく似合っている!」
 梨華に褒められた時、亘宏は金髪のグラマーな外国人美女を脇に抱え、黒のリムジンで、赤ワインが入ったグラスを片手に侍らせている様を妄想した。

 仕事を終えた凄腕スナイパー・ノリヒロ。今夜は、高級ホテルにあるレストランで、ディナーをした後、ホテルのスイートルームで彼女を抱く予定だ。
「今晩は、素敵な夢を見させてあげるよ」
 そんな甘い言葉を美女の耳元で囁く。
 ところが、せっかくの甘いムードを邪魔する様に銃声が鳴る。敵対するマフィアからの攻撃だ。どうやら、背後から銃を撃って攻撃している。これじゃあ、彼女が怖がるだろ。
 亘宏は窓を開けると、背後から追いかけてくる車に、ピストルを二発撃つ。すると、敵は「ぐあっ!」と、悲鳴を上げながら、顔を引っ込め、更にもう一発タイヤに向けて撃つと、車がスピンして、そのまま壁に激突し、そのまま爆発して敵の車は炎に包まれた。
「ふぅ……君に怖い思いをさせてしまったぜ」
 敵からの攻撃で怯えてしまった美女の頬に機嫌直しのキスをすると、彼女は先程の戦いの疲れを吹き飛ばす程の微笑みを見せた。
 そして、夜は高級レストランでディナー。赤ワインをグラスに入れて、都会の夜景を見ながら乾杯。ミディアムで焼いた高級ステーキを口にした後は、スイートルームのベッドで、とびっきり甘いひと時を過ごすのであった。

「むふふ……」
 梨華とスタイリストの言葉に褒められて、亘宏は再び内心舞い上がっていた。完全に自分の世界に入り込んでしまっている。こんなところを梨華や使用人以外の誰かに見られたら、明らかにドン引きされても仕方ないだろう。
 だが、今まで人から誉められる事が無かった亘宏にとって、誰かに称賛されたのは、本当に嬉しかった。
「そ、そう褒めてくれると嬉しいです」
 亘宏は、満更でもない様子ではにかんた。
「それでは、どの服になさいますか?」
 スタイリストから訊かれて、亘宏は困惑してしまった。どれも良い服なので、正直どれにしようか迷ってしまった。
 二十分ほど迷った末、スタイリストが最初に選んでくれたカジュアル系の服を着る事にした。
「次は、髪を切るわよ」
「か、髪ですか?」
 亘宏は自分の髪を抑えながら青ざめた。
「そうよ。美容室で髪を切ってもらう様なものだし、メイクもするから」
 梨華は笑顔で話すが、不安があった。近所に床屋さんはあったが、美容室なんてオシャレな店は無かった。美容室と言われると、オシャレな人しか入れないイメージがあって、仮に近所にあったとしても、どことなく入りづらい空気がある。
 もし、あんなところへ、ブサイクな自分が入店したら、速攻で追い出されるのではないかという恐怖すらあった。
 もちろん、これは本人の被害妄想であるが。
 メイクだって女性がするものだと思っており、男性の自分がメイクをされるとは思ってもみなかった。身だしなみを整える程度ならともかく、そんなものでブサイクな顔が良くなるのだろうか。
「お待たせいたしました」
 今度は、美容師の若い男性がやって来た。爽やかな笑顔が印象的な好青年である。亘宏にとっては、嫌いとまではいかないまでも若干苦手なタイプである。正直、オーラが違い過ぎて、近寄りがたい雰囲気があるからだ。
 ああいう男は、いかにも女性からモテそうなイメージがある。もし、街で彼が可愛い女の子とデートしているところを見たら、「リア充爆発しろ」と呪詛を唱えているに違いない。
「今日は、彼をとびっきりカッコ良くしてくれる?」
 梨華が美容師に注文すると、
「かしこまりました」
 と言って、亘宏を椅子に座らせると、クロスを着させた。
 そして美容師はハサミでテンポ良く、亘宏の髪を切って行く。髪を切る音がリズミカルで心地良く、ジッと待っている中、だんだんと瞼が重くなっていき、そのまま眠りに就いてしまった。

「終わりましたよ」
 美容師に声を掛けられて、目を開けると、鏡の中には綺麗に髪を切り揃えた亘宏の姿があった。しかも、不揃い気味の眉毛もキリッと整えられており、シミで汚い肌も綺麗になっている。
 これなら、街を歩いていても、不審者扱いされたり気味悪がられたりと、周囲に不快感を与える事は無さそうだ。
 でも、一体どうやって仕上げたのだろう。
「あ、あの……肌は、どうやって……?」
「お肌の方はパックをした後、ファンデーションとコンシーラーを使いました」
「ファンデーション? コンシーラー?」
「はい。色が白いので、少し明るいカラーを使いましたが、いかがですか?」
 肌が白いのは、今まで家に引き篭もっていたからなのだが、依然と比べたら肌色は良く、病的な印象は全く無い。
 試しに鏡の前で顎に人差し指と親指を添えて、カッコつけのポーズを取ってみた。自分で思うのもなんだが、割と様になっている。こうして見ると、自分の容姿もそんなに悪くなかったのだと思える。

 夜のクラブに行けば、ステージでレコードを回すクラブの花形・DJよりも注目を集める。ヒップホップの音楽に合わせて、アクロバティックなヒップホップダンスを披露して、会場を沸かせる。
 そんなダンスを見て、DJが声を掛ける。
「Hey、ノリヒロ。お前のダンスはマジでCOOL(クール)だぜ! そのダンステクニックをステージで見せてくれ!」
 DJからの突然のお誘いで、亘宏はステージに上がった。
 ステージに上がった亘宏は、刺激的なBGMが流れる中、ウィンドミルを披露する。巨体から魅せるアクロバティックな動きに、会場から黄色い歓声が上がる。
 レコードの摩擦音がリズミカルに流れ、会場を更に盛り上げる。
「キャー! 亘宏クン、カッコイイ!」
「こんなダンステクニック見た事が無い!」
「コイツ、マジでヤバイぜ!!」
 観客達は、自分のパフォーマンスに黄色い声を投げかける。
 今の自分は、まさにダンスヒーローだ!

 当然、実際はダンスなんて全く出来ないのだが、妄想の世界では、現実では絶対に出来ないパフォーマンスを披露して、亘宏は一人で悦に浸っていた。
「さぁ、イメチェンも終わった事だし、ちょっと二人で出掛けましょうか?」
「お、おでかけ?!」
 まさかのお誘いである。
「だって、あなたは今までずっと自宅に引きこもっていたのでしょ。自分のルックスにも少しだけ自信が持てる様になったのだから、これを機会に外に出るのも良い機会だと思うの」
「でも……」
 梨華の意見には一理あるが、果たしてそれで上手くいくのかと思った。
 妄想の中では、かなりの美女達からもてはやされたり、注目を集めたりしていたけど、現実ではそんな風にはいかない。
 そんな事をして、もし誰かに笑われたり、過去の自分を知っている人に出くわしたりして、気まずい雰囲気になったらと思うと、とても不安になる。
 そんな亘宏の内面を見透かしたのか、梨華は、
「大丈夫よ。今のあなたなら、絶対に笑われる心配は無いわ。もし、あなたを悪く言う人が現れたら、私が何とかしてあげるから」
 それを聞いて、亘宏は頷いた。

 梨華に誘われる形で、亘宏は久々に自ら玄関を出た。
 今回もベンツの車であるが、車体のボディは黒く、依然見た白い車よりもダンディズムな印象があり、しかもリムジンである。そして、運転席には昨日一緒に乗っていた男性が座っている。彼も使用人の様だ。
「さぁ、行くわよ」
 梨華は使用人と共に、颯爽と歩き、車に乗った。亘宏も後に着いて行く。最初に乗ったベンツも衝撃を受けたが、まさか自分がテレビの中でしか見かける機会が無かった、リムジンに乗る日が来るとは思いもしなかった。
 しかし、最初に乗った時と比べて、梨華と接する事に少しだけ慣れたので、どうにか会話を試みる事にした。
 まず、先程から気になっていた事を梨華に質問した。
「気になった事があるんですけど、運転手の人は誰なのですか?」
「あぁ、彼は私のお抱え運転手の高橋よ」
 と答えた。やはり、彼氏ではなかったか。その事が分かり、亘宏は安堵の息を漏らした。
「す、すみません。ちょっと勘違いしてしまって」
「勘違いって、何を?」
「い、いや……こっちの話です!」
 咄嗟にボロを出してしまい、亘宏は慌てて誤魔化すと、すぐさま話題を変えた。
「ところで、梨華さんは自分で車を運転しないのですか?」
「うーん、運転免許証は持っているけど、ほとんど身分証明書代わりだし、自分で運転する事は、一人で出掛ける時以外では、ほとんど無いかな」
 専属の運転手に任せきりではないのか。てっきり、金持ちは皆、運転なんて使用人に任せれば良いと考えているのかと思った。
「それに今日は、荷物持ちも必要だし」
 それを言われて、亘宏は車内を見渡した。そこには、木水を始め使用人が数人一緒に乗り込んでいる。
 確かに、買い物をする以上、荷物が増えるのは必然である。それに、女性に大量の荷物を持たせるのは、さぞかし大変だろう。
 もし、車内で二人きりだったら「僕が荷物を持ってあげるよ」と、気前の良い事が言えたかもしれないが、生憎、自分は日頃の不摂生が祟っているせいで、肥えた体型とは裏腹に非力だった。
 こんな事なら、頑張って筋トレをしておけば良かったと内心後悔した。

「着いたわよ」
 目的地に到着して、車から降りるとそこにはデパートが建っていた。まるで、高層ビルを見ているかの様である。
「ここは……?」
「ここは、私の会社が運営しているデパートよ」
「マジで?!」
「そうよ。中には、スーパーやブランドショップ、レストランがたくさんあるわ。私もよく利用しているのよ」
 ゴールデンウィングは、こんなところまで手を伸ばしていたのか。意外な企業展開に、亘宏はあんぐりと口を開けた。
「でも、中で何をするのですか?」
「そりゃあ、買い物をするのよ。あなたが欲しいものを好きなだけ買えば良いわ」
 と答えると梨華はデパートの中に入り、亘宏と使用人も後から着いて行く。
 デパートの中は、自身の近所のデパートより広々としており、活気があった。建物内のデザインからして、いかにも高級感がある。
 しかも、デパートの来客もファッションやバッグなどから、本物のセレブだと分かった。こんなところに、一般庶民である自分が来て良いのかと心配になった。
 周りの人達は、使用人を連れ入って来た二人組に視線が集まったが、亘宏には特に不快な目は向けて来なかった。外見だけで、これ程までに人の印象は変わるのかと思った。
 最初に向かったのは、時計店である。ショーケースには、高級ブランドの腕時計がズラリと並んでいる。
「うわー、これロレックスの腕時計だ」
 亘宏は、ショーケースの中にあるロレックスの腕時計を見て、ケースに顔をへばりつけながら見ていた。銀色に輝くベルト、洗練されたデザインの文字盤、正確に時を刻む針。都会のビジネスマンが身に着けていたら、きっと絵になると思われるが、きっとそれ相応の値段があるだろう。
 視線を値札に向けると、何と三百万円と書かれてあった。値段が高い事は分かっていたけど、これだけの値段がするのかと目玉が飛び出そうになった。
「あっ、それが気に入ったの?」
 後ろから梨華が声を掛けると、亘宏は子供の様に、首を縦に振った。
「すみません。このロレックスの腕時計ください」
 梨華が店員を呼ぶと、眼鏡を掛けた中年男性の店員がやって来てレジを打ち、木水がクレジットカードで会計をしてくれた。
「はい、これでこの時計はあなたのものよ」
 高級な腕時計が手に入って、亘宏は目を輝かせた。貧乏人の自分が高級腕時計を手に入れられるなんて、まるで夢の様である。
「他にも何か欲しいものはある? 鞄とか洋服とか色々とあるわよ」
 それを訊いて、亘宏は二つ返事で頷き、梨華に案内される形で、色々な場所に連れて行かれ、目に着いた商品を買って行った。男性に人気のファッションブランドの服、スポーティーなリュック、アニメのDVD、シンプルな銀色のブレスレット、高価な宝石など色々なものを買った。
 そして、携帯ショップを通りかかると、亘宏は指を差しながら梨華に尋ねた。
「あの……ここで、スマホを買っても良いですか?」
「えっ、亘宏君、スマホを持ってないの?」
「はい。僕、家を追い出された時に、親から携帯電話を奪われてしまったんですよ。あれが無いと本当に不便なんです。それに、今まではガラケーだったから、そろそろスマートフォンを持ちたいなと思ったので」
 理由を話すと、梨華は快く携帯ショップに連れて行ってくれた。
 店内には、最新機種のスマートフォンがズラリと並んでいる。意外と数が多くて、どれにしようか迷ってしまう。
「あ、あの……セレブの人って、どんなスマホを使っているんですか?」
 亘宏は梨華に、恐る恐る尋ねた。すると、梨華はクスッと笑い、
「別に、セレブしか使わないスマホなんて無いわよ」
 と、答えた。
「あっ、そうですよね……」
 それを言われて、亘宏は苦笑いした。
 値段が高いスマートフォンはあるが、それでも一般庶民には手が出せない金額のものはない。
「でも、どれにしようか迷っちゃうな」
 亘宏は、スマートフォンを見ながら呟いた。色々とデザインや機能が異なるので、正直迷ってしまう。
「梨華さんは、何を使っていますか?」
「私は、iPhone(アイフォン)を使っているけど」
「じゃあ、それにします!」
 即答した。
 亘宏は契約書にサインをした後、梨華とお揃いのiPhoneを購入した。色々な種類があって、自分では決められなかったからだ。それに梨華とお揃いなら、彼女とお近付きになれた気分になれるからである。
 新しく手に入れたスマートフォンを見て、亘宏は手を震わせた。
 今までは、ガラケーで妥協していたが、やはりスマートフォンでないと、アプリが使えなかったりスマートフォン限定のサイトにアクセス出来なかったりと機種が対応しておらず、画像や動画がダウンロード出来なかったりと、不便が多かった。
 これなら、そんな問題も全て解消されるだろう。
 早速、屋敷に帰ったら、久々にエロ画像収集をやろうと思った。

 買い物を続けている途中、亘宏が梨華に尋ねた。
「そろそろお昼になりますけど、どうしますか?」
「そうね」
 梨華が腕時計を見ながら、答えた。
「じゃあ、レストラン街でランチでも食べましょう」
 という訳で、亘宏達はエレベーターで八階のレストラン街に行った。
 エレベーターのドアが開くと、そこには洋食、中華、和食、創作料理、海外の民族料理など、あらゆるジャンルのレストランが並んでいた。どの店に入ろうか迷ってしまいそうである。
「あっ、あの……レストラン街って、思ったより広いのですね……」
「そうかしら? 駅とか他のデパートと比べたら、そんなに大したものでもないけど」
 それを聞いて、亘宏は驚いた。一般庶民からすれば、これだけでも十分な広さである。だったら、その駅や他のデパートのレストラン街を見せて欲しい。
「それで、どの店に入るの?」
 その質問に、亘宏は迷ってパニックになった。どれも美味しそうな店ばかりで迷ってしまったからだ。そんな時、偶然目の前に入ってきた店を見て亘宏は指を差した。
「ぼ、僕、これにします!」
 亘宏が指差したのは、高級料理店や話題のレストランではなくて、いかにも庶民的なラーメン店だった。
「えっ、それで良いの? もっと、おしゃれな店には入らないの?」
 意外な選択だったのか、梨華は目を大きく開けたが、亘宏は店に掲げられたポスターを指差しながら、心の叫びを声に出した。
「だって、ここのポスターにあるラーメンが美味しそうだったから」
 亘宏が指差したポスターには、北海道バターコーンラーメンという文字が大きく掲げられていた。写真には、、チャーシューの上に、山の様に盛り付けられたスイートコーン。そして、その頂上に君臨しているバターが何とも目立つ。
「そういうものが好きなの?」
「はい。一度で良いから食べてみたいと思って。梨華さんは、ラーメンは嫌いなのですか?」
「いえ、ラーメンは食べられるけど」
「じゃあ、良いじゃないですか! きっと梨華さんも満足すると思いますから!」
 普段、気弱な亘宏が目を輝かせて力説するので、梨華は遂に「分かったわ」と折れて、店に入って行った。

「うわー!」
 ポスターの写真通りの北海道バターコーンラーメンを眼前に、亘宏は目を輝かせた。画像から飛び出した位のボリュームがある。そして、先程購入したスマートフォンでラーメンを撮影した後、亘宏はコーンを崩しながらラーメンを混ぜて、ラーメンを勢い良く啜った。時折、スープの雫が机の上や服に飛び散ったが、本人は食べる事に夢中で梨華が自身の行儀の悪さに若干引いている事にも全く気付かなかった。
 麺の喉越しと豚骨スープの濃厚な味は、何ともたまらなかった。この店に来た価値は十分にあったと思えた。
 亘宏は、ラーメンを口に入れたままくちゃくちゃと音を立てながら話し掛けた。
「梨華さん、どうですか、お味は?」
「う、うん。美味しいわね」
 梨華はぎこちない笑みを浮かべながらも返事をした。やはり、ラーメンが苦手なのか。
 そこへ向こうから話し声が聞こえて来た。
「なぁ、あの人って、確かこの前ネットに出てた……」
「ホントだ。近くで見ると、やっぱマジブサイクでウケるわ。写真に撮ってSNSにアップする?」
「おぉっ、良いねぇ」
 声がした方を振り向くと、そこには隣のテーブルで、若い金髪の男性二人がひそひそと会話をしているのが見えた。二人とも、自分と同世代と思われるが、ブランド品のファッションや腕時計を身に着けている。
 家が裕福なのか何かで儲けているのかまでは分からないが、軽薄で派手な風貌からは、かつて散々自分をいたぶっていた連中と同じ雰囲気があり、当時のトラウマを思い出させた。
 そして、男性は亘宏にスマートフォンを向けている。その時、梨華がすぐさま席を立ち、男性達に近付き、亘宏と男性達の間を遮るかの様に立ちはだかった。
「ちょっと、そこで何やってるの?」
 突然現れた女性を前に、男性達は梨華に文句をぶつけた。
「な、何なんだよ、アンタは!」
「私は彼の友人だけど、そういうあなた達こそ、何をやっていたの? もしかして、盗撮?」
 梨華は男性達に問い詰めた。普段の優しい印象とは違い、凍り付きそうなまでの冷徹な口調である。
「何って、俺達はただスマホを弄って遊んでいただけだよ」
 男性達は悪びれる様子も無く、答えた。しかし、梨華も簡単に引き下がらなかった。
「そうなんだ。でも、どうせ写真付きのツイートでSNSに晒して、彼を笑い者にするつもりだったんでしょ」
 彼とはもちろん、梨華が指差している亘宏の事である。
「そ、そんな事はしてねぇよ!」
 白を切る男性達だが、梨華は強引に男が持っていたスマートフォンを奪い取った。
「何があったんですか……?」
 亘宏は恐る恐る男性のスマートフォンを覗き込んだ。
 そこには、ラーメンを美味しそうに食べる亘宏の画像と『来来亭で、ノリヒロ発見! マジキモブサw 食べ方もキモイwww』という一文が添えられていた。
 彼らは自分をネット上で晒し物にして注目を集めようとしていたのである。既に、返信も付いており、リツイートによる拡散までされていた。
「こんなものをSNSに上げていたんだ……」
 汚い物を見る様な目で見つめる梨華に、男性達は反論出来なかった。
「そうやって人を陥れるなんて、最っ低ね!」
 その表情は、明らかに他人を軽蔑しており、強烈な威圧感があった。
「このツイート、今すぐ消すから」
 梨華はスマートフォンを操作して、件のツイートを削除して、スマートフォンを男性達に突き返した。
「す、すいませんでした……」
 男性達は青ざめながら詫びると、そそくさと席を離れ、店から出て行った。
「あ、ありがとうございます……」
 亘宏は小さく頭を下げた。
「気にする事は無いわよ。せっかくのランチが台無しにされたら、嫌でしょ」
 亘宏は、ラーメンを啜りながら小さく頷いた。

「せっかくのランチなのに、嫌な思いをさせちゃって、ごめんなさいね」
「梨華さんが謝る必要は無いですよ。悪いのは、アイツらですから」
「それでも、嫌な思いはしたでしょ。SNSに顔を晒されちゃったんだし。機嫌直しに、他に何か欲しいものを買ってあげるから」
 それを言われて、亘宏は再び考え込んで答えた。
「……もう、これ以上欲しいものは無いかな」
「えっ、本当に良いの?」
 意外な返答だったのか、梨華は若干戸惑いを見せた。
「うん、午前中に色々な物を買ってもらって、スマホも手に入った事だし、他に欲しいと思うものは特にないな」
「じゃあ、他にやりたい事は? 例えば、映画を観るとかカラオケで思い切り歌うとか」
「映画館は入ると気分が悪くなるんですよ。カラオケも苦手ですし、親もそれには厳しかったし」
 花村家では、「ウチは無駄な物や遊びにお金を使うだけの余裕は無い」「ロクな成績を出していないのに、遊んでいるのはマズイ」という理由で、映画やカラオケなどの娯楽は一切禁じられていた。
 しかし、それを聞いて梨華は少し寂しそうな表情になった。
 もしや、さっきの発言が原因で、梨華を傷つけてしまったのか。
「あ、あの……ご、ごめんなさい。別に梨華さんを傷つけるつもりは……」
 亘宏は、予想外の反応でパニックになりつつも、どうにかお詫びの言葉を出そうとしたが、梨華が先に口を開いた。
「それなら、ゲームセンターに行くのもダメ?」
「アーケードのゲームは、ちょっと苦手で……」
「私と一緒にプリクラを撮るのも?」
 その言葉に、亘宏は反応した。
 プリクラは、リア充の女子高生が友人や彼氏と一緒に撮るもので、自分の様な非リア充男子を一切近寄らせないオーラがあった。
 だが、梨華と一緒にプリクラを撮るなら、狭い空間の中で彼女と一緒にシールが撮れるだけではなく、画面に入る中で梨華と身体を密着させる事が出来る。かなり、ドキドキ出来るシチュエーションだ。
「そ、それなら……良いです」
 亘宏は、顔を赤らめてぎこちない返事ながらも了承した。

 ゲームセンターは、人気のアーケードや子供に人気のものが色々と置かれていた。
「うわー。最近のゲームセンターって、こんなに賑やかだったんだ。凄いな」
「そうだけど、最近のプリクラだって凄いわよ。肌色を良くしたり目を大きくしたりして、美化する事だって出来るんだから」
「マジで?!」
「うん、最近のプリクラも性能が上がっているからね」
 だとしたら、自分のビジュアルもイケメンモデルやジャニーズアイドルの様になれるのではないかと思った。無論、そこまでの高い性能は無いが。
 早速、プリクラに入り、お金を入れるとアナウンスが流れた。
「好きなフレームを選んでね」
 画面には、色々な種類のフレームが表示された。豊富な種類があって、どれにしようか迷ってしまったが、無数の桃色のハートに囲まれたフレームを選択した。
「じゃあ、どんなポーズを撮る?」
「えーっと……」
 いきなり聞かれても、戸惑う。女子高生は撮影時に色々とポーズを取っているそうだけど、そう簡単には思い浮かばない。迷った末に、亘宏はぎこちない笑顔でピースサインをした。
「じゃあ、私も一緒にやるわね」
 と言って、梨華は亘宏の腕を絡ませて身体を寄せた。身体が密着する上に甘い香りがして、胸が高まる。
「それじゃあ、撮影するよ。3、2、1……」
 撮影音が鳴った後、画面には梨華と一緒にピースした写真が表示された。
「次は、写真に落書きをするよ」
 アナウンスの声に亘宏は少し驚いた。
「えっ、落描きも出来るのですか?」
「うん。スタンプを押したり文字を書いたりする事が出来るのよ」
「へ、へぇー……」
 そんな機能まで付いていたとは知らなかった。
「で、どうするの?」
「えっ? ぼ、僕はどうすれば良いのか分からないので、梨華さんが描いて下さい!」
 正直、自分がやったところでせっかくのシールが台無しになりそうな気がしたからだ。
 亘宏の言葉に、梨華はペンにスタンプや名前を書き込んだ。やり慣れているのか、割と可愛らしいデザインだ。
 そして、数分後。遂に写真シールが出て来た。もちろん、梨華の落書きもきちんと再現されている。
 ブサイクな自分が綺麗なお嬢様のツーショット写真を手に取りながら見る亘宏の手は震えていた。他の人に見せたら、合成写真と疑われてもおかしくない位だ。
「どうだった?」
「凄く嬉しいです」
 亘宏は満面の笑みで答えた。
 このシールは、亘宏にとって世界中のどんなブランド品よりも、ずっと価値がある思い出のものになった。
「ところで、この後はどうするの?」
「もう十分満足したよ。プリクラも撮れたし、そろそろ家に帰ろう」
「本当に、それだけで満足なの?」
 梨華の意味深な言葉に、亘宏は首を傾げた。
「それだけでって……他に何かあるのですか?」
「このデパートの屋上にはホールがあるのよ」
「それがどうしたの?」
「今、ここでは最新のテレビゲームやスマホゲームが楽しめるイベントがあるのよ」
 梨華はスマートフォンを操作して亘宏に画面を見せた。そこには、実際にいたら誰もが振り向くだろう二次元美少女――今話題の美少女ゲームのキャラクターのイラストがあった。
「そんなイベントまで、あるんだ……」
 そんなイベントは東京ビッグサイトなど大規模なイベントホールでしか開かれないと思っていた。
「今もイベントをやっているから、体験してみない?」
 梨華の誘いに、亘宏は「うん」と大きく頷いた。
 その後、二人は最新ゲームフェスティバルで、色々なゲームを思う存分楽しんだのであった。

 鏡を見るのも憂鬱な程、醜かった顔面がある程度改善され、自分のルックスにも、少しだけ自信が持てる様になった。
 更に、デパートで、腕時計、DVD、ゲーム、洋服やバッグを買って、とても満足した。ここまで贅沢をした事は今まで一度も無かった。
 そして、新しいスマートフォンも手に入り、ようやく不便さが解消された。
 デパートから帰ると、亘宏は荷物を使用人に片付けてもらい、自身はすぐさま部屋に入り、スマートフォンの電源を入れて、インターネットにアクセスして、今まで溜まりに溜まった要求不満を爆散させる形でエロ画像を収集した。今までのスマートフォンに保存していた画像は、全て無くなってしまったが、新たに画像を集めて、ベッドの中で自慰に耽けた。
 久々の自慰で、性欲が満たされていった。やっぱり、二次元美少女のあられもない姿や喘ぎ声は、とても興奮する。
 それに二次元なら、たとえジロジロ見てもバレないし、セクハラしても訴えられない。勢いで犯しても捕まる心配も無い。それに、どの娘もその時の反応がオスを刺激させる程にエロい。亘宏は画像を見ながら、気持ち悪い笑みを浮かべて、ニヤニヤしていた。
 画像収集に夢中になりすぎて、夕食や風呂の時間にも遅れ、部屋に戻った後も、ベッドの上で、時間も忘れてひたすらネットに熱中した。
 だが、使っている途中でスワイプをしている時に画面の動きが鈍くなってきたのである。動きがカクカクしてきて、画面が見づらく感じる。
 その時、メールの通知音が鳴った。まだ、誰にもメールアドレスを教えていないのに、誰からなのだろうと思ってメールを開くと、こんな文章が書かれてあった。

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 文章を読んだ瞬間、亘宏は絶叫した。
「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええ?!」
 作中では一行で済ませているが、本人の脳内では原稿用紙一枚分、全て『え』で埋め尽くさんばかりの衝撃だった。
 ここがかつて住んでいた公営住宅なら、お隣さんから「うるさい」「近所迷惑」と怒られてもおかしくないくらいの大声である。
 徹夜でネットサーフィンやエロ画像を収集するだけで、あっという間に容量がいっぱいになってしまうなんて事が在り得るのか。まだ、スマートフォン使用から一日も経っていないはずなのに。そもそも、スマートフォンには、容量制限があるとは思わなかった。契約した時は、店員に言われるがままにサインして特に深く考えなかった。ガラケーとは違い、スマートフォンには容量に限りがあったなんて思いもしなかった。
 亘宏はスマートフォンを持ったまま、脳内で右往左往した。
 そこへ、扉のノック音が鳴った。
「おはようございます、亘宏様」
 向こうから声が聞こえた。おはようございます。という事は、もう朝になっていたのか。画面右上の時間を見ると、6:00と表示されていた。もうそんな時間になっていたなんて。
 焦った亘宏は、「ちょっと待って!」と言うと、慌ててベッドから降りて、寝間着から服に着替えた。
「入って良いよ」
 着替え終えて声を掛けると扉が開き、メイド・加奈が入って来た。
「おはようございます、亘宏様」
 いつもの様に丁寧にお辞儀をするメイドに亘宏は普段通りのフリをしながら、
「あっ、おはよう……」
 と、挨拶した。だが、肝心のメイドは首を傾げながら尋ねてきた。
「亘宏様、今日は調子が悪そうですけど、大丈夫ですか?」
「えっ……大丈夫だけど?」
「だって、目の下にクマが出来ていますし、顔色もよくありませんよ。昨晩はよく眠れましたか?」
「い、いや、全然! ちゃんと眠れたよ!」
 亘宏は握りこぶしを作って元気をアピールしたが、声からして動揺している事は明らかだった。
「それに、昨日のデパートから帰った後、部屋からほとんど出ずに夕食や風呂の時間にも、遅れていましたね。もしかして、昨日からずっとそのスマートフォンを使われていたのですか?」
 鋭い指摘を突かれて、亘宏は図星を指した。このメイド、かなり察しが鋭い。
「そんな事は、無いよ。ちゃんと寝たから……」
 どうにかその場を切り抜けようと、必死で弁明した。それを見て、加奈は亘宏の内面を察したのか、軽く溜息を吐いた後、
「そういう事なら、分かりました」
 どうやら、向こうから折れてくれた様だ。とりあえず一安心だ。
「それでは、亘宏様。朝食がご用意されていますので、食堂までお越しください」
「うん、分かったよ」
 亘宏が返事をすると、加奈は部屋を出ようとしたが、去り際に微笑みながら一言告げた。
「新しいスマートフォンに夢中になるのは良いですけど、時間に遅れるのはダメですからね」
 やはり、自身の行動は見抜かれていた様だ。

 時間通り食堂に来たら、普段なら向こう側の席に座っているはずの梨華の姿が無かった。
「あれ、梨華さんは?」
 亘宏が尋ねると、加奈は答えた。
「梨華様は、本日仕事がありますので先に朝食を食べて家を出ました」
 それを聞いて亘宏は少し落ち込んだ。今日も、二人きりで朝食をしたかったのに。
 とはいえ、金持ちだからと言って、彼女達も決して毎日遊んで暮らしている訳ではない。彼女達だって、それだけの稼ぎを得る為に働いているのだから。
 もし、そんな人がいるとしたら、お小遣いという名の札束をくれるパトロンがいる人くらいだろう。ニートの自分がそんな事を言える立場ではないけど。
 仕方ないので、一人で席に座り、机の上に用意された、ご飯と鮭の焼き魚と松茸のお吸い物を食べた。
 これを見た当初は、ここには洋食だけではなくて、和食もあるのかと感心した。洋食も良いが、やっぱり自分は和食の方が合う気がする。
 鮭は、高級品を使っているのだろうか。脂が乗っていてとても美味しかったし、松茸も風味が豊かだった。シンプルなメニューではあるが、やはり素材にもこだわっている様だ。亘宏は、鮭を咀嚼しながら朝食を堪能した。

 朝食後は、再び部屋に戻りベッドの上に寝転んだ。
 容量制限を受けたせいで、ネットの動きが悪くなってしまった。回線が遅いと、表示に時間が掛かって非常にストレスが溜まる。おかげで、せっかくの楽しみが出来なくなってしまった。おまけに、先程の行為をあのメイドに見抜かれてしまったのは、非常に恥ずかしかった。
 とはいえ、それ以外には何の趣味も無かった。他に何をしようかと思うも、何も思い浮かばず、だからと言って何もしないのは、とても退屈である。いっそ、布団に入って寝てしまおうかと思ったその時、亘宏はふとデスクトップパソコンに視線を向けた。
 パソコンは学校の授業で少し触った事があるが、クリックはともかく、キーボードの配置が複雑で文字入力が出来ず、家でパソコンを買うだけのお金も無かったので、結局挫折してしまった。そもそも何故、左上からABCDE……とアルファベット順に並んでいないのかというのが、亘宏のパソコンに対する一番の疑問にして不満な点だった。
 とはいえ、今の時代パソコンが無いと不便である事も事実である。今時の若者にして、パソコンが使えないのは、自分でも恥ずかしいと思っている。
 もし、パソコンが使えたらどれだけ快適なネット生活が送れるだろうか。そう思った亘宏は、加奈を呼び出して彼女に質問した。
「あ、あの……この部屋のパソコンって、自由に使ってもよろしいのでしょうか?」
 パソコンを指差す亘宏に加奈は、
「えぇ、もちろんです」
 と、微笑みながら答えた。
 それを言われて、亘宏は早速、画面の右下にあるボタンを押した。すると、ボタンの隣にある青いランプが点いた。だが、肝心の画面が点かない。
「あ、あれ?」
 予期せぬ事態に、亘宏は焦った。もしかして、このパソコンは壊れているのではないか。それとも自分は変な所を押してしまったのではないか。
「もしかして、パソコンをお使いになられた事が無いのですか?」
 パソコンに悪戦苦闘する自分を見る加奈に言われて、亘宏の額から冷や汗が流れた。
「い、いえ……学校の授業で、ちょっとだけ触った事はありますよ……」
 自分の言葉に嘘は無かった。だからと言って、そこで学んだ事は、ほとんど身に着いていないのも事実だけど。
 そんなしどろもどろな返事に加奈は、
「よろしければ、私がパソコンの操作の仕方を教えてさしあげましょうか?」
「えぇっ、本当に良いのですか?」
 思ってもみない展開である。
「えぇ」
 それを言われて、亘宏は「お願いします!」と加奈に頭を下げた。
「それでは、まずパソコンの電源の入れ方から始めます。パソコンの電源を入れるには、先程亘宏様が押されたモニターの電源だけではなく、隣のハードの電源を入れる必要があります」
 モニターの隣にある箱の形をしたものが置かれてある。どうやら、これがハードの様だ。円の上に縦棒が挟まれた絵が描かれたボタンがある。
「そこが、パソコンの電源となっています。まず、それを押してください」
 加奈の言葉に従い、ボタンを押すと、画面に画像が表示された。
「う、映った!」
 亘宏は、思わず椅子から飛び上がる形で腰が浮きそうになった。
「そこがパソコンの電源となっております。あと、しばらくすればデスクトップが表示されます」
 ロゴが表示された後、英文が表示され、それが消えた後は青空の画像が表示され、アイコンが現れた。
「これがデスクトップ画面となっております。試しに、このメモ帳と書かれたアイコンをクリックしてください」
 亘宏は加奈の指示に従い、マウスをどうにか操作しながら、メモ帳を探し、アイコンを見つけると、それをクリックした。
「あの……これ、開きませんけど」
「これらは、ダブルクリック、つまり素早く二回クリックしないと開かない様になっています」
「えっ、そうなの?」
「もしかして、ご存じなかったのですか?」
 それを言われて、亘宏は顔を赤らめながら、無言でそっぽを向いた。それを見た加奈は、亘宏の肩にそっと手を置き、聖母の様に優しく励ました。
「大丈夫ですよ。これから、少しずつ覚えて行けば良いのですから」
 普通なら、呆れられても仕方ないと思ったが、意外にも優しい言葉を掛けてもらえた。その言葉に、亘宏の目にはうっすらと涙が出そうになった。
 加奈に言われた通り、メモ帳をダブルクリックすると、真っ白なウィンドウが現れた。
「表示されましたけど……」
 亘宏が伝えると、加奈は、
「よく出来ました。それでは、亘宏様には早速タイピングをやってもらいます」
「たいぴんぐ?」
「タイピングとは、キーボードで文章を打つ事で、パソコン操作の上では、基本となる操作でございます。せめて、簡単な文章くらいは打てる様になった方が、今後パソコンを操作する上で、大きく幅が広がります」
 それなら、是非マスターしなくてはならない。そう思った亘宏は、
「分かりました、頑張ります」
 と、やる気を見せた。
「それでは、まずホームポジションについて、説明しましょうか」
「ほーむぽじしょん?」
「タイピングをする時の基本的な体制となる手の配置です。FとJのキーに突起物がありますよね。まず、そこに人差し指を置いてください」
 亘宏は、加奈に言われたキーに、人差し指をそれぞれ置くと、他の指を置く場所を教えてもらった。時折、彼女の身体から発せられる甘い香りにそそられそうになったけど、言われた通りに指を置いていく事で、ホームポジションは完成した。
「それがホームポジションとなります。タイピングをする上で、基本中の基本ですから、しっかりと覚えてください」
「は、はい……」
「それでは、早速『あいうえお』を打ってもらいます。よろしいですか?」
「はい」
 亘宏は早速、『あ』のキーを押した。だが、画面に表示された文字は、『3』だった。
「あ、あれ?」
 まさかのアクシデントに、混乱する亘宏を見て、加奈が尋ねた。
「もしかして、かな入力でやろうとしていませんか?」
「えっ、日本語なんだからかな入力かと思ったのですけど、それじゃダメなんですか?」
「ダメとは言いませんが、タイピングはローマ字入力が一般的です。使用するキーも約半分まで減らせますから、そちらの方が早いですよ」
「そ、そうなんだ……」
 ぎこちない返答をするしかなかった。
 ローマ字入力に直すと、少し時間が掛かったが、『あいうえお』の文字を入力し、その後はひらがな五十音や簡単な挨拶文を入力する練習を行った。
「ふぅ……やっと終わったぁ……」
 一時間近く掛けて、ようやく練習が終わり、亘宏はぐったりと椅子の背もたれにもたれかかった。文字を打つだけで、こんなにエネルギーを使うとは思わなかった。
「お疲れ様でした」
 加奈が労いの言葉を掛けてくれた。
「ところで、大分タイピングの基礎を学んだ事ですし、ご褒美も兼ねてという映画のDVDを一緒にご覧になさいますか?」
 加奈がDVDを取り出した。パッケージの上部には、『偽りの豪遊』というタイトルが書かれてあり、主演俳優が豪華なソファに座って両脇に美女を抱えるという、何とも派手なデザインである。
「何これ?」
「これは、二年前に発売された映画のDVDです。R18指定ですけどね」
「R18?!」
 今、メイドの口から、R18という単語がサラリと出て来た。彼女の年齢なら、R18を見ても大丈夫であるはずだけど、涼やかな表情で口に出されるのは何だか違和感がある。そもそも、彼女がそんな過激なものを見て楽しんでいる姿は想像出来ない。
「まぁ、R18と言っても、成人男性が喜ぶものではありませんが」
 それを言われて、亘宏はきょとんとした。R18なのに、AVではないのか?
「AVじゃないなら、どんな内容なの?」
「この作品は、リストラが原因で路頭に迷っていた冴えない主人公が、とある大富豪の老人から『私の財産を継いでくれ』と言われた事がきっかけで、立派な屋敷で豪遊生活を送るという物語です」
 内容からして、まさに今の自分とそっくりな状況であった。
「それ、面白いの?」
「はい。亘宏様もお気に召すかと思われます。このパソコンからも、DVDが視聴出来ますし、一緒に見ましょう」
 加奈の口角は、にっこりと上がっていた。
 大好きな萌えアニメではないが、せっかくなので一緒に見る事にした。

 二時間後。
「どうでしたか?」
「何というか……正直、凄くエグ、いや、シュールな内容だったよ……」
 亘宏は顔を青ざめながら、コメントした。この時、R18が決してエロだけとは限らないという事を学習した。
 本当のところ、「凄くエグすぎる」「後味が悪かった」と言いたかったのだが、それでは、せっかくDVDを勧めてくれた加奈に悪いので、言葉を濁す事にした。
 ちなみに、物語は中盤まで高額な買物やクラブで美女とのセックスシーンなど、ご期待のお色気シーンはあったが、それでも、当初気弱ながらも純朴だった主人公が金に物を言わせるがままに豪遊していく中で、次第に使用人をこき使うなど傲慢かつ放蕩な性格に変わって行く様子は、恐怖を感じた。
 そして、遂には金が底を突いてしまったにも関わらず、主人公は豪遊を止めようとはせず、金を求めるばかりであった。
 その結果、今まで主人公からパワハラを受けていた使用人達から訴えられて、その慰謝料として多額の借金を背負い、屋敷などの財産も全て差し押さえられてしまった。
 結果、主人公は再び絶望のどん底に転落するが、その時に最初に出会った大富豪の老人が現れて、主人公に衝撃の事実を明かした。
 実は、大富豪が提供した屋敷には、隠しカメラがあちらこちらに取り付けられてあり、自身の生活を四六時中、見張り続けていたのである。
 身体が硬直してしまいそうな程、恐ろしい事実ではあるが、それも全ては主人公が本物の遺産を相続するに相応しい人間かどうかを見極める為に仕組んだものであった事を知らされた時は、何とも言えなかった。
 結局、主人公は大富豪から自身の遺産を相続するに不相応な人間と判断され、最期は多額の保険金を掛けられた状態で、生きたままチェーンソーで身体をバラバラにされ、遺体をドラム缶に入れられて海に沈められるという、何とも無残なエンディングとなった。
 主人公の自業自得であるとはいえ、主人公が解体されるシーンは、目を覆いたくなる程に痛ましかった。
 もしかしたら、今晩はあの猟奇的なシーンが悪夢として出て来るかもしれない。そう思いながら、亘宏は映画が終わった後も、ガタガタと身体を震わせていた。
 そして自分は、映画の主人公を反面教師にして、使用人をこき使う事は、絶対にやめようと誓った。
「ところで、亘宏様。もし、自分の日常生活があの映画の様に、24時間365日、全世界に配信されていたら、どう思いますか?」
 それを訊かれて、亘宏の額から冷や汗が流れた。
「正直、怖くて気味が悪いと思う……」
 フィクションとはいえ、もしあんな事が実際に自分の身に起きたら、恥ずかしくて死んでしまいそうである。自分の気付かないところで周囲から監視されている中で、迂闊な真似は出来ない。そうなったら、学校や近所で陰口を叩かれていた時と同じ恐怖のあまり引きこもってしまいそうである。
 亘宏の答えを聞いて加奈は、
「そうですよね。とても自然な反応だと思います」
 と返した。
「ところで、亘宏様は今後もパソコンの練習を続けていこうと思っていらっしゃいますか?」
「えっ? まぁ、パソコンはもっと使えたら良いなとは思っているけど」
「もし、亘宏様にやる気がおありなら、今後私が毎日指導してあげても構いませんよ。基本操作までですけどね」
「うん、それだけで十分だよ」
 基本操作が出来れば、どうにかネットサーフィンをする事も出来る。そして、エロ画像も無制限に集める事が出来る。亘宏は、そう考えた。
「あっ、でも念の為に言っておきますけど、わいせつな画像を見て楽しむのは程々にしてくださいね」
 加奈から笑顔で釘を刺されて、亘宏は思った。どうやら、この屋敷では迂闊な真似は出来なさそうだ。
 だが、そんな内面を加奈が察したのか、加奈の口からとんでもない提案が出た。
「でも……どうしてもエロ画像が見たいというのであれば、私が代わりにご奉仕させても良いのですよ」
「えぇっ?!」
 メイドの発言に、亘宏の耳は大きくなった。エロ画像の代わりに自分がご奉仕をしてくれるなんて、これは最早エロゲでしか起こりえないシチュエーションである。
「そそそそそ、それ、ほほほホント?!」
 亘宏は、言語が崩壊しつつも、加奈に尋ねた。
「はい」
 メイドは、何の恥じらいも無く落ち着いたトーンで、答えた。
「で、でも、本当に良いの? 僕が何をやっても、その場で悲鳴を上げたり、警察に通報したり裁判に訴えたりするのは、ナシだよ」
「もちろんです。梨華様もいない事ですし、どんな命令をしても構いませんよ」
 どこか蠱惑的に微笑むメイドの言葉を聞いて、亘宏はゴクリと唾を飲んだ。もし、彼女の言葉に偽りが無ければ、コスプレをしてくださいとか、下着姿になってくださいとか、キスをしてくださいとか、3サイズを教えてくださいとか、胸を触らせてくださいとか、今晩一夜を共にしてくださいと命令しても、果たして彼女は言う事を聞いてくれるのだろうか。
 しかし、どんな命令をしても構いませんと言われたからと言って、最初から無茶な要求をするのは、さすがに酷だろう。なので、お試し感覚で軽い命令を出してみる事にした。
 とりあえず、先程ネットで見た女の子のキャラクターを思いついた。
「じゃ、じゃあ……語尾に『にゃん』を付けて話してくれる。可愛らしく」
「かしこまりました」
 加奈はコホンと軽く咳をした後、手を猫の肉球に丸めた。
「ご主人様、今日はかなにゃんがいっぱいご奉仕してあげるにゃん♪」
 普段の敬語とのギャップで、悶絶しそうになった。まさに、ハートを撃ち抜かれた感じである。これに、猫耳と尻尾と肉球が付いていたら破壊力抜群だ。下手したら、その場でノックアウトしてしまっていたかもしれない。
 しかも彼女、キャラに合わせてくれた上にアニメ声まで出せたのか。これなら、ギャルゲーの声優も務まる気がする。
「か、かなにゃん、今日は、僕だけの為にご奉仕してくれるの?」
「もっちろんだにゃん! かなにゃんは、ご主人の命令なら何でも聞いちゃうにゃん♪」
「そ、それなら……」
 亘宏は次の質問を考えた。だが、いざ命令しようと思うと、色々とあって迷ってしまう。
「ご主人様、どうしたのかにゃ?」
 考え込む亘宏に、かなにゃんが心配そうにこちらを見つめて来る。早くしないと、かなにゃんからの厚意を台無しにしてしまう。
 次は、どんな要求をしようか。いや、彼女は何かを企んでいるのか。もしかして自分は試されているのか。そんな思いが亘宏の脳内を駆け巡った。
 本来なら、更に何か命令した方が良いのかもしれないが、使用人に手を出したら、梨華から嫌われると思った。あくまで自分は、梨華一筋なので、他の女性に手を出すのは、自分の良心が許さなかった。
 亘宏は心の中で頭を掻いた末に、床の上で潔く正座して、手をハの字に置いた。そして、
「ごめんなさいっ!」
 床に額を押し付けるかの様に頭を下げた。土下座である。
「どうして、土下座なんてするのですか?」
 まさかの土下座に、加奈は驚きのあまり元の口調に戻ってしまった。
「僕は、加奈さんの厚意に甘えていました! これ以上、加奈さんに破廉恥な命令をする事は、出来ません! 猫の鳴き真似なんかを要求して、本当に申し訳ございませんでした!」
 亘宏は、メイドに対して深く反省の意を込めた。その姿勢には、さすがの加奈も拍子抜けして、もはや返す言葉は無かった。
 しばらく沈黙が流れ、亘宏はもうダメかと半ば諦めたが、
「亘宏様、顔を上げてください」
 加奈は、亘宏の頭を撫でて顔を上げる様に促した。
「あなた様の気持ちはよく分かりました。私の方こそあなたを追い詰めさせてしまった様で御免なさいね」
 それを聞いて、亘宏は深い安堵のため息を吐いた。どうやら許してもらえた様だ。
「でも、『これ以上、加奈さんに破廉恥な命令をする事は出来ません』という事は、本当はそういう事だけを考えていらしたのですか?」
「へっ?」
 加奈からの指摘を受けて、亘宏は再び図星を指した。
「例えば、美味しい料理を作ってくださいとか、膝枕をしてほしいとか、そういうお願いをしても良かったでしょう」
 それを言われて、亘宏の顔は真っ赤になった。

 加奈からパソコンを教わった後、亘宏は早速パソコンでネットサーフィンをやる事にした。
 検索するものは、もちろん決まっている。先程、加奈から「程々にしてください」と釘を刺されて恥ずかしい思いをしたとはいえ、「見ないでください」とまでは言わなかった。それなら、見る事自体は問題無いとこじつけて、亘宏はブラウザを開いた。
 まず、検索欄に「美少女 エロ画像」というキーワードを入力して、検索ボタンを押すと、画面に検索結果がズラッと並んだ。
 亘宏は目の前に飛び込んで来た美少女の姿に興奮し、すぐさまティッシュを出して、モノを包みこんだ。
 画面が大きくなった分、絵が見やすくなっているし細かいタッチも鮮明に描かれている。亘宏はそれを見る度に絶頂を味わい、いつしか自身の周辺は丸めたティッシュで散らかっていた。
 その時である。ティッシュが無くなってしまったのである。仕方ないのでティッシュボクスを開けて空き箱を捨てて使用人に新しいティッシュを持って来てもらおうと考えながら、空き箱を潰した時である。
 白くてハイソな雰囲気のある革で包まれたティッシュボックスの外側が何か光っている様に見えた。顔を近付けて観察してみると、ティッシュボックスの革に縫われた会社のロゴマークに、ごくごく小さな穴が開いているのが見えた。そして、その向こう側から何か黒く光っている気がした。そこを指で軽く突いてみると、他の箇所よりも若干固さがあった。怪しいと思った亘宏は、そのロゴマークを指で剥がした。すると、そこには黒くて小さな立方体があった。更に、前方にレンズが埋め込まれていたのである。隠しカメラである。こんな所にカメラが仕込まれているとは思わなかった。
 もしや、先程加奈が言っていたDVDの様に、自分の私生活が誰かに覗き見されているのではないか、隠しカメラの向こう側で自分を観察している人物がいるのではないかと思った。そうだとしたら、何とかしないといけない。

「すみません、加奈さんはいらっしゃいませんか?」
 亘宏は加奈の名前を呼んだが、返事はしない。台所、風呂場、客室、寝室と色々な部屋を探し回ったが、加奈の姿は全く見当たらなかった。他の使用人に尋ねても、存じないと返されるだけだった。一体、彼女はどこにいるのだろうか。
 加奈を探し回っていると、倉庫付近に地下に通じる階段を見つけた。屋敷中を探し回っても見つからなかったのだから、残るのはこの地下階だけである。。
 初日に木水から地下階に通じる階段には立ち入らない様にと言われているけど、使用人を探すくらいなら、別に入っても問題無いだろう。そう思って、階段に踏み入れようとした。
「亘宏様、どちらに行かれるのですか?」
 後ろから声がしたので振り返ると、そこにいたのは執事の木水だった。
「あぁ、木水さん。加奈さんがどこに行ったか、知りませんか?」
「あぁ、鳴海さんでしたら、現在外で洗濯をしておりますが、彼女に何か御用でもあるのでしょうか?」
「えっと……部屋にこんな物が出て来たので、ちょっと尋ねたいと思いまして……」
 亘宏はズボンのポケットから黒くて小さな立方体――超小型カメラを木水に見せた。
 木水はそれを受け取り、目を顰めながらじっくりと観察する。
「亘宏様、これはどうやって探し当てたのですか?」
「はい。ティッシュが無くなったので交換しようと思ったら、ティッシュボックスに小さな穴を見つけたのですけど、何だか違和感があったので指で剥がしてみたらカメラがあったんです」
 それを聞いて木水は深く頷いた。そして、木水は険しい表情で告げた。
「亘宏様、どうやらあなたは誰かに狙われている様ですね」
「えぇっ?!」
 亘宏は顔面蒼白になった。
「ちょっと待ってくださいよ。何で僕達が狙われなきゃいけないのですか?!」
「この家では、犯罪者から狙われる事が多いのですよ。過去に強盗や誘拐、ストーカー目的で、この家が襲われた事が何度もありました。きっと、あなたも里山家の関係者とみなされたのかもしれません」
 それを聞いて、亘宏はゾッとした。金持ちなのだから、誘拐や強盗に狙われやすいのは分かるが、自分まで狙われるなんて。
「そ、そんな。じゃあ、どうすれば……」
「そうですね。隠しカメラを使った盗撮が目的なら、犯人が直接危害を加える恐れはありません」
 それを聞いて安堵したが、やはり気味の悪さは拭えなかった。自分の私生活を見られるのは羞恥を感じる。
「じゃあ、誰が犯人なのですか?」
「このカメラは家の私物に仕込まれたものですから、恐らく屋敷の使用人の誰かが仕込んだものなのでしょう。とにかく、そのカメラはこちらで預かっておきます」
 木水は亘宏から受け取った超小型カメラをポケットに入れて、その場を立ち去ろうとしたが、去り際に「あと、言い忘れていましたが……」と振り向きながら告げた。
「初日に申し上げましたが、地下階は関係者以外の立ち入りは禁止されています。もし、今後この様な事があった場合、すぐさまここから出て行ってもらいますので、以後お気を付けください」
 下には何があるのか気になったが、執事が冷静な口調ながらも、何だかとてつもない威圧を感じたので、それ以上は深く聞かない方が良いと直感した。なので、亘宏は「はい」と返すしかなかった。

 その日の夕食の事である。食堂で、梨華がチキンソテーを口にしながら「ところで、亘宏君」と話しかけて来た。
「木水から聞いたわよ。あなたの部屋に隠しカメラが仕込んであったんだって」
「はい。あの時は、ゾッとしましたけど、もう犯人が掴めたんですか?」
「えぇ。木水達の部下が捜査してくれたからね」
「それで、犯人は誰だったんですか?」
「木水の予想通り、私の家のフットマンが犯人だったわ。彼、仕事のストレスが溜まっていて、客室用の部屋にカメラを仕込んだみたい。それをパソコンに録画して部屋でこっそりと動画で見て楽しんでストレスを発散していたそうよ。あなたの他にも、以前屋敷を訪れた客の様子を盗撮していたわ」
 見た目からして、使用人の仕事はかなりハードで自分では到底務まらないと思っていた。ストレスが溜まりそうだと思っていたが、どうやらそれ以上に想像を絶するものがあると感じた。人間ストレスを溜め込むと何をやらかすか分からないものである。
「……それで、そのフットマンはどうしたのですか?」
「決まっているじゃない。今日付けで解雇して、直ちにこの家から出て行ってもらう事にしたわ。仕掛けてあったカメラや録画してあったデータも全て処分してね」
 余裕のある口調で語る梨華の処分内容に、亘宏は返す言葉が無かった。
 犯人が分かって安心したし彼女が犯人に下した処分も妥当ではあるけど、目の前で優雅に食事をしながら話す女から何だか得体のしれない恐怖を感じた。

 屋敷に住んで一週間が過ぎ、豪奢な生活にも徐々に慣れてきた。最初は、突然の生活に戸惑っていたが、セレブの生活も楽しめる様になった。
 何せ部屋は豪華だし、おしゃれが出来たし、ショッピングにも行ったし、貧乏だった頃と比べたら、とても充実した生活である。
 今や、この屋敷は完全に自分の家である。梨華や使用人も優しいし、好きな料理も出て来る。パソコンだって、やりたい放題だ。当初は、タイピングに若干の苦労があったが、いざ使いこなすと、格段と便利になった。今では、ネットサーフィンやアニメの動画視聴、ゲームを楽しんでいる。
 だが、そんな日が続く中で、亘宏にある違和感が生まれた。居心地が良すぎるのである。
 当初は、豪華な屋敷や使用人からのおもてなしに感銘を受けて気持ちがハイになっていたが、いざ屋敷での生活に慣れてくると、だんだんシラフになっていくのである。
 喩えるなら、カップルの時はラブラブだったのに、結婚して同居を始めると次第に互いの欠点に目が付き始めて、ケンカになったり倦怠期を迎えたりする具合である。
 あの時の亘宏はホームレス生活に限界を感じていた事から藁にも縋る思いで了承したが、そもそもホームレスになった底辺ニートの自分に、手を差し伸べてくれると人が簡単に現れるのだろうか。仮にいたとしても、その相手が一流企業の美人なお嬢様で、立派な屋敷で住む事になって色々と豪遊する――そんな物語の世界にしか出て来ない都合の良い出来事が実際にあり得るのだろうか。そういう事なら、ボランティア団体に拾われた方がまだ納得がいく。
 確かに、かつてのドブ同然の生活と比べたら、今のリッチな生活の方が十分幸せだし、周りが自分に色々と親切にしてくれるのは嬉しいけど、ここまで尽くしてくれると逆に違和感や不気味な印象が強まってしまうのである。
 今まで、人から虐められてきたりぞんざいな扱いを受けたりしていたせいで、根が人間不信になってしまっていたからではあるけど、それを差し引いてもそんなに都合の良い展開が起こる訳が無い。
 何故、彼女達は路頭に迷っていた自分に、これだけ親切にしてくれるのだろう。こんなに都合の良い展開があって良いのだろうか。
 根拠は無いが、もしかして何か裏があるのではないかと勘繰ってしまうのだ。
 しかし、それを口にして、梨華を傷つけたり嫌われたりしてしまう事も嫌だった。ましてや、それが原因で屋敷を追い出されたら、元も子も無い。そんな好意と不信感がせめぎ合っていた。
 その為、周囲に気付かれない様に屋敷の内部を探る必要があると考えた。もしかしたら、この前フットマンが仕込んだティッシュボックスの他にも、隠しカメラがあるかもしれないと考え、部屋中を調べてみる事にした。
 最初に調べたのは、サイドテーブルに置かれてあるアナログ時計である。母親がよく見ていたサスペンスドラマで、ストーカー被害に悩む女性の部屋に置かれてあった時計に隠しカメラが仕込まれていた事が発覚するという場面があったからである。
 早速、時計を手に取り、怪しい箇所が無いかを調べる。だが、ただ必死に時計を見るだけでは、カメラが仕込んであるのかよく分からなかった。分解するにもドライバーが無いので、調べる事は出来なかった。ドラマの刑事みたいに見抜く事は難しい。
 次に睨んだのは天井のシャンデリア。煌びやかなデザインの電灯にも、実はカメラが仕込んであるのではないかと推理した。だが、豪華な飾りが邪魔をして、中央の電灯がよく見えない。そこで亘宏はベッドに乗って立ち上がり、爪先立ちで電球に手を伸ばした。
 すると、
「うわあっ!」
 亘宏は、バランスを崩してそのままベッドからドシンと倒れ落ちて、背中を強く撃ってしまった。幸い、負傷しなかったが背中に痛みが残ったので患部を手でさすった。
 その時、先程の転落の音で気付いたのか向こうから駆けつける音が近付いて来た。
「亘宏様、失礼いたします」
 扉の向こうで木水が一言断った後、こちらが返事をする前にドアが開き、木水が入って来た。
「亘宏様、先程大きな音がしましたが、何があったのですか」
 木水は張りつめた表情で訊いてきた。
「えっと……この前のティッシュボックスの他にも、まだ隠しカメラがあるんじゃないかと不安になっちゃって……」
 亘宏は慌てて弁明した。それを聞いて木水は、
「そうですか。ですが、昨晩梨華様がお話しした通り、既に隠しカメラはこちらで全て撤去しております。仮にカメラが部屋に残っていたとしても、保存する為のパソコンも既に処分しておりますので、亘宏様の行動が撮影される事は一切ありません」
 きっぱりと言い切る木水の言葉に、亘宏は「そうですか……」と漏らした。しかし、木水は再び張りつめた表情に変わった。
「今回は特に問題は無かった様ですが、今後周囲に迷惑を掛ける行為は慎んでください」
 木水に叱られて亘宏は「はい」と返すしかなかったが、「迷惑を掛けてはいけない」の「迷惑」の基準がどんなものなのか亘宏にはよく分からなかった。
 怪我を心配させてしまった事については申し訳ないけど、隠しカメラを調べようとしただけで、あそこまで叱るものなのか。
 まだ完全に不安は拭えなかった。どうして、木水はあれだけ張りつめた表情で自分に警告してきたのだろう。まだ、他にも何か隠しているものがあるのではないかと思った。
 とはいえ、どうすれば相手に悟られずに動けるのか全く分からなかった。何せ、相手は使用人集団である。雰囲気からして、かなりの凄腕である事は間違いない。
 もし、自分がまた怪しい動きをしていると分かれば、彼らがすぐさま駆けつけて来るに違いない。下手に動いて、迷惑行為と判断されたら屋敷から追い出されてしまうかもしれない。彼らに自分の意図が気付かれない様に動くのは至難の業である。
 散々悩んだ末、今は多少気になっても下手に動かない方が無難だと亘宏は判断した。

 そんな思いを抱えていたので、昼食に出された、温かくてプリップリの海老と濃厚なホワイトソースが掛かったドリアを見ても、イマイチ食欲が湧かなかった。
「どうしたの。何か考え事をしているの?」
 梨華が心配そうに尋ねて来て、ハッと我に返った。不安な様子が顔に出ていた様だ。
「あっ、大丈夫です。心配しなくて良いです」
 亘宏はどうにか誤魔化して、すぐさまスプーンでドリアをすくって食べた。だが、口の中で火傷してしまい、ドリアを机の上にこぼしてしまった。
「本当に大丈夫なの? 今朝から様子がおかしいわ。隠さずに言って」
 やっぱり、彼女に隠し事は出来なかった。仮に誤魔化したところで見抜かれてしまう。真剣な眼差しで見つめる梨華に、亘宏は覚悟を決めて打ち明けた。
「こんな事を言ってしまうと、失礼かもしれませんけど、何だか皆さんの様子がおかしい気がするんです」
 それを聞いて、梨華は悲痛な表情に変わった。
「どうして? この前の隠しカメラがあったから、まだ不安が残っているの?」
「いえ、そういう意味ではないです」
 と言って宥めるが、ぎこちない笑みは消せなかった。
「じゃあ、何が不安なの?」
 心配そうに尋ねる梨華に亘宏は口を開いた。
「時々不安になるんですよ。この屋敷に来た時は少し戸惑ったけど、今まで出来なかった贅沢をたくさん体験して楽しんできました。けど、ここで暮らしているうちに本当にこれで良いのかな? って、思ってしまうんです。屋敷に入る前は路頭に迷っていた僕が、皆から王様の様にもてはやされて……そういうのって、とても気味が悪いんですよ」
 それを聞いて、梨華は悲痛な表情になった。
「亘宏君は、私の事が信用出来ないの?」
「いや、そういう訳じゃないです。もちろん、梨華さんや使用人達から色々と優しくしてもらえるのは嬉しいです。でも、大した経歴も取柄も無くて、全く働いていない僕が梨華さんに拾われて、豪華な家に住んで、使用人達に囲まれて贅沢三昧をするという展開が起きるなんて、普通は有り得ないんじゃないかって、思ってしまうんです」
 梨華をどうにかフォローするも、自分が抱える不安を口にすると、梨華は真剣に頷いた。そして、彼女は驚くべき事を口にした。
「そこまで言うんだったら、私があなたの願いを叶えてあげても良いわよ」
「えぇっ?!」
 梨華の発言に、亘宏は驚きの声を上げた。
 加奈からも同様の発言をされた時は、梨華への裏切りになる事を防ぐ為、語尾に「にゃん」を付けるという命令だけで止めたが、今回は梨華本人がそんな発言をしてくれるなんて。
「そ、それ……本当に叶えてくれるの?」
「そうよ。出来る限りの事なら、何でもしてあげるから。それなら、信用してくれるでしょ」
 そこまで強気に言われると、多少無茶なお願いをしても聞いてくれそうな気がする。だったら、どんなお願いをしようか。亘宏は少し考えた後、試しに自分が以前から願っていた事を一つ頼んでみようと思った。
「じゃあ、旅行に行きたい」
「旅行?」
 言葉を口にしたら、今まで笑顔だった梨華の目が点になった。
「どうして、旅行なの?」
 梨華の質問に、亘宏は真面目に答えた。
「実は僕、旅行で良い思い出が出来た事が一度も無いんですよ」
 亘宏の家は貧しかったが故に、家族と旅行に行った事が無かった。その為、夏休みなど長期休暇で旅行の思い出を楽しく語るクラスメイトを見ると、恨めしく感じていた。
 修学旅行の時も、グループでハブられて一人ぼっちで行く破目になり、自分だけ電車に乗り遅れて集合時間に遅れてしまって、大勢の生徒がいる前で学年主任の教師に怒られて生徒から嘲笑の的にされた事もあった。あれは、まさに公開処刑だった。
 その為、旅行には良い思い出が何一つなかった。これは家にいた方が良いという運命なのかもしれないと思ったけど、それでも一度は未知の世界に行ってみたいという憧れを捨てる事は出来なかった。だから、この機会に一度でよいから旅行に行きたいと考えたのである。
 理由を説明すると、梨華は深く頷いた。
「じゃあ、どこに行きたいの?」
 それを言われて、亘宏は人差し指を顎に当てながら考えた。
「そうだなぁ、やっぱり海外が良いかなー」
「海外?」
「うん。やっぱり国内じゃつまらないから、海外が良いかなー。行くとしたら、やっぱりアメリカに行きたいよなー。自由の女神は定番だし。でも、パリのエッフェル塔も捨てがたいよなー。あと中国で中華料理を食べるのもアリかな……」
 海外旅行への願望をあれこれ語る亘宏に、梨華は恐ろしく冷静な口調で尋ねてきた。
「ねぇ、亘宏君。あなたパスポートって持っているの?」
 それを聞いて、亘宏は口を閉ざさずにはいられなかった。海外旅行に必須のパスポートなんてものは、当然持っていなかった。
「そうですよね……パスポートが無いのに海外旅行へ行きたいだなんて、幾ら何でも無理ですよね……」
 さすがに、パスポートを持たない人間を海外に連れて行くのは梨華の力をもってしても、不可能である。
 肝心な事を完全に忘れていた亘宏は、机にがっくりとひれ伏した。声からして、半ば涙声になっていたが、すぐさま新たな案を思い付いた。
「じゃあ、国内旅行は、どうですか?」
「国内?」
「うん。例えば、沖縄の海に行くとか大阪で美味しいものをたくさん食べるとか北海道の牛乳を飲むとか、どれにしようか迷っちゃうなー」
 海外とまではいかないけど、色々と楽しい事でいっぱいになった。
「分かったわ、それなら別に問題ないわ」
 梨華は笑顔で同意してくれた。
「本当ですか?」
 亘宏は目を輝かせながら尋ねた。
「うん、今度一緒に沖縄へ行きましょう」
「沖縄か……」
 亘宏は、沖縄の輝く海を思い浮かべた。

 太陽の光が降り注ぎ、常夏の青い海が輝く沖縄。
 そこではしゃぐ水着姿の美女達。開放的なビキニで、ビーチバレーをしながら楽しんでいる。太陽の様に煌めく笑顔、たわわに揺れる胸――見ているだけでも、目の保養として十分だ。
「あのー、すみません」
 美女達が手を振って自分に声を掛けた。
「私達と一緒に遊びましょうよ」
 まさかの逆ナンである。
「えぇっ?! 本当に僕で良いのー?」
「うん、人数が少し足りないから」
 美女からのお誘いを受けて、亘宏は早速美女達とビーチバレーに参加する。
 向こうのコートがビーチボールを受け取り、ボールを高く上げるとアタックでこちらにボールを返してきた。しかし、他の女の子が滑り込む様にレシーブをして回避した。高く上がったボールがこちらに向かってきた。
 それを見て、亘宏は強烈なアタックを叩き込んだ。その一撃はコートの砂浜に直撃した。
 それを見た審判がホイッスルを鳴らした。亘宏達のチームに得点が入った。
「キャー、今のアタック凄かった!」
「あなたって、才能があるのね」
「超カッコ良かったわよ」
 まぐれとはいえ、先程のアタックで美女達のハートまでも撃ち抜いてしまった。美女から寄ってたかって来るので、思わず顔がにやついてしまう。だが、そう都合良くはいかなかった。
「ちょっと、亘宏君。他の女の子と何イチャイチャしているのよ」
 そんな時、後ろから背筋が凍り付きそうな恐ろしい声が聞こえた。恐る恐る後ろを振り返る。
「ハッ……り、梨華さん!」
 そこにいたのは嫉妬で怒りを露にする梨華だった。ゴージャス&セクシーなワインレッドの三角ビキニと控えめながらもくっきりと目立つ谷間、ほっそりとしたウエストと脚が目を惹きつけるが、今は見惚れている場合ではない。
「亘宏君、この私を無視して他の女の子に見惚れちゃって、そんなに私って魅力が無いんだー」
「ご、誤解だよ、梨華さん。僕はあくまで梨華さん一筋ですから」
 亘宏は必死に釈明するも、梨華は聴く耳を持たなかった。
「アンタみたいなエロ豚は、もう家に帰って来なくて良いから、そこで女の子達と一生イチャイチャしていなさい!」
 梨華は捨て台詞を吐いて、上着を羽織ると使用人と共にビーチを去って行った。
「あああああ。待ってよ、梨華さーん。僕を置いて行かないでー」
 亘宏は梨華を追いかけるのであったが、大勢の美女達の群れが邪魔をして、なかなか追いつけなかった。梨華との距離がどんどんと離れていく。
「うわーん、梨華さーん!」
 亘宏は梨華に手を伸ばすが、彼女はそのままリムジンに乗って行ってしまったが、その後も美女達は亘宏に群がっていったのであった。

「……って、帰れなくなったら意味ないじゃん!」
 亘宏は思わず妄想の中で言葉を口に出した。
「どうしたの? そんな慌てた顔して」
 梨華に話しかけられて、ハッと我に返った亘宏は、「いや、こっちの話です」と言って濁すしかなかった。
「ところで、いつ行くのですか?」
「そうね。今度の日曜日が開いているからその日にしましょう」
 今度の日曜日が待ち遠しくなった。亘宏は心の中で歓喜の雄叫びを上げた。
「その代わり、私は明日仕事があるから日帰りになるけどね」
 それを聞いて、一週間旅行を期待していた亘宏はがっくりと肩を落とした。どうせなら、一泊くらいはホテルにも泊まりたかった。

 そして、迎えた沖縄旅行当日。
 亘宏は気持ち良く目覚め、服に着替えると、意気揚々としながら食堂に向かった。
 朝食の後、すぐに飛行機に乗ると聞いているので、とても待ち遠しいのである。
 ハムサンドとグリーンサラダを物凄いスピードで食べる。
「そんなに早く飛行機に乗りたいのね」
 梨華は微笑ましく亘宏に話しかける。
「はい。ところで、チケットはあるのですか?」
「チケット? そんなの、別に要らないわよ」
「えぇっ?!」
 梨華のトンデモ発言に、亘宏は仰天した。
「チケットがいらないって……じゃあ、どうやって行くんですか?」
 すると、梨華は窓を指差した。
 席を立ち、窓を覗き込むと、そこに見えたのは白い飛行機だった。空港に置いてあるものと比べたら小ぶりだが、それでも十分なインパクトはある。もちろん、飛行機の先には滑走路が付いている。
「梨華さん、これってもしかして……」
 亘宏は冷や汗を滲ませて飛行機を指差しながら梨華に尋ねた。
「あぁ、これ? 自家用ジェットよ」
 サラッと彼女の口から出て来た言葉に、亘宏は驚きのあまり飛び上がった。飛び上がり過ぎて、天井に頭をぶつけてしまいそうな勢いだった。
 セレブの中でもごく一部の人間しか持たないであろう自家用ジェット機まであるなんて。チャーターするだけでも、高額な値段がするに違いない。
「じ、自家用ジェット、ですか……」
「そうよ。普段は仕事で使う事が多いけど、今回は特別だから」
 それを聞いて、亘宏は何だか申し訳ない気分になった。
「あ、あの……お気持ちは嬉しいのですけど、よりによってジェット機なんてものは用意しなくても良いですよ。そこは空港で予約すればよろしいのではないでしょうか?」
 わざわざ自分の為に自家用ジェットを用意してくれるのはありがたいが、ここまでサービスしてされてしまうと、やはり抵抗があった。過剰なおもてなしは、かえって躊躇してしまう。
「空港は予約でいっぱいになったり遅刻して乗り遅れたりやハイジャック犯に襲われたりする事があるじゃない。その点、自家用ジェットならその心配は全く無いでしょ。時間に縛られる事も無いし。那覇空港にも事前に連絡しておいたから、降りる時も大丈夫よ」
 それを聞いて亘宏はなるほどと感心したが、彼女の行動には度肝を抜かされる。
 金持ちが考える事は、一般庶民の自分には到底理解出来ない。

 ジェット機に搭乗すると、すぐさまエンジンが掛かり飛行機は滑走路を走った。そして、勢いが付いて来ると、地上を離れ大空に飛び立って行った。
 飛行機が飛び立つ様子を亘宏は呆然としながら遠く離れていく路面を窓から眺めていた。中学校の修学旅行で初めて飛行機に乗った時も衝撃があったけど、自家用ジェットとなると、その衝撃は当時のものと比べ物にならなかった。
 屋敷が急速に小さくなって見えなくなり、ジェット機が雲を通り抜けた後、後ろを振り返ると、そこにはシートに座る梨華、そして彼女の後ろに使用人が数名整列している。
 飛行機の中は、十人くらいは入れる広さであるが、大型テレビとテーブル、台所やバスルーム、ベッドも付いていて、まるで豪華なワンルームである。
 そんな中、梨華は黙々と本を読んでいる。表紙に書かれた英語の題名からして外国の小説を読んでいると思われるが、どんな内容かはよく分からなかった。多分、英語で文章が書かれているのだと思う。
 ジェット機が飛行しているにも関わらず、まるでリビングで寛いでいるかの様である。やっぱり、何度もジェット機に搭乗しているから既に慣れているのだろう。
 しかし、自家用ジェットに乗った事が無い亘宏は、未知の空間にぽかんと口を開けるだけだった。
「……あ、あの、梨華さん」
 慣れない空気に未だ圧倒されている亘宏は、どうにか気持ちを落ち着かせて梨華に尋ねた。
「何、亘宏君」
 梨華は本を読みながら尋ねた。
「あ、あの……お気持ちは嬉しいのですけど、やっぱりこういうのって、一般庶民の僕にはちょっと……」
「そうかしら? 空港で乗る飛行機と比べたら結構快適よ」
 それは自分の持ち物だから言えるのであって、そうでない者からすれば、戸惑ってしまう。まだ、ファーストクラスの飛行機に乗った方が落ち着く。
「でも、こういうのってお金とかめちゃくちゃ掛からないですか? 維持費とか購入費とか」
 亘宏の疑問に、梨華は少し考えたが、
「まぁ、確かに維持費は掛かるけど、そんなに大した金額ではないわよ。私の給料一ケ月分にも満たないから」
 その給料一ケ月分がどれだけの金額か気になった。彼女の感覚からすれば、維持費なんてお小遣い程度なのかもしれないが、庶民からすれば相当な金額なのは間違いない。多分、数千万は掛かるだろう。
「それに、仕事でも使っているから」
「仕事って?」
「海外とのビジネスに使うのよ。ほら、ウチの会社は海外にも支社があるし、顧客もいるから」
 それで、わざわざ自家用ジェット機を購入したという訳か。チャーターを使えば良いのではないかと思ったけど、そう簡単にはいかないという訳か。チャーターで費用がかさばるくらいなら、いっそ購入した方が良いだろう。
「それに、操縦士だって高橋が兼任しているし」
 それを聞いて、亘宏は以前車を運転していた美青年を思い出した。あの人、車だけではなくて飛行機も操縦出来たのか。
「あと他にも、船舶免許も持っているわよ」
「そんなものまで?!」
 空・陸・海、全ての乗り物をコンプリートしているのか。運転免許証すら持っていない自分と違って、かなりのエキスパートである。どれだけ凄いんだ、この人は。
 この人なら、電車やF1やロケットもその気になれば乗りこなせそうな気がしてきた。
「でも、日本じゃ自家用ジェット機って、なかなか見掛けないですよね」
「そんな事は無いわよ。プライベートで使っている人もいるし、皆でお金を出し合ってシェアリングしている人もいるから。安いジェット機でも、二~三億円で済むわよ」
 億単位の金をはした金であるかの様に語っているが、一般庶民の自分からすれば、二~三億円でも十分に破格の値段である。金持ちの金銭感覚が全く分からなかった。
 梨華の様に仕事で使うならともかく、プライベートでこんなものを使っている人は、きっと見栄を張りたい為に購入したに違いない。
「確かに、日本では自家用ジェット機を持っている人は少ないけど、チャーターでも使っているからね。いつか日本でも自家用ジェット機を利用する人達が増えると思うわ」
 本人は楽観的な事を語っているが、そんな日が来るとは思えなかった。少なくとも、自分の様な人間は一生頑張っても手が届かないだろう。

 そして、約三時間後。遂に待ちに待った沖縄に到着した。
 ちなみに、ジェット機から降りる時は事前に使用人が敷いたレッドカーペットの上を歩くのかと思っていたけど、さすがにそこまで派手な演出は行われなかった。
 一度で良いから、ハリウッドスターの様に堂々と笑顔で手を振りながらレッドカーペットの上を歩いてみたいと思ったが、プライベートでそこまでの演出を求めるのは強欲だろう。
 そして、リムジンのレンタカーを走らせる事、十五分。遂に、海に到着した。
「うわー!」
 見えたのは、澄み切ったマリンブルーに染まった美しい海だった。透明感のあるマリンブルーが綺麗なグラデーションになっており、観光客の目を奪うには十分に魅力的である。
 この海は人気の観光スポットと評判で、他の地域よりも気温が高い事もあり、まだ真夏でないにも関わらず、海に訪れている人が目立った。

「よーし、それじゃあ私も久しぶりに海で遊ぶかー!」
 海を見て興奮した梨華は車内、しかも亘宏の目の前で、上着を脱ぎ始めた。
「あっ、ちょっと梨華さん。こんな所で服を脱ぐのは……」
 突然の脱衣に、亘宏は耳まで真っ赤にして強く目を閉じながら手で目を覆うが、こっそりと目を開けて指の隙間から見えたのは、純白のビキニだった。
「あっ、そういう事か……」
 あらかじめ服の下に水着を着ていた事が分かって安堵した反面、何だか侘しい気持ちになった。

 早速、こちらも事前に使用人が用意してくれた青のトランクスに着替えて、砂浜に降り立った。
 真夏の日差しと初夏の割に暑い気温に圧倒される。だが、向こうには美しい海が見えていた。
 その後ろで、使用人達は事前に持参してきたリクライニングチェアとビニールシート、ビーチパラソル、ピクニックテーブルを砂浜にセットして、浜辺で待機する。こんな場所でも、はしゃぐ事なく後ろで静かに待機するとは、まさにプロ意識と感心する。
「梨華様、亘宏様。海に入る前に日焼け止めを塗りましょう」
 加奈に言われて、二人はそれぞれビニールシートでうつ伏せになって寝そべると、使用人が二人の背中に日焼け止めのクリームを塗って行く。
 そんな時、亘宏はふと隣の梨華へ視線を向けた。
 梨華は、加奈の手によってビキニのトップスのホックを外されて、横乳が露になっていた。意外とボリュームのある乳房に、つい目線がいってしまうが、他の人に気付かれて変態のレッテルを貼られてしまうとマズイので、すぐさま顔を伏せながら心頭滅却させる事にした。
 塗り終えた後、いよいよ海で遊ぶ事にした。早速海に入ると、足元の海水がひんやりとして気持ち良い。
「そういえば、亘宏君って泳げるの?」
 それを聞かれて、亘宏の額から冷や汗が流れた。それは、暑さで流れる汗ではなかった。
 だが、変に見栄を張る訳にもいかないので、申し訳なさそうに答えた。
「い、いえ……泳ぐのはちょっと苦手で……」
 身体に脂肪をたっぷりと蓄えているので、水に浮く事は出来るかもしれないが、手足を動かしてもなかなか進まないのである。
「それなら……これをあげるわ」
 梨華が用意したのは、浮き輪だった。カラフルな色遣いでサイズも大きく、太った亘宏でも使えそうである。
「これを使うのですか?」
「うん、それなら泳げなくても安心でしょ」
 それを見て、亘宏は早速浮き輪に乗る事にした。
 浮き輪にぷかぷかと浮かびながら海を眺めた。これなら、海を見ながらのんびりとくつろげる。
「亘宏君」
 後ろから梨華の声がした。
「はい?」
 亘宏が後ろを振り向いた瞬間、いきなり海水が飛んできた。
「ちょっと、何するんですか!?」
 びしょ濡れになった亘宏は、梨華に不満をぶつけた。
「あははははは……」
 梨華はその後も亘宏に向かって、両手で海水を吹っ掛けて来た。
「うわっ! 冷たい!」
 ひんやりとした海水が身体に当たり、亘宏は思わずたじろいだ。
「ほーら、もっと行くわよー」
「ちょっと、やめてくださいよー」
 傍から見れば、まるでカップルが無邪気にはしゃいでいる様に見える。
 そんな状況下でも、使用人達は二人を微笑ましく見守っている様子も無く、整列して無表情でこちらを見ている。一斉に見られると、せっかくの海で無邪気に遊ぶ事が出来ない。しかも、木水はカメラを構えて撮影している。
「あの、梨華さん。ちょっと良いですか?」
「どうしたの?」
 亘宏は使用人達を指差しながら訊いた。
「あの……使用人さん達が僕達を一斉にこっちを見ているんですけど、しかも木水さんはカメラまで構えちゃっているし。これじゃ、まるで監視されているみたいですよ。何とかしてもらえませんか?」
 恐らく、彼らは自分が梨華に手を出さないかと見張っているのではないかと思った。万一、梨華の前で粗相をはたらいたら、即座に深い海の底に沈められてしまいそうだ。
 心配する亘宏の言葉に、梨華は「何だ、そういう事か」と笑いながら告げた。
「それはね、せっかくの旅行だから、私が動画を撮影する様にお願いしたのよ。今まで旅行で良い思い出が無かったのだから、亘宏君が後でこの動画を見た時に『あの時の旅行は、とても良い思い出だったなー』って思い出しながら笑ってくれると良いなと思って。やっぱり、こういうのはダメ?」
「い、いや……そんな事はありません。寧ろ、嬉しいです」
 意外と気前が良い事をしてくれる。
「だったら、気にせず最後まで遊びましょう。終わったら、DVDにしてあげるから」
 そこまでしてくれるなら、寧ろ大歓迎である。それなら、使用人達からの視線を気にせず、思い切り楽しんだ方が良いに決まっている。
 そう考えた亘宏は、その後も海で梨華とたくさんはしゃいだのであった。

「じゃあ、亘宏君。せっかく海に来た事だし、私とゲームでもしてみよっか?」
「ゲームって、何をするんですか?」
 すると、梨華は赤くて小さな旗を取り出した。
「ビーチフラッグ」
 その提案に、亘宏は渋い表情になった。足が遅いので勝てる自信が全く無いからである。女子にも劣るので彼女に負けて、軽蔑されたくなかった。それを察したのか、梨華は更なる提案をした。
「もし、私に勝ったらトロピカルジュースを一緒に飲んであげるから」
 勝者の特典を聞いて、亘宏の耳は大きくなった。そんなに素晴らしい特典がもらえるなら、負ける訳にはいかない。
「分かりました。その勝負、受けます」

 百m(メートル)先の地点に、フラッグを刺して、後ろ向きにうつ伏せになる。
「位置について、よーい……」
 木水がホイッスルを吹くと同時に、亘宏はフラッグのある方向を向いて、一目散に走り出した。砂浜に足を取られそうになる。しかし、目の前には梨華が走って行くのが見える。それでも必死に砂浜を蹴ってフラッグだけを視界に入れて突き進む。そして、滑り込む勢いでフラッグに手を伸ばした。
 砂埃が舞い上がる中、亘宏は手に握られたものを見つめた。そこにあったのは、赤いフラッグだった。
「……マジで?」
 梨華に負けたと思ったのに、
「惜しいなー、もうちょっとだったのに、あと一歩手が届かなかったわね」
 梨華は残念そうに指を鳴らした。
「でも、負けちゃったのだからしょうがないわね。約束通り、一緒にトロピカルジュースを飲んであげる」

 ちょうどお昼になったので、ピクニックチェアに座って、シェフが事前に準備したトマトと生ハム、大葉冷製サラダのランチで一休みする事にした。
 そして、ご褒美であるトロピカルジュースが目の前に置かれた。で一休みする事にした。グラスに注がれたブルーハワイのジュースとそこに飾られたオレンジの輪切りとハイビスカスの花が、いかにも常夏のイメージを強く感じさせる。
 もちろん、グラスにはストローが二本刺さっている。
 目の前のグラスを見て、亘宏はゴクリと唾を飲んだ。
 これを梨華と一緒に飲むのか。若いカップルしか出来なかった事を……。
 梨華は早速、口にストローを加え、それを飲む。飲んでいるだけなのに、凄く色っぽく見えてしまう。
「どうしたの? 一緒に飲まないの?」
「あっ……うん、飲みます」
 梨華に言われて、亘宏もジュースを飲む事にした。
 一口飲むと、口の中に炭酸が染み渡り、火照った身体を冷やしてくれる。
 そして、亘宏は梨華の顔をチラッと見た。間近に見て気味悪がられるかと思ったが、そんなそぶりを見せる事無く、美味しそうにジュースを飲んでいた。彼女の顔が意外と近く、もう少し顔を近付けたら睫毛の数を数えられるかもしれない。ジュースよりも、梨華の事が気になって仕方なかった。
 そんな時、梨華が亘宏を誘ってきた。
「そうだ、亘宏君。せっかく海に来たのだから、クルージングもやってみる?」
 それを聞いて、亘宏は耳を疑った。
「クルージングって、あの豪華な船に乗って旅をするアレ?」
 海で楽しんだ後、今度はクルージングをするなんて。まさか、豪華客船に乗って優雅にクルーズをするとでも言うのか。実際、自家用ジェット機でその財力は把握しているので、本当に持っていてもおかしくなさそうな気はするが……。
「そっちじゃなくって、ヨットに乗って海を渡るのよ」
 それを聞いて、亘宏は何だと肩を下ろした。どうやら、自分は盛大な勘違いをしていた様である。
 港にやって来ると、赤い無地の帆に黄色いラインが目立つデザインのヨットが置かれてあった。自分達が乗るヨットは、これの様だ。青い空と海の中で一際目立つ。
「これも、もしかして買ったのですか?」
「ううん、そこはチャーターにしたわ。購入したところで海の無い場所までは行けないから」
 やはりそうなるか。さすがに、自家用船を自宅から沖縄まで持っていくのは不可能だ。行けたとしても、飛行機以上に時間が掛かるし、止める場所に困るだろう。実際、屋敷の周辺には海は無かった。
 亘宏達がヨットに乗ると、里山家のお抱え運転手・高橋が号令を掛けた。
「それでは、出発進行します」
 高橋がエンジンを掛けると、ヨットは波を立てながら進行した。
 ゆったりとしたスピードで海岸を離れ、帆が潮風を受けながら海へ進んでいくヨット。もちろん、使用人達も一緒に同乗している。
 港がどんどん離れて行き、小さくなっていくのが分かる。港を見送った後、亘宏はヨットの進路方向に視線を向けた。
 目の前には水平線が見える。
「ところで、このヨットはどこに行くのですか?」
「セーリングするだけよ」
「せーりんぐ?」
「帆走っていう意味よ。島や港に行かず、ただ海を渡るの。潮風を浴びたり海を走ったりしたい人には打ってつけね」
 そんなものがあるとは知らなかった。どこかに出掛ける訳ではなく、ただ潮風を浴びたり海を眺めていたれたりするのも悪くは無いだろう。純粋にヨットを楽しみたい人には、ちょうど良いかもしれない。

 潮風が当たって気持ち良く、太陽の日差しでバテそうになっていた身体が癒されていく気がした。
 そして、向こうには雲一つ無い空と陸地が見えない海がグラデーションの様に合わさって、空と海の境界線の奥に吸い込まれてしまいそうだった。
「綺麗でしょ」
 梨華が亘宏の隣にやって来て告げた。
「うん、いつまでも眺めていたいよ」
「それは無理よねぇ……」
 梨華は苦笑した。
「でも、梨華さんと一緒に来て、こんな風景を見られるなんて思わなかった」
「そうね。こんな風景はいつでも見られるものじゃないからね」
 その通りだ。滅多と見られない光景ではないけど、見ようと思えばいつでも見られるものではない。だからこそ、惹きつけられるのかもしれない。
「また、来れると良いわね」
 絵画の様な不思議な光景を見ながら、亘宏はいつの間にか梨華の肩を抱き寄せて眺めていたのであった。

 夢の様な日帰り旅行が終わり、亘宏達は自家用ジェット機に乗って沖縄を発った。
 梨華が亘宏に感想を尋ねた。
「どうだった? 沖縄は」
「うん、とっても楽しかった。良い思い出がたくさん出来て良かったです」
「そう言ってくれると、私も嬉しいわ。それと、はい」
 梨華は亘宏にDVDを渡した。
「一体なんですか、これ?」
「これはね、今日撮影した映像をこのDVDに保存したの。ダイジェエストとして、まとめてあるわ」
 つまり、今日の出来事のダイジェストがこのDVD一枚に収められているという事か。世界に一枚しかないDVDを手にして、亘宏の手が震えた。
 だが、その後亘宏の表情は少し俯き加減になった。
「でも、こんなに幸せだと何だかとても怖いんですよね」
「どうして?」
「何というか……後で恐ろしい事が起こりそうな気がして……」
 確かにこれまでの生活はとても楽しかった。しかし、今までどん底を味わってきた亘宏にとって、幸せでいる事には戸惑いがあった。
 良い事の後には悪い事が起きると言われているが、ここまで幸せすぎるとかえって恐怖を感じるのである。今回の旅行で当初抱えていた不信感は拭えたが、今度はそれを失う事に恐怖を感じていた。この幸せがいつまで続くのか。またどこかで不幸になってしまうのではないか。
 それを口にすると、梨華は心配そうに尋ねて来た。
「亘宏君は、幸せになる事がそんなに怖いの?」
「幸せになるのが怖いというより……何というか……これだけ幸せな事があると、その後に物凄く嫌な事が起こりそうな気がして……」
 実際、世の中には良い事の後には悪い事が起こるという言葉がある。例えば、宝くじで高額当選した人が交通事故に遭ったという話は、よく耳にする。
 その言葉を口にすると、梨華は心配そうな顔で更に深く突っ込んで来た。
 その言葉を聞いて、梨華はニッコリと笑いながら返してきた。
「そんなに心配する事なんてないわよ」
「えっ?」
「だって、あなたは私と出会うまで、十分不幸だったじゃない。周りから見捨てられて、親からも家を追い出されて、路頭に迷って、ホームレス狩りに絡まれそうになって、そこを私が偶然助けたのよ。それとも、ホームレスになった自分は、このままやられて死んだ方が良かったんじゃないかと思っているの?」
 それを聞いて、亘宏はハッとした。
「そ、そんな事は、無いです」
 さすがに、ホームレス狩りに絡まれてやられてしまうのは勘弁である。そんな目に遭うくらいなら、幸せでいるのが怖いからと言って、わざわざ不幸でいる事を望んでいる訳ではない。
「そうでしょ。そもそも、どうして幸せである事に怯えるの? 幸せになる事がそんなに悪い事なの? どうしてこれ以上、自分を不幸に追いやるの? 今のあなたには、この幸せを受け入れる権利が十分にあるのよ。もう不幸に怯える必要なんて無いのよ」
 それを聞いて、亘宏の中で抱えていた不安がスッと消えた。
「そっか……ごめんなさい。何か心配させてしまって」
 亘宏は、困った様な笑顔で謝った。
「分かってくれたなら嬉しいわ。幸せに怯えないで、この幸せを思いっきり楽しめば良いのよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。亘宏君が望む事なら、何でも叶えてあげるから」
 梨華の蠱惑的な言葉を聞いて、亘宏はゴクリと唾を飲んだ。彼女なら、本当に自分の願いを叶えてくれそうな気がする。
「それじゃあ、今度は梨華さんと二人きりで美味しいレストランに行きたいなぁ」
「そっか。じゃあ、今度また良い所を探してあげる」
 沈みゆく夕陽が二人の仲を温かく見守ったのであった。

 夢の様な旅行から明けて数日が過ぎた。
「亘宏君。この前、美味しいレストランに行きたいと言ったでしょ」
「えっ、レストランですか? 何で、急に……」
「実をいうとね……」
 梨華が呼び鈴を鳴らすと、フットマンが入室して、亘宏にチラシを見せた。
 フットマンが見せたのは、高級イタリアンレストランのチラシだった。そこには、ワインで出来たデミグラスソースが掛かった、黒毛和牛のシャトーブリアンを使ったステーキの画像があった。ステーキの切り口から流れ出る肉汁が、食欲をそそる。
「これ、何ですか?」
「これはね、私の行きつけのお店のイタリアンレストランで出る、一日十食限定の貴重なメニューなの」
「一日十食限定?」
「うん、とても貴重な部位の肉を使っているから、先着十食しか出せないのよ。私も以前から狙っていたんだけど、忙しくてなかなか食べる機会が無かったのよね」
 そんな事を語る梨華の表情は、何だか切なかった。セレブな梨華でも、なかなか手に入らないものはあるのかと亘宏は憐れんだ。
「それで、今日は仕事も早く終わる予定だし、亘宏君もいる事だから、今日は一緒に、ディナーに行こうかなと思って」
 それを聞いて、亘宏の心臓に激震が走った。
 高級イタリアンレストランで、梨華と一緒にディナーを楽しめるなんて、これ以上に幸せな事なんて、あるのだろうか。

 夜、レストランで都会のビルを見ながら、赤ワインの入ったグラスで乾杯をする二人。
 ワインを一口飲んで、ほろ酔い気分になった後、ステーキを食べる。
「ビルが綺麗ね……」
 梨華が都会のビルを眺めながら、呟く。
「いえ、そんなものより梨華さんの方が、ずっと素敵ですよ」
「本当に? 私も亘宏君からこんなに褒められると、嬉しいわ」
「梨華さん、僕は梨華さんと一緒にいると、本当に楽しいんです。よろしければ、僕とお付き合いしてくれませんか?」
 それを聞いて、梨華は
「うん、良いわよ」
 笑顔で応じてくれた。
「僕は梨華さんの事が好きです」
「私も亘宏君の事が好きよ」
「梨華さん……」
「亘宏君……」
 そして、二人は食事を終えた後、良いムードのまま、ホテルに向かい、熱い一夜を過ごすのであった。

 上手くいけば、梨華と交際出来るかもしれない。そして、あわよくば童貞も卒業出来るかもしれない。これは、海外旅行以上に期待出来る。
 そう考えた亘宏は、すぐさま「行きます!」と即答したのであった。

 夕刻、使用人からスーツを着せられて(梨華曰く「店の雰囲気を壊さない様にする事が、マナーよ」との事)、ベンツの車で例のレストランに行った。
 梨華の話によると、これから行くという高級イタリアンレストランは、数多くの著名人も、お忍びで通っているという。
 普段の亘宏なら、緊張のあまり頭の中が不安でいっぱいになるが、梨華と一緒にディナーが出来るという喜びから、その様な緊張感は全く無く、寧ろ内心ウキウキだった。憧れの女性とのデートが決まった時と同じくらいのテンションである。
 そして、二十分後。ようやく件のレストランに到着した。
 外装は、煉瓦で積み上げられており、無機質なコンクリートで出来た建物なんかと比べて、ノスタルジックな雰囲気があった。
 中に入ると、シャンデリアが並び、ホテルの様に煌びやかな内装が飛び込んで来た。周りには、スーツを着た男性やおしゃれなドレスを着た女性がいる。割と人気のある店である事が分かる。
 店内を見渡していると、ウェイターがやって来た。
「いらっしゃいませ、こちらにどうぞ」
 ウェイターは、梨華と亘宏を席まで案内していった。
 案内された先は、窓側の二人席だった。ガラス越しから見える都会の夜景が美しい。
 席に座り、ふとテーブルを見ると、亘宏は驚いた。テーブルの上には、大小様々なナイフやフォーク、スプーンが、左右、前方に、ところ狭しと並べられていたのである。
 イタリアンレストランに行った事が無い亘宏は、こんなにたくさんの道具は一体何に使うのかと疑問に思った。
 そんな事も知らず、ウェイターは説明をする。
「お客様は、黒毛和牛のシャトーブリアンのフルコースをご予約されています。サイドメニューをご注文される場合は、テーブルに置かれたメニューに書いてありますので、そちらの方をご覧になってください」
 早速、メニュー表を見た。

・アンティパスト パンツァネッラ風サラダ
・プリモ・ピアット ンドゥイヤとトマトのパスタ
・セコンド・ピアット 黒毛和牛のシャトーブリアン
・サラダ トマトとモッツァレラチーズとバジルのカプレーゼ
・チーズ ブルーチーズ
・デザート オリジナルティラミス
・コーヒー エスプレッソ

 日本語であるにも関わらず、書かれてある用語がどれも聞いた事が無い言葉ばかりで、ほとんど意味が全く分からなかった。 特に、ンドゥイヤ。『ン』で始まるものなんてあるのか。後で、梨華に聴けば親切丁寧に教えてくれるだろう。
「また、当店ではこの他にも食前酒にワインのご注文が出来ますので、メニュー表をご覧になってください」
 と、ウェイターは分厚い本を渡した。
「えっ?! 何ですか、これ?」
「この中には、当店が管理しておりますワインが全て記載されています。当店には全世界のワインを管理していますので、お客様のお好みのものがあれば、是非注文してください」
 と告げると、ウェイターはその場を去って行った。
 ファイルに大量の紙を挟んだ分厚い本にワインのメニューが全て網羅されているのかと驚きながらも、早速亘宏はワインのメニュー表を開くとそこにはイタリア語の文字がズラリと並んでいた。一体、何て書いてあるのかさっぱりだ。
 亘宏の脳内は、パニックのあまり真っ白になった。
「どうしたの?」
 梨華が心配そうに尋ねて来る。
「え、えーと……こ、これ……」
 亘宏が指を差したところには、こんな文章が書かれてあった。
Domaine de la Romanee Conti Grand Cru 1960
 それを見て、梨華はソムリエを呼んだ。
「すみません、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ ロマネ・コンティ グラン・クリュ1960年産をお願い出来ませんか?」
 梨華の言葉に、亘宏は耳を疑った。
「えっ? ロマネ・コンティ?」
 突如梨華の口から発せられた言葉の意味を亘宏は尋ねようとしたが、ソムリエは
「かしこまりました」
 と言って、その場を去って行った。
「ロ、ロマネ・コンティっていうんですか……」
「そうよ。名前くらいは聴いた事あるでしょ」
「あっ、あぁ……確かに、名前だけなら聞いた事があります……」
 読めない文章に混乱して適当に指を差した所が、まさかワインの最高峰と呼ばれているロマネ・コンティだったなんて。
 知らなかったと言って、ドン引きされるのも嫌なので、苦笑しながら誤魔化すしかなかった。
 何だか、取り返しのつかないことをしでかしてしまった気がした。
「でも、値段とか大丈夫なんですか? 最高級と言われるくらいだから、やっぱり……」
「大丈夫よ。これくらいのお金なら余裕で奢れるから」
「余裕って……一体いくらするんですか?」
「大体、百二十万円くらいよ」
「ひゃ、百二十万円?!」
 高級ワインの値段に、亘宏は思わず大きな声を上げてしまい、周りの客が一斉にこちらに視線を向けた。
「あっ、お騒がせしてすみませんでした」
 梨華が爽やかな笑顔でフォローをしてくれたおかげで、何人かの客が食事に戻った。
「あっ、あの、ご、ごめんなさい……」
「落ち込まなくて良いわよ。初めて来たんだから、緊張する気持ちは分かるわ」
 せっかく慰めてくれているのに、その言葉が余計に辛かった。
 その間に、ソムリエがワインを持って来た。ラベルに書かれた文字が威厳を感じさせる。ソムリエは、ワイングラスに並々と赤ワインを注いだ。
「さぁ、一口飲んでみて」
 梨華に勧められて、亘宏は早速一口ワインを飲んだ。その瞬間、亘宏はすぐさま眉をしかめ、グラスを落とした。
「何これ!? 苦ッ!!」
 亘宏は、思わず舌を出して吐き出しそうになった。
「お客様、大丈夫ですか?」
「す、すみません……味が合わなかったもんで……」
 ウェイターから水を貰い、すぐさま舌に残った渋みを取る。ワイン特有の渋みは、素人の口には合わなかった。
 更に、店員数名が駆けつけて来て、床とテーブルの掃除を始めた。
「大丈夫?」
 梨華も心配そうに声を掛ける。
「す、すいません……」
 まだ、料理が出ていないのに、せっかくのディナーで梨華に度々迷惑を掛けてしまい、申し訳なくなった亘宏は、頭を下げた。
「そんなに落ち込まなくても良いわよ。初めてだから、緊張しているだけ。これから、少しずつ練習すれば良いから」
 梨華が優しく慰めるが、亘宏にとって、その言葉はかえって傷口を広げるだけだった。
「じゃあ、今度は甘いワインにする?」
「お願いします……」
 さすがにワイン素人に、高級ワインの良さは理解出来なかった。
 梨華の注文で、ソムリエが次に持って来たのは、白ワインだった。
「何ですか、これ?」
「これは、ムートン・カデ・レゼルヴ・ソーテルヌと言って、さっきのロマネ・コンティと違って、甘いからワインが苦手な人にもちょうど良いの」
 それを聞いて、亘宏は新しいグラスに注がれた白ワインを飲んだ。
「うわっ、甘くてちょうど良い」
 先程のロマネ・コンティとは異なり、甘くてまろやかな味わいが口の中に広がって行くのが分かった。先程の苦みを綺麗に中和していく。
「もう一杯、飲んで良いですか?」
「良いわよ」
 そう言われて、亘宏はワインをもう一杯飲んだ。上品な味わいは、ワイン素人の亘宏を病み付きにした。
 その後、前菜やパスタが出された時も亘宏はワインを嗜みながら食事を進めた。今までは、頻繁に酒を飲む方ではなかったが、ワインと料理、両方の味が良かった事もあり、本人も気付かないうちにかなりの酒を飲んだ。
 そして、
「お待たせいたしました。シャトーブリアンです」
 待ちに待った、シャトーブリアンのおでましである。
「おぉっ! 待ってました!」
 ワインに夢中になっていて、すっかりステーキの存在を忘れていたが、メインディッシュを目の前にして、亘宏はかなり興奮した。
「よーし、それじゃあ早速頂いちゃうぞー」
 早速、ナイフとフォークでステーキを切って、ステーキを一口食べた。すると、口の中で肉がとろけて無くなっていく感触が舌に伝わった。肉は、こんなに柔らかいものだったのか。肉汁も旨味があって、まさに高級と称されるだけの価値があると庶民の味覚でも分かった。
「それにしても、こんなに美味しい料理とワインがあると、とても進みますよねー」
 お酒が入って、亘宏は普段より気分が高揚していた。
「あのね、亘宏君。ワインに夢中になるのは良いけど、あんまり飲み過ぎない方が良いと思うわよ」
 梨華がワインに酔っている亘宏を諭すと、
「……そ、そんな……梨華さんは僕と一緒にいるのが楽しくないんですか?」
「えっ、何もそこまでは……」
「うっうっ……どうせ、僕は頭も弱くて運動もダメで喧嘩も弱い、貧乏育ちで低学歴のブサイクですよーだ」
 梨華から口出しされたせいで、傷心した亘宏は愚痴を吐き始めてしまった。
「何で、僕はいつも上手くいかないんだー! 僕だって今まで散々努力をしてきたのに! 何で周りは認めてくれないんだよ! 皆、僕の事を馬鹿にして! 『人に迷惑を掛けるな』って言いながら、皆だって周りに迷惑を掛けているだろ! 僕は何も悪い事はしていないのに、いっつも叱ってばかりでさー! 何で僕ばかりがこんな酷い目に遭うんだー!!」
 過去の事を思い出してしまい、亘宏は泣き叫びながら八つ当たりしていた。完全に酔い潰れてしまっている。
「お客様、店内で暴れるのは止めてもらえないでしょうか?」
 ウェイターが亘宏に注意をしてきた。
「なぁにぃ~? お前も、アイツらの見方をする気にゃのかぁ~?」
 亘宏はウェイターを睨みつけた。
「アイツらは、自分達の事を棚に上げて僕だけを除け者にして、無能な癖に生意気でムカツクとかどんだけ人に迷惑を掛ければ気が済むんだとか、お前らの方がよっぽど迷惑だってぇの!」
 酒に酔って暴れる亘宏を眼前にして、店員が客に被害が及ばない様に避難させていた。
 酔っている他、元々非力なのでそこまでの攻撃力は無く、ガラスを割るとかテーブルをひっくり返すといった問題行為は起こしていないものの、やはり見ている側からすれば、危険でしかない。
 中には、その場から逃げる様に店を出る客もいた。
 亘宏は、その後も酔っ払いながらも文句や愚痴を吐きながら、おぼつかない足取りで店内を歩き回った。
 そんな時、観葉植物が植えられた植木鉢に、何かを見つけた。
「あれぇ……何、これぇ……?」
 亘宏が見つけたのは、カメラだった。葉の中に上手く溶け込む形でカメラが仕込まれていた。何で、こんな所にカメラが仕込んであるのか。しかし、この様に仕込まれたカメラは、前にもどこかで見た事がある気が……。
 どうにか記憶を思い出そうとしていたその時、突如何者かが背後から亘宏の後頭部を思い切り殴った。そして、亘宏の目の前は真っ暗になりそのまま意識を失った。

 目を覚ますと、天井には豪華なシャンデリアがあった。それを見た後、身体を起こそうとしたら、頭にズキンと痛みが走ったので、再びベッドに寝込んだ。寝ながら辺りを見渡すと、そこは自室である事を理解した。
 その時、ノック音が聞こえた。
「はい」
 亘宏が声を掛けると、梨華が入って来た。
「良かった。意識が戻ったみたいね」
 梨華は亘宏の意識が戻ったのを見ると、安堵の表情を見せた。
「大丈夫ですけど、どうして僕はここにいるのですか?」
「亘宏君、お酒を飲んで悪酔いしちゃったから、すぐさま木水を呼んでここまで連れて帰る事にしたわ」
「悪酔いって……もしかして僕あの店でお酒に酔い潰れて倒れちゃったのですか?」
 酔っていて、その時の記憶がほとんど無かったが恐る恐る尋ねる亘宏。
「今後、二度とお酒は飲まないでよね」
 どうやら、正解の様だ。
 亘宏は申し訳なさそうに布団で顔を覆いながら、
「色々とご迷惑をおかけしてしまって、本当にごめんなさい」
 と、謝罪した。
 レストランで大失態をやらかしてしまい、せっかく楽しみにしていたレストランを台無しにしてしまった。店から出入禁止にされても、おかしくないだろう。
 やはり、庶民に高級レストランは十年早かった。当分、高級レストランに行く事は避けた方が良いだろうと亘宏は思った。

 セレブとなると、パーティーであらゆる人間と交流する事が多くなる。ある者は新ビジネス立ち上げの為、ある者はハイステータスな男性との結婚を実現させる為、ある者は純粋に参加者との交流を楽しむ為。色々な目的でパーティーが行われている。
 パーティーとは、まさに出会いと交流の場でもあるのだ。
 クリスマスや誕生日パーティーのお誘いが無かった亘宏にとって、パーティーというものは、リア充しか参加出来ないイベントであり、そんなものは非リア充の自分にとっては、まるで雲の上にでも存在する未知なる世界と思っていたのだが……。
「今日は、パーティーに行かない?」
 朝、いつもの様にパンとミートソースのスパゲッティを食べている最中、梨華から突然口を開いた。
「ぱーてぃー?」
 パーティーのお誘いに、亘宏は当初耳を疑った。
「そう。私の友達も一緒に参加しているんだけど、せっかくだからあなたも参加してみない?」
 それを聞いて、亘宏は驚愕した。極度の人見知りでパーティーとは無縁の人生を送っていたが、やっぱりパーティーには、密かに憧れがあった。とはいえ、やっぱり以前のレストランでの出来事もあり、不安は拭えなかった。
「で、でも……大丈夫なんですか? 僕みたいな人間が来ちゃって」
 もし、こんなところへ、見るに堪えないブサイクな底辺ニートの男がやって来たら、嘲笑の的にされるか阿鼻叫喚となるに違いない。
 更に、参加者の前で赤っ恥を掻いたら、梨華にも申し訳ない。そんな地獄絵図を想像してしまった。そんな亘宏に梨華は優しく微笑んだ。
「安心して、今からおめかしするから」
 すると、使用人がいっぱい現れてきて、亘宏の両腕を掴み、着替え室に連れて行った。
「それでは、まずメイク乗りを良くする為に、フェイスケアを受けてもらいます」
 使用人に言われて、早速ベッドに寝かされて、顔に温かいタオルが覆われた。蒸気で蒸した温かいタオルが気持ち良い。更に、顔にクリームを塗られた。エステティシャンからのマッサージがとても気持ち良い。
 次に、使用人が用意したのは、黒いタキシードスーツだった。
「次に、こちらのスーツにお着替えください」
 スタイリストに言われるがまま、亘宏はスーツを着た。
「最後に、メイクをします」
 そう言うと、鏡面の着いたデスクの前に座らされて、顔にファンデーションを付け始めた。
 そして、コーディネイト開始から一時間後、鏡の中には、立派な黒いスーツを着た男性が立っていた。この前、デパートやレストランに行った時とは雰囲気が違い、いかにもキリっとした雰囲気だった。コンプレックスの一つだった太った体型にも貫録が出ている。
「これなら、パーティーに行っても大丈夫ね」
「で、でも本当に大丈夫なのですか? 僕、こういう場所、今まで行った事がないんですけど」
 不安を隠せない亘宏に、梨華は笑顔で答えた。
「大丈夫よ、すぐに慣れるから」

 夜、遂にパーティーの時間がやって来た。亘宏と梨華は、会場に入った。
 一歩、入った瞬間、亘宏は「うわぁー!」と、感嘆の声を上げながら、辺りを見渡した。
 そこには、豪華なドレスや高級なスーツを着た数多くのセレブがいた。
 医師、弁護士、実業家などエリートらしき男性、モデルや女優、ミスコン出身と思われる美女など、同じ世界に住んでいるとは思えない人間ばかりである。まさに百花繚乱という四字熟語が相応しい。
 しかも、向こうには、あの大手アパレル会社・ザザタウンの前田社長までいる。彼も、実業家仲間と楽しく談話している。
 彼らは、本当に梨華の友人・関係者なのかと思ったが、梨華も大手企業の社長を父に持つお嬢様なのだから、これだけ凄いコネを持っていて、当然だった。
 そんな事を思っているうちに、パーティーの主催者と思しき中年男性がやって来た。
「皆さん、今日はお忙しい中、我が家のホームパーティーにご来場していただき、ありがとうございました。今日も、皆さんで楽しくゆっくりと食事をしながらお話をしましょう」
 男性が手短に挨拶を済ませると、来場客達は、楽しそうに食事を始めた。
 テーブルの上には、パン、サラダ、鮭のムニエル、ローストビーフ、エビフライなど、ビュッフェ式で豪華な料理が置かれている。どれも美味しそうで、涎が出そうだ。
「こ、これ、全部食べても良いんですか?」
 亘宏は梨華に尋ねた。
「良いわよ」
「それなら、僕と一緒に……」
 と、亘宏が梨華を食事に誘おうとするが、すかさず
「それじゃあ、私は向こうで友達とお話ししてくるから」
 と、亘宏を置いて、その場を去ってしまった。
 亘宏は、慌てて梨華を追いかけるが、彼女はあっという間に人込みの中に溶け込んで行き、どこに行ったのか分からなくなってしまった。
 友達って、一体誰なんだ。多分、女性だと思うけど万一男性だったら、どうしよう。もし、他の男性が梨華に話しかけてきて、そのまま付き合ってしまったら……そう思うと、亘宏は不安で仕方なかった。
 一人残された亘宏は、どうすれば良いのか全く分からず、ただ右往左往するばかりだった。そこへ一人の女性が近付いて来た。
「ねぇ、あなたもしかして、花村亘宏君?」
 話し掛けて来たのは、赤いロングドレスと長く艶のある茶髪に付けられた紅いバラの髪飾り、そして笑った時に見える白い歯が印象的な若い女性だった。
「あっ、そうですけど……」
 突然の挨拶に、亘宏は軽く会釈した。すると、女性は嬉々としながら話し掛けて来た。
「ねぇ、お食事中悪いんだけどさ。向こうで、私とお話ししない?」
「えっ、良いですけど……」
 突然のお誘いに戸惑いつつも、ついOKしてしまった。すると、女性は亘宏の腕を強引に引っ張り、部屋から連れ出して行った。
「あ、あの……僕をどこに連れて行くんですか?」
「ごめんね、もうすぐだから」
 そう言って、女性が扉の前なで辿り着くと、その扉を開けた。
「皆、亘宏君が来たわよー!」
 女性の呼び声と共に、亘宏の視界に飛び込んで来たのは、華やかなドレスを着た美女達だった。
 部屋は、まるでホステスクラブの様に、華やかな雰囲気で、そこにはあらゆるタイプの美女達が座っていた。人数は、ざっと六人ぐらいか。
「待ってました!」
「キャー、あなたが花村君? 可愛いわねぇー」
 美女達は、亘宏の頭を撫でたり、頬擦りをしたり、腕に抱き着いたりして、可愛がった。
 肌が密着して、女性特有の心地良い香りがしたり、腕が豊満な胸に挟まれたりして、亘宏は興奮しそうになった。
 もちろん、せっかくの会場で、下心を露にしてその場で押し倒す訳には行かないけど。
 生まれてこの方、女性に「可愛い」と言われた事なんて、一度も無かった。
 「可愛い」と言われると不快に思う男性も少なくないが、今まで外見を褒められた事が全く無かった亘宏からすれば、大勢の美女から可愛がられる事について、全く不快感は無かった。寧ろ、これが「モテる」という意味なのかと衝撃があった。
 だが、亘宏の中で疑問が生まれた。
「あ、あの皆さん。歓迎してくれるのは嬉しいんですけど、どうして僕の事を知っているのですか?」
 すると、金色のドレスを着たアップスタイルの女性が答えた。
「私達、梨華とは学生時代からの友達でね、梨華からあなたの事を聞いているのよ。あなた、面白くて良い人なんですって」
「それに画像も見せてもらったけど、結構可愛い顔だったからさー。梨華に彼を連れて来てって、お願いしてもらったの!」
 梨華が自分の事を話していたのか。本人は、そんな事は一切話していなかったのに。とはいえ、綺麗なお姉さん方からの評判は意外にも良い様だ。女性達は亘宏に色々な事を質問してきた。
「ねぇ、亘宏君。趣味は何?」
「えっと……ネットサーフィンだけど……」
「どんなサイトを見ているの?」
「うーんと、アニメや画像を見ている事が多い……かな?」
「じゃあ、好きなアニメは?」
「さ、最近は『アイドル喫茶・フェアリーズ』にハマっています……」
 緊張のあまり、たどたどしい口調になってしまって、ついオタクな趣味をつい漏らしてしまった。もしかしたら、女性達から引かれるのではないかと思った。だが、
「そうなんだー。私も最近見ているのよ。アレ、面白いわよねー」
「うん。ヒロイン達がアイドル活動と喫茶店でのアルバイトをしながら、頑張る姿。見ていて応援したくなっちゃうよねー!」
 意外にも共感してくれた。しかも、同じアニメを見ていた人がこんな所にいたなんて。話しかけづらい空気があったけど、ここに来て何だか親近感が沸いてきた。
 その後も、美女達から色々と質問され、亘宏はたじろぎながらも、答えていった。
 そんな中、美女の一人が、尋ねて来た。
「ねぇ。亘宏君は、今日はどの女の子をお持ち帰りするつもりなの?」
 その質問に、亘宏は返答に詰まってしまった。本当は、「梨華さん」と答えたいのだが、美女達からの熱烈なアプローチも捨てがたかった。
 女性達からこれだけ好意をアピールされるのは嬉しいが、いざお持ち帰りをしようとなると、迷ってしまう。だからと言って、全員まとめて持ち帰ろうとするのは、かえって失礼だと思った。自分は、エロゲの主人公の様に複数の美女とエッチをするという芸当は出来ない。
「ねぇ、亘宏君。早く決めてよ」
 美女達は迫る様に亘宏に尋ねる。かなり積極的に迫るので、このまま押し倒されてしまいそうだったが、亘宏は口を開いた。
「ごめんなさいっ! 僕には、他に好きな人がいるので……!」
 思いも寄らぬ答えに、呆然とする美女達を置き去りにして、亘宏は一目散に逃げる形で、その場から飛び出してしまった。
 やはり、初めてを捧げるなら、本当に好きな人に捧げたい。そう思いながら、亘宏はその人の元に向かって走って行った。
 会場に戻ろうとすると、ドアに梨華がいた。彼女も先程会場を出ていた模様だ。
「あれ、どうしたの?」
 梨華が意外そうに訊いてきたが、亘宏は息を切らしながら答えた。
「……抜けてきました」
 何の躊躇もなく、キッパリと返されたのが意外だったのか、梨華は呆然とした。
「どうして抜けちゃったの。もしかして、空気が合わなかったの?」
 梨華は心配そうに尋ねるが、
「そうじゃないです。いくら綺麗な女の人達からモテたって、本当に好きな人に振り向いてもらえなかったら、全然意味が無いんです!」
「本当に好きな人って……?」
 梨華は亘宏の言葉の意味が分からず、首を傾げた。そして、亘宏は遂に思いをぶつけた。
「僕は、梨華さんの事が好きなんです!」
「えっ?」
 突然の告白に、梨華は驚いた。
「だって、落ちぶれていた僕にも優しくしてくれたし、今までこんなに酷い外見の僕が、ここまで人から親切にされた事が一度も無かったんです! 梨華さんと一緒なら僕はとても幸せになれると思うんです! 僕が梨華さんを幸せに出来るかどうかは分からないけど、それでも傍にいたいんです! だから、お願いします!」
 亘宏は、梨華に頭を下げて、手を差し出した。それだけ真剣な思いだった。
 それを聞いて、梨華は困った様な笑みを浮かべ、
「ごめんなさい」
 と、頭を下げた。
「どうしてですか? 僕の何がいけないんですか! ダメなところがあったら直しますから!」
 せっかくの告白を断られて納得がいかない亘宏は、必死に命乞いをするかの如く、理由を聞き出した。
「告白してくれるのは嬉しいけど、私には婚約者がいるから」
 それを聞いて、亘宏にショックが走った。梨華に婚約者がいたなんて。
「その人って……僕よりも好きですか……?」
「うん」
 梨華は悲しみに堪える亘宏に、梨華は正直に答えた。少し意地悪な質問にも、きちんと答えてくれたのだから、彼女の婚約者に対する思いも本物であるに違いない。
「そ、そっかぁ……そうですよねぇ……」
 仕方ないと思いつつも、視界はだんだんと霞んで見えてきた。これは、失恋したショックで涙が溢れているのではなくて、目に埃が入ったからだろう。
「ごめんなさい。何か変な事を聴いてしまって……」
「ううん。謝らなくても良いのよ。恋人として付き合う事は出来ないけど、これからも友達として付き合う事は出来るから」
 本人は落ち込む自分を慰めてくれているが、その言葉が余計辛かった
 亘宏は、黙って梨華に頭を下げると、その場を去った。その背中には、寂しさがあった。

 ベランダで、夜風に当たりながら、亘宏は失恋の痛手を紛らわせていた。正直、今は独りになりない気分だったし、パーティーでこんなカッコ悪い姿を誰かに見られたくはなかった。ビルが立ち並ぶ都会の夜景が綺麗だが、それを眺めていても、心の傷はすぐには癒されなかった。
 自分に偏見を持たずに接してくれた人に、初めて巡り合えた時は、とても嬉しかった。でも、それは決して彼女が自分に好意を寄せているからではなかった。彼女は、あくまで困っている人を見ると放っておけない性質なのである。
 つまり、もし自分以外の誰かが路頭に迷っていたとしても、梨華は迷わず救いの手を差し伸べていたという訳である。
 結局のところ、自分は梨華にとって特別な存在ではない、その他大勢のうちの一人でしかなかったのだ。それも分かっていたはずなのに、どうして、心はこれ程までに苦しいのか。
「どうしたの?」
 落ち込んでいるところに、後ろから女性の声がした。振り返ると、そこには紫色をしたシルクのロングドレスに身を包み、アップスタイルでまとめた焦茶色の髪の女性がいた。エレガントな雰囲気で、いかにも大人の女性を感じさせる。
「ちょっと、辛い事がありまして……」
 亘宏はどうにか言葉を濁したが、
「辛い事って一体何があったの? もしかして、失恋しちゃったとか?」
 いきなり正解を当てられて、亘宏は心の傷を更に抉られた気がした。
 もちろん、向こうには決して悪気は無いのは分かってはいるが、それでも見られたくない内面を言い当てられるのは、ダメージが大きかった。
 そんなところまで読まれていたのか。だとしたら、きっと、自分の背中が寂しげだったからかもしれない。
「それは……ほっといてくださいよ……」
 亘宏は、ソッポを向けた。だが、女性は強引に亘宏の手を取った。
「どうしてそんな冷たい事を言うの? あなたにとって、とても辛い事があったのでしょ。人が手を差し伸べているのに、最初から拒絶なんてしないで! 私に出来る事なら、幾らでもしてあげるから!」
 それを聞いて、亘宏は思わず赤面してしまった。これだけ真剣に迫られるとは思わなかった。
 それを聞いて、亘宏は「ご、ごめんなさい」と詫びた後、ここに至るまでの経緯を全て話した。

「そんな事があったんだ。せっかく親切にしてもらえたのに、フラれてしまって残念だったわね」
 嫌な思い出を吐き出すのは、せっかく心に封印してそのままにしていた汚いものを掘り起こすかの様で、凄く嫌な気持ちになったが、それでも女性は、亘宏の話を最後まで親身になって聴いてくれた。そのおかげで、ほんの少しだけだが、心の傷が癒えた気がする。
「でも、落ち込む必要は無いわ。あなたには、もっと素敵な女性が現れるから」
「そんな……今までモテるどころか、女の子と付き合うどころか優しくされた事すら無かったのに。あんな女性、二度と現れませんよ……!」
 非モテな自分は、梨華と出会うまで女性から優しくされた事なんて、一度も無かった。母親ですら、あそこまで面倒は見てくれなかった。あんな女性と巡り合う事なんて、二度と来ない。
 そう思っていたが、女性は意外な事を口にした。
「もし、あなたさえ良ければ、私がその人の代わりになってあげても良いけど」
「えっ?」
 亘宏は、女性の顔を見た。まさかこの女性が、“素敵な女性”だとでも、言いたいのか。
「そ、そんな……冗談は良してくださいよ。僕みたいなブサイクに話し掛ける人なんていませんよ。だ、騙されませんからね、そういうのは!」
 童貞・ニート・高校中退・ブサイク・デブと、まさに典型的な底辺男をそのまま絵にした様な男に告白する女がいるのだろうか。いや、そんな物好きがいる訳が無い。もし、いるとしたら、きっと、ドッキリか罰ゲームで来たに違いない。
 優しい言葉に頑なな態度を崩さない亘宏。だが、女性は亘宏に近付いて、彼の頬に触れた。
「これでも?」
 と告げると、女性は亘宏に口付けをした。口の中に、甘い蜜の様な味が広がって行く。しかも、身体が痺れてその場から動けなかった。まるで、甘い毒を口移しで飲まされた様な気分である。
「これでも、私の言葉が冗談だと言うのかしら?」
 唇を離されて、改めて問われると、亘宏は顔を真っ赤にしたまま、俯いてしまった。童貞に、いきなりのキスは刺激が強すぎた。下手をすれば、その場で失神していたかもしれない。
「……じゃあ、どうして僕なんかに話しかけてくれたのですか?」
 亘宏は、怯えながらも尋ねた。冗談ではないと分かったけど、何故自分なんかに話しかけてキスまでしてくれたのかが分からなかった。
「私も、かつてはあなたと同じだったからよ」
「えっ、どういう事なんですか?」
「信じてくれないかもしれないけど……実を言うと私も、昔はあなたみたいにデブでブサイクだったの」
「そういう風には全く見えませんけど」
「まぁ、同級生と久々に会った時も驚かれていたからね。でも、あの時は、あなたが女装した様な見た目でね、周りからもよく『ブタ』ってからかわれていたわ」
 本人は笑いながら話しているけど、当時は凄く辛い思いをしていた事は、容易に想像出来た。
「でもね、このままじゃいけない。周りを見返してやりたいと思って、一生懸命にダイエットをしたり、メイクやファッションの研究をしたりして、頑張ったの。おかげで、この前街で同級生と久しぶりに会った時は、別人と間違われちゃったわ!」
 その話を聞いて亘宏は感銘を受けた。あんな人でも、裏では必死に頑張っていたんだ。彼女は自分とは違って、一生懸命に頑張った末に結果を出したから、辛い過去も笑い飛ばす事が出来るんだ。
「そうだったんですか、凄いな……」
 彼女の話を聞いていると、今の自分が情けなく感じて来る。もしかしたら、今からでも頑張れば変わる事が出来るかもしれない。
 亘宏は、すっかりこの女に心酔していた。この感じ、梨華と初めて出会った時と同じ気持ちである。
「そういえば、名前はまだ聞いてなかったですよね。何て言うんですか?」
 亘宏に尋ねられて、女性は微笑みながら唇を動かした。
「垣内(かきうち)チホ」
「チホさんですか……」
 亘宏は、女性の名前を呟いた。そうしていると、何だか胸がときめいてくる。
「僕は花村亘宏と言います」
「亘宏君って言うんだ。良い名前ね」
 チホも笑って答えた。
「ねぇ、亘宏君。今晩は、私に抱かれてみる?」
 チホは、蠱惑的に囁いて来る。
「良いですけど、大丈夫ですか? 外でやるのも恥ずかしいし。こんな事を言うのもなんですけど、僕、童貞なんですよ」
 良い歳をして童貞だと打ち明けると、相手から引かれてもおかしくないが、チホは軽蔑する事無く、白い歯を見せながら笑った。
「大丈夫よ、私がちゃんとリードしてあげるし、イケば周りの事なんてどうでも良くなるから」
 その言葉に、亘宏はとうとう陥落した。
 こうして、花村亘宏は夜空の下でそのまま垣内チホに抱かれ、二十一歳して遂に童貞を卒業したのであった。

 晴れて童貞を卒業したのは良かったが、いざ叶ってもあまり実感が沸かなかった。
 チホの言った通り、外であるにも関わらず、情事を重ねていたら周りの状況なんて気にならず、専らチホにリードされるがままに夜のひと時は過ぎていき、何が起こったかは全く覚えていなかった。まさに夢を見た後の気分だ。
 でも、不思議と不快感は全く無かったし、とても心地良かった。寧ろセックスがこんなに気持ちが良いものだとは思わなかった。もしかしたら、中で出してしまったかもしれないが、「後でピルを飲むから」と言っていたので、きっと大丈夫だろう。
 チホと一夜を共にして会場を去った翌朝、亘宏はベッドから起きながら、そんな事を考えていた。
 スマートフォンを開くと、新着メールが一件届いていたので、メールを開いた。

 昨晩は、あなたと色々とお話しが出来て、楽しかったわ。
 また今度、お話ししましょうね。
 チホ

 あの後、チホと連絡先を交換したが、こんなに早く帰って来るとは思わなかった。
 それを見て亘宏は、『僕も楽しかったです。今度は一緒にデートしましょう』と返信した。
「昨晩はどうでしたか?」
 返信を終えた後、いつもの様に起こしに来た加奈がやって来て亘宏に尋ねた。
「凄かったよ。パーティーの料理も美味しかったし、あれだけ派手なところに僕みたいな人間がいても良いのかと思ったけど、あんなに女性から持てはやされるとは思わなかった」
「そうですか、それは良かったです」
 加奈は亘宏の満足げな様子に、にこやかだった。
 しかし、加奈は亘宏に近付き心配する表情で彼にしか聞こえない程の小声で、
「でも、早くここから逃げた方が良いですよ」
 と告げた。
「えっ、今なんて?」
 亘宏は加奈に聞き返そうとしたが、彼女は何事も無かったかの様に、
「では、亘宏様。朝食がご用意されていますので」
 と、お辞儀をして部屋を出て行った。

 今日の朝食は、スパニッシュオムレツと温野菜のコンソメスープである。
 スパニッシュオムレツを一口食べると、とろけるような触感のオムレツと中の具が合わさって、美味しさがあった。
「そういえば、亘宏君。この前のパーティーの帰り、何だか楽しそうにしていたけど、あの後、何か良い事でもあったの?」
「うん、まぁね」
 亘宏は、にやけながら答えた。梨華は、昨日亘宏を振ってしまった為に、落ち込んでいるのではないかと心配して声を掛けたのだろうが、あの後でそれを吹き飛ばす出来事があったので、すっかり元気になっていた。
「もしかして、私に振られた後、他に素敵な女性と巡り合えたとか?」
 梨華がからかう様に尋ねて来た。
「エヘッ。やっぱり、バレちゃいましたか?」
 亘宏はケロッとしながら答えた。正解ではあるが、恥ずかしい気持ちにはならなかった。
「で、相手はどんな人なの?」
「やっぱり、気になります? 垣内チホさんっていう方なんですけど、名前以外は僕も聞いていなくて……梨華さんは知ってますか?」
 それを聞いて、梨華は目を上に向けて、思い出そうとしていた。そして、すぐさま何かを思い出した。
「その人、もしかして投資家の人じゃないかしら?」
「えぇっ?!」
 梨華の話に衝撃を受けた亘宏は、椅子から転げ落ちた。某トーク番組の司会者さながらのリアクションだった。
「そ、それ、マジですか?」
「うん、年に何十億も稼いでいる凄腕だから、かなり有名よ」
 あの人が、そんな超セレブだったとは。あのパーティーにいた人達は、皆セレブばかりである事は分かっていたけど、それでもかなり驚いた。
「これがきっかけで、逆玉に乗れるかもしれないわね」
 と梨華は答えた。
「ところで、亘宏君。話を変える様で悪いんだけど、ちょっと相談したい事があるの」
「何ですか?」
「私、新しい会社を始めようと思うの」
「えっ、どんな会社を興すのですか?」
「福祉事業」
 福祉事業は、高齢化に伴い、近年数多くの大手企業が乗り出している分野であり、ゴールデンウィングも既に手を出している。その事は、亘宏もニュースでよく耳にしていた。
「いえいえ、そっちもやっているけど、私が考えているのは、就労支援の方よ」
「しゅうろうしえん?」
「知らない? 最近、就職が上手くいかなくて、ニートが急増しているって、問題になっているじゃない。だから、その人達に向けて、就職を支援してあげるサービスをするのよ」
「どんなものがあるんですか?」
 そんな支援があるなら、寧ろ自分が参加したいと思った。
「具体的には、パソコンの訓練をしたり、ビジネスマナーを学んだり、職場体験で仕事をする事に慣れてもらったりしてもらうわ。そこから、会社への一般就労を目指してもらうの」
 そんなものがあったのか。だとしたら、これを機に、自分も社会復帰をする事も出来そうだ。
「あなたにも、協力してもらうのよ」
「えっ、僕もですか?」
 亘宏は目を点にして尋ねた。。
「そうよ。だって、あなたは私と出会う前は、仕事が無かったのでしょ? だったら、ちょうど良い機会じゃない」
「そう言ってくれるのは嬉しいんですけど、僕は仕事をした事なんて無いし、人と話す事は苦手だし、パソコンだってタイピングがやっと出来る様になっただけで、まだ十分に使えていないのに、本当に僕で良いんですか?」
 一般企業での勤労はおろか、就職が出来るかどうかさえ怪しいレベルの亘宏だったが、
「大丈夫。一番大切なのは、人の役に立ちたいという気持ちよ。もし、分からないところがあったら、私がフォローしてあげるし、今のあなたなら、きっと上手くやっていけるわ。私が保証する!」
 その後、ちょっぴり意地悪な笑顔で、告げた。
「それに、今の自分がニートだって事がチホさんにバレたら、幻滅されちゃうでしょ」
 至極ごもっともな理由だった。そこまで説得されたら、もはや断らない訳にはいかない。
「そこまで言うなら……」
 亘宏は、遂に梨華に同意した。
「それじゃあ、この雇用契約書にサインして」
 突然、持ち出してきたバインダーに挟まれた紙を見て、亘宏はきょとんとした。
「……何ですか、これ?」
「これは雇用契約書よ。就職する事になったら、必ず書くのよ」
 就労経験が皆無の亘宏にとって、雇用契約書は初めて見る書類だった。文章には、就労時間や給与など、色々な契約内容が盛り込まれていたが、特に怪しいと思われる内容は無かったので、ざっと見通した後、そのままボールペンでサインした。

 部屋に戻ると、加奈がモップで床を掃除していた。
「あっ、掃除中ごめんね」
 亘宏は、加奈に軽くお詫びを入れた。
「大丈夫です。もう少しで終わりますから」
 加奈は入口付近の床を拭き終えて部屋を出ると、バケツを持って、その場を去ろうとした。
「あっ、ところでその前に君にも報告したい事があるんだけど」
「報告したい事ですか?」
「うん、梨華さんが会社を立ち上げたいと言ってきたから、僕もパソコンを本格的に勉強したいと思って」
「そうなのですか?」
 亘宏の言葉に、加奈は目を大きく見開いた。
「うん、梨華さんの為にも、僕も出来る限り、彼女の力になりたいと思って」
 それを聞いて、加奈は頷いた。
「それは素晴らしいですね。それなら、専門の教師をお呼びしますが、いかがなさいますか?」
「いや、加奈さんが良いよ。加奈さんの説明は、結構分かりやすかったし」
「そう言って頂けるのは、光栄です。それならば、私も出来る限り、協力したいと思います」
 加奈も笑顔で、了承してくれた。
「そういう事でしたら、テキスト本を購入しますが、いかがなさいますか?」
「うん、お願いするよ」
「そうですか。それでは、こちらを差し上げます」
 加奈は亘宏にある物を手渡した。
 色は白く、小さくて長方形の形をしており、キャップがついていた。
「何ですか、これは?」
「これは、USBメモリと言いまして、ファイルを保存する為のメモリです。持ち運びが出来るので、便利ですよ」
「へぇ、そうなんだ」
 こんな小さなものにデータが入るなんて、非常に便利だ。亘宏はメモリを見て、子供の様に目を輝かせた。
「あっ、でも無くすと大変ですから、大切に保管してくださいね」
「うん、分かったよ」
 その後、亘宏は就職に向けて梨華と加奈から指導を受けた。
 失敗しても、彼女達は呆れたり見捨てたりする事無く根気強く丁寧に教えてくれた。おかげで、ある程度のパソコンスキルとマナーが身に付き、就職に自信が持てる様になった。
 もちろん、その間にチホともデートを重ねた。彼女と遊園地やデパートなど、色々な場所に行き、チホも一緒に楽しんでいた。
 そして、チホと昼下がりの夜景デートをしていた時である。
「ねぇ、そろそろ私と結婚しない?」
 港から見える都会のビルを眺めていた時、チホが亘宏に誘ってきた。突然の逆プロポーズである。
 あまりにもさり気なかったので、当初亘宏は「えっ?」と聞き返した。
「あ、あの……何ですか。さっき、結婚という言葉が聞こえた気がするのですけど……」
 相手によっては幻滅されるかもしれない返答だが、チホは嫌な顔をする事なく告げた。
「聞き間違いではないわ。私はあなたと結婚したいと言ったのよ」
 それを聞いて、亘宏の頭は一気に真っ白になった。
「ど、どうしてこんなところでいきなり……?」
 と尋ねた。突然の逆プロポーズに動揺しているからである。
「うん、あなたとデートをしていると、いつも楽しいの。亘宏君と一緒にいると、とっても幸せな気持ちになるから。だから、これからはずっと亘宏君の傍にいたい。そう思ったの」
 それを受けて、亘宏の胸の鼓動が高鳴った。こんなに幸せな場面でも、緊張するのかと思った。それでも、チホが語る理由に、亘宏は感銘を受けた。彼女がこんな自分をそんな風に思ってくれていたなんて。女性からここまで気持ちを打ち明けられたら、冥利に尽きる。
「亘宏君、私と結婚しましょう」
 亘宏はチホからのプロポーズに不器用ながらも真っすぐな思いを告げた。
「うん」

亘宏様が屋敷で過ごしたセレブな日々は、まるで夢の様に素敵な日々でしたね。きっと、彼もこれまでに感じた事がない程に充実した幸せと贅沢を感じる事が出来た事でしょう。しかし、夢というものは、いつか覚めて消えるもの。そろそろ、彼にも夢から覚めてもらいましょう――。

 チホからのプロポーズを受け入れた翌日。亘宏はいつもの様に、目を覚ました。
 背伸びをしながら、身体を起こし、服に着替えると、 ドアの向こうからノック音が聞こえた。
 今日も、いつもの様にメイドがやって来て、梨華と一緒に朝食を食べた後、職業訓練を受ける。
 梨華や加奈からのレッスンは思った程、上手く進んでいるし、起業計画も順調だと聞いている。この調子なら、就職も大丈夫だ。
 そして、チホとの結婚に向けて準備もしなくてはならない。昨日チホからプロポーズを受けた事を話すと、皆一斉に祝福してくれた。この調子でいけば、結婚も近い。
 今までどん底の暮らしを送っていた自分が、まさかこんな大逆転をする日が来るとは思わなかった。彼女達の為にも頑張らないと。
 そんな期待を膨らませながら、返事をした。
「どうぞ」
 きっと、いつものメイドだろうと思い、亘宏は返事をした。
 ところが、ドアを開けて中に入って来たのは、眼鏡を掛けたスーツ姿のビジネスマン風の男達だった。何故玄関を通り越して、この部屋までやって来たのか全く分からないが、とてつもない威圧感を感じたので訊く勇気が出ず、亘宏はただ固唾を飲んだ。
「花村亘宏さんは、どちらですか?」
「えっ、ぼ、僕ですけど……」
 見覚えの無い冷徹な男達を眼前に亘宏は混乱しつつも、反射的に答えてしまった。
「花村様。あなたには、借金を返済してもらいます」
 身に覚えのない借金に亘宏の目は点になった。
「えぇっ、借金?! 僕はお金なんて借りていませんよ!」
 亘宏は慌てて否定したが、男達は
「実は、あなたには十億円もの借金があるんです」
 と言って、十億円と書かれた借用証明書を亘宏の目の前に突き付けた。
「そ、そんな! 僕は本当に、借金はしていないんです!」
 証明書にも、自分の名前のサインが書かれてあり、筆跡も自分の者だが、証明書にサインした記憶は全く無かった。
「そんな! これは何かの間違いです!」
 亘宏は納得がいかず、反論するが、
「うるせぇ! つべこべ言うんじゃねぇ!!」
 今までの落ち着いた態度から一変、突如ヤクザの如く怒鳴り、亘宏の腕を乱暴に掴み、強引に部屋から連れ出そうとした。
「梨華さん! 大変です! 金貸し屋がやって来ました!」
 亘宏は大声で梨華の名前を呼んだ。しかし、梨華はおろか使用人が駆けつける気配が全く無かった。まるで、そんな人物が最初からいなかったかの様に。
 強引に引っ張られるも、身体をバタバタと動かして抵抗する亘宏。
「うるさい奴だ! しばらく大人しくしてろ!」
 業を煮やした金貸し屋は、白いハンカチで彼の口を無理やり押させると、亘宏の意識はだんだんと遠のいていき、そのまま眠らされてしまった。

 暗闇の中、亘宏はハッと目を覚ました。
(――ここは……どこ?)
 意識を取り戻して、声を発しようとしたが、口の中に何かを咥えられている事に気付いた。口の感触からして、恐らく会話が出来ない様に口にもタオルを入れて縛り付けられていたのだ。更に、手足をロープで縛られ、しかもそのロープが棒に結ばれたされた状態で吊り下げられていた事に気付いた。おまけに、服も全て脱ぎ取られ、生まれたばかりの姿にされていた。
 一体、自分がどうしてこんな事になってしまったのか?
 亘宏は、ここに至るまでの経緯を思い出した。
 確か、身に覚えの無い借金を請求されて、屋敷から連れ出されそうになり、薬で眠らされたところまでは覚えているが、それ以降どうなったかは全く分からない。
 突然の事態に困惑していたその時、突如、どこからともなくアナウンスが流れた。
「皆さん、今回はカニバショーにお越しいただき、誠にありがとうございました」
 ステージには、黒いマスクに、ボンテージとロングブーツを着たグラマーな美女が、マイクを片手に、司会進行をしていた。
 会場内には、マスクを着けた観客が大勢いる。観客席には、ざっと五十人程度と少ない人数だが、年齢層は二十代から八十代と幅広い。しかも、客席との距離が非常に近い。このまま柵を乗り越えれば、あっという間にステージに入れる程の距離だ。
 カニバショーの意味が気になるが、カニでも出てくるのだろうか。そういえば、昔、組の金を盗んだヤクザがドラム缶に蟹を入れられて、殺されたという噂話があった事を思い出した。
 もしや、自分も、あのヤクザの様にホースから、蟹を流し込まれて、体内を浸食されて死ぬのだろうか。
「今回、皆様に召しあがってもらうのは、何と豚の丸焼き! 今回は、皆さんにこの豚の丸焼きを目の前で料理する場面をご覧になってもらい、皆様に召し上がってもらいます」
 観客席からは、盛大な歓声と拍手が鳴り響いた。
 豚肉の丸焼きとは、どういう意味なのか。もしや、豚の様に太った自分を丸焼きにしようという意味なのか。いくら何でも、それは性質の悪い冗談だ。
「さぁ、早速カニバショーを始めたいと思います!」
 亘宏の都合もお構いなしに、マスクの女性のアナウンスと共に現れたのは、薪だった。その下には淵の着いた鉄板も敷かれてあり、両脇には、柱が建てられている。
「それでは早速、この豚をお客様の目の前で焼いて見せましょう」
 アナウンスの直後、松明を持った屈強な体格の男性が入場してきた。
 男性は松明を観客に掲げると、観客席からは興奮の声が上がった。そして、男性は薪に火を点けた。
「うっ、うぅっ……」
 ジリジリと背中を熱されて、亘宏は小さな悲鳴を上げた。
「おい、悲鳴を上げる暇があるなら、さっさと勃ちな! お客様に失礼だろ!」
 女性に罵られて、亘宏は小さく頭を下げるしかなかった。しかし、どうすれば勃つのかは、全く分からなかった。自分に、被虐趣味は一切無い。
 それでも背中を炙る炎が熱く、今にも背中が火傷しそうだ。
「うーん……なかなか、火が通りませんね。それでは、もっと火を強く起こしましょう」
 今度は、ステージから竹筒を持った屈強な男性達が三人やって来た。三人は、薪の前に跪くと、筒から息を吹きかけた。すると、火が更に勢いを増していく。
「―――――――――っ!!」
 熱せられる炎に亘宏は悲鳴を上げた。それでも、火は容赦なく背中を燃やし、このままだと全身が炎に包まれて、まさに豚の丸焼きになってしまいそうである。
 自分の人生はここで終わりなのか? こんな所で無様に死んでしまうのか。亘宏は目を閉じながら、迫りくる死に恐怖した。
 その瞬間、照明から火花が散り、会場内が真っ暗になった。
「おい、どうしたんだ?」
「暗くて何も見えないぞ!」
「早く照明を点けろ!」
「そこは、火で明かりを点けろ!」
 突然の事態に、会場内は混乱した。
 スピーカーからは、「只今、照明のアクシデントがありました。今から復旧作業に入りますので、しばらくお待ちください」というアナウンスが流れた。
 亘宏も、一体何があったのか全く分からず、ただ首を左右に動かしながら、状況を判断するしかなかったが、真っ暗なので会場内は混乱している事しか分からなかった。
 その時、誰かがバサッと水を掛けて来た。熱い炎の次に冷たい水を掛けられてびしょ濡れになってしまったが、そのおかげで火も消えた。そして誰かがこちらに近付いて来て、縛っていたロープと口に撒かれたタオルを解いてくれた。そして、亘宏に服を渡し、彼の手を引っ張った。
「ちょっと、僕をどこへ連れて行くつもりなの? まだ着替えてないんだけど」
「静かにして。アイツらに気付かれるわ」
 若い女性の声が聞こえたが、肝心の顔は暗闇のせいで見えなかった。でも、声には聞き覚えがあった。自分は、一体どこへ連れて行かれるのか分からないまま、亘宏は謎の女に連れて行かれた。

 舞台を出ると、女性は言った。
「ここまで来れば安全だから、早く服に着替えて」
 そう言われて、亘宏は背を向けて服に着替えた。着替え終えて、後ろを振り向くと、目が暗闇に慣れて、相手の姿がようやく見えた。その顔には、見覚えがあった。亘宏は、その女性の名を口にした。
「……加奈さん?」
 まさかの救いが屋敷のメイドだった事に亘宏は驚くが、彼女は開口一番、
「全く、アタシが早くここから逃げた方が良いって言ったのに、何で言う事を聞かなかったのよ、このド阿呆!」
 突然の罵倒に、亘宏は耳を疑った。一瞬、言葉を失ったが、すぐさま我に返り、
「ちょっと、いきなりなんなんだよ! せっかく助けに来てくれたと思ったら、その言い方は無いだろ。君はメイドなんだから、今までの様に優しく接してよ!」
 と、口を尖らせながら文句をぶつけた。
「何言ってんの。アンタは屋敷から追い出されたんだから、もう恭しく『亘宏様』と呼ぶ必要なんか無いでしょ。それ以上、文句を言うとあのステージに連れ戻して丸焼きにしてやっても良いのよ」
 至極ごもっともな答えだが、それにしたって、従順で優しかったメイドの頃と比べて、今の気の強い性格は、あまりにもギャップが激しすぎた。せめて、その口と態度の悪さは、どうにか出来ないものなのかと内心不満に思った。
 しかし、いくら口が悪くても、せっかくの助けをフイにする訳にはいかなかった。丸焼きにされるのは、真っ平御免である。なので、亘宏は「すいませんでした」と頭を下げるしかなかった。
 しかし、何故自分はここに連れて来られたのか。そもそも、ここがどこなのか。まず、それを知る必要がある。
「それにしても、ここはどこなの?」
 亘宏の質問に、加奈は冷静に答えた。
「ここは、地下のキャバレーよ」
「キャバレー?」
「そうよ。ここでは、カニバショーが行われているのよ」
「何だよ、それ? カニバショーって、一体何なの?」
「カニバショーのカニバはカニバリズム、つまり人肉を食べるという意味で、ターゲットをそのまま料理して、会場のお客さんに食事として提供するというショーをしているのよ」
「そんな物騒な事をやっているの?」
 不気味なショーの内容を聞いて、亘宏の顔は青ざめた。
「まぁ、当然表には出ていないけど、そういう趣味の人は少なからずいるのよ。今でも人肉を食べる習慣がある国があるらしいし」
「そんな物騒な事を言わないでよ、怖いから!」
 人を料理して食べる姿なんて想像しただけでも、寒気が走った。
「ところで、何で僕はここに来させられたの?」
「覚えていない? アンタは金貸し屋によって薬で眠らされた後、ここまで連れて来られたのよ」
「連れて来られた……? 何で?」
「表向きは借金返済の為って事になっているけど、あれは契約書の間に、カーボン紙を挟んで、そこから複写されただけだから。本当は期間が終わったから、用済みになっただけよ」
「カーボン? 期間が終わった? 用済み? 全く意味が分からないんだけど」
 頭の弱い亘宏には、加奈の言葉の意味が分からなかった。その問いに、加奈はある言葉を口にした。
「豪遊ゲーム」
「豪遊ゲームって、何?」
 聞き覚えの無い言葉に、亘宏は首を傾げた。
「豪遊ゲームっていうのはね、毎回ターゲットを屋敷に住まわせて、どんな行動を取るか、何を選ぶかをプレイヤーが賭けるものよ。そして、毎回その結果を発表して、当たった人は賞金を獲得出来るという仕組み。いわゆる、人の私生活を覗き見て、どんな行動を取るかを見て楽しむ趣味の悪いギャンブルね」
「ギャンブルだって……?」
 亘宏は、加奈の言葉の意味が理解出来なかった。
「ちょっと待って。どんな行動を賭けるのかって、どうやってそんな事を調べるの?」
 亘宏の質問に、加奈は過去の出来事を話題に出した。
「あのさ、この前『偽りの豪遊』って、映画のDVDを一緒に見たでしょ」
「あぁ、そういえば……それがどうかしたの?」
「あれを見せたのはね、アンタに気付いて欲しかった事があったからよ」
「気付いて欲しかった事? 欲に溺れて調子に乗っていたら、最後は恐ろしい目に遭うよっていう教訓とか?」
「それも間違ってはいないけど、アタシが伝えたかったのは、もっと別の事よ」
「別の事……?」
 加奈の言葉に、亘宏は首を傾げた。
「実はね、アンタのこれまでの生活も、あの『偽りの豪遊』の様に、屋敷内に、全て隠しカメラが取り付けてあったの」
「隠しカメラ?!」
 それを聞いて、亘宏は素っ頓狂な声を上げながら目を見開いた。
「そうよ。アンタが梨華と一緒に出掛けたデパートで、どんなものを買うのか、どの店に入るかを予測する為に、デパート内に隠しカメラを仕込んだり、アンタが梨華やスタイリストさんの言葉に乗せられてニヤニヤしながら妄想したり、部屋でオナニーをしたり、ネットでエロ画像を集めたりしているところまで、隠しカメラを通じて全てインターネットを通じて会員に公開されているのよ」
「えぇっ?! そ、そんな!」
 屋敷で生活している間は、そんな事は一切考えた事が無かった。もし、そんなところまで公開されたら、恥ずかしさのあまり死んでしまいそうである。
 だが、疑問は他にもある。
「ちょっと待ってよ。だったら、僕が住んでた屋敷は何なの? カメラを仕込んだところで、あれを用意する事は出来ないでしょ」
「そう思うのも無理は無いわね。でもね、あの建物も元々は大手会社の社長のものだったんだけどね、破産してゴールデンウィングに差し押さえられたの」
「梨華さんが働いている会社か……確か、あそこは元々金融業だったんだよね」
「そうよ。最初は、このまま競売に掛ける予定だったみたいなんだけど、広い地下室もあるし、あれだけ豪華な建物を手放すのは惜しいと思ったのかもね。だから、この屋敷を豪遊ゲームの舞台に使う事を思い付いたのかもしれないわ」
 つまり、差し押さえの物件を自ら購入して、屋敷中にカメラを仕込んだという訳である。
「それじゃあ、デパートやレストランとかは、どうなの? いくらなんでも、ホームパーティーの会場まで用意するのは難しいんじゃないの?」
「デパートやレストランは、ゴールデンウィングの系列企業だって言ってたでしょ。だから、あの店を舞台として使う事くらい容易いわ。さすがにデパートに行った時、アンタがランチの時に高級レストランや人気のカフェじゃなくて、ラーメン屋を選んだのは予想外だったみたいだから、木水が元々設置されていた監視カメラで、映像を公開する様にとこっそり電話を入れてきたわ。アンタはラーメンに夢中になったりヤンキーに絡まれたりして、ほとんど眼中に無かったみたいだけど。パーティーの会場も、屋敷と同様に差し押さえた物件を使っていたのよ」
 会計の時には木水が必ず支払いをしてくれていたが、食事中は木水の存在に全く気付かなかった。
 それに電話で連絡するくらいなら数分くらいで終わるし、仮にいなくなった事に気付いたところで「今は席を外している」と言えば済む。
「あと、デパートの後、高級レストランでの反応を確かめる為に、急遽、系列企業のレストランを使おうとしたんだけど、アンタが屋敷に不信感を抱いたから更に予定を変更する事になったわ」
「僕が旅行に行きたいと言った、あの日か」
「まぁ、帰り際にアンタがレストランに行きたいと言ってくれたおかげで、多少は持ち直したけどね」
「じゃあ、自家用ジェット機やヨットは? あれも、もしかして差し押さえ?」
「自家用ジェット機は差し押さえじゃなくてターゲットを監視する為に、こちらで用意したものよ。滑走路も庭の森を伐採して作ったわ。大勢の人が入る空港の飛行機より自家用ジェット機を用意した方が、あらゆる場所に隠しカメラを仕込みやすいからね。ちなみに、ヨットは本当にチャーターしたものだけど、入った時にこっそりと隠しカメラを仕掛けていたわ。まぁ、これだけ上手く行ったのは、前に屋敷に来た人が同じ事を要求してきたからなんだけど」
 豪遊ゲームが出来てどれくらいの年数が経っているのかは知らないが、恐らく意外と多くの人が屋敷を訪れている様だ。その間に、向こうが予期せぬアクシデントが起きた事もも少なくなかったに違いないが、それも上手く対処してきたのだろう。でなければ、今でもこんな悪趣味なゲームが今でも続いている訳が無い。
「でも、外に出たらカメラを仕込む事は出来ないでしょ」
「あの時、木水がカメラを構えて撮影していたでしょ。あれ、本当はカメラを通じてアンタの様子をネットで配信していたのよ。最近じゃ、ネット配信動画をやっている人がいるから他の人に見られても別に怪しまれないでしょ」
 自分がカメラについて尋ねた時、梨華は思い出作りと称していたが、実際は動画配信だったのか。
「じゃあ、屋敷の使用人やパーティーにいた人達は? あそこには、かなりの人数がいたでしょ」
「それも全員、役者だとしたら?」
「役者?」
「ドラマや映画でいうエキストラね。あの人達も、ギャンブルを盛り上げる為に雇われていたのよ」
「でも、かなり一流企業の社長さんとかもいたでしょ。ホラ、例えばザザタウンの前田社長とか」
「あれは、ただのそっくりさん。メイクで顔を似せてあるから、パッと見ただけでは分からないけど、よーく顔を見ていれば、見抜けたはずよ」
 と言って、加奈はスマートフォンで本物の前田社長の顔画像を見せた。そこには、パーティーで見掛けた前田社長とは顔つきこそ似ているものの、造りが若干異なっており、本物の方が風格を感じさせる印象だった。
「それなら、パーティーで僕に話しかけてきた女の人達は? 色々とスキンシップとかしてくれたでしょ」
「パーティーでアンタに近付いて来た女性達も、本当は今晩アンタが誰を抱くかを賭ける為に用意したものだったのよ。まぁ、それを拒んで梨華を最初に選んだ時は向こうも驚いたみたいだけどね」
 あの場で美女達から熱烈なアプローチをされれば、必ずそのうちの誰かを抱くと思ったのだろう。実際、彼女達からモテた時は亘宏のオスが刺激されたが、それでも初めては梨華に貰ってほしいと思ったので、部屋から飛び出してしまった訳だけど。
 それでも、向こうはあの様な場所でも自分が一途に梨華を思い続けるとは思わなかったので、彼女が亘宏からの告白を断る事で難を逃れたという訳である。
 その後、本来は選択肢に入っていなかったチホを急遽投入して、見事にベッドインさせたのである。
「そ、そんな……じゃあ、チホさんも、本当はエキストラだったって事?」
 亘宏は、嫌な予感をしつつも加奈に尋ねた。
「そうよ。でなきゃ、あんたみたいな童貞ニートのブサイクを相手にする訳がないじゃない!」
 躊躇なく発した回答には、心臓を串刺しにされる程のダメージがあった。
 道理で、あまりにも都合が良すぎる展開だと思った。幸せになり過ぎて、逆に怖いとすら思った。
 それも全てはパソコンの向こう側にいる観客を楽しませる為。つまり、自分は彼らにとって、ただの玩具でしかなかったのである。
「もちろん、最初からアンタだけを狙っていた訳ではないわよ。アンタがここに来る前にも、何人ものターゲットがこの屋敷にやって来て、全員セレブな生活に、のめり込んでいって、最期はショーで料理されて、無残に死んでいったわ。遺体は全部食べられるから、証拠は見つからないし、世間からは失踪扱いになるけどね」
「そ、そんな……」
 とんでもない事実に、亘宏は目を見開いた。
「しかも、それらはインターネットによる動画配信で、アンタの生活がきっちり流れていたのよ。それをプレイヤー全員が閲覧出来る様になっていたの。つまり、アンタは豪遊ゲームにとって、都合の良いターゲットだったという事なのよ!」
 加奈によって明かされた事実に、亘宏の頭に雷撃が撃ち落とされた様な衝撃が走った。自分の行動が全て配信され、しかもその視聴者が、自分がどんな行動を取るかを賭けていたなんて。
 予想外のアクシデントこそあったが、まさに彼らに弄ばれていたという訳である。
「この屋敷に連れて来られた人は、皆、生活やお金に苦労して、路頭に迷っていた人達ばかりだから、こっちがちょっと優しくすると、素直に着いて来てくれるし、贅沢な暮らしをさせてあげれば、たとえ最初は戸惑っていても、皆次第にのめりこんじゃうの」
 まさに加奈の言う通りだった。
 屋敷に入った時だって、自分も最初は慣れないセレブ生活に戸惑っていたが、使用人から色々とおもてなしされたり、豪遊したり、美女からもてはやされたりして、謳歌しているうちに、次第にのめりこんでいき、最後にはすっかりセレブ生活を満喫していた。
 セレブの世界がこれほどまでに楽しいものなのかと思えた。こんな生活が一生続いてくれたら、とさえ願った。
 それは、宝くじで十億円が当たった以上の衝撃と快感があった。それも、全て虚像に塗れたものだったのだが。
「ちょっと待ってよ! じゃあ、梨華さんは大丈夫なの? あの人も、早く助け出さないとマズいんじゃ……」
 慌てふためる亘宏に、加奈は諦観に近い口調で答えた。
「その心配は無いわよ」
「どうして?!」
「これだけ話したのだから、アンタだって本当はもう薄々と気付いているんじゃないの?」
「気付いているって、何に?」
 実は未だに気付いていない亘宏の問いに、加奈は残酷な真実を彼に打ち明けた。
「だって、彼女も豪遊ゲームの人間なんだから」
 加奈の口から告げられた言葉に、亘宏はしばらくの間、機械がフリーズしたかの様に思考が停止した。
「そ、そんな……まさか、梨華さんが豪遊ゲームの人間である訳が……」
 加奈から事実を聞かされても、未だに梨華を信じ続ける亘宏に、加奈は「まぁ、あれだけ良くしてもらったのだから、疑えと言うのも無理な話か」と呟いたが、話を続けた。
「だけど、アンタ今まで気が付かなかったの?」
「気が付かなかったって、何に?」
 加奈の言葉が全く理解出来ない亘宏に、加奈は「アンタ、本当に全く気付いていなかったのね」と呆れながら、深くため息を吐いた。
「アンタ、チンピラに絡まれそうになったところを梨華に助けられた事がきっかけで、屋敷に住む事になったのでしょ」
「そうだけど、それがどうしたの?」
「じゃあ、もし梨華とそのチンピラがグルで、梨華が事前にチンピラに、亘宏を狙えと命令していたとしたら?」
「め、命令って……梨華さんがそんなあくどい真似をする訳が……」
「それがアンタを屋敷に入れる為の手段だったとしても?」
 そこまでいくと、亘宏は返す言葉も無かった。
 確かに、チンピラに絡まれていたところを梨華が駆けつけてくれた時は助かったと安心した。それだけで済めば良かったのだが、屋敷に住む事を提案されてご奉仕されて豪遊までするというのは、あまりにも違和感があった。一時は、怪しいと感じてはいたが、それでも梨華に上手く丸め込まれてしまい、一気にセレブの世界にのめり込んでしまった。
 危険に陥っているところを助けられると、人は誰でも相手に心を許してしまう。ましてや、生活が困窮していて生命も危ういとなれば、尚更だ。だが、実はそれが相手の心を許す為に仕組んだものだったとは、誰も思わないだろう。
「それだけじゃないわ。例えば、毎朝食堂では梨華と二人きりか一人きりで朝食を食べたでしょ」
「そうだけど、使用人は主人の食事中は顔を見ないものって言っていた気が……」
「確かに、顔は見ないとは言っていたけど、同じ部屋にいてはいけないとまでは言わなかったでしょ。普通、使用人は主人の後ろに立って静かに待っているものなのよ」
「でも、それに何の意味があるの?」
「そうね。例えば、その使用人が朝食の間、裏で何かをやっていたとしたら?」
「裏で何かをやってって、どういう事なの?」
「そうね。例えば木水から立入禁止と言われていた地下階で、その日行く予定の店をあらかじめ全て手配していたとしたら?」
「手配?」
「そうよ。あと、梨華が連れて行ってくれたホームパーティーだって、アレ、本来は商談や情報交換が目的であって、出会いを目的としたものではないのよ」
「えっ、そうなの?」
「まぁ、そこで運命の出会いが訪れる事があるかもしれないけど、本来は違う目的で行われているわ。それと、あの場には本来、夫か婚約者をパートナーに連れて行くのが一般的なのよ。ただの同居人であるアンタを連れて行くなんて、まず有り得ないのよ」
 そう言えば、梨華に告白した時、彼女は婚約者がいるからという理由で断った。だとしたら、その婚約者が同伴すべきなのである。なのに、梨華は亘宏をパートナーに選んだ。その時点で、疑うべきだったのである。
「そ、そんな……」
 さすがに恩人を疑う事は出来なかったが、これでようやく全てを知った。手を差し伸べてくれた時は、救いの女神だと信じていたのに。そう思うと、悲しさと悔しさがこみあげて来る。
「じゃあ、どうして君は僕を助けてくれたの? 君も関係者なら、こんな事をして許されるものじゃないだろ?」
 すると、加奈は冷静な口調で語った。
「この前、USBメモリを渡したでしょ」
「確かに貰ったけど、それがどうしたの?」
「あの中には、『豪遊ゲーム』を告発する為の証拠となるデータが入っているんだけど、他の使用人達から怪しまれそうになったから、アンタの部屋にちょっと預けておいたのよ。しばらくしたら、同じ物とこっそりすり替える予定だったんだけど、アンタの部屋に戻ったら、どこにも見つからなくてね。もし、失敗したら今までの苦労が全部パーだから」
「そ、そんな理由で……?」
 助けてくれたのは嬉しいけど、理由が納得いかなかった。どうせなら、「あなたには、まだ生きて欲しいのです」と言ってもらいたいのだが。
 その後、加奈はぼそっと呟いた。
「それに、アンタはアタシが『自分を好きにしていい』と言った時に、物凄く変な事まで要求して来なかったし、他の使用人にもぞんざいな扱いはしなかったからさ。思っていたより悪い人間ではないみたいだから、助けてあげてもいいかなって思ったのよ」
 それを聞いて、亘宏は少しだけ安堵した。加奈からの誘惑は梨華への裏切り行為になると思って土下座で回避し、使用人に対してもあのDVDのエンディングがトラウマになり、使用人に対してぞんざいな扱いは絶対にしないでおこうと肝に銘じたからなのだが、あれが彼女からの信頼を得るなんて。やっぱり、日頃の行いは大切だと痛感した。
「それで、メモリはどこにあるの?」
「メモリなら、確か……」
 亘宏はズボンの右ポケットに手を入れた。手には固い感触があった。ポケットから取り出すと、そこには例のメモリがあった。
「そんな所に入れていたの?」
「うん、引き出しだと閉まった場所を忘れそうだから、洗濯に出す時以外は、いつもポケットの中に入れていたんだ」
「……まさかとは思うけど、メモリの中にあったファイルも見たの?」
「メモリの中にファイルはあったけど、勝手に中身をのぞくのはマズイから、見ていないよ」
 本当は、少し気になって試しに一度クリックしたが、プロテクトが掛けられていたので、中身を見る事は出来なかった。この事を加奈に話すと、また怒られそうなので、黙っている事にした。嘘は吐いていないので、大丈夫だろう。
「そっか、じゃあ後はパソコンルームに行って、このファイルを公開するだけね」
 その時だった。突如、場内にサイレンが鳴り響いた。
「材料が逃亡しました。従業員の皆様は、直ちに逃亡者を確保に向かってください」
 サイレンが鳴り響く中でアナウンスが流れ、従業員は一斉に亘宏の捕獲に向かった。きっと、照明が復旧した際に、材料の姿が消えていた事に気付いたからだろう。
「マズイ、どうしよう?」
 慌てる亘宏に加奈は、亘宏の手を取り、
「逃げるのよ」
 そう言って、彼の手を引っ張って、その場を離れた。

 先程まで自分達がいたのは、ステージ裏であり、加奈はそこに避難していた。出演者が全員ステージにいる今なら、避難出来ると考えたのだろう。
 手を引っ張られている最中、加奈が尋ねてきた。
「ところで、ちょっと気になった事があるんだけど」
「何?」
「アンタ、四年前の集団暴行事件の被害者だったんだって?」
「何で、そんな事を知っているの?!」
「アンタの名前を知った時、どこかで聞いた事のある名前だったから、もしかしてと思って、ちょっと調べたのよ。ネットで検索したら、掲示板やSNSでアンタの事が色々と書いてあったわ」
 四年前の出来事なのに、まだそんな記録が残っていたのか。本人の中では、黒歴史として封印していたのに、この場で掘り起こされるなんて!
「アンタ、勉強も運動もダメなブサイクで校則もロクに守れなくて、先生からも扱いにくい生徒と評判だったそうじゃない。きっと、先生もアンタが虐められている様を見て、心のどこかでホッとしていたのかもしれないわ。実際、屋敷でオナニーをするし妄想している時の顔がキモイしレストランで暴れるし、これじゃあ周りから嫌われてもしょうがないわねぇ」
「ちょっと、何もそこまで言う事は無いだろ!」
 加奈からダメ出しされまくって、亘宏は反論した。
 学生時代、自分の悪口を叩いて馬鹿にしていた気の強い女子とまさに同じタイプである。
「はっきり言って、アンタ元から嫌われていたのよ! しかも、校長先生から退学勧告を出された時も、納得がいかないと殴り飛ばして退学処分にされたんでしょ。無能なブサイクで何の取柄も無くて人に迷惑ばかり掛けている癖に文句ばっかり言っているから、皆に嫌われて追い出されるのよ!」
 過去のトラウマを掘り起こされた上に、被害者であるにも関わらず、責められて蔑まれて嘲笑われて、自分が虐められて当然な人間だと蔑まれた。
「僕だって頑張ったんだよ。頑張ったけど上手くいかなくて、それでも馬鹿にされるのが悔しくて、殴られたり陰口を叩かれたりして、凄く辛かったんだよ! おまけに警察に通報したら、ヤンキーから逆ギレされてボコられて死にかけたのに! 君はあの時、僕がこのまま死んでくれた方が良かったとでも言いたいの?!」
 この時、亘宏は血涙を流した。たとえ、自分に落ち度があったとしても、虐められるのは辛いし、ましてや通報という正しい行為をしたにも関わらず、逆上されて集団暴行に遭うのは理不尽極まりない事である。
「そ、それは……」
 亘宏の悲痛な叫びに、さすがの加奈も言い過ぎたと省みた。その時だった。
「いたぞ!」
 先程の叫びが響いたせいか従業員に見つかってしまった。向こうから、大勢の掛け足の音が近付いて来た。
「仕方ないわね」
 加奈はそう呟いて、近くに置いてあった消火器を手に取り、追手を噴射した。
「うわあああっ!」
 白い消化粉を喰らって、敵の視界が眩んだ隙に、加奈は再び亘宏の手を取り、その場を離れた。

 どうにか追手を撒いて隠れた先は、道具部屋の札が掲げられた部屋だった。
 亘宏が小声で加奈に尋ねる。
「ねぇ、この部屋、解体道具とか調理器具とか拷問器具が色々と並べられているけど」
「あぁ、これは全部カニバショーで使う道具よ」
「さっきのショーで使うものか。このでっかい天ぷら粉の袋は、何なの?」
「それは、人間天ぷらに使う材料よ」
「人間天ぷら? 何それ」
「身体に衣を付けて、熱々に煮えたぎった油が入った巨大な鍋から生還するという芸よ」「そんな事をしたら、死ぬんじゃないの」
「アイスクリームの天ぷらみたいに、短時間なら衣の中まで熱が浸透しないという原理らしいわよ。手塚治虫の漫画にも出ているから、それを再現しようと思ったのかもね」
 漫画の神様と称されていた御方が、そんなおぞましい作品を描いていたとは驚きだ。人間が天ぷらにされる様なんて、あまりにもグロテスク過ぎて、万一失敗したらと思うと、ゾッとする。
 このショーの主催者と観客は、加虐趣味のある恐ろしい人物ではないかと、亘宏は思った。
「それと、さっきの話の続きなんだけど……あの時は、ちょっと言い過ぎたわ」
 先程までの気が強い態度から一変、ぎこちないながらも、ちゃんと謝罪してくれた。
「分かってくれたなら、良いけど」
 しかし、加奈は亘宏を諭す様に告げた。
「確かに、いじめは悪い事だし正当防衛で殴った事は良いんだけど、無関係な人まで巻き込んじゃったら本末転倒よ。今まで散々辛い思いをしてきたのは分かるけど、頭が悪いからとか努力をしてもダメだったからと言って、何でも他人に求めるのは怠慢だし、周りに迷惑を掛けても仕方ないと考えるのは無責任よ。ましてや、校長先生まで殴ったら今度はアンタが少年院行きになってもおかしくなかったんだから」
 それを聞いて、亘宏の顔は一気に青ざめた。
 かつて校長から自主退学を勧められた時は、身勝手な言い分だと腹が立って殴ってしまったが、冷静に考えてみれば、校長を殴ったのはさすがにマズかった。
 万一、学校が被害届を出していたら逮捕されて犯罪者のレッテルを貼られて非難されただろう。
 今思えば、教師に殴られただけで済んだのは、まだマシな方だったのかもしれない。
 加奈の話を聞いて、ようやく自分がやらかした事の深刻さを理解した。
 こんな事なら、たとえ報われなくても周りを見返すなり味方を作るなり、出来る限りの努力をすべきだったと、反省した。
「ご、ごめんなさい……」
 ようやく、己の過ちを知った亘宏は、加奈に謝罪した。
「分かれば良いのよ」
 向こうも、あっさりと許してくれた。彼女も、根はそこまで悪くない様だ。
「それにしても、何で君はこんなところで働いていたの?」
 その質問に、加奈はキッパリと答えた。
「アタシの兄貴が、ここにいるかもしれないからよ」
「お兄さんが、ここにいるの?」
 これを聞いた当初は、加奈の兄もかつて梨華の使用人として、雇われていたのかと思ったが、「いるかもしれない」という事は、彼もかつて自分と同じターゲットとして連れて来られたと考えた方が、しっくり来る。彼もまた、屋敷に入る前は自分と同じ様に路頭に迷っていたのだろうか。
「兄貴はね、会社を経営していたんだけど、二年前に潰れて多額の借金を抱えて、そのまま失踪しちゃったの。そのしわ寄せが連帯保証人であるアタシの家に来ちゃって、借金を肩代わりする破目になっちゃってさ。おかげで、こっちは苦労したわよ。でも、兄貴が失踪してから一年後にメールが届いたの」
「メールには、何て書いてあったの?」
「『心配させてごめん。でも今、里山梨華さんという女性の家に住まわせてもらっている。事業が立ち上がったら、また連絡するから』と書いてあったの。最初は、本気で頭に来たわよ。『ふざけんじゃねぇよ! 人に散々迷惑をかけた癖に、何ぼさいてんだよ! 本気で反省しているなら、女に世話してもらいながら立て直すよりも、直接こっちに来て土下座するのが先だろ!』って思ったけど、それでも兄貴がせっかく立て直そうとしているのだから、応援しようと思った。でも、それ以来、兄貴からの連絡が来なくなったの」
「……お兄さんに、連絡は取ったの?」
 その問いに、加奈はゆっくりと首を縦に振った。
「うん。最初は、事業の立ち上げや経営で忙しいのかなと思ったけど、こっちから連絡しても、返事が来るどころか電話番号もメールアドレスも使えなくなっていたの。もしかして、また失敗したんじゃないかと思ったけど、それならそうと連絡の一本くらい入れても良いはずよ」
 その言葉に、亘宏は絶句するしかなかった。自分の様に勘当されたならともかく、大切な家族に対して何も告げずに、いきなり連絡を絶ってしまうなんて事はあり得るのだろうか。
「じゃあ、どうやってここを知ったの?」
「兄貴のスマホには、居場所が分かる機能が付いているの。メールが届いた時に、電話番号から居場所を調べたわ。そしたら、この屋敷に住んでいた事が分かったの。それで、警察にも相談したんだけど、なかなか手掛かりが掴めなかった。だから、私は兄貴の手掛かりを探す為に、メイドとして、この屋敷に潜入したのよ」
 そんな理由があったのか。でも、彼女の兄も、ひょっとしたら既に料理されているかもしれないのではないかと思った。それに、この事が向こうに知られたら、彼女も無事では済まない。
「で、ここからどうするの?」
 亘宏が加奈に尋ねると、彼女はまた不機嫌な表情になった。
「どうするってねぇ、アンタも人に頼ってばかりいないで、少しは自分で何とかしなさいよ」
 加奈の叱責に、亘宏は怯んだ。
「そんな事言われたって……あんな連中を相手にするなんて、僕には無理だよ! それに、もし、捕まったら……」
 だが、そんな弱音を吐く亘宏に、加奈は亘宏の頬を思い切り引っ叩いた。
「痛っ! 何て事するんだよ!」
 引っ叩かれた頬を抑えながら、亘宏は反論した。すると、加奈は亘宏の胸倉を掴んだ。
「アンタ、何弱気な事を言ってんのよ!」
 加奈は弱気な亘宏に、激高しながら叱り飛ばした。
「アンタの言う通り、このままアイツらに捕まったら、アタシ達は、おしまいだよ。でもね、そうなったら、アンタは周りからバカにされて当然な奴だったって事になっちゃうんだよ。社会から見捨てられても仕方ない奴だったって事になっちゃうんだよ。助ける価値の無い人間だったって事になっちゃうんだよ。そうなったら、もう誰かに笑われても、文句をぶつける事も見返す事も出来ないんだよ。アンタは、それでも良いの?!」
 その叱咤に、亘宏の目は覚めた。
 それは決して心地良い夢から目覚めたという意味ではなく、今まで世間に怯えて現実から背を向け、甘ったれていた自分を奮い立たせるものだった。
 ――良い訳が無いだろ!
 何としても、ここから脱出しないといけないのだ。そして、生き延びないといけないのだ。このまま、どん底で終わる訳にはいかないのだ。
 その思いは、爆発した。
 しかし、そこから脱出するには、どうすれば良いのか。
 亘宏は足りない頭ながらも、フル回転させ、頭を抱えながらも、どうにかここから脱出する方法を考えた。思考中、脳から知恵熱が放出され、頭から湯気が出て来て倒れてしまいそうだったが、それでも考える事を決して止めようとはしなかった。
 そして、頭を抱えていた手をゆっくりと下ろした。
「何か良い方法を思い付いたの?」
 加奈に聴かれて、亘宏は落ち着いた声で「一つだけ、思い付いた」と答えた。
 亘宏は、武器に最も強力な道具となるものを手に取った。チェーンソーである。
「もしかして、それを使うの?」
「うん。これを使って相手を威嚇する。もしかしたら死人が出るかもしれないけど、こうなった以上は正当防衛だ」
「それ、過剰防衛になると思うけど」
「二人であれだけの人数を相手にするんだから、大丈夫だと思うよ。どこまでいけるかは分からないけど、これを武器に奴らを倒す。それと……」
 亘宏が視線を向けたのは、大きな小麦粉の袋、そして回転している換気扇だった。
「ここに罠を仕掛ける」
「それで、大丈夫なの?」
 それを訊かれて、亘宏は沈黙した。確かに、これまで何をやっても失敗ばかりで負け続きだった人生で、不良達を撃退したにも関わらず、学校から厄介払いとして退学させられ、近所からも疎外され、遂には親にも見捨てられた。そんな自分が、果たしてあれだけの人数を相手に勝てるのか。万一、失敗したらどうすれば良いのだろうか。
 しかし、このまま燻っていたら、いつか奴らに見つかってしまう。そうなったら本当におしまいだ。こうなった以上は、自分を信じるしかない。亘宏は決死の覚悟を決めた。

「材料は、どこにいる?!」
 従業員は、逃げた材料の行方を捜していた。
「こちらには、いません」
「奴は、まだ建物の中に潜んでいるはずだ。どこかの部屋に隠れているかもしれない。全員、くまなく探せ!」
「はっ!」
 上司の指示に、部下が礼をすると、突如物置部屋からドシンという音が聞こえた。
「ん? さっき、物置の方から何か音が聞こえたな」
「はい。確かに聞こえました」
「恐らく、材料がそこにいるかもしれない。よし、扉を開けよう」
 上司は、すぐさま扉を開けて、中に入った。
 部屋の中は薄暗く、埃らしきものが蔓延していた。
「それにしても、この部屋埃っぽくないですか? 換気扇も止まっていますし」
 部下は咳払いをしながら話した。
「あとで、きちんと掃除をする様に連絡しておこう。それにしても、奴はどこだ?」
 上司は部屋の電気を点けて、辺りを見渡した。
「何なんだ、これは? 何だか粉っぽいが……」
 粉っぽいものが蔓延していて、上司が思わず口にした。
 その時だった。突如、床下倉庫の金具が回転し、その隙間から火の点いたマッチが放り込まれた。
「まさか!」
 上司が策に気付いた瞬間、室内が大きな爆発と共に、全て吹き飛んだ。

「……どうやら、上手くいったみたいね」
 暗闇の中で加奈が囁いた。
「うん。火を点けたマッチを放り込んだら、思った通りだ」
 作戦が成功して亘宏も喜んだ。
「それにしても、粉塵爆発なんて、よく思い付いたわね」
「うん、子供の頃、天ぷらを作ろうとして、台所を小麦粉で粉塗れにしちゃって、それでそのまま火を点けようとしたら、お母さんが慌てて駆けつけてきて『アンタ、家を爆発させる気?!』って怒られた事があってさ」
「なるほどねー」
 そうなのだ。実は、先程の埃の正体は、天ぷら粉だったのである。それを床にまき散らした後、チェーンソーを持って床下倉庫に加奈と共に、隠れていたのだ。
 そして、敵が気付いた隙に蓋を引き上げる為の取っ手の金具をひっくり返した際に出来る隙間に火の点いたマッチを入れて、爆発を起こしたのであった。
 粉塵爆発には、可燃性の粉末とそれが一定濃度で浮遊する密閉された空間が必要である。そこに換気扇を止めれば、罠を仕掛けるには、うってつけの密閉空間の完成である。
 燃え盛る炎が静まるのを確認して、蓋を開けた。
 すると、そこには、他の従業員だけではなく、空腹に耐えかねた観客までもが集まっていた。先程の爆発音を聞いて、一斉に駆けつけて来たに違いない。
 建物を丸ごと吹き飛ばす事が出来たら良かったのだが、そこまで都合良くはいかなかった様だ。
「遂に、見つけたぞ」
 隊長と思われる男性が、目を見開きながら亘宏を睨みつける。その表情は、あまりにも狂気に満ちている。
 普通の人だったら、恐怖で一歩も動けなくなるに違いない。だが、このまま引き下がる訳にはいかない。
 ならば、こちらも狂人になるまでだ。亘宏は、チェーンソーを構えながら、飛び出した。
「うああああああああああああああああっ!!」
 亘宏は、奇声を上げながら、チェーンソーを振り回し、追手を振り払った。それでも攻撃を瞬時にかわす辺りは、十分な訓練をされている事が分かるが、こちらもやられる訳にはいかない。
 敵を蹴散らす様に、チェーンソーを振り回し、そのまま道を切り開きながら、進んでいった。

 敵の目をかいくぐる為に、何度も何度も遠回りをしながら突き進むと、パソコンルームが見えた。だが、その扉の前には老執事が立ちはだかっていた。既に、先回りされていた様だ。
「亘宏様。そんな危ないものを持って、一体何のご用ですか?」
 木水は不敵な笑みで尋ねた。
「決まってるじゃないか! ここで、お前達の悪事を世間に晒すんだよ!」
 それを聞いて、木水はゆっくりと頷いた。
「晒す? そんな事をしたところで、その後どうするのですか? 仮に我々を倒してこの事を世間に知らしめたところで、その後、行く宛はあるのですか? あなたを受け入れてくれる場所などあるのですか? あなたは、既に世間から淘汰された存在である事を自覚すべきです」
 その口調は、自身を諭す様で恐ろしく冷静だった。
「それが、どうした!」
 亘宏は、悪魔の様に囁く老執事を怒鳴りつけた。
「確かに、僕はどうしようもないクソ野郎だよ! 何の取柄も無いからとバカにされたのが悔しくて、虐めた奴らに仕返ししても、周りから嫌われて、学校まで退学させられて、親からも勘当されて、どうしようもないゴミ野郎だよ! でもさぁ、だからって、こんな所で終わる訳にはいかないんだよ! たとえ、行き先が無くても、味方がいなくても、クソみたいなプライドを持ってでも、進むしかないんだよ! 生きていくしかないんだよ! ここで、アンタを倒さないと意味が無いんだよ!」
 それは、魂の叫び、つまり本心だった。
 それを聞いて、木水は「そうですか」と呟いた。それは、亘宏の決心に感銘を受けたのではなく、自分の言葉が聴き入れられなかったという諦観だった。
「ですが、あなたにはもう居場所はありません。それでも、ここを通るいうのであれば……」
 木水は身を構えた。こちらも容赦しないという宣戦布告だ。
 構えの型からして、恐らく拳法を使って来るのかもしれない。だが、こちらには強力な武器がある。ここで引き下がる訳にはいかない。
 亘宏は、チェーンソーを回転させて、思い切り振り上げた。
 しかし、木水も年齢を感じさせないまでに素早く動き、ヒラリヒラリと攻撃をかわしていく。そして、
「キエエエエエエッ!」
 木水は掛け声を上げながら、足を高く蹴り上げると、そのまま亘宏の左頬にヒットした。
 その弾みで、亘宏はチェーンソーを落としてしまい、その隙に従業員が駆けつけてきて、チェーンソーを回収した。
 万事休す。もはや、これまでか。
 敵に囲まれた時、向こうから声が聞こえた。
「あらあら、せっかくショーが行われている最中なのに、どこへ逃げるのかしら? 主役がいないと、せっかくのショーが台無しになるわよ」
 追手の向こうから声が聞こえた。その声は、聞き覚えのある声だった。
「その声は……?」
 亘宏が声を漏らすと、追手の間を割って、ある人物が現れた。
 その人物は、艶のある長い黒髪に、パンツスタイルのスーツを着た美しい女性だった。だが、その人物は亘宏がよく知っている女だった。亘宏はその女の名前を口にする。
「梨華さん……」
 現れたのは、自分を屋敷に住まわせてくれた恩人、そして豪遊ゲームの黒幕・里山梨華だった。
「あら? 思ったよりもリアクションが薄いわね。もしかして、鳴海から私の事も含めて全てを聞いたのかしら? だとしたら、残念だわ。あなたがもっと絶望する顔が見たかったのに」
 加奈の話で梨華の正体は既に分かっていたので、顔には出さなかったものの、やはりショックは拭えなかった。
 亘宏は、怒りを堪えつつ梨華に尋ねた。
「梨華さん。あなたは、最初から僕を陥れるつもりだったんですか?」
「そうよ。でも、あなただって屋敷にいる間は、凄く贅沢を楽しんでいたでしょ。あのまま路頭に迷って野垂れ死にするよりかは、せめて最期だけでも己の欲望のままに楽しく豪遊しながら過ごした方が幸せだと思って、声を掛けたんだけど」
「あんなものの、どこが幸せなんだよ……人の生活を勝手に晒しておいて。本当は、ただ僕が欲に溺れる様を見て、嘲笑っていただけだろ。そんなの、最低な行為じゃないか!」
 かつてラーメン店で梨華がヤンキーを叱り飛ばした台詞をそのまま投げ返してやったが、当の本人は涼しい顔で「そうね」と受け流すだけだった。
「まぁ、予想外の事があったとはいえ、向こうは結構大盛り上がりで、かなり好評だったわ。おかげで、ウチもかなり稼がせてもらっちゃった。感謝するわ、亘宏君」
 相手を見下す目でお礼を言われても、全然嬉しくなかった。あの時の優しさが、全て演技だったと思うと、悔しさが込み上げて来る。お礼を言われて、ここまで腹が立ったのは、生まれて初めてである。
「それにしても、私も不覚を取ったわね。まさか、かつてのターゲットの妹さんが使用人として、この家に侵入していたなんて。こういう事なら、もう少し身辺調査をすべきだったわね」
 自ら反省を口にしているが、顔は明らかに相手を嘲笑するものだった。不覚こそとったが、あまり大きな痛手にはなっていないのだろう。
「まぁ、良いわ。どうせ二人まとめて、始末すれば良いだけの話だし。有能な使用人を切るのは惜しいけど、ここを潰す目的で潜入したのであれば、仕方ないわね。それに、か弱い女性が泣き叫びながら苦しむ姿を披露するのは久しぶりだし、結構人気があるのよね」
 まともな人間なら、人が悲惨な目に遭う光景を見たら、たとえ名前も知らない他人だろうと、吐き気や不快感を抱きかねない。一体、どんな人生を送れば、同じ女性に対しても、これだけ酷い扱いを平気でやってのけられるのかと、腹ただしさを感じた。
 今まで救いの女神だと信じていた彼女が、今では残虐非道な魔王にしか見えない。
「さーてと、お喋りも過ぎた事だし、あなた達には、このままショーに戻ってもらいましょうか。さもないと……」
 梨華は銃を抜いて、亘宏と加奈に銃口を向けた。この場で、殺されるか、舞台で料理されるかを選べという事か。どちらにせよ惨い殺され方をされる事に、変わりは無い。
 もうダメなのか。もはや、これまでなのか。やはり、自分はダメ人間だったのか。自分はここで終わりなのか。亘宏は、恐怖と悔しさと絶望で、強く目を閉じた。
 その時だった。
「遂に、見つけたぞ!」
 いきなり、バン! と扉が開かれ、大勢の警察官を連れてきた刑事が雪崩れ込む様に入って来た。
「里山梨華。あなたを違法賭博、誘拐、監禁、殺人等の罪で、現行犯逮捕する!」
 刑事は、梨華の両手首を強引に掴み、手錠を掛けた。
「ちょっと、これはどういう事なの?!」
 突然の事態に、ヒステリックに怒声を吐く梨華。
 そして、彼女の一味も、次々と警察官に捕獲されていく。
「アンタ達、この私を陥れたわね! この裏切り者ぉ! 何で、この私がこんなクソデブニート野郎に負けないといけないの?! アンタ達、絶対に許さないんだからぁっ!」
 もちろん、こんな事を仕組んだ覚えは亘宏達には全く無い。
 しかし、今まで冷酷ながらも落ち着いた物腰から一変して、梨華は我を忘れ、取り乱した状態で亘宏達に激高し、手錠を掛けられたにも関わらず、最後の抵抗と言わんばかりに押さえつけようとする警察官を両腕で振り払ったり、蹴り飛ばしたりした。そして、亘宏に向かって、両腕を振り上げた。
「危ない!」
 加奈が思わず叫んだが、その後の様子に彼女は唖然とした。
 何と、亘宏は左手で梨華の両腕を掴みながら、梨華を睨みつけていたのだ。予想外の行動に、呆然とする梨華と加奈。
 そして、次の瞬間、亘宏は右手で梨華を思い切り突き飛ばした。
「うあっ!」
 突き飛ばされて、その場に倒れ込む梨華。その隙に、警察官達は彼女を取り押さえ、彼女とその一味を全員そのまま連行していった。
「大丈夫?」
 加奈が亘宏の元に声を掛けた。
「うん、僕は大丈夫。それにしても、どうして警察が、ここに?」
 亘宏がぽつりと呟くと、先程の刑事がやって来て、二人に説明した。
「実は、以前、鳴海啓(けい)介(すけ)の失踪事件について捜査していたのですが、彼の他にも捜索願が出されており、そのうちの何人かが、かつて同じ屋敷に住んでいた事が分かったのです。しかし、失踪者のその後の行方や決定的な証拠が見つからず、捜査は難航していました」
 鳴海啓介――苗字を聞いて、すぐに加奈の兄の事だと直感した。
 行方不明者が同じ屋敷に住んでいたのであれば、警察の目が届くのも当然だ。それも事前に分かっていたから、身寄りが無い人や世間から淘汰された人だけを狙ったのだろうけど、それでも加奈の様に身内を心配して捜索願を出した人が他にもいた事で判明したに違いない。
「そんな中、先日SNSで拡散された画像から、『豪遊ゲーム』というサイトの存在を知り、ハッキングで探し当てて調べた結果、今回の失踪事件と関連がある事が分かったのです」
 先日、SNSで拡散された画像となると、考えられるのはラーメン屋で近く男性客に隠し撮りされた時だ。きっと、その画像がネット上に拡散された際に、自身が『豪遊ゲーム』のターゲットではないかと誰かが発言し、警察がその書き込みを見たのだろう。
 それにしても、裏サイトを探し出す為とはいえ、警察がハッキングをするなんて、ドラマに出て来そうな話である。
「でも、どうやってこの場所を探し当てたのですか? ここは、関係者しか知らされていないのですが」
 加奈が刑事に尋ねた。
「先程、向こうで爆発が起きたと、消防署に連絡があったのです。しかし、あの辺りは、数年前から住民がおらず、ただ閑散としたシャッター街なんです。しかも、それと同時間に動画内でも爆発音が起きたと同時に動画の通信が切断されたので、もしかしてと思って、我々も駆けつけたのですが、正解でしたね」
 敵を退治する為とはいえ、あれが警察に敵の居場所を知らせるきっかけになるなんてと思ったが、冷静に考えてみれば、あれだけの爆発なら、周りが気付いて当然か。
 こうして、豪奢に飾られた悪夢は幕を閉じた。

「君のおかげで助かったよ。ありがとう」
 ようやく、キャバレーを出ると、亘宏は加奈にお礼を言った。加奈は、既にメイド服を脱いで、紺色のコートに白のタートルネックと黒のスカートを着ている。
「お礼を言ってくれるのは、ありがたいんだけどね。もう少し、頼りになるところを見せても良かったんじゃないの?」
「それは、ホントにごめん……」
 実際、自分はほとんど加奈に頼ってばかりだった。彼女の叱咤で奮起した際に、一度は噛みついてやったけど、それも失敗に終わってしまっている。女性に頼ってばかりで、男として何とも情けない限りである。
「でも、梨華が暴れた時にアンタがやり返してくれたのは、ちょっとだけカッコ良かった」
 その言葉を聞いて、亘宏は安堵した。
 口の悪い彼女から誉められると、自分が起こした行動は決して無駄ではなかったのと思える。
「ところで、お兄さんの安否は、分かったの?」
 亘宏が尋ねると、加奈は寂し気な声で答えた。
「うん、警察の人から話を聞いたけど、豪遊ゲームを訪れたターゲットの名簿の中に、兄貴の名前も書いてあったそうよ。やっぱり、兄貴もそこで料理されて死んじゃったみたい。遺体も買い手の人が全て食べちゃったから、もう埋葬する事は出来ないんだって」
 それを聞いて、亘宏は「そうか……」以外に返す言葉が出なかった。薄々と予感はしていたけど、実際にそんな最期を迎えた事を知ってしまうと、残念な気持ちになる。
「でも、死んだと分かっただけ、まだマシよ。生きているか死んでいるかさえ分からなくて悶々としているより、ずっと良いじゃない!」
 強がっている様に見えるが、今の彼女に慰めの言葉を掛ける事は出来なかった。下手に掛けたところで、かえって彼女の心を逆撫でにするだけだ。
「お兄さんの安否も分かった事だし、梨華さん達も捕まったけど、君は、これからどうするの?」
 亘宏は、これからの事を加奈に尋ねた。
「これから、自首する」
「えっ?」
 まさかの回答である。
「どうして? 君はお兄さんを探す為に、ここに来たんだろ? だったら、自首する必要なんて無いじゃないか」
「あの屋敷に潜入した時に、あの女の命令とはいえ、アタシも今まで汚い事を色々としちゃったからね。今から警察に行って、全てを話すわ。きちんと事情を話せば、何とかなるかもしれないけど、このまま何事も無かったかの様に振る舞ったところで、心にしこりが残るだけだもの」
 それを聞いて、亘宏はまた複雑な気持ちになった。加奈は自分を助けてくれた真の恩人だが、彼女もまた梨華の命令とはいえ、悪事に手を染めていたのである。その事を聞くと、何だかやるせない気持ちでいっぱいになる。
 加奈を助けたい気持ちもあったが、それはかえって決意を固めた彼女を困らせるだけである。
「そういうアンタは、どうなの?」
「そうだな。まずはホームレスの支援施設に行って、新しい住居を確保する。住所が無い事には、仕事を探せないからね。上手くいくかは分からないけど、ずっとウジウジしている訳にもいかないし。そして、仕事が見つかってお金が貯まったら、実家に戻ってお父さんとお母さんに謝る。今まで散々親に迷惑を掛けて来たからね。その後は、きちんと親孝行をする。それが当面の目標かな」
 その言葉に、加奈は「アンタも随分と成長したわね」と感心した。
「じゃあ、今の言葉ちゃんと覚えておきなさいよ。全てが終わったら、真っ先にアンタに会いに行ってやるんだから。もし、その時もニートのままだったら、アタシ絶対に承知しないから!」
 加奈は、亘宏に指を差しながら宣言した。
 そりゃ、そうだ。あんな悪夢の様に凄まじい出来事があったにも関わらず、「やっぱり、ダメでした」というオチになってしまったら、もう二度と彼女に合わせる顔が無い。
「うん、約束する。それじゃあ、また」
 亘宏は加奈に別れを告げると、一人歩き始めた。
 もし、また彼女に会ったら一皮剥けて、生まれ変わった自分を見てもらおう。
 そして、今度はどこかへ連れて行ってあげよう。そこで彼女が喜びそうなものを買ってあげよう。
 たとえ豪華なプレゼントはあげられなくても、偽りではない幸せな日を一緒に楽しもう。そんな強い決心を胸に、亘宏は新たな一歩を踏み出す。
 空を見上げると、雲の切れ目から日の光が神々しく差し込んでいた。もうすぐ、太陽が見えそうだ。

底辺男子は豪奢な夢を見る

底辺男子は豪奢な夢を見る

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-06-09

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