冷祭

大枝 健志

  1. 青い
  2. 指先
  3. 腐血
  4. 黒を飲む

記憶は炎に巻かれ、消し炭の愛だけが残った。

群馬県のT市に住む絶世の美貌の持ちである高校二年生の榊 輪花(さかきりんか)は、六歳の時に両親を火事で失くし、以後榊家の養子として育った。彼女はいつも聖書を片手に一人で過ごしている。
狂信的な「ヤーヴェの御手」信者の家庭で「淫売の娘」と言われ育った彼女には何処にも居場所が無かった。家に帰れば待ち受けているのは異常性欲者の男と傍観者の女。外で友人を作ることさえ、認めてもらえなかった。
そして、その美しい容姿故に外の世界では彼女を狙う者は少なくなかった。
彼女が通う教会の神父・成瀬 明仁(あきひと)は過去、交通事故により妻と子供を亡くして以来自分の感情の在り処を探し続けていた。あの日以来、何をしていても、何が起きても、彼の心が突き動かされる事は無かった。
神の存在でさえも、神父として務めを果たしているはずの彼には遠い者に想えた。
ある日、孤独と無感情を抱えた二人は教会でとある秘密を作り出した。
誰の手にも触れられない、永遠の秘密を。

青い

「詩篇25-16」

 私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。

 世界一位のベストセラー「聖書」に書かれたダビデの言葉を、彼女は指でなぞった。何百回となぞられたその行は、微かに印字が薄れ始めていた。彼女の指は白く美しくしなやかで、大切なものを掴ませたら簡単に逃げられてしまいそうな程に頼りない。

 榊 輪花(さかき りんか)十七歳。

 群馬県T市で誕生。幼い頃に住んでいたアパートが火事になり、両親は焼死。火事の原因は不明だが、失火と思われる。輪花は両親が死亡して以降、生前両親と親交のあったアパート向かいに住んでいた「榊」家の養子として育てられる。兄弟はなし。
 群馬県立矢立高校普通科に通う二年生。誕生日は四月二十六日。
 性格は極めて内向的で、どのグループにも属していない。一人で過ごす事を好み、他者との接触を意図的に避けているように思われる。
 髪の線は細いが、丁寧に手入れされている漆黒のロングヘアは遠目でも輪花のものだと分かる。
 身長165cm。体重は40kg台と推定。部活は美術部。ただ、放課後の様子からすると活動はしていないようだ。幽霊部員と思われる。
 元の両親、現両親、共にキリスト教系新興宗教に入信している。
 切長の二重。細い鼻梁と薄い、橙色の唇。その容姿端麗な姿と細く長く伸びた脚に過ぎる人は皆、振り返る。
 しかしながら、処女と思われる。今まで彼氏の情報は無し。男友達の気配すら、なし。

「どうよ!?りんかちゃん最高じゃね!?」

 輪花と同じ学区域の青川工業高校の男子生徒達は輪花に関する情報を調べ回っていた。五月の放課後の教室。短く刈られた金髪頭の菅井 学(すがい まなぶ)が興奮気味に輪花情報をまとめた輪花の盗撮写真付きのA4用紙を二人にジャン!と見せた。
 輪花の写真は放課後、横を向いてバスを待っている立ち姿だった。
 男二人がそれを取り合うように眺めている。

「あぁー!ヤリてぇー……りんかっ!りんかっ!りんかぁっ!マージ!ヤーリてぇー!」

 冬に怪我で野球部を引退した坊主頭の横田 良太(よこた りょうた)は牙を剥き出しにした猿のような表情でそう叫んだ。

「おまえカノジョいんじゃん!この子さぁ、俺マジ好きだわぁ。ガースー、これコピーしてよ。ヤベ、マジしこりたくなってきた!あああっ!」

 棘のような固めた頭で垂れ目の寺島 真一(てらしま しんいち)は若さ故に生まれる無謀な性欲を抑えきれず、A4用紙を横田から奪い取ると股間に擦り付け始めた。
 菅井がその行為を止めに入る。

「ざけんなよ!マジきったねぇ!コピーしてやるから寺島チンコ出せよ。出して輪花ちゃんに見せて来いよ。ヤラセテクダサーイ!ってよぉ!」
「チンコ出して頼めばやらせてくれっかなぁ!?やっぱさぁ、これだけ綺麗でも所詮は女じゃん?チンコ見たら濡れんじゃない?すぐヤレっぺ」
「おめー馬鹿かよ!男がエロ本見るのとはワケが違うんだよ。女はそんな簡単に濡れねぇよ」

 横田が煙草に火を点けながら寺島の頭を引っ叩いた。放課後の教室に赤ラークの煙が舞う。
 菅井が、呟く。

「てかさ、何で彼氏いないんだろな。レズ?」

 横田と寺島が絶句し、横田がうなだれる。

「それは……えーっ、いや、勘弁してよぉ……お付き合い望みなし系?てか、やっぱ宗教絡みじゃね?不純異性行為はいけませんってさ、たまにババア共がキャンディ配ってんじゃん」
「あれ宗教なん?」
「知らね。同じようなもんだろ。けどさぁ!あぁ、りんかっ!」

 A4用紙を机の上に置き、寺島が退屈そうに顎に手をついて外を眺めた。不良ばかりの青川で放課後、真面目に部活動を行なっているのはラグビー部だけだった。
 茶色い巨大スクリーンの片隅で、水色の駒だけが右に左に忙しなく動いている。
 監督のホイッスルは壊れているのか、時折人の奇声のような音を立てて鳴り響いていた。
 その音が途切れると、寺島が呟いた。

「まぁ、どちみち……ヤレりゃいいんだろ?りんかをり・ん・か・ん・。なんてなぁ!」

 横田と菅井が咄嗟に目を合わせる。その様子に異変を感じた寺島が二人に目を向ける。三人の目が合った。しかし、出すべき言葉が出しにくい事だと悟り、誰も言葉を発しようとしない。
 奇声のようなホイッスルの音だけが三人の間に割って入ってくる。沈黙がしばらく続き、横田の指先から灰が落ち、制服のズボンを汚した。寺島が何かに気付いたように、顔を一瞬引きつらせた。

「え、おまえら……マジで?」

 二人はその言葉にどう返事をして良いか困っている様子だが、言いたい事は互いに理解していた。菅井が金髪頭を掻きながら呟く。

「ちょっと言わせてもらっていい?思いつきじゃないんだよ、計画っての?練ってたんだよね」

 その隣で、横田が何かを思いついた顔をした。寺島の目は横田の目元や口元では無く、無数に浮き作られた顔面のニキビ痕を捉えた。

「あのさぁ……立川タッチー先輩いんじゃん?ダブりの。」

 あぁ、あいつ。と二人は特に興味なさげな返事をした。

「タッチーさ、ウルトラバカだし普段クソ使えねーけど免許と車、持ってんだよね。しかもさ、ステップワゴン」

 菅井が何かに納得した様子で深く頷いた。

「ワゴンか……それならな。タッチーどうすんの?」
「え?最後で良くね?バレたらあいつが主犯て事にしようぜ」

 横田と菅井は「ぎゃはは!」と手を叩いて笑い声を上げた。寺島は戸惑いの色を顔に滲ませる。

「え?ヤバくね?いくら何でも、流石に引くんだけど」

 横田が床に落とした煙草を上履きで踏み消し、寺島を睨みつける。

「はぁ?何なん?オメーはノるの?ノらねーの?」
「いや……横田、ちょっと……流石にそういうのマズイって」
「はい出たー!正義マン!つーまんねー!マージ寺島つーまんねー。あーあ!ここで「漢」見せねぇなら一生一人でチンコ擦ってろよ!童貞がカッコつけるとかマジ、ダセーんだよ!」

 金髪頭を弄りながら、菅井が横田に便乗する。

「てかさぁ、何のために住所まで調べたん?オメーに話さなきゃ良かった。あー!バッカみてぇ。普段からヤリテェヤリテェって言ってっからさぁ、友を想って矢立の生徒会の奴フルボッコにして調べ上げたんだぜ!?俺の努力~!無駄の極み~!テメェ俺の努力返せるんか?なぁ?くさくさチンポ君?」

 しかし、寺島は二人に何を言われても気乗りしなかった。

「いやぁ、マジやめとくわ。俺には無理だわ。趣味じゃねぇし……興奮出来ねぇって」
「テメーの趣味なんか知らねーよ。俺らはヤっから。輪花の生マン観て写メ撮ってくっからよ。ガースー、帰ろうぜ」
「おう横田、マック寄ってく?」
「それよかラーメン食いてーんですけど。タッチーん家、寄ってみるか」
「ついでにPSのソフト、パクってくんべ」
「分かりゃしねーだろ。なんたってバカだし。あ、じゃあな、童貞くん。君は一生シゴいていたまえ!」
「おう!頑張ってチンポ擦ってさ、チンポに火を点けてくれ!童貞希望の灯火を!じゃあな。おまえにコピーは渡しません!ぎゃははは!」
「ええ……マジかよ……」

 横田と菅井が欲しかったのは寺島という仲間ではない。本当に欲しかったのは罪を犯す動機を突き動かす「勇気」だった。
 菅井が寺島を振り返ると、冷たい目で告げた。

「バラしたらテメー、分かってんだろ?」
「分かってるよ……分かったよ……」
「じゃあな。童貞マン」

 彼らの躍った声が廊下に響き、やがて消えた頃に寺島は溜息を漏らした。


「ローマ人への手紙6-23」

 罪から来る報酬は死です。
 しかし、神の下さる賜物は、 私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。
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 5月の放課後。ほんの束の間、西陽に照らされた歩道のオレンジと紫のコントラストが微かに夏を感じさせた。
 輪花は遠くからバスが来る音をやや尖った耳で感じ取ると、そっと聖書を閉じた。
 山に囲まれた地方都市特有の風景は斜陽が遮られ、紫に染まる。輪花は一瞬顔を上げ、馴染みの景色をその目で捉える。辿り着いたバスの熱気が眼前を掠める。
 輪花は「青い」と心の中で呟いた。

 輪花はバスに乗り込もうとするが前に並んでいた老婆は足腰が悪いのか、足を上げ下げしつつ中々バスに上手く乗り込めずに苦難している。ステップに近い障がい者用のマークがついた席に座る中年のサラリーマンがその姿に侮蔑の目を向け、如何にも迷惑そうに顔を顰めて見せた。
 輪花は老婆越しにそのサラリーマンをじっと睨む。その視線に気付くと、サラリーマンは慌てた様子で目を伏せた。
 老婆は輪花に振り返ると「ごめんなさいね」と弱った声で謝る。
 輪花が真顔のまま「いいえ……」と答えると、老婆はステップを上がり切った所で輪花を見つめたまま止まってしまった。老婆の右目は斜視だった。そして左眼は酷く濁っている。
 すると、老婆が突然輪花の腕を掴んだ。老婆とは思えない程に、力強い。
 老婆は微笑みながらも、口を震わせながら言葉を発した。


「あなた……あの……あなたは……。ね?そう……よね……?」
「バス発車します。お掴まり下さい。バス発車します。ドア、閉まります。」

 バスは老婆を急かすように発車した。輪花は老婆の言っている意味が全く分からず、面識も無かった為、老婆の腕を振り払い、離れた場所の吊革に掴まった。それでも老婆はステップの近くから微笑みながら輪花を眺めていた。
 まるで忘れ物を探しているうちに、そのまま何を探していたのかさえ忘れてしまった人のような顔をして。
 老婆の存在を意図的に搔き消し、輪花は悲しそうな表情で袖を捲る。貼られていたテープを剥がすと、ゆっくりと息を吐きながら二の腕を見つめた。
 傷が治り掛けている。
 生々しい痛みを覚えているうちに、消えぬうちに、輪花はまた「それ」が欲しくなる。

 乗り込んでから三つ目のバス停で老婆は降りた。ふと、車窓に目を向けると斜視の老婆と合わぬはずの目が合った。
 小さく、微かに手を振っているのが見えた。震えているようにも見えた。しかし、嬉しそうに笑っていた。
 その歯の抜けた口元は永遠に続く闇のようで、老婆の服の色は鮮やか過ぎる紫色だった。

輪花はバスに揺られ、吊革に掴まりながら夕闇に飲まれて行くT市内の景色を眺めていた。バスがいつものコースを変わらず走る。四角、丸、楕円、半円、三角。街には幾つもの、いつもの形が並んでいる。四方は山に囲まれ、一際高い丘の上に立つ観音像が影になって街を見下ろしている。
 吐き気を覚える程に見飽きた光景。しかし、他に目を向けるものなど何処にも無かった。
 最も、他に行ける場所など輪花には無いのだ。
 深藍に塗り潰された榛名山が、まるで街をゆっくりと飲み込んで行くように見える。「私達はここで生きている。だから飲み込まないで下さい」と山へ知らせて懇願するように、ひとつ、またひとつと灯りが増えて行く。
 闇に怯え続けて暮らし続ける事が、至福なのだとのたまうように。

 湿度を持った重たい空気は夏の匂いを運んでくる。バスを降りた途端に鼻腔をついた青臭い匂いに、輪花は思わず顔を小さく顰しかめた。
 先程の老婆は一体誰だったのだろう。記憶の何処を探しても輪花には見覚えが無かった。特徴的な斜視と、濁った目。歯のない口。老婆には自分とはまるで違う世界が見えているのかもしれない。また、自分も他人とは違う世界を見て生きているのかもしれない。そんな事を老婆は私から感じ取ったのかもしれない。
 そう思うと、厭らしいような笑みが零れた。
 少なくとも、喧しいだけの学校の人間達よりはあの老婆の眼差しの方が刺激的であった。

 輪花はそんな事をぼんやりと思いながら、頭上の濃灰が運ぶ雨の匂いで帰りを急いだ。

 榊 透(とおる)、香苗(かなえ)

 二人は輪花の義理の両親である。透は職場である市役所から帰宅すると着替えを早々に済ませて妻と共に輪花の帰りを待ち侘びていた。ダイニングテーブルの上にはあざみの花が飾られている。
 雨に打たれ始めた輪花は家路を急ぎ、呼び鈴を鳴らした。

「輪花です。只今、帰りました」

 香苗が非常にゆっくりとした足取りで、玄関まで出迎える。輪花の濡れた髪やシャツを目にすると、満足げに微笑んだ。

「輪花さん、おかえりなさい。雨、大変だったでしょう?今日はずいぶんと遅かったんですね。透さんが待ってます。お夕飯にしましょう」
「はい。雨に少し、降られました。部屋で着替えて来てもいいですか?」
「早くなさい。夕飯が冷めてしまいますから」

 家族三人暮らしの榊家での会話は、ほぼ敬語で行われている。輪花はあくまでも榊家の「養子」であり、「実子」ではない事を透と香苗は輪花が幼い頃から徹底して教育して来た。
 それには理由がある。
 輪花は制服をハンガーに掛け、ブラウスを脱ぐと二の腕の傷の具合を再び確かめた。切られた部分の周りが炎症を起こしたまま赤く膨らんでいる。
 出血が止まり、乾き始めて来た傷口。それは輪花の持つ滑らかな肌の白さと美しいコントラストを描いている。
 輪花は右の指を上げ、恐る恐る左腕の傷口に近づける。小指の爪をそっと傷口の上に押し当て、そしてスッと静かに這わせた。
 一瞬声が上げられなくなるような痛みが走る。「ここに傷がある」と、輪花に意識とは無関係に身体が主張する。
 この行為をした途端に、身体のやや下方にある芯が熱くなり始めるのを輪花は最近初めて知った。
 その熱は一度溢れ出すとゆっくりと速度を上げ、血の流れに乗り輪花の体内を満たして行くのだ。それは理性では理解し得ない身体の何処からか生まれる官能的な快感を探して巡り、やがて答えに辿り着くとそこで果てるまで容赦なく溢れ続ける。
 輪花は抗いようも無く答えに縋り、そして果てる為に身体と向き合うだけの存在となる。
 それは輪花の持つ理性で抑え込む事が不可能になるまでにそう時間の掛からぬ感覚であり、輪花は自分が持つ理性の容量の少なさに罪悪感を抱くこともあった。

 しかし「淫売の娘」という言葉を浴びせられ続けた輪花は、その言葉に言い訳と逃げ場を怒りと共に求める事もあった。
 指先がまだ身体を彷徨わぬうちに傷から目を逸らし、素早くスウェットに着替る。
 夕飯の食卓にはポテトサラダと豆腐ステーキ、わさび菜の炒めものとライ麦パンが並んでいる。
 リビングの灯りが食前酒のワインを飲む透の如何にも神経質そうな角張った頬に浮かんだ脂を照らしていた。
 宙を眺めながら腕組みをしていた透が黒縁の眼鏡を掛け直すと、一重の細い目をゆっくりと、輪花へ向けて声を掛けた。

「輪花さん。そこへ座りなさい」
「はい。失礼します」
「今日は遅かったようですが、何か用件があったのですか?朝、香苗さんには何も伝言は無かったようですね」
「はい。古典の授業でどうしても分からない箇所があったので、図書室へ行き調べものをしてました」

 透は腰を上げ、食卓に着く。自分では気付いていないのだろうか、透の加齢臭が輪花の鼻腔をついた。言葉を投げ付けるような口ぶりで透は続けた。

「図書室?それでこんなに遅かったのですか?何故教諭に聞かなかったのです?まず、分からない事をわざわざ指南する立場なしに調べ物をするというのは、何よりも効率が悪い。そのせいですか?今日の帰りがいつもより一時間も遅いのは?」
「はい。古典の先生が午後から急用で学校には居なかったので、自分で調べるしかありませんでした。調べ物が終わり、すぐにバス停へ向かったのですが…間に合わずに一本乗り過ごしてしまいました。大変申し訳ありません」

 輪花は真顔のまま俯いて答えた。

「ほう、ほうほうほう……それは本当ですか?まぁ……最も、君は父と母と似て、頭の出来もあまり褒められたものではありませんでしょうからね。嘘ではないのですね?」

 透は笑いながらも疑いの眼差しを輪花に向けた。輪花の薄く、小さな橙色の唇は僅かに震えたが、透と目を合わせながら言葉を発した。

「本当です」

 輪花は透に嘘をついた。

指先

 輪花は透の問い掛けに対し、生まれて初めて明白な嘘をついた。
 透は輪花の整った顔を眺めると、次に大人のそれと変わらない胸元に視線を移す。スウェット地の上から確認出来るはずの蕾に透は期待したが、今日は下着を着けているようだった。
 そのまま顔は戻さずに透は不機嫌そうに手元だけ香苗に向けると、空のグラスに赤ワインが注ぎ込まれた。
 しかし、輪花の震える唇に気付いた途端、透は満足そうな笑みを浮かべてワインを飲み込んだ。

 バスに乗り込む前の放課後。輪花は誰も居ない廊下の真ん中に立っていた。
 日中は何百人という生徒が行き交っていたその場所には何ら残り香というものがなく、ただそれを不思議に思いながら輪花はそこに立っていた。
 空気を睨みながら神経を集中させ、廊下の隅々から何の物音もしない事を確かめると輪花はトイレに入った。そして、静かに個室の鍵を閉めた。

 小学校三年の秋。輪花は今の保護者を始め、周りの大人達には内緒で近所の公園に捨てられていた黒茶色の子犬に餌を与えに行っていた事があった。尻尾を振りながら木陰から姿を現す子犬に会う度、輪花の小さな胸に訪れるのは大きな喜びと安堵だった。しかし、常に姿の見えない隠し切れない不安が輪花には付き纏っていた。
 この子はこの先どうなってしまうだろう?もしもこの事がバレてしまったら、私は酷く怒られてしまうだろう。
 毎日毎時間が不安でたまらなかった。学校にいる間、家にいる間、輪花はずっとその不安を抱えていた。
 しかし、それ以上に輪花は子犬と会える喜びを欲していた。
 毎日、終礼が終わると誰よりも早く教室を飛び出し、公園へと一目散に駆け出した。
 一週間後、子犬は居なくなっていた。
 給食の牛乳とパンをランドセルに詰め込んだまま、輪花は夜になるまで子犬を探して回った。
 結局、何処を探しても子犬は見つからなかった。夜遅くに帰宅した輪花に透は激怒のあまり、その小さな身体を鍵のついたクローゼットに閉じ込めた。
 子犬の失踪はきっと大人を欺こうとした自分への報いなのだ、と輪花は考えた。

 放課後。冷たい便座に腰を下ろすと、輪花は薄紅色の下着を膝まで下ろした。スカートをやや、たくし上げる。そしてその時、輪花は子犬に餌を与えに行っていた時の事を思い出していた。
 似ているのだ。
 高校二年の今。向き合うのは子犬では無く、身体の内側から溢れ出る熱い感覚だった。
 腕に傷を付けられた映像を手繰り寄せると、溢れ出た熱は勢い良く噴出し、身体中を一気に巡り始めた。
 指は彷徨いながらも、自然と己の身体を弄り始める。身体が辿り着きたい場所、そして言い訳を失くした理性との落差の間で指先は揺れ動く。
 息が詰まりそうになり、逃げ場を求めながら温度を上げた吐息が荒く吐き出される。それは輪花の持つ美しい容姿には余りに似つかわしくない、暴力的な吐息であった。
 息だけの叫びが女子トイレの壁を叩きつけた。反響した吐息の音を聴くと、輪花は咄嗟に利き手ではない左手の人差し指を噛んだ。指の間から漏れ出る息には僅かに唾液が混じり始めていた。
 意図的な悪意と欲望は、笑いながら輪花の肩をそっと掴んだ。掴まれた意識を感じつつ、逃れられない事に不思議と安堵を覚えた。
 その矢先、二人分の足音が輪花の耳に聞こえて来た。
 とっさに指を止め、無我夢中でトイレットペーパーを巻き取る。急いで拭き取ると、輪花は平静を取り繕う為に呼吸を整えようとする。

 足音は徐々に、しかし確実にこちらへ向かってくる。話し声も聞こえてくる。
 輪花はハンカチで口元を押さえた。
 聞き覚えのあるその声は輪花のクラスメイトの女子達であった。

「でさぁ、放課後カラオケ行こって言われたんだけどさ」
「へぇ?ミホちゃんじゃなくてミツルから?」
「そう。ここだけの話だけどさ、カラオケかと思ってついて行ったらいきなりラブホだよ?あり得なくない!?」
「え、待って、結局行ったの?」
「うん。まぁ行ったんだけどね」
「ちゃっかり行ってんじゃん、こりゃダメだ。ラブホなんて外から見りゃラブホだって分かるじゃん」
「待って、マジで待って!行ったけどさぁ、マジ最悪だったんだけど」
「どういうこと?」
「あいつ、部屋入っていきなり「ゴムつけなくていい?ヤル時は靴下だけ履いてて欲しい」とか言ってきてさ。マジでヤベー変態だったんだけど」
「うわぁ、あのミツルが?」

 同じクラスのギャルのミホと優等生のミツルが付き合い始めたという話は輪花のクラスメイトの誰もが知っていた。
 輪花にもその話は届いていた。しかし、今は特に興味もないクラスメイト同士のセックス話が耳に嫌でも入って来るこの状況に、輪花の中で生まれた熱は一気に失速し冷めていった。熱の残骸を躊躇いなく流すと輪花はふてぶてしく、そして冷めた目で個室を出た。
 長い髪がしなやかに揺れる。
 輪花は鏡の前に立つ二人の後ろを無言で通り過ぎた。ミホが振り返り、声を掛ける。

「輪花ちゃんじゃん!輪花ちゃん!」
「何?」
「手、洗わないの?」
「あぁ……廊下の手洗い場で洗うから。大丈夫」
「ここ使いなよ!」
「もう帰るから、いいよ」
「えっ?もう帰るの?遊んで帰ったりしないの?」
「うん、そうだよ」
「そっか、じゃあまたね!また明日ね!」
「うん、またね」

 ミホと一緒に居たショートカットのサヤが悪戯そうな笑みを浮かべている。

「ミホちゃんてさぁ、輪花ちゃん大好きだよねぇ。あの子、全然自分の事とか話してくれないけど」
「他の女だったらムカつくよ?けど輪花ちゃんはいいの!見てるだけで「あぁ、この子良いわぁ〜、素敵だわぁ〜」ってさ、思わない?」
「私は見てても顔面格差しか感じないけど、何食べたらあんな容姿になるのか気になる」
「はははは!だってサヤはマック病でしょ?」
「ファストフードは頭使わないで済むから楽なの」
「何、その屁理屈……」
「輪花ちゃんて、いつも何食ってんだろ」
「あの子、マックとか絶対行かないっしょ。多分ナチュラル?的なもん食ってんじゃない?」
「だよね、デブ要素ゼロだし。輪花ちゃんがマック行ったりカラオケ歌う姿とかさぁ、なんか想像出来ないよね」
「だけどさ、そこがまた良いんだよ!ミステリアス?」
「ミステリアスっていえばあの子さ、体育で着替える時は絶対部屋の隅っこで着替えるんだよね。でもこっち向いたままなんだよ」
「え?何それ……すっごい知りたい。めっちゃミステリー……輪花ミステリー……」
「ミホ、輪花ちゃんにゾッコンなの?」
「マジゾッコン!私、男だったら絶対ヤッてるね!マジで!輪花最高、たまんねぇ!」
「いや、ミホ、それはヤバい。っていうかミツルの話!全く……ミツルとミホ、どっちが変態だよ」
「輪花ちゃん見てるとオッサンの気持ち分かるわぁ。そうそう、それでさぁ」

 彼女達の声から遠ざかった輪花は、校門前の坂を下ると鞄の中から聖書を取り出した。ページを捲っているだけなのだ。時に、救いの為に述べられた言葉でさえ、重たく感じる事がある。
 帰宅した食卓。輪花の目が透の細い目を捉える。相変わらず、決して人を信じようとしない下卑た目をしている。
 また怒るのだろうか。また料理が冷めるのだろうか。またいつものアレが始まるのだろうか。
 輪花の胸には何度諦め切っても、産声を上げて絶えず生まれる絶望が押し寄せる。

腐血

 透は輪花に疑いの目を向けたまま、榊家の儀式とも言える夕食が始まった。透は輪花を見ながら呟いた。

「食事にしましょうか。さぁ、香苗さん。お祈りを」

 ソファの周りを片付けていた香苗が椅子に座り、食卓を眺め、そして微笑んだ。

「神様、そしてイエス様。今日も私達は平和に、諍いなく過ごす事が出来ました。感謝と喜びをお伝え申し上げます」

 すると透が目を閉じながら大きく頷き、再び輪花に目を向ける。

「輪花さんは……先日17歳になりましたね」
「はい」
「あの親達と違い、まだ生きてて良かったですね」
「はい……」

 輪花は俯いたまま答えた。頬から血の気が引いているのか、白い肌がより際立つ。
 透は酒の為に赤くなった鼻を擦りながら再び訪ねる。嫌味でいて、さらに粘ついた目をしている。

「この家へ君が来てから、何年……経つのかな?」

 輪花は「また始まった」と思う他無かった。こうなってしまった透を止められる人間は榊家には、いや、恐らくこの世界には誰も居ない。きっと神ですら透の前では無力であろう。

「私は……ここへ来てから11年が経とうとしてます。この命を引き取って下さったことを、毎日感謝しております」

 透がワイングラスを勢い良く空にすると、輪花にも届く酒臭い息で話し始めた。

「いいですか!?感謝するのは当たり前なんですよ!君は、ゴミ人間の子供なんですよ!?けれども、君は私達に対する奉仕が足らない!それは感謝がないからだ!」

 輪花が「申し訳……」と謝罪の言葉を述べようと口を開いたが、すぐに透が遮った。

「うるさい!黙れ!静かになさい!君がここへ来る前、君はゴミ人間の両親とかつてここの目の前にあったアパートに住んでいたんですよ。小汚いアパートでとかく景観が悪かった。せっかく香苗さんがせっせとガーデニングをしてくれてたのに、あんな汚いもんがあったために景観が全部!全部台無しでしたよ!」

 香苗が困り果てたような顔をしながら「本当にね……」と呟きながら何度も頷いている。

「燃えてくれたおかげで今は跡形もないがね。清々しました。小さな頃の事を君はまだ、覚えていますか?」
「はい」

 今日は「はい。」以外の返事は出来ない。輪花には従うしか術が無いのだ。

「あの汚いアパートでね、君はゴミ虫みたいな親に育てられてたんですよ。みたい?いや、みたいじゃないな。ゴミ虫だ!私は君の父親に頼まれて何度も何度も必死で働いて稼いだお金を貸してやっていた。この苦痛が分かりますか?隣人だからこそですよ!分かりますか?輪花さん」
「はい……」

 透はワイングラスをテーブルに叩き付けると同時に叫んだ。
 香苗が何処か楽しげな顔をしながら頬杖をつき、空のグラスにワインを落とす。

「はいぃ!?はい!?はい、と言いましたね!?はい!嘘だね!稼いだこともない癖に良くもまぁ!君はやはりあのゴミ親と同じ成分で出来ているらしい。ヤーヴェの御手の信者として人の心を汲まないというのは犯罪ですよ。ねぇ、輪花さん?」
「はい。私の生みの親が生前ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありません……」
「違う!フォルト!君の今の答え、完全にフォルトだ!他人事じゃないんだぞ!?自分の事はどうなんですか!?えぇ!?」

 透は歯を食いしばりながら輪花を睨み付けた。

「はい……私は、あのゴミ虫の親から生まれてしまいました。本当に申し訳ありません」

 その答えに透はようやく満足げな笑みを浮かべ、再び説教へ戻る。

「いいか?君の父親も母親も、本当にクズもクズだったんだ!君の父親は毎度毎度、わざとらしく足を引きずりながら私の元へ来たよ。今度こそ返しますからってね。君の母親は事もあろうに水商売を始めた。そして色んな男をあの汚い掘っ立て小屋に連込んでいたな。あれはそうだな、下着を汚す仕事だったのかもしれないな」

 香苗が「下着を汚す仕事」という言葉に、思わず噴き出した。

「アパートが火事になって幸い、君の父親と母親は死んだ。本当に喜ばしい出来事だったし、あの時、やはり神は見ておられると感じましたよ。ねぇ。輪花さん?」
「はい……」

 燃え盛る炎の中、父親が足を引きずりながら輪花に窓から飛び出るように必死に叫んでいた姿が目に浮んだ。
 そんな輪花の反芻を意図せず、透は楽しげに続ける。

「金は返さない。昼間っからセックスしてばかり。挙句、仕事もしない。あの汚い商売女の喘ぎ声なんか、しょっ中ここまで聴こえてましたよ。犬のようにね。ねぇ?香苗さん」
「ええ。思い出すだけで寒気が……。私達の耳に聴こえないように、モーツァルトを良く掛けてましたよね」
「よぉく覚えてるんですよ、輪花さん!君も覚えているでしょう。親のセックスしてる姿。見てるんでしょ!?」
「はい……私は怖くて、押入れに隠れていました」
「何を言うんだ?ガキの頃からマセてセックスを知っていた癖に。君もどうせ色情欲の悪魔なんだろ?性器の匂いで男を誘惑する売女の悪魔だ。しっかし!君を引き取った時、私は英雄になった気分だったなぁ!周りがあんな可哀想な子を引き取るなんて、って私を褒め称えてくれてたよ!私達が君を引き取った理由は、分かるだろ?なぁ?」
「はい……」
「なら説明してみたまえよ」
「はい。それは……クズの親から生まれた私を、私の親の代償を継いで責め立てる為です。これは私の親が悪魔であったのだから、仕方のない事です……。私には……責められる義務があります」
「そうだ。良いか?君は私達の子供なんかじゃない。世間にそんな風に思われたらならば吐き気がする。神のご好意とはいえ、貸した金も返さずに死んだ君の両親の代わりに、君がここに居る。君は生きて、死ぬまで私達に責められる義務がある」
「はい。その通りです」
「だったら何故今日は帰りが遅かったのですか」
「それは先程……」
「ふざけるな!分かってるならさっさと帰ってくればいいじゃないですか!学校の勉強なんかどうでも良いんです。ヤーヴェの御手の一人として、プラネットハウスに住める資格を持てるようにするのが筋でしょう?違いますか?」
「はい。その通りです。私の認識不足でした。透さん、香苗さん、神様の教育を無駄にしてしまい大変申し訳ありません」
「なら罰を与えましょう。どうも君は頭が悪いせいか、何回も何回も罪を繰り返し重ねますからね。親がバカだと子もバカなんですね!腐った血だ。これを「腐血」(ふけつ)と呼びましょうか!ははは!傑作だな!香苗さん!どうです!?輪花さんは腐血です!」

 頬杖を解くと香苗は両手を顔の前で合わせ、満面の笑みで透に言う。

「あら、とてもピッタリでユーモアのあるアダ名ですね!」
「そうだろう!?なぁ!?いやー、輪花さんにはピッタリな名前だ!輪花さん、いや、腐血さんは床でご飯を頂きなさい。ははは!ほら。君はどうせ人間では無いし、淫売をいくら磨いてもですね、人間にはなれないのですから。ほら、さっさと下ろす!」
「はい」

 輪花はテーブルの上の皿を素早く床の上へと移動させる。

「腐血さんは人間ではないのですから、道具など使わず犬食いして下さいね。人間らしい生活が出来るまでは……うーん……もう三歩程、奉仕の気持ちが足りない」
「はい。ありがたく頂きます。感謝します」
「感謝……してるように聞こえないのは何故ですか?香苗さん」
「きっと、心がこもってないのでしょうね」

 香苗が微笑んで答えると透は酒の為によろめきながら、その踵を輪花の背中目掛けて振り落とした。

「ほら!犬!喜んで食え!嬉しい顔して残さず食うんだ!嬉しい顔をしろ!」
「は……っ……はい……」

 テーブルの下から覗くと透の下半身と目が合う。そこが硬直しているのが分かる。輪花は心を完全に殺し、震える顔面の筋肉を無理やり従わせ笑顔を作ってみせた。
 頬の筋肉が突っ張り、痛みが走る。
 すると透が輪花を見下ろしたまま尋ねた。

「今晩の餌を与えてやる前に、君に質問があります」
「はい」
「君は…………今月、生理は来たのですか?」
「いえ。まだです」
「ふうん。予定より3日も遅れてますね。売女の娘ですからね。何処でどんな種をもらってくるか分からない。神に背いて、いっつもしてるんでしょう?」
「何を……ですか……?」

 輪花の作り上げられた表情が一瞬曇る。

「だから!どうせ神に背いてセックスしてるんでしょう?その見た目で男を騙して、誘惑して、毎日毎日セックスしてるんじゃないんですか?だから今日帰りが遅かった。違いますか?否定出来ないでしょう?これが正解だ。白状した方が良いですよ?どうせゴミ悪魔の娘なんですから」

 一人で「する」あの感覚の話ではなく、セックスの話か。なんでこんなにもこの人は短絡的なのだろう、と輪花は呆れ返る。

「私は神に誓って言えます……一切交わりの経験はありません」
「信用なりませんね。聖書にもあるでしょう?悪魔は人を欺くのが上手いですから」
「本当に……ありません……。」
「…………君は本当に親に似て嘘をつくのが下手だ。……さぁ、楽しい楽しい食事の時間にしましょう!」

 頭上から聞こえるナイフやフォークの音を聞きながら、輪花は床の上に並べた皿の上のものを顔面を動かしながら食べる。
 輪花はその動作に既に慣れていた。
 そして心を殺し慣れ、こんな状況でも今はもう何も感じなくなっていた。昔、初めてこの食べ方をした時に覚えた強烈な感情さえも、今は思い出せない。

 その年の初め、輪花は生理が来た際いつものようにトイレの片隅に置かれたゴミ箱へナプキンを放り込んだ。
 その日は特に量が多かった。頭痛と腹痛に悩まされながら次にナプキンを取り替えた際にゴミ箱を開けると、ナプキンは忽然と消えていた。
 しかし、香苗が掃除に来た気配は無かった。
 その翌月から透は輪花の周期が訪れる辺りで生理の有無の報告を求めるようになった。

 食事を終えると輪花はすぐにトイレに駆け込み、無意識に抱えたストレスの為に全てを吐き出した。胃が痙攣するまで吐き出し、右手の人差し指と中指は唾液に塗れた。
 透と香苗が楽しげに会話している声がトイレにまで響いてくる。
 次第に後頭部が鈍く痛み出してくる。偏頭痛だ。しかし、ヤーヴェの掟で薬の使用は極力控えるように言われていた。
 頭を襲う激しい痛みに悶えながら、輪花の耳に届く透の声はまるで呪いの様に、一晩中鳴り響き纏わりついた。

黒を飲む

 光りを弾き飛ばす黒塗りのベンツ。その後部座席に座る少年は、虚ろな目でかつて通っていた母校を眺めていた。運転席の男が前を向いたまま、少年に声を掛けた。

「おい。もう、いいか?」
「うっす、行って下さい」
「返事は「はい」だろ、馬鹿野郎。根津さんにドヤされんぞ」
「はい、すいません」

 車を発進させようと男がシフトをDに入れた途端、少年が男を止めた。

「あの!ちょっとだけ、いいすか?」
「あぁ?何だよ」

 少年はウィンドウを下ろすと、かつて後輩だった一学年下の二人組に声を掛けた。

「よぉ!ボンクラぁ!」
「達矢先輩っすか!帰って来てたんすか!」

 窓から顔を出してニヤける達矢に駆け寄ったのは横田と菅井だった。

「おう、こないだ出てきたばっかだよ。今日から俺も晴れてヤクザもんよ」

 菅井が興味ありげに目を輝かせる。

「マジッすか?ベンツかっけー……」
「だろ?乗りてぇか?なぁ?」

達矢が楽しげに菅井に言うと、運転席の男は堪らず舌打を漏らした。菅井は金髪頭を掻きながら首を振った。

「いや、自分は……てか、筋モンとかハンパないっすね」
「まぁな、いつかテッペン取ってみせっからよ。じゃあな」
「うぃーっす!失礼しやーっす!」

 黒塗りの車がゆっくりと発進すると、二人は車が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
 顔を上げた途端、横田が菅井の脇腹を肘で突ついた。

「おい、たっつん戻って来たとかシャレにならねぇんだけど」
「しばらくは部屋住みとかなんじゃねーの?まぁ俺らは普通の高校生やってれば関係ないっしょ」
「でもさぁ、ヤベーよなぁ……」

 元暴走族で青川の生徒だった達矢。彼は一年程前、対抗勢力だった暴走族の総長をバットで滅多打ちにし、川に投げ捨てた。日頃から薬物などを使用していたという噂もあった為、暴走した達矢を止める事の出来るものなど誰も居なかったのだ。
 ぴくり、とも動かずに川に浮かぶ相手側の総長を見て、達矢は後輩に写メールを撮らせてその場で笑い転げていた。
 幸いすぐに救助された総長は命に別状は無かったものの、右足に麻痺が残る程の重症を負った。そして、達矢はすぐに逮捕された。

 事務所で達矢が便所掃除の手ほどきを受けている間、若頭補佐の根津が会長席で鼻の脂を取り続けている高井に呟いた。

「良いんですか?あんなの入れちゃって」
「おい。良いですかも何もよ、根津君の紹介だろ?何言ってんだ」
「そうなんですけど、想像以上に舐め切った奴なんで……」
「まぁ、鉄砲玉にするか何かしら、使い道をはあるだろ。うちは別に更生施設じゃねーんだ」
「はい。会長、後であいつに釘打っておいていいっすか?」
「んなもん、そりゃあ根津君が勝手にすりゃいいよ」
「ありがとうございます」

 根津の目には達矢が過去を反省し、更正をしているようにはまるで見えなかった。薄ら笑いを浮かべながら、手解きをする若衆の言う事に「うす、うす」と軽々しく返事をしている。
 根津は達矢の背後にそっと立ち、便所掃除の様子を眺める。達矢は同じ箇所を繰り返し擦り続け、汚れ具合も確かめずにコックを捻って水を流した。水が勢い良く流れ出すと同時に、根津が達矢の後頭部を思い切り蹴り上げた。達矢は便器に顎を強打し、その場に蹲る。

「テメェ……さっきから何ニヤニヤしてんだ?」
「してねっす……」
「手ぇ抜いてんじゃねぇよ、遊びじゃねぇんだぞコラァ!」


 怒声を上げた根津は達矢の首を掴んで両手で締め上げた。

「おい、今度ナメた真似してみろ。ここ年少でも学校でもねぇんだ。覚えとけ」
「は……はい……」

 根津は投げ捨てるようにして達矢を離し、元の部屋に戻って行った。達矢は心の中で「クソ野郎」と呟くと、血の混じった唾を便器に吐いた。

 ヤコブの手紙 4章2-3節

 得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです

 朝起きてすぐ、輪花は窓の外を眺めた。かつて自分が住んでいたアパートは駐車場と化し、幼い日の思い出の欠片すら掴む事さえ不可能となっていた。
 私は、何が欲しいのだろう。何が、与えられたいのだろう。その日まで、その答えは輪花の中には無かった。逃れられない苦しみの日々は輪花の心を閉ざし、そして硬いものへと変化させていった。
 男性器を硬直させながら怒鳴る義父と、その隣で微笑む義母。テーブルの脚の底に溜まった埃を眺めながらの食事。輪花に対する罰のつもりなのだろうか、その場所以外の何処を指でなぞっても、指先には埃ひとつ残らなかった。
 日曜日の集いが教会で行われたその日、輪花は「残って聖書の勉強をします」と透と香苗に伝えた。誰も居なくなった教会で、輪花はカッターナイフを取り出した。迷いながらも、それを手首にそっと当てた。
 深く、そして素早く動かせば全てを終わらせる事が出来るかもしれない。失敗したならば、きっと透や香苗は今まで以上に自分の事を責め立てるだろう。
 失敗する訳にはいかなかった。刃を立てた白い手首を眺めていると、真正面に誰かの気配を感じた。神父の成瀬だった。長髪をひとつに縛り、冷淡とも言えるほどに冷たい目をしている。
 集いで聖書に纏わる話をする際も、子供達と話をする際も、笑顔と言うものを人に見せたことがない。ただ、淡々と静かに物事を語る神父だった。
 ゆっくりと輪花の元へ近付くと、神父は輪花の手からカッターナイフを静かに奪い取り、呟くように輪花に話し掛けた。

「ミス輪花。今、苦しいのですか」
「……」
「そして、逃げたいのでしょうか」
「はい」
「分かりきっている罪ならば、それは決して自ら重ねてはなりません。罰を与えられるのはあなたです」
「はい」
「しかし、苦しみを感じられる事もまた、神が与えた喜びの一つにも成り得ます。苦しむ事の出来る人は幸いです」
「申し訳ありません。迷いが……私をこうさせてしまいました」
「いや、人は弱いんです。そして、脆いのです」

 成瀬は悲しげな顔でカッターナイフを輪花の二の腕の上に真っ直ぐ立てると、静かにそれを動かし始めた。肉が千切れる音がみち、みち、と小さく響く。白い肌の下からピンク色の肉のような物が見えた矢先、赤が滲み始めた。輪花は歯を食い縛りながら痛みに耐えていたが、何故抵抗せずに耐えたのか自分でも分からなかった。
 そして、今まで自分自身で知る事の出来なかった熱が身体の中から湧き上がって来るのを感じていた。痛みを感じ始めると熱は強くなり、輪花を支配して行った。
 3cm程切った所で刃は止まった。ピンク色の裂け目から薄っすらと染み出し始めた血液を、輪花と成瀬はただ黙って眺めていた。

「あなたの罪は、今はもう私の罪になりました。罰せられるのは私です」
「そんな、私の為に……」
「いいえ、私の為です。あなたはどうか幸せな人であって下さい。今、手当てをします」

 染み出た血液は表面張力を超えて、白い腕に零れ落ちた。流れ出た赤色が輪花の肌を通し、命の温度を伝えている。十字架を眺めながら、輪花は身体は生きているという事を実感した。そして、身体の芯の奥底から湧き上がった熱に、生きているという実感は性と混ざり合いながら溶けて行った。
 熱とはまるで対照的な成瀬の冷たい目が、輪花の傷口を手当をする為に開けた薬箱を見詰めていた。

 およそ十年前のゴールデンウィーク。当時、会社員として勤めていた成瀬は妻と小学校に上がったばかりの息子を乗せて泊りがけの旅行へ行く為に車を走らせていた。
 運転席の成瀬が、明朗な声で息子に訊ねた。

「コウ、学校ではどんな友達が出来たんだ?」
「んーっとね、良く遊ぶのはみっくんと、山ちゃん。みっくんはサッカー上手くて、山ちゃんはすっげーデブ!」
「ははは!皆と仲良くやれてるか?」
「うん!早く学校行きたいもん。長い休みなんていらないよー!」
「そっか、コウは偉いな。お父さんな、昔勉強が苦手で学校行くのが嫌だーって泣いた事あったんだ」
「えー!?お父さんだっせー!」

 息子の言葉に妻が笑いながら言った。

「お父さん、昔っからすぐに駄々こねるのよ?いっつもそう。ね?」
「大人になっても嫌なもんは嫌なんだよ。仕方ないだろ」
「まだ納豆食べられないんでしょ?」
「いいじゃないかよ。あんな臭いの食わなくたって死なないよ」

 鼻をつまみながら、息子ははしゃいだ声を上げた。

「くっさーい!けど納豆ってチョー!ウマいじゃん!」
「無理無理、コウの味覚は沙織に似たんだなぁ」
「あなたの方が子供なのよ。あ、そうそう!今晩泊まる宿なんだけどね」

 妻の言葉に耳を傾ける。成瀬はズボンの後ろポケットに突っ込んだままの煙草を取り出そうと、シートベルトを緩めた。次の瞬間、突然車内に轟音が鳴り響き、視界の端から端までの全てが一瞬にして砕け散った。何か大きな物体が頭上スレスレの場所を飛んで行った気がしたが、実際に飛んでいたのは成瀬本人だった。歪んだフロントガラスを突き破り、車外に放り出されたのだ。路上に投げ出されてからそのまま気絶したようで、意識を取り戻し、目に映った光景が成瀬の心をたちまち打ち砕いた。
 横転するトレーラーのすぐ横で、自分達の乗っていたはずだった車は黒煙を吐きながら激しく燃え上がっていた。「熱い」と、悲鳴のような声が数度聞こえたかと思うと、その声はすぐに聞こえなくなった。
 考えたくは無かったが、妻と息子が車の中に取り残されているのかもしれない。そう思い、必死に身体を動かそうとしても、指先一つまともに動かなかった。声を出そうにも、枯れて掠れた息しか出ない。それからすぐに到着した救急隊に担架に乗せられると、成瀬は再び意識を失くした。

 勤めていた会社を辞めると、成瀬はマイホームを売り飛ばし、実家へ帰った。そして、散々嫌がっていた「家業」を継ぐ事を決意した。成瀬を動かしたのは父の説得の言葉ではなく、ある者の小さき姿だった。
 やがて、妻と息子を同時に失くした成瀬は神父になった。しかし、心はついに元の形には戻らなかった。

冷祭

冷祭

祈り、願い、そして乞え。やがて、孤独の擦れる音を聞け。

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更新日
登録日 2019-05-15

CC BY-NC-ND
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