2次元の旅人。

「とても価値があるものを、あなたにとって一番大切なものを私に頂戴。
「どうしてそんな」
悲しそうにうつむいて、全身真っ白のワンピースでおおわれた、シンプルイズベストの女神がほほ笑みかける。彼女の胸に抱かれた花束は、視界いっぱいに広がるバラの花畑より可憐で綺麗な雑草だ。
「あなたは私のコンプレックスを消し去る事ができる唯一のものなのよ」
「そう、でも僕は、きっと来週まで君の事も、一部しか思い出せないんだ、だからあまり、深堀はしないでよ」
揺れるカーテン、ささやかな風が夏の暑い日差しとコントラストで少しだけ二人のさみしい心を揺らす。感動とはいわない。けれど美しいものだらけだ。整頓された本棚。飲みかけのワイングラス。白黒の子猫。泣き続ける鸚鵡。

 ゴトンゴトン、今日も列車は自我も持たずに、ただの反復行動を繰り返す。それはまるで人が読書の時、自分の生活と照らし合わして、編纂、あるいは反芻するように。電脳空間に彼は彼だけの私的な空間をつくった。そこを休日だけの楽しみとして、休日が終われば記憶さえもそこにおいて来た。今日は週の真ん中、休日にとても大事な記憶を忘れて来た。なぜ記憶を忘れたのだろう、それは彼の自宅コンピューターの、指定されたプログラムだけが覚えている。
 かつて彼は、それなりに地位のある職種についていて、その地位と彼の人柄から周囲の人間、友、恋人、愛人、妻、家族から慕われている人間だった。脳の損傷で記憶を失ってしまったけれど、漠然とそんな気がする。いまは脳のほんの少しを代替的機械部品が補い、物理的にも心を補っている。

「誰も、貴方の過去をしらないの、だからあなたは今、誰にだってなれるし、誰にだってなれない」

 そうだ、彼はそのことに、過去の自分を失った事に、誇りを想っている、あの時と同じように綺麗なスーツを着ているし、みだしなみには人一倍こだわりがある。ただ、その誇りを消化するためには、きっとこんな現実逃避が必要なのだ。ならば、証拠など消してしまえばいい。白衣は燃やした、落語のカセットは壊した、パーソナルコンピューターは大手家電量販店で処分してもらった。HDDにも記憶はない、遺伝子が彼の過去を思い起こさせても、もはや左手のサイボーグ化された、かつて腕があったその部位がときたま痛みを取り戻すだけ、それ以外に彼が彼である証拠はない。ただ、一つだけ思い出せる事がある。彼は死ぬべくして死を選んだ。だからこそ生まれ変わったのだ。その時の憂鬱の感情は、ひどく意味深長な重みをもって、彼の思考にのしかかる。だから彼は通勤のスマホを利用した読書中、2、3度必ず文字を反芻する。意味のない場所で解読がとまる。
 たった今、彼女の言葉が思い出された。彼の自宅の、自室のコンピューターの中にだけ住む、とても美しい女性の言葉だ。それは次の休日への期待となって、彼の心の中を明るく照らした。だがそれは、偽の太陽だ。

「私はあなたの居場所になるわ」

 休日、彼はいつも同じ女性と出会う。地下鉄、電車、通勤途中。それだけは思いだせるけど、それが誰だかわからない。必ずいつも白い部屋、マンションの一室を思わせる、整理されたリビングで一日中一緒にすごす、だれでもない彼女。人からするとそれは、意味のない休日に見える。けれどどこか、前世との記憶のつながりを感じざるを得ないのだ。彼女はいったい誰だろうか、恋人、家族、愛人。そのすべてにも心当たりがない、けれど彼女がホログラムでしかなく、いわゆる不気味の谷の住人である以上、誰でもなく、彼の中の理想でしかないのだ。

2次元の旅人。

2次元の旅人。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-13

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