1タラント

じゅんじゅん

 民という民は、“あのかた”に熱狂し束となって褒め称えておりました。男達は酒場で、主婦は井戸の端で。皆が皆、口々に、預言者とも、救い主とも呼び、興奮した口調でもうまもなく再来する我らの王国のことを、唾を汗を飛ばしながら早口でまくし立てるのです。実在のない女すらも、枯れ枝でたわむれにつくった子供の玩具のように主張も意図もない空虚な造形物のその女すらも、心中になにやら渦が巻いているのをさわさわと感じておりました。
 “あのかた”は弟子を連れて諸国を遊説し、先々では群集の歓待を受けているという。あぁ“あのかた”はどんなことをお話になられるのかしら? どんな風にお言葉を発するのかしら? どんな声をしてらっしゃるんだろう。きっと、とりわけ暑かった日の夕方、雨も降らぬのにしっとりした風が自ずから進路を持って戸口をかすめていくことがある。あの風は音を持たないけれど、それが響きを持つとしたらそんな声。きっと、そんなお声なんだわ。
 そういう、もろもろのことを、女はいつもいつも心の中で編みつづけていましたが仲間の女達とそのことについておしゃべりする時は、どうしても塊となって、筋の通った話はおろか単語を並べて意志を示すことすら適いませんでした。いつものこと、不協和音のハーモニーのような、だまになった小麦粉のような女にはいつものこと、だから仲間の女達はさして気に止めず思い思いに自分の陣地と相手の陣地を行き来するのですが、このことに関しては女はもどかしくて、くやしくて、切なくて、たまらなくなりました。けれども一度、たった一度で充分だったのですが、いつものように“あのかた”を巡る仲間の女達との会話に混ざり切れず、どれほど自分は真剣に“あのかた”を思っているのだと示すことができず発作的に涙を流しました(これもその女にはよくあること、けれどもいつもは精神を操れずふいの偶然のように、通り雨のように起こる衝動ですがその時は違ったのです。けれど、仲間の女達がそう理解してくれるかどうか)。と、一人が
「おや、この娘、泣いているよ」
「なにか気に触ったんだろ。猫が撫でさせてくれないとか」 ・・・。
 女達は差し障り無く、流してしまうところ、尋常でないものを感じたのでしょうか。それとも女達もそう願っていたのでしょうか。
「ねぇこの娘、“あのかた”に感激しているんじゃない?」 
 女達は顔を見合わせ、自分達が、不幸の最たる自分達からも「哀れな女」と呼ばれているその女を見つめました。
「だとしたらなんと素晴らしいことか・・・」
 女の言葉はでたらめな単語の乱立、女の体躯は骨と皮、女の顔は染みとかさぶたに覆われただ一つの慰めが、そういったことを嘆くことのできない女の愚かさでした。女は自分の生まれた理由も知らず、日々の糧がどうやって舞い降りるかもしらず、隣人への愛も知らず、じっと座って明日が続いていくのを眺めるだけ、そしてそれが終わるのを待つだけなのです。
「まともに人生と向き合うアタシ達より数倍マシさ」
と、慰める年配の女もおりました。彼女は夫に裏切られ、子供を亡くし、親類から放り出されここに辿り着いたのです。彼女だけじゃない、女達は気の強い半面、涙もろくもありました。皆が重い過去と、逃れきれないずっしりとした明日を抱えどうしようもなく佇んでいるのです。たくさんの客が彼女達を卑しめました。たくさんの見知らぬ人が彼女達を指し笑いました。たくさんの聖職者が彼女達を咎めました。あぁそれも無理もない! 分かっているから余計に、堪え切れないほど辛いのです。
 女達の誤りは、女は決して無感動ではなかったということです。彼女達からすれば、疎通の適わぬ動物のような女でしたが、こちら側からはカーテンを介して挙動を伺いはするものの確実に感じることはできたのです。だから女は、いつも哀しがっていました。自分の境遇を。そしてそれを、仲間と慰め合えないことを。力になれず分かち合えないことを。そして遥かな記憶の彼方にぼんやり存在する柔らかい思い出。それを語って聞かせられないことを。
 けれども“あのかた”が媒介したその瞬間、仲間の女達は予想もしなかった可能性に顔を見合わせ、奇跡の鼓動を耳にしました。以来、“あのかた”の話をする時は、女をないがしろにすることはなく、時折彼女の微笑を確認し、せがまれれば何度でもあの方のお話しになったという言葉を語って聞かせました。
 それだからではないけれど、“あのかた”が生活の中に現れてから女の視界は開かれ輝き出しました。朝の目覚めは“あのかた”と伴にある一日の始まりでした。青い空を見上げれば“あのかた”の辿る道を思い浮かべ、甘い水を含むめば“あのかた”の喉の渇きを憂いるのです。
 “あのかた”のお言葉、“あのかた”の奇跡、“あのかた”のあわれみ。“あのかた”はこの世を照らす道しるべだ。お心が全土を包み込みますように。御名がたゆまず鳴り響きますように。女は自分が、仲間の女達よりも真っ先に地獄の火に焼かれることを承知しておりました(彼女達は罪を犯しつつも嘆き、悔い改め他者に贖うことができる。けれど女はそれができない。しないのか? できない、でなく、しない、のか?)。それは苦しいことかもしれません。女にはそれすら分かりません、それが一層苦しいのです。でも“あのかた”は救われる。そう考えると女は嬉しさが込み上げてきました。“あのかた”は救われ、この世はもちろん天界の王者になるだろう。
 女はやがて、“あのかた”の弟子となられたある女性に関して聞きました。それが ――― 以前は女達と同じ仕事をしていたひとというではないですか! 女達は不安げに顔を合わせ、否定する言葉を連ねました。そんなことできるわけがありはしまい。事実と折り合いをつけるため、女達は彼女を“強靭な精神力の持ち主”であって、“得別な、選ばれた人”と定義付け落着しました。私たちとは数段かけ離れた、優れた人なんだ。本来、我々の仲間である必要のなかった人なんだ。女も同意し平安を取戻しました。以来、多くのお弟子の中でもその女性に関して会話をするのが女達の喜びとなり力となってもいきました。
 女には一度だけ、“あのかた”のお側に近づくチャンスがありました。町に飛んで入ってきた知らせ。仲間の女達は一斉に落ち着きをなくし、店仕舞いをしました。“あのかた”がまもなくこの町にいらっしゃる! 滅多に人混みに出ない彼女達でしたが、この時ばかりは体中を厚いショールで覆い隠し顔を伏せるとこっそりと大通りへ、既に“あのかた”を中心に群集に溢れ切った大海へ身を委ねました。女も、仲間から来るように誘われました。けれども彼女は首を振り、留守番役を買ってでました。留守番だって? こんな時に仕事をする空き巣が居るもんか! けれども女は残りました。そして、初めは窓から街路を眺めておりましたが、やがて不安が込み上げてきました。“あのかた”は世のなにもかもお見通しと言うではないか。群集の中で、わずかに自分の衣に触れた病気の女を癒し声を掛けたとさえ聞いている。こんなところで顔を出していては私も見つかってしまうかもしれない。女は窓の脇に身を潜め、それでも何か知らぬ視線が舞い降りてくる恐れから寝台の下に身を潜め、仲間が帰って来るまで耳を塞ぎ呼吸を押さえ、ただただじっとしておりました。
 いつ頃からでしょうか。群集の、“あのかた”に対する態度が様変わりしてきたのは。市井から距離を置いているせいか、それとも滅多に希望を抱かない半面、いったん信じると容易にそれを崩せない彼女達の性分ゆえでしょうか。たちまちぶどう酒に変わってしまった水のように、民は“あのかた”を賛美し崇め、それから、嫌悪するようになったのです。女はもちろん、仲間の女達も唖然と彼らを眺めしつこく詰問してはうるさがれるばかりでした。
「“あのかた”は王にならないと言ったそうよ」
 女達の一人がようやく理由を掴んだらしいと明かしました。
 女達はそれは一体どういう意味かという顔を見合わせると誰も解を出せぬまま、思い思いの心中で言葉を噛み含み始めました。王ニナラナイ・・・。その時、「哀れな女」は叫びました。
「嘘よ! だって、“あのかた”はもう王ですもの」
 女達は、塞がれた瞼を取り払われ互いに抱き合いました。“あのかた”は既に王ではないか。何故なら、私達に生きる喜びを与えてくれた。私達を絶望の淵から救ってくれた。私達がたった一人でないと教えてくれた。女達は信じ、“あのかた”の名誉の回復される日を待ちました。
 ある寒い夜でした。早馬で、遠くの町を早朝に立った客が「哀れな女」の部屋にやってきました。客は、幾度かこの宿に泊まっていたので女達が“あのかた”を今も崇拝していることを知っており彼女の横になると真っ先に言いました。
「お前達の王が今朝未明に処刑裁判に合ったぞ」
 女は驚愕し、その先どうやって話を引き出したのか、客が寝入る頃には出来事のあらかたを掴み出していました。“あのかた”は捕らえられ、裁判にかけられ、民の指示のもと、磔にされる―――。
 真夜中でした。冬の盛りは過ぎたというもののまだ充分体は凍え、時折乾いた風が砂を撒き起こす音が響くだけでした。女はそっと寝台を抜け出て、疲れぐっすり眠っている客を見下ろしました。行李からナイフを取り出すと、長い髪をばっさり掴み切り、客の放り投げた衣服をまとうと窓から漆黒の世界へ飛び出て行きました。
 女は、町はおろか、宿屋から外に出たことが殆どありません。女は闇が怖く、女は少しの労働でもまいってしまいます。けれどこれ以外に取る方法はありませんでした。男のなりをして長い道程を“あのかた”がいらっしゃる街まで歩いていく以外は。
 歩みの遅い上、追っ手が来はしまいかと身を隠し隠し進んでいたので尚のこと時間がかかりました。足の裏がズキズキし、膝の関節が曲がらなくなりましたが、道端に生えている木の枝を折るとそれを杖にして進みました。
 ようやく目指す街がおぼろげに見えて来たのは、休まず歩いて何日目かのことでした。その時、こちらへ向かって歩いてくる二人連れの会話がすれ違いざま、彼女の耳に一部だけはっきりと、“あのかた”のお名前と“磔”という言葉が入りました。
「あなた方は、あの街からいらしたのですか。“あのかた”について何かご存知でしたら教えて下さい」
 女は呼び止め、問い掛けました。彼らは足を止め、数日前に女が客から聞いた話そのままとさらに悲劇的な結末を告げました。“あのかた”は救われることなく、磔台の上で死んでしまった。
 女の驚きと否定の表情を見ると、彼らは詳しく補足しました。“あのかた”は紫の衣を纏わされ、十字架を背負い街中を引き回され、2人の罪人と並んで磔に合ったが最も重い罪とされた。槍で突かれ、天に向かって何事か叫び、成す術もなく死んでいった。女弟子が何人もその光景を見守っていたが、一人を除いて皆正視に絶えず、顔を伏せ泣き続けた。その一人は、涙を押さえることは適わずとも、理性的な、深遠を秘めた瞳で仕舞までじっと“あのかた”を見守り続け、全てが終わってもしばらくその場に佇んで天を見上げていた。
 ああエルサレム、エルサレム!
 いつの間にか彼らは去り、女は疲労と余りある悲しみに打ちひしがれ泣き伏せっておりました。女には、それが真実であると理解できたのです。最後まで正視した一人の女弟子―――それは、あの“強靭な精神の持ち主”であり“選ばれた、特別な人”であるマグダラのあの女のかたなのでしょう。あの女のかたは辛くとも目を逸らすことなく見届け、それなのに全ては終わってしまった! もう何も残っていない、だって“あのかた”は亡くなってしまったのだから。
 女はいつまでも泣き続け、その呻き以外何も響きませんでした。どれ程時間が過ぎたでしょう。
「女よ、何をそんなに嘆いている」
 と虚空を破って問いが発せられました。それは、芯を秘めた風のような音色で響きました。女は身を引き締め、そっと目の前を伺うと、いつの間にか細く傷だらけではあるものの高貴な足首がそこにありました。
「“あのかた”が、“あのかた”が・・・」
 女は相変わらず言葉がしっかり出てきません。でもそれは、いつものことだからでしょうか? それとも別の、理解の幅を超えた事実を予兆しての脅えなのでしょうか? 女は恥かしさとわけの分からなさに戸惑い、また顔を伏せってしまいました。
「お前はまた身を隠すのか。わたしがお前の側を通った時、寝台の下で目を閉じ耳を塞いだように、また現実から逃げてしまうのか」
 女はもう泣いてはおりませんでした。全身を、知性の足りない分を補うため、全身を耳にしてその言葉を放すまいとしていました。
「お前は旅に出る主人から財産を預かったしもべ達の話を知っているね。お前は1タラントを預かったものの地の中に隠して増やすことなく主人に返したしもべを笑ったものだがお前はそれとどう違うのだ?」
 女は顔を上げ、目の前のかたの顔をはっきり見つめました。
「違いません、ご主人さま」
「お前の預かった額は、他の者より少ないかもしれない。けれどもそれは、確実に天の御国から預かったものなのだ。お前はそれを、増やさなければならない」
「ご主人さま、でも私には・・・」
「お前は足枷を持ちつつも、仲間の女達と愛し合うことができた。何日も飲まず喰わずここまで歩いてこれた。お前には出来るんだとお前自身が証明したではないか」
「けれどもご主人さま、私には贖いきれないほどの罪があります。こればかりはもう、どうしようもありません」
 女はこの場に及んでも、道端の木となり枯れていくことに固執しました。
「まだ分からないのか」
 “あのかた”はけれども、怒った様子もなく告げました。
「そのためにわたしは十字架に架かったのだよ」
 女は首を傾げました。
「わたしはお前の、お前達の罪を贖った。それほどまでに、お前を、お前達を愛しているのに」
 女は目の前が晴れやかに澄み切っていくのを感じました。そして顔いっぱいに微笑を浮かべると子供のように大きく頷きました。
「ほら、あそこに川がある」
 開かれた視界に女も今やそれを認めました。
「行って飲むがよい」
 そこで女は川まで辿り着くと口を水際に付けて長い時間飲み続けました。立ち上がり振り返ると、空は高く丘は広々と目指す街に向かっておりました。
 確かに自分は選ばれた者では決してない。けれども、無益な者でも決してないんだ。
 渇きを癒し力を得た女は、再び街を目指し歩き出しました。そこには、仲間が居る。共に、成すべきことを成す仲間が。その頃街は、復活の喜びに酔いしれていました。これから、全てが始まっていくのです。

1タラント

1タラント

キリスト復活を舞台とした、堕ちた女性の復活の話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
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