雲桜(くもざくら)
春先のある朝、ユウゾーの文房具を買いに、二人で街まで行くことになりました。
町外れにある雑木林のそばの家から、住宅街を通り抜けて、街までは、歩いて一時間。
いつもなら自転車で行くのですが、その日は、あいにく終日、雨の予報。
仕方なく傘を差して、歩いていくことにしました。
小雨の上、風も冷たい日だったので、二人とも真冬の格好で家を出ました。
家々の軒先には、梅の花が雨に濡れていました。
歩き始めて、しばらくすると、ユウゾーは言いました。
「お父さん、ユウゾくん、左の靴のつま先、もうびしょびしょ」
「お父さんも、右の靴は水がしみちゃってるよ」
どんなに水たまりを避けて注意深く歩いても、仕方ありません。
ほどなく、
「もう右の靴も、びしょびしょになっちゃった」
「お父さんも」
「足、冷たいね」
「うん」
まだまだ中間地点を過ぎたばかり。
* * * * *
しばらくして、ある学校のそばに差し掛かりました。
通りに校庭が面していて、通りとの境には大きな古い桜の木がいくつも植わっていました。
素っ裸の桜の幹はどれも雨に濡れて真っ黒でした。
100mほど先に桜を目にして、私は指さしました。
「ユウゾーくん、お父さんの目が悪いせいかもしれないけど、お父さんには空一面に満開の桜が広がっているように見えるんだよね」
空に向かって広々と伸びた桜の枝。
茶を帯びた黒色の線が細かく枝分かれした模様の地には、
心なしか薄紅色を帯びた薄い灰色の曇り空。
目の悪い私には、びっしり花のついた桜の枝が、空一面に広がっているように見え、まるでひと月先の花盛りの季節にたちまちやってきたような不思議な気分でした。
「うん、見える、桜の花がいっぱい!」
ここのところ、目が悪くなってきていたユウゾーも驚いて言いました。
その大きく広がった桜の枝の下を、二人とも傘を傾け、上を眺めながら、通り過ぎていきました。
* * * * *
桜の下を通り過ぎて、ユウゾーは言いました。
「お父さん、目が悪いのも面白いね」
「うん、そうだね」
「それに、雨の日に歩くのも」
それから、二人で、空一杯に広がる花の下を、街まで歩いていきました。
雲桜(くもざくら)
2019/03/04 てつろう(初稿)