余命花


甘い、花の良い香りがした。
ふと縫物をしていた手を止めて、窓辺の方へ視線をやる。
昼の暖かな光の下、一輪の白い百合が揺れていた。鮮やかな緑の茎。純白で柔らかそうな花弁。――今日も相変わらず美しく、ひどく無垢そうに佇んでいるものだ。
私の残りの寿命は、この花が散り、枯れ、朽ちてしまう時まで。
そう、この百合を見せられ医者に言われたのはいつの事だったのだろうか。
ただ初めは御冗談を、と笑った気がする。けれど、医者は真剣な顔をしてそういう病気なんだと私をどうしても退院させてくれなかった。通常の病棟とは少し離れているひっそりとした病棟に私の寿命だと言われた百合と共に入れられ、暫くを過ごした。花は水もやらず、何もしなくてもずっと同じ状態のままで医者の話を信じる資料として奇妙で十分だったが、体の調子は何も変わらなかったので、平常と変わらない心持ちで過ごしていた。
そんなある日、廊下で青いチューリップを抱えた少年に出会った。肌白く整った顔立ちをしていたその少年に似合う、真っ青なチューリップだった。チューリップといえば、赤、白、黄色で私は青いものは見たことが無かったから、思わず声をかけた。自分と同じような境遇で、お互い時間を持て余していたのでそれから毎日適当な話をしていたんだったっけ。人と話すのは好きじゃない私にしては珍しい事だったかもしれない、もう随分昔のようではっきり覚えていない。
ただ、ある日少年が見当たらなくなったのだ。その次の日も、次の日も。一方で、私の百合は、相変わらず元気に咲いていた。
嫌な予感がした。
自分の病室を出て、足早に少年の病室へ向かった。何人かの白衣の人達がその病室に屯しており、人の間と扉の間から最初に見えたのは青色。
寝具の上、一面に咲き誇る暗闇の深海のような青のチューリップの中で少年が眠っていた。
横で誰かがぽつりと「綺麗な死に方」と言っているのが聞こえた。
確かにその光景は綺麗だった。少年は痩せていて肌も青白い死人だったけれど。どうやらこの病気で死んだ患者の死体はそういう風になるらしい。
私の頭に焼き付いた光景は、同時に病気が真実であるというどうしようもない現実を私に突きつけるものだった。
その次の日、彼が病院を出ようと行った。あまりにも突然の事だったけれど、彼がその事を医者に言うとあんなに頑なに退院を拒んだ医者も何も言わなかったし、私ももうそこにはいたくなかった。それからは彼と二人でこの深い森の中の家で暮らしている。
「美代、何してるんだ」
「奏太さんのシャツの牡丹が取れていたから、付けていただけ」
「…無理はするなよ」
ここに来てからも特にやる事がなく時間を持て余していた。
「無理なんてしてないよ」
体の調子も特に変わらなかったから、家事をして、彼と話をして、花の事なんて忘れてしまいそうな日常を過ごしていた。


甘い、花の匂いがした。
同時に、心臓を何かにひやりと掴まれた気がして飛び起きた。
横で寝ていたはずの奏太さんがいない。辺りは真っ暗闇の深夜だ。唯一、窓辺から差し込む月光の中百合の花だけが輝いて…。
そこで、視線を移して、気が付いた。
花弁が、一枚落ちている――いや、一枚じゃない、二枚だ。月明かりに照らされたそれらはひどく虚しく、地面に放り出されていた。
どくん。自分の心臓の音が聞こえた。まさか、とうとう、そんな。青い海の中で眠っていた少年の姿が脳裏によみがえる。
頭が真っ白になって夢中で花の元へ立ち上がろうとして、ベッドから降りようとした。
「あ、れ…」
立てない。あれ、立つ時ってどうするんだっけ。足にうまく力が入らない。まるでただの棒になってしまったみたいだ。どうしよう。胸が冷えていく。血の気が引いていく。
「っ…!」
躍起になって立とうとして、ベッドから落ちた。床に打ち付けた体が痛む。でも、今はそんな事はどうでもいい。花が…!
「美代!」
花に伸ばそうとした手を掴んだのは、愛する人だった。何処に行っていたの。床を醜く這うようにしていた私の体が起こされて、抱き寄せられる。
「奏太さん、花びらが、花がっ」
「美代!落ち着けっ」
「でも二枚も、それに私立てなくなったの、うまく力が入らないの」
彼の温かみに触れた瞬間、死への恐怖が堰を切ったように溢れ出した。
少年の死を見た時に、確かにこれは本当の事なんだと自覚はしたはずだった。けれど、ずっとふわふわとしていて、実感が湧かなかった。でも、本当なんだ。今ならわかる。私の心臓と百合の息吹は繋がっている。
「死にたくない…」
このまま一生貴方の腕の中にいたい。
あの少年のように「綺麗な死に方」なんてしなくていい。どんなに醜く死んでも良いから、ずっと貴方と一緒に居たい。
「大丈夫…美代は、死なないから…俺が――死なせないから」
背中に回された腕に力がこもる。
悪い夢を見た子供のように震える私を、彼はずっと離さなかった。

***

美代の寿命は、この花が散り、枯れ、朽ちてしまう時までだ。
胸の中でやっと眠りについた彼女の頭を撫でながら、花弁を欠けさせてもなお月の光を受け薄情に咲いている花に視線をやる。
その病気の話を聞いた時から俺はその病気について血眼になって探した。初めはもちろんこんな話あるわけないと思った。けれど、嘘にしてはあまりに手が込みすぎている。病院に隔離された美代が退屈だから何処にも行かないでと言ったが、美代を失うわけにはいかなかった。
まず医者に問い詰めた。しかし、はっきり分かっていないと歯切れが悪く、原因不明、治療法がない、と既に知っている事しか教えてもらえなかった。
だが、なにせ希である上に、公にはされてない病気だ。はっきりとした資料はどんなに探しても見つからなかった。
やっぱりあの医者だと思った。少し脅して、問い詰めてみた。俺の読みは当たったようで、許してくださいと言いながら、機密事項に当たるようなことをべらべらと喋ってくれた。
ただこの病気の歴史だとか原因だとかそういったものには興味はない。
重要なのは美代が死なない方法。
それは人の血で、花が生き長らえるというものだった。誰の血でもいい、とにかく人の血液を花に与えることで延命するらしい。
半信半疑だった。けれど、今更そんな嘘をついたってメリットなどない。
とりあえず、初めは自分の血で試した。
切りつけた腕から流れる血、生の証明を。最初は、一滴、垂らしてみた。
すると、一瞬赤色がその真っ白な花弁に広がったが、すぐにその赤色は純白に馴染んでいくように消えてしまった。心なしか花が生き生きと輝いていて、あの時の不気味さは今もよく覚えている。
その後、何度も自分の腕に切り傷をつけては繰り返した。美代には見つからないようにした。彼女は優しいから胸を痛めると思ったからだ。
その成果のおかげか、今迄こんなに長い事花がずっと同じ状態でいたのだと思う。医者から聞いたより遥かに長い時間、初めの状態を保つ事が出来た。
けれど、昨晩――とうとう、花が散り始める時が来た。こんな日が来るだろうという事はなんとなくわかっていた。医者も特定の一人の血をずっと与えているだけでは、効力がなくなると言っていた。つまり、俺の血じゃもう駄目で、他の人の血ではないと駄目だという事だろう。
大丈夫だ、そのためにこの人気のない山奥まで移ってきたんだ。
花弁が落ちたあの夜から、美代は日中寝たままぼうっと花を眺めているようになった。
そんな美代を見ていられなくて、美代が寝ている間に街へ降りた。
そこで、平たく言うと、人を殺した。
うまくやれそうな奴を探して、跡を追いつかれないようにして。新鮮な血液を手に入れた。
他人の血を花に与えるのはその日が初めてだった。美代が寝ている横で花に血を注いだ。いつも通りに花は素早く吸収していった。むしろ、いつも以上に生き生きと貪っているように見えた。
「奏太さん、私今日は物凄く調子がいいの」
次の日、目が覚めた時目を見張った。立ちあがれないと言っていた美代が立っていたからだ。顔色も良く、微笑む顔は紛れも無い元気だった頃の彼女だった。花の姿は元には戻っていなかったが、血の効果が出たんだと、胸が躍った。
その日は、本当に幸せだった。久々に二人で外を歩いて、抱きしめあって、笑いあった。
でも、次の日からまた美代は床に臥してしまった。
それから美代は一向に良くならなかった。むしろその逆で、最近は体が動かないに加え、眠気がすごいと1日のほとんどを眠って過ごしているようだった。こんなにたくさん血を、与えているのに。もっと、足りないのだろうか。
「最近花の匂いに混ざって、よく血の匂いがするの」
ある日目を覚ましていた美代がふと呟くように言った。前から美代は甘ったるい花の匂いがいつも鼻につくと言っていた。
「血の匂いは、気のせいだろう」
「…そうよね」
俺には美代の言う花の匂いは分からない。分かるのは、両手に染みついた血の匂いだけだ。
大事な大事な美代。俺には君しかいないんだ。
ずっとひとりだった。今だって俺には美代しかいない、美代しかいらない。
だから、君の為なら何だってする。君の傍に居られるならなんだってしよう。

花が朽ち、命が尽きても。
俺は君を、。

***

甘ったるい花の匂いと血の匂いが混ざった匂いが鼻腔をついて、目が覚めた。最近寝ていても起きていてもいつもこの匂いがする。

今思えばあの夜はただの悪夢の始まりに過ぎなかったのだ。
あれから、私は一度も立ちあがる事が出来なくなった。毎日を寝たきりで過ごし、花から目が離せなくなった。ベッドに身を沈ませ、食事も食べられなくなって、ひたすら花を見て、朽ちないようにと願うだけの日々。自分の命が目に見えるというのはこんなにも、怖いものなんだ。
寝起きのままゆるりと寝返りを打ち、体を起こそうとする。
「無理に起きなくていい」
「起きたいの」
そう言うと、彼は心配そうな顔をしながらも私が体を起こすのを手伝ってくれた。
「今日もちょっと街に行ってくるよ」
「…出来るだけ、早く帰ってきてね」
「ああ。美代は、何も心配しなくていい」
微笑んで言うと、私を抱きしめて彼は出て行った。
静かになった部屋で、窓辺の百合を見る。こないだまた花弁と葉がまた少し散って、随分中途半端な姿になってしまった。
また彼は躍起になって、街へ行くのだろう。
私は彼がしている事に気づいていたし、知っている。といっても、気が付いたのはこの家に移ってからだ。でも、彼が私を思って隠してくれているのも知っていたし、彼も私が知っている事に気づいているだろう。それに、私は無実の他人の犠牲を知らない振りをしてでも、貴方と一緒にいたいと思ってしまうようになっていたから。何も言わず、帰りを待つようにしていた。

しかし、その晩彼は帰らなかった。次の晩も帰ってこなかった。
早く、早く帰ってきて。
貴方が居ない間に花が散ってしまったら私は、私は。
そう恐怖に押しつぶされそうになっていた時、玄関の方で物音がした。
「奏太さん…?」
直ぐにでも玄関に駆け出したかった。急いだ気持ちとは正反対に体は鉛のように重く動かず、もがこうとしてもベッドに沈んでいくだけ。でも、そうしているうちに足音が聞こえてきた。きっと彼だ。
「美代…悪い…遅く、なった」
ドアが開いて、暗闇から聞きなれた声が耳朶を揺らす。
しかし、外から差し込んだ月光に照らされ、彼の姿が明らかになった途端衝撃が走った。
「奏太さ…!?」
確かに紛れも無い奏太さんだった。
でも、彼は血塗れだった。いつもの花に混ざった血の匂いではなかったのか。私は何かを考える前に、彼の元へ駆け寄ろうとした。案の定ひっくり返る視界、しかし、彼が抱き止めてくれた。が、私を受け止めた奏太さんもずるずるとその場に座り込んで、動かなくなってしまった。
「一体っ…何があったの」
彼の身体に震えながら手を回すとぬるっとした感触が手に伝わる。
「少し…へまをした」
私に寄りかかり、彼は息も絶え絶えに答える。
「…花に…血を…」
こんな時でも彼は花に手を伸ばそうとしていた。
髪にかかる彼の息が、細い。もはや、体に染みついている血が彼の血なのかその他の血なのか、どちらともわからない。
彼は、もう死ぬだろう。
そう思った瞬間、私の心の中にあった恐怖だとか迷いとか、そういったものが全部消えていくのを感じた。なんて、くだらない、全部いらないものだったんだろう。貴方さえ、いれば、それでいいのに。
「奏太さん、ごめんなさい、私の所為で」
「…!」

私を止めようと伸びた彼の腕は宙を舞い、
大事に、大事にしていた私の命を、
私の手で握りつぶした。

「もう、いいの」

くしゃり。
ああ、命が終わる音だ。なんて無残であっけない音なんだろう。
折れた茎、葉、地に堕ちた白い花弁は血だまりに沈み、深紅に染まりゆく。
心臓を何かが突き抜けたような気がして、体の中が静かになって止まっていく。

初めから、貴方と一緒なら何処でもよかったのにね。
花が朽ち、命が尽きても、貴方との関係だけは永遠に変わらないのだから。

『愛している』

そう、ふたりで微笑んで。貴方を抱いて、抱かれて。
ふたり、いつまでも、ずっと、このまま。


―――翌朝、深紅に染まり、寄り添いあったふたりの周りには、純白の百合が広がっていた。
             

Fin

余命花

2015年6月

余命花

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-05-14

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