つめあわせ

やみ

 夜空の星を、かぞえるのにあきたのか、木の上の、りすたちが、きみのつくった、ホットジンジャーティーを、おいしそうに飲んでいて、わたしは、公園のブランコにいた、夢売りの少年から、夢袋をひとつ買って、「今夜、素敵な夢が、見られますように」と微笑む少年に、きみに、ぜんぶ、あげるつもりだった、てづくりのトリュフチョコレートを、三つばかし、あげたら、大変よろこんでくれて、それから、少年が連れて歩いている、ひつじも、みじかく鳴いて、少年いわく、「御主人に、やさしくしてくれて、ありがとう」と言っているらしいのだけれど、わたしは、ほんとうは、ぜんぜん、やさしくなんかなくって、(だって、だいすきなきみが、みんなからきらわれればいいのにって、思ってる)(そしたら、きみ、わたしのそばに、いるでしょう?ずっと)、ひつじは、でも、わたしのからだに、鼻先を、すりよせてきて、少しだけ、泣きたくなった。きみが、夢に、あらわれたなら、せめて、夢のなかだけは、やさしい、わたしで、いたい。水筒から、こぽこぽと、ホットジンジャーティーを、ステンレスのマグカップに、注いでいる、きみの横顔を、眺めながら、わたしは、ゆっくり、じわりと、なにかを探るように、息をする。夜は長い。

たたかう、わけ

 少年が抱えている瓶のなかには、ちいさなくらげが二匹いた。瓶一杯の水のなかを、ふよふよと、浮いては沈み、沈んでは浮いてを繰り返し、透明なからだを一瞬、緑色に光らせ少年の、黒いパーカーの胸元に色を添えた。鼻の下が赤黒かった。ぼくはさっき、駅前でもらったポケットティッシュを、少年に差し出した。少年は、ポケットティッシュと、ぼくの顔を、交互に眺めたあと、うつむきながら、ポケットティッシュをおずおずと、手に取った。片腕で抱えられる形となった瓶のなかでは、二匹のくらげが、交差しながら、瓶の底に沈んでゆく。少年と出逢う数分前、足を引きずり歩く少年と、その少年に肩を支えられて、なんとか歩けているような少年と、すれちがった。すれちがいざま、かすかに血のにおいがして、(けんか、かな)と思った。血を流すような、けんかとは、無縁の少年時代を送ってきた、ぼくにとって、物珍しく、新鮮味があり、それでいて想像しても、輪郭のつかめない、夢想みたいなものである。ティッシュで鼻の下を拭う、少年の腕のなかのくらげは、けんか、や、血、なんてものとは隔離された、安穏とした世界で、たゆたっている。飼ってるの、それ。ぼくの質問に、少年は目を見開き、しばし、ぼくと視線を合わせぬよう、さまよわせたあと、やはりうつむきがちに、けれど、静かでありながら、はっきりした声で言った。「おとうとと、いもうとです」夕焼け色に、少年の顔が染まる。

おはよう、おひさま

 冷凍睡眠から目覚めたひとが、太陽の光を浴びて泣いている光景を、生まれてから何度か見たことがある。あの、つめたい部屋には、もう帰りたくない。冷凍睡眠をしていたひとのなかのひとりが、そう云った。冷凍睡眠をするひとたちは、みんな自主的に、自ら希望して冷凍睡眠をするらしいのだけれど、実際にしてみると、そう良いものではないらしい。何十年もの眠りは、退屈で、目を覚ましたあとの、からだは、まるで自分のものではないみたいに、指一本動かすのもままならず、冷凍睡眠に入る前に見ていた世界は、そこにはない。「眠っているのに、退屈って感じるの?」たずねると、眠っているのだけれど、はんぶんは起きているのだと、そのひとは答えた。それから、時折、名もしらぬ花の香りが 漂ってきて、気持ち悪い、とも。実は、ぼくの恋人が、冷凍睡眠をするための施設の、管理を任されている会社に勤めており、ぼくの恋人からも、ときどき、なまえのしらない花の香りが、して、その香りをかぐと、ぼくは、よくわからない気分になって、宙を浮いているような、けれど、地面にめりこんでいるような、恋人に、ひどいことばを投げつけたいような、恋人を、とろけるまで甘やかしたいような、どっちやねん、みたいな感じになります、と言ったら、冷凍睡眠をしていたひとは、わかるかも、と頷いて、空の太陽をすくいあげるように、両手を伸ばした。

冷凍睡眠、昼寝

 いつも、眠いんです、と言ったら、先輩が、ならばきみも、入ればいいよと、冷凍睡眠室をゆびさして、ぼくは、いや、でも、恋人がいるのでと、笑顔を取り繕いながら、先輩がゆびさした一〇三号室の室内に異常がないことを確認し、それから、すこしだけ、きみのことを思い出した。冷凍睡眠をするひとたちは、年々増えるでも、減るでもなく、ある一定の人数を保っているけれど、ぼくは、いつも、冷凍睡眠をしたがるひとは、どうして冷凍睡眠したいのだろうと思いながら、冷凍睡眠するひとたちのために、施設の管理に勤しんでいて、冷凍睡眠を希望するひとたちの真意もわからないまま、安全かつ快適に、冷凍睡眠に没入できるよう、温度管理には細心の注意を払っているし、精密機器のメンテナンスに余念がない。「恋人同士でも入れるカプセル、あるじゃない」先輩は云うが、ぼくは、確かに、いつも、眠いのだけれど、冷凍睡眠で何十年も眠り続けるのと、いつも眠い、ぼくのそれとは、少し違う気がする、などと思う。幻覚を見せる花の香りが、冷凍睡眠室のドアの隙間から、微かに漂ってくる。それから、ぼくは、ぼくだけの都合で恋人を、冷凍睡眠させたくないので、だから、眠いけれど、がんばりますと、先輩に告げたら、先輩は、「もし、したくなったらいって。ぼくがちゃんと、うつくしいままで凍らせてあげる」と、あやしく微笑んだ。

少女

 南西の森のなかにある喫茶店の珈琲は、まぎれもなく珈琲であり、珈琲と呼ぶ以外になんと呼ぶのか、というくらい、珈琲だった。その珈琲を淹れてくれる、くまの、黒いエプロンがいつ見ても、よどみなく黒いことに感心しながら、文庫本を片手に、少し温くなった珈琲を飲んでいると、ふいに現れた少女が、空いていた真向かいの席に座って、「あんた、どっち」とたずねてきたので、ぼくは、得意の薄っぺらな笑みを浮かべて、少女を見据えた。きみが予想している方でもあるし、そうでない方でもあるよ。ぼくがそう答えると、少女は「あっそ」と吐き捨て、カウンターでグラスを磨いていた、くまに、オレンジジュースを注文した。木洩れ日が、穏やかに揺れる午後だった。いつも、つめたくなったにんげんばかりを見ているせいか、初対面でありながら、この不躾な少女のことを、なんだか可愛いと思った。「まぁ、どっちでもいいけど、あんたのはいてるスカート、いいね」少女は言った。ぼくは、きょう、黄色いタータン・チェックのロングスカートを、はいていた。ありがとう、と笑うと、少女はくちびるをきゅっと結び、ぼくをにらみつけた。少女は、少女らしからぬ憂いを帯びていたし、ほのかに血生臭かった。目の白い部分はきれいだったが、指の爪は泥のようなもので汚れていた。しかし、運ばれてきたオレンジジュースを、ストローでじゅうじゅうすする姿は、十五才にも満たない、ただの少女でしかなかった。

ホイップクリームと、いっしょにね

「ごめんね、たぶんもう、あえない」と云って、ぼくが十二才のときに、ぼくが生まれ育った町を燃やして消えた、あのひとのことを、森のなかのカフェのマスターである、くまに、なんとはなしに話したら、くまは、それはそれは、と頷いて、これを、と、ケーキがのったお皿を、ぼくの前にそっと差し出した。ガトーショコラです。くまは言った。ぼくは、ガトーショコラ、というケーキを見るのが、はじめてのことだったので、あのひとが燃やしたあとの、町の残骸に似ている、と思った。カフェの常連である、性別不詳のやつが、「くまさん、ぼくにもガトーショコラを」と、すぐ後方のテラス席から、声をかけた。かちゃかちゃと、お皿や、フォークなんかを扱っている音が、店内に響く。くまの手元は、見えないけれど、彼の分のガトーショコラを、用意しているのだろう。ぼくは、銀のフォークを右手に持ち、三角形のガトーショコラの、尖端から一センチ程度にフォークを入れて、驚いた。ケーキのくせに、ガトーショコラは、かたかった。とつぜん、くまが、「好きだったんですか、その方のこと」と言った。目線は、ぼくではなく、カウンターの向こうの、自身の手元あたりに、あった。標本にしたいくらい、好きだった。ぼくは答えた。情熱的だね、という性別不詳のやつの言葉を無視して、ぼくは、ぼろぼろと崩れたガトーショコラの欠片を、くちに運んだ。にがい、と思った。くまは、静かに頷くだけだった。

ともだち

 ともだちがほしい、なんて、いつも、ぼやいていたきみに、ともだちができたから、ぼくは安心して、仕事ができるんだよ、と言ったら、きみは、「でも、ともだちって、なるのは大変なのに、やめるのは、いともかんたんなんだね」と、ベッドに横たわりながら、呟いた。きみの、からだの重さは、ぼくのそれとは、比べものにならなくて、ぼくが、ベッドに沈みこむ深さと、きみの沈み方と、異なる。ともだち、やめたの?とたずねたら、やめられた、と、きみは云った。かなしそうでもあり、どうでもよさそうでもあった。きみが、きょうは、星がたくさん降る夜だから、カーテンを開けておいてよと、たのしそうに云うものだから、カーテンは閉めないで、ガラス窓の向こう、なるほど確かに、星が、雨のように降り注いでいるのに、きみは、浮かない顔で、ちいさな子どもみたいに、親指の爪を、噛んでいる。ぼくは、やめなさい、と言いながら、きみの頭を、やさしく、そっと、慎重に撫でる。そうしないと、ぼくの太い爪で、きみを、傷つけてしまうから。「でも、きみの手は、やさしいよ。だって、あんなにおいしいケーキを、つくれるんだもの」と、褒めてくれたのは、きみだったか、ぼくは、きみのことが、好きだから、頑張れている。ぼくは、ぼくの、たくましい腕のなかに、きみのからだを、すっぽりと包み込み、むかし、おかあさんに歌ってもらった、子守唄を、口遊んだ。

ねこと本屋さん

 うたをうたう、ねこが、本屋さんの軒下に、いた。本屋さんの、やさしいおねえさんが、ねこのからだを、なでていて、ねこは、気持ちよさそうに、目を細めて、うたを、うたっていた。はじめてきく、うただった。本屋さんには、やさしいおねえさんと、こわいおねえさんがいて、こわいおねえさんは、いらっしゃいませ、が、なんだか、いらっしゃいませ、なんて、ほんとうは思っていないような口ぶり、なのだけれど、ぼくは、こわいおねえさんのことも、きらいではなかった。なんか、とても、にんげん、って感じがするから。「やわらかいのね、あなた。どこから来たの?」やさしいおねえさんが、ねこに話しかけているけれど、ねこは答えず、うたっている。うたをうたっていますよ、そのねこ、と、おねえさんに言って、あらそうなの、じゃましてごめんなさい、と、やさしく微笑みながら、ねこのからだをなでつづける、おねえさんの手を、ぼくはじっと、みていた。血管の、ふくらみがわかる、手の甲から、きれいに切り揃えられた、爪の先まで。「きみ、いつもお店に来てくれる子ね。ねこのうたがきこえるなんて、素敵だわ」おねえさんは言った。おねえさんには、きこえないのかな。ぼくは思った。お店のなかから、こわいおねえさんが、やさしいおねえさんを、呼んでいる。レジにはお客さんが、ずらりと並んでいる。クリスマスの前だからか、みんな、なんだか、浮かれていて、でも、どこか、いらいらしている。

ないものねだり

 妹がいるのと、彼女は云った。わたしは、なにも思わなかった。そうなんだ、としか思わなかった。それは、わたしが、つめたいにんげん、なのではなく、然して興味のない同僚の、さらに興味のない、どうでもいい情報を聞かされ、大袈裟に驚くのは不自然であるし、かといって、そこから話を拡げ、膨らませたいほどに、彼女と、仲良くするつもりもないのだから、仕方がなかった。わたしは、きょうの新刊を、新刊の棚に並べながら、それでも、ふうん、とだけ返した。我ながら、無機質な「ふうん」だと思った。「でも、わたしたちの町、二年前になくなっちゃって、妹は行方不明」ありがとうございましたぁんと、語尾に妙な余韻を残す店長の声が、いやに大きな音で聞こえた。「燃えたんだけどね、町。燃やしたのが、わたしの婚約者だったひと」わたしは彼女のくちを、塞いでやりたかった。上唇と下唇を縫い合わせてやりたい、だなんて、御伽噺のなかのひとのような、酷く残酷な方法を思いつき、わたしは戦慄いた。あんたになんか興味、ないのよ、微塵も。思いながら、黙々と本を並べた。お客さんの、恐竜図鑑がほしい、という問い合わせに、彼女は行ってしまった。わたしは、彼女がきらいだ。それ以上に、わたしはわたしがきらいだ。意味もなく、彼女に腹が立つ。意味もないのが、いやだった。ばかみたいだった。本を持つ手が震えて、わたしはいますぐ、逃げだしたかった。

ぴかぴか光る

 きみが、とつぜん、恐竜図鑑がほしい、というものだから、ぼくは、本屋さんに行って、恐竜図鑑を買って、きみにプレゼントしようと思って、店員さんに、チョコレート色のリボンにしてくださいとお願いして、図鑑を包んでもらったのだけれど、帰り道に、かみなりが降って、かみなりは落ちるというものだけれど、きょうのかみなりは降るって感じですねと、クレープ屋さんのパンダに話しかけられて、そうですね、降るって言葉がしっくりきますね、早く止むといいですね、そうだお兄さん、よかったらクレープたべませんか、雨宿りならぬ、かみなり宿りのあいだに、お好きなものつくりますよ、もちろん私からのサービスです、とパンダに勧められるがまま、クレープ屋さんの軒下で、チョコバナナクレ ープをたべながら、かみなりが止むのを待っていたら、きみにあげるはずだった恐竜図鑑を、クレープ屋のパンダのこどもに渡してしまって、渡すことになった経緯は、話せば長いのだけれど、とにかくあの日のかみなりは、すごかったし、パンダのつくるクレープは、生地がもちもちでおいしかったし、パンダのこどもは、かわいかった。きみがいま、ぼくのとなりで、おだやかに眠っているのをみると、なんだろう、きみがあの日のかみなりに、打たれなくてよかったと思う。

海のなか

 ともだちの、ともだちが、北の方の海で、寒いのに、海のなかで、海のなかのいきものを観察する仕事をしているんですよ、というお客さんが、私の店にやってきたので、私は、海のなかで、海のなかのいきものを観察するのって、どうやるんですかとたずねたら、そのひとは、こうやるんですと、ともだちから送られてきたという写真を見せてくれたのだけれど、なるほど確かに、見ているこちらが凍えそうなほどに寒々しかったので、ココアをのませてあげたい、と思った。私は、ツナと、コーンを、マヨネーズであえたものを、クレープの生地にのせて、くるくるっと丸めて、お客さんに渡した。お客さんは、わぁ、と短い声を上げて、小銭をカウンターに置いた。ともだちは、その海のなかにいるともだち のことが、好きなんです。お客さんは云った。そして、ぼくは、そのともだちのことが、好きなんです。きょうは良いお天気ですねくらいの軽い感じで、お客さんは続けた。でも、きのうは、かみなりが降ったな、と思った。さいきん、恐竜に興味を持ち始めた私の子どもに、恐竜図鑑をくださった、きのうのお客さんは、私のクレープをおいしいと、何回も褒めてくれた。その、海のなかで凍え死にそうになりながら、海のなかのいきものを観察しているひとを褒めてくれるひとは、一体どれくらいいるのだろうか、と想像した。ツナコーンマヨクレープをたべながら、お客さんが、きょうはよく晴れてますねと、穏やかに笑った。

クレープ屋さんにて

 いつも泣いている女の子がいて、いつも泣いている女の子はいつも、公園の近くにあるクレープ屋さんの前で泣いているのだけれど、そのクレープ屋さんをやっているパンダには、女の子のことが一切見えていないようで、パンダ以外にも、クレープ屋さんの前を通り過ぎてゆくひとにも、クレープ屋さんに入ってゆくひとにも、女の子の姿など、まるで見えていないようで、女の子は、いつも、いつまでも泣いているものだから、きっと、見えるひとにしか見えない的な、つまり、ぼくは、実は見えるひとなのだと、事実を受け入れようとしたが、めまいがして、数分前にコンビニエンス・ストアで購入した、おでんを、地面に落としたのは、つい最近の話で、女の子はきょうも、元気に(元気に?)泣いているのだが、にんげん、あれだけの涙を流せばそろそろ、からだのなかの水分がなくなり、干上がるのでは、と想ったけれど、そもそも女の子は(おそらく)にんげんではないのだから、いらぬ心配か、と思い直し、女の子のことを見て見ぬふりで、クレープ屋さんに入り、だいすきなストロベリーアイスチョコレートソースがけ生クリーム増量クレープを購入し、るんるん気分で店を出たところで、例の女の子から、それちょうだいよ、と云われ、思わずあげてしまった、ある冬の日のぼくなのでした。

きれいな日

 きれいな日だった。空も、街も、空気も、通過する電車も、囀ずる鳥も、山も、海も、川も、ケーキ屋さんのケーキも、学校のチャイムの音も、にんげんも、みんなきれいな日だった。お兄ちゃんはお花屋さんで、お花の配達をしていて、わたしはただの中学生で、まいにち、きちんと、中学校に通っていた。おとうさんはどこにいるのか、わからなかったけれど、おかあさんは、このあたりでいちばん大きい病院で、お医者さんをしていた。わたしは、クレープがきらいだった。クレープは、お兄ちゃんが好きだった。わたしは、クレープがきらいだったけれど、公園の近くにあるクレープ屋さんは、好きだった。クレープ屋さんにはいつも、お客さんがいっぱいいて、クレープをつくっているパンダは、せまい厨房のなかで窮屈そうにクレープをつくっていた。パンダのクレープ屋さんは、とても人気があるけれど、小さなお店だった。ときどき、パンダのこどもがお手伝いをしていて、わたしはパンダのこどもがお手伝いをしているところを眺めるのが、好きだった。パンダのこどもはかわいかったし、からだはころころしているのに、きびきびとはたらいて、でも、たまに、お客さんに渡そうとしてクレープを床に落としたりして、とにかく、パンダの親子がいるクレープ屋さんは、まいにちたいへん、にぎやかしかった。きれいな日だった。わたしは公園で、のらねこに囲まれて眠っていて、お兄ちゃんはお花ごと、川にぷかぷか浮いていた。眠りながらクレープ屋さんの前で、開店準備をするパンダの姿が見えたけれど、眠っていたから見ていることしかできなかった。お兄ちゃんは白い花といっしょに川に浮いていて、そのまま海に流れていったらしいけれど、川と海との境目、淡水と海水のあいだは、案外と心地よかった、なんて感想を述べながら、パンダのクレープ屋さんのクレープをたべていた。バニラアイスにチョコレート・ソースがかかっていて、アラザンとかいうものが散りばめられていて、シンプルなクレープだった。たべてみるかと、お兄ちゃんは言ったけれど、わたしは、いらない、と答えた。きれいな日だった。きれいな日だったから、わたしは、宝物である桜色の貝殻の表面を、指で撫でながら、いつか王子さまがあらわれますようにと願った。

とじこめて

 冷たいガラスケースのなかの花たちがささやいていた。くすくす笑っているようにも思えた。かなしいくらいに空の色が薄青い日で、近くにあるベーグル屋さんでいちばん人気のハムチーズベーグルサンドが昼時を待たずに売り切れ、店長がいつもしているピアスのカラーストーンがとつぜん砕けた。白い花と一緒にきみが、川にぷかりぷかりと浮かんでいたと聞いたときから、わたしの吐き気は続いていた。透明なガラスケースのなかの花たちのささやきは、なんだかにんげんを馬鹿にしているみたいで、不快だった。ちょっときれいだからって、ふんっ、と思いながら、ガラスケースを小突いてやると、花たちのささやきはやんだ。やんで、またしばらくすると、まるでわたしを非難するかのように、ふたたびささやきはじめた。花束にして売りさばいてやろうかと、こころのなかで呟くと、不思議と伝わるのか、花たちがわたしをにらんでいるような気がした。白い花と一緒に、川面に揺らめくきみを、見なくてよかったような、見たかったような、よくわからない気持ちと、胃のなかのものをすべて吐き出しても治まらない吐き気に、花の茎を持つ手は断続的に震えた。ベーグル屋さんでいつもサーモンとクリームチーズのサンドを買うきみのことが好きだった。年の離れた妹をたいせつにしているきみが好きだった。店長が、一緒に浮かんでいた白い花って、なんの花だったかしらねぇ、なんて首を傾げていて、白い花の配達はなかったはずですけどと、ベーグル屋さんから三軒先のラーメン屋さんでとんこつラーメンしか頼まないスタッフが続けた。わたしはガラスケースのなかに入って、花たちと一緒に冷たくなりたいと思った。

ふたりの関係

 本屋の女は、少年と来た。少年は、本屋の女のこどもではなさそうだったし、親戚のこどもという感じでもなさそうだった。本屋の女と少年は、ともだち、という雰囲気だった。わたしと、三丁目でカフェバーを営んでいる、あらいぐまとの間柄に似ていた。恋人という線もありますよと、スタッフの子が探偵みたいなことを云っていたが、わたしはやっぱり、ふたりはともだちだろうと思った。ふたりは週に二日、花を買いに来た。玄関に飾るための花を買うのだと、少年から聞いた。少年の家ではなく、本屋の女の家であるようだった。女は無口で、愛想のない女だった。対して少年はおしゃべりで、悪くいえば生意気、良くいえば大人びた、中学校のものと思われる学ラン(ただし、この近辺ではあまり見かけない、白い学ラン)を着た少年だった。わたしがしていたカラーストーンのピアスを見て、その色、とても似合ってますね、なんて褒めたので、やるな少年、と思った。夜明けの空のような色のカラーストーンがついたそのピアスは、夫が恋人だったときにプレゼントしてくれたものだった。スタッフの男の子が花を配達している途中、川に落ちて浮かんでいた日に、こなごなに砕けてしまったけれど、わたしは一粒、一欠片、丁寧に拾い集めて、男の子が発見されたという川と海の境目あたりに、撒いた。よく晴れた日だった。三丁目のあらいぐまの、そのともだちが、さいきん、冷凍睡眠するための施設に就職したと聞いた。なんか流行ってるの、冷凍睡眠ってやつ、とたずねたら、ともだちのあらいぐまは、さあ、と小首を傾げて、わたしの好きなミルクティー(ミントハーブの葉を添えて)をつくってくれた。でも、お賃金は、なかなかのようで、と云いながら、茹でたてのスパゲッティをざるにあけ、ざっ、ざっ、と水を切る、あらいぐまの顔は、熱々のスパゲッティの湯気を纏って、ぼやん、としていた。本屋の女はいつも、白いブラウスを着ていて、少年はときどき、ガラスケースのなかの花を、恨めしそうに睨んでいた。

ひみつ

 このひとは、たぶん、だめにんげんになるだろうと思った。だめにんげんのなかでも、恋愛的な方面のそれになるだろうと、重ねて思った。だめだけれど、なんだか愛おしいな、と思ったし、かわいそうだな、とも思った。勤め先の本屋さんで、ときどき、このひとが買ってくる本は、シンプルに生きるとか、物を持たない暮らしとか、オーガニック云々とか、そういう類いのもので、でも、たまに、中学生が読むみたいな少女漫画を買ってきたり、した。このひとの恋人だったひとは、ぼくの兄だった。三ヶ月と七日前に、このひとの恋人をやめて、いなくなった。正確には、いて、北の方の海のなかで、海のなかのいきものを研究していた。兄はおそらく変わり者で、このひとはそれを知らずに、兄のことを好いていた。このひとは、兄に、ぼくのうでを噛む癖があることを知らずに、兄の恋人だった。そして兄は、その癖を隠したまま、このひとの恋人をやっていた。あのひとのこと、結局、よくわからなかった、と云ったのは、兄から別れを告げられたという日の、二日後の本屋さんだった。少年コミックのコーナーだった。ぼくたち以外は、だれもいなかった。わかったつもりでいて、ほんとうはわからなかった、ぜんぜん、と云って、兄の恋人だったひとは、映画女優みたいに、ひとすじの涙を流した。外は雨だった。雨のせいか、お客さんが少なくて、くるしいくらいに静かだった。雨は時折、ざあざあ降って、ざあざあと音がする度に、本屋さんの店長さんが、あんみつたべたいねぇ、と呟いていた。三ヶ月と七日前のことを、このひとは未だに夢に見るのだと、ぼくに話した。わからなくても、なんでも、ほんとうに好きだったんだな、と思った。思うと、ひだりうでの、兄に噛まれたことがある部分の、皮膚が、縮こまって、きゅっ、と鳴いた。兄の、噛み方は、歯形が残らないくらいの、甘いものだった。いやじゃなかった。ぼくは、兄の姿形を、思い浮かべて、それから、兄の恋人だったときの、このひとの様子を、思い出して、恋は、やっかいなものだなぁ、なんて思った。

つめあわせ

つめあわせ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-24

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. やみ
  2. たたかう、わけ
  3. おはよう、おひさま
  4. 冷凍睡眠、昼寝
  5. 少女
  6. ホイップクリームと、いっしょにね
  7. ともだち
  8. ねこと本屋さん
  9. ないものねだり
  10. ぴかぴか光る
  11. 海のなか
  12. クレープ屋さんにて
  13. きれいな日
  14. とじこめて
  15. ふたりの関係
  16. ひみつ