Encore

ツイッターの「#かのじょのもしも話」というハッシュタグから着想を得て書かせていただきました。

1.Berceuse

一輪のばらの手順で愛されるとは、くだらない、椿や雪に埋もれるが美しいのに。

対談集で、もういない偉い人が話していた通り、世界はあと二百年ともたないらしい。正しくはもう百年を切っている。なにせ古い本だった。だけれど、わたしにはそれほど関係がない。死んでも運良く生きながらえても、あんまり違いが無い。
時々考えるのは、誰かのことと、それから誰でもない人のこと。
父と母はなぜ結婚したのか。
れんげ畑はどこへ消えたのか。
地層がお菓子のウエハースだったら。
海峡大橋が崩れ落ちたら海はどんな悲鳴を上げるのか。
よく車の中でかかっていた曲のバンドはどこへ行ったか。
死んだ人と生きているけれど会えない人に違いはあるのか。

ラジオのブラックミュージックが一瞬途切れて、あぁ、田舎に来たのだなと実感がわく。
窓を薄く開け、すかさず紫煙をくゆらせた。窓の外で金色の穂がゆれて、もうとっくに日暮れだった。夕空はあっという間に暗幕に塗り替えられ、ぽつんと遠い橙色の灯りが瞳に映る。夜桜の季節に花のないことは寂しい。それから、今田舎に会いたい人がいればいいのにと思った。
昔はもっと水田があったらしい。棚田とかも。真実ならいつだって美しい季節に違いない。
そういえば、水田を覗き込んで、底なしの湖みたいに見えたことがあった。七つにもいかないあの日のことを今でも鮮明に覚えている。いつもあの子は全身が金色に輝いていた。それも実際は日焼けした肌を見て、わたしがそんなイメージを抱いただけだろう。でもその子は確かに、泥まみれになってもまだ光っていたのだ。金色の夕立が音も立てずに降る中、やはり底なしではなかった水のかたまりに飛び込んだその子は、尻餅をついて笑っていた。

飛び込んで泥まみれの人を引き上げるのに一生を費やしたかった。わたし一人分の生活を。
あるいは犬の背中で眠る小さな石になりたかった。何百日か後には、その犬の感情のひとつに。

もしもわたしが生きながらえて、誰も愛することができずに死んでしまったらどうしよう。
蔦のからまる家に住むことになるかもしれない。水道が止まって、わたしは庭野菜しか食べられなくなる。その時わたしは何人分のお墓まいりをしなきゃいけないのだろう。
死ぬ直前でも、果実にかじりついって喉をはじめ全身を新品に変えるみたいなことばかりを愛だと思い込んで、なにもわからないまま、最後に死に至る病を待つことになるかもしれない。日が暮れた後、公園の手すりにもたれかかっていたら、コンクリートの塔の隙間に白い月を切り裂く電線が見えて、左手に伸びてきた蔦にみとられながら、終わりを迎えることになるかもしれない。それならなんとなく寂しさが埋まる気がする。もたれかかる人がいるならもっとよかったけれど、夜中の公園は一般に面白いものではないらしいので、その時はたぶん一人だと思う。
いくら愛した人に愛されることを望めども、好きな人を幸せにすることでしか幸せになれない上に、無条件の愛だとか信仰だとかに身震いしてしまうような生き物には、祈りなんてあんまり意味がない。実際を知っているものに対して、意地を張り、くだらないわがままを言っているのだから、理想通りでなくても仕方ないのなかもしれないと、こういう時に役立つあきらめを教えてくれた今死にゆく人生に感謝が絶えない。
ちんけな皮肉にも厭世にも人間賛歌にも、とにもかくにも目の前に現れるもの全部に辟易している。疲れって本当に恐ろしい。確かに最近話を聞き入れる余裕がなくなった。脳の本格的な疲れはいつ始まったのだろう。これでも小学生の時分は、夜寝て朝起きて、どうしてこんなにも朝が早く来るのだろうかと騒ぐ子どもだった。

ヘッドライトが照らす先まで、脇道にシロツメクサらしき植物の絨毯がのびている。
とっくに水田地帯はすぎてきた。大陸側から少し海の方へ出たのだ。まだ湾岸には遠いが、かすかに潮風がかおっている。
実は先程から、電柱ともつかない薄ぼんやりした白い、それも僅かに発光しているような感じのものが進行方向に見えている。かなり先だが、背の高い柱のような障害物があるのだ。避けるか、避けまいか。避けるのも面倒に思われた。

フランス語は愛を囁くのに最適らしい。わたしが眠っている誰かにこっそり愛を囁ける日がきたら面白いのに。そうしたらわざわざ奨学金を借りてまで行った大学が、無駄じゃなかったと思えるかもしれない。
でも、もうこの世界には囁けるものがない。妄想はおしまいだ。正しい麦の旋律も、遠くの灯りも、小鳥の歌声も、桜蘂も、月見草も、今やいない人のための絶対音楽だ。昔ラフマニノフが言ったことが今なら少し理解できるのだから、世の終わりというのは本当に素晴らしい。万人を芸術家にする力がある。月の光に導かれて人々が過ごすこのご時世、都会の夜は若干騒がしくなった。熱心な研究者が競い合って論文を書くために、宇宙に関する人びとの興味は半永久的に煽られる。しかし狂気の国とも言い難い。なぜなら世界中が狂ったように二倍、いや三倍速で進もうとするからだ。もはや牧歌的なわたしもあの人も死んだ。
燃焼の果てに灰の海を拝めるのではないかと、ワクワクしないでもないけれど、わたし自身のことを考えると、気分がすぐに悪くなる。結局頑張っている人を傍から見て嗤っている、何もしない、詩の一つさえ書けない人間。

電線の少ない田舎は、デカい真っ赤な月を壊せる役者もいやしないから窮屈だ。
気分を良くする方法だって、結局人にやさしくする以外知らないから、退屈で長い潮風の夜を抜け出す自信がない。
あともう少し踏み込んだままでいれば合流道路を突っ切って海にまっさかさま。黒い海が白い飛沫を上げるのかと思うと、心なしか、いや、はっきりと嬉しさがこみあげてくる。

Encore

勢いでばばばと書いてしまいましたが、続きを出せたらと考えております。

Encore

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-22

Copyrighted
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