剣は錆びず

間宮 要 作

三本の剣

午前一時。今日、いや昨日の課程を終えた私、井上 佳奈(いのうえ かな)は、自分の部屋のベッドに、三十五歳になって少し疲れやすくなった身体を預けていた。

「おかしいな、寝れない」
身体は疲れているのに、何故だかいつものようにすんなりと睡眠に入れない。
たまに、よくあることだ。何故か寝付けない日。睡眠を欲していないわけではないのに、瞼は重くならない。

こんな時には、決まってやることがある。
目を閉じて、私の過去とか、私自身のことについて考える。
そうしていると、脳内にその映像が流れてくる。それを眺めているうちに、だんだんと、深い眠りに落ちていくのだ。

さて、今日は何を考えようかしら。
目を閉じて、一つ、深呼吸をする。そうして、今日私が考えたいことが思い浮かんでくる。
なんだろうな、今日のお題は。
頭の中にぼんやりと浮かんできたお題。それは今までに一度も考えたことのないものだった。

「私の三本の剣」だって?
中々面白そうな話題に、思わずクスッと笑わされた。だって、三本の剣なんて大層なもの、今の私が手にしているなんて思わないのだもの。
もう一度、深呼吸をして、私の濃いようで薄かった三十五年の記憶を辿る。そして、その「三本の剣」とやらを、思い浮かべることにした。


『私の三本の剣』

一本目は『愛情の剣』だろうか。
元々、愛護心が強かった私は、十も行かない頃から、何匹かのペットと生活を共にした。犬、猫、トカゲ、ハムスター……結構色々な生物と暮らしたものだ。私の母が、色々飼ってみたい主義だったため、家には絶えず何かしらの動物がいた。その影響で、私の動物愛護心はどんどん育まれていった。


彼らとの思い出は沢山ある。一緒に遊んだこともあるし、答えなんか返って来ないのに、悩み事や質問なんかをぶつけていたこともある。どれもいい思い出として、私の脳内に深く刻まれている。
姿かたちは変われども、私はどの生物にも十分すぎるくらいの愛情を与えていたつもりだ。
一人暮らしを始めてからも、ペットは飼っていた。さすがに、一人になりたての頃こそ飼ってはいなかったが、少し余裕が出てきてから、私はレオパードゲッコウを飼い始めた。
少し薄めの黄色をまとった、少し小さめの身体。クリッとした瞳。ちょこちょこ動く愛らしい姿に、動物要素不足気味だった私の目は釘付けだった。
今でもその子は元気だ。こじんまりとしていた身体もすっかり大きくなった。オスのその子に、同種のワイフも与えて、今では子供もいる。今は、家族三匹仲睦まじく暮らしている。


ペットだけじゃない。私には彼氏が居た。時がある。中学時代の頃だ。名前は三井 圭(みつい けい)。身長が少し高めで、線の細い、眼鏡をかけた、少し地味目な男だった。
私の居たクラスには、どちらかというと活発な男子が多く、彼のような休み時間には進んで本を読んでいるような人間は珍しかった。かと言って、友達がいないわけではなかった。
話が面白かったのだ。それこそ、進んではっちゃけるような感じではなかったけれど、たまに真顔で凄まじいジョークを言い放つ。そして、周りがゲラゲラ笑っている中、特に自分はそれに混ざることなく、また本を読み始めるのだ。そのギャップが、周りの人達の心をくすぐっていたようで、彼の周りには人が自然に寄ってきたのだ。まあ、そんな中でも彼はゆったりと本を読んでいたが。
私は、彼のそのクールな部分に惹かれていったのだ。他とは少し違う雰囲気に、当時の私はメロメロだった。

しかし、私は彼のクールじゃない部分を知っている。
それは、私が告白した時。放課後、教室に一人で残っている彼に、私は目の前に立ってから「好きです」と言った。彼は「えっ、ぼ、僕に言っているの?」と辺りを見回して、誰もいないことに気付くと、急に沸騰でもしたかのように顔を真っ赤にして、「僕じゃん……」と本で顔を隠していた。その焦ったような行動が面白くって、でも、告白している側が笑うのはおかしいだろうと思って、必死に笑いをこらえていたのを覚えている。
その時はよく頑張ったと、我ながら思う。だって、笑うのをこらえながら、「付き合ってくれますか?」って、ちゃんと言えたのだもの。彼が「ぼ、僕で良ければ……」とオーケーの返事をしてくれた途端に、何かから解放されたように大笑いした。彼も、私に釣られたのか、中々見せない笑顔を見せてくれた。その顔は、他の男子より少し大人びているようで、でもあどけなさが残る、そんな感じだった。

付き合い始めたとは言うものの、私たちがデートらしいデートをしたかといえばそうではない。私たち二人の時間、と言ったら、放課後と下校時くらいだった。
私が部活のない日は、部活無所属なのにいつも残って本を読んでいる彼の脇で、私も本を読んでいた。部活のある日は、放課後は残念ながら、だが、部活前のちょっとした時間に話したりした。
部活が終わったり、完全下校時間になった後、私たちは一緒に下校した。秋の終わりごろに付き合い始めたので、寒い中を二人で並んで歩いた。更に住んでいたところは雪国だったので、とても歩きにくかったのを覚えている。

しかし、この毎日続いた悪天候に、私は感謝しなければならないだろう。

手を繋いでくれたのだ。それも毎日。
始まりはちょっとしたことだった。私が「寒いな」と呟いたら、彼は何も言わずに手を握ってくれたのだ。
「こうすれば、寒くない?」
そう言った気がしたのを今でも覚えている。あの時の嬉しさに勝るものを、そこから二十年くらい経験していないのではないか、というくらいの衝撃をあの時受けたのだ。

一度だけ、キスをしたことがある。
その日は、いつまで経っても彼が手を繋いでくれなかった。たまにはこういう日もありなのかな?とか思っていたが、目も合わせようとしてくれなかったのだ。どこか機嫌の悪そうな彼に、嫌われたのかな?とか、そうなら、嫌だなぁとか思いながら、何も言わないまま、二人で並んで歩いた。
少しの間、そのまま歩き続けた。そのうちに、人目のつかないような路地裏に出ると、私は「嫌いになった?」と彼に聞いてみたのだ。どうにももどかしくって、やりきれない気持ちでいっぱいだったのだ。
すると彼は、その日握ってくれなかった私の手を握って、グッと引き寄せた。そして、その勢いのまま、私たちの唇は触れ合った。

どのくらい、そのままでいたのだろう?今でもよく分からない。ただ、彼の意外な行動と、間近で感じた彼の体温に、少し呆気に取られていたので、私の身体は硬直していた。
三月の終わり、そのキスを最後に、私たちの恋仲は終わった。

お互いに受験を控える身だったので、自然と距離を置くようになったのだ。特に、彼は少し離れた所の進学校を希望していたので、私もそんなに私情に付き合わせようとは思わなかった。
そうして、お互いの仲は自然と、恋人でもなんでもない関係へなっていったのだ。
淡くて、夢のように過ぎていった日々だったけれど、とても嬉しかった。好きな人と時間を共にすることが、尊いものなのだと、身に染みて感じていた。
私は彼に愛を与えていたつもりだし、彼もまた、私に愛をくれた。相思相愛という言葉がぴったり当てはまるような、そんな間柄を築いていた。それゆえに、あの時のキスは、お互いのことを思った、別れのキスなんだぞ、と暗黙の了解的に理解していたのだ。

まさかそれ以来、そんな経験を一度もすることがないまま二十年間を過ごすとは、この時は思っていなかった。


二本目は……『熱意の剣』だろうか……?
これも学生時代の話になる。中高とバレーボール部に所属していた時だ。
あの時は本当によく頑張っていた。今ではそれなりの身長なものの、あまり身長の伸びがよろしくなかった私は、中学ではリベロを任されていた。
リベロは得点には直接結びつかないポジションだった。しかし、だからといって、面白くないわけではなかった。必死でボールを追いかけることはキツかったけれど、苦ではなかった。
一生懸命に拾ったボールが、チームの危機を救ったということになれば嬉しかったし、結果として勝利に結びついてくれれば、更に嬉しかった。
だから、ひたむきに頑張った。なんとしてでも、という勢いで、必死にボールを拾い続けた。
その甲斐あってか、私は部長を任された。「佳奈ちゃんしかいない」と、全員に推薦された時は嬉しかった。今まで必死にやってきて良かった、とみんなから送られた拍手を受けて思った。
チームとしても、県大会のベスト・フォーまで勝ち上がり、元々そんなに強くはなかったチームにとっては、快挙なことを成し遂げた。

高校に入ってからは、身長もそこそこ伸び始め、色々なポジションをこなすようになった。それでも必死に頑張って、自分たちの代では、私立の強豪校がひしめく中で、これまた県ベスト・フォー。悔いのない結果となった。

仕事だって、熱意を持ってやっていない訳ではない。そう、あくまでやっていない訳ではなかった。ただ、飽くまでやってしまったのだ。
二十の中頃から十年以上もやっていれば、慣れがきてしまうのだ。

洋服店で働いているのだが、これがあまり苦ではなかった。はじめは、緊張や不安が渦巻く中で、それでも持ち前の熱意で、接客や、店頭での声出しをやってのけていた。
しかし、それも最初も最初のうちだけ。仕事に慣れがくるのが意外と早くて、最初のうちの熱意なんて、もうどこかへ消えてしまった。
でも、それでいいのだ。その店では店長を務めているし、楽しくない訳じゃない。何も不自由はしていないのだ。だから、今の状態に不安はないし、今以上のものを求めることはない。
それで、満足なのだ。


三本目は、『元気の剣』だろう。うん、間違いない。
これもまた学生時代の話だ。今にはない活力が、学生時代の私にはあった。

元気の源、と言ってはなんだが、学生時代の私は、夢や希望に満ち溢れていた。毎日がキラキラしているように見えていたはずだ。

こんなことを零していたこともある。
「将来は、なるべく若いうちに結婚して、子供が出来て……立派な職にも就て、お金も沢山稼いで、毎日楽しく暮らすんだ〜」
中学の時だっただろうか?こんな、今思うと恥ずかしくてしょうがないことを、友達に言ってしまったのは。
何のきっかけでこんなことを喋ったのかは覚えていない。ただ、この時言い放ったこの下らない言葉だけは、何故か鮮明に覚えているのだ。実現なんてしやしなかったのに、頭の中にべったりと、こいつはくっついているのだ。

何をほざいているのやら。今の私なんて、家は持っているけれど、その箱は私一人専用のものみたいになっているし、金はあるけど、使い道は特にない。仕事もそれなり。無機質で淡々とした、楽しいのかもしれないけれど、それをあまり実感できない日々。そんな毎日を送っていたのだ。
夢や希望なんて、簡単に叶えられると思っていた、あの頃の私が馬鹿みたい。


さて、『三本の剣』。思えば、これは過去のことでしかなかった。今までで輝いていた部分を抜粋して、それがまるで、私の武器であるかのようになっていただけだった。
まあ、要はただの思い出話だった、ということだ。
なんだか、やるせない気持ちでいっぱい。今の私の方が、よっぽど恥ずかしいのではないのか?ただ淡々と毎日を過ごすなんて……って、昔から残念だと思いながら、自らその道を歩いているのだから。昔の私が見たら、きっと目を伏せてこう言うだろう。
「こんなの私じゃない!!」
でも残念。私は今更、変われない。


いつのまにか寝てしまっていたようで、気が付いた時には、既にカーテンから柔らかな日の光が差し込んでいた。
いつも通りに朝食を食べ、いつも通りに身支度をして、いつも通りの時間で家を出る。

職場は少しお洒落な洋服店。基本、店の雰囲気通りの、少しお洒落な女ものの洋服を取り寄せているここの店は、若い子から四十代くらいの女性までをターゲットにしている、そんなところだ。

「いらっしゃいませー!」
若い店員の高らかな呼び声が店内に響く。それに続いて、私含めた全店員が「いらっしゃいませー!」と、これまた高らかな声をあげる。
丁寧な接客、清潔でかつ小洒落た店内。それを心掛けてきたお陰か、平日休日問わず、それなりの数のお客が足を運んでくれる。

しかし、そんな店でもちょっとしたトラブルが起きる。

「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
ついこの間入ってきた、二十代前半の女性店員が、三十歳ほどの女性客に接客をしている。別に違和感はないのだが、新入りということで、その働き具合はどんなものかと見てみることにした。作業をしながら、横目でその子の様子をうかがう。
「はい、最近寒くなってきたので、セーターを……」
「それでしたら、お客様にはこちらの……」
その店員は、女性客の話に若干かぶせ気味で、適当な商品を勧める話をしている。困惑する女性客と、ズケズケと営業トークを進める新入り店員。
「どうですか?」
いや、聞かれても困惑するだけだろう。話が分からないまま、その女性客は、「も、もう少し見てみます」と店員から逃げるように離れていった。
「ごゆっくりどうぞ〜」
と、新入り店員の方はどこか投げやり。

「ちょ、ちょっとごめん」
私はその新人店員の肩を叩く。さすがにこれは酷い。新入りとはいえ、接客を任せているのだ。もう少し丁寧にしてもらわないといけない。
「何ですか?店長?」
その子は淡々とした様子で、私の方に振り向いた。
一瞬、言葉を詰まらせる。さて、一体何と注意してやれば良いのだろうか?と。この子に、何と言ったら通じるのだろうか?と考えてしまった。
「あー、接客ですか?どうせ買わないようだったので、適当に流しておきました」
彼女は流し目をして、店の入り口の方を見る。促されるまま、入り口の方を見ると、何も持たずに店を去る、さっきの女性客の姿があった。
私が唖然としていると、
「あの〜、あといいですか?仕事、まだありますので」
そう言って、その子は私から離れてしまった。
(ああ、やってしまった……)
言葉に詰まったせいだ。そのせいで、新入り店員への注意のチャンスも、売り上げのチャンスも逃してしまった。


昼時。仕事に一区切りをつけて、歳の近い店員三人と近くの喫茶店に入る。四人用の席を選んで座る。そしてレシピを見ながら、隣り合った二人同士とか、四人で色々喋るのだ。

「全く、話をちゃんと聞かないで、バカみたいに営業トークばっかりするから、お客を逃すんでしょうが」
先程あったことの愚痴をこぼす。
「気にしなさんなって〜。新人なんてそんなもん。後々気付くわよ」
「そうそう、佳奈が気にすることじゃない〜」
そんなものかしら。私にはよく分からない。新人の教育係なんてやったことは一度もないし、何かの機会にチラッと見た時だって、あの子よりよっぽどマシだった。
そんなことを考えているうちに、みんなメニューを決めたようで、「佳奈は?何にするの?」と急かされてしまった。無難にナポリタンを選んで、注文を済ませる。

「ねえ、話は変わるんだけど、ちょっと報告があるの」
私の向かいに座る子が、話題転換を持ち出してきた。意気揚々としている様子を見ると、きっと吉報であろう。
そこで、クイズ番組の「気になる答えはCMの後!」みたいなタイミングで注文したナポリタンなんかが運ばれてくる。狙ったようなタイミングに、私は少し苛立った。
更にわざと少しタメを作って、彼女は口を開いた。
「私、近いうちに結婚するの」
結婚!まあ、何と羨ましい!
「ちょっとちょっと、何〜?抜けがけ〜?」
意地悪っぽく私が言うと、彼女は「えへへ、お先に失礼っ」と頭を掻く。彼女の隣の子は、「この〜この〜」とか言いながら脇腹を小突いている。
そうか、結婚か〜。まあ、この独身四人の中では一番若い三十二歳の彼女は、一番可能性があった子だ。おめでたい話に、迷惑にならない程度に拍手をして讃える。

結婚、ね。付き合ったことのある人が一人だけの私にとっては、いささか無縁なことであろう。
付き合ったことがある、で思い出した。今頃、あの人、圭くんはどうしているのだろう?少し薄味のナポリタンを口にしながら、二十年程会っていない彼の姿を想像した。とはいえ、思い浮かんでくるのは、中学生の彼の姿で、また過去の思い出に浸ってしまうのだ。
「ん?どうしたの?佳奈?」
「なになに〜?嫉妬かな〜?」
ぼぅっとしていた私は、みんなからちょっかいを出される。
「そうね。私も負けてはいられないわね」
彼氏はいないけどね。と付け足すと、みんなは大笑いした。
そのうち、きっとそのうち、私にも出会いは巡ってくるさ。そう、きっとね……


営業時間もギリギリ、店の前の通りを歩く人も少なくなってきた頃。一人の客が急ぎ足で店内に入ってきた。
「あれ?圭くん?」
見覚えのある姿に、思わず声をかけてしまう。店の中に入ってきたのは、やっと身にまとう雰囲気に年齢が追いついてきたような、私の愛したただ一人の男、三井 圭くんだった。見間違えの可能性もあったが、それは彼の言葉によってかき消された。
「あぁ、佳奈ちゃん!懐かしいね、久しぶり!」
少し垢抜けたのだろうか。中学の頃の口調とは少し違っていた。なんか、少し明るい男の口調になった。前はこんなに軽い感じではなかったのに……。
「圭くん、少し変わった?」
「ん?ん〜、そうかなぁ」
彼にとっては少し意外だったようで、目を背けて頭を掻いている。
「うん。なんか、垢抜けたっていうか……」
「そっか……なんか自分では分からないや」
そう言いながら、彼は色々なマフラーを手に取って選ぶ。
「誰かにあげるの?」
彼は緑色のマフラーに決めたようだ。女もののマフラーを彼が着けるとは思えない。きっと誰かにあげるものだろう。
「そうだね、贈り物。知人の女の子にプレゼント」
彼はそれをレジまで持っていく。会計を済ませた彼がこの日の最後の客だった。

(気になるな……)
知人とは、ただの知り合いだろうか?奥さんとか、彼女とかにやるものではないのだろうか?
そんなことを思いながら、終業の挨拶を済ませる。

「お疲れ様でした〜」
各々店員が帰宅していくと、最後に残されたのは私一人。まあ、これは日常的なこと、というか、店長としての義務だ。最後に店を出るのは店長でなければならない。
軽く確認作業をして、私も店を後にする。すると、店頭にはまだ圭くんの姿があった。
「お疲れ様。今日はもう終わり?」
「うん。圭くんは?」
「見ての通りだよ。仕事終わりにここに来たんだ」
「そう?圭くんのことだから、きっと夜のお仕事でもしてるのかと思った」
「佳奈ちゃんも言うね〜」
圭くんは私の頭を叩く振りをして、ポンポンと撫でた。そして、久し振りに二人で笑いあった。
「ねぇ、圭くん。今日の夕食、一緒にどう?」
「もちろん。僕も今日はそのつもりだったし」
そう言って、近くのファミリー・レストランに向かって歩き出した。


ファミリー・レストランで軽く食事を摂りながら、私たちは楽しく世間話をした。
彼は、今は銀行員として働いているようだ。立派な職業だ。優秀だった彼には申し分ない素晴らしい職業だと思う。
私も自分の職業について話すと、「佳奈ちゃんらしいね」と言われた。確かに、私らしいといえば私らしいのだが、仕事をしている時に自分らしさが出ているかといったら、そうではない。
「大変よ〜。そっちには敵わないだろうけど、服屋の店長っていうのも、中々荷が重いわ」
彼は頷きながら私の話を聞いてくれる。
不意に、彼はクスリと笑った。
「どうしたの?」
「いや、やっぱり佳奈ちゃんと話すのは楽しいな、って思って」
彼は私に歯を見せて笑った。ああ、やっぱり変わってない。あの頃の彼のままだ。笑った顔は、私が告白した時に見せたような、あの顔のままだったのだから。
「佳奈ちゃん?どうしたの?」
私も無意識のうちに顔が緩んでしまっていたらしく、圭くんに少しだけ心配された。
「いや、大丈夫。私、嬉しくなっちゃって」
それからも、私たちは話しまくった。顔を合わせていなかった二十年くらいの期間を埋めるかのように、時を忘れて話した。

「もうこんな時間だ。そろそろ出ようか」
腕時計を見た彼が、店から出ようかと促した。
「ここは僕が」
二人分の代金を払おうとする彼を「させません」と言って制止した。結局、割り勘で会計を済ませて、私たちは店を出た。


「ねぇ、そのマフラーは誰にあげるの?」
食事中にはあえて聞かなかった、本題をぶつける。
「そうだね……大切な人に、かな……」
少し上を見ながら、圭くんは呟く。
「大切な人〜!?なになに、彼女?」
私はから元気だ。正直なところ、結構ショックだ。あわよくば……なんて変な期待をしていた自分を恨む。
「そうなるかもね……」
彼からの言葉が、余計に自分を苦しめる。ああ、私は失恋したんだ。と思わせてくる。
「そ、そうなんだ……で、それってどんな……」
突然、口を塞がれた。不意に手を引っ張った圭くんは、その手をグッと引き寄せて、その勢いのまま、彼の唇で私の唇を塞いだ。そう、あの時のように。あの、中学二年の終わりの頃のように、彼は私にキスをした。
唇を離すと、彼は顔を真っ赤にして言った。
「い、今キスした人……かな……」
一瞬呆気に取られ、思考が停止した。しかしすぐに我に返り、真っ赤にした彼の頬を撫でる。
「ねぇ、ちょっと休みたい……」
こうなったら、もう勢いだ。


ラブ・ホテルの一室、行為を終えた私たちは、裸のままベッドの上に寝っ転がっていた。

「ねぇ、圭くん。どうして、私の職場とか分かったの?」
彼の方を向きながら、最後に気になっていたことを聞いた。彼は天井を見つめたまま、記憶を辿るように話し始めた。
「ん〜、そうだね。この間ね、本屋に寄ったんだ。好きな作家の新作を買うためにね。買い終えた後に、近くの洋服店が目に入ってきたんだ。そしたら、店頭で接客している君を見かけたんだ。あんまり変わってなかったし、ネームもつけていたから、すぐに君だと分かったよ」
確かに、店の近くには書店もあるし、店員は胸のところにネームを貼っている。彼の言っていることは間違いないだろう。
「私、そんなに変わってない?」
ちょっぴり心外だった。つい先日考えたように、昔の私からはもうかけ離れてしまったものだと思っていたのだが、そんなことはないのだろうか?
「うん、変わってない。身長とかは伸びたけど、雰囲気とか、顔つきとかはあんまり変わってないよ」
そう言って、彼は微笑んだ。その顔もまた、中学の頃を思わせる顔だった。
「圭くんも、やっぱり変わってないや」
「そう?なら良かった」
いかにも嬉しそうに彼は笑った。釣られて、私もクスッと笑ってしまう。
「本当、全然変わってない。店頭で接客している君を見ていたら、中学の頃のことが鮮明に思い出されてきたくらいだもん」
そして、彼は私の目を見て、「君のことが、急に愛おしくなって、またあの甘酸っぱい中学時代のように、二人で居たいなって思ったんだ」と続けた。
「圭くん……」
心の底から、嬉しさが込み上げてくる。そして、再び身体を圭くんにすり寄せる。
私たちは、この後も有り余るほどの愛をぶつけ合った。疲れ果てて寝てしまうまで。


「ありがとうございましたー!」
最後の客を送り、この日の業務は終わりを迎える。

「お疲れ様でした〜」
「はい、お疲れ様。明日も、よろしくお願いします」
業務終わりの挨拶を済ませ、各々帰宅準備を始める。しかし、今日はみんな、どこかゆったりとしている。
「店長!私たち、今日飲みに行くんですけど、一緒にどうですか?」
私に声をかけてくれる子がいた。その周りには、その子と同じくらいの歳の子たちが八人くらい固まっていた。今日のシフトに回っていた全員だ。
私は少し考えるふりをしてから
「ごめんなさい。残念だけど、今日は遠慮させてもらうわね。また、機会があれば、その時はご一緒させてもらうわ」
と、やんわり断った。
本当に残念だとは思う。若い子たちが少し歳上の私のことを誘ってくれるのだから。でも、しょうがないじゃないか。私には早く家に帰りたい理由があるのだから。

店を出ると、私は、他の人になるべく変に思われない程度の早歩きをした。特にこれといった用事があるわけでなければ、急にホームシックになった、という訳でもない。ただ、ただ早く家に帰りたいだけなのだ。
冷たい風を受けながら、私は早歩きのスピードを上げた。もはや人の目など気にしてなどいなかった。家に帰りたい気持ちが先行してしまったのだ。
その思いはなんとも早く消化されることとなる。気付けば、もう家の扉の前に立っていた。
スゥ……ハァ〜……
一つ、深呼吸をする。早く家に帰りたいから、走ってきましたなんて恥ずかしい。呼吸を整えて、気持ちを落ち着かせて、扉の鍵を開ける。そして、思い沈黙を放っていた扉のドアノブを捻り、一歩、足を踏み入れて言った。

「ただいま」

剣は錆びず

剣は錆びず

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  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-04-16

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