20180227-タクトを置いた君へ(再掲示)

 ソメイヨシノの花びらがいっせいに散って、入学式があわただしく終わり、新入生たちもようやく落ち着いて来た頃。僕、野島一平は自分の生き方を悩んで、ひとり長い廊下を歩いていた。
 去年の僕は、希望に満ちてこのM音大に入って来たが、たくさんの才能の中に埋もれて、誰も僕のピアノを認めてはくれない。ピアノで食べて行くことに限界を感じていた時だった。
「よお、野島。今日暇か?」
「なんだよ、ナベ。暇に決まっているだろう」
「だったら、噂の天才女性指揮者のコンサート、行ってみようぜ?」
「ああ、行くよ。でも、つまらなかったらすぐに帰るからな」
「よし、講堂大ホールに六時だ。じゃあな」
 そう言って渡辺順一は、ピアノピースを持って練習室に入って行った。彼は、眼鏡を掛けた武骨な男で、親戚は作家で有名な渡辺淳一なのだが、本人はこの名前を嫌っている。それは、文才をまったく持っていないからである。だから、普段はナベと親しみを込めて呼んでいるのだが、なぜか僕といつもつるんでいる。百九十一センチもあって体格もいい僕を恐れて、誰も話し掛けようとはしないのに。付け加えると、僕が短髪で、おまけにS拳法を習っていたと、うっかり話した所為もあるだろうか。
 僕は、西洋音楽史の講義室に頭をぶつけないように気にしながら入って行った。僕が席に着くと、皆隣の席には着こうとしない。今更説明しようとは思わないし、その必要性も感じないので、放っておいてる。ナベは、また授業をサボって練習している。彼は、人一倍ピアニストになりたがっているのだ。それは、やはり親戚に渡辺淳一がいるからだろう。
 それにしても、つまらない授業だ。窓の外には、プラタナスの木が青々と枝を付けており、僕の心を和ませた。

「お、来たか。さあ、入ろうぜ」
 今にも泣き出しそうな空模様を心配しながら、六時少し前に、僕と渡辺が講堂大ホールに入って行くと、空いている席はなく、仕方なく通路で立ち見を決め込んだ。そこは、席数五百の割と大きな会場なのだが、この分だとかなり期待できると心が湧きたった。
「お、入って来たぜ」
 壇上を見下ろすと、タキシードを着た背の低い女がクールに歩いて来て、指揮台の横に立って会場に一礼する。髪はボブに潔く短くそろえ、幼い顔の作りはまるで透きとおった陶器のようである。
 彼女が指揮台の上に背を向けて立ち、両手を振り下ろした瞬間、音の波が押し寄せる。
 ヨハネス・ブラームス 交響曲第四番ホ短調作品98。
 第一楽章。昔の映画などで聞きなれた、ゆったりしたフレーズではじまる、悲しい調べ。抑え気味のヴァイオリンが僕の涙腺を刺激し、今にも涙がこぼれ落ちそうになった。まるで、別れの情景を歌っているように。
 愛する女性が、馬車に乗って離れて行く。僕は、只黙って見送るだけで、彼女を止められない。そして、馬車は見えなくなり、僕は大地に膝を落として、大声で泣き叫ぶ。そうはっきりと、まぶたの裏に浮かんだ。
 今まで、そんなことは一度もなかった。あらためて、壇上の指揮者を見る。間違いなくこの音楽は、あの小さな女の子によって生み出されている、そう思うと僕は嫉妬した。なぜ、神はあの女の子を選んで、僕にはその才能のほんのひとしずくさえも、分け与えてくれなかったのかと。そう、サリエリになったように。

 演奏が終わると、皆立ち上がって拍手を惜しみなく浴びせた。彼女は、拍手のシャワーを全身に浴びるように、目をつむって天井を見上げていた。だが、次の瞬間、膝から崩れ落ちる――。
 それは、あまりに痛々しい光景だった。大衆の騒めき。女性の驚きに満ちた悲鳴。救急車を呼ぶ声。その中に、彼女は深い眠りに落ちた白雪姫のように、静かに横たわっている。僕は、いたたまれなくなり、講堂大ホールを後にした。後ろから、渡辺が泣きそうな声でなにかを叫んでいる。
「なんでなんだよー」
 そう、なんで彼女がこんな病に。
 噂に聞いていたが、彼女は武藤アリサと言って百五十センチにも満たない小さな女の子。彼女は、中学生の時、横断歩道を自転車で渡っていて、左折するトラックに巻き込まれる。瀕死の重傷を負った彼女は、奇跡的に一命を取り留める。後遺症を抱えて。その後遺症が、今見た突然、気を失うことなのである。
「神様は、意地悪だ」
 それが、僕が天に向かって吐いた言葉だ。外に出ると、ぽつぽつと冷たい雨が降り出して、ジャケットの襟を立てて帰り道を急いだ。


 M音楽大學と書かれた威圧的な門をとおると、正面玄関にはパルテノン宮殿を模した太い柱が、いく本も天井に伸びている。その入り口をくぐって広いロビーの奥にある階段をあがって二階に行くと、いくつもの練習室が防音扉にへだてられている。中をのぞくと、真ん中にヤマハのグランドピアノがあり、奥の方に弦楽器や管楽器を鳴らすスペースがある。そして、色々な打楽器が置いてある部屋が二つだけある。
 あのコンサートの翌日に、僕が練習室でピアノの前に座って弾いていた曲は、フレデリック・ショパン、ノクターン第二十番嬰ハ短調。とても悲しい曲である。だが、相変らず音が指の間からすり抜けて行く。この僕に、武藤アリサのなん十分の一でも才能があったらと、奥歯を噛みしめた。
 そのとき、突然防音扉が開いて、ワイドパンツを履いた小さな女の子が入ってきた。
「こら、ここは子供の遊び場じゃないよ」
「誰が子供だって?」
 顔をよく見ると、昨日の講堂大ホールで見た武藤アリサがふくれっ面で立っている。
「武藤!」
「こら! さんとか、ちゃんとか付けてよね。もちろん、恋人になる人にはアリサって呼んでもらうけど」
「一体、なぜここへ?」
「そりゃあなたの音が、あまりにも可哀そうだからよ」
 なにも言えない僕は、助けを求める子羊のように見えただろう。
「いい? まず頭をカラにして」
 彼女は、僕の肩に小さな手を乗せてそう言った。彼女の説明は次のようだった。
 小さな女の子が、ひとり凍てつくシベリアの街角で、手袋もはかずに凍えている。道行く人に助けを求めるが、皆彼女を無視して通り過ぎて行く。
 いたたまれず、楽しかった日々を思い起こす。貧しかったが、笑いの絶えない家族。クリスマスには、わずかだがケーキとターキーが食卓に上った。思い出しても、心がおどる。
 けれど、日が暮れて女の子は力尽き、やがて静かに横たわる。そして、彼女の魂は天に召される。
 そこには、速度の指示や、強弱の表記もない。完全にアナリーゼ無視である。ただ、少女の気持になって、弾けばいいと言うのだ。
 僕は、言われたとおりに弾いた。
 フレデリック・ショパン ノクターン第二十番嬰ハ短調「遺作」。
「うん。やっぱり、太くていい音出すわね」
「先生!」
「先生は止めて。アリサって呼んで」
「アリサさん」
「まあ、それでいいわ。それで、あなたの名前は?」
「野島一平です」
「それで、一平。あなた、私と契約しない?」
「え?」
「私が、あなたの弾き方を指導する。その代わり、あなたは気を失った私をオブってアパートまで届ける。いい?」
 この契約は、一方的にアリサによって結ばれた。僕は、どんな困難が待ち構えているのかと考えると、即座に返事できなかったからである。
 言われたとおりあとをついて行くと、アリサのアパートはコンクリート打ちっ放しのオシャレなたたずまい。中をのぞくと、十畳ほどの部屋にスタインウェイ&サンズのグランドピアノが置いてあり、リビングとベッドルームが別になっている豪華な造りである。
 その日の内に、そのアリサの広いアパートへ僕に必要なものは、移動した。いわゆる同棲である。だが、僕はアリサを抱くつもりはない。それは、身体の小ささもあるが、一生面倒見るとは言えないからである。
 それから、アリサの首には、僕の名前と電話番号を書いたプラスチックのカードを、首にぶら下げてもらった。倒れた時に、呼び出してもらうためである。アリサは、それを大事そうに握りしめた。

 契約したが、そのあとしばらくはなにごともなかった。その間、アリサ指導の下、次々と僕の課題曲がひとつの物語として仕上がって行く。その時、ほんの少しだけ助けとなったのは、僕の身体の大きさから来る音の深みだろうか。はじめて身長を百九十一に産んでくれた親に感謝した。
 僕は、今まで味わったことのないほど充実した日々を送っていたのだが、その時はついに起こる。
 ジメジメとした梅雨が来て、ピアノの音もどこか重く聞こえる頃。アリサと僕が一緒に昼食を取り終え、次の授業にそれぞれの教室に別れたあとだった。古典音楽の教科書を出して講義を受ける準備をしていると、僕のスマホが鳴った。
「もしもし、アリサさん?」
「すみません。アリサさんの首にぶら下がっているカードに、あなたに電話してと書いてあったもので」
「アリサが倒れたんですね? すぐ行きます」
 講義を放ったらかしにして急いで駆け付けると、アリサは頭の下に誰かのジャケットをしいて静かに横たわっていた。顔は、血の気がなくて一瞬死んでいるのかと思ったが、鼻先に耳を近づけるとかすかに吐息が聞こえた。
 僕は、その場にいた人たちにお礼を言うと、アリサを背負ってアパートへ向かった。事故で一年間入院して、それからは身長は伸びていないと言うとおり、彼女の身体は軽く、とても二十歳には思えない。それに、アリサがキュロットやワイドパンツ以外のスカートを履かない訳が、この所為だとはじめて気が付いた。
 彼女のアパートに着くと、ベッドへ静かに降ろす。このままでは、窮屈だと言われていたので、ブラジャーを外しパジャマに着替えさせて布団にくるむ。太ももには痛々しい裂傷のあとと、上半身にはいく針もの太い縫合痕ある。――顔や頭に傷がないのは、なんども整形手術をしたからなのだろう――。その傷をなるべく触らないように着替えを終えた。当然、胸は見えるが、それをマジマジと見る余裕もなく、慣れないことと驚きに汗だくで終わった。
 ほっとしてアリサの顔を見ると、うっすらと埃が付いている。僕は、タオルをしぼって綺麗に拭いた。少女っぽさを残したアリサの顔は、中性的な感じがして、これから彼女に起こることを想像すると、寂しくなる。生理がないことからも、きっと結婚もできずに歳を取って行くのだろう。
 だが、アリサには神がくださった才能がある。きっと、輝かしい未来が待っているだろう。僕は神に祈りたくなって、この時初めて教会を訪ねようかと思った。

 僕が、簡単な夕食を作っていると、アリサが起きてきた。
「おお、起きたか。どこか痛いところある?」
「一平。たぶん、大丈夫……」
 アリサは、気を失ったときのことを思い出すかのように、瞳をさまよわせた。
「それじゃ、もう少ししたら、ごはんできるから食べようね」
「ねえ、私が寝てるとき、変なことしなかった?」
 アリサは、僕の目を見ずに言った。だから、その真意は分からなかった。
「アリサさん。僕ってそんな男に見える?」
「違うよ。私ってそんなに魅力ない?」
 なんと返答しようか、困ってしまった。透きとおった肌に、汚れのない中学生のような身体は、どうしたって身体が反応する。たとえ、傷あとが残っていても。
「正直に言うよ。僕は、アリサさんのことは好きだ。だから、適当に付き合うことはできないんだ。たとえ、アリサさんに意識がないとしても」
「だったら、本気で付き合って。おねがい」
「……悪い。それは、今の僕にはできない」
 アリサは、両手で顔をおおった。
「あなたのことだから、そう言うと思った。その場限りの嘘を付かないのが、私があなたを選んだ理由の一つ。そして、その大きな身体が一番の理由だった。それなのに、本気で好きになるんてね」
 涙が、アリサの手のひらからこぼれ落ちて、僕の心はズッキと傷んだ。慰めることもできずに、おみそ汁をよそおった。僕たちは、無言で甘い味つけの親子丼をくちに運んだ。
 その晩、雨がザーザーと降りだした。まるで、彼女の心を表わすように。


 ようやく、長い梅雨が明けたが、代わりに焼け付くような季節が来た。ヒグラシは朝夕と残りの命を謳歌し、アスファルトは蜃気楼を揺らせている。
 あれからアリサは、僕に従順である。音楽のレッスンは相変わらず厳しいのだが。
 僕は、ふた月に一度アリサを病院へ連れ行って、検査に付き添って、薬をもらって来る。それでも、相変わらず時々気を失って、僕はそのつど迎えに行き、背負って帰って来る。大体、ひと月に一度の割合だ。
 そのためか、音楽雑誌の記者も無理な取材はしないようだ。メモ書きで『あなたのことを応援してます。なにか困ったことがあったら連絡をください。』と書いた名刺が、郵便受けに入っていた。良識的な記者に感心したものだ。
 僕が、アリサの病気の対処にもどうにか慣れて来て、練習室でピアノを集中して弾いていると、渡辺が怒った顔で入って来た。
「やあ、しばらくナベ」
「なにが、ナベだ。おい、お前。責任とれるのか?」
「武藤アリサのことか? まだ、手を出していないよ」
「そんなことは関係ない。あれじゃ、誰が見たって恋人同士だ。気を失った武藤アリサをオンブして歩く姿は」
「ナベ。俺さ、武藤アリサに惚れちゃったのかも知れない」
「野島……。お前ってロリコンだったのか……」
「いや、論点はそこじゃないだろう」
「そうだった……。きっと、真面目なお前だから、彼女を一生面倒見るとか考えてるんじゃないのか? どうなんだ?」
「それでもいいって、思いはじめてる」
「野島。お前の人生はどうなるんだ、これから?」
「分からないよ。でも、アリサの才能と比べたら、俺の人生なんてどうなったっていいと思えるんだ」
 僕がこの言葉を言うと、渡辺順一は両手を広げ抱き着いて来た。
「そこまで覚悟決めてるんなら、もうなにも言わないよ。只、苦しくなったら俺に言えよ。できる限りのことは、するからさ」
 ありがたかった。これで、僕はひとりじゃないと思った。渡辺とは、このあと久しぶりに飲みに行った。

 ストレスが溜まっていた所為か、正体を失って僕が気が付いたのはアリサのアパートの床の上。その頭上で、アリサと渡辺が会話している時だった。
「ありがとうね、渡辺くん」
「あれ、なんで俺の名前知っているんだ?」
「それは、ことあるごとにあなたの話を聞かされたからよ」
「そうなんだ」
 ふたりの笑い声が聞こえる。このとき、嫉妬に僕の胸がかすかに痛んだ。病気のことでアリサが落ち込んだとき、僕は渡辺の習性を披露して元気付けていたのだが、それが過ぎたかと後悔した。
「ねえ、アリサさん」
「なーに?」
「俺も、協力するからさ。あまり、野島ばかりに負担掛けないでくれよ」
「……でも、意識を失って無防備でいるのは、やっぱり野島くんじゃないと」
 その言葉で、自分がいかに信頼されているのか分かった。気を許せるのは僕しかいないと。そのことが、とても嬉しかった。
「おはよう、ナベ」
「お、起きたか。勘弁してくれよ、ここまでオブって来たのは百六十九のこの俺だよ?」
「え! こんなところまで背負って来たのか?」
「バカ。タクシーに乗せたに決まってるだろ? タクシーから家までだよ」
「悪い。三千円で足りる?」
「ああ」
 渡辺は、一言「愛し合ってるね」と耳打ちして帰って行った。

 僕は、シャワーを浴びて酔いを醒ました。だが、熱いお湯が古傷に染みて顔をしかめてしまい、冷たい水に変えた。さっぱりしてパジャマを来てリビングに出ると、アリサがコップに冷たい水を用意してくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 アリサは、お道化てバレエのプリマがするように、お辞儀をした。まるで、オルゴールの人形みたいに。僕は、笑いこらえて水を飲み干して、コップをすすいだ。
「ねえ、アリサさん」
「うん?」
「好きだよ」
 そう言って、アリサを抱きしめる。
「私もよ」
 そのあと、僕は小さな身体のアリサを抱いた。胸もお尻も手を触れるのもためらわれるほど幼いが、彼女は確かに二十歳の女性だ。しかし、僕の大きな陰茎を入れることには、さすがに躊躇した。だが、一生懸命受け入れようとする姿に勇気付けられて、ついに処女を奪った。
 これから、どんな運命が僕たちに訪れるかは分からないが、この命の続く限り彼女を守ろうと心に決めた。
「ねえ、この背中の傷、どうしたの?」
 そう言いながら、アリサは僕の傷をやさしく撫でた。
「え? ああ、これね。昔、ちょっともめたときに刺された傷だよ」
「それって、まさかS拳法の?」
「ああ」
 あまり聞かれたくはなかった。あれは中学三年のS拳法の全国大会のときだった。僕が倒した相手が、ピアノなんか弾いてふざけていると因縁をつけて来た。三人いたが、どうにか倒して立ち去ろうと背を向けたとき、背中から刺された。僕は、痛みと恐怖の中で一一九番を掛けた。さいわい傷は内臓に達していなくて大事にはならなかったが、それ以来、道場には行っていない。
 その晩、僕たちは手を握り合って深い眠りに就いた。


 前期試験が、落とした単位もなく無事終わり、夏休みになった。僕は、アリサの母親に電話越しに説得されて、名古屋のアリサの家へ行くことになった。静岡にいる僕の母には嘘を付いて、友だちと北海道旅行に行くと言ったのだが。
 アリサは、キュロットに白いブラウス、それに麦わら帽子と言ういでたちでアパートを出発した。テストで疲れが溜まったのか顔が青白くて心配していたが、新幹線に乗って席に着くとすぐに気を失う。手を握っていたが、酷く弱々しくて僕の胸に彼女の身をあずけた。一瞬、このまま目覚めないのではと、背筋に寒気が走ったが、いつもどおり一時間ほどで目覚めてくれた。目覚めたあとは、足元がふら付くので、背負って新幹線を降りた。
「その改札を出たら右ね」
「ラジャー」
 まるで、子供を連れているような錯覚を起こす。だが、時折鼻をくすぐる女の匂いが、僕を現実に引き戻す。ふと、アリサの乳房が張っているのが感じられた。
「ねえ、アリサさん。乳首立っていますよ?」
「馬鹿」
 からかっていると、豊田市行きのバスが来た。アリサは、このときようやく僕の背中から降りて、自分の両足で立つ。
「もう大丈夫だよ。さあ、乗ろうか?」
 バスは、名古屋駅前を出ると乗り換えなしで豊田市へ向かった。豊田市とはトヨタ自動車があるところで、多かれ少なかれ町全体がその恩恵を受けていている。
 途中、杖を突いた老婆が乗って来る。アリサは急いで席を譲るが、お礼の言葉に一瞬、泣きそうになる。
「ありがとうね、まだ小学生なのに偉いね」
 僕は、無言でアリサを抱きしめた。周りの乗客が驚いてざわついたが、無視した。そのとき、乗客のひとりが声をあげる。
「あれ? アリサじゃない?」
「え? 京子……」
 一瞬、アリサの顔が曇る。
「ちょっと、なにやっているのよ。公衆の面前で」
「すみません、お騒がせしちゃって」
 その会話を聞いて、周りの騒めきは収まった。何事もなかったように、自分の定位置に戻って行った。
「この大男は、私の彼氏ね」
「へ―。それにしても、でかいね」
 笑うしかなかった。それにしても、ハッキリ言う人だ。だが、言葉の中には悪意は感じられない。
「ところで、音大に入ったんだって?」
「うん、私、それしかできないから」
「私たち、応援してるんだよ? 瀬戸くんだって、涼音だって、雫だって」
「きょうこー」
 きっと、中学時代の仲間だろう。一年学校を遅れて出て、身長が伸びないことを気にしたアリサが、昔の友だちに会うことをこばんでいたのかも知れない。
 人は、ひとりでは生きていけない。一歩踏み出してみたら、きっと世界が変わる。僕は、生き生きと会話するアリサの背中を支えるように手をあてていた。

 アリサは、懐かしい人との再会があって公園で話し込んだが、会う約束をして別れた。この公園から家までは、ほんの五分と言って僕を案内をしてくれた。あたりは、夕やみに包まれて街灯がポツンポツンと着き出した。街路樹がオレンジ色の街灯に照らされた小道を、ふたり手を繋いでゆっくりと歩いた。
 アリサの家は、瓦屋根の二階建て。広い敷地に入って行くと、右手に楓の木が一本、家を包むように立っている。アリサは石畳を歩いて玄関先に立つと、おもむろにインターフォンを鳴らした。
「はーい、どなた?」
「ただいまー」
「アリサ!」
 勢いよく玄関の扉が開くと、嬉しそうな顔がのぞいた。
「約束どおり、彼氏、連れて来たよ」
「あらー、いらっしゃい。それにしても、大きいわねー」
 そう言って、痩せているアリサの母親は僕の顔を見上げた。
「はじめまして、野島一平です」
「アリサの母の真由美です。さあ、中へ入って」
 鴨居に気を付けてリビングに入ると、お寿司が待ち構えていた。僕の好きなウニもある。
「ああ、内は寿司屋をやっているから、気にしないでね」
「どうも、すみません」
「今、冷たいお茶入れるから、ふたりとも手洗ってうがいしてね」
「はい」
 洗面台で手を洗ってうがいをしていると、自分の部屋に行って来たアリサが洗面台が空くのを待っている。
「内のおかさん、痩せているでしょ? 私の所為なんだ」
 アリサは、泣き笑いをするような顔で言った。
「でも、綺麗じゃない。僕のかあさんなんて、こんなに太っているよ」
 アリサは、笑いながら涙を拭った。
「さあ、早いとこご馳走になろうよ」
「うん」
 美味しい寿司を食べ終えると、アリサの母はいろいろ話してくれた。だが、ワザと避けているのか、僕たちのこれからのことを聞こうとはしない。終始、アリサの父親や弟の話題を選んで、面白おかしく話していた。父親は、店が終わる時間の夜十一時以降になるまで帰っては来ないし、弟は野球部で遠くの某高校へ行って寮に入っていると言う。アリサの母も普段は店を手伝って、父親と一緒に帰って来る。そんな話を、笑って話していた。
「さー、もう寝る時間だね。歯磨いて寝るのよ」
 まだ十時だと言うのに、アリサの身体を気づかってのことか。僕は一階の客間で、アリサは二階の彼女の部屋で、別々に眠りに就いた。

 緊張していた所為か、僕は誰かの足音に目を覚ました。
「すみません、野島さん?」
「はい、起きてますよ?」
「ちょっと、こちらへ」
 そう言って、アリサの母は僕をリビングへ呼んだ。薄明りの中、僕は何か重要なことを言われると緊張をした。リビングに入ると、アリサの父親が仕事を終え、帰って来ていた。顔には深い皺が刻まれ、苦労が伺われる。
「どうも、アリサの父です」
「はじめまして、野島一平です」
「よく、お出で下さいました。私ども親子は、大変感謝しております」
 アリサの父親は、僕の両手を取り、強く握った。アリサの母も、頭を下げている。
「頭を上げてください。僕の方こそ、アリサさんには音楽のことでお世話になっています」
「そうですか、お役に立っているんですね」
 アリサの母親は、そう言って涙を流した。アリサの父親は、アリサの母親の背中をなでている。時計は、間もなく夜中の零時なろうとしている。僕は、黙ってふたりが再び話し出すのを待った。
「あの子……、あとどれくらい生きられるのか分からないんです」
「……!」
「それは、五年後か知れないし、明日かも知れない。あの子には言ってませんが、そう、お医者から言われたんです」
 僕は、あまりのことに、なにも言えなかった。涙がまぶたに溜まって今にも流れ落ちそうだった。
「どうか、あの子の望みを叶えてください」
 アリサの母親は、僕に救いの言葉を求めた。僕などが、今から言う望みを叶えられるか、はなはだ不安だったが、聞かずにはいられなっかった。
「分かりました。それで、望とは?」
「あの子に、普通の女の子のように結婚式を上げさせてやりたいんです。籍を入れてくれなんて言いません。せめて、式だけでも」
「……分かりました」
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
 アリサの両親は、頭をテーブルにこすり付けて感謝の気持ちを表した。僕は、もう頭を上げてくださいと言ったが、頭を上げてもらうのには時間が掛かってしまった。
 このとき、僕の気持はもう決まった。結婚式を挙げて籍を入れると。


 次の日、アリサを置いて、ひとりアリサの実家をあとした。別れ際、中々手を離さないアリサに困ったが、アリサの母親が肩を抱いてしっかりなさいと言ってようやく手を離した。玄関先に出て、泣きそうな顔でいつまでも手を振っていた。
 自分の命を短いと知ってて、これが今生のお別れになるかも知れないと、手を振っているのだろうか。アリサの泣きそうな顔が、いつまでもまぶたの裏から消えなかった。

 僕は、ひとり名古屋で新幹線に乗って、静岡県の新富士と言うところで降りて、バスで富士川沿いの実家に着いた。母は、父とは離婚をして、看護師をやって僕と妹を育てている。そのため、妹の静香だけが家にいて、ひとり冷やしソウメンを頬張っていた。今年、高校二年になったが、進路がまだ決まっていないと言う。
「あれ? お兄ちゃん、北海道旅行に行ってたんじゃないの?」
「おい、なんて格好しているんだ?」
 タンクトップに短く切ったジーンズを履いて、クーラーの真っ正面に陣取って、あぐらをかいて食べていた。百七十センチのすらっと伸びた手足に、僕は思わず目をそらした。
「家でどんな格好してたっていいじゃん。それよりも、お土産は?」
「そんなもん、ないよ」
「なんだ、つまんなーい」
 妹は、下唇を出していじける。
「変な顔はやめろよ」
「いーだ」
 妹は、こうなると中々いじけるのを止めない。僕は、汚れ物を出して、洗濯機をまわした。
「ところでさー。お前が結婚するとしたら、なにが着たい?」
「え、急になに聞いてんのよ。まさか、お兄ちゃん結婚するの?」
 妹は、僕に顔を近づけて言った。思わず、ドキリとする。
「いや、具体的にはなにも決まっていないけど、相手はいるよ」
「へー、やるもんだねー。それで、どんな人?」
「まだ、かあさんには言うなよ。ほれ、この人」
 スマートフォンの写真を拡大して見せた。それは、アリサがコンサートで指揮をしたときのものだ。
「どれどれ……。ヒエー、嘘でしょ? まだ子供じゃん」
「やっぱり、そう見えるか。でも、俺と同じ、二十歳なんだ」
「えー二十歳? こんな身体で、お兄ちゃんのアソコ入るの?」
「ちゃんと、入ったよ」
「うわっ、入れちゃたんだ。イタソ」
「おい、なんでこんな話をしているんだ、俺らは?」
「ねえ、その子と本当に結婚するの?」
「そのつもりだ。でも、問題があるんだ」
 僕は、味方になってくれそうな妹に、洗いざらい吐露した。彼女が、中学の時交通事故にあって、ときどき気を失うこと。そして、彼女の命は短いと言うこと。
「やだ、嘘言わないでよ」
「嘘だったら、どんなによかったか」
 静香は、黙って考え込んでいた。僕は、静香の食べ終わったソウメンを片付けて、食器を洗った。
「おかあさんに知られたら、きっと反対される。だから、絶対に言っちゃだめよ」
「やっぱり、お前もそう思うか」
「当り前よ。それが、親心って言うもんよ」
「……」
「それで、お兄ちゃんの二十歳の誕生日は来年の一月だから、それからあとには親の承諾がなくたって結婚できるね」
「うん、うん」
「その人、体力も暇もないみたいだから、サプライズで結婚式を挙げたらいいね?」
「それは、俺も思っていた」
「よし、私が仕切るわ」
「えー、静岡から東京の結婚式をどうやって仕切るの?」
「お兄ちゃん、今はスマホって言う便利なアイテムがあるだよ?」
「お願いします」
 僕は、生まれてはじめて妹に頭を下げた。いつもは、やるきなさそうにだらけていたが、このときは妹が頼もしく見えた。
「まずは、相手のおかあさんの携帯の電話番号、教えて」
「はい」
 その日以来、妹は電話でアリサの母親と連絡を取って、ウェディングドレスの好みとか、式場の好みとかを聞き出して、式場を探している。僕は、実入りのいいバイト――建築現場の日雇いをして、一生懸命お金をためた。アリサの母が出してくれると言ったが、籍を入れようと思う僕にはできるだけ自分の稼いだ金ですませようと考えたのだ。
 母は、僕が毎日遅くまで真っ黒になってバイトしているのを、笑って見ている。きっと、自立した子供に目を細めているのだろうが、これは母に内緒の反乱である。心の中で、わびた。


 夏休みも終わりを迎え、明日から大学がはじまろうとしていた。僕は、夏休み中バイトばかりで、ピアノはまったく弾いていなかった。アリサのアパートへひと足先に着いて、ピアノを弾こうと近付いたが埃がたまっている。仕方なく拭き掃除をしてると、玄関のインターフォンが鳴った。
「お帰りー、アリサさん」
「ただいまー、一平」
 アリサは、実家で静養をしていた所為か、体調がよさそうな笑顔を見せた。アリサの身体を抱きしめると、夏の香りがする。
「あれ、随分日焼けしてどうしたの?」
「ああ、これか? 休み中、静岡の由比ヶ浜海岸で泳いでいた」
「どれ、見せて」
 僕は、襟元を引っ張られて胸元をのぞかれた。
「嘘、シャツのあとが着いてるよ?」
「おお、シャツ着てビーチバレーしてたからね」
「ふーん、いいなー。私も思いっきり汗、流したい」
「アリサさんには、汗は似合わないよ。よっ! いつも、クールないい女」
「あら、そう?」
 アリサは、シナを作ってポーズを取って見せる。僕は、笑いながら親指を立てて右目をつむった。
「ところで、こんどディズニーランドへ行かない? 勿論、涼しくなってからでいいからさ」
「……でも、気を失ったら」
「だから、ずっと、オンブするからさー」
「分かった。楽しみにしてるね」
 普通の女性がするようなことをさせて上げたい。それが、アリサの母親の願いだっだ。
「あ、ところで、誕生日はいつ?」
「二月二日だけど?」
「ありがとう」
「なにが?」
 さあ、明日からまた音楽漬けの毎日だ。僕は、アリサのグランドピアノを弾かせてもらって、指に着いたサビを落とした。


 半袖から長袖に衣替えをする季節になった。天気予想は、晴れ、ときどき曇り。僕とアリサは、平日に学校を休んで、電車に乗ってディズニーランドへ向かった。途中、なるべくアリサを背負って移動して、体力温存に努めた。お昼前に舞浜駅に着くと、ディズニーランドのアトラクションの建物が見える。僕はアリサを背負って歩道を歩いて行った。チケットを買って中に入ると、思ったよりも混んでいない。僕たちはまず、近くて混んでいない回転木馬から並んでいると、すぐに僕たちの順番が来た。陽気な音楽が流れる中、白い木馬に乗ってしばらく待っていると、動き出した。
「混んでないから、すぐ乗れたね」
「この音楽って、乗る前から掛かっているのね。しかも長調の」
「え?」
「これが、単調で、幻想曲だとどこか知らない世界に連れていかれそうで、怖い。モーツアルトの交響曲の二十五番なんて、地獄に連れていかれそう」
 そう言って、アリサは「あひゃひゃ」と笑った。そうだ。アリサには常に音楽が付いて来る。彼女の中ではオーケストラが鳴り響いているのだろう。だが、間もなく回転木馬は止まってしまった。乗るのに五分以上掛かったのに、わずか二分ばかりで。
「えー、これで終わり? 短すぎるよー」
「こら。次の人たちが待っているんだから」
「はーい。じゃーね、お馬さん。またね」
 アリサは、シブシブ回転木馬を降りた。果たして、次があるのか。僕は、そんな考えをしてしまって、いけないと思い頭を振った。僕は、またアリサを背負って、移動した。
 次のアトラクションは、白雪姫と七人のこびと。トロッコに乗って、人形がいる場面を次々と見て行くのである。
「なんだか、動かない幽霊屋敷だね?」
 アリサは、つまらなそうに言った。確かに、音楽は少ししか聞こえてこなかったし、場面の移動が早すぎて、楽しめなかった。
「毒リンゴは?」
「ほんとだ。老婆に化けた女王が、白雪姫に毒リンゴを食べさせて殺す。だけど、王子のキスによって息を吹き返す。その場面がないよ。あ! その前に鏡だ!」
「あんなドクロとか、必要ないのにね?」
 このとき、名案が浮かんだ。結婚式は、白雪姫になってもらおうと。

 あとのアトラクションも、似たり寄ったりでアリサを満足させることはできなかった。それでも、はじめてディズニーランドに来たと言う興奮が、アリサの顔を紅葉させていた。
 日が暮れて来て、もうそろそろ帰ろうかと休んでいたとき、パレードがはじまった。電飾されたいくつもの山車が練り歩き、中でもミッキーとミニーマウスに、アリサはその日一番の歓声をあげた。そして、白雪姫が現れると息を飲んだ。
「綺麗……」
 僕は、しばらくの間アリスの今にのもとろけそうな横顔に見とれていた。

 華やかなパレードは、UNISISの電飾を最後に見せて消えて行った。時間にして、二十分強の長さである。
「楽しかったね?」
「そうだね」
「また、来ようね?」
「分かった」
「絶対だよ?」
「うん」
 僕がそう答えると、アリサは安心したのか一つ大きなあくびをして眠ってしまった。僕は、アリサを背負って、舞浜駅を目指してゆっくりと歩いた。

 翌日、朝から雨を伴った突風が吹き荒れ、次の日は台風が上陸した。古い木々は幹から裂け、排水溝は泥水を噴き出し、辺りの道路はいたるところで冠水した。アリサのアパートは一段高く作られ被害はなく、M音大も同様に被害をまぬがれたが、僕のアパートは床上まで泥水を被って、置いてきたアップライトのピアノは無残な音になってしまった。姉のピアノを借りていたのだが、電話を掛けて謝って処分した。
 そう、僕がピアノをはじめたのは、姉の真似をしたのが切っ掛けだった。当時は母が離婚したため家には余裕がなくて、小学校にあがった姉だけがピアノを習っていた。幼い僕は、毎日姉の弾くバイエルの音を聞いていて、ある日姉の真似をして弾いてみた。最初は満足に動かなかった指が、時間と共に滑らかに動いて、ごはんを忘れるほど夢中になった。それを見た母は、次の日から僕をピアノレッスンに通わせた。
 あれから十五年がたった。姉はピアノを止めてしまったが、僕は止めようと思ったことは一度もない。僕は、自分のアパートを清掃して、翌週引き払った。


 ディズニーランドから帰って、アリサは問題なく授業を受けている。その代わり、僕の身体のあちこちが痛い。そんなことなど知らないで、アリサは身をあずけて来る。ますます僕に依存している。だが、音楽のことになったら、途端に自立しているようである。
 僕は、アリサがピアノを使い譜面読みをしているとき、ちょっと出かけて来ると言って、近くの公園から妹に電話をした。
「あ、静香?」
「なーに、お兄ちゃん?」
「結婚式の段取り、どこまで行った?」
「式場はプロテスタントの教会で、日にちは春休みを抑えたから」
「それでいいけど、ウェディングドレスの変更をお願いしたいんだけど」
「うん、それで?」
「ディズニーランドの白雪姫なんか、どうかな?」
「へ? また、なんで?」
「彼女が、パレードで白雪姫にうっとりしていたんだ」
「お兄ちゃん。それ、彼女に確かめた?」
「えっ! 確かめてないけど」
「駄目ねえ」
 静香は、怒ったように言った。女心は、正直分からないのである。と言うよりも、他人の考えなんてどだい分からないのであるが。白雪姫は
、めったにない僕の思い付きだった。
「いい? 白雪姫を見たときに、なにかを思い出してつぶやいたのかも知れないでしょ?」
「それで、どうやって確かめる?」
「それは、私をだしにすればいいよ。『妹も、白雪姫が好きだって言ってるけど、まさかアイツ結婚式に白雪姫の格好をするつもりじゃないよな?』って言うのよ。そしたら、彼女は『どうして? いいじゃない』って言うか、『やっぱり結婚式には、ウェディングドレスじゃない』とって言うはず」
「本当に?」
「彼女は、私に絶対に味方するはずだから、絶対嘘言わないわ」
「分かった。今日聞くよ。ところで、教会の予約、俺の渡したお金で足りた?」
「ちょっと足りなかったけど、出世払いで返すって言っていたから」
「え、どういうこと?」
「私、そこに就職するからね」
「……」
「聞いてる? それから、白雪姫の衣装は、あてはあるの?」
「ない」
「まったく。私の方で、Yahooオークションで探してみるね」
「よろしくお願いします」
 秋の夕方は、思ったよりも冷えて、トレーナー一枚ではさすがに寒かった。僕は、ズボンのポケットに手を突っ込み、帰り道を急いだ。

 僕が、アリサのアパートへ帰ったのは、七時すぎ。アリサは、お茶を入れてお弁当を食べていた。
「ただいま」
「お帰りー。ごはん食べた?」
「まだだけど」
「冷蔵庫にあるから、チンしてね」
「分かった。ありがとう」
 弁当は、駅前のスーパーで売っているチキンカツだった。安くて美味しくて、しかもポテトサラダがたっぷりと入っている品である。僕は、電子レンジで温めた。
「ねえ、アリサさん」
「うん?」
「今日妹から電話あったんだけど、妹も白雪姫が好きだって」
「でしょ? あれを嫌いな人はいないと思うわ」
「でも、結婚式もあの衣装を着たいって言うんだ。どうしたらいい?」
「あら、いいじゃない。私も、白雪姫の衣装で結婚式を挙げたいよ?」
「へー、そんなもんかなー。お、温まった。いただきます」
 やはり、僕の勘は当たっていた。けれど、妹も白雪姫が好きだとは思わなかった。僕が、アリサを好きなことが、今回分かった一因だと思うが、それじゃ妹は好きじゃないのかと問われれば、僕は即座に好きじゃないと言うだろう。なぜなら、妹は女のくせに身長が百七十センチもあるのだから。言っちゃ悪いが、僕がもしも女だったら、付き合う相手に困って絶対に鬱になるに決まっている。妹のように長身を自慢できないのである。とは言っても、妹の行動力には今回は、助かった。僕は、寒くないようにジャンバーを羽織ってもう一度外出をして、妹に情報を伝えた。


九 

 秋があっという間に過ぎ去った。街にジングルベルの音が響き出して、冷たい風が吹き抜ける。僕が、いつものようにアパートで練習していると、アリサは一枚のピアノピースを差し出した。
「なに、これ?」
「ねえ、ラフマニノフ、弾いてみない?」
「ピアノ協奏曲第二番……。まさか、クリスマス・コンサートでオケと共演すれって?」
 僕は、笑い出してしまった。一度も、オーケストラをバックに弾いたことがない。ましてや、こんな難曲を弾くだなんてありえない、そう思った。
「一平。あなたのピアノは、もうその段階に来ているのよ。自分を信じて」
 アリサは、真剣な顔でそう言った。その眼差しは、僕を説得するのは十分だった。
「やってみるよ」
 その晩、アリサは付きっ切りで僕のピアノを見てくれた。見てくれたと言うのは、ほとんど口を出さずに、只僕の演奏を聞いていたからだ。
 第一楽章、第二楽章、第三楽章。僕の中では、すべての音ができている。只、それを表現すればいいのだ。僕は、晩ごはんも忘れるほど集中して弾いた。

 翌日、朝から冷たい雨が降って指が動かない中、昼すぎから音合わせがあった。講堂大ホールに揃ったオーケストラの面々。僕が入って行くと、皆、なんだこいつはと言う顔でにらんだ。
「皆さん。それでは、一度だけリハーサルをします。それで、不満のある人は止めてもかまいません」
 そのアリサの声に、コンサートマスターがピアノのAの音を出して、一同合わせる。準備が整ったのを確認すると、アリサが指揮台に立って、僕の顔を見てうなずいた。
 セルゲイ・ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番ハ短調作品18。
 男はひとり重い足を引きずって歩いて来る。ふたりは別れ話をしている。愛し合っているのに、訳を言えずに。別れたくないと女はすがって泣くけれど、男はすまないと首をたれる。
 第一楽章から誰が聞いても、完全に愛の調べである。だが、それでいい。しかし、音はベタベタしないように。大人の恋であるが、あくまでも着衣で、知的に。オーケストラは、第一楽章ですでに皆真剣に弾いている。まるで、物語をつむぐように。
 第一楽章が終わると、誰からか拍手が沸き起こった。
「皆さん。彼、野島一平でいいわね?」
 弓で、弦を叩く音が鳴り響き、了承されたようだ。それから、残りの楽章をすべて演奏した。
 第二楽章。ふたりがいいときのことを思い起こす。ああ、あのときに戻れたなら~。
 第三楽章。残りの時間はそんなに多くない。その中で、ふたりは別れを決意して、ついにそのときは来た。ふたりは、涙を流して別れる。
 悲しい別れの曲である。この間、演奏は止まることはなかった。

 リハーサルが終わり、僕はアリサを背負ってアパートへ帰った。約四十分間とおしで、オーケストラを僕に合わせたので相当疲れていたに違いない。気を失いはしなかったが、疲れたと言ってその場で眠ってしまった。アパートに帰ってベッドに静かに降ろすと、アリサはようやく目覚めた。
「うーーん、よく寝た」
「おはよう、アリサさん」
「ありがとう、一平」
「腹減ったね。今日は、買う暇なかったから、どん兵衛でいいよね?」
「うん。身体が温まるからね」
 この頃、疲れやすくなって気を失う時間が、幾分短くなった。本当ならコンサートをするのは止めるべきかと思うが、僕がアリサと共演したいと言う願望から、止められずにいる。
「一平? どうしたの?」
「さあ、食べようか? いただきます」
「いただきまーす」

 曇り空の中、イブのコンサートは、盛大に開催された。父兄の面々。ファンの面々。そして、数は少ないが批評家やスカウトに来た人たちで、席数五百の講堂大ホールは埋まった。
 僕は、防音扉に隔てられた控室で、アップライトのピアノで指を動かしてオームアップに勤めていた。出番は、一番あとのいわゆるトリだが、一番心配したのはソコではない。果たして、アリサが最後まで持つのかが、不安だった。
 彼女は、本番にそなえて、今横になっている。眠っているか、目を閉じているだけなのか、それとも気を失っているいるのかは、実際に起こしてみれば分かるが、それはしないでって言われた。もしも、気を失っていたら、ダメージが残るかららしい。僕は、アリサが気を失っていないことを祈った。
 随分心配したが、出番十分前、アリサは目を覚まし、オーケストラとコミュニケーションを取り行った。僕が、ホッとして冷や汗を拭いていると、今回手伝ってくれる渡辺が呼びに来た。
「おい野島、時間だぞ?」
「ナベ。お前の顔を見ると、緊張が取れるよ」
「あー、そんなこと言っちゃって。いいよ、俺が弾くから」
「すまん、悪かった。このとおりだ」
「まったく、羨ましいぜ。さあ、本番だ」

 セルゲイ・ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番ハ短調作品18。
 不安ではじまったコンサートは、拍手に包まれフィナーレを迎えた。アリサが、僕の手を取って観衆に応える。
「ねえ、これだけの人があなたに感動しているのよ。来年は、留学したら?」
「いや、僕はこれで満足だよ」
 留学したい気持ちも幾分あったが、アリサを残して行くことはありえない。僕は、目をつむって歓声に酔いしれた。
 だが、次の瞬間アリサの手から力が抜けた。驚いて目を開けると、アリサが倒れていた。僕は、観衆から彼女を隠すように上着を掛けた。オーケストラのメンバーは心配顔で見ているが、声は掛けなかった。『大丈夫?』、『お大事に』。それらの言葉が、一体何の意味があるだろう? 無言で偉大な指揮者を見送った。

 僕は、アリサを背負って控室に入り、すぐに蝶ネクタイを緩めて、寒くないようにコートを着せた。帰り支度が整って立とうとしたとき、防音扉が開いた。
「ああ、渡辺? 心配ないよ、いつものことだから」
「違うんだ……」
「すみませんね。一平?」
「え? かあさん……」
「どれ、私に見せてみて」
 母はそう言うと、アリサの脈を取って、体温と血圧を測っている。誰が、僕の初舞台を、忙しい母に教えたかは分らない。だが、看護師の母が診てくれる。そのことが、心強かった。
 母は太っているが、さすがに手際はよく、命に対して真摯であることが感じられた。あとで知ったのだが、どこへ行くときもバイタルの機器を持って行くのは、災害時などにすぐに対処できるようにとのことだ。
「前からなの?」
「中学二年からだって聞いてる」
「脈がしっかりしているから、今は心配ないと思うけど……」
 母は、そのあとの言葉は言わなかったが、僕は乱暴に「分かってる!」と怒鳴った。
 冷たい雨が降る中、母はそのあとはなにも言わずに、僕にお金を渡して帰って行った。渡辺は、僕とアリサに傘を差してくれて、涙が出るほど嬉しかった。


 年が明けて後期定期試験の季節になった。アリサも僕も出席日数がたりなかったが、病気が理由なので特別に許され、ふたり共に進級した。そのことを掲示板で確認した。
「やっと終わったね?」
「アリサ。進級のお祝いと、誕生日プレゼントがあるんだ」
「え? なになに?」
「さあ、行くよ」
 訳の分からないアリサを用意していたレンタカーに乗せて、教会に向かった。白い洋風の建物が見えると、アリサは息を飲んだ。そして、控室に案内すると、顔をこわばらせた。
「駄目だよ。私は、結婚できないんだって」
「結婚じゃないよ。リハーサルだよ。特別にオーケーしてくれたんだ」
「ほんと?」
「ああ、本当だよ。さあ、どっちが着たい?」
 白いウェディングドレスと、白雪姫の衣装が並べられていた。結局、両方を見せて選ばせようと、妹と話し合ったのだ。
「うわー、白雪姫だ!」
「その衣装は、妹がオークションで買ってくれたんだ」
「私、これね!」
 アリサは、大事そうに衣装を抱きしめた。そのとき、控室の入り口が空いた。
「どうも、野島一平の妹の静香です。いやー、やっぱり白雪姫だよね? 女の子は」
「武藤アリサです。本当に、ありがとございます」
 アリサの目がうるんでいる。僕は、妹が仲良く衣装を着せようとしたとき、あわてて男子控室へ移動した。

 時間となって教会の誓いの場所に立ってベンチの奥に目をこらすと、アリサの両親と僕の母が揃って隠れている。僕の母だが、静香が説得に成功して出席してくれたのだ。
 そして、ベンチ前方に揃ったM音大のオーケストラが、高らかに白雪姫のテーマ曲『ハイホー』を演奏する中、七人の小人が式場に入って来た。アリサ扮する白雪姫も一緒になって踊るが、急に暗い音楽になって、老婆に化けた女王が、白雪姫にリンゴを渡す。そして、白雪姫はリンゴをかじり深い眠りに就く。
 僕は、王子の衣装で白雪姫を抱き起すと、唇にキスをした。だが、アリサはピクリともしない。
「おーい、アリサ。もう起きていいよ?」
 僕の背筋に冷たい物が走る。急いで胸の音を聞くが、なにも聞こえない。オーケストラの音が大きいのかと思い、脈を取ったが静かだった。
「アリサ! おい、アリサ!」
 僕は、懸命に心臓マッサージをしながら、「救急車!」と叫んだ。母も、太い身体を俊敏に動かして、脈を診るとマウスピースを着けて人工呼吸を繰り返す。だが、いくらやってもアリサは戻ってこない。僕は、アリサに馬乗りになって心臓マッサージを続けた。口には「アリサ! アリサ!」と叫んで、涙で前がよく見えない。それは、救急車が到着するまで続いた。
 サイレンの音が大きくなり、近くで止まった。
「おい、救急車が来たぞ」と渡辺の声がした。
「一平。降りなさい!」
 僕は、母の声にすぐに立ち上がろうとするが、立ちくらみを起こし倒れた。そのとき、アリサの両親の泣き顔が、目に焼き付いた。
「しっかりなさい!」
「心臓が止まって、何分ぐらいですか?」
 救急隊員は、瞳孔を確かめて、脈を取りながら言った。
「五分くらいです。その間、シンマと人工呼吸は続けました」
「もうしかして、医療関係者ですか?」
「はい、看護師です」
 その間、もうひとりの救急隊員がアリサの胸をはだけて、AEDの準備をして、白いパッドを心臓の対角線上に張り付けた。
「隊長。準備できました」
「下がってください。せーの!」
 ドンと言う振動が、足元に鈍く響いた。だが、AEDは心臓の鼓動を読み取らない。救急隊員は、AEDを見ながら心臓マッサージを続けて、心拍がないことを確認すると、再度AEDの電気ショックを掛けた。
「もう一度」
 電気ショック。心臓マッサージ。二分経過。心拍がないことを確認。救急隊員は顔を見合わせ、首を横に振る。その瞬間、絶望感に襲われる。
「今から、病院へ運びます」
 そう言って、救急隊員はストレッチャーにアリサをしばり付けて救急車に乗せて、アリサの両親と共に、すぐに病院へ向かった。その間も、救急隊員は心臓マッサージを続けた。僕は、母と共にタクシーに乗って、急いであとを追った。


十一

 アリサは、その後脈を取り戻した。だが、いつまでたっても意識が戻らなかった。医者に脳死だと言われても、アリサの両親も僕もそれを受け入れられず、永い眠りについているんだと言い張った。
 妹の静香が、もしかしたら王子さまがキスしたら、目覚めるんじゃと言ったが、僕がキスしても目覚めはしなかった。ただ、静かに呼吸をするだけだった。
 もしも、AEDが教会にあって、すぐに使えたなら、アリサは助かったかもしれない。しかし、いずれ発作が起きて、心臓は止まってしまっただろう。僕はそんなことを考えて、少しずつアリサの死を受け入れて行った。
 そして、アリサが倒れてちょうど十日後、アリサの心臓は鼓動を止めた。アリサの両親と僕は、その瞬間に立ち会った。
「野島くん」
「おとうさん……」
「ありがとう。ありがとう」
 アリサの父親は、僕の手を取って涙を流す。僕は、無言で頭を下げて、涙が床に落ちて小さな水溜りになって行くのを、意味もなくいつまでも見ていた。

 葬儀は、冷たい小雨の降る中、M音大近くの葬儀場で行われた。M音大生のみならず、一般の人々、それに音楽関係者が参列して、若き天才指揮者の死をいたんだ。
「それでは、皆さん。最後のお別れをしてください」
 僕が、最初に別れの言葉を掛けに行かせてもらった。
「アリサさん。僕たち、もう少しで夫婦になれたのにね……」
 僕の名前を書いた婚姻届を、白雪姫の衣装で着飾ったアリサの胸元にそっと置いた。それを、うしろから見ていた渡辺が、突然大声をあげて泣いた。僕は、彼の肩に腕を回して悲しみを共有した。あとの人たちも、婚姻届を見て皆泣いてしまい、アリサが結婚できなかったことを悼んだ。
 出棺のときが迫った。僕は、随行しようと立ち上がるが、アリサの母親の手によって止められる。
「野島さん。これでお別れしましょう? いつまでも、アリサのかわいい顔を覚えていてね」
 大勢の人達が見守る中、アリサを乗せた霊柩車は、両親に付き添われて、葬儀場をあとにした。そのとき、小雨は急に土砂降りなって、霊柩車を白いしぶきが包み込んだ。

 アリサの葬式のあと、僕は春休みで実家に帰省していた。なにをする訳でもなく、ただぼーっとしていた。すると、三日目に手紙が届いた。差出人は、武藤アリサ。僕は、自分の部屋に入って封を開けた。

拝啓、野島一平様。

 あなたが、この手紙を読んでいると言うことは、私は亡くなったと言うことですね。少々驚かせてしまいましたが、この手紙は母に出してくれるように頼んだのです。いつか目覚めない日が来ることを、薄々感じていましたから。
 けれど、私は悲しくありません。それは、あなたを見つけたからです。あなたの弾くピアノの音は、力強く、それでいて繊細で、私は一度で好きになりました。
 あなたは、私を天才と言いますが、あなたは一度ヒントを与えただけで、想像をふくらませて素晴らしい音楽を創り出します。
 だから、理解してください。あなたは、ピアノを弾いて世界に旅立つことを。

 けれど、私がいるからか、あなたは留学しないと言う。それは、嬉しくもあり、悲しくもあり、私を苦しめました。
 そんなときに、私が神に召されることは、きっと天の下した采配でしょう。
 だから、今すぐに留学の手続きをしてください。そして、あなたのピアノをもっと磨いて、やがては世界の人々へ素晴らしい調べを伝えてください。
 言っておきますが、あなたを見つけたのはこの私です。だから、時々私のことを思い出してください。それが、私の望みです。

 私は、二十年でこの世にお別れをしますが、天国へ行ってもきっとタクトは手放さないでしょう。そして、あなたが神に召されたとき、必ずや天国のオーストラであなたを歓迎しましょう。その日まで、お別れです。

 さようなら。私の愛した人。

二〇一八年一月一日。武藤アリサ、ここに記す。

 アリサの手紙を読み終えて封筒に戻すと、曇った空から太陽の日差しが差し込んで、まばゆい光が僕を包んだ。まるで、天に祝福されるように。
 僕に、どれだけできるか分からないが、やってみよう。手紙を机の引き出しにしまい、担当教授に電話を掛けた。
「もしもし、小笠原先生?」
「おお、野島か。どうした?」
「前に言っていたコンセルヴァトワールの試験、受けてみようと思います」
「やっと、やる気になったか。よし、まずは願書を出して……」


(終わり)

20180227-タクトを置いた君へ(再掲示)

20180227-タクトを置いた君へ(再掲示)

69枚。修正20200930。俺は、彼女の振るタクトの音に酔いしれた。だが、つぎの瞬間崩れ落ちる彼女。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-23

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著作権法内での利用のみを許可します。

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