香水

香水

幻想系掌編小説です。縦書きでお読みください。


 「菫の花だ」
 香水の匂いがしたと思ったら、寒さが急に身にしみてきた。
 前の席にいる女か、彼は同じ駅から乗った女の顔を見た。瞳が黒い。
 女の目が動いている。暗い窓を走る光の流れを追っているのだろう。
 ずい分派手に香水をつけているものだ。この電車が通り過ぎた後には菫の花が咲き乱れているに違いない。
 彼女はふと手もとに目をやると、ハンドバックから薄紫の小瓶をとりだした。蓋を開け、手元の絹のハンカチーフに一滴たらした。
 さらに強い香水の匂いが彼の鼻をついた。
 ふーっと意識が遠のくと、彼はたくさんの女に囲まれた幻想に浸った。彼の顔に笑みが浮かんだ。
 幻想の中の一人の女に目をやったとき、現実に戻され、前の席の女が自分を見ているのに気がついた。
 電車が速度を落とした。駅だ。女は再びハンドバックをあけ、クリーム色の丸い小瓶をとりだした。
 また香水なのだろうか、菫の後は何の匂いをつけようって言うのだろう。彼は女性の手の動きをくまなく追った。
 女は半透明の液を小指の先にたらし、長い長い息を吹きかけた。小指の先から白い煙が立ち上り、空中を漂い、彼の目の前にやってきた。
 彼の鼻は不思議な匂いを嗅ぎ取った。鼻腔にはいってきた白い煙は匂いの中枢の眠りをさまし、視神経にフィルターをかけ、求心性神経の感度を上げた。おまけに、遠心性神経を断ち切ってしまった。そのため、外から入った力は大脳の中で渦巻き、出口を探し回り、怒りの声をはりあげて自律神経を圧迫した。
 彼の意識は朦朧とした。目の前には霧が立ち込め、あたりの景色は白くぼやけた。
 その中で一つ、彼の目にはっきりと映るものがあった。桃色の口紅をつけ、大きな目をした前の席の女。彼を見つめている。彼の脳の中につまっているものがその女に向かって流れ出しそうになっている。
 女は席から立ち上がると、ドアに向かった。彼は匂いに誘われ、神経に促され女の後を追った。
 どこの駅で降りたかも分からず、彼は前を歩く女に縄で引きずられるように女の後をひたすら歩いた。
 「いい匂いだ」
 鼻の中に充満する菫の香は女の匂いに変わっていた。しびれてしまった脳で彼は心の整理を始めた。
 なにの匂いなのだろう。
 遠い昔に嗅いだことのある匂い、しかし、長い間慣れ親しんだ匂い、暖かく、大海を思い出す匂い、脳の奥の奥のいまだ知られていない神秘の中枢を突っつく。
 男を引き付けるこの匂いはまるであれみたいた。雌の蛾が雄を呼ぶ物質、そうフェロモンとかいったっけ。だが、今の彼はそのようなもので引っ張られているのではない。「女の匂い」でもフェロモンとは呼べない女の匂いに引きずられているのだ。
 女は暗い夜道を一人歩いていく。男はその女の白い後姿を、近づくことの怖さと、近づきたい懐かしさを交錯させて、同じ歩調で歩いていく。
 女が振り向いた。闇の中で唇がかすかに開かれ、口の中の真珠が光る。
 微笑が彼の心臓を締め上げ、足の動きを早めた。
 冷たい風が道端の草を揺らした。一瞬、彼は我に返った。あたりは何もない草原、大きな月があたりを照らし出している。
 「こっちよ・・・」
 女が柔らかい声で彼を呼んだ。
 そのとたん、耳の奥のドアーが閉まり、再び不思議な香水の香がただよってきた。
 月の光は冷たく冴え、白い女の後姿に引き付けられていく。冷たい風も、もはや彼の心を捉えることはなかった。彼の目には女の後姿のみである。
 彼の頭の中では、匂いの渦が次第に小さくなり、硬い固まりになろうとしている。黒い塊の中から、記憶がじわりじわりとしみでてくる。昔、長い長い夢を見ていた頃の記憶。
 女はゆるやかな坂道を滑るように歩いていく。女の目は遠くの闇をみつめ、耳は彼の歩く足音を聞いていた。
 彼は思う。この染み出てきた記憶は(女)と関係があるようだが、あまりにも強すぎる。自分が包まれたことのある匂いだ。
 彼は記憶の糸をたぐりよせた。そのたびに頭が痛くなっていく。決して到達してはいけない神秘の中枢を犯そうとしているのだ。
 草原のはずれに小さな家がみえる。女はその家に向かって歩いていく。
 女が家に入っていく。女が入ると、家が青い燐の光を放ち、どっくんどっくんと呼吸をしている。彼が家に近づくと、開け放たれたドアの奥に女が消えていくところだった。
 彼も吸い込まれるようにその家の中に入っていった。
 家の中は闇が漂っていた。彼は暖かい空気に包まれ、手足から力が抜けていくのを感じていた。
 女は部屋の隅から、おそらく微笑みながら、入ってきた彼を見つめていた。
 女の白いドレスが暗闇の中でボーっと光っている。
 女が手を伸ばし、スイッチに触れた。
 そのとたん家の中には光があふれた。
 赤い照明が彼の目を襲った。女の顔は燃え、白いドレスは火のかたまりになった。
 赤い色の匂い、彼は目を手で覆った。彼はソファーの上に崩れ落ち意識を失った。

 彼は開いている窓から差し込む朝の光を顔に浴びて目を覚ました。目の前には女が立っている。昨夜と違い、香水の匂いはしなかった。かわりにコーヒーの香がただよってきた。
 女は無言で椅子に腰掛けると、彼にコーヒーをすすめた。
 彼は壁にモディリアニ風の絵を見ながら最初に言う言葉を捜した。
 なんて静なんだろう、音が聞こえない。言葉はでてこない。女は彼を見つめている。彼女の白い顔に次第に赤みがさしてきた。紅をさしていない薄い唇が桜色に染まっていく。白い指先も桜色に染まっていく。
 女のからだから菫の香がただよってきた。女の吐く息も菫の匂いだった。部屋の中はほのかな菫の香で満たされた。
 女の瞳に輝きがもどった。口元に笑みが浮かんだ。女は立ち上がると、窓を閉め、ため息をついた。
 菫の匂いが強くなり、生暖かい空気が彼をおし包むと、彼は息苦しさを覚え、女を見た。
 女は小さな壜の蓋を取ろうとしていた。女と目があった。女は指の先に瓶の中のものを一滴をおとした。指を口先に持ってくると、長い長い息を吹きかけた。不思議な香が菫の匂いを追い出し、光も追い出し、ふたたび闇が訪れた。彼の周りには懐かしい香が渦巻いた。目の前には闇だけがあった。彼の手足は縮みあがり、音のない世界で丸くなり始めた。
 彼の思考は麻痺しはじめた。脳の中の神秘の中枢が動き始めようとする。
 「私の声が聞こえるかしら」
 女の声が彼の頭の中に響いた。大昔の香が彼の鼻を突く。
 「この薫り、女に一番あう香水、女だったら誰でも、人間でなくてもにあう香水、私が一番好きな香水、あなたが大昔母親の胎内で嗅いだ匂い」
 彼のすべての感覚器がひくひくと痙攣した。
 女はまた別の小瓶の蓋を開けた。彼は揺れ動く海の水を感じとった。
 「そう、あなたは大昔に戻るのよ、大昔に・・・・海の匂い、羊水の匂い、胎内の匂い・・・」
 女は赤い香水を彼に振りかけた。
 彼はソファから転がり落ち、手足を震わせ身体を丸めた。心の中は虚ろになり、胎内の匂いに囲まれて眠りについた。
 女は高らかな笑い声を発した。それは彼が聞いた最後の音だった。

 薄寒い野原の真ん中に菫の花が一輪風に揺らめいている。花の脇で男の胎児が一人うずくまっている。ピクッと動く手足。まだ生きているようだ・・・・」

香水

香水

前の席の女から漂うかおり。女が電車から降りた後をおう。いつの間にか女が男に香水をふりまく。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-15

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