ホムンクルスの名前
錬金術師ジョシュア・マーベリック
深い森に囲まれた小高い丘の上に、木造の小屋がある。錬金術師ジョシュア・マーベリックはそこに一人で暮らしていた。父親は彼がまだ幼い頃に家を出ており、母親は既に他界していた。彼は名高い錬金術師であった父親の技術を受け継いでおり、それを生業にして生活していくことが出来ていた。街に赴き仕事の依頼を受けては、小屋で錬成し、依頼品を納品する日々。彼は錬金術を使うだけで楽しさを感じる人間であったから、毎日に退屈を覚えることはなかった。
そんな日々の中で、彼が唯一困っていることは、自分の身の回りの事に無頓着であることだった。洗濯物は一週間分溜めるのは当たり前で、風呂も二日に一回しか入らない。食事も一日に一食しか取らないこともあった。掃除するのも面倒なため、彼の部屋はいつも汚れていた。錬金術によって生み出されるありとあらゆる物質が、床に散乱しているような始末である。
ある日、ジョシュアはとある錬金術師仲間から届いたら一通の手紙を受け取る。
手紙の内容は、ホムンクルスの錬成に成功したというものだった。
ホムンクルスとは、錬金術によって生み出される人工生命体のことで、ジョシュアも耳にしたことはあった。生まれながらにしてあらゆる知識を持ち、その姿は赤子よりも小さいという。ただ、フラスコの中でしか生きられないという話から、彼は「そんなところでしか生きられないなんて可哀想だ」という理由で手を出していなかった。あとは生命を作り出すという行為自体が、もはや神の領域であり、人が触れてはいけない禁忌なのではないかという思いもあった。
そんな先入観を持っていたジョシュアであったが、手紙を読み進めていくうちに、少しずつ気持ちが揺らいでいることに気がついていた。
”私は完全なるホムンクルスの錬成に成功した。遂にかのパラケルススの偉業に達したのだ。否、私はそれさえも超えたと自負している。今、私の目の前でホムンクルスは自らの足で歩き、自らの手で私の仕事を手伝ってくれている。こんな成功事例が過去にあっただろうか”
手紙の内容にジョシュアは驚いた。これではまるで、人間のようだと思ったからだ。さらに手紙の内容を読み進めていくと、なんと錬成に必要な素材まで明記されていた。
”文通をとおして色々と情報共有してくれた君には、お礼としてホムンクルスの錬成方法と素材について伝えたいと思う。これを用いてホムンクルスの錬成に挑むか否かは君次第だが、私は君ならば必ず成功させられると確信している。ぜひ私と共に、この深い喜びを感じていただきたい。”
ジョシュアの心は揺れていた。好奇心を刺激されたということもあるが、正直なところ今の彼にとっては自分以外の手が欲しかった。身の回りの世話をしてくれる人が必要だった。それをホムンクルスに求めるのもおかしな話であったが、街でナンパして将来の嫁を探すよりも、錬金術によってホムンクルスを作る方が近道のような気がしたのだった。
「よし……やるか!」
そう決意したジョシュアは、早速ホムンクルスの錬成に取り掛かる準備を始めた。必要な素材は、人の精液と数種類のハーブ。蒸留機の中に素材を入れ、あとは毎日血液を適量入れ続ける。こんな簡単な方法で本当に錬成できるのか怪しいところだが、友人の手紙の内容を信じて続けることにした。
「ホムンクルスが生まれるとしたら、どんな子が良いだろう……」
ジョシュアはそんなことを考えるようになっていた。そもそも、性別はあるのかさえ怪しい。
「やっぱり可愛い女の子がいいなぁ」
ジョシュアも年頃の男だった。異性と過ごした経験もない彼にとっては憧れなのだ。
「俺の言うことをなんでも聞いてくれて、素直で気配りができて、上目遣いで覗き込んでくるような、そんな可愛い子だったら最高だな」
そんな幻想を抱きながらも、ジョシュアはホムンクルスの錬成に明け暮れる日々を送っていた。
十日目の夜。ジョシュアはいつものように自分の血液を蒸留器に入れた後、椅子に座っているといつの間にか居眠りをしてしまった。久々に根気が必要な錬成に疲れてしまったのだろう。彼はゆっくりと夢の中へ落ちて行った。
幼い頃の記憶1
「こら! ジェシーったらまた部屋を散らかしっぱなしで! 毎日少しずつ掃除しないとダメじゃないか」
「いいんだよーこれが一番過ごしやすいんだから。毎日後片付けしたって、どうせまた使うんだから、手が届く場所にあった方がいいじゃん」
「まったく屁理屈ばかり言うようになって……ほんと、誰に似たんだか」
「そんなことよりお腹すいた! ご飯まだ?」
「後片付けしないとご飯作ってあげないんだからね!」
「ええーそんなのないよ! 僕の話ちゃんと聞いてたの?」
「はいはい。文句を言う暇があったら、さっさと部屋を片付けな」
「ったく、しょうがないなー」
どこにでもある、母と息子の情景。
だが——その大切さは、暖かさは、
その時からずっと後にならなければ気づくことは難しい。
銀髪のホムンクルス
ジョシュアは地面から突き上げてくるような衝撃で目を覚ました。そして、すぐに彼の視界は真っ白な煙に覆われた。
「な、なんだ! 火事か?」
慌てて飛び起きたジョシュアだったが、特に部屋の中で火の手は確認できず、小屋が焼けているわけでもなかった。とはいえ、どこかに煙の発生源があるはずだった。ジョシュアは手で煙を払いながら、その場所を探す。すると、徐々に開けた視界の先にあったのは、割れた蒸留器の破片と、白い、肌。
「な——まさか」
それは絶句してしまうほど、真っ白な肌をしていた。色素が薄いと言った方が良いかもしれない。
銀色の髪は腰のあたりまであり、キラキラとした光を放っている。その身を両手で抱え込むようにして横たわっていた。
「これが……ホムンクルス、なのか?」
ジョシュアは近づいてその肌に触れようとした。彼の指先が肌に触れた瞬間、ホムンクルスは跳ねるように反応し、その身を震わせた。
「今の状態は生まれたての赤子のようなものか? 肌がとても敏感なのかもしれない。だが、見た目がすでに子供ではないようだが……」
髪の長さ、柔らかそうな身体つきから、このホムンクルスは女性と判断していいだろう。ジョシュアは少し緊張しているようだった。とりあえず、近くにあった毛布をホムンクルスにかけてあげることにした。
「しばらくはこのままにしておくか。それにしても、まさか本当に錬成が成功してしまうとは。しかも女の子だし、名前はどうしようか——」
まるで自分に娘でもできたかのように、ジョシュアは次々と考えを巡らせていた。
次の日の朝。ジョシュアは目覚めてすぐにホムンクルスの元へ駆け寄った。
「まだ目覚めていないのか?」
ジョシュアはホムンクルスにかかっていた毛布を剥がそうと、ゆっくりと近づいた。すると、ホムンクルスが中でモゾモゾと動き出した。そして毛布を自分の体に巻きつけるようにして、顔だけをあらわにさせる。座ったままで毛布から顔だけを出して、ジョシュアのことを上目遣いで見つめていた。
「か、可愛すぎる!」
ジョシュアの頭の中であらぬ妄想が駆け巡る。
(このシチュエーションは完全に望んでいた通りの展開じゃないか。ここで俺が「俺のことが分かるかい」と言えば「はい。あなたが私のマスターですね」と返してきて「マスター寒いです。早く私に服を着せてください」とか言って「馬鹿者。ここにお前の服が用意してある。自分で着なさい」と少しきつく言ったら「も、申し訳ありませんマスター。失礼しました。あの、その……出来れば向こうを見ていただけないでしょうか。少し、恥ずかしいです」なんて言ったりなんかしちゃったりして——)
自らの欲望丸出しの妄想にふけっている中、ホムンクルスは毛布を身に纏ったままその場に立ち上がり、ジョシュアの前まで来て、その場に立ち止まった。
「おっ、お、俺の事がわか——」
ジョシュアが妄想通りの手順で話そうとした刹那、彼はホムンクルスに思いっきり平手打ちされたのだった。
幼い頃の記憶2
ジョシュアは幼い頃に一度だけ母親にぶたれた事があった。
それは、近所に住んでいた女の子にいたずらをして、泣かせてしまった時だった。
「女の子を泣かせるような息子に育てた覚えはないよ!」
その時のジョシュアの母親は、彼が今までに見たことのないような形相で怒っていた。さすがのジョシュアも泣き出して、女の子はそんな彼の顔を見て泣き止んだという。
だが、ジョシュアは母親にぶたれたショックで泣いていたわけではない。
ジョシュアは幾晩と、自分の母親が泣いている姿を見た事がある。母親が泣いている理由はよくわからないが、それがもし、父親のせいで寂しい思いをしている事が理由なのだとしたら。父親はぶたれるべきであり、でも、もうここにはいなくて、だから母親はそんな女性を泣かせるような男が許せなくて——。
そんなどうしようもない考えがジョシュアの頭の中で渦巻いて、わけがわからなくて、彼は泣くことしかできなかったのだった。
魔術院からの手紙
ジョシュアがホムンクルスにぶたれた理由は、いきなり肌に触れたことと、ただ毛布をかけた状態で放置されたから、というものだった。
ホムンクルスは生まれたばかりではありながら言葉を発し、身体を動かすことにおいても何の支障もない。まさに完璧な出来だった。外見上も特に変わったところは無い。ただ一点、ジョシュアにとっては誤算というか、見当違いだったのはその性格である。
「マスター、食事を済ませたのなら早く街へ行く支度をしてください。ずっとそこに居ては片付かないです」
「わ、わかったよ……」
ジョシュアが望んでいたのは、彼のいうことなら何でも素直に聞いて、気配りができて、とかそういうものだった。それがこのホムンクルスときたら、まるで世話焼き女房のように、何かとジョシュアの行動に対して干渉し、文句を付けてくる。全くもって、彼女の尻に敷かれてしまっているジョシュアなのであった。辛うじて主従関係を表しているのは、ホムンクルスがジョシュアのことをマスターと呼ぶくらいだった。
「あっ、マスターまた洗濯物を脱ぎっぱなしにして放置してます。すぐに洗濯場に持って行ってくださいといつも言ってるじゃないですか」
「ああ、すまない。次からは気をつけるから」
とは言え、実はジョシュアが当初目的としていたことは一通り叶っている。なぜならホムンクルスはみごとにジョシュアの身の回りの世話をこなしているからだ。食事に掃除に洗濯。全て完璧だった。
「黙ってやってくれれば何も言うことは無いんだがな……」
「マスター、何か言いましたか?」
「いっ、いや、何も言ってないよ」
ジョシュアが真っ当な人間にさえなれば、ホムンクルスは何も言わなくなるということに、彼が気づくのはまだ先の話だった。
ジョシュアがホムンクルスと生活するようになって二週間が過ぎた。
さすがの彼も、毎日ホムンクルスから口うるさく言われるのが耐えられなくなったのか、少しは真っ当な人間に改善されたようだった。時間が空けば率先して掃除し、食事の用意も手伝うようになり「マスターそれは私の仕事ですから」と言われるまでに成長していた。
ジョシュアは朝食を済ませた後、郵便物が届いていないか確認するために外へ出た。ポストの中には、一通の手紙が入っていた。彼はその場で封を切り手紙を読み始める。
親愛なるジョシュア・マーベリック殿
ご機嫌麗しゅう。我が魔術院ではあなたの来訪を心からお待ちしております。
風の噂によれば、貴方がホムンクルスの錬成に成功したと聞き、すぐにでもお話を伺いたいのです。昨今は東方技術管理局、通称シャングリラと呼ばれた組織も解体し、ロストテクノロジーの流出を恐れるが故に異端審問組織が結成されるという動きもあります。ホムンクルスの錬成は人体錬成に繋がる禁忌であることは、高名な錬金術師であったお父上のご子息である貴方であれば知らないはずもない。しかしながら貴方の稀有な素質と知識を、このまま黙って失ってしまうのは当院も望まぬところ。是非ともロンドンまで一度足を運んではいただけないでしょうか。渡航に必要な用立ては同封している通りです。ご都合の良い日にでもお越しください。我々はいつでも、貴方の来訪を歓迎しております。
魔術院カルディナ 対外交渉局 局長 マルティナ・アインハルド
p.s.
一ヶ月を過ぎてもお返事がいただけない場合は、当院の魔術師を派遣させていただきます。
「……魔術院、だと」
ジョシュアの表情が一瞬引きつった。
「マスター? 如何なさいましたか?」
ホムンクルスが心配そうにしてジョシュアに駆け寄った。ところが、彼はホムンクルスに構うことなく、部屋に入っていった。
「……マスター」
いつもなら問いただす彼女であったが、何かを察しているのか、ただ黙ってジョシュアの後ろ姿を見守っていた。
ジョシュアは部屋に戻った後、何度も手紙を読み返していた。
「魔術院カルディナ。親父が行って、帰ってこなかった場所……」
ジョシュアの父親であるレイナード・マーベリックは、かつてパラケルススの再来とまで言われた世界最高の錬金術師だった。彼は父親のことについてはほとんど知らない。彼がまだ幼い頃に家を出て以来、何年経っても帰ってこなかったのだ。母親に聞いても「お父さんは遠いところで一生懸命お仕事をしているんだよ」と言うばかりで、詳しいことは何も教えてくれなかったという。父親が魔術院という場所に行ったことについては、母親が亡くなった後、ジョシュアが錬金術師として一人前になってから知った事実だった。
「なぜ今になってこんな……」
ジョシュアには分かっていた。全ては自分がホムンクルスを錬成したことが原因だと。その行いは神の領域であり、禁忌であると分かっていながら、彼は手を出してしまった。そのことがどのようにして外部に知られたのかは分からないが、それだけ魔術院が強大な組織であるということなのだろう。たとえホムンクルスを連れて逃げても、おそらく逃げきれはしない。
いっそホムンクルスを手放す、ということも考えたが、ジョシュアにとって今やそれも無理な話だった。彼女の存在は、まるで家族のような、そんな暖かさを感じていたのだった。
「どうする、どうする……」
ジョシュアはずっと部屋に閉じこもり、考えていた。
そんな彼の姿を、ホムンクルスは部屋の扉のわずかな隙間越しに見つめていた。
「マスター……」
彼女は気づいているだろうか。
まるで胸を締め付けるような、その感情の正体に。
*
ホムンクルスは地下室に来ていた。そこには無数の武器が並べられている。
クレイモアにツヴァイハンダー、グレートソード。どれも両手で用いる大振りの剣だ。なぜ錬金術師が住むこの小屋にあるのかは分からない。だが、ホムンクルスはそれらの武器をどこか懐かしそうに眺めているのだった。
「マスターに万が一のことがあったら、私は——」
その眼差しは、そこに並べられた剣先のように鋭いものだった。
幼い頃の記憶3
「ジェシー。もし自分よりも強大な敵に立ち向かうことになったら、決して自分から攻め込んではいけないよ」
「え、ヒーローはどんなに相手が強くたって、自分から立ち向かっていくものでしょ?」
「そんなのが通用するのは物語の中だけさ。現実はもっと慎重に、相手の情報を徹底的に調べ尽くした上でないと、簡単に勝つことはできない。だから、もし相手の正体もわからず、力量も測れず、勝ち目がないと悟ったなら、しっかりと準備をして待ち受けることさ」
「なんかかっこ悪いなー」
「バカだねジェシーは。この世の中で一番かっこ悪いのは、自分の不手際で大切な人を失ってしまうことなんだ。これは絶対に忘れるんじゃないよ?」
その頃のジョシュアは、なぜ母親が自分にこんな話をしてくれたのか、全く疑問に感じることはなかったのだった。
迎撃用意
ジョシュアが住む小屋は広い森に覆われていた。その森は街へ行くための道が整備されているわけではなく、人が踏み歩いたことで形成された道しかない。場所によっては獣道のようになっており、この森を通るのは今となってはジョシュアくらいしかいなかった。
そんな森の中で、ジョシュアは必死に作業をしていた。
「攻性防壁の錬成など久しくやっていなかったが、どうだろうな。一般人であればこれらのトラップだけで森を超えることはできないだろうが、相手は魔術師だからなぁ」
魔術院からの手紙を受け取って、ジョシュアが下した決断は、一ヶ月後に派遣されて来る魔術師を追い払うことだった。そのために彼は森にトラップを仕掛けているのである。それは原始的な仕掛けではなく、錬金術によって作り出された道具を用いたものだった。ジョシュアが言う攻性防壁とは、一見ただの木々にしか見えないものが、人の侵入を検知すると攻撃を加えるものに変化するもの。戦争があった時代、それらの道具を作っていたのが錬金術師であり、軍は彼らの力を戦争の道具にしていた。魔術などと言ったオカルトめいた力を用いるようも現実的であり、”失われた技術”などと言われた制御不能な道具を使うようもリスクは低かった。ジョシュアの父親も、かつては戦争の為に錬金術を行なっていたという。ジョシュアは小屋に残されていた父親の書物の中から、攻性防壁の錬成方法を知ることができたのだった。
「念のため、無限迷路の錬成陣を敷いておくか。あとは、捕縛用のトラップを仕掛けて、魔術師を拘束して色々と話を聞き出すのも手だな……」
「マスター、食事の準備ができました。そろそろ休憩しましょう」
「うわっ、なんだ居たのか」
「……私は、先ほどからずっとマスターの後ろにいましたが」
「そ、そうだったのか。それはすまない」
ジョシュアはホムンクルスの存在にさえまったく気が付かないほど、錬成に夢中になっていた。
「そうだな、まだ時間はある事だし、根を詰めて失敗しても仕方ない。ここは素直に従って休憩するとしよう」
ジョシュアの言葉を聞いて、ホムンクルスは少し微笑んだ。
「……あ」
「どうかなさいましたか?」ホムンクルスは首を傾げながら言った。
「あ、ああ。いや、何でもない」
ジョシュアはホムンクルスが微笑む顔を初めて見て驚いたのだが、何故かそれを彼女には悟られたくないと思ったのだった。
——そうして一ヶ月ほど月日が流れた。
魔術院からの手紙の内容が正しければ、そろそろジョシュアの元へ魔術師が派遣されてくる頃だった。ジョシュアは森のトラップ以外にも、万が一に備えて近接用の攻撃アイテムも錬成していた。相手がどのような魔術の使い手かわからないが、用心することに越したことはない。
ホムンクルスは、特にジョシュアがしていることに質問することなく、ただ黙って見守っていた。ここ数日はホムンクルスが家事をこなしていたのだが、それに対してジョシュアに文句を言うこともなかった。
「あとは来るのを待つだけか。もし森を抜けてこの小屋までたどり着かれたら、半分諦めたほうがいいかもしれないな」
攻撃アイテムがあるとはいえ、ジョシュアはそれを人に対して使ったことはない。魔術師相手にどこまで通用するかといえば、かなり厳しいだろう。戦闘経験は確実に相手の方が上なのだと、ジョシュアは考えていた。
ジョシュアはホムンクルスの姿を探した。彼女は食器を洗っているところだった。
「今思えば、誰かのためにここまで真剣になったのは初めてのことかもしれないな」
ジョシュアが一ヶ月かけて準備をしてきたのは、全てホムンクルスのためなのだと、今更ながらに気がついたのだった。
紫の魔術師と白い犬
ジョシュアが住む小屋から離れた場所にある街の中に、見慣れない姿をした者たちがいた。
正確には、一人と一匹。
一人は紫色のローブを纏い、フードを深く被っている。素顔は見えないが、しなやかな身のこなしとフードからはみ出た紫色の長い髪から、性別は女性であることが分かる。手には先端に宝石をあしらった杖を持っていた。その様相を見た者たちは口を揃えて言うだろう。この者は魔術師であると。
その傍らに四本足で歩いているのは、雪のように白い毛並みを持つ犬だった。大きな体格のため見た目は狼とさほど変わらない。真紅に染まった双眼が、この世のものとは思えない雰囲気を漂わせている。
「主、そろそろ目的地に着く頃ではないか?」
白い犬が発する言葉は、魔術師の耳にしか届いていないようだった。
「落ち着いてキール。そんなことは私もわかっている。いくらあの憎たらしいマルティナの命令だからって、私は少しも嫌な思いはしていないし、一刻も早く用事を済ませて新しい空間魔術の修行をしたいとか、全然そんなこと考えてないから」
「……まず落ち着く必要があるのは主なのではないか?」
「何か言った?」
「いや……何も」
キールと呼ばれた白い犬は、黙って前を歩き出した。このやり取りで二人の関係性については十分理解できるだろう。まるで、お嬢様と従者のようなやり取りを連想させる。これまで幾度となく、このような会話のやり取りを繰り返してきたのだろう。
「マルティナの情報によれば、この先にある森を抜けたところに、対象が住む小屋があるとのことだ」
「お願いだからその名前を二度と私の前で口にしないで」
「おいおい、先に口にしたのは主のほう——まあいい。早く行こう。わがままなお嬢様のご機嫌とりにはもう疲れた」
最後の方はほとんど魔術師には聞こえないほどの囁き声になっていた為、彼女から反感を買うことはなかった。
一人と一匹は街を抜けて、森の中に足を踏み入れた。
そこで、最初に違和感を覚えたのは魔術師のほうだった。
「ちょっと待って」
「今度は何だ。トイレにでも行きたくなったのか?」
「この森、何かがおかしい」
キールは主に冗談が通じない状況であることを悟り、神妙な面持ちになった。
「何があった?」
「い、いろんな感情が渦巻いている。彩りに満ちた……何か、が——」
そう言った魔術師の身体が小刻みに震えている。明らかに異常な状態である。
「すぐに眼を閉じろ。ソレはこの前に散々酷使したばかりだろう。流石に身体が持たない」
「はぁ、はぁ……ふっ、はぁ——」
魔術師は眼を閉じて呼吸を整える。一度大きく息を吸って、しばらく止めた後、ゆっくりと息を吐き出した」
「ふう……何なのよこの森は。とりあえず、ここから先は慎重に進んだ方が良さそうね」
「いっそ、この森一帯、全て燃やし尽くしてしまうか?」
「お願いだから二度とそんなこと言わないで」
キールの発言に何か思うことがあったのか、魔術師はまるで鬼の形相でキールを睨みつけている。
「すまない。今のは俺が悪かったな」
キールは大人しく、魔術師よりも少し先を歩き出した。彼は常にそうしてきたのだ。おそらく魔術師は何らかの理由で眼を閉じたまま歩く必要があり、キールはまるで盲導犬のように魔術師を誘導していた。そして、有事の際には魔術師を守るように、周りの様子を伺いたがら歩みを進めている。
「そういえば、対象は錬金術師だったわね。この森に何か仕掛けていても不思議はない、ということか。キール、私が空間掌握する間、周辺の警護は任せたわよ」
「言われなくても、もうしている」
「さすがね」魔術師はそう言って、杖を頭上に掲げた後、ゆっくりの自分の身体を中心に大きく弧を描くようにして動かした。
「——空間座標位置特定。第一層の算術展開始動……掌握。続いて第二、第三層までの算術展開、併せて内部回路への魔力供給開始。外部回路への出力ライン接続」
魔術師が言葉を紡ぐ度に、彼女を中心として紫色の光の膜のようなものが森を覆って行く。その光は留まることなく、素早く駆け抜けていった。魔術師はこの空間掌握の魔術を使うことにより、この森に関するあらゆる情報を感知することができる。それは人や物の位置だけでなく、現在地から目的地までの最短ルートまで分かるという。さらに魔術を重ねがけすることにより、感知したそれらが危害を加えるものか否かまで特定してしまう。
「特に何かが迫ってくるような気配はないが……主、何か分かったのか?」
「ええ。この森のいたるところにトラップが仕掛けられているわね。私が位置を教えるから、全て破壊して。あと目には見えない仕掛けも施されているわ。私たちが行使する魔術とは異なるようだけど」
「錬金術とはそんなこともできるのか。もはや魔術とそう変わらないのではないか?」
「等価交換の原則という意味では魔術も錬金術も同じ。何かを成すためには相応の対価を必要とする。どちらかというと錬金術の方が物質的なものを求められるのよ」
「俺から言わせれば、どちらもおっかないものにしか聞こえない」
「貴方の方がよほどおっかないけどね」
「……」
何故か魔術師の方が、キールよりも少し前を歩くようになった。
父親の日記
ジョシュアはテーブルの上に置かれた水晶体をじっと見つめていた。
「やはり慌てて作ったようなトラップでは駄目だったか」
その水晶体には、魔術師とキールの姿が映し出されていた。遠隔監視できる仕組みになっているようだ。森には至る所に、まるで監視カメラのように水晶体が仕掛けられている。
「それにしても、まさか空間系の魔術を使う者とはね。もっと攻撃的な魔術師を想像していたが……なるほど、この犬が攻撃役ってことか」
水晶体には、魔術師が指差す場所にキールが凄い速さで移動し、トラップを破壊するといった場面が映し出されていた。状況把握を担う魔術師と、攻撃役の犬。まさに隙のないコンビと言えた。
「これは分が悪いな。魔術師一人とはいえ、犬がやっかいそうだ」
ジョシュアは自室にあるコンテナの中にある道具をあさりながら、ぶつぶつと呟いていた。
「……とはいえ、あの犬さえ何とかしてしまえば、あの魔術師はほぼ無力だろう。っと、あれ。これは何だ?」
ジョシュアはコンテナの中から、一冊のノートを見つけた。最初は父親が残した錬金術に関するメモかと思っていたが、中身を確認すると、そこには日記のようなものが綴られていた。
まだ見ぬ素材を集めるために、母親と共に旅をしたこと。命が危険に晒されそうになった時には、母親が守ってくれたことなどが書かれていた。
「なんだよ。母さん、戦士だったのかよ。だったら、どうして——」
ジョシュアは涙目になりながらも続きを読み進めていく。
国同士の争いに利用される、様々な技術。ロストテクノロジーと呼ばれる不可思議の産物に対抗するために注目されたのは、科学と魔術の融合によって生み出された錬金術。錬成されて生み出されたモノは誰にでもノーリスクで使うことができたため、汎用性が高かったようだ。当時、錬金術師は数えるほどしかいなかったが、その中でもパラケラススの再来とまで言われたレイナードは、戦争の道具として国に使われていたに等しい扱いだった。自分が生み出したものが多くの人の命を奪っていく。その現実に心を苛まれた彼を癒してくれたのが、ジョシュアの母親だった。
彼女は騎士の家に生まれ、その気立ての良さと正義感から騎士として育てられた。己の現し身である剣ひとつで幾度となく戦場を駆け抜けてきた彼女にとって、錬金術などはとても信じられるものではなかったと、日記には書かれている。そんな中、彼女はレイナードと出会う。迷い、悩みながらも錬金術を続けるレイナードの姿をみた彼女はこう言ったという。
「目先のことばかり見ているから闇に囚われるんだよ。あんたのその技術の先に見える未来を考えたことがあるかい? 私はいつだって考えているよ。自分のこの一振りの剣が、幸せな未来に繋がっているってね。そんな風に考えたら、その重荷だって、少しは軽く感じられるんじゃない?」
それはレイナードにとって救いの言葉となった。そうして彼は彼女に惹かれていき、彼女の励ましもあってか戦争を乗り越えることができた。国が共和制となったことで争いは消えたかのように見えたが、明るみにはならない争いが続いていたことを、レイナードは知っていたようだ。戦争の道具として使われたあらゆる技術の獲得を狙って、次は血が流れない戦いが水面下で繰り広げられていた。レイナードは自分がそれに巻き込まれることを恐れ、ひっそりを隠居生活を送ることにする。
そこには騎士をやめた彼女もいた。共和国制度を敷いた国にとって、もはや騎士は不要な存在となってしまったのだ。そのまま国に自衛団として働く者もいたが、彼女はその道を選ばなかった。一人の女として、夫をもち、子を産み育てる生活を選んだのだった。森に囲まれた小高い丘の上に小屋を建て、二人はそこでひっそりと暮らすことにした。レイナードの錬金術により、生活に不自由することはなかった。しばらくしてジョシュアが生まれ、三人で幸せな生活を続けていけるはずだった。
そんな中、レイナードの元に一通の手紙が届く。魔術院カルディナからの手紙だった。そこに書かれていたのは、レイナードの錬金術師としての力を、魔術院は歓迎するといった内容だった。つまり勧誘である。表向きには戦争はなくなったとはいえ、東方と呼ばれる技術集団と魔術院との争いは続いていた。また不毛な争いに巻き込まれるのかと、レイナードは恐怖に怯えた。手紙の最後には「すぐに返事をいただけない場合は、一ヶ月後に魔術師をそちらに派遣する」と記載されていた。
「なんだよ、これじゃまるで、俺の時と全く同じじゃないか」
ジョシュアは魔術院が自分の錬金術師としての力を狙っていることを確信した。
父親がどのような手段を用いて一ヶ月後にやってくる魔術師に立ち向かったのか。ジョシュアはそのことが記載されていることを期待して、日記の続きを読み進めた。
レイナードが行ったことは、ジョシュアがこれからやろうとしていたことと全く同じだった。森に錬金術でつくったトラップを仕掛け、相手を待ち構えることに徹したという。これには母親の騎士として培った経験によるアドバイスがあったという。
「そっか。そりゃあ母さんの言っていたことは、いつも正しかったもんな。親父もそれを信じることにしたんだな」
そして、日記の最後のページにはこう書かれていた。
「もしこれを息子ジョシュアが読んでいるとしたら、私はすでにそこには居ないだろう。加えて、少なくとも錬金術に興味を持ち、自分のものにしていることだろう。ジョシュア、錬金術を大切な人のために使え。それが出来たなら、君は生涯を通して幸福を掴める。願わくば、君のそばに、君を見守り続ける存在があらんことを」
全てを読み終えたところで、ジョシュアはそのノートをそっと閉じた。
レイナードが迎えたその後の出来事は、ジョシュアも知っている通りの展開だ。自身は魔術院に連れて行かれ、母親はそれを止めることができず、魔術師との戦闘で深い傷を負ってしまった。傷の治療が済んだ後、彼女はレイナードを助けに行こうとはしなかった。戦う術を失ったわけでも、愛する夫を救う気持ちが消えたわけでもない。彼女には、最愛の息子であるジョシュアを育てるという大事な役目が残されていたからだ。
そして、ジョシュアが立派に育ち、錬金術を学ぶようになり、一人前になった姿を見届けたところで、彼女はこの世を去った。
「くそ、なんだよこれ」ジョシュアの心は悔しさでいっぱいだった。結局のところ、大切な人のために錬金術を使えという言葉を残した父親でさえも、母親を守ることはできなかったのだ。
「俺は、絶対に親父のようにはならない」
この世に絶対といった理など無いと知りながらも、ジョシュアは心の底から湧き上がってくる感情を外へ吐き出すために、そう言わずにはいられなかった。
脅威との対峙
魔術師とキールは、いくつかのトラップを発動させてしまったものの、なんとか森を抜けることに成功していた。
「まさか同じ場所を行ったり来たりさせられるとは思わなかったな」
キールが毒づくと、魔術師は嫌そうな顔をした。
「なによその、空間魔術師のくせに空間の歪みさえ感知できないのか? とでも言いたそうな顔は。ええそうよ、ただの方向音痴よ。魔術に頼らなければ目的地にさえたどり着けないわよ!」
「そんなことは言っていない。まったく主の被害妄想にも困ったものだ」
「ここまで来られたのは誰のおかげだと思っているのよ。少しは感謝してほしいのだけど」
魔術師はかなりご立腹のようだった。
「それにしても、随分と消耗してしまったな。これであそこに見える小屋に、とんでもない化け物が潜んで居たら、さすがに厳しいかもな」
「弱音を吐くとか許さないわよ。貴方に敵う相手なんて、そう居てもらったら困るの。私たちがどれだけ苦労して貴方を——」
「シッ。主、どうやら向こうからお出ましのようだ」
キールに言葉を遮られ、ムッとした表情をしながらも、魔術師は小屋の方に目を向けた。すると一つの影が小屋の扉から出てくるのが見えた。
「こんな人気もない小屋へお客様とは。いったいどのようなご用件ですか」
ジョシュアは白々しく魔術師に言った。魔術師はうんざりした表情を見せている。
「残念ですけど、私は英国淑女が持ち合わせているような厳かなご挨拶はできないの。単刀直入に言わせてもらうけど、貴方が錬金術師ジョシュア・マーベリックで間違いないかしら」
「英国淑女じゃなくとも、人に名を訪ねる前に、まずは自分から名乗るくらいの礼儀も知らないのか?」
ジョシュアが無表情でそう言うと、魔術師の足元にいる犬から噴き出すような声が聞こえた。それがキールの仕業であったことを知るのは、ここには魔術師しかいない。
「くっ。魔術院カルディナ第一魔術局の青柳美羽よ」
「アオヤギミウ? 変な名前だな。東洋人か?」
「どうだっていいでしょう! 名乗ったのだから、貴方も早く名乗りなさいよ!」
「ずいぶんとヒステリックな魔術師が来たものだな。ああ、俺がジョシュアだよ。それで、あんたは俺をどうしたいんだ」
正直なところ、ジョシュアは少し拍子抜けしていた。もっとシリアスな展開になると思ってみれば、この美羽とかいう魔術師があまりにも礼儀知らずのヒステリックお嬢様だったからだ。
「手紙が届いていたと思うのだけど。魔術院からの誘いに素直に従っていれば、わざわざ私がこんなところまで来ることもなかったのに」
「ああ、要するに俺を強引に拉致しにきたわけだよな」
「話が早くて助かるけど、別に拉致しにきたわけじゃないわ。貴方は強制的に魔術院まで来てもらうことになるから」
「そういうのを拉致って言うんだよ!」
このままずっとこんなノリで会話が続くかと、ジョシュアは嫌気がさしていた。おそらく、キールも同じことを思っているだろう。
「言っておくが、俺は魔術院には行かない」
「そう。悪いけど、私がここに派遣されて来た時点で、もうこれ以上話し合う余地もないから。いくわよキール!」
「本当に話し合いの余地が無いのか疑問だが、主の命とあれば従うしかないか。それで、凍結解除してしまってもいいのか。相手は錬金術が使えるだけの、ただの人間のようだが」
「その必要はないわ。そのままの姿で戦いなさい」
「? おい、さっきから一人で何を言って……」
ジョシュアが美羽に疑問を投げかけると、キールはジョシュアに向かって飛びかかった。犬とはいえ、喉笛を噛み付かれたら命はないだろう。だが、流石のジョシュアも、それ相応の準備をしてきた。
「犬相手に遅れを取るようなら、錬金術師の名が廃るってもんだろ」
ジョシュアは自分の足元に予め仕掛けておいた錬成陣を起動させた。すると、キールの身体の動きが徐々に鈍っていき、次第に身動きを封じられていた」
「これは、捕縛の魔術式?」それを見た美羽は、しかしとても落ち着いていた。
「獲った!」
ジョシュアはすかさずナイフを右手に持ち、美羽に向かって突進した。キールが動けないうちに魔術師を討つというのが、ジョシュアの作戦だった。極めてシンプルな作戦だが、戦闘経験が少ないジョシュアにとっては、これが精一杯だった。
だが、ジョシュアが持つナイフが美羽に届くことはなく、火を纏う一筋の光が、ジョシュアの目の前を横切った。
「うわっ、危ねえ!」
ジョシュアは一旦その場から離れた。先ほどの攻撃は、キールの口元から発せられたようだった。
「な、なるほど。魔術師様が連れている犬だけあって、ただの犬ってわけなかったか」
一度限りといっていいほどのジョシュアの作戦も、あっさりとご破算になってしまったわけだが、それでも彼は落ち込む素ぶりを見せなかった。
美羽は、いちど深く瞳を閉ざしてから、キールに言い放った。
「キール。凍結解除を許可します」
「最初からそうすればよかったんだ」美羽の言葉を聞き入れた途端、キールの白い毛並みは、突如として紅蓮の炎に包まれた。燃え盛る赤の中から現れたのは、赤髪・赤眼・赤褐色の肌をもつ、人間の姿だった。全身には黒く紋章のようなものがびっしりと刻まれている。それを見たジョシュアは、さすがに思わず後ずさった。
「変身した? いや、むしろこれが本来の姿か」
「さて、それはどうだろうな。まあ。その答えを知ることなく、今からお前はこの世から消えて無くなってしまうがな」
「キール。彼がこの世から消えてもらっては困るのだけど?」
「わかっている。さて、どうする錬金術師。言っておくが俺は強い。さっきの火線は挨拶代わりのようなものだぞ」
「そりゃそうなんだろうな。けど、俺も無残に消されるつもりもないんでね!」
ジョシュアの手元には、筒のようなものが三本握られていた。そして、それらをキールへ投げつけた。
キールは片手から火線を放ち、投げつけられたものを破壊した。すると、その場に真っ白な煙が大きく広がった。やがて氷の結晶のようなものがキールの身体にまとわりついていく。
「くっ、これは」
さすがのキールも極度の冷気には弱いのか、またしても身動きが取れなくなっていた。
「四大元素を扱うのは錬金術においても基礎中の基礎でね」
火を扱うキールを相手に、氷の攻撃を用いるというのも、またシンプルな手段だった。
「まったく。仕方ないわね」
美羽がそう言うと、突如としてキールの身を包んでいた冷気は、あっという間に消えてしまった。それは、美羽が放った空間魔術によって、別の場所へと冷気が転移されたからだった。
「おいおい、それは反則じゃないのか。状況把握だけじゃなく、空間転移までするのかよ」
この状況下において、ジョシュアは圧倒的に不利だった。そもそも、二対一という時点でジョシュアに勝ち目はない。錬金術による攻撃も、美羽の空間転移で無効化されては、キールに届くこともない。まさに万事休すだった。
「さて、そろそろ諦めて大人しくしたらどうだ。今ならこれ以上危害は加えないし、森でのトラップのことも水に流してやる。俺は紳士で通っているからな」
「うわ、そういうこと自分で言うのね」
「主は黙っていてくれ」
余裕丸出しの二人を前に、ジョシュアは本当に為す術がなかった。戦闘はおろか、錬金術で武器を作った経験もほとんど無いに等しい彼にとって、勝機などあるはずもなかった。彼自身もそのことは分かっていたが、それでもあの森を越えられてしまった瞬間、自分から立ち向かっていくしか方法がなかったのも事実だった。レイナードが残してくれたわずかな攻撃アイテムを使って、自分がホムンクルスを守るしかなかったのだ。
「そうだ、俺が、俺があいつを守らないと」
ホムンクルスには、小屋の中にいるようにと伝えてある。彼女にしては珍しく、黙って従ってくれたようだった。逆に潔すぎて怪しいなどと、ジョシュアは微塵も疑っていなかった。それほど、自分自身の力でなんとかしようと思っていたのだ。
「ほら、大人しくこっちに来るんだ」
キールがジョシュアに手を差し伸べる。そして、その手がジョシュアの肩を掴もうとしたその瞬間——
「ん?」
ソレが空からやってくることに気づく前に、キールが差し出した腕は見事に切り落とされていた。
キールは自分の片腕が無くなってしまったことよりも、いま目の前に立っているソレに驚きを隠せなかった。
色素の薄い白い肌に、太陽光が反射した銀色の髪は着地した衝撃でふわりと広がっていて、まるで天使の羽を思わせた。そしてなによりも不釣り合いな、自身の身長以上の長さがあると思われる、両手剣。
「は、お、お前……」ジョシュアは空いた口が塞がっていなかった。
「マスターには、指一本触れさせないっ!」
軽々と剣先をキールに向けて言い放ったのは、小屋の中に居るはずの、ホムンクルスだった。
感情を映し出す眼
そのから先の展開は、まさに驚きの連続だった。ホムンクルスはいつの間に覚えたのか剣の扱いは完璧で、その剣戟はキールを圧倒していた。キールは片腕を斬られてしまったこともあって、思うように戦えないでいるようだ。なんとか火線を放つも、ホムンクルスが剣を大きく振るうことによって生じる風圧によって消しとばされている。あの細い身体のどこに両手剣を振り回す力があるのか、創り手であるジョシュアでさえ、まったく理解し難い状況だった。
ジョシュアは魔術師を討つなら今しかないと思い至り、美羽の方を見た。だが、彼女はその場で立ち尽くしたまま、微動だにしていなかった。何かを恐れているのか、身体が小刻みに震えている。
「だめだ。このままではやられてしまう。紋章解放するにも体力が持ちそうにない。主、右腕の修復を頼む。……主?」
キールが美羽に言葉を投げかけるも、彼女はまったく反応しなかった。何か、ぶつぶつと独り言のような言葉を発しているだけだった。
「い、色が、見える……本来あるはずのない、彩の感情が。いや、むしろアレは——」
フードによって隠れていたはずの美羽の目が、わずかに露わになった。普段は目を閉ざしているはずの美羽が、その紫色の瞳でホムンクルスを見つめていた。
「目を閉じろ主! それ以上、紫忌眼を使ってはダメだ!」
「紫忌眼だと? まさか」
その聞きなれない単語は、ジョシュアにも覚えがあった。それは、かつて東方と呼ばれた技術者集団が管理していたロストテクノロジーの一つだ。その瞳は人の感情を色で視覚化することができるという。ただし、その発動条件は未確定で、所持者にはコントロールできないと言われており、凍結とよばれる封印を施されなければ、普段の生活もままならない状態に陥るとされている。そのような能力が必要とされるなど、美羽という魔術師は一体どのような世界を生きてきたのだろうか。
「お前がその紫忌眼の使い手だと言うのか。だが、その視線の先にいるのは……ホムンクルスだと?」
ジョシュアはホムンクルスを見た。先ほどまでキールと激しい戦いを繰り広げていたというのに、汗ひとつかいてない。やはり彼女は人造人間であるということを思い知らされる。それだけに、美羽がホムンクルスに対して紫忌眼を発動させている意味がわからなかった。
「ホムンクルスに感情を視ているとでもいうのか? そんなバカな……」
しばらくすると、美羽は目を閉ざし、落ち着きを取り戻した。そして、キールに向かって言い放った。
「キール。魔術院に戻るわよ」
「は? 何を言っているんだ。まだ奴を確保していないぞ」
「その必要はなくなった。何故なら、ここにホムンクルスなんて居ないのだから。まったくとんだ茶番だわ。まんまとマルティナにしてやられた!」
「……」キールはしばらく黙っていたが、美羽があまりにも真剣な表情であることを理解し「了解した」とだけ言って、元の犬の姿に戻った。
「なんだ? いったいどうしたっていうんだ」
ジョシュアは困惑していたが、とにかく危機は去ったということを理解し、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「ジョシュア・マーベリック。勘違いしないで。私には大至急確認しなければならない別の目的が生まれただけ。決して貴方に遅れをとったわけじゃないから」
美羽の強がりなのか余裕なのか、どちらとも取れない発言に対して、誰も反応を示すものはいなかった。
「ああ、最後に一つだけ忠告しておくわ。貴方、ソレを大切に扱わないと、きっと呪われるわよ」
「は?」
美羽は最後にとんでもないことを言い残して、その場を去っていった。キールが彼女の後に続いて歩いていく。
「マスター! ご無事ですか」
ホムンクルスは両手に持っていた剣を置くと、ジョシュアの元へと駆け寄ってきた。
「ああ。もう何がなんだかわけがわからないが、とにかく助かったよ……お前が無事で、本当によかっ……た」
「マスター?!」
ジョシュアは慣れないことをした疲れも相まって、見事に気を失ってしまったのだった。
幼い頃の記憶4
ジョシュアは父親が地下室で毎日のように作業していることを知っていた。母親は「危ないから近づくんじゃないよ」と言っていたが、好奇心旺盛な年頃のせいで、ある日、地下室を覗いてしまったことがあった。
そこでは、地面に大きな模様が描かれていた。無数の流れるような曲線がいくつも重ねられており、左右対称の紋様が地面に直接掘られている。その中心には、ジョシュアもよく見たことがある模様が描かれていた。太陽と月が寄り添っているようなその模様は、レイナードが身につけているあらゆるものに描かれているものと同じだった。それは服であったり、指輪であったり、ペンダントでもあった。まるでその模様がなければ、生きていられないとでも言うかのように。
「完成だ。これで私や妻にもしものことがあっても、ジョシュアを独りにすることはない」
ジョシュアは、レイナードが言っている意味については分からなかったが、それついて問いただしてはいけないのだと察して、その場を後にしたのだった。
ホムンクルスの名前
ジョシュアが目を覚ましたのは、美羽とキールが立ち去ってから二日後のことだった。
「あ、マスター。ようやく目を覚ましたのですね。本当に、本当によかった」
ホムンクルスは嬉しそうにジョシュアのことを見つめている。
「お前、俺が起きるまでずっとここに居たのか?」
「当たり前です! ずっと心配していたのですから……」
ジョシュアは美羽が去り際に残した言葉を思い出していた。「ここにはホムンクルスなど居ない」と言った彼女の、その真意について、なんとなく分かったような気がしていた。
しばらくして、ジョシュアは小屋の地下室へと向かった。夢の中でみた、父親が施していた紋様がどうしても気になったからだ。
地下室には大きな剣がいくつも並べられている。それは母親が使っていたものだとは、ジョシュアもさすがに思ってもみなかった。そして、ここにある両手剣をホムンクルスが見事に使いこなしていた姿が、ジョシュアの脳裏をよぎった。
地面に目をやると、埃がかかってよく見えなくなっていたが、たしかに紋様が描かれていた跡が残されていた。ジョシュアは埃を払って、その紋様を調べた。
「こ、これは、鎮魂の錬成陣!」
それはその名の通り、死した魂を現世に定着させる錬成陣のことである。そして、これは人体錬成に次ぐ禁忌とされている。レイナードは自分、或いはジョシュアの母親が死した後も、魔術院から派遣されてくる魔術師との戦いを想定し、ジョシュアが一人で立ち向かうことのないように、事前に対処していたということなのだろう。ただ、何のためにこれを施したのか、ということだが……。
「まさか、ここに鎮まっていた魂が、あのホムンクルスに宿っている、なんてことはないよな?」
ただ、その仮説はこれまでの出来事を思えば、妙に辻褄があうのだった。
「マスター、食事ができましたよ」上の階からホムンクルスの声が聞こえてきた。
「ああ、わかった。いま行くよ」
ジョシュアはその場を後にして、ホムンクルスの元へ向かった。
食事の最中、ジョシュアはふと思い出したかのように言った。
「そういえば、お前の名前、まだ決めてなったな」
「え? 私はホムンクルスなので、名前なんて必要ないです」
「そういうわけにもいかない。いつまでもお前、とかホムンクルスとかでは呼びづらいからな。俺が名前をつけてやろう」
「そうですか。マスターがそう言うなら、良い名前を考えてくださいね」
「いや、実はもう考えてあるんだ」
ジョシュアは照れながら、その名前を口にした。
「……いい名前ですね。どのような理由でこの名前を?」
「べ、別に何だっていいだろ」
「何でもよくないです! 名前にはちゃんと意味があるんですから。教えてもらわないと困ります」
ジョシュアは、その名をつけた理由については、ずっと黙っておくつもりだった。
それは、自分が一人前の錬金術師になるまで、見えないところからずっと見守ってくれていたはずの、母親の名前だった。
——————Name of Homunculus. closed.
ロンドンからの手紙
——物語は約三ヶ月前まで遡る。
空を見上げれば、白く濃い雲が覆っている。世界中で最も蒸気機関が発達したと言われるこの地に、ひときわ目立つ建物がそびえ立っていた。その中心には、ビッグベンと呼ばれる塔がある。世界はこの塔に備え付けられた時計が示す時間を基準に動いている。
その塔の中にある一室で、ひとり筆をしたためている人物がいた。髪は白く、髭もまた白く長い。ゆったりとした椅子にその身を預けながら、サイドテーブルの上で手紙を書いていた。その表情はとても朗らかで、まるで志を共にした友人に向けて言葉を紡いでいるようだった。
「さて、どのように手紙を書けば、あいつはその気になってくれるかのう……」
そんなことをつぶやきながら、老人は筆を走らせていた。
ある日、老人の部屋に一人の女性が訪れた。
艶やかな漆黒の髪は肩のあたりまで伸びており、銀色のローブを身に纏っている。身体のラインは見えないが、ローブの上からでも細身であることがよくわかる。優雅な身のこなしは育ちの良さを醸し出していた。
「翁、ご機嫌麗しゅう」
静かに腰を折り、彼女は老人に対して頭を下げた。
「これはこれは。対外交渉局の長が、こんな老いぼれのところまで、何の御用ですかな。あと、私のことを翁と呼ぶのはおやめくだされ。私はもうこの通り、身を退いたただの老いぼれなのですから」
「何をご謙遜を。まだその鋭い眼光を閉ざすには早いですわ」
彼女は嬉しそうに微笑んで、彼のそばへと近寄った。
「ぜひともお耳に入れておかねばと思い伺いました。とある錬金術師が、完全なるホムンクルスの錬成に成功したという噂話です。ご存知でしたか?」
「……さあ、初めて聞きましたなぁ」
「翁でさえ一度も成功したことがないと聞いていますが、気になりませんか? その錬金術師のことを」
「私はもう、錬金術を使うのはやめましたからなぁ」
「……ご冗談を」
彼女はまたしても嬉しそうに微笑んで、彼の耳元に口を近づけた。
「詳しいことがわかり次第、その錬金術師をこちらに招こうかと考えています。もちろん、そう簡単に出向いてはいただけないでしょうから、当院の魔術師を派遣する予定です。最近、極東から引き入れた魔眼を持つ女性です。なにやら人の感情を視覚化できるらしいです。果たして完全なるホムンクルスに感情は宿っているのか。それは人と言える存在ではないのか。ふふふ、興味が湧きませんか?」
「……」
彼は黙ったまま、大人しく彼女の言葉を聞いていた。彼が何の反応も示さないので、つまらなくなったのか、彼女はその場を離れた。
「気が向いたら、いつでもお呼びになってくださいませ。それでは、ご機嫌よう」そう言って、部屋を出ていった。
一人になった彼は、再び筆を走らせる。先ほどよりも、少し急いでいるように見えた。
「……好都合だな。紫忌眼を持つ彼女なら、あいつをここに連れて来ることはない。この狂った世界を変える、いい機会となればいいのだが」
筆を走らせる彼の指には、太陽と月が寄り添っている模様が彫られた指輪がはめられていた。
——————Letter from London.closed.
ホムンクルスの名前
この作品は、2011年8月14日に無料配布されたものを、リバイバルしたものになります。
魔術師の青柳美羽については、『Colors』で初登場し、『魔女のカルディナール』ではほぼ主役の位置付けです。これらの作品については、いつかはここに掲載できたらな、と思っているので、もしこの作品が面白いと思われたなら、もうしばらくお待ちくださいませ。
ここまで読んでくれた皆様との繋がりに、最大限の感謝と幸いを。