生命

生命


 地球の表面はすべて泥になっていた。海も陸もなく、見渡す限りの泥土。茶色の泡。高層ビルの立ち並んでいた都市も、マッチ箱のような小さな家の集まっていた郊外も、緑の森も山も、ただ、ぶつぶつと息をはく泥となり、動物や植物などいやしない。それでも泥になり始めのころは、少しばかりの生命はうごめいていたのだが。
 一瞬のうちに変わってしまった地球の表面。宇宙の深淵から飛来した無意識の振動波が地球に到達した。その瞬間、地球表面のすべてが共鳴し、原子はばらばらになり、山々はゆすぶられ海の水とこねあわされた。とうぜんのこと空に向かってそそり立っていたビルディングたちも崩れ落ち、人々と一緒に混ぜ合わされ、どろどろの土に成り果てた。
 西暦二千五百七十一年、それは突然起きた。文化の成熟期に入ったその時は、人間は宇宙に飛び出す準備を始めたばかりであった。
 振動波に襲われた時、生命は何を感じたのだろうか。熱さのために髪の毛をかきむしったか、神経の一本一本が霧一筋となって消えていくのをやりきれない思いで見送ったのだろうか。いやそんな暇は無かっただろう、なにかを感じる暇など無かったのだろう。振動波は数分かけて地球を過ぎて行ったのである。もし、人間がその様子を外の星から見ていたら、振動波を火葬波とでも名づけたであろう。
 町だったところは泥の平野。
 その昔、小さな丘だったところは泥の盛り上がりになり、ふもとの田んぼだった場所に水溜りがところどころにできている。丘から崩れ落ちた赤茶けた土がいたるところで小さな盛り上がりになり、平坦な泥の原にまるで土饅頭のようだ。掘るとまだ土に化していない死体が出てくるのではないかと思う不気味さである。生命たちの魂は土に変わることはないが、あの世に行くこともできず、熱せられた空気の中で彷徨っているのではないだろうか。
 長い長い時が経てば、この泥の世界も固まってきて、新たな海が生まれ、また生命の誕生もあるのかもしれない。ところが地球はそうならない運命であった。
 太陽は地球の変化などには無関心である。ただひたすら光を送り続け、地上を照らし出して泥の水分を空気の中に蒸発させていた。本来ならば雲ができ、雨を降らせ新たな地球をよみがえらせる。ところが地球の水分は空気に混じると、空気と共に宇宙に飛び出していく。地球は宇宙に向かって雨を降らせる星になってしまった。それは、いずれ地球から大気が無くなり、火あぶりになることを意味していた。

 広い泥土原の一角で異様な現象が起きていた。そこではモクモクと泥が盛り上がり、ふつふつと動いている。メタンガスをつくるバクテリアすら居なくなってしまったこの世界では、目に見えて動くものといえば、少なくなった空気の揺れ、すなわち風のゆらぎと、ほんのほんのたまに少しばかり落ちてくる水滴によって泥の表面が崩れるか、地球の重力による泥の面が平らになる変化しかない。
 そこでは土の固まりが泥の表面に飛び出し、と見る間に、ずぶずぶと音を立てて柔らかくなった土の中に沈んでいく。宇宙から飛んできた振動波は泥土化以外に、なにかおかしな現象を引き起し、それを残していったのだろうか。
 土塊が沈んでいったところで、大きな泡がぱちんと破裂音を残して消えていった。
 しばらくの静寂があった。音を聞いている者がいたら、「ずぼっ」と聞こえただろう。泥の表面から大きな土の塊が突然飛び出してきた。
 泥があたりに散った。
 土の塊は泥の原に転がり出ると、少しばかりの固い土の上に静止した。これは一体何だろう。
 太陽の光は土塊を熱い固まりにしていく。土塊から蒸気がのぼり、表面は白っぽくなっていくと、ひびが入り始めた。太陽の熱は容赦なくそそぎ、ひびが入った表面はぽろぽろとかけおち、土塊の中身をあらわにしていった。
 異様なものが出てきた。土塊は人型になりごそっと動いた。
 地球に存在するはずは無い人間だった。
 ぼろぼろと剥がれ落ちる土から素裸の男が現れた。片膝で自分のからだの土を払いのけると、最後に縮んだ一物の土をしごいた。暑い太陽に照らされ、しゃがみ込むと、両足を抱え、泥の原をぼんやりとみつめている。
 しばらくそのままでいた彼が、ふっと空を見上げた。首に残っていた土のかけらが落ちた。

 男が生きていることを意識したのは地球を襲った振動波が銀河系を後にし、地球の表面が泥沼に変わり果てたあとであった。彼は泥の原から首だけ出し、まわりを見渡した。生きていることも不思議な話である。あたりに今までそばにいた人はいない。ただ泥があるだけ。
 彼は泥の世界に深い絶望感をいだいた。何が起こったのか分かるわけは無かった。どろどろの土の中で彼はもがいた。もがいてももがいてもそのままだった。彼の一物は泥の中で勃起していた。今しがたまで隣に女がいた。妻にしたその夜のことであった。
 足を動かしても泥からはい出ることができなかった。なにが起きたのか判らない彼の脳はただただからだを動かし続けた。何を思ったか、男は動きを変えた。蛙のように手足を動かした。すると泥の中で自分のからだが持ち上がった。繰り返し蛙のようにうごめくと、やっと、泥の上にはいでることができた。
 泥の原に横になった彼は、まぶしい太陽が輝く空を見上げ、死んでいくことを意識した。静に目をつぶると、からだの回りの土が太陽の熱で剥がれ落ち、全く音のしない世界にかすかな音を作り出していた。その中で、彼の脳の片隅に、かすかではあるが生命がいる信号をとらえていた。彼のからだはまた土の中に沈んでいく。彼は頭を出して沈まないように手足を動かした。
 地球が健全な時には、車の音や雑踏の音に囲まれている耳に、生命の信号など聞き取ることができるはずは無かった。いや、聞き取っていたのかもしれないが、生命だらけだった地球上では、脳は無数というほどの生命の信号に包まれており、判別はできていなかったといったほうがいいのだろう。
 彼は泥の表面でも蛙泳ぎをした。おかげで泥の中で少しだが動くことができた。ずぶずぶと歩くことは無理でも、手足を動かし少しずつではあるが、胴体を泥の中で前に移動させることができた。のどが渇くと泥を食べ、栄養と水分はそこから得ていた。生物学者に言わせれば、泥を食べて生きているミミズである。
 彼はそうして生を保つことができた。生命体も非生命体も混濁した泥は彼に十分なエネルギーを供給してくれた。
 奇蹟があった。振動波が過ぎて一月もたったころである。頭の中で、脳の中で自然に時計が働き出した。機械の時計がなくても脳にはその機能があることを彼は知った。太陽の昇る回数を無意識に把握し、彼の脳は時間を刻んでいた。
 ある日、からだ半分を泥の中から出して、前を見つめていると、何かとてつもなく強い生の存在を脳が感知した。後ろからだ。
 彼は振り向いた。百メートルほど離れたところから、ずぼっと音が聞こえ、泥の中から一人の痩せた男の頭が飛び出した。男は両手を泥から上げ、手のひらをひらひらさせ、彼のほうにからだを動かした。痩せた男の脳にも彼の存在が強く感じられたのだろう。
 痩せた男は、おー、おーい、とふりしぼるように声を上げた。人の声を聞くのは何ヶ月ぶりか。彼もあまりの嬉しさに泥から両手を挙げ、手をひらひらさせ、おーい、と声をだした。
 彼も男に向かってからだを動かしていった。
 やっと男の目の前まで動くことができた。彼は男の顔を見た。泥にまみれた顔の眼は開いていなかった。
 「おい、おい」
 彼は男に声をかけた、男の顔を両手で抱えてふった。男は死んでいた。
 彼の落胆は大きかった。だが死体だろうが、人間の形がそこにあるだけで、それは心休まるものであった。彼は死んだ男から離れようとしなかった。
 次第に死体の匂いが鼻にとどいた。それでも人間の匂いであった。彼の嗅覚はその匂いですら、彼に安心感を与えた。
 死んだ男の頭は太陽の熱にあぶられ、皮膚が骨に張り付き頭蓋骨そのものになった。彼は苦労して、泥から男の死体を引きずりだした。泥の上に横たえると、やがてミイラになった。それは、彼にとってあがめる神のように大事なものになった。
 ふと思った、こんな近くに男が生きていた、まだ、どこかに人がいる。そう思ったとたん、男から離れる決心をした。
 男のミイラは太陽の熱で乾き、土の中に沈むことはない。
 またもどろう、そう思った男は泥の中を動き始めた。だが気がかりがあった。頭の隅にあった生命の存在らしいシグナルはそれ以来感じなくなったのである。
 それでも男は歩き始めた。太陽の熱は暑い、時々、泥の中に頭を沈め冷やした。
 泥を食べる回数が増えた。始めは一日三食であったのが、ちょっとでも腹が減ると泥を食べた。他にすることも無かったからでもあろう。
 男は泥の固まりにかぶりついた。時がたつにつれ、男の容貌は変わっていった。男の頭の中では赤毛の犬が居眠りをしていた。目は衰え、考える脳の部分は脱落し、重くのしかかっていた「地球最後の人間」という文字も消えていった。自分から死を求めるかのような行動は消失し、泥を黙々と食べた。食べては浅い眠りに落ち込み、目が開くと食べるというリズムは新たな男をつくりだした。
 ほとんどの欲求が消滅した男は夜も昼も関係なく、動こうという本能が働いた時に歩きまわった。泥から得られるエネルギーをすべてつぎ込んで歩き回り、ただ泥を喰った。ミミズになったといわれても不思議は無い。
 うまく少しばかり乾燥した泥とであうと、その上に出て二本足で立った。空を見上げ太陽をみあげたのだが、時がたつと、二本足で立つこともしなくなり、硬さのある泥の表面に這い出たときも、手も使い、鼠のように四足で動いた。時にはちょろちょろと、時にはコモドドラゴンのようにゆったりと。
 男はこうして、この丘の麓にたどりついた。その小さな丘は泥が固まっており、上に乗ることができた。這い上がった男は四つんばいから二本足で立ち上がり、周りを見まわした。丘の反対側に水気の多い泥田があった。その昔は水田が発達していたところなのだろう。
 男ははっとした。弱弱しい生命波を感じ取った。長い間忘れていた感動が男のからだをゆさぶった。この命の波は泥田からきこえる。消えないでほしい、男は耳を澄ました。男は汚れた指を耳の中に突っ込んでほじくった。
 男は首を田んぼの名残に向けた。口に入っていた泥をはきだすと、泥土を高く蹴散らして泥沼の中に飛び込んだ。ずぼ。
 命がこの中にある。この泥の中にある、ずぶずぶと男は胸まで浸かりながらさまよった。手を前に出しゆるゆると泥の中を歩いた。
 この泥沼は冷たかった。その理由など男は考えようともしなかった、いやできなかった。ただ、命のシグナルを受け続けていた。生命はいる。からだが冷えて泥の上に這い上がった。暑い太陽の光がこのときばかりは気持が良いと男は感じた。

 男は暑い空を見上げると、耐えて久しい笑いを取り戻したようだ。笑うことは人間を取り戻した証かもしれない。働いていなかった脳がまた動き出したようだ。手を胸に打ち当てて、こびりついていた土を叩き落とした。ぼろぼろに欠け落ちた歯を日に照らして笑っている。
 土がはたかれて男の上半身が露になった。今にも折れてしまいそうな肋骨が浮き出て、厚くなった皮がやっとこびりついているようなやせこけた胸、手首ほどの太さの首、その上に毛の生えた頭骨が乗っている。
 男はまた空を見上げた。落ち窪んだ目には薄い半透明の膜がかぶり、瞳孔は蟻の頭ほどに小さい。太陽の光はそんな男の顔を照らし出した。
 男は下半身の泥を払った。そこには奇妙な人間が出現した。下半身の太さはどうしたことだろう。太ももの筋肉はパンパンに張り、ふくらはぎはぼこっと盛り上がっている。小さな縮こまった一物がちょこんとついている。泥の土の中をかき分け歩くことが、足の筋肉を作り出したようだ。上と下は違う生き物のようだ。死者と生者をつないだようでもある。男は自分の頭に手をやると、電気に触れたでもしたように、再びそこに座り込み、こんどは四つんばいになった
 泥の田んぼを見つめている。いる、やはり生命がいる。男の脳はますます人間を取り戻しているようだ。
 男の見つめている先の泥がもくっと盛り上がった。泥がはじかれ、土の塊が飛び出した。土の塊はしばらく太陽に照らされ表面が乾いてきた。しばらくすると土の塊がぶるぶると振動した。ぱらぱらと乾いた土がおちると、大きな蛙があらわれた。食用蛙である。男の目はまだ蛙と捉えていないようである。
 蛙は身震いした。残りの土が粉のように落ちた。蛙はのそりと動き出すと、男のほうに向かって歩き出した。
 四つんばいになっている男の目の前まで蛙が来た。白い幕の張った男の目が蛙を見つめている。
 蛙も見上げて男の顔を見た。命を感じている。
 男は蛙の前であぐらをかいた。蛙を見つめ頭の中で本能の整理をし始めた。他の生命とであった時にはどうすればよかったか、考えがまとまらなかった。蛙が筋肉のついた足で組まれたあぐらの中に入っていてきた。
 男の手がぴくぴくと動き、食用蛙のほうに伸びた。食用蛙はぷっとその手をよけた。骨だけのような男の手は泥をつかんだ。男は手の中で泥をこね回し、すーっとその泥を蛙に差し出した。蛙は鼻の先を泥の団子にくっつけた。男の頭蓋骨だけのような頬骨の高まりに赤みが差した。
 男は咽をヒュっと鳴らすと、大量に湧き出たつばを飲み込んで、すっと立ち上がった。男の手の平の上には食用がえるが乗っていた。男は食用蛙を持って丘の上にあがり、二本足で駆け出した。手に持っている蛙を高くかかげて走った。生命に出会った喜び。
 丘を走っていくと、泥土の原の一角に、大きな水溜りがあった。その熱い地球では珍しい水であった。男は蛙と共に水しぶきを上げて水の中に倒れこんだ。

 時は過ぎた。大きな太陽がじりじりと地球を照らしている。あの男が蛙と水溜りにはいってから一月も経っただろうか。あれから男は泥の世界に現れることはなかった。
 水溜りは前より大きなものになり、かすかな風で水面にさざなみが起こっている。水が綺麗に澄み、水底の泥の隆起が良く見える。
 地球も強い風が吹くようになった。いきなり、水底から黒いものが浮かびあがってきた。それは漂いだし、池の縁にぶつかった。蝋化した男の死体であった。腹の上に哀しげな蛙が乗っていた。空を見上げている。独りぼっちになったんだと嘆いているようにも見える。
 食用蛙は男のやせこけた男の腹の上でのそりと立ち上がった。食用蛙は太陽に向かって頭を垂れると男の腹を食い破った。くしゃくしゃと男を食べる食用蛙の音が聞こえてくる。死んだ男の目が見開かれて太陽の日を浴びている。
 食用蛙は男の足の筋肉をほうばった。蛙の腹が膨らんでくる。男のからだは白い骨だけになった。男を食べつくした蛙の腹は膨らみやがて爆発した。蛙の腹が飛び散り水面に浮いた。水面に浮いていた蛙の皮はやがて男の骨にまとわりつき、いつまでも太陽に守られながら漂っていた。
 さらに時が経った。
 丘のふもとの大きな水溜り。地球最後の二つの命のドラマを終わらせた水溜り。その水面がザワザワと不規則に波打った。透きとおったその水の中には、よく肥えたオタマジャクシが数百匹泳ぎ回っていた。
 オタマジャクシの群は一つの法則を持ち統一されているように動いていた。
 群の仲の一匹が水面まで上がってきた。そのオタマジャクシはつぶらな目を空気中に晒すと、どのような意味なのかわからないが、太陽を仰ぎ見た。他のオタマジャクシたちも水面に上ってくると、太陽を見た。
 オタマジャクシたちの頭には黒々とした髪の毛が生えていた。目にまつげまであった。
 生命は受け継がれていた。新しい地球、いや泥球に生命の誕生である。

生命

私家版初期(1971-1976年)小説集「小悪魔、2019、276p、二部 一粒書房」所収 IMP8
挿絵:著者 

生命

泥土と化した地球上で生き残った最後の生命体である男と食用ガエルの出会い。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-02-01

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