馬の骨

馬の骨

茸の幻想小説です。縦書きでお読みください。

 どのこの馬の骨かわからねえが、という台詞はいろいろな場面で耳にしたり、目にしたりする。演劇、ドラマの中で、マンガの中で、小説の中で、いずれにせよ、相手を見下した言い様である。辞典には江戸時代の草子類の中に見られ、素性のわからない者、身分が低い者にたいして用いるとある。
 なぜ馬の骨がそうなってしまうのだろう。私の頭の中では、馬は高貴なものに感じられてしょうがない。いや、馬ばかりではない、生き物はみな尊敬すべき者たちである。語源辞典を見ると、そこのところこが少しばかり解説してある。そのころよくいた動物である馬を見下して使ったようだとある。牛の骨という言い方もあったと書いてある。要するに俺様が天下の主人だと思っているのが人間なんだろう。身近にいたのは馬牛だけではない、犬猫のほうがもっと身近にいただろうにと思うが、小さくてかわいい者を引き合いにしなかったのはひいきだ。牛馬は労働者だ。
 更に辞書を調べると、骨に対する私のとらえ方が一般すぎた。骨といえば身体の心棒である骨を思うが、そうじゃないとある。骨の意味は人柄という意味があるそうである。そのあたりは漢字の起源である中国における説明である。そうなると、どこの馬の人柄ということだ。馬に人柄とは矛盾だが、人間の相手に、人じゃない、あんたは馬の程度ということになるのだろうか。馬が怒っている。
 馬の骨のことに考えが及んだのには訳がある。まだ私が若い頃、馬の骨の頭とあるはずがないようなところで出合ったことがあるからである。それは画家として私の名前を世間に知ってもらう機会になった大きな出会いとなったのである。

 二十年ほど前の九月の末、茸の写真を撮るために、長野諏訪の富士見町を車で訪れた。このあたりは八ヶ岳の麓で、秋には様々な茸が生える。私は茸の絵描きで、茸を写実的に描く。写実的ではあるが、茸には人の目がついていたり、耳がついていたり、一方、茸そのものは写実だが、本棚の本から生えていたり、食器棚の皿から生えていたり、シュールな絵を描く。そのイマジネーションを得るために、茸の季節になると、長野や秋田の茸の宝庫に出かけていって写真を撮ったり、スケッチをしたりする。
 そのとき、長野のこの場所は初めてで、友人が紹介してくれたペンションに泊まった。東欧という名前である。仕事の関係でハンガリーに長年暮らしていた夫婦が、退職後に始めた宿で、ハンガリーの家庭料理が食べられる。夕食にでたパプリカチキンは絶品だった。部屋も大きくはないが小奇麗で気持ちがいい。
 写真の被写体の茸は面白い形をしていたり、綺麗な色のものだったりすればよいので、食べられようが食べることができなかろうがかまわない。そういうことであるので、ペンションの周りからにして被写体の宝庫である。
 ペンションの周りの林の中にちょっと入って見たところ、いろいろな形の茸があった。小さな茸をファインダーでのぞくと、大きな立派な茸並に堂々と立っていたり、すっきり立っていたり、かわいらしく立っていたりして、写真を撮る時に、頭の中に絵の構図がうかんでくる。その時はスケッチ帖に構想を描いておく。実によいペンションを紹介してもらったものだと友人に感謝である。
 来た日は曇り空で、夜に雨が降ったが、次の日の朝、雨は上がっていた。曇空の中、カメラを首にかけてペンションをでた。
 ウオーキングシューズが草の露に濡れて、赤茶の革の色が黒っぽくなっていく。
 ペンションからほんのちょっと歩いたところにテニスコートがある。その脇にある細い道にはいると、テニスコート脇の草むらに、白く生えたての埃茸が群をなしていた。きれいなもので、かわいらしくもあり、二つ並んだ物をファインダーで見ると、丸くきれいな乳房のようにも見える。他にもいくつかの茸の写真を撮った。
 その先を行くと県道の484号線になる。この道は八ヶ岳の裾をまくようにあるので、鉢巻き道路と呼ばれている。
 鉢巻道路の下が隋道になっており、くぐると道の反対側の草地にでた。木がまばらに生えており、光もほどほどに入り茸が好きそうなところである。叢の中にぽちぽちと茸が見える。
 草地を茸の写真を撮りながら歩いていくと、草に覆われている白い塊が目に入った。近づいてみると動物の頭骨である。何でこんなところにあるのだろう。かなり大きい。とっさに思ったのは熊の頭である。動物の頭のそばに紫色の茸が一つ生えている。面白い茸だ。まずその茸の写真を撮り、骨の写真も取った。一緒の場面も修めたが、骨から直接生えていれば面白いのにと、そんな想像図をスケッチした。
 写真を撮り終えると、改めて頭骨を見た。なんでこんなところにあるのだろう。曝された頭骨は目にまぶしいほど白く綺麗だ。オブジェとしてとてもいい。そう思って拾い上げるとかなり重い。胴体や手足の骨はないのかと周りをみたがない。頭の骨だけである。そもそも土に埋もれているのではなく、草の上にぽんと於かれているようにあったのはどうしてだろう。奇妙だなとおもいつつも、頭骨をビニール袋に入れてザックに収めた。
 ペンションの205号室にもどると、改めて頭骨を手に取った。きれいにさらされていて置物としていい。絵になる。美大のデッサン室にはいろいろな動物の骨がおいてあったが、学生の頃、私の興味はどちらかといえば人間の体のほうにあったので、人体石膏模型のデッサンに力を入れていた。それで拾った骨が大型の動物の骨であることはわかったが、なにの骨かさっぱりわからなかった。
 拾った頭骨に下顎骨はない。とそこまで思ったときに、ふと、なぜ、頭の骨だけが、しかも頭の部分だけ、あそこにコロンとあったのだろうかと、またもや疑問がわいてきた。道路わきの草むらで大きな動物が死んでいたら誰かが気づくはずである。ということは、この頭の骨は誰かがそこに捨てた、または置いたことになる。野ざらしだともっと汚れているはずである。
 動物の頭骨を机の上におくと、また茸の写真を撮りに行くことにした。このような場所ではいつ雨が降ってくるか分からない。降らない間に散策にでかけるのがよい。またペンションをでると、先ほどとは反対側の林の中を歩いた。道々にいろいろな茸が生えていて、なかなか前にすすまない。その日はあちこち歩き回って、かなりの茸の写真を撮ることができた。車でどこかに出かけるつもりだったが、その必要がなさそうである。その地区の林の中の道を歩くだけで、いろいろな茸に出会える。
 夕方ペンションに戻ると主人が声をかけて来た。
 「茸の写真は撮れましたか、我々は食べる茸しか頭にないので、とんと様子がわかりませんでね、ペンションの周りでも食べる茸は出ますが、やっぱり山に入らないとなかなかいい食菌はないですね」
 「いや、ずい分いろいろな茸の写真が撮れました、毎年来たいと思います」
 「それは嬉しいですね、お友達の方は春にいつもいらっしゃいます、山菜料理がお好きですね」
 友人はボタニカルアートをやっている。名の知れない野草を好んで描いている。
 部屋に戻ると、机の上の頭の骨が眼にはいった。拾ったときとは違って、なんだか骨が嫌がっているような気がしたのはなぜだろう。
 荷物を置いて、手洗い場で手を洗って、食堂に行った。夕食は六時と決まっている。宿泊しているのは私を入れて七人だった。四人の家族一組と老夫妻一組だけである。部屋数はそんなにない小さなペンションである。それでも三分の二の部屋がうまっている。
 その日の夕食はハラーススープにステーキだった。ステーキには地の茸がふんだんに添えられていて、それは美味しいものだった。夕食を食べ、部屋にもどると、頭骨が自分のほうを見たような気がした。目の辺りがうっすらと赤みがかっているように思えるのは気のせいか。なんだか骨が悲しんでいるようだ。
 タブレットを開いた。熊の頭骨とヤフーで検索すると、全く違った形の頭の骨の画像がでてきた。拾った頭骨は前が尖っているように突き出されているが、熊の骨は違う。決定的に違うところに気がついた。歯の形である。拾った骨には牙のように尖っている歯がない。大きく平べったい。ということは、草食動物である。とすると大きくて身近なものは、馬、牛、鹿である。牛や鹿には角があるが、この骨にはない。それで、順番に調べていくと馬の頭骨のようである。それにしても、なぜあそこに馬の骨。
 誰かが持っていたものを捨てたのか。そうだとすると傷がないことから捨てられて間がない。手にもっていろいろな角度からながめていると、大きな眼の穴の奥がきらりと光った。眼の穴をのぞいていると、冷たい風が自分の目に当たった。びくっと私は顔をそらせた。
 ぞくっと背中に冷たいものが走った。気味悪さが襲ってきた。骨の目の奥は真っ暗だ。持ってきてしまってよかったのだろうか。あの場所にこの骨はあるべきなのではないのだろうか。
 捨てられたにしても、走る車から放り投げられたのではない、あの場所に静香に置かれたのだ。からだがざわざわしている。私はいけないことをしたのではないだろうか。ベッドに入っても、頭の中がざわざわし始めた。眠り訪れてくれない。天井に蝿取蜘蛛が動き回っている。脇の壁に亀虫がいる。
 頭骨はもとにもどそう。そう決めてからいつの間にか眠りについていた。
 明くる朝、空には雲が一面にかかっている。今日も天気はあまりよくない。顔を洗って、部屋に戻ると、机の上においておいた頭骨をザックにいれた。
 食堂に行くと、食事が用意されていた。
 「茸の写真どうでした」
 奥さんが紅茶を運んできた。
 「ええ、たくさん生えていて、とてもいい写真が取れました」
 「よかったです、このあたりは歴史のあるところで、信玄の息のかかったところですよ」
 甲斐と信州の境の辺りで、信玄にとっても要所だったのだろう。
 朝食の後、ザックを持って昨日、頭骨を拾った場所にきた。草むらの紫色の大きな茸は変わらずにしっかり立っている。頭骨の鼻の先にあった茸だ。私はそうっと馬と思われる頭骨を草の上に置いた。すると微妙に頭骨が動いたような気がした。あたかも元あった形になるようにである。
 今度はぞくっとはしなかった、むしろほっとした気持ちがわいてきた。
 この骨はオブジェとしておかれていたとか、研究用に造られたとか、そういう感じがまったくしなかった。ここにあるのが自然だ。だが、何故頭の骨だけ。
 ペンションにもどると、朝食のあとかたづけをしている女将さんに尋ねた。
 「このあたりに馬の牧場や研究所はありますか」
 「小淵沢のほうに、馬に乗るところはありますよ、馬に乗りなさるのですか」
 「いや、そういう訳じゃないのですが」
 「すぐ近くじゃないですけどね、馬を大事にしていますよ、馬に乗って山の中をいくコースもあるようです、結構いい値段しますけどね」
 よく考えれば、近くの人が大事にしていた馬の骨を、すぐそばに捨てたりはしないはずである。それにどこに住む人であれ、もし大事なものであったのなら、手放さなくてはならなくなったにしても、土に埋めて供養したに違いない。いくら考えても不思議さは増すばかりである。

 東京のアトリエに戻ると改めて頭骨の写真をもとに、動物の骨のことに詳しい友人にも聞いて、馬のものであることを確かめた。
 その写真とスケッチをもとに、馬の頭骨の目から紫色の茸が生えている絵の製作を始め、一月ほどで完成させた。茸はデフォルメして、あたかも天に昇っていくように描いた。馬の頭骨が空の上をのぞこうとしているように。
 馬の骨の前に生えていた紫色の茸を図鑑で調べてみた。紫色の茸は紫占地、紫茸、紫山鳥茸、紫風船茸、いろいろある、なかでも紫占地に似ているかもしれない。いずれにしろ私の絵になった茸に名前は関係ない。

 次の年である。やはり茸の写真を撮るためにそのペンションに泊まった。その日も曇っていて、いつ雨が降り出てもいいような天気であった。
 ついたその足で馬の頭の骨のところにいってみた。あたりの様子はあまり変わっていないが、昨年より茸が少ないようだ。
 馬の頭骨は草に覆われ、見にくくなっていたが、ほとんど変わらずそこにあった。むしろ白くなっているようである。
 頭の先に紫色の茸が生えている。それも変わらないが、まさか同じ物ではないだろう。茸も入れて馬の頭骨の写真を撮った。去年撮った構図とほとんど同じである。撮ることの意味はあまりないが、変わらないということの証明か。
 頭骨の後ろの草をちょっとよけてみた。そこにも紫色の茸が生えていた。鼻の先にある茸より少し小さい。
 馬の頭骨を持ち上げてみた。なぜか露に濡れていない。誰かが拭いて、そこにおいたばかりのようだ。そういえば、去年、この骨をペンションに持って帰ったときも、全く草の露に濡れていなかった。そのことに考えが及ばなかったのは、捨てたばかり、置いたばかりだと思い込んでいたからなのだろう。今回は違う、明らかに一年経っている。
 馬鹿馬鹿しい考えかもしれないが、誰かこの骨を拭きに来ているとすればここに捨てたのではなく、やはり置いてあるのだ。きっと理由がある。
 ペンション東欧のご主人に聞いた。
 「あの鉢巻道路が整備される前はどのような道だったかご存じですか」
 「私らも古くありませんからな、このペンションができて十五年ですから、このあたりのことはあまり知らないのですよ。ここは四、五十年前に貸し別荘地として開発されたところですから、きっとただの林だったのではないでしょうか、ただ、道はあったと思いますよ、武田信玄が諏訪に攻めるために作ったという道もありますからね、そういう意味で要所だったかもしれませんね」
 「そうですか、近くに温泉がありますね」
 「ええ、上にあるホテルの鹿の湯ですね、八ヶ岳の地下のマグマから生まれている珍しい湯だそうですよ」
 「傷ついた鹿が使っていた湯という話がありますね」
 「いや、それは上田の鹿教湯で、こことは関係ありませんよ」
 「そうでしたか、どこかで聞いたような気がしたもので」
 「富士見町は鹿の沢とよばれていたところで、甲斐との境です、そんなことから名が付けられたのかもしれませんね」
 あの馬の骨は鹿の沢と何かつながりがあるのだろうか。
 「富士見町には境という場所がありますよ、昔は村でしたけど、そこに城跡があるようですが、私はよく知りません」
 そんな情報をもとに、部屋にもどってタブレットを取り出した。
 富士見町の城を調べると、境に先達城跡がある。しかもこの城は武田の物で、すなわち諏訪ではなく、甲斐のものだった。今は常昌寺の敷地になっている。この寺の名前は城主の名からきたもののようだ。ともかくこの城が、武田が諏訪を攻める根城となったようだ。確かに富士見町は要所である。
 さらに、ペンションの主人がいうように、武田が作った棒道という道が、諏訪のほうに棒のようにいくつか伸びている。それが富士見町にある。去年、茸の撮影のために、ちょっとだけ入った道も棒道の一部のようだ。これからゆっくりと道に沿っての茸を撮影しようと思っていたところでもある。棒道の様子や走り方を確認しながら行くのもいいだろう。
 ということは、その昔、馬に乗った武士達がこのあたりを走り回ったということである。当然、馬が大事にされていたのだろう。
 とはいえ、あそこに落ちていた馬の頭骨とつながるものではない。
 明日は棒道を歩いて茸の写真を撮ろう。茸を探す楽しみに、歴史の浪漫が加わって、少しばかり楽しくなった。今回は長く泊まるわけではないので、棒道のすべてを歩けるわけではないが、何かが分かるかもしれない。
 次の朝、宿の主人に棒道の一つの入口を教わった。棒道は富士見町あたりが出発点の一つのようだ。教えてくれたのは鉢巻道路の鹿の湯の近くの仏供石のところである。ただしそこが出発点ということではないということだ。
 ペンションからでて、鉢巻道から林へ入ると、大きな苔蒸した石が三つあり、どれも八ヶ岳のほうを向いていた。この石は軍の道標だったようだ。その奥の大きな石が仏供石と呼ばれ、上に石仏がある。戦死者の供養の意味もあったという。
 その周りにも小さな茸は生えていた。石の上からも生えている。
 そこを過ぎると、県道と平行するように林の中に棒道があった。特に目立った茸の写真を撮ることはできなかったが、大きな蝮草が赤い粒粒の実を付けていたのが印象的である。
 棒道のそこの部分だけでは、軍馬が列をなしていくイメージはわかなかったが、県道との並走が終わり、林の奥に入っていく道にはその雰囲気があった。
 ちょっと先に進んでみた。上り道で見通せるところに出ると、確かに馬の隊列や武具に体を包んだ兵たちが進む様子が想像できるところになった。道の脇の藪には赤い茸が顔を見せていたが、よくあるもので、よほど形のいいものだけを写真に収めた。
 そうやって歩いていくと、あっというまに時間が経った、お昼もペンションにたのんで出てきたので、そろそろ戻ろう。
 途中でもう一度、馬の頭の骨に会いに行った。馬の頭骨は変わりなく、草の上にたたずんでいた。ただ、周りに紫色の茸がいくつか増えていた。茸は一晩で生えてくるので特別に不思議ではない、しかし紫色に囲まれて、白い馬の頭骨はとても目立つ。いい景色である。その様子を写真に収めようとカメラを向け、ピントを合わせようと画面を見ると、昨日来たたときに見た様子とどこか違うことに気がついた。草の上に乗っているのである。来たときには細い草の葉が頭を覆っていた。ということは誰かがここに来て、この骨を持ち上げたのである。こんなところに入ってくる者はそんなにいないはずである。もしいたとして、この頭骨を持ち上げ、元に戻していたら位置が変わっているだろうが、前から生えている茸との位置関係は全く変わっていない。不思議なことがあるものだと思いながらペンションに戻った。
 今回は二泊だけだったので、棒道を中心に茸の写真を撮り、イメージをスケッチし東京に帰った。
 アトリエに戻って、写真を整理してみると、いくつかの茸は初めて撮るもので、絵になりそうであった。しかし、紫色の茸に囲まれている馬の頭骨はもっと絵になる。昨年描いた絵を取り出してみると、なにか物足りなく感じて、もう一度描くことにした。大小の紫色の茸に囲まれた白い馬の頭骨、面白い絵に仕上がった。

 三年目の秋のことである。恒例になった茸の写真撮影に長野の富士見町に出かけた。当然ペンション東欧に予約を入れた。
 その日は今までになく、空が青く晴れわたっていた。
 ペンションには三時に着いた。すぐに昨年に続き、別の場所の棒道を教わり、奥に行ってみることにした。その後で馬の頭骨に会いに行くつもりであった。
 林の中をくねるように続く棒道には脇に行く道が所々にある。そういった道にもちょっと入って戻るということを繰り返しているので、なかなか先には進まない。
 しばらく歩いていると、道のあちこちに緋色茶碗茸が生えていた。珍しいものではないのだろうがなかなかきれいだ。ファインダーで覗くといくつかまとまって生えているものは、押し競饅頭をしているようで茶碗がひしゃげていて面白い。単独で生えているものは本当にお茶碗のようだ。これを黒い塗りのお膳に生やすと面白い。
 さらに、脇道の脇の草原の中に、茸の一種、登竜(のぼりりゅう)が至る所に生えていた。登竜は頭の形が一定していない白っぽい茸で、草の中に顔を出した宇宙人のような奇妙な形をしている。キャンバスにたくさんの形の違った登竜を書くと、きっと、異性人の世界が広がるだろう。いい写真が撮れた。
 夢中になって登竜を探していると、急に日が陰ってきた。時計を見るとまだ4時半である。木々の間から見える空には雲が広がっている。一時間半しか歩いていないが、戻ると六時になってしまう。
 顔に冷たいものがあたった。雨かと思ったが、雨までにはなっていない。靄がかかっている。このあたりの天気は変わりやすい。霧がさーっと降りてきて、雨になることもある。
 急ぎ足で引き返した。だんだん薄暗くなり、霧が濃くなり、林の中はもやってしまった。周りの木々もはっきりしないほどである。足元の道がかろうじて見えるので、それを頼りにもどっていった。一本道でなかったらどこに行ってしまうか分からない。
 県道にでた時は何となくほっとした。林の中より明るいのでペンションへの道は問題ない。見える範囲が少なくなるのはなんと心細くなるものなのか体得した。
 ちょっと安心したところで、あの馬の頭骨のことを思い出した。ここまでくればペンションも近い、いつもの草地に寄ることにした。霧もそのうち晴れるだろう。
 木がまばらに生えている草地にはいると、遠目に頭骨がまだあることがわかった。
 近づくと白い馬の頭骨は草に覆われてはいたが、去年と同じ形でそこにいた。紫色の茸がずいぶんたくさん生えている。
 予想に反してさらに濃い霧が降りてきた。あたりはぼんやりとしか見えないが、馬の白い頭骨は紫色の中に浮きでている。
 屈んで頭骨をよく見ようと思ったとき、霧の中に大きな紫色の陰が現れた。
 まるで影絵のように動いている。こちらに近づいているようだ。
 大きな生きもので、気味が悪くなった。どうしようと、とまどっていると、影は近寄ってきて、姿が明らかになってきた。
 馬が来る。しかも人が乗っている。霧ではっきりしないが、近寄るにつれ、馬には武将がまたがっているのがわかった。
 甲冑を着た武者の手が手綱を握っているが、先端が輪になって宙に浮いている。
 馬に頭がない。
 馬が止まった。私の目の前に立ちはだかったのは、頭のない馬に乗った紫色の甲冑を着た武者であった。
 武者は頭のない馬から下りると、頭骨の前に立った。私が目の前いるのに全く気付いていないようである。
 武者は兜をとり、甲冑をはずした。
 現れたのは、紫色の紗(うすぎぬ)を着た女だった。女は頭に手を添えると、束ねてあった髪をおろした。
 私のほうを見た。しかし私を意識した様子はない。色の白い細面の女だ。そう、能面の若女である。
 すぐ目を下に落とすと、女は馬の頭骨の前でしゃがんだ。両手で骨を自分の目の高さまで持ち上げると頭をなでた。
 そのままの姿勢で立ち上がり、待っている馬のところに近寄ると、馬が首を差し出した。女は頭骨を首のところにすげた。
 顔が骨の馬はそれでも嬉しそうに大きな声でいなないた。私にも聞こえたのだ。
 馬は首を振ると、女に骨の頭をなすりつけた。女も馬の首に手を回し、頭を馬の首につけ、片手で馬の頭骨の鼻筋をなでた。
 ほんの一瞬の出来事であった。
 女は馬の首から頭骨をはずすと、手に持ったまま頭を再びなで、草の中にそうっと置いた。
 白い馬の頭骨はこそっと動くと、元の通りの位置に収まった。
 紫色の紗を着た女は髪を丸め、兜をかぶった。紗は甲冑になった。女武者は首のない馬にまたがると、霧の中にゆっくりと消えていった。
 今度は、カッツカッツッカとひずめの音が聞こえた。だんだん遠ざかっていく。
 馬の頭骨は紫色のたくさんの茸に囲まれて、眠るようにその場にあった。
 静かに安らかに寝ている馬の目が覚めぬよう、私は音を立てぬようその場を去った。
 私はいつの間にかペンションの入り口に立っていた。

 あれは自分の妄想だったのだろうか。
 それにしても、霧の中に現れた女の武者はだれだろう。このあたりに縁のある武者に違いない。ペンションのオーナーもおそらく知らないだろう。富士見町の町誌やこの辺りの歴史書にはあるかもしれない。
 タブレットでネットを開いた。長野の女武将ではでてこなかったが、山梨の女武将で調べるといた。平安から鎌倉時代にかけて武勇をはせ、甲斐の浅利家の妻となった板(はん)額(がく)御前(ごぜん)という女性(にょしょう)がいるという。美人とも不美人ともあり、背がとても高いと書いてあるものもあった。
 さらに調べた。甲斐での生活ははっきりしない。よく考えれば、何も歴史上に名前が残っていなくても、戦に臨んだ女性もいたことだろう。
 戦の場で戦っていた馬にまたがっている女武者の首を取ろうと、敵方が刀を振りかざす。女主人を守るために馬が首を上げ、刀は馬の首を跳ねた。首がなくなっても馬は女武将を救うためにそのまま走りに走り、女武者は命が助かった。しかし、いくつかおっていた傷がもとで女武者は死ぬ。死後、女は馬の首を捜し、首のない馬にまたがって富士見町をさまよい、草むらに落ちていた馬の頭骨を見つける。それから馬の命日には必ず現われ、馬の頭骨を馬の首にすげてやる。今日、馬の命日だったのかもしれない。そういえば去年も同じ日に来ている。
 紫色の茸は生前、馬が好んで食べていた茸なのか。女武将の着ていた色か。
 ペンションのベッドの上で、そんな妄想が湧いた。

 東京のアトリエで、その話が頭の中で熟し、何枚もの、馬の頭骨と紫色の茸の絵を描いた。最後に描いたのは、首のない馬のたたずむ先に、紫色の紗に包まれている、紫色の茸が生えた馬の白い頭骨の絵である。馬の頭骨と紫の茸は、私の画家としての生涯の最も好きなモチーフになった。今でもその場面を描くのが楽しい。そのうち、今まで頭に描いてきた物語を小説にして、描きためた頭骨と紫色の茸の絵を添えて、本にしたいと考えている。あの馬の骨が私にそうさせているのかも知れない。

馬の骨

馬の骨

草むらに落ちていた晒された馬の頭骨。周りには紫色の茸が生えていた。なぜ頭骨だけコロンと。(筆者が毎年行く長野のペンションの近くで見つけた草むらの中の馬の頭骨、三年間同じところにあったが、四年目に埋もれて見えなくなった。そこまでは本当にあった話、写真も撮ってある)

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted