学校のマリタン

 都会のそよ風の中にも、新緑と土の匂いが交じっている。その風が桜の花びらを散らす頃、街を行き交う人々の足取りに新年度の活気のようなものが感じられた。今年で三十路になる隆も、耳元をかすめた蜂の羽音に驚いて、スマートフォンの画面からふと目をあげて、色づいた街路樹や植え込みのタンポポをあらためて眺めるのだった。いつからか隆にとって、四季のめぐりなど生活の中を足早に過ぎてゆくものでしかなくなっている。桜はすぐに葉桜となり、やがてどの樹が桜の木だったのかもわからなくなる。日々の仕事をこなすのに手一杯で、未来のことはおろか、過去を振り返る余裕さえ失っている。しかし、そんな隆にも、しばしば心をよぎる思い出があって、今もそのことを思い出していたのである。マリタンのことを。
 隆が通った光和小学校の卒業アルバムにマリタンの写真はない。四年生の時、十歳で亡くなったから。まるで転校でもしてしまったかのように、卒業した同級生の顔ぶれの中にマリタンの顔はないのだ。鈴木マリコ、マリコという字がどんな漢字だったのか思い出せない。隆はマリタンと親しくなかったし、話しをしたこともなかった。綴じ込みが緩んだ卒業アルバムの中の、六年間の思い出という頁にマリタンの写っている写真が一枚だけ載っている。友達と校庭の花壇に座っている。白いニット帽をかぶって微笑んでいる。亡くなる前、いつもニット帽をかぶっていたから、生前最後の写真の一枚なのだろう。
 マリタンは体が弱かった。よく学校を休んでいた。何の病気だったのか知らない。マリタンが亡くなったとき、体育館に集合させられた四年生の前で学年主任の下田先生が男泣きしたが、病名までは言わなかった。「鈴木は今もみんなの友達だし、これからも友達だ」そう言って、先生は言葉がつまり、ハンカチで顔を覆ってしまった。それからみんなで黙祷をした。
 隆はマリタンの死を実感できなかった。生前のマリタンは数人の同じ顔ぶれの友達としか行動していなかったし、運動会や遠足で見かけたこともなく、一度も一緒に遊んだことがない。隆にとっては、もともと居るのか居ないのかわからないような存在だったから、亡くなったと聞いて初めて存在感が増したぐらいで、それ以上の感情が湧いてくるほど故人の記憶がなかったのである。マリタンは誰よりも背が小さくて、四年生とは思えないほど幼く見えたものだ。発育が悪かったからかもしれない。同級生たちから見ても幼く見えたから、それで「マリタン」などという幼稚な愛称で呼ばれていたのだと思う。でも、今になってみると、マリタンという響きに隆は親しみを覚える。可愛らしいと思う。
 まるで存在感のなかったマリタンが、にわかに学校中の人気者になったのは、亡くなってしばらく経ってからのことだった。誰が言い出したのか知らないが、四年生の教室の並びにあるトイレの、女子トイレの中に向かって「マリタン」と声をかけると、「はーい」とマリタンの声が聞こえるというのだ。このうわさが全校生徒を騒然とさせた。休み時間や放課後、うわさの女子トイレの前に人垣ができて、「マーリタン」と声をかける。そして息を殺して耳を澄ます。何も聞こえない。もう一度「マーリタン」と声をかける。それを繰り返していると、人垣の中の誰かが、腹話術師のように口を動かさずに「はーい」などと言うものだから、みんな悲鳴を上げて一斉に逃げ出す。これがブームになった。
 マリタンの親友にササダという女の子がいた。彼女はこのブームに同調することを頑なに拒絶していたのだが、ササダが女子トイレに声をかければ必ずマリタンが応えるとはずだと同級生の期待を一身に集め、一躍時の人になってしまった。ササダはマリタンと親しかったぐらいだから、彼女も大人しくて目立たない存在だった。それがにわかに注目のまとになり、マリタンを呼んでくれとまわりから懇願されたものだから、そのうち本人もその気になってしまったらしい。
 人垣の先頭に立ったササダは女子トイレに声をかけた。
「マーリタン」
 その瞬間、一斉に悲鳴が上がった。みんなパニックになって蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。「聞こえた!聞こえた!」みんな興奮したように叫んだ。隆も人垣の後ろのほうに居たのだが、マリタンの声は聞けなかった。親友のササダが「ほんとに聞こえた」と断言したことで、マリタンの霊は実在するのだと誰もが信じて色めき立った。しばらくはこの話題でもちきりだった。しかし、うわさはやがて父兄の耳にも届き、「マリタンブーム」はPTAを巻き込む大問題になる。
 全校生徒が体育館に呼び集められた。校長先生は神妙な顔をして「私は悲しいです。あなたたちのしていることはとても恥ずかしいことだ。人として絶対にしてはならないことです。わかりましたか、人としてしてはならないことなのです」と言った。
 帰りのホームルームのとき、下田先生がササダにやわらかく問いかけた。
 「ササダ、おまえは鈴木と親しかったじゃないか。なんであんなことをしたんだ?」
 ササダは机に顔を伏せてわっと泣き出した。
 「なぁササダ、正直に答えてくれるか?おまえは本当に鈴木の声を聞いたのか? 先生はね、こういう話しがすべて嘘だとは思わない。もし本当に聞いたのなら、先生は鈴木を供養してあげたいと思うし、みんなで供養してあげようよ。なぁササダ、どうなんだ?」
 先生に問い詰められたササダはしゃくりあげながら
 「聞こえたような、気が、したんです」と言って、それ以上は言葉が続かなかった。
 もし本当に聞こえていたのなら、彼女は断固「聞こえた」と言い張るだろうと隆は思った。しかも、マリタンの声を聞いたと騒いでいた生徒の中の誰一人、本当に聞こえたんだと主張した者はいなかったのである。
 この日を境に、マリタンブームは終息した。
 前後のことをまったく思い出せないのだが、それからしばらく経ったある日の放課後、隆は人気のなくなった校舎に一人で入っていった。忘れ物を取りに行ったのか、それとも校庭で遊んでいて何か用事を思い出したのか、ともかく教室へ行った。その帰りぎわ、ふと女子トイレの前で隆は足を止めた。廊下には紅茶がこぼれたような夕日が差し込んでいた。さっきまで騒々しかった校舎の中が、まるで眠ったように静かだった。
 隆は女子トイレの中に向かって、
 「マリタン」
 と声をかけた。
 何も聞こえなかった。何も聞こえなかったことでいっそう校内が静まり返ったような気がした。
 隆はそのとき、名状しがたいさみしさを覚えた。人の死というものが、少しだけわかった気がした。このときの放課後の静かな情景が、いつまでも隆の心に残った。
 卒業するまで、生徒たちの会話の中にマリタンの名が出ることはほとんどなかった。学校をあげての大問題になったため、マリタンの名はすっかりタブーになってしまったのだ。しかし、もともと目立たなかった一人の女の子が、急速に成長する子供たちの時間の中で、あっという間に忘れ去られただけなのかもしれない。
  
 隆はその後、恋愛や受験や就職で死にたいような思いを何度も味わった。しかしそれを帳消しにするぐらい嬉しいこともあった。車の免許を取ったり、初体験をしたり、昇給したり。人生は喜怒哀楽の繰り返しなのだと、このごろ隆は老成したように悟っている。スマホの画面に見入りながら、猛スピードで変動する社会に乗り遅れまいとしている。しかし隆は、会社で書類をコピーしているときや、営業車を停めて缶コーヒーのプルブタを開けるとき、ふと、マリタンのことを思い出すのだった。体育館でマリタンの訃報を聞いて以来、隆は誕生日を迎えるたびに、マリタンより一つ歳をとったと思う。マリタンが生きていたら今いくつだとか、マリタンが生きていたらもう結婚している頃だとか、折あるごとに隆はマリタンのことを思い出してきたのだった。
 失恋をして自殺したいと思ったときも、マリタンのことを思い出した。マリタンのニット帽の下は、きっと髪の毛がなかったのだろう。髪が抜けたとき、マリタンは鏡を見てどう思ったのだろうか。十歳の子でも、やはり死を予感したはずだ。どんな気持ちで死と向かい合っていたのだろう。マリタンは見るからに病弱そうな、蒼白い顔をしていた。じっとしていても体が疲れるのか、いつも眠そうな目をしていた。友達といるとき、朗らかに笑っていることもあった。あんなに幼かったマリタンが、本当は芯の強い子だったのかもしれないと隆は考える。失恋ぐらいで死にたいと思いつめている自分が、体こそ丈夫かもしれないが、よほどマリタンよりひ弱なのだと思えた。
 十歳で亡くなった子供にとって、人生は短いものなのだろうか。人生とは、貯金のケタのように、生きた時間が多ければ多いほどめでたいものなのだろうか。十歳で亡くなった子供も、百歳の長寿をまっとうした老人も、長短の区別なく、天命に定められた一生ぶんの春夏秋冬があるのだと昔の偉人が言っていた。マリタンの一生も、百歳の老人の一生も、人生の濃度は同じなのかもしれない。十歳にとっての一年は人生の十分の一、百歳にとっての一年は百分の一だ。マリタンの十年にも、きっとそれを「一生」と呼ぶに足りるだけの密度があったはずだ。そんなふうに思うと隆は、マリタンが今でも、光和小学校で無邪気に遊んでいるような気がしてくる。十歳のマリタンにとって最も大きな思い出は、きっと学校だったはずだから。マリタンの魂が還る場所は、家族の元と学校だろうと思うから。だから隆がマリタンのことを思い出すとき、それは薄れかかった実際の記憶の再生ではなく、今、この時、光和小で遊んでいるマリタンの姿になるのだった。
 仕事の手をとめて、ふとマリタンのことを思い出す。隆の想像の中のマリタンは、光和小の子供たちに交じってドッジボールをしている。生前彼女を苦しめた病体が嘘のように軽く、マリタンが楽しそうにボールをよけている。あるいはまた、教室のロッカーの上に腰をおろして国語や算数の授業を熱心に聞いている。雨の日はみんなと図書室で本を読んでいる。その姿は誰にも見えない。けれどもマリタン自身はそのことに無頓着で、学校で半日を楽しく過ごし、日が暮れたら両親が居る家の、みかんやバナナが盛られた仏壇の中へ帰るのだ。こんな想像が、隆の心の中では現実になっていた。マリタンの遊ぶ姿が、自分の少年時代と同じぐらいかけがえがなく、尊いものに思えるのだった。隆にとってマリタンは、いつしか最愛の友達になっていた。今日もマリタンは元気に学校へ行っただろうか、そう思える朝は、いつも気持ちよく出勤できるのだった。
  
 カーナビを見ていた隆は、この道をまっすぐ行けば光和小学校だなと思った。午前の仕事を早めに終えた隆は、ふと母校に立ち寄ってみようと思い立った。こんな気持ちになるのは、自分も今年で三十路になるからかもしれない、そう隆は自嘲した。光和小の学区に隆の実家はすでになかったし、同級生の多くがよその土地へ引っ越したため、ずいぶん以前からその辺りは縁の薄い土地になってしまっている。光和小の学区は埋立地で、かつて地盤沈下が深刻なほど急速に進行したことがあり、多くの住人が退去した。隆の家族もその時に引っ越した。しかし東京に近いという利便性から、値下がりした住宅が空き家になることはなく、今もベッドタウンとして賑わっている。少子化で生徒の数が減っているにちがいないが、光和小学校の外観は少しも変わらずそこにあった。校舎の白い壁がだいぶくすんで見えたが。
 隆は車のエンジンを切った。車を降りると、こんなご時世だから露骨に校庭を覗き込んで変質者だと思われないように、隆はスマホを見るふりをしながら柵越しに校庭を眺めた。記憶の中の校庭よりもかなり狭く見えた。四時間目だろうか。白い体操服を着た小学生たちが歓声をあげながらドッジボールをしている。かつて隆も、その同じ場所でドッジボールをしていたのだ。子供の頃の隆は飛んでくるボールが怖かった。逃げるのに必死で楽しかったことなど一度もない。それなのに、校庭に砂煙をたてて飛び跳ねている子供たちの姿を見ていると、その楽しげな情景につられて隆の頬も自然とほころんでしまう。これが歳をとるということなのかな、隆は思わず苦笑した。
 ドッジボールを遠巻きに観戦していると、外野が取り損ねたボールがころころと勢いよくこちらの方へ転がってきた。それを追いかけて、小柄な少女が駆けて来る。少女は、まるで飛び跳ねるウサギでも追いかけているように両手を伸ばし、植え込みの手前でようやくボールに追いつくと、その場にしゃがみこんだ。しばらく肩で息をしていたが、ふいに上げたその顔は、まるでウサギでもつかまえたような笑顔だった。
 マリタン? 
 隆ははっとした。
 マリタン、だよね。
 さらさらした髪の毛が生えている。血色の良い顔色をしている。隆の視線を感じたのか、少女は隆の方を見た。記憶の中のおぼろげなマリタンの面影が、目の前にいる少女と重なった。思わず隆は
 「マリタン」
 とささやいた。
 マリタンはウサギをつかまえたような笑顔のまま隆のことを見ていた。
 白い校舎と、少し狭く見える校庭、歓声をあげて少女を呼んでいる子供たち。少女は立ち上がると、振り返って駆けていった。小鹿のように身軽に、白い体操服を着た子供たちの中へ溶け込んでいったーー。
 車のドアに手をかけたとき、隆は日差しの暖かさを全身に感じた。そんな感覚は本当にひさしぶりだった。
 雲ひとつない空いっぱいに、子供たちの声が響いている。

学校のマリタン

学校のマリタン

小学校の同級生だった女の子。今でもよく思い出す。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-18

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