ぼくのなかのルル
(ルル、ぼくをむしばんでゆく)
駅のホームから飛び降りたひとを見た日に、きみは、細胞みたいに分裂するかと思ったって言いながら、つめたいオレンジジュースを飲んでいた。だから、そうだ、冷凍カプセルに入ろうか、と提案したのだ。きみは、ちょっとアレだし、ぼくは、そろそろルルに、支配されそうなので。
海を結晶化できるひとたちがいるが、ぼくたちとはまるで縁がなく、ゆりかごがたくさん集まった施設では生まれたばかりの子どもたちがぬくぬくと暮らしているから、それで世界はいいと思っている。オレンジジュースを飲みながらガトーショコラが食べられるきみの、そういえばクローンなんてのもいるが、二年前の夏に海へ出かけたきり帰ってこない。ルルは、じわじわとぼくを、ぼくのからだを、ぼくの精神を、支配している。変化には気づいている。それに、ルルはときどき、声をかけてくる。
『いつまで、あなたでいたい?』
むかし、従兄が作った蝶の標本箱を、床に落としたことがあった。透明なアクリル板のようなものが外れただけで、蝶は無事だった。箱も。従兄はやさしくて、泣いているぼくのあたまを撫でながら、「気にするな」と微笑んだけれど、ぼくが泣いていたのは、標本箱を落としたことにではなく、箱のなかの蝶が、死んでいるとわかっていながらも、ほんとうに動かないことに、びっくりしたからだった。ほんとうに動かないことにおどろくって、おかしな話だ。死んでいるとわかっていて、でも、落とした衝撃で目を覚まし、飛び立つと想っていた。
それからときどき、視界に蝶が舞って現れる。
まぼろしの蝶であるから、さわれないし、ぼく以外のひとには見えない。でも、ぼくのなかのルルには、見えている。きれいね、とルルは言う。ほんとうはきれいだなんて思っていないような口ぶりで、言う。
「生まれ変わったら、きみになりたい」
それは、きみの口癖だったが、ぼくとしてはあまりおすすめしない。ルルがぼくのなかから消えない限り、ルルと共存しなくてはいけないのだから。
だんだんとルルの存在が色濃くなってゆく感覚は、こわいよ。
こわいんだ。
ぼくというにんげんはいつか、ルルというなまえの、ルルというにんげんになるのだと想うと。
ぼくのなかのルル