ケマケマ

 今は砂漠の広大な地に、かつて隣り合う二つの大国があった。
 歴史の文献を紐解けばこの二国の滅びた時期が非常に近しいことがわかる。栄えし頃はまるで合わせ鏡のように並び称されてもいて、緑豊かで肥沃な大地にそれぞれ絢爛な王城を構え、民達は尽きぬ自然と文明の実りに活気を絶やすことがなかった。かのガンジスの命脈に通じた両国を渡る大河は、友好の流れを永遠に繋ぎ湛えるものと思われていた。
 平穏を破ったものについての確たる資料は残されていない。その少し前に一方のシャダルの国王が急死し、間もなく第一子がその王位を継いだとあるが、果たしてこの裏にあったとされる王子の野心を発端と見るか否かは諸説分かれている。
 両国の戦いはインドラの神が踏み下ろし創られたというヴァタの大地を主として繰り広げられた。幾百の象が引く戦車に乗り、幾千もの槍を携えた両軍の大行進が、この地で合間みえては激しい怒号と血の雨を渦吹かせた。民達は嘆き、ヴァタに染みた血の乾く日が来るのを待ち望んだ。
 強国同士の衝突は近在の小国をも巻き込み数年に渡って続いた。両国の民の生活は貧しさと不安に疲弊しきり、王は日々戦いを終結させる知恵を国の識者に乞う。この話はそんな戦乱の時代を舞台に伝えられている。

 ある日シャダルの若き王の前に一人の女が通された。王宮付きの老学者の紹介によるものだったが、首から幾重にも垂らした長い数珠を黒衣に鳴らし、瞳には燃える緑の色を宿して、脇に小さな木箱を抱えていた。
「ケマケマの卵にございます」と、玉座の前にかしずいた女は箱を掲げた。
「聞き慣れぬな」
 王の訝しげな表情に女が続ける。
「ケマケマとは原初の生き物の名前でございます。この世界の柱であり、ヒラニア・ガルバの膝とも称されているものです」
「我が今求めているのは強き武器と戦に打ち勝つ策だ。慰み物なら手に余っている。この女を向こうへ」
「偉大なる王よ。私の首をはねる前に、今少しの時間を――」
 女は木箱を石畳の上へ置く。蓋のつまみを持ち上げ、途端四方の面が倒れるや、箱の中身が衆目にさらされる。
 現れたのは灰色の一個の玉であった。王は片手でやっと掴める程の真珠を所有しているが、それよりも少し大きく、表面はよく磨かれた石の輝きを放っている。
「ケマケマの卵は光を浴びて孵化します」
 女の言葉と同時に石玉より小さな破片が弾け飛んだ。床の上でゆらゆらと揺れながら、内側より外壁を突き破らんとする何者かが、少しずつ姿を現していく。
 やがて卵から覗いた頭を見たとき、王や臣下は思わず眼を見張った。
 くああ――くああ――と産声が高く細く、静まり返った王の間に響いた。
 身を乗り出した王に、大臣が卵をそっと袖に包み、玉座へと差し出す。それは世にも奇体な生物であった。
 顔はまるで魚、破った殻より突き出した肉色の小さな頭を左右に動かしているが、しかし魚と違ってこれには瞼があるらしく、眼の位置には細い筋があるばかりでまだ瞳は開かれていない。人の胎児のような皮膚感に、蠢く手もまた人の物によく似ている。更に注目すべきは胴部で、ここは皮膚とは異質の甲で覆われ、首や手足はその内から伸びていた。まるで亀のようだが、太い頭や手足がここへ引っ込むようには見えなかった。
「この戦いを終わらせる者でございます」
「どういうことか?」
 会話を続ける気になり、王は再び女へと眼を据えた。
「ケマケマはこの世で最も大きく、そして早く成長する生き物でございます。成長したケマケマは巨億の敵もひと息で散らす力を秘めております。これを育て僕とすることこそ、我が君の頭上へ勝利の光をもたらす術と心得えます」
 王は老学者の顔を見た。古老はおそれながらとかしこまり古い神典について語り始める。人知の及ばぬ遠い昔、天上の戦において軍神が使役した獣に同じ名があり、その姿形・性質は女の先の言葉と同様であるという。
 話を聞き終えてしばしの沈黙の後、王は決断を下した。
 国の賢人が戦策に頭を悩ませていた頃、女はいずこよりか現れ学者の許を訪れたのだった。老人は女の有している膨大な神秘の知識に圧倒され深く話に聞き入り、とりわけ件の幻獣の存在には強く心を揺さぶられた。そして燃えるようなその深遠な緑の瞳に不思議と逆らい難いものを感じ、請われるままに女を王宮へと招かせたのである。
 学者はこの奇怪な生き物の世話を任されたが、実際の飼育についての采配は全て女によって行われた。女の指示のままに町の一区画が潰され、数日の後には獣の住居となる巨大な天幕が姿を現した。
「これほどの屋根が必要だろうか」
 学者は遥か高い頭上の梁を見上げ、続いて目の前の、うず高く積まれたイモやトウモロコシや皮を剥いだ鶏の山へ一心不乱、頭を突っ込んでいる姿を見やって問うた。
「これでもまだ足りぬ程です。いずれはこの屋根をも越し、王宮の頂に並び、遂には雲へと頭をつきます。ここはそれまで獣を敵の目から隠すための覆いに過ぎません」
「指の股に水かきがあるが、これは本来水に棲むものではないのか?」
「ケマケマは原初の生き物であるが故、世界が海であった頃の名残を残します。陸で育て陸のものを食する内にこれも自然と消えていきます」
 敷き詰められたシダの葉の上で餌を食む体は、すでに子牛ほどの大きさに成長していた。
 王は女の話を全て信じた訳ではない。獣の飼育は軍神の力にあやかるための一種の神事として行わせていた。しかし熱気の篭る生臭い獣舎を見舞った際、半月と経たぬ内に巨象の体躯へと変貌した姿を眼にして、若き王は息を呑んだ。更に半月もすれば小山ほどの大きさとなって幔幕の囲いをも破る。そのときこそ戦場へ出て敵軍を蟻と潰し、彼の地では自軍の凱歌の声が響くのだ――。
 王は魚の溶け崩れたような顔を見上げた。灰色に変色した皮膚の所々から赤毛が長く伸び、それが羊の肉を含んだ咀嚼の動きに合わせ揺れている。睡眠以外この生き物は絶えず食事を続けるのだ。
 ある夜半、闇を裂く悲鳴が聞こえ、学者らが駆けつけるや獣の幕内から飛び出してきた者があった。女は即座に声を上げこれに近付くのを制止する。絶叫し、顔を覆って地面をのた打ち回った挙句に影が動かなくなると、女は振り返って、
「おそらく死液を浴びたのでしょう。主人に従順かつ忠実なるケマケマは、しかし一度怒らせると口内より恐ろしい毒を噴射させます。かかった者は勿論、近付いた者の命さえも奪う力があり、戦においては強力な武器となるのです」
 聞いた老学者はしかめたが、報告を受けた王は却って満足げな笑みを浮かべた。三日の間、憐れな世話係の死骸に近付くことは許されなかった。
 女の言葉通り、それから十日が過ぎた頃には天井の梁へ頭を付け、又数日の後には天幕が外され、雲へと顔を覗かせる程の巨体がシャダル国に出現した。獣は四肢を膝折って腹と顎を着地させ、瞼を伏せジッとしている。王が尋ねると、女は傍に設けられた銅鑼を指し示し、
「ひとつ叩くと立ち上がり、ふたつなら前進、みっつ叩いて歩みを止めます。硬い皮膚は鋼を弾き、背負うた甲羅は火薬の爆撃にも決して傷付くことはありません。――偉大なる王よ、典には記されています。ケマケマを従える者はいずれ世界の覇者となる定めなり、と」
 命により銅鑼が打ち鳴されるや瞼の内より眼球が見開かれ、黒い鏡のような大きな瞳に王の姿を映し出された。轟とひとつ鼻息を噴いて石塔の脚を伸ばしたその姿に、周囲一同は深い畏怖を声にして洩らす。昼日を遮り落とされた巨大な影は国土を夜に変え、遠く見上げた城下からは恐怖のあまり悲鳴を上げる者さえもいた。
 しかし戦場への行進が開始され、巨獣の後へ連なる勇ましき隊列を認めるや、人々のどよめきはやがて国中を覆い尽くす歓声へと変わっていった。
 行軍に先立つ旗振り役と、馬車に乗せられた銅鑼の音に導かれ、獣はヴァタの大地へと足を踏み入れる。乾季の風が黄色く吹き抜ける中、鋼の響きが三度鳴らされ獣は動きを止めた。大平原を挟んで対峙した敵国スラヴァーヤの軍隊も、このただならぬ事態に動揺の様子を見せている。
 高らかに銅鑼が打ち鳴らされ巨体は再び直進する。雄々しい声がシャダルの兵士達から沸き立つ。しかし獣が大地の中央に差し掛かったとき、不意に波が退くようにしてこの声は止んだ。
 輿の玉座にいた王も思わず立ち上がり、眼をむき出しにして前方を見詰める。相対する敵陣の奥より自軍と同じ姿の巨獣が現れたのだ。
 ヴァタの大地の上で二頭の獣は互いを認めるや、共に相手へ躍り掛かっていった。シャダルの獣は前足を振り上げ、太い爪を頬へと食い込ませるや容赦なく引き下ろす。掻かれた灰色の肌から鮮血が噴き出し、スラヴァーヤの獣の咆哮が辺りに響くと、両国の兵士達は腹の底から震えを覚える。眼前で繰り広げられる四肢持つ巨山のぶつかり合いに戦も忘れ、ただ強大な畏敬の念に己が意識を寂滅させるばかりであった。
 鼻先を喰い破らんとシャダルの獣が顎を構えたが、ここに突如白煙が立ち昇る。スラヴァーヤの獣があの恐ろしい毒液を吐き掛けたのだ。悲痛な叫び声を上げながら頭を振り、液を払おうとした隙を喉笛へ喰らい付かれる。同じく毒を撒き散らすもあらぬ方向へ飛ぶばかりで、敵の牙は恐るべき力で益々深く刺さっていく。シャダルの獣は前足を上げ虚空をもがいたが、急所の一撃に力をさらわれ次第に動きを弱めていくと、ついには膝の支えを失い轟音と共に大地に崩折れた。もうもうと上がる砂埃の向こう、開放された首から鮮血が瀑と噴き出すのが見えた。
 かくもあっけ無く同族の歯牙に一方が討ち果たされ、動かなくなった様を見ても、放心の人々はただ茫然のまま佇んでいた。やがて頭を起こした獣が敵軍を見据えると、スラヴァーヤの陣より銅鑼の音が高々と鳴らされる。勝どきの怒号に押されて巨体が歩みを開始するや、シャダルの軍勢は一転恐怖の色に染まった。
 進撃を鼓舞するシャダル王の声にも兵士は竦んで動かない。獣は次第歩みを速めていき、五臓を揺らす地響きの前に皆我を失い、武器を放って踵を返し脱兎の如く駆け出した。
 王は輿から投げ出され背筋を地面へ強か打ちつけた。津波となって押し寄せる自軍の兵士に蹴られ、仰向く先に天上の柱の降り落ちる様を見る。巨足のひと踏みは、逃げ惑う数多の兵士と王の命を一瞬にして大地に刻印せしめた。
 猛進より逃れた者も無事では済まない。巨獣の口中より流れ出る液体は、外気に触れるや風にその毒素を飛ばし、死を巻いて周囲に吹き渡った。呼吸の内にこの風を取り込んだ者は直ちに体の自由を奪われ、地に打ち倒れ落命していく。
 恐大の影はついにシャダル国内へと侵入し、猛威のままに町を瓦礫と骸の山へと変えていった。銅鑼の音も待たず、人々の悲鳴を嵐の唸りでかき消し、眼に付くものすべてを破壊せんとするその様は、自らの意思によって憎悪を揮う暴神そのものであった。
 やがて沈む陽の光にシャダル一帯が赤く染まった頃、廃墟に動く気配は無い。砂塵と死臭の立ち込める影の街に、原初の名を持つ生物だけが厳然とそびえ立っていた。巨大な黒い瞳には一点の光さえ射し込まず、深遠の内に静かな暗黒を孕ませるばかりであった。
 ヴァタの大地より死風の収まるのを待ち獣はスラヴァーヤへと戻された。異形の守護獣は国中より歓待の声で迎えられ、人々は王国の更なる栄華を高らかに謳い上げた。居住地へ辿り着くと獣は体を下ろして瞼を閉じた。この眠りは覚めることがなかった。
 初手に受けた傷が首の動脈にまで達していたらしく、手当ても無く置かれた生命は既に尽き掛けていたのだ。獣の死後宮廷では骸の処分が検討されたが、一方の城下ではある病が流行り始めていた。高熱と衰弱が突如発症し、数日の後には苦悶の床で息を引き取る。原因不明のままこの悪病は瞬く間に広がっていった。
 発生元が獣舎周辺からと判明したときには遅く、既にスラヴァーヤの王も病床に伏せっていた。死の間際に無念の王はある者の名を繰り返し叫んだが、臣達はついにその人物を見つけ出すことができなかった。こうしてスラヴァーヤもまたシャダルと同じく死の国へと化していったのである。
 以来ふたつの骸が骨となり土と還るまでこの地に近付く者はなかった。死病を生じさせる腐肉が消えるまでには実に数年の時を要したのだ。
 僅かな生残者の内、かつてシャダル王宮に仕えていた者は怯えを含んで伝えたという。巨獣が迫り来て逃げ出す人々の中、ただひとり城の胸壁に立ち、狂ったように笑っていた女の声が未だ耳に張り付いていると。あのシャダルの王へ卵を差し出した燃える緑の瞳の女だ。
 しかし同様に、死病の席巻したスラヴァーヤの町を黒衣の女が高らかに笑いながら歩いていたと証言する者もいたらしい。王は断末魔にこの者の名を叫んだという。いずこよりか現れ王国にあの獣――ケマケマをもたらした女の名を。
 話による姿形はまったく同じ、だが同じ人間が二人いるはずもない。二国の戦に巻き込まれて属国とされ、滅ぼされた小国に双子の娘があったとも口にされる。あるいはこれらの復讐であったのではないかと。また一方で、聖なる大地を人の血で穢され憤激した軍神の使者であったと話を結ぶ者もいる。
 いずれにせよ二つの大国は不毛の地となり、かつて互いの国土を結んでいた豊かな大河も今は干上がり二度と再びここへ人々が根を張ることはなくなった。踏み砕かれた瓦礫の国も、人の消えた街も、やがて時と風の任せるままに砂漠の砂と散っていったのであった。

ケマケマ

とにかく古代インド辺りで怪獣を育てる話を書こう。
そう思って創作しました。

ケマケマ

古代の国を舞台にした怪獣小説です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-03-21

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