山田の風景

山田の風景

山田の風景

0 メモ

「ある朝目覚めると、私も自分が虫であることに気が付いた。それも、小さくひどく醜い毒虫であった。
 姿は変わり果てたのに、しかし、私を取り巻くこの世界には、何の変化もない様子であった。玄関を訪ねる人もなく、隙間風の吹き込む窓から何者かが闖入するような大事件ももちろんなかった。夜が明けて昼になり、昼が暮れて夜になり、そしてまた夜が明けていった。その中で人びとが行きかっていた。世界はまったく従前のままであった。
 それでいつしか、私には、この姿こそ元来の自分であるように思えてきた。そうだ、私は元来毒虫であったのだ。ただそれを知らずにいたのだ。いやきっと、気づかぬふりで目を背けてきただけなのだ。それを私はひとり、―自分をそれまで「人」と数えてきたことの違和感も含めて―、おかしく思った。
 やがて目が慣れてきた。するとあたりには、他にもたくさんの同類たちがいた。それまで気が付かなかったことに呆れるほど大勢いた。みな疲れ果てていた。それぞれが、この圧倒的な世界が不意に付きつけてきた孤独を抱え、しかしその現実に抗うだけの気力体力もなく、ただじっと、動かずに固まって、この冬の過ぎるのを待っていた。
 しかし私は、手足や羽の使い方、食べ物のことなど、新たな日常の諸々に慣れてしまうと、すっかり暇になった。本当の虫ならばこんなに小さな自分を持て余すこともないだろうに、と、やはりおかしく思った。
 それで、何度目かの夜明けに、私は外へ出ることにした。窓辺に這い出し、隙間から外を覗いた。東の地平線から一閃の光が差し込んだ。眩しさに思わず目を背けた。そこに伸びていた私の影は、細長くいびつで醜かった。
 私は羽を広げた。影の翼が部屋を覆った。私は振り向き、再び世界と対峙した。そして目を閉じ跳んだ。真冬の冷気が手荒く私を出迎えた。背中の翼がそれを切り裂いた。新しい朝だった。」

1 片づけ

 遠くで除夜の鐘が鳴っている。冷たい風の吹く凍る夜である。年末の歌番組が70年代の曲を流している。今年の寒さは記録的なもの、毎日吹雪吹雪氷の世界。共用の洗い場にバケツが放置されている。底に穴があいているから、水が満ちるのは世界が凍てついている間だけだ。
 彼の部屋にはカーテンもない。切れかけた裸電球の光は白く冷たい。時々点滅している。畳敷きの床に、手帳、年代物の黒電話、七輪。他には大小たくさんの箱。ひとつだけ、人ひとり入るほどの一番大きな箱をのぞいて、みな黒い封がされている。ガムテープではなく絶縁テープである。
 もとより仮設の住宅である。寒い部屋だ。七輪に炭はあるが火はついていない。玄関が少し開いている。大きな窓がある。その窓に、彼が絶縁テープとはさみを手に、目張りをしている。毛玉の目立つセーターの上に袖口の広がったジャージ、その上にジャンパー。着ぶくれしている。首から上は細い。髪も髭もきれいに整えてある。
 彼が目張りを終える。七輪の傍らに腰を下ろす。床にテープを置く。黒電話の電話線を手に取る。はさみで切る。手に残った電話線を床に放る。その横に手帳がある。
 彼が手帳を取る。開いてページを繰る。指が止まる。そのページをしばらく眺めている。口が動いている。ひとり読み上げている。吐く息が白く残りすぐ消える。やがて口を閉じる。大きな箱に目をやる。
 彼が手帳を閉じ床に置く。大箱をひっくり返す。箱を被る。そして這う。ゆっくりと動き、七輪にぶつかる。緩慢に方向を変える。箱にぶつかる。方向を変える。また別の箱にぶつかる。また方向を変える。這い回りぶつかり方向を変え、しかし止まることはなく、自由に這い回っている。
 遠くで除夜の鐘が鳴っている。

2 隣人

 私は玄関に回り、上がり框に立った。黒く縁取られた窓の下で毒虫が、ずるりずるりと這い回っている。ぶつかり止まり、また這い回り、またぶつかり止まる。
 よく見ると、毒虫がくつくつと笑っている。箱を震わせて笑っている。それで私も笑った。彼が私に気づき、箱から姿を現わす。ばつが悪そうに立つ。
 私は部屋を見渡した。引っ越しですか、と尋ねた。いいえ、と彼が答える。じゃあ夜逃げだ、と私は言った。いや大掃除です、と彼が答える。
 私は箱を指した。全部ゴミですか、と尋ねた。はい、と彼が答える。いくつありますか、と聞いた。遠くで除夜の鐘が鳴った。全部で108でしょうか、と彼が答える。その声が冷たくて、こんなに捨てたらもう十分でしょう、と私は言った。いえ、まだひとつ残っています、と彼が答える。
 私はもう一度部屋を見渡した。そして、お正月はご家族のところへ行かれますか、と聞いた。彼は、はあ、と小さく答え、そして黙って箱を見つめている。私は間抜けな質問をした。
 それで私は、どうぞよいお年をお迎えください、と誤魔化して部屋を出た。玄関のドアは閉めずにおいた。もとより、まだ、閉じてはいなかった。

3 電話

 彼はそのまま立っていた。私を見送るでもなく、その目は何も捉えていなかった。寄る辺なく世界を漂って、そこにはない何かを探していた。裸電球を、手帳を、七輪を通り過ぎる。やがて無数の箱が、正確には、その口を封じる黒いビニルのテープが、彼の視線を捕まえた。彼の視線がテープを滑り、やはり黒い電話機へと流れ落ちていく。
 彼が黒電話を見つめている。途切れた電話線のその先を見つめている。不意に電話が鳴った。彼の表情は動かない。ただゆっくりと受話器を上げる。チーンと、りんのような響きが残る。

・・・もしもし。
・・・ひさしぶりだね。
・・・誰だかわかるかい。
・・・ううん。サンタさんじゃないよ。
・・・そう。サンタさん、遅いねえ。
・・・でもね、サンタさんじゃないんだ。
・・・そうだね。たっくんがいい子にしてたら、必ず、サンタは来てくれるよ。
・・・もしもし。
・・・もしもし。

4 サンタ

 突然、窓が乱暴に揺すられた。目張りが剥がれ、窓が開く。男が顔をのぞかせる。サンタクロースの帽子をかぶっている。
 彼が受話器を置く。黙ってサンタを見つめている。メリークリスマス、と朗らかに言い、サンタが窓から部屋に入って来る。そして火のない七輪のそばに腰を下ろす。
 この部屋に煙突はありません、と彼が言った。ああ、煙突ね、そう言ってサンタが笑う。煙突なんてゴミ処理場か焼き場じゃない。だから今時は、侵入経路にはこだわらないのさ。
 彼がため息をつく。テープとはさみを手に、窓辺へと歩く。再び目張りを始める。
 その背後で、サンタが立ち上がる。口を封された箱のひとつに近づく。黒いテープをはがし、中を物色する。中から1枚の写真を取り上げる。泥でひどく汚れ損傷している。
 窓の目張りが終わり、彼が振り返る。サンタが写真を眺めている。彼は大股で近づき、それを乱暴に取り上げる。
 メリークリスマス。とサンタが笑う。彼が、もう大晦日です、と答える。そうだね、とうなずいて、でも来年には間に合う、とサンタが笑う。そして帽子を脱ぎ、彼の頭にかぶせる。
 メリークリスマス。そう言ってサンタが袋をつかむ。袋をひきずって窓へと歩く。目張りを剥がす。窓を開ける。袋を外に放り、そして出ていく。
 遠くで除夜の鐘が鳴っている。

5 郵便屋

 窓から冷たい風が吹きこんでいる。彼は写真を手に立っている。サンタの帽子をかぶっている。
 山田さん、と、玄関の外で声がした。彼が振り向く。半開きの玄関の戸の外に郵便屋が立っている。手に数枚のはがきを持っている。
 山田さん、年賀状です。郵便屋が言う。しばらく郵便屋を見つめ、今日は大晦日です、と彼が答える。ですよねえ、そう言いながら、郵便屋は彼の帽子を見つめている。
 郵便屋が玄関に入る。だから、まだ大晦日です。と彼が繰り返す。確かに、と言ってから、気にしますか、と郵便屋が言う。彼の帽子を見つめている。
 気のせいかも知れませんよ。郵便屋が言う。ほら、知らない間に紅白が終わっちゃって、年越しも済んでいて、なんて、よくあったでしょう。
 ちょっと失礼しますよ、そう言って、郵便屋が部屋に上がりこむ。はがきをめくり、彼に見せる。ほら、女優さんから来てますよ。それからこれ、スーツが半額です。それから、こっちはレンタルDVDが半額。それから、ええと、山田さんは、何でも半額ですね。彼は何も言わず、はがきではなく、郵便屋を見つめている。
 あ、これはいい。郵便屋の手が止まる。そして彼にはがきを見せる。彼の手にあるはずの写真がそこにある。
 お幸せそうでよかったですね、ほら―。郵便屋が距離を詰める。彼が後ずさる。郵便屋が手を伸ばす。はがきが彼の手に触れる。やめろ、と彼が叫ぶ。全身を震わせて、反射的に郵便屋の手を振り払う。はがきの束が、写真が、サンタの帽子が、床に舞い散っていく。
 裸電球が点滅する。その下で郵便屋が彼を、彼が写真を見つめている。点滅の間隔が長くなり、闇が玄関と窓から溶けだしていく。世界の残像を覆っていく。そして裸電球が消える。

6 そば

 遠くで除夜の鐘が鳴っている。
 暗闇の中で裸電球が点滅する。やがて弱々しく灯る。世界に白く冷たい色が戻って来る。
 私は調理場に急いだ。そばを茹でてどんぶりに入れ、熱い汁を注いだ。ラップでふたをする。たちまち湯気で曇る。どんぶりの縁に箸を乗せ、彼の部屋へと走った。
 寒い部屋だ。玄関の戸が少し開いている。部屋の窓も開いている。部屋の床には、手帳、線の切れた黒電話、七輪、一枚の写真。そして大小たくさんの箱。小さな箱がひとつと、人ひとり入るほどの一番大きな箱は、口が開いている。
 彼が写真と黒電話を取り上げ、小さい方の箱に入れる。そしてその口を閉じ、黒いビニルテープで封をする。続いて窓を閉め、テープで目張りをしていく。窓が黒く縁取られていく。
 私は息を切らし、玄関のドアを全開にして中に入った。彼が振り返り、驚いて私を見つめている。
 私はどんぶりを差し出した。そして、これ年越しそば、と言った。彼は私を見つめたまま何も言わない。そばが冷めていく。私の言葉も湯気となって消えてしまうような気がした。だから私は急いで言葉を継いだ。だってほら、こんなに片付けて、食べるものもないでしょう、だから年越しそば。
 彼が小さく、どうも、と言った。裸電球が影をつくり、表情は良く見えない。私は玄関と部屋との境界に立っていた。それ以上の侵入はできなかった。私はどんぶりを床に置いた。
 今夜はずいぶん冷えるけど、でも、明日は朝から晴れて、暖かいって。どんぶりは、明日、もらいに来るから。私はそう言って部屋を出た。それが精いっぱいだった。玄関のドアは閉めずにおいた。

7 七輪

 開け放たれた玄関から冷たい風が吹きこんでいる。氷の世界で、唯一どんぶりだけが熱を放っている。
 彼がどんぶりを見つめている。やがて近づき手に取る。冷え切った手の平がしびれる。ラップを外す。一瞬だけ湯気が立つ。
 彼がどんぶりを口に運ぶ。汁をすする。そばをすする。控えめに、やがて勢いよくすする。今や彼は猛然とそばを食べている。むせて鼻水と涙を流す。そばをすすり汁を飲み、そばの切れ端まで流し込んでいく。
 その時、除夜の鐘が鳴った。
 彼の手が止まる。どんぶりと箸を口から離す。そして虚ろに、空になったどんぶりを見つめ、ふっと笑う。冷たい笑いだ。
 彼がどんぶりと箸、そしてテープとはさみを手に立ち上がる。玄関に歩き、どんぶりと箸をドアの外に置く。玄関のドアを閉め、鍵をかける。ドアの枠に目張りをしていく。テープの上にテープを重ね、厳重に隙間を塞ぐ。やがて目張りが終わる。玄関のドアも窓と同様に黒く縁取られている。
 彼が部屋に戻る。床には手帳、七輪、そして口を開けた大きな箱。
 彼が七輪のそばに座る。手帳を取り開く。ページを数枚ちぎり、ねじる。ポケットからライターを取り出す。ちぎったページに火を付ける。そして七輪の炭の、中央に開いた穴に差し込む。しばらく炭を眺める。何度かそれを繰り返す。
 やがて火が着火剤に移り、そして練炭に赤い火が宿る。彼が手帳の残りをその上に置く。火が静かに広がっていく。手帳を赤く染め、ゆらめいている。言葉が炎の中に現れ、黒い炭になり、そして白い煙となって消えていく。
 裸電球が点滅している。
 彼が大箱にもたれ、目を閉じる。
 裸電球が点滅している。
 サンタの姿が見える。帽子を外し、彼の頭にかぶらせる。
 裸電球が点滅している。
 郵便屋の姿が見える。はがきを彼の手に持たせる。
 裸電球が点滅している。
 彼がひとり箱にもたれて眠っている。
 闇が光を飲み込んでいく。
 裸電球が消える。
 闇が静かに世界を覆う。

 私は彼の名を叫び、ドアを叩く。山田さん、もう年が明けるよ。山田さん、もう年が明けるよ。年末の歌番組が最後の曲を流している。町は今砂漠の中、あの鐘を鳴らすのはあなた、人は皆孤独の中、あの鐘を鳴らすのはあなた。私は叩き続ける。皮膚が裂け肉がえぐれ骨が砕けるまで叩き続ける。私は叫び続ける。声が枯れ喉が血を噴き白い息しか残らなくなるまで叫び続ける。このドアは内側からしか開けられない。だから私は叩き叫び続ける。

 山田さん、もう年が明けるよ。
 山田さん、もう年が明けるよ。
 山田さん、もう年が明けるよ。
 山田さん、もう年が明けるよ。

山田の風景

山田の風景

ある朝目覚めると、私も自分が虫であることに気が付いた。それも、小さくひどく醜い毒虫であった。姿は変わり果てたのに、しかし、私を取り巻くこの世界には、何の変化もない様子であった。―とある山田さんの一日です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-09

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