わたしの記憶が消えるとき

西谷武

 今朝になって昇太(しょうた)がくれた電話はゆうべの無礼についてだった。何のことかはわからなかった。ただ、昇太という男がしきりに謝りつづけるものだから、
「いいよ。わたし、全然気にしてないから」
 と、本心とも気休めともつかない言葉を口にした。すると昇太は、
「ありがとう。本当にありがとう。もう、二度と相手にされないと思ってたんだ」
「そんなにたいしたことじゃないよ」
「本当に」
「そうだよ。じゃあね」
 電話を切るともう一度、目の前に貼ってある一覧表を確認する。そこにはずらりと人の名前が書いてあって、
 竹中平吉郎……会社の上司|(課長)(重要度C)
 浜田研三………学生時代の先輩|(重要度B)
 などと列記してあるなか、
 松前(まつまえ)昇太………会社の同僚|(重要度AAA+)
 と記してあったのだ。各人の項目には携帯電話の番号などもメモされてあった。それを見てわたしは一息ついた。
 ――わたしの記憶、またリセットされてる。昨日までのことが思い出せないや。
 そこで、わたしはどうして松前昇太が重要度AAA+なのか、探偵に調査を依頼することにした。その電話の前にある人名一覧のなかに、
 榊影三郎(さかきえいざぶろう)………名探偵|(重要度AA)
 などと書き込まれていたからだ。
 部屋のドアに貼られている会社の地図、出社時間、所属する部課……、などなどを確認してから、重要度Cの課長・竹中平吉郎に電話を入れる。
「あッ、もしもしー、竹中課長ですかぁー」
 重要度Cの相手なら、この程度の話し方で充分だ。電話の向こうからは予想に反する美声が聞こえてきた。
「その声は恵方(えほう)くんだな。で、そのしゃべりかたは遅刻する、とでも言うんだろう」
「よくわかりましたね」
「長い付き合いだ。そのくらいのことはわかる。かまわないよ。思う存分、遅刻してこい。その代わり」
「何です」
「今夜おれと付き合え」
「結構ですッ」
 電話機の受話器をたたきつけるようにして切った。せっかくの美声なのに下心丸出しの台詞をはくなんて……、だから重要度Cなんだな、と納得しつつ、出かける支度をする。と、あれがみつからない。あれ……携帯とかスマホとか呼ばれているやつだ。そもそも携帯電話って何だったっけ。言葉だけを憶えているというのも、妙な現象だ。忘れるなら忘れるで、記憶のすべて、日本語のイロハにいたるまで忘れるのなら、わけがわかるのに。だいたい、電話はわかって、携帯電話はわからなくなる、というのはどういうことだろう。携帯電話……その言葉から想像するに、きっと電話機をちょっと小さくしたような、お弁当箱ぐらいのものなんだろうな、と、思い描いた。
 そんなとき、ふたたび電話が鳴った。
「はい。えーっと。あー……、わたし、誰だっけ」
 つい今し方、竹中課長に呼ばれた名前が思い出せない。
「こちら榊探偵事務所の榊影三郎ですが、恵方福美(えほうふくみ)さんのお宅ではありませんか」
 電話口の相手が探偵などとのたまったものだから、わたしはグッドタイミングな重要度AAに対し、
「えッ、榊影三郎名探偵ですか」
「名探偵だなんてからかわないでくださいよ。先月ご依頼された件でお電話差し上げたのですが」
「はあ……。わたし、何か頼みましたっけ」
「やだなあ、とぼけないでくださいよ。浜田研三を調査してくれと、頼まれたではありませんか」
「浜田……。ああ、重要度Bですか」
「何です。その重要度Bというのは」
「いえ、こちらの話です。で、何かわかりましたか」
 何のことだったか忘れているのに、とりつくろって訊いていた。
「わかりましたよ。恵方さん。あなたの見立てどおりでした」
「と、言うと」
「浜田研三はあなたと同じ会社に勤める茄子鷹音(なすたかね)と不倫関係にあります。そのうえであなたに求婚していたのです。二股男ですよ。さらに茄子鷹音は竹中平吉郎、あなたの上司ですよ……、とも不倫関係を築いています。そういうのは何というのかな」
「茄子鷹音」
 知らぬ名だ。
「とぼけないでください。あなたの会社の社長秘書をやっている女ですよ。社長の梅後梅之助(うめごうめのすけ)との関係は、とうに終わっているようですが」
「それだけですか」
「あなたの推理はズバリ的中だったわけですよ。恵方さん。何もわざわざ、このわたしなどに調査を依頼する必要もなかった、ということです」
 ああ。わたしはいったい、何を依頼したというのだろう。他人の恋愛を調べて何になる。と、気になることが頭をもたげてきた。
「昇太は、松前昇太はどうでしたか」
「そこもちゃんと調べましたよ。恵方さんの思ったとおり、彼は白です。あなた以外と恋愛のレの字もありません。安心してお付き合いしてもよろしいかと思いますよ」
 電話が切れるとホッとため息をついた。
 すでに会社のほうには重要度Cの竹中課長に、遅刻する旨を伝えてある。そこで記憶を少しでも取り戻そうと、部屋を整理することにした。なぜ、そんなに散らかっているのかと疑問に思うほど、ばらくしゃだった。どうやらわたしは、かなりだらしないタチらしい。
 まず、くしゃくしゃになったベッドの布団を整える。ばさッと思いきりよく広げたら、紙が一枚、宙に舞った。
「何だろ」
 床に散乱するゴミのような品々の上に、ひらり舞い降りたそのチラシには、大きく次のように書かれてあった。

 ――スーパースターファンクラブ、発足。会員募集中――

 なぜか、それがただのゴミとは思えなかった。折りたたんでポケットにしまう。
 部屋の片付けは一時間で済んだ。それから適当に動きやすい服を選んで、ウォーキングシューズを履くと家を出た。
 遅刻するって言ったけれど、昼ごろ着けばいいのだろうか。そもそも会社ってどんなところなんだろう。小さいところもあれば、大企業なんていうのもあった気がする。まだ見ぬ会社に胸がときめく。
 新入社員にでもなったような気持ち。思えばそれもこれも記憶がなくなったおかげだ。わたしの気分はそうすることで、ときどきリフレッシュされているのかもしれない。街を歩いているときも、どこもかしこも見たことのない景色ばかり。会社へ向かう足はたびたび道草を食うために、なかなか駅までたどり着けない。
「わあ。これってもしかしてケーキ屋さん」
「わあ。ひょっとしてこれが本屋さん」
「わあ。ここは……、何」
 そこにあるアーチには「裏街道八十八号線通り」などと書いてあった。その入り口のところでピエロがチラシを配っている。
「お姉さん。本日開通しました裏街道八十八号線通りへようこそ。お姉さんはちょうど百人目のお客さまになります。今なら通行料金が無料になるうえ、わたくしめの仲間がご案内差し上げますよ」
「わたし、会社に行くところだし。あんまり遅れるのもまずいから」
「まあ、そうおっしゃらずに」
 ピエロがぴぃッと口笛を吹くと、電柱の陰から同じようなピエロが現れた。違うところは背が低いところか。
「では、これより先は、このわたくしめが裏街道八十八号線通りをご案内いたしますので、どうぞ、ご安心してついてきてください」
 案内する小さなピエロはラメルと名乗った。歩きながら不思議な歌を歌っている。わたしも歌を聴きながら名乗っていた。

 ここーはよいとーこーおーおー
 うーらーかいどーはちじゅーはちごー
 あそーこよいとーこーおーおー
 おもーてかいどーはちじゅーはちやー
 よいよいよーいと
 よいよいよーい

「なーに、その歌」
「はッ。これは裏街道八十八号線通りのテーマソングでありまして、昨年、一般公募された歌詞から選ばれた大賞作品に、作曲家の弁当弁さんが曲をつけたものであります」
 ベントウベンなんていう作曲家は知らなかった。記憶が更新されてしまったのだから、致し方がないことだと思う。
「着きましたよ」
「えッ。どこに」
「スーパースターファンクラブの本館です」
「ここが」
 そこには摩訶不思議な建物が建っていた。わたしは思わずポケットのなかのチラシを取り出して見比べてしまった。
「スーパースターファンクラブへようこそ」
 入り口には体重が百キロ以上はありそうな大きなピエロが立っていた。
「ラメル、このお客さまのお名前は」
「恵方福美さんとおっしゃるそうです」
「では、福美さん。こちらへどうぞ」
 大きなピエロは暗い穴のなかへ入ってゆく。一瞬ではあったが、わたしはそこが底知れない闇に思えた。躊躇するわたしの背中をラメルが押した。
「福美さん。さあ、早く」
 そこはまるでお化け屋敷だった。前をゆく大きなピエロはより大きく、後ろからついてくるラメルはより小さくなるような錯覚があった。わたしはと言えば……
「なんだか、わたし、変だわ」
「どうしました、福美さん」
 ラメルの問いに、
「身体が前へ進むほど、大きくなっている気がする」
「ははは。錯覚ですよ」
 大きなピエロが笑う。
「出口です」
 その言葉と同時だった。わたしの記憶はその場で途切れた。突然だった。目の前がまぶしいほどに明るくなり、わたしはオフィス街にいた。後ろを振り向くとピエロたちの姿も、スーパースターファンクラブ本館の影も形もなくなっていた。どこをどうやってそこまで来たのか、記憶が、ない。道ゆく人々はなぜか、わたしをちらちら見やりながら通り過ぎる。そのなかの一人に声をかけられた。
「あのー」
「はい」
「もしかして女優のユリア・シャルール・小山さんじゃないですか?」
「はい?」
「あッ。やっぱりそうだ。ぼく、大ファンなんですよ。サイン、もらえませんか」
「あの、わたし、その……、あれ? わたしの名前、何だったっけ」
「ユリア・シャルール・小山さんでしょ。とぼけたりしてー。おちゃめなんだから」
 なんだか、わからないままに適当なサインをすると、その男は喜んで去っていった。
「わたし、また、記憶がなくなったみたい」
 とりあえず家に戻ろう。と、家がどこにあるのかが思い出せない。持ち物を確認すると、ポケットのなかに電話番号のメモがあった。めっきり少なくなった電話ボックスをようやく見つけると、その番号に電話をかけた。
「あのう、わたし、」
「ああ。その声は恵方さんですね。どうかしましたか」
「わたし、また記憶がなくなって」
「記憶が?」
「あなたは」
「わたしは探偵の榊影三郎ですよ。恵方さん、どこにいるんですか」
「ここは、」
 わたしが近くにあった住所表示を見て答えると、榊影三郎と名乗る探偵は、
「こちらから近いですね。すぐ行きますよ。そこを動かないでください」
 と、言い置いて電話を切った。
 わたしは電話ボックスのなかに座り込んだ。そのとき、はじめて胸が大きくなっていることに気づいた。わたしはこんなにグラマーだっただろうか。思い出せない。
 十五分という短いあいだではあったが、榊探偵が現れるまで、心細くて仕方なかった。
「あなたは誰です」
 電話で伝え聞いた服装の男が現れたので、思わず訊いていた。
「これは。女優のユリア・シャルール・小山さんじゃありませんか。何をなさっているのです」
「榊影三郎さんという探偵が来るのを待っているんです」
「えッ。じゃあ、ひょっとしてあなたは、恵方福美さん? そんな馬鹿な」
「わたし、記憶がなくなってしまって」
「そういえば似ているな。そっくりだ」
「えッ、何が」
「恵方福美さんと女優のユリア・シャルール・小山さん。声がそっくりです」
「声が? わたしはいったい、誰。思い出せない。ああ、記憶が消えてしまっている!」
「安心してください。この榊に任せてください」
「でも」
「おれには影の能力があります」
「影の能力」
「はい」
 榊影三郎はその特殊能力によって難題を解決してきた探偵だという。普通の探偵とはそこが違うらしい。
「恵方さん、というよりも、ユリア・シャルール・小山さん、じっとしていてください」
 榊影三郎の口から呪文のような言葉が漏れ出てくる。
 影・影・影・影・影・影……
 するとどういうことか、わたしの影は太陽の位置に関係なく、左と右に、二つの相反する方角に分離したのだ。それを見た彼は、
「ふーむ。あなたのなかには二人の女性が宿っている」
「どういうことですか」
「記憶がなくなるようになったのはいつからですか」
「それも、憶えていないんです」
「考えられるのは二つだ。恵方福美さんの身体にユリア・シャルール・小山さんが入り込んでしまったか、あるいはその逆か」
 わたしをじッと見つめる目は真剣そのものだ。
「分離してみましょう」
 探偵のその言葉の意味、それがわかったのは、ふたたび彼の口から、
 影・影・影・影・影・影……
 という呪文が聞こえたときだった。
 わたしの身体は二つに分離した影の上にあった。驚いたのは次の瞬間だ。
 物が二重に見えはじめた。目の前の探偵が二人に分身してゆく。
 あとでわかったことは、わたしのほうが二人に分身していたということだ。わたしの心は二人の女に同時に宿った。榊探偵は言う。
「心は一体化してしまったのですね。それが原因で互いの心を交互に表す瞬間にあなたたちの記憶は消えるようになった」
 その日、わたし・恵方福美は遅刻して出社した。ユリア・シャルール・小山のほうは、所属事務所に急行した。ここ数ヶ月のあいだ、彼女はときおり連絡を入れるのみで、行方をくらましていたらしい。
 榊探偵の話では、女優の彼女が普通の生活に憧れて、わたし・恵方福美に入り込んでいたというのだ。
 スーパースターファンクラブはそんな彼女をはじめとしたスターたちと気軽に触れ合える施設を目指して作られたものらしい。ユリア・シャルール・小山に同化されたわたしがあそこを訪れたというのも、どうやらただの偶然ではなかった、ということだろう。
     *
 その後、わたし・恵方福美と女優のユリア・シャルール・小山とは、互いに離れていながらも、心を共有したままだ。もう、二人とも記憶をなくすことは、ない。

わたしの記憶が消えるとき

わたしの記憶が消えるとき

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