星に願いを

西田尚 作

「駒場文学」91号に同名の作品を掲載予定ですが、星空文庫に掲載するのはその続きです。正確には、頭・胴・尾の内、「駒場文学」に載せるものが頭、星空文庫に載せるものが尾に当たります。まだ胴に当たる部分を書いていないのですが、秋頃に書いて、「駒場文学」92号に頭・胴・尾を合わせたものを掲載したいと思っています。

 男が三本目の煙草を吸っていると、向かい側の階段から人が現れた。コンビニエンスストアのロゴが入ったビニール袋を右手に下げ、左手をデニムのポケットに入れている。彼は男から目を離し、銀杏に目を向けた。太く長い枝を幹の所で剪られた裸木(はだかぎ)は、大きな傷口を人目に晒している。その断面からは、再び枝が伸びるのだろうか。剪り残された枝からは、細い枝が伸びている。新しい枝は白っぽく、幹の樹皮と対照的だ。茶色のカウボーイハットをかぶった男が、彼に近づいてくる。革ジャケットとブーツも、茶色で統一されている。どれも色がくすんでいたり、生地が傷んでいたりするが、全体の印象は悪くない。個性的な洒落者の出で立ちである。彼は向かってくる男の視線を意識して、煙を吐き出した後、目を細めて車道に目を遣っていた。
「この男に投げ落とされるかもしれない」彼は不安を感じた。彼は一歩左側にずれて、男が通りやすいようにし、煙草を左手に持ち替えて、男の方に煙が飛んでいかないようにした。男は彼を一瞥すると、彼の側を通って階段を下り始めた。ビニール袋が揺れてカサカサと音を立てる中に、コツ、コツ、コツと足音が響く。男の足音が突然止むと、彼は階段に鋭い視線を向けた。男は左ポケットから煙草を取り出し、ジッポーライターで火をつけると、階段を下りていった。
 男はぼんやりと、死の可能性について考えた。今大地震が起きたら、寄りかかっている柵が破損したら、歩道橋に爆発物が仕かけられていたら……
「私の意志とは関係なく、私は死ぬ」彼には、意志がひどく無力に思われた。そして、意志を尊重することが、全くの無意味であると感じられた。
「意志を捨ててしまえば、ずっと楽に生きられるはずだ。全てを諦め、受け入れれば、対立は生じない。私と他人との摩擦が解消し、苦悩は消滅するだろう」彼は思った。
 男は吸いかけのタバコを見て、くだらないと思った。彼は柵の上に、煙草を押しつけた。グシャッという音がして、火が鮮血のように飛び散る。灰が風に飛ばされていく。柵の上には、灰の塊が幾分残った。彼はこれ以上指に力を入れることができないという様子で、吸い殻を落とした。先端から、煙が立ち昇る。
 男は階段を下りていく。右手で手すりを掴み、一段ずつ慎重に下りていたが、やがて手すりを離した。吸い込んだ煙で体がふらつき、歩調が乱れている。階段を下りると、階段に遮られて見えない歩道に、躊躇せずに飛び出した。その瞬間、眼前に躍り出た歩行者に、自転車は急ブレーキをかけた。キィィという、耳をつんざく鋭い音が響く。彼は足がすくんで動けず、また、あえて避けようとも思わなかった。彼は、自転車に乗る男の歪んだ顔を凝視した。男は間一髪ハンドルを切って、衝突を免れた。
「クソッ」男が忌々しげに吐き捨てた。彼は唇を薄く開いたまま、男を見送った。鼓動が高鳴っていた。彼が歩道の左側に身を寄せようとすると、後ろから来た自転車が彼の左側を無理に通り抜けていった。自転車は、危うくツタで覆われた古い家屋に激突するところだった。彼の興奮は高まり、その場で土下座したい衝動に駆られた。
「ごめんなさい。私は何も望みません。何もかもあなた方に合わせます、従います。クラゲのように、潮の流れに身を任せて、間抜けな格好で漂います」彼は同時に、強烈な破壊衝動を感じていた。彼の邪魔をした人たちを、自転車から引きずり下ろして蹴倒し、ウニを割るように頭を砕きたいと思った。
 男は葛藤を抱えたまま、のろのろと歩いた。一人暮らしの彼は、ゴミ箱のようなアパートの一室に向かっていた。人とすれ違う度に、彼は引き裂かれるような苦痛を感じた。媚びた目つきといやらしい微笑を贈り物に、足にすがりついて、ひいひいとかきくれたいと思ったり、一人一人にあらゆる罪を告白させ、罰として永遠に彼の下僕になるように命じたいと思ったりした。彼は熱に浮かされたようによたよたと歩き、口で荒く息をした。
 男はコンビニエンスストアの前にやってきて、明るい店内を眩しそうに見遣った。レジスターの前に、カゴを持った人たちが並んでいる。
「全国津々浦々、同じような店で同じような商品を買う人たち。あらゆる波長の光を反射した先にあるのは、真っ白な店内。この瞬間に、この場所にいることの意味が意識されず、クリック一回で消滅する日常。幸せって一体何な」
 男が丁度店を通り過ぎた時だった。店の角から人が現れ、彼の身体は硬直した。顔を強張らせ、彼の目を見ずに眉をひそめた男に、彼は反射的に嫌悪感を抱いた。彼が右側に避けようとすると、男も右側に動いた。彼が逃げるように左側に避けるようにすると、男も左側に動いた。二人は一瞬死んだように動かなくなり、次の瞬間肩と肩をぶつけ合わせた。
「す、すみませ……」男は言った。彼は衝撃でよろめき、右足を踏ん張って倒れるのを防いだ。彼は男の謝罪を無視して、下を向いて歩き去った。
「何もかも終わりだ。もう駄目なんだ。なんでこんなに惨めになってまで、生きていなければならないのだろう」男は暗澹たる気分で歩いていた。彼のプライドが決して許さない失態を犯してしまったにも関わらず、世界の見え方が少しも変わらず、何事もなかったかのように日常が進行していることが、彼には歯がゆかった。世界に見捨てられた彼に残された道は、悲劇を演じることである。彼はこの世の苦しみを一身に背負ったように、足を引きずって歩き、息が切れたようにはあはあと言って、顔をしかめて見せた。
 男は苦しげに夜空を仰いだ。赤信号で立ち止まった彼は、ガードレールに手をつき、苦難の旅路を運命づけられた求道者の振りをしていた。彼に情けをかける人がいたとしたら、彼は弱々しく笑って、「大丈夫」と答えただろう。尋常ならざる苦悶に喘いでいながら、まだ苦しみ足りないというように、助けを拒むことが、彼には気持ち良いのである。平たく言えば、彼は自慰をしていたのである。
「俺はあの月のように孤独だ」彼は破廉恥を口にした。いや、月の孤独に比べたら、俺の孤独なんて……宇宙の広大さに比べたら、自分はなんてちっぽけな存在だろう……それは最早、赤提灯で独り酒を飲む中年の男の発想である。
 車の発進音で、男は信号が青になっていたことを知った。ガードレールに置いた手を離した時、彼は緑のタクシーが左折しようとしているのに気づいた。
「私に道を譲ってくれるはずだ」彼はそう思って歩き出した。しかし、次の瞬間、タクシーが依然として止まらないのを見て、彼は戸惑った。タクシーは、彼に異常に接近していた。彼はひやりとした。このタクシーは、私を待たずに曲がるつもりではないか。彼が一旦立ち止まろうとすると、タクシーはようやく減速して止まりかけた。暗くて運転手の顔がよく見えず、表情が読めない。運転手が手を動かす様子も見えない。彼は恐怖で頭が真っ白になった。彼とタクシーの間に、意思疎通が成立しないのである。
 男は駆け出そうとした。と同時に、一度は止まったかに見えたタクシーが、わずかに前進した。彼は再び足がすくみそうになった。
「もう駄目かもしれないな」彼はそう思うと、急に心が落ち着いてきた。どうにかなるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。動転したところで、何にもならない。なるようにしかならないのだから。彼は立ち止まることなく、タクシーの前を横切った。タクシーは彼を通した後、加速して走り抜けていった。
 男は横断歩道を渡り切ると、道端に目を向けた。ハナニラの白い星型の花が、夜風に揺れていた。

星に願いを

星に願いを

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-04-15

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