批難勧告

綴 作

「僕は嘆かずに居られない」

 夏が終わると云ふ事に、我が友人は気が付かなかつたのだ。じつとりと纏わりつく湿度に代わり、微かに粟立つ表面は無数の小さな山をこさへ体外との温度差を教えてくれてゐたと云ふのに、彼は息を吐いて、ふるり、と背筋を震わせたのみに過ぎなかつた。其れから、嗚呼、と意味を持たぬ呟きを零し、少し冷えた爪先の痺れを言訳にして膝を立てる。
「具合は如何(どう)だい」
 私は彼が坐り直したと同時に声を掛けた。さうでもしなくては、彼は又没頭して私の声なぞ遠くの烏同様に感ぜられてしまうのだらう。
「具合、と来たか」
 彼は所謂モダンとせられるやうな鼈甲の丸眼鏡の縁を左手の人差し指の背で持ち上げ、くつりと音も無く嗤つて見せた。絵になると云ふのはこのやうな者を指すのではないかと、心中悪態にも似た嫉妬の叫び声を上げ(ながら)、相手の貌を見遣る。彼は決して、町一番の美男では無かつた。整い具合で言ふのならば、三角通りの和菓子店の三代目に適う者は無かつたし、彼も、勿論私も足元にも及ばなかつた。確かに彼の通訳、翻訳家と云ふ職は、特別性故に惹かれる物はあつたやうに思える。然し乍ら、彼に懸想する女共の目的は職でも無いと私には感ぜられてゐた。唯、漠然と人を惹き付ける雰囲気を持つた人だとしか言えぬ。所作に何処と無く色香を纏つて居る、といふのが、彼と謂ふ人だつた。
 彼は男として見ればやや長めの前髪を、眼鏡を押し上げて居た中指を滑らせて掬うと、つい、と耳に掛ける。然し掬い過ぎた束はばらばらと零れ溢れ、又彼の顔を少し隠すだけに終わつた。
「先ず、と言つた処だよ。今日日の日本語を言葉とするには稚拙が過ぎる」
「稚拙かい」
「嗚呼、真の言葉と言ふのは成長為される物さ」
 日の本では其れがなされない。彼はさう言つて、この國の言葉は古いと嘆くのだ。高度成長を遂げ、今や幾つもの大國と同等に語る権利を持つた大日本帝國は、疾うの昔に刀を捨てた。電子機器が蔓延り、大病を治し、人の命すら延ばす事の出来るやうになつた此の國は、一見何でも可能とでも言ふやうな貌をして居た。充分な進歩を遂げて居ると云ふのに。
「君はこの國は成長等していないと言ふのか」
「嗚呼、勿論」
 私は此の男の高尚さに、全く、恐ろしくなつてしまつた。極当たり前に、晩の食事は魚かと問われた時と同じやうな空気の中、嗚呼、と唯二音のみで此の國を批判なされたのだ。
「だつて君、考えてもご覧」
 そう言ふ彼は、眼鏡を取ると懐紙でその硝子面を拭い再度掛け直す。其れから重い腰を上げ、数時間坐った儘であつた躰を伸ばし腕を挙げる。低い天井に彼の指先が当たる。私は其れを見上げ、何とも原因の判らぬ息を一つ吐いた。彼が立ち上がる時と云ふのは、話が長くなる時なのだと知つて居るからこその呼吸だらうか。心の準備を整えた私に向き直ると、彼は身長相応の長い両腕を拡げた。
「抑、僕達は幾つの言葉を知つて居るのか。僕が僕の思考を相手に伝えんが為に幾つの言葉から選択し、紡ぐのか」
 狭い部屋で彼が動く度に墨の香りが拡がる。黒が彼の手を彩つて居り、彼其の物が知識の書物のやうだ、とぼんやり思考する。私は、さあ、とだけ答えると演説会の観客に徹する事とした。
「僕は嘆かずに居られない。言葉は確かに無数に存在して居ると云ふのに、人に伝えるとなると其の選択肢は狭まつてしまう」
 詰まる処、多くの普段使われぬ言葉と云ふ物は、ある人にとつては存在すら出来ぬ物になり得てゐるのだ、と声高に唄う。確かに、知り得ぬ言葉を使われても意思疎通は出来ぬ。其れは自分が話す時も同様、比較的伝わり易い言葉を選択してゐると云ふのは厳然たる事実である。意思疎通の媒体である言語に疎通の要素が無くなつては、其の文字列は良くて抽象画、悪くてちり紙となるのだらう。其れでは遣りきれぬ。
「全く以て遺憾である。其処から更に人の好みを選択した文字列に自由は有るか」
 他人の目と知識を気にして産み出される文字列は意味を確りと持つて居るのか。取り分け、彼のやうに英文を日本語と変換する職では気にしないと云ふのが無理な話では無いか。
「…詰まる処、君は息苦しいのだな」
「無論」
 本来の意味を含む言葉は数有れど、人は一般的に物語を読む時、一々調べ乍読むのを善しとしない。其の為、必然的に伝わり易い言葉を選ぶ。然し其れが本来の意味と違って来る場合も有る、と謂ふのだ。些細な、言わば誤差程度の物だらうが、彼はすとん、と腰を下ろすと、
「其れは、元作者の人格否定には為らぬだらうか」
 興奮で下がつて居た眼鏡を上げ、彼は呟く。
「君の其れは自分で望んで選択した物なのかい。其れとも、第三者に『此処は此のやうな言葉を遣わなければ伝わらぬ。読者を考えて居らぬ』と叱責でもされての苦肉の策なのかい」
 尋ねれば、彼はややあってからまさか、と嗤つた。
「其のやうな指摘が来たら、其れこそ此の日の本は終わるだらうね」
 くつくつと肩を揺らす彼に、然し私は同じやうに笑えなかつた。
 「僕が思うに」
 彼は文机の右に配置されて居た本棚に、とん、と背を預けて静かに呟くやうな声で語る。少し埃の被つて居た本からぱらぱらと砂のやうに粉が舞い、私は少々噎せ込んだ。
 けれど彼は全く気にもせず、僕の考えは斯様(こう)さ、と喉奥で嗤い乍ころりと転がつていた筆を手に取ると、適当に取り上げた紙面の右半分に円を描いた。
「其のやうな輩が生まれた時、この國は世界でも有数の先進國で在り、豊かで、諸外国の人々が多く訪れるやうな國に成つて居るのではないかな。然して、その観光の為に國民が日夜問わず働いて居るのだと思うよ」
 そう言ふと、すい、と窓の外に視線を移す。町は相変わらず忙しなく動き、鉄の長箱には人が詰められ揺らされる度に、偏つた弁当箱のやうに具材が寄るのが見える。人が歩を進める土は黒く固まり、雨上がりであつても足跡一つ刻む事は無く、人々を拒んでゐる。活気、と言えば聞こえは良いが、誰も軌跡を付けず存在を遺さず、意思の無い儘目的地に往かんと唯右往左往と蠢いてゐるだけに過ぎ無い。今現状此の有様では、数年後如何なつてゐるのか。考え乍ぼんやりとつられるやうにして外を見て居れば、又墨の香りが風に乗る。視線を戻すと彼は軽く微笑んだ後口を開き、
「そうして、其れが当たり前であるからこそ、民が横暴的に全ての欲求を解消せんと旗を掲げるのだらう」
 本題に入らんと彼は同じ大きさの円を隣にもう一つ描き、眼鏡の奥から榛のやうな瞳を向けて嗤う。天秤のやうに釣り合いをとらんとばかりの受皿の絵も描き加え、其れから左に『善し』右に『悪し』と筆を走らせた。
「善悪は人の経験則と感性に拠る、謂わば知識と欲の象徴に替える事が出来ると思わないかい」
 知識と欲の象徴。何を言つてゐるのかと言ふ私の言外の意を察したらしく、彼は、良いかい、と呟くと筆を持ち直した。天秤らしき絵の下に『知識』『感性』『経験』の文字が並ぶ。
「知識としての善悪と、欲としての善悪──…此の場合は単なる欲求となるけれども。兎にも角にも、皆人は一定以上の教養と思考が有れば、行動の善悪を決める『知識』と言ふものは自然と備わるものだ。間違いは有れど『否定』は『知識』に対して適切な行為では無い」
 精々訂正と言つた処さ、と彼は嗤う。
 未だ肯定も否定も出来ずに黙つて先を促せば、彼は、はらり、と落ちて来た髪を耳に掛け、其の儘不揃いな爪の目立つ左手の人差し指で二つ隣の二文字をこつりと叩き遣つた。鈍い、紙越しの木の音が小さく部屋に響く。す、と彼の息を吸う音が聞こえた気がしたが、外から漏れ聴こえた地を擦る車輪の音に掻き消される。騒音の後、一瞬ふわりと浮き上がった空間に静寂が何とも言えぬ重しを置き、同時に再度、こつり、と爪の叩く音が厭に大きく響いた。
「次に、一つ飛ばして経験。その人の過去に拠る判断材料であり各々の人生に附随するが、それと似た事象として他人と共有出来ると言ふのが強みだらうね。言つてみれば『似た経験が有る』と云ふ『知識』だ。其れに当たり、先のやうに相手の過去を否定する事はあつてはならない」
 彼は『知識』と『経験』の上、丁度中間の辺りに二つの横棒を引いた。同等だと表す符号であると気付いたのは数秒後で、だから何だと彼を見遣つた。
「詰まり、知識と経験に拠る善悪の判断は、例え其れが誤ちだとしても一定数の人には共感せられると云ふ事さ。同じ本を読んだ、同じ経験をした、と云ふのは大いに有り得る」
 と、にこやかにそこまで言ふと、彼は途端真面目腐つた面持ちになりくるりと『感性』の文字を墨で囲む。
「けれども『感性』と云ふのは如何だろうか。人に押し付け勝ちでは無いか、自身の物差し過ぎやし無いか、そう僕は思う訳だよ」
 は、と大きく息を吐くと紙の端が捲れあがり、下の茶色な文机が顔を覗かせる。秋風のやうに冷たい其れは、然し秋風なぞ依り重く曖く冷たかつた。
「全く以て根拠が無い訳だ。加えて『他者と全く同じ』と言ふのは、成程、肯定出来ぬ。此れが『客観的視点での意見』であるとはまさか言え無いだらう」
「だが」
 私はそこでやつと口を挟む。
 彼の榛が私を見遣り、演説は未だ途中であったかとつい唇を噛む。だが別段気に留める事も無く、彼は少し前のめりになつてゐた体を又本棚に預け、柔らかな昼の光を浴び乍、その陽射しよりも柔らかに微笑んだ。
 彼は演説も好むが、議論も大いに好むのだ。
「感性は『否定』して良いとでも言ふのか」
 否定が出来ぬ判断材料に拠る善悪の選択は大多数の人間に共感を得られるが、感性での判断は共感を得られぬ。だからこそ否定をする事で均す…と言ふ事だらうか。そう理解していたのだが、彼はぱちり、と音の聞こえるやうな程ゆつくりと瞬きをしてから、笑みを深めた。
「何も僕は皆の心持ちを否定したい訳では無いのだ。唯」
 感性、の文字から線を引き、矢印で悪しに向かわせる。
「だけれども若し、悪とする方に感性が働いたとしたら、其れは果たしてその人にとっての真の『悪しき』と成り得るかい」
 正しくそれが『欲』だよ、と彼は続ける。
「何事においても否定は出来ぬ。けれども、誤つた感性を認めさせんと働けば感性は最早『欲』と姿を変えるだらう。ここが、知識とも経験とも違う処さ」
 筆先が、悪しとする円を下から塗つていく。先程まで知識と経験での正常な釣り合いを保つて居た天秤が、傾いた気がした。
「加えて先に話した選択肢少ない言葉の中でその欲を伝えるとする。そうなると、如何なつて行くのか」
 半分ほど塗り潰された円を見遣る私とは裏腹、彼は又窓の外に目を遣つた。相変わらず町は忙しなく無機質な賑わいを見せてゐるのだらう。
「品性の欠片もない、自己の感性を認めさせんばかりの欲に世界は支配されるだらう。そうなれば、僕らは更に言葉を選んで仕事をせねばならない」
「嗚呼、それは確かに」
 そのやうな本は、誠人格否定にしか成らぬ。
 感性は知識同様に否定されぬ物だと言ふのに、その肯定に因り誰かの感性が否定されるのだ。
 消え入るやうな声で呟いた彼は迚も悲しさうに一瞬目を細めた。未だ受けぬ理不尽な欲と、其れに塗れた國を知つて居るかのやうで、私はどうする事も出来ず、筆を取って『善し』の円を全て塗りつぶした。
「感性とて悪ばかりを選ぶまいに」
 確かに思つてゐる言葉は、何処か懇願を含んでゐるやうに感じた。
 沈黙とは如何なる時も平等ではあるが、其れを心地好いとするか悪いとするかはその人次第である。
 黒く塗り潰された善、と云ふのは皮肉に成り得るだらうか、と思考の端を占拠せられ乍、私は見るとも無く紙面を見てゐた。
 彼の方はと云ふと、目を閉じて本棚に凭れ、眠つたやうに動かない。町の音を、声を聞いてゐるのやも知れぬ。もう何十分と経つたやうな気さえするが、私は其れを邪魔する訳にもいかず、唯じつと息を潜めて黒い円を見る事しか出来なかつた。
「時に、君」
 彼はややあつてから、唐突に私を呼んだ。ゆつくりと瞳を開くと、午後へ差し掛かつた陽が榛に揺れる。
 誠、あの演説癖さえ無ければ、彼は友人としての贔屓目を抜きにしても中々に良い男である。然し恐らく其れが原因で、彼は二十代も半ばと云ふのに独り身であるのだ。私とて結婚をしてゐる訳では無いが、兎に角も彼の雰囲気と癖の差と言つたら世の女性が皆々揃つて愕然とするだらう程なのだ。
 私は陽に溶けそうな彼に目を細めつつ、何だい、と返した。
「君はこの本を読んだ事はあるかい」
 彼は今正に翻訳せんと奮闘してゐる原稿の一頁目を手に取った。其れは過去にも様々な訳で刊行せられている洋書であり、知らぬ人は居ないであらうと言える程の物である。其れは小さな星から地球の砂漠での出会いへと至る迄の所謂風刺的冒険譚であるが、正直、何故今君が新訳を、と疑問が浮かぶ程である。だが然し確かにどんな訳でも売れてはいるのだから、決して無駄では無いのだらう。そのやうなことを考え乍、私は一つ頷いた。
 彼は、だらうね、と口元に弧を乗せると次にこう尋ねて来た。
「君は幾つの訳でこの本を読んだのだい」
 私は過去を反芻しては見たものの、生憎と冊数迄覚えてはいなかつた。
「覚えてはいない。けれども、最初に読んだ訳が幼少の私には何とも解難く、それ故に所謂子供向けとせられる本へ変えた記憶はある」
 二冊は確実に読んではいるのではないだらうか、と答えると彼はその丸硝子の向こうで喜色を灯し、やあ、と又意味の無い感嘆を吐いた。
「流石は我が友」
「何がだい」
困惑も隠しきれぬ私を他所に彼は凭れていた本棚から身を起こして立ち上がり、些か興奮気味に私の隣へと坐り直した。
「正に君のやうな者が居れば、善悪も等しく平等に存在出来るのだよ」
 如何やら、先程の続きのやうだ。困惑を隠しきれずにゐる私へ、彼は口元に三日月のやうな喜色を浮かべると、ずい、と近寄つてその笑顔を深めた。
「つまりだね、君。選択の自由と云ふものさ」
「選択? 嗚呼、」
 成程合点がいつた。
 確かに翻訳に限れば、同じ原作で複数の日本語作品が作られる。其れは勿論売れると云ふ打算的観点も在るが、読者の選択を広めると云ふのもあるだらう。
 好む訳が無ければ他を試せば良い。其れが唯一であるとするのならば致し方ないと納得のいかない事も無いのであるが、今日日様々な訳が蔓延つてゐる。更に言ふならば、映像、漫画、音声劇など文章以外にまで其の選択肢は及ぶ。
 私が納得したと見ると、彼は、ぴ、と人差し指を私と彼との間に立てて見せた。
「求めると云ふ行為と、押し付けると云ふ行為は決して同じでは無い」
 そう言ふと、件の原稿を手にして唄うやうに言の葉を紡ぐ。
 誠、翻訳では無く評論か文芸作品でも書けば良いと思わざるを得ない程に、彼は言葉を湧き水の如く溢れさせ、澄み渡った川のやうに流していくのだ。その言の葉は彼の喜色を乗せ、くるくると自由に泳ぎ回る。
 私はと云ふと、言葉にはとんと弱い。言いたい事の何たるかも掴めぬ、脆弱極まりない日本語しか喋る事が出来ぬ。嗚呼、これが進化を止めた日本語かと、先の彼の言葉に頷かざるを得ない程だ。
 しかしてそのやうな思考に陥る私の前で彼は其の長い手を伸ばし乍、
「自己の欲を押し付けんとする其の行為を『意見』であり『指摘』とし、押し付けではなく『全の主張の代弁』とせられるやうな人が出てしまつたのならば、この國は」
 其の時だつた。
 終わりだ、と嘆く彼の声を阻むやうに、正午を告げる鐘が鳴り響く。
「嗚呼、」
 けろり、と嘆きを喜びに変えた彼は、立てていた指を、すい、としまつた。
「正午だ。正午と言へば昼飯を食わねばなるまい」
 そうして眼鏡を、くい、とあげて嗤う。
 …彼は時折このやうに言ふ。
 然しその「しなければならない」と云ふ思考もまた『主張の代弁』となり得る可能性があるのだらうか。
 いや、然しこの考えは彼に対して余りに失礼ではあるまいか。どれだけ高尚に構えた事とて、人は皆所詮は欲を持たずに居られないのだ。分かりきつた事だ。
 ふ、と息を吐くと円の黒く塗り潰された紙が微量の悪戯な風にはためく。
「では、喫茶店にでも行こうか」
 その紙から視線を逸らし乍、私は彼に提案をし、掛けてゐた羽織を手にした。
 外は、相変わらず無機質に騒がしい。

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途中です。まだ続きます。

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この物語は私の愚痴です。 私は私であり貴方である。 彼もまた私であり貴方である。 どうぞゆっくりとご覧ください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-03-24

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