朧月

ちょっと綺麗な小説を書きました。
※死ネタ注意

零章 涙

 神織山の中腹、とある古びたせい西洋屋敷。入り口前の月明かりの射す踊り場で、僕は日向を──初めて愛した人を、泣きながら締め殺していた。彼女は僕の涙を見て、寂しそうに微笑んでいた──。

一章 月夜の少女と朝日の少年

時は遡り、今から三ヶ月前。僕の住むこの神織村にはこんな言い伝えがあった。
「神織山には、一人の鬼が住む」
なんでも数百年前の伝承に、そんな記述があるとか。…もちろん、未だにそんな事を信じている村人は一人だっていはしなかった。それはもちろん、村長の息子である僕も同じことだった。
──しかし、そんなある日の事だった。僕は父さんに頼まれて、神織山の地質などの調査の為に山へと赴いた。地質や植生、少し注意するべき危険な所などを一通り調べ終えて、さぁそろそろ終わろうかと考えていた丁度その時、僕は山の中腹に古びた一軒の西洋屋敷を見つけた。その屋敷はかなり昔から建っているのか壁のレンガは色褪せていて、蔦が生い茂っていた。
(そう言えばこの屋敷、昔からあるような……今は無人なのかな?)
あまり記憶には無かったが何せこの風貌、遥か昔からあるのは確かだろう。調査ならここも調べておくべきかと思い、屋敷の古びて立て付けの悪い門を開いて中を覗きこんだ。
中は見た目通りの古い西洋屋敷だった。……だがおかしな事に、家具や床のタイル、調度品等は古びていてところどころ蜘蛛の巣まで張っていたが、廃れきっている、という印象はあまり受けなかった。まるで誰かが最近触ったかのようだ。
(……一応探してみるかな。何か潜んでるかもしれないし)
僕は屋敷の中に入って行った。
入ってすぐには、大理石のようなタイルが敷き詰められた薄暗い大広間。眼前には古びた赤い絨毯が敷かれた大きな階段があり、その先には光の差し込む大きな窓と踊り場、そしてその両側に二階へと繋がると思われる別の階段があった。また大階段の両脇には、茶色い小さなドアがあった。僕は大階段を上り、そして右の階段を進んでいった。階段は角張った螺旋階段のようにぐるりと一周した後、二階に繋がっていた。鈍色の壁の途中には小窓が一つあった。
屋敷の中は息が詰まりそうな程に閑散として、僕の静かな息づかいとタイルの甲高い音だけが響いていた。僕は少し不安になりながらも、とにかく進まなければ、と自分を奮い立たせてゆっくりと進んでいき──やがて、大きな扉の目の前まで来た。
「……」
何がいるのかも分からない恐怖を振り払い、僕はその扉に手を掛け、ゆっくりと開いた。
──扉の先は中世の貴族が使っていそうな食卓だった。しかし家具はあまり置かれておらず、空間を持て余しているかの様にただ広い部屋に長い机といくつかの椅子が置かれていて、そして──少女が一人、手足や胴体に大量の赤いリボンに巻き付かれて、天井から吊り下がっていた。
「……なん、だ、これ……!?」
その時、少女がビクリと動いた。驚いて後ずさりすると、少女はゆっくりと僕の前に降りてきた。それと共に謎のリボンが解け、紅と黒のゴスロリ風の洋服に変化した。
そして彼女はゆっくりと目を開いた。──透き通る様な白い肌に艶やかな黒髪、そして肌の白さから浮き彫りの紅い目が印象的な少女だった。彼女は僕を一瞥すると、その幼い見た目とは裏腹の落ち着いた様子で言った。
「…お客さん?珍しい」
「…!?」
少女は動揺する僕を見てくすりと笑った。あどけなさがあり、それでいて妖艶な笑み。
「ふふ、そんなに恐れなくても、村人さん」
彼女は自分を指し示すように胸元にそっと手を当てて言った。
「初めまして。私は日……ううん、朧って言うの。呼び捨てで構わない。君は?」
「え、えっと、旭だけど」
「……旭?」
朧と名乗る少女は、少し首を傾げて聞き返した。
「君が、旭君?」
「え?うん、そうだけど」
「ふーん……君が旭君……」
朧は旭に近づいて、僕の顔を覗き込んだ。
「あ、あの、朧さん?どうした、の?」
「……ううん、なんでも。それと、さっきも言ったけど朧でいい」
良く分からないことばかりだったが少し落ち着いてきた僕は、何か話題を繋げるべきかと彼女にこう尋ねた。
「……ねぇ、君はどうして、こんな辺鄙な屋敷に住んでるの?」
「……」
朧がは黙り込んでしまった。触れられたくない話題なのかと、そう思って僕は慌てて付け足した。
「あ、言いたくなければ言わなくて良いんだからね!?」
「……別に大した理由は無いよ。ただ、ここにいて欲しいと言われたから、そうしているだけ」
……彼女は少し伏し目がちになり、その表情に少しだけ暗い影が宿った気がした。が、すぐに元に戻って続けた。
「まぁ、そんな事はどうでも良いよ。君はどうしてなの?君がこんな辺鄙な場所に来たのも、理由があるんでしょう?」
「えっ、あ、うん。父さんにこの山の調査をして来いって言われて、それでね」
「……彼が?」
朧はきょとんした様子だった。
「そう、彼が……意外だな」
「え…どういう事、それ?」
僕がそう聞いても、彼女は首を横に振ってただ「ううん、こっちの話」
と言うばかりだった。
「とにかく、君はそろそろ帰りなよ。ここには私とやたらある本以外、何も無いよ」
「そ、そうだね……じゃあ僕はそろそろ失礼するけど、最後に一つ良い?」
「何?」
「…また、ここに来ても良い、かな?」
それを聞いて彼女は少し驚いた様子だった。考えてもいなかった、とでも言いたげに。
「君がそうしたいなら、止めないよ」

その晩、僕は父さんの書斎へと足を運んだ。もちろん、今回の調査の報告をするためだ。
「父さん、今日の報告いいかな?」
僕は何やら古い文献を整理している父さんに一声かけ、今日の結果を報告した。
「ああ、構わんぞ」
父さんそう言ったが、手元の文献を整理する手を止めることはしなかった。……いつものことだけど。
「えっと、まずこの付近の植生だけど……」
調べた事や見てきた事を、淡々と報告する。報告は手短に、と言われているからだ。だが報告の最後の方、例の西洋屋敷について報告したときだった。
「近くにあった西洋屋敷は……」
「西洋屋敷?中には入ったのか?」
「うん、そうだけど」
「そうか。なら、それは報告しなくて良い」
「……え?」
父さんのその一言に、僕は耳を疑った。そして驚く僕を気にする風も無く、父さんはこう言った。
「一つ聞かせてくれ。彼女には、会ったか?」
「……!会ったよ」
「そう、か……」
「ねぇ父さん、あの人は誰なの?何であんな所にいるの?」
父さんはしばらく何も言わず、ただ静かに僕を見つめ…そしてゆっくりと椅子を回して僕に背を向け、こう告げた。
「……お前も直に分かるさ。彼女が何者なのか、そしてお前が何者かも……な」
──それからは父さんは何も言わなかった。僕はその言葉の真意を推し量る事が出来ぬまま、父さんの書斎を後にした。

二章 覚えている

その翌日、父さんの言葉はどういう意味なのか分からないまま家を出て、しばらく考えながら歩いていると、聞き覚えのある明るい声が僕を引き止めた。
「あ、旭!どうしたの、考え事?」
「……あぁ、如月。いや、別に何にも」
後ろにいたのは如月だった。彼はこの村の副村長の娘であり、そして僕の友人。少し考え無しだが気の良い少女だ。
「……そうなの?まぁ旭が考え事なんて珍しくも無いけど」
「何、その言い方……」
──そう言って続けようとしたその時、にわかに地面がユラユラと揺れ出した。
「じ、地震!?」
「とりあえず伏せよう、旭!」
落ちてくる物が無いか注意を払いつつしばらく待つと、数十秒程で地震は収まった。
「……収まった、かな?」
「……みたい」
僕がゆっくりと立ち上がると、如月はうわごとのように呟いた。
「……もう、最近やたらと地震とか、良くないことが多いのよ……」
「そうだね……特に何も無ければ良いんだけど」
そんな事を駄弁りながら意味も無くそこらを歩き回っていると、しわがれた声が僕等の足を止めさせた。
「おぉ旭と如月、大丈夫だったか」
声の主はこの村の長老的な存在である、彦六さん。子供達の中には親しみを込めて爺ちゃん、と呼ぶ者も多い。
「あ、お爺ちゃん!」
「彦六さん!はい、無事です!」
「そうかそうか」
彦六さんは嬉しそうに目を細めて笑った。そしてゆっくりと空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……そうか、またこの時期が来たか……」
「“また”?昔にもこんな事あったの?」
「うむ、そうじゃのう……二十年に一度くらいじゃろうか」
彦六さんは事も無げにそう言った。如月もふんふん、と聞いている。……だが少し待って欲しい、おかしくないか?
「定期的に来るんですか!?」
「左様じゃ」
彦六さんによると、理由は分からないが大体二十年に一年ほど、地震とか山小火みたいな小さい災害が多い年があるんだそうだ。
「ただ大きい地震はとんと来とらんのぉ…昔は山の主様を沈める為に幼子を生け贄にしておったとは聞くが、それももう何百年も昔の話じゃ」
「生け贄ねぇ……やっぱり昔はそんなものだったのかしら」
「昔の人は、とりあえず生け贄とか捧げておけば安泰だと思っていたらしいね」
「まぁ、今はやっていない事じゃ。今更考えても仕方なかろう」
「まぁ、それはそうですね」
それから彦六さんと他愛のない世間話になったが、しばらくして彦六さんは突然用を思い出したらしく「気をつけるのじゃぞ」と言い残して去って行った。
「……そういえば、これからどうするの、旭?」
唐突、如月がそう問いかけてきた。
「え?えーっと……とりあえず調査の続きかな」
「ふーん……。じゃ、頑張ってね〜」
「終わったら君のお父さんにも報告に伺うからね」
――もちろん、今日、山に向かうのは調査のためだけでは無い。だけど、別に彼女に話す必要も無いだろう……そう思っただけだ。

僕は一度家まで戻り、適当に荷物をまとめて家を出た。……いや、出ようとしたが、父さんに旭、と引き止められたのだ。
「どうしたの、父さん?」
「……お前、アイツの所へ行くんだろ?」
「……そう、だけど……ダメかな?」
父さんの真剣な表情に、僕は何かまずかったのかな、と考えた。しかし意外にも、父さんの声音は穏やかなものだった。
「いや、別に構わないが……多少は控えること。それと、もう一つ」
「……?」
父さんは静かに、ゆっくりと言った。
「……あいつに会ったら、こう伝えてくれ。俺は、お前を忘れていない…とな」
「……うん、分かった」
普段は厳格な父さんのその静かで暗い表情に、重い何かがあるように感じた。

再び朧の待つ屋敷に向かう…前に、一応建前が建前なので山の調査。
(けど、昨日見たばかりだしなぁ…)
そう思いながら森をぐるりと一周歩き回って何も変化が無いことを確認すると、僕はそのまま例の屋敷へと向かった。…屋敷も当然のように変化は無い。人が一人住んでいるにしてはあまりに異様な生活感の無さだ。
(こんな屋敷で、どうやって生活しているんだろう…?)
少し失礼かもしれないと思ったが、どう考えてもこの屋敷は、人の住むような場所では無いというのは明らかだった。異様な静けさと生活感の無さを持ち、そして何よりもこの屋敷には何か…生命の息吹というか、そういうものが欠けているように思う。
(本人もいやに白くて細くて、まるで人形みたいだし、そもそも彼女はなんでこんな所にいるんだろう?…何より彼女は、何者なんだろう…?)
大広間のドアを開けると、彼女は昨日と同じ椅子に鎮座していた。
「あ…本当にまた来たんだ、旭君。君も物好きだね」
そう言って朧は、身の丈に不釣り合いな程大きい椅子から降り、こちらへ向かって来た。
「調子はどう?」
「悪くはないかな…君は?」
「上々かな。暇で仕方ないこと以外は、だけど」
彼女は冗談めかしてそう言うと、軽く微笑んで続けた。
「なんて、冗談。もう慣れたもの」
「…ねぇ朧。君はなんでこの屋敷にいるの?君も村に来れば良いのに」
「そうだね…昨日も同じことを言ったけど、頼まれたの。ここにいてくれって、ね」
朧はそう言って毛先をクルクルと指に巻くと、唐突に、そしてゆっくりと言った。
「…過ぎた事なんてどうでも良いから、それより今の話をしよう?」
「どうでも良い、って、そんな…!」
「泉君は最近、どう?」
「えっ?」
知り合いに泉という名前がいた覚えは無かった。しかし彼女が言うということは村に「泉」がいるということなのだろうが…と僕は思考を巡らせた。
彼女はそれに気づいたのか、少し慌てて付け足した。
「あぁ、ごめん、言い方が悪かったね。君のお父さんは、今どうしてる?」
「あ、父さんのことだったの?」
そういえば父さんの名前は泉だった気もする…ん、父さん?
「元気だよ。それと、今思い出したんだけど、父さんから伝言を預かって来たんだ」
「…え?そうなの?」
朧はかなり驚いた様子だった。彼女らの関係に内心首を傾げながら、僕は父さんからの伝言を伝えた。
「えっとね…『俺は、お前を忘れていない』…だって」
「…!!」
彼女の表情に驚愕と、衝撃の感情が加わったように見えた。そして彼女は右手をゆっくりと目元に当てて、少し俯いて目を伏せた。
「……全く、キミは…そういうことをする……」
「……」
その“キミ”が、誰に宛てられたものなのかは分からなかった。僕なのか、それとも父さんなのか。…それに、彼女と父さんの間に何があったのか、まず彼女は誰なのか、なぜここにとどまり続けるのか…分からないことだらけで、ただただハテナが僕の頭の中をグルグルと回っていた。一つだけ分かることと言えば、我ながら情けなくはあったが──
──今は、何も言ってあげられないこと。ただそれだけだった。
いたたまれない気持ちになって何か言おうとして、僕は何とか言葉を絞り出した
「……ねぇ朧、父さんと昔何が……」
そこまで言いかけて、僕は思わず口をつぐんだ。何とか絞り出したそれが場違いで、空気の読めない言葉であることに気がついたから……と言いたいところだが、恥ずかしながら、それは彼女の心中を察したからとか空気を読んだとかそんな崇高な理由では無かった。今思えばそれは、ただ魅入られていただけだったのだ──彼女の紅い、哀艶な瞳に。

しばらくして落ち着いたのか、朧は僕に少し恥ずかしそうにごめんね、と侘びた。
「ちょっと感極まっちゃって。恥ずかしいところを見せちゃったね」
「ううん、大丈夫」
幸い、先程の言葉は彼女には聞こえなかったようだった。しかし、僕の頭の中には、依然としてハテナが渦巻いていた。
「……ごめん、少し、一人にしてくれないかな」
「……うん、分かった」
彼女は、精一杯はにかんでそう言った。しかしその言葉を言い切るのが速いかすぐに硬直した表情になったのを見れば、彼女が無理をしているのは明らかだった。
「……じゃあまた来るよ。またね」
僕はそう言って、今にも泣き出しそうな少女を一人屋敷に残したまま、逃げるように屋敷を去った。

その夜、僕は父さんに呼び出されて再び書斎へと足を運んだ。
「父さん、入るよ」
入ると父さんは静かに椅子に座っていた。向こうを見ているので表情は見えなかったが、その後ろ頭はどこか寂しそうだった。
「……父さん?」
しばらくの沈黙の後、父さんはゆっくりと口を開いた。
「……旭。あいつの反応は、どうだった?」
「え、あぁ……えっと……」
その後に続く言葉がどうにも出てこなかった。泣いていたと、そう言ってしまえばそれで済む話だったのだろうが、それではあまりにも素っ気なく、そして何かが違う気がした。しかし、僕にそれを表現するだけの語彙は無かった。
「うまく言えないんだけど……泣いていたよ、彼女」
「……」
「でも、悲しくて泣いてる感じでも無かった。嬉し泣きっていうか、感極まった感じっていうかな……良く分からないけど」
それを聞いて、父さんは少し安心したように呟いた。
「そう、か……ならいい」
「父さん、朧は一体何者なの?」
「朧、だと?」
父さんははそう言い、振り向いた。
「アイツは、朧と名乗ったのか?」
「え、うん、そうだけど」
「……なんと愚かな事を」
父さんは額にそっと手を当てた。
「……いや、気にしないでくれ。すまなかったな、こんな伝言をさせて」
「えっ、あぁ、うん、大丈夫」
父さんと話していても、直接聞きでもしない限りは彼らの関係を知ることはできないだろう。ぼんやりとそう思った僕は、父さんに少し遠慮がちに問いかけた。
「……それで、父さん、朧って何者なの…?」
「何者、か。……どう答えれば良いのだろうな」
父さん少し困ったように笑った。
「一言で表すなら、私の友人だ。もう長らく会っていないがな」
「長らくって……え、彼女は一体いくつなのさ?」
「今年で三十三になるな」
「はい!?」
……いやいや、ちょっとまって、疑問が増えてるんだけど……
「え、あの……彼女、僕より年下じゃないの?どう見ても小中学生ぐらいじゃない?」
「まぁ、そうなるだろうな。日向がああなったのは、二十年ほど前の事だ」
「日向?二十年?え、え?」
あまりの情報量に、もう頭はロクに働かなかった。日向って誰?二十年前?というか、本当にこの二人は何者なんだ!?……と言う具合に。
「まぁ、一度に色々と言っても混乱するだろう。近い内に本人から聞くといい。お前には、その権利がある」
「僕に“は”…?」
「それと…如月だったか?あの娘にもな」
「如月にも!?それって、どういう……」
「ほら、そろそろ寝る時間だぞ。そろそろ寝てしまいなさい」
僕の言葉を遮るように言った父に、これ以上は話す気が無いということは明らかだった。
その夜は、ほとんど寝られなかった。

三章 吐露

翌日の早朝、寝不足なのに不思議と冴えている頭を振りながら、ふと窓外に目をやると、裏山の方へ歩いていく父さんの姿が目に写った。壁掛け時計を見ると、四時を指している。
(こんな時間に、何しに行くんだろう……?)
そう思った僕は、母さんに勘付かれないように細心の注意を払いながら、こっそりと父さんの後をつけていくことにした。
父さんは分かりにくいはずの山道を一切の迷いなく、急ぎ足に進んでいった。どうやらただの朝の散歩では無いようだ……いや、それは薄々気づいていが。
そしてある場所の目の前で、徐に立ち止まった。──そう、例の西洋屋敷の前だ。父さんは門の前で大きく一つため息をつき、ゆっくりと薄暗い屋敷の中へ消えていった。
(屋敷の中に……つまり朧に会いに来た、って訳か……追っていいのかな)
頭では、そう考えていた。しかし好奇心に忠実な僕の体がそんなことを聞くわけもなく、気づけば僕もまた、屋敷の中へと吸い込まれていたのだった。

父さんは古びた絨毯の敷かれた大階段を上って二階へと向かい、そして朧の部屋の前で再び立ち止まった。
「……」
しばらく静かに佇んでいた父さんだったが、やがてゆっくりとノックを2つして、部屋の中に入っていった。僕はそれを見届けると、急いでドアの前へ向かい、ドアに片耳を当てて聞き耳を立てた。
「……久しぶりだね、泉君。元気そうで何よりだよ」
「……あぁ、久しぶりだ日向。お前は全く変わっていないな」
──聞こえてきたのは落ち着いた声音の、二人の声だった。

「……ずっと、君への言葉を探してきたよ。二十年の長い歳月を、この薄暗い屋敷の中で一人、静かに過ごしながら」
「……」
父さんは何も言わず、ただ静かに、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「考えては切り捨て、思いついては却下して…そうやってずっと考え続けてた。……けど二十年ぐらいじゃ、とても決まらなかったよ」
ポスッという衣擦れの音が微かに聞こえた。…何かに頭を押し当てたような音だ。
「……ねぇ泉君。私は、なんて言えばいい?私は、どんな顔で君を見ればいい?」
彼女の声が、静かな部屋の中に妙な響き方をしていた。……俯いて喋っているのだろうか。
「……あはは、ごめんね。もう、それしか出ないんだ……」
「……」
語尾が震える彼女の声を聞いてもまだ、父さんは口を開こうとはしない。部屋の中にはただ微かな嗚咽と、朝靄の中を飛ぶ小鳥の楽しげなさえずり、そして機械的に刻まれる秒針の音だけが響いていた。
──それから、どれくらい時間が経った頃だったか。やがて落ち着いてきたのか嗚咽は止み、静かな声が聞こえだした。
「……すまなかった、日向」
聞きなれた父さんの声……のはずだ。部屋の中の異様な響き故か、あるいは彼女へ向けた言葉だからなのかは分からないが、いつもの父さんの声とは全く違って僕の耳に届いていた。
「日向……ふふ、久しぶりに聞いたよ、その名前。今考えれば、中々悪くない名前じゃない?日の当たるところってさ」
朧……いや、日向の声が、いやに明るかった。その声からは、無理に明るくしようと努めている事が、痛いほどに伝わった。きっと父さんも同じ事を思ったのだろう、彼は落ち着いた声音で囁いた。
「日向、もういい。もうあの頃のように、上手く笑えなくていい。あの時のような痛みは、もう抱えなくていい」
それは、お世辞にも上手いとは言えない父さんが必死に絞り出した、慰めの言葉だった。
「……」
日向からの反応は無かった。静かで異様な雰囲気に、僕が耐えられなくなって立ち去ろうとしたその時、日向の声が静かに響いた。
「彼も…旭君も、こうなるのかな」
──唐突に彼女の口から出た、僕の名前。もちろんそれは、僕の足を止めさせるには十分過ぎる理由だった。

四章 隠し事

(僕が……いつか日向のようになる……?)
なんのことか、さっぱり検討もつかなかった。もちろん、日向の声音は冗談を言っているようにはとても聞こえなかったし、まず彼女がこの状況で嘘をつく理由は無い。……しかし、だからといって彼女が言うことが分かるということもなく、疑問はますます増えゆく一方だった。
「旭もそうなるかもしれない。……仕方がないことだとは分かっていても、そう簡単に割り切れるものではないな」
父さんはそう言って小さくため息を一つ吐いた。
「あいつもまだ、齢十五にも満たないような子供だ…かつてのお前と同じようにな。叶わないと分かっていても、親としては何とか止められないのかと、そう考えてしまう……」
「……きっと、それが普通なんだよ。お母さんもおんなじ事を言ってた」
「そう、か……」
父さんはしばらく何か考えているように黙り込み、そしてやがてください少し明るい声で言った。
「邪魔してすまなかったな。息子によろしく頼む」
「あっはは、了解。こっちからも少しずつ説明していくよ。早くしないと間に合わなくなっちゃうからね」
その言葉と共に、父さんの足音が段々とドアの方に近づいて来ている事に気づいた僕は、大慌てで部屋の前から逃げ、物陰に隠れた。父さんが行きと変わらない落ち着いた足取りで、玄関へ向かっていくのを見送り、急いで窓から外へ逃げ出して、バレないようには村の方へと走った。どこかざわつく胸を、必死に抑えつけながら。

両親に見つからないように村に戻った僕は、何事も無かったように再び自室へと戻り、いつも通りの時間に部屋を出た。…と、その時、急に母さんから呼び止められた。
「旭、ちょっといい?」
「うん?なに、母さん?」
振り返ると母さんは、腕に何やら茶色い紙袋を抱えていた。
「これ、如月ちゃんに返してきてくれない?」
「如月に?分かった」
見た目よりも少し重い紙袋を持って、少し歩いて如月のところへ向かう。昔から良く遊びに行ってるので、おばさん達はいつものようににこやかに迎え入れてくれる。
「あらいらっしゃい旭くん。どうかしたの?」
「おはようございます、おばさん。母から娘さんに届け物です」
「そう、如月に。いつもありがとう、預かっておくわ」
おばさんに紙袋を預けると、彼女は唐突に僕にこう問いかけてきた。
「……ところで旭くん、旭くんは今年で十五だったかしら?」
「え?はい、そうですけど」
「……そう。もうそんなに大きくなったのね」
おばさんの表情が、少し暗くなった。そんなに大きくなったのか、と言われたのは無論初めてでは無かったが、暗い表情でそう言われたのは今日が初めてだった。
「おばさん?」
「……いいえ、何でもないわ。如月に渡しておくわ、ありがとうね」
「あ、はい。では失礼しま……」
「そうそうそれと、旭くん」
おばさんは僕の言葉を遮るように付け足した。
「如月とこれからもずっと、仲良くしてあげて頂戴ね」
「え、えぇ、もちろんそのつもりです」
(……やっぱり何かおかしいな。父さんといいおばさんといい、みんな何か隠してる)
少し怪訝に思いつつも、僕はにこやかにその場を離れ、家へと戻っていった。
「ただいま」
「おかえり。ちょうど良かった、お昼食べてしまいなさい」
「はーい」
(もうそんな時間だったのか)
そう思いつつ時計を見ると、まだ11時にもなっていない。どうしたことかと台所にいる母さんに訊ねると、母さんはさらりと言った。
「あら、午後から出かけるんでしょう?……あの人のところへ行っておきなさい」
……どうやら母さんも父さん達と共犯のようだ。あまり問い詰めるつもりも無かったが、ここまで多くの人が噛んでいるともなるとやはり気になる。
「……ねぇ母さん、母さんは知ってるの?」
僕が静かにそう尋ねると、母さんは僕の方にちらりと目をやり、ふっと微笑んで言った。
「さぁね。私はあまり知らないわ。知ったのは、全て終わってからだったし」
「終わった後って?」
「気になるなら当事者の彼らに聞きなさい。……まぁ、聞かなくても折を見て向こうから話があるでしょうけどね」
「……」

何か隠されてるとはいえ母さんの厚意を無為にするのも気が引けたので、昼食をとったらすぐに屋敷へと足を運んだ。……と、屋敷の中へ入ったところで、何か違和感を感じた。
(あれ……なんか、綺麗になってる気がする?)
燭台やテーブルの上に積もっていた埃が綺麗に拭われている。窓にも拭いた跡がいくらか残っていた。
(初めて来たときは最近は掃除されていない感じだったけど……朧が掃除したのかな?)
二階へ上がっていくと、窓に向かってパタパタとはたきを動かしている朧を見つけた。
「ん、やぁ旭君。また来てくれて嬉しいよ」
「こんにちは、朧。なんで掃除してるの?」
「あぁ、これ?」
朧は手を止め、窓をトントンと叩いた。
「久しぶりに来客があったからね。そう言えばあんまり掃除してなかったな、って思って」
「そ、そう」
「せっかく来てくれたところで申し訳ないんだけど、暇なら手伝ってくれないかな?私だと手が届かなくって」
「うん、分かった」
僕は朧からもう一つはたきを受け取り、彼女と雑談をしながら掃除を手伝った。
会って間もないと言うのに、不思議と彼女とは話が弾んだ。気分としてはちょうど、幼い頃から知っている旧友や幼なじみのようだった。
話してみて分かったことがいくつかある。例えば、彼女は初めて会ったときの物静かな言動と裏腹に、思いの外好奇心が強くて、今の神織村の話をするととても興味深そうに耳を傾けてくれる。そして、笑うとその幼い見た目通りの明るく、楽しそうな笑顔を見せる。人と話すのが好きなようだ。
(……きっとこれが、本来の彼女なんだろうな)
初めて会ったときの彼女の暗く、紅い目の意味が、少し分かったような気がした。…そして同時に、彼女のその目に、例え小さくとも灯りをを灯してあげたいとも思った。
他にも掃除をしている間、朧と父さんの昔話をいくらかしてもらった。なんでも二人は元々は幼なじみで、とある事情で彼女自らこの屋敷に残ることを選んだらしい。
「だから、特に誰か恨んでいるとかは無いし、もちろん後悔はないの。自分の決断だから」 
そう言った時の彼女の声は明るいトーンだったが、僕の目を見ようとはしていなかった。
他にも昔の父さんのことや村のことを教えてもらった。……だが、この屋敷に一人残った経緯を聞いても、うまく話を逸らして話してはくれなかった。

それから二、三時間経っただろうか。西洋屋敷は見違えるように…とまではいかないがかなり綺麗になったように思える。少なくとも初めて来たときの、蜘蛛の巣があちこちにあるような状況に比べれてばかなり変わった。
「うん、この位でいいかな」
朧はそういうと僕の方に向き直り、はにかんで言った。
「ありがとうね、手伝ってくれて」
「ううん、別に大丈夫。色々聞けて楽しかったし」
「ふふ、そう言って貰えるとありがたいよ。…そうだ、お礼に何かしようか?」
「え、別にいいのに」
「いいからいいから。できる範囲ならしてあげるよ」
「そう……」
僕はしばらく考えてみたが、彼女にしてもらいたいことなんて一つしかなかった。
「じゃあ二つ、聞いていいかな?」
「うん、どうぞ」
「君は、どうしてここに留まり続けるの?そして、次は僕って、どういうこと?」
「……!」

五章 巫覡

僕の言葉を聞いてしばらく黙り込んでいた朧だったが、やがてゆっくりと口火を切った。
「……そう。誰から聞いたのかは知らないけど、もう聞いてしまったんだね…私の口から話そうと思っていたのに」
「教えてくれ、朧。君は……いや、僕たちは何なんだ?」
朧はふぅと一つ大きなため息を吐き、窓の外へ目を向けて言った。
「……最近、地震多いよね。昔から、この地域はやたらと地震が頻発する時期があるの」
「う、うん。彦六さんが言ってたよ、大体二十年おきぐらいだって」
そして彼女は僕の方に向き直り、少し僕の顔を覗き込みながら聞いてきた。
「ところで、私は見た目で何歳ぐらいだと思う?」
「え?」
何故今、それを聞くのかは良く分からなかった。ただ聞かれたことだし、お世辞を言うような場面でも無いと思ったので、正直にこう答えた。
「うーん……十二、三歳ぐらいかな」
「うんうん、正解。私ね、見た目は十三歳なの。実年齢は三十三なんだけどね」
「えっと……若く見られるってこと?」
本当に訳が分からない。何故突然、見た目年齢の話になったのか……そう考えていると、彼女からの返答は予想外の物だった。
「違うの。私の肉体年齢は十三歳……そこで成長が止まってるの」
「なっ……!?」

一瞬自分の耳を疑った。いや、正確には耳では聞き取れていたが、急な告白に頭が付いていけていなかった。
「え……ニ十年もずっと……?」
「うん。誰とも会わなかったから実感は薄いけどね」
「そう、なんだ……ん、二十年?」
……そうだ、二十年といえば地震が起こりやすい年の周期と同じ……いや、きっとこれは偶然じゃなくて…。
「もしかして、あの地震と関係があるの?」
「うん、お察しの通りだよ。私が成長しないのは、直接じゃないけどあの地震と関係があるの」
「一体どんな……」
「ところでまた話が変わるけどさ、旭君」
朧の声音が再びガラッと変わり、明るい声になった。
「君、この山にある言い伝えって聞いたことない?」
「え?」
また話が変わった。だが今回は、話を逸らそうとしてるような様子は無かった。
「えっと、鬼が住んでるって言い伝え?それなら聞いたことあるけど」 
「うんうん。どんな風に聞いてる?」
「どんな風に?えっと……」

最初の方にも話したが、この神織村の山には鬼が住んでいるという伝承がある。大まかに説明すれば、こんな伝承だ。
平安の時代、神織村には、若い男が暮らしていた。男は都で濡れ衣を着せられて追放された──つまり、島流しを受けた者だった。しかし男は、濡れ衣であるにもかかわらずあまりそれを気にしておらず、受け入れてくれた神織村の住人を助けながらら穏やかに暮らしていた。
そんなある日、男に転機が訪れる。鬼の国から追放された鬼だと名乗る少女に出逢ったのだ。だが少女は角は生えていないし肌の色も普通という、人間と全く変わらない見た目で、どころか顔は人間としては並以上と言えるほどだった。それで事情を聞くと、角が生えなかったという理由から半ば濡れ衣を着せられたということだった。初めは半信半疑だったが、家無き少女をそのまま放置する訳にもいかないし、何より自分と同じく追放された、ということに不思議な縁を感じた男は、その鬼を匿うことに決めた。住人たちもその鬼をあたたかく迎え入れた。
同じ屋根の下で苦楽を共にした二人は惹かれ合い、やがて二人は形式的にだが結婚した。もちろん種族が違うので子宝にこそ恵まれなかったが、十分幸せだったのとあまり頓着しない男の性格もあり、別段気にしてはいなかった。
…だが、誰も考えもしなかった誤算があった。鬼という種族は、不老不死とも言えるほどの長命だったのだ。当然鬼の夫だからといって人間の寿命が伸びるはずもなく、結婚して三十年ほどしたある日、男は鬼を残して死んでしまった。死ぬ間際、「生まれ変わってまた会えたら、もう一度一緒に暮らそう」という遺言を残して。
その翌日、鬼は山に籠り、それっきり村に降りてくることは無かった。だが時折山に、まるで人が通ったかのような跡が残っているので、鬼は戻ってくるのかすらも分からぬ男をずっと待ち続けているのだと言われている。

「……そう。やっぱり、君もそこまでしか伝えられていないんだね」
話を聞き終えた朧はため息混じりにこう呟いた。
「まぁ、そこまでで止めておけば美談になるものね……」
「そこまでで止めるって、続きがあるの?」
「うん。村では村長と副村長の家系で、子供にある程度成長してから話すように決まっているのだけれど」
「一体、どんな続きなの?」
「……もう話していいのかな……まぁそろそろかな」
朧は大きく一つ息を吐き、ゆっくりと静かな声でこんな話を語った。

この話が時を経て伝承へと変わり、世の中が戦国の乱世となった時分。とある戦国大名とそのお抱えの刀工が、新たに打った刀の名に何か箔をつけようと、切るための物の怪の類の伝承を探していた。そしてこの鬼の伝承を見つけた大名は神織村を訪れ、神織山をくまなく探索して鬼を見つけた。……だが、ここで悲劇が起こった。
大名の顔が、鬼の夫となった男の顔と瓜二つだったのだ。大名は男の生まれ変わりだったのである。
鬼はあの約束を果たそうと必死に訴えたが、迷信的なことを信じず、更に功名心に駆られていた大名の耳には届かなかった。鬼の訴えを苦し紛れの戯言だ、と一蹴した大名は鬼を切り捨て、これで逸話を持つ名刀の持ち主だ、と下品な高笑いと共に去っていった。
そして、悲劇はまだ終わらなかった。鬼の国から追放されたとはいえ彼女は鬼。霊力の無いなまくらで鬼を絶ち切れる訳がなかった。命こそ失った鬼だったが霊力だけは残り、その霊力は祟りを産み出した。当然、その祟りの矛先は大名とその佩刀へと向いた。結果大名はその祟りによって命を落とし、刀は戦の最中に折れてしまうことになる。……だが、それだけでは鬼の怒りは収まらなかった。無論、怒りの矛先を失った鬼は遂には悪鬼と化し、神織村を呪った。
呪われた神織村は、地震や山火事が繰り返し起こり、とても住みやすいとは言えない土地となった。しかし昔から住んでいた村には思い入れがあるし、何より戦乱のこの時代、気軽に村を移すなど自殺行為だ。そう思って村人が途方に暮れていると、都から異様な妖気を察知した陰陽師が村に訪れた。村人は藁にもすがる思いで彼の指示を仰いだ。すると陰陽師は村長と副村長とそれぞれの家族を呼び出し、内密にと付け加えて
「この悪鬼は長い間生きていた故かそれとも強い思いを持つのか、討伐にも封印にも人の子の力では足りぬ。……故に、人柱として巫覡を置き、その者を山に入れることで押さえ込むより
他無いだろう」
と言った。そしてため息を一つ吐き、
「だが、贄とするというのは村人の承諾を受けにくいだろう。そこで、こうして欲しい……そなたらの血縁の中だけで人柱となる、元服する前の齢十五ほどの者を巫覡として用意するのだ。そしてその者の霊力が尽きる二十年程で、新たな贄をまた用意する。……これを末代まで繰り返せ。子宝に恵まれなくば、養子をとれ」
と付け加えた。
「……分かりやした。村のためだ、仕方ねェや」
「……一つ、気休め程度ではあるが…贄となった者に関する記憶は、この二つの家系以外の者からは消えるよう、まじないを掛けておこう」
「すいやせん、陰陽師様……」
こうして陰陽師は、ちょうど齢十五となっていた村長の息子に巫覡となるためのまじないを掛け、息子は山奥の小屋へ──あの男と鬼の夫婦が住んでいた小屋へと移り住んだ。
非常に特殊なまじないを受けて人柱となった彼の目は紅に染まり、肌は透き通るように白く、帯のような何かに変化する不思議な衣を着ていた。彼がただの人でなくなったことは見た目だけでも明白だったが、それ以上に大きな変化があった。彼の体の成長が止まり、何も食わずとも生きられる体となったのだ。彼は既に『人』ではなく、一つの『人柱』であり『贄』であった。
──そしてその人柱の風習は、人柱をかえ小屋を建て替え今なお受け継がれている。

「…っていう話なんだ。なにぶんデリケートな伝承だから、彦六爺様ですら知らないけどね」
「……そん、な……つまり君は……」
……嘘だと、思いたかった。だが、嘘にしてあまりにその話は今の状況に合致していて──何より、彼女の表情は深刻だった。
「……そう。私は今代の巫覡。そして、次は村長の息子──つまり、君なんだ」

六章 覚悟

半ば放心状態になっていた僕に、彼女は優しく語りかけてきた。
「……気持ちは良く分かるよ。私も二十年前…いや、今だって同じ気持ちだから」
彼女は物憂げな表情で上を向き、続けた。
「村の人にバレちゃうから、泉君も来なくなっちゃってさ。二十年間ずっと、ここで一人でっていうのがすっごく寂しくて……村のことや友達のこととか、人柱になる前に会った前任の人のことを考えながら、あのリボンみたいなものにぶら下がってその日一日を過ごすたびに、もう自分が人間じゃないって実感できて……それが辛かった。
全部自分のせいだと言い聞かせてみたりして、怒りと虚しさを和らげてたこともあったし、声を枯らして泣き明かした夜も、誰に届ける訳でもない手紙を必死に書いて紙飛行機にして飛ばしたこともあった。
……代替わりするまでずっと、自分は一人だと思ってた」
辛そうに、震えた声で語る彼女の言葉には、不思議と力があった。──それは人柱としての霊能ではなく、年端もいかない少女が小さな体から絞り出した声の力だった。
(そうだ、二十年間ずっと、彼女も耐えてきたんだ。……なら僕も、腹を括るしかない)
顔を上げると、朧と目が合った。彼女は悲しそうな目で静かに笑い、
「……君は、早いね。私とは大違いだ」
と呟いた。

そして彼女は何かを振り払うように頭を何回か横に振り、明るい調子で言った。
「けど、同じ境遇の人に会えるというのは心強いね。私は巫覡を継ぐ直前になって初めて会ったから、あんまり話せなかったんだ。仲良くしようね」
「うん、僕もだよ。そんなに長い時間じゃないかもしれないけど、それでも、君ともっと話してみたい」
彼女はにこりと笑った。そしてその目には、何か救われたような、小さな光が見えたように感じられた。
ふと、彼女は窓外の様子をちらりと見た。
「……でも、今日はそろそろ帰らなくて大丈夫?少し天気が怪しいようだけど」
確かに、空は少し陰り始めていて、ともすれば降り始めるかもしれないといった様子だ。
「そうだね……ちょっと名残惜しいけど、そろそろ戻った方がいいかな」
僕は玄関のドアに手をかけて、少し振り返って言った。
「また来るよ、じゃあね」
その言葉を聞いて、朧は少し嬉しそうに笑っていた。

村に戻ると、歩き回る如月を見つけた。何か落ち着かない様子といったように感じられ、少し顔色は青ざめているし、随分と早足気味に歩いている。
「どうしたの、如月?」
そう声をかけると、彼女はビクリとしてこちらを見た。その見る目は瞳孔が開ききっていて、焦点も合っていないようだ。顔色も悪く、明らかに激しく動揺している。そして僕を見るなり
「な、なんでも無い!また明日ね!」
と言い残して走り去っていった。
(……もしかして、彼女も聞いたのかな、巫覡のこと……)
確かに、彼女の母親も知っている様子だった。そして、もし、僕が朧と会ったと、父さんや母さんから聞いていたら……今のうちに娘に話しておくというのは、筋が通った話だ。
「……如月とも別れることになるのか。分かっていても、やっぱり……」
寂しいなと、そう言おうとして僕は慌てて口をつぐんだ。……それを言ってしまったら最後、何かを抑えられなくなるような気がしたから。

家に帰ると、父さんと母さんは如月の反応とは対照的にいつも通りだった。暗に「自分たちは余計な干渉はしない」と言われたような気がして、不思議とそれをありがたく感じた。
夕食を済ませて父さんの書類整理を手伝い、少し早めにベッドに潜り込んだ。……だが、案の定目が冴えてしまって、中々寝付けなかった。仕方なく窓の外のあの西洋屋敷を見てみたりした。屋敷は誰かもいないかのように光一つ灯らず、静かに山の上にただ建っていた。

それから毎日、午前と夜は父さんや村のみんなの仕事を手伝い、午後は屋敷には通っては朧と談笑した。
ある日村の田口さんから毎日どこに行ってるのかと問い詰められたこともあったが、父さんが最近の災害の原因調査だと上手く誤魔化してくれて事なきを得た。
──そしてやがて、最も恐れていた日が、それも突然に訪れた。

それは朧と暗い運命を共有して友達に……いや、仲間とも言える関係になってから三ヶ月ほど経ち、もう彼女と話すのが日課になっていたある日だった。
いつものように朧と話してると、突然朧が咳き込み出した。
「だ、大丈夫?」
「う、うん……」
しばらくすると咳が落ち着いてきたので、彼女に訊ねた。
「風邪引いたのかな?」
「ううん、多分違う。……そろそろなんだと思う」
「そろそろって、何が?」
彼女は悲しそうな目をしてこちらを見て、僕にゆっくりとこう告げた。
「……巫覡の、代替わりだよ」
「……!」
あまりに突然だと、そう思った。もちろん、彼女にとっては二十年間待ち望んでいた開放の日なのだろうが…僕にとっては別れの日に他ならなかった。
「多分、先代の人もずっと咳き込んでたから、間違いないと思う……。巫覡が代替わり前、先代の巫覡は次第に体力を失うんだ」
「……あと、どれくらい時間がある?」
そう聞くと、彼女は死刑宣告のような低く、静かな声で答えた。
「……今日は、十二日だよね?なら、多分あと三日ぐらいだと思う。私が巫覡になったのは、二十年前の十五日だから」
「もう、そんなに……」
「……君は、今日はもう戻ったほうが良いと思う」
出し抜けに、彼女はこう言った。
「え……?」
「君には、別れを告げるべき家族や、友達がいるでしょ?……今のうちに、会って話しておきなよ」
「……」
嫌だ、と言おうとして飲み込んだ。──今更何を言っても変わらないと、知っていたからだった。

七章 さようなら、ありがとう

それから三日間かけて僕は、これからいなくなることを悟られないようにしつつ、村のみんなと話したり、自室の整理をしたりした。……だが、如月からは避けられているようでなかなか会えなかった。父さんと母さんは、その様子は静かに見守っていた。何故か朧に会うのが辛くて、彼女の元へは少し挨拶に行く程度で済ませた。
──そして、三日目がやってきた。
朝起きると、父さんと母さんはいつも通りの様子で食卓に座っていて、食べるときもいつも通りだった。……まるで今日、何も起こらないかのように。
朝食を済ませると僕はまっすぐ、如月のところへ向かった。

「おはよう、如月」
「旭……!う、うん、おはよう……」
如月はかなり動揺していたが、必死に平静を装っていた。いつも通りに話そうとしているが、語尾が明らかに震えていた。
「ど、どうしたの、今日は……こんな、あ、朝早くに……」
「……」
覚悟はできていたはずなのに、何も言えなかった。何か言おうとしても頭の中でいろんな言葉がぐちゃぐちゃになって、用意していた言葉もするりと抜けていった。
黙り込む僕を見て彼女は要件を察したらしく、重苦しい声音で言った。
「……やっぱり、今日なんだ」
「うん……ごめん、今まで黙ってて」
彼女は落ち着こうとしたのか小さく一つ深呼吸をし、 
「……薄々、気づいてはいたわよ。最近の旭、なんか変だったし」
「……はは、できるだけいつもと同じように振る舞ってたつもりだったんだけど…やっぱり役者みたいに上手くはいかないね」
「旭、昔から演技苦手だもんね」
如月は意地悪そうに言った。
「あはは……そう言えば昔、演技が下手すぎてイタズラがバレたことあったね」
「そうそう、あのイタズラ、仕込みと囮が逆だったら成功してたんじゃないかって未だに思ってるのよ」
「あれは確かに人選ミスだった気がするね」
「あっはははは!」
──そうだ、これが僕の日常……昔からあって今日から失う、僕の宝物。そう考えた途端、頬を一筋の涙が通った。
「あ、あれ……何でだろう、もう諦めたはずなのに……」
「……ごめん旭、私も……もう限界かも……」
ほどなくして、二人揃って泣き出した。……あぁ、懐かしいな。イタズラがバレて彦六さんに叱らたあの日のようだ。

やがてしばらくして落ち着いてきた時、涙を手で拭いながら如月が言った。
「母さんから屋敷にできる限り近づかないように言われてて、もう今日でお別れだけど……きっと二十年くらいしたら私の子供が来るはずだから、その時はよろしくね。もう名前も決まってるし」
「へぇ、何て名前にするの?」
「暁!朝になる前の空って意味で、私が一番好きな空なんだ。未来の旦那さんが誰なのかは知らないけど、どんなに反対されてもそれにするつもり」
「暁か……いい名前だし、それでいいと思うよ」「あっはは、ありがとう」
そう言うと如月は涙が溜まった目のまま改まった表情をした。
「じゃあ……またね、旭。未来の私の子供によろしく」
「…うん、またいつか」
僕は振り返らず、真っ直ぐにその場を去った。……振り返るのが怖かった。小さな彼女の嗚咽が聞こえていることが分かっていても、立ち止まれなかった。……立ち止まったら二度と、先に進めないような気がした。

家に戻った僕は、あの屋敷に持っていくものを考えた。
(……朧の様子を見るに、多分着替えは必要ない。食べる必要もなさそうだし、いわゆる生活雑貨のようなものもいらないだろう。……本棚には結構な数の本があったから暇潰しも邪魔になるだけだ。となると……)
僕は写真立てを手に取った。写真には楽しそうに笑う僕と父さんと母さん、そして如月とその両親が写っている。
(……いや、置いていこう。きっと、別れがもっと辛くなるだけだし、何より……朧はこういう物は何一つ持っていなかった)
僕が何を思おうと、写真に写る僕はなお、楽しそうにこちらに手を振っていた。

昼頃になって食卓へと向かうと、朝とは打って変わって重苦しい空気が漂っていた。席に着くと、静かに父さんが口火を切った。
「……旭、すまなかった。こんな運命を背負わせてしまって」
「ごめんね……ごめんね……」
母さんは俯き、涙声でそう言った。
「たとえ村のためであっても、お前があいつのように膨大な時間を、未来を失うことには変わらない。……お前は、何も悪くない。恨むならば、こんな家庭に生んだ我々を恨んでくれ……お前には、その権利がある」
父さんの目と声は真っ直ぐで、本当に何を言っても受け入れてくれそうだった。……だが、僕にはそんな気は微塵も無かった。
「ううん、恨まないよ。僕は、誰も恨まない。父さんも、母さんも、村の人も、あの鬼も……もちろん、自分も」
「……!」
父さん達は、静かに僕の言葉に耳を傾けてくれた。
「こうなったのは誰のせいでも無いから、僕は誰一人も恨まない……けど、一つだけ言わせて」
「……あぁ」
僕は深呼吸を一つして、父さんとようやく顔を上げた母さんの目を見た。
「……僕を産んでくれて、ありがとう。今日まで育ててくれて、ありがとう」
──どうしようも無いほど陳腐で手垢の付いた言い方だと、そう思った。でもこれが、偽らない自分の気持ちだとも気づいていた。
父さんは何も答えず、代わりに僕を抱きしめてくれた。頭に雫が一つ垂れた。……父さんの、初めて見る涙だった。

そして昼下がり、僕はあの屋敷へと向かった。いつもの重い正面の門扉が、いつにも増して重く感じた。
ゆっくりと階段を上り、途中の窓から村の方を見た。──いつも通り、静かなのに不思議と活気を感じさせる村だ。あれは昨晩覗いていた僕の部屋の窓だろうか。
しばらくして僕は再び階段を上りはじめ、やがて二階に着いた。
廊下を歩くと、初めてここに来たときのようにタイルと靴底がぶつかるコツコツという音がいやに響いた。──そして、朧の部屋の前にたどり着いた。
彼女と初めて会ったあの日のようにゆっくりと、取っ手に手をかけてドアを開けた。部屋の中を見ると、椅子に朧が座っていた。朧は僕が来たことを認めると、徐に立ち上がって言った。
「こんにちは……いや、おかえり、旭君」
「……うん。ただいま、朧」

八章 君を●した

「……懐かしいね。いつか君と初めて会ったあの日みたい」
唐突に、朧がそう言った。
「あぁ、そうだね……初めて会ったときはなんか近寄りがたい感じがあったのに、今となっては毎日会うような仲になった」
「ふふ、あの日は私も緊張してたからね。ちょっと近寄りがたい感じにして、関係ない人だったら追い払うつもりだったし」
「それからたった三ヶ月しか経っていないんだね…もう三年ぐらい経ったかと思ってた」
「うん、私も。……君に終わらせてもらえるなら、私も嬉しいよ」
「終わらせる……ね……。ところで、どうやってまじないを移すの?」
「あぁ、えっとね……」
彼女は何か言おうとしてしばらく考えた後、少し微笑んで言った。
「まぁ、それはその時になったらしよう。継承の時間は夜なんだ、それまでここで思い出話でもしよう?」
「いいね、そうしよう」
それから僕らは何時間も、話のタネが尽きるまで色んな話をした。初めて会ったときにどう思ったか、それからどう変化していったか…たった三ヶ月だというのに、不思議と話題は尽きなかった。──そしてやがて日は沈み、美しい満月が顔を出した。

「……そろそろ頃合いかな。じゃあ、どうやってまじないを継ぐのか説明するよ」
「……うん」
……もうなのかと思った。もう決心はついていたはずなのに、心の中では嫌だと、終わって欲しくないと叫ぶ自分の声が木霊していた。
「儀式は満月の夜、月が丁度真南に来たときに始める。つまり、深夜零時だね。多少時間がかかるから、前後十分間の猶予があるの」
「時間がかかるって……何をすればいいの?」
朧が突然黙り込んだ。それを言うことを躊躇しているようだった。
「……?」
「……うん、やっぱり言わないといけない……よね」
彼女はそう呟くと、ゆっくりと言った。
「……継承者が先代をその手で殺すこと。……それでまじないは継承される」

──一瞬、思考が止まった。彼女の言葉の意味を頭では理解していても、それを受け入れたくなかった。
「朧を僕が……殺す?」
「……うん」
「……そんな……嘘だ……嫌だ!」
溜め込んでいた感情が、堰を切って溢れようとしているのを感じた。受け入れられない事実を必死に反芻しても、頭が拒否していた。
「……ごめん、旭君。今まで黙ってて」
「……!」
ぐちゃぐちゃの中頭の中に辛うじて届いた彼女の謝罪の言葉で、僕は急に冷静になった。
(……そうだ、もう決心したはずだ。何があっても、誰も恨まないって。これで納得したはずだ……これが、自分の運命だって……!)
「……ごめん、急に叫んで。朧は悪くないよ。こんなことも考えられずに決心したと思い込んでた、僕にも責任があるんだから」
「……ありがとう。君に終わらせてもらえるなら、私も嬉しいよ」
彼女は再びその言葉を繰り返した。
僕らは一階へと下り、階段の踊り場へと向かった。
「……そうだ、一つだけ、言っておきたいことがあるの。いいかな?」
「なに?」
「実は、本当は私の名前、朧じゃなくて日向っていうの。先代の人が朧って名乗ってたから、それを襲名したんだ。ごめんね、今まで嘘吐いてて」
知ってる、と言おうとして慌てて飲み込んだ。
「そうなんだ……じゃあ、日向」
「……うん」
「今まで、ありがとう。この世界で唯一の仲間みたいで、会えて嬉しかったよ」
満月は少しずつ空の中央へと向かい──やがて一番高い所へ来た頃、僕は彼女の首に手をかけた。
「ありがとう。今日この日まで……最後まで、君を愛していた」

……それから、どれだけ経っただろうか。もう何時間も経ったような心持ちだったが、きっと実際には五分と経っていないのだろう。動かなくなった彼女の骸は、一度灰のような細かい粉になり、黒いスーツの形になった。……きっと彼女の黒いゴスロリも、こうやって作られたのだろう。
その服を取ると下に一枚、真新しいメモが置いてあるのに気が付いた。拾ってみるとそのメモには、びっしりと彼女の字がこう書かれていた。
『もう君は継承を終えた頃かな。私が我慢できなくて渡しちゃってる可能性もあるけど……まぁ、そこはいいや。
本当は口で伝えたかったことなんだけど、きっと私のことだから、言う間際になったら日和っちゃうだろうだから。こんな形でごめんね。
正直、初めて会ったときはあんまり会いたくないなと思っていたの。仲良くなっちゃったら、継承の時に辛くなると思ったから。
けど、実際に接してみたら、辛さを共有できる仲間がいるっていうのは、自分が思っていたよりも嬉しかったよ。それに、それが君みたいな人だったことにも感謝してる。
本当の名前を隠したりしてごめんね。最初は関係者じゃなかった時にすぐに追い払うための偽名だったんだけど……もし本当の名前を教えたら、全てを預けたような気がして、もっと別れが辛くなると思ったの。
そして……ありがとう。たった三ヶ月の間だったけど、人と関われて……ううん、君と話せて嬉しかった。辛さを包み隠さず話せる誰かがいて、一緒に笑い合える仲間がいて、すごく嬉しかった。それだけで、二十年間ここに居続けた意味があったと思えるほどに。
だから……
あはは、ダメだね。文にしても、やっぱり言いたいことがまとまらないや。いつか別れることになると、知っていたはずなのにね。書いてる今だって、涙が溢れて止まらないんだ。紙がぐちゃぐちゃになっちゃうね。
ありがとう。君に●して貰えて、嬉しかった。君を愛せて、嬉しかった。』
……一文字、涙でインク滲んでしまって読めなかった。彼女の涙なのか、僕の涙なのかも分からなきった。

終章 月夜の少年と朝日の少女

──それから十数年経った。僕は今日も、本を読んだり眠ったり村を見たりして静かに過ごしている。
あの後、食卓にここでの生活の仕方が書かれた古いメモが置いてあった。おそらく先々代か、それより前の人が書いたものだろう。そのメモに書かれている通り、僕は老いも死にもせず十五才の姿のまま行き続けている。
村の方はいつもように静かだ。僕が変わったあの日から、何も変わらずそこにある。
うちの家系は僕が人柱になって途絶えてしまったのだろうか、という考えが頭をよぎったが、きっと養子を迎えたり新たに子供が出来てることだろう。そう信じたい。
──そんなことを考えていると、不意にギギギという音が聞こえてきた。何事かと思って窓外を見ると、年端もいかない少女が少女が必死に門を開けている。数十年動いていなかった扉だ、きっと錆びついてしまったのだろう。
(迷子……いや、遭難かな?とりあえず親に届けて……いや、今の僕には無理か)
しばらくすると、廊下を走り回る音が聞こえた後、部屋のドアがゆっくり開いた。それと同時に、窓から見た少女が部屋の中の様子をお化け屋敷を覗くようにおっかなびっくり伺いながら覗き込んだ。
「あの、ここどこですか?」
少女は僕の姿を認めると、子供らしい甲高い声で訊ねてきた。その面影は、どこか見覚えのあるように感じた。
「……ここは、何てことはないただの屋敷だよ。君はどうしたの?迷子?」
「まいご……です」
「そっか……近くの村への道は教えられるよ」
「ほんとう!?」
少女の目が輝いた。かなり困っていたらしい。
「うん、本当だよ。一番近い村でなくとも、村の名前が分かれば近くなら教えられるけど、君の名前と村の名前は分かる?」
少女は、あの二人に──如月と絵都と良く似た屈託のない笑顔を見せた。
「あかつきです!かみおりむらっていうむらにすんでるの!おにいさんは?」
「暁ちゃん……ね……」
「?どうしたの?」
「……ううん、何でもない。僕はあさ……」
そこまで言ってからふと思うことがあって、言い直した。
「……いや、僕の名前は朧だよ」
~終~

朧月

お付き合いいただきありがとうございました。
個人的な作品のテーマは『対比』です。出来る限り各所に対比を置いたつもりなので、是非探してお楽しみください。

朧月

彼女の夜は、まだ明けない。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 零章 涙
  2. 一章 月夜の少女と朝日の少年
  3. 二章 覚えている
  4. 三章 吐露
  5. 四章 隠し事
  6. 五章 巫覡
  7. 六章 覚悟
  8. 七章 さようなら、ありがとう
  9. 八章 君を●した
  10. 終章 月夜の少年と朝日の少女