乾杯

藤谷 雅彦

 流れていたのは、美しくも哀しい曲だった。
 夜遅く、ふたりは静かな店で互いを見ていた。
 小さなパーティで、偶然にも共通の友人を持つことを知り、帰りが一緒になったことから、始まった。仕事の帰りに、夕食をともにして、軽く飲んで過ごす。今夜が二度目の食事だった。彼女は明るく、知的で、話題が豊富だった。パーティの席でも、先週の夜も、そして今日の料理のときも、話は尽きなかった。
 たが今、黙って私の話を聞いている。不自然ではなかった。それまで私が彼女の話を聞くことが多かっただけのこと、彼女が時々うなずくのを見ながら話すことは心地よかった。しかしこの席に座ったときの、一瞬のかげりのようなものを見逃したわけではない。彼女のことは友人から聞いていた。聡明な魅力も、哀しい出来事も。私は話し続けていた。彼女は私から視線をそらさずにいる。私も理由を考えながら、彼女を見ていた。
 隣に女性が座った。私の隣の男性が待っていた、そのひとを見て、私は話を止めざるをえなかった。私にもそう遠くない思い出がある。あまりに似ていた。ふたりは黙って、隣の会話を聞いていた。
 私は過去にとらわれて、慎重、否、臆病になっていた。彼女とは何も意識せずに始まった。だがこれも繰り返し、終わりの始まりではないか。聞くことはできるものの、自ら話すことは難しかった。
 彼女のグラスがとりかえられた頃、沈黙の理由が私と同じかもしれないと気づいた。隣の男性をうかがい、私はあらためて友人の話を思い返した。そうだとすれば、先程からの彼女の様子も納得がいく。彼女もまた私の事情に気づいたようだった。それぞれにとらわれて動けなくなっているふたり。このまま帰るべきかもしれなかった。
 ふたりは無言のまま乾杯をした。乾杯の繰り返し。声にならなかったはずだった。しかし返事が聞こえてきた。新たな乾杯かもしれない。
 そのいずれか、今のふたりにはわからなかった。
 ふたりは互いを見つめていた。
 哀しくも美しい曲が流れていた。
(平成2(1990)年2月14日)

乾杯

乾杯

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