エクスプロラトリー・ビヘイビア ~ Exploratory Behavior

人の可能性とはどこまで広がるのだろう。
あるいは、
人の能力とはどこまで掘り下げられるのだろうか。
人の心の奥底には、何が棲み何をさせようとしているのか。
善なのか、悪なのか。
知あるところには希望が満ち、
勇気あるところには道が開かれるだろう。
人は生まれた瞬間から命が尽きるまで、
知と勇気を携えながら、人生を冒険し、探究し、
歩んでいかなくてはなるまい。
―― Exploratory Behavior ――
それは、未知なるものへの探索行動である。

第一章 フィジオグノミック・パーセプション―Physiognomic Perception

 うだるような暑さの中、全身ににじみ出る汗をぬぐおうともせず、彼はベットに座りながらある一点を見つめ、思索を繰り返していた。開け放された窓からは塩気を含んだ海からの生ぬるい風と、神経を逆なでするような無数のセミの鳴き声がなだれ込んできていた。彼の視線の先には、壁に画鋲で留められた一枚の写真があり、そこには十八歳の少女が一人写っていた。ショートカットの栗色の髪、シャープな顔の輪郭、見つめられたら凍りついてしまいそうな瞳、余計な脂肪などただの一つもついていないようなスレンダーな身体、かわいらしくも妖艶な雰囲気、そんな少女の写真だった。
 彼の名前は沢木聡。相模重工の主席研究員として、総合技術管理部に籍を置く技術者である。彼にその少女の写真を渡したのは、同じ相模重工の白石会長だった。
 昨夜、沢木は白石の自宅に呼び出された。彼は白石からいたく信頼され、期待されていた。この晩も、現在進行中のプロジェクトの件で話があるのだろうと思っていた。しかし、展開は全く意表をついた―
 白石はいきなり写真を机に置くと、沢木に感想を求めた。
「この娘をどう思う」
 沢木はしばらく写真を見つめた後に答えた。
「独特な雰囲気のある少女ですね、誰なんですか」
 白石には子供が一人いるが、とっくに成人し、現在相模重工の副社長の椅子に座っている。
「わしの古い友人の娘でな、今度海外に赴任することになったんだが、高校卒業まで後七カ月ということで、それまでの間、わしのところで預かることになったんだよ」
「そうですか。でも、なぜ私に写真を? まさかお見合いでもないでしょう」
 白石は笑みを漏らしながら答えた。
「君には若過ぎる相手だろう」
 沢木は三十二だった。白石は話を続けた。
「実は、わしも半信半疑なのだが、この娘には何か不思議な力があるらしいのだよ」
「不思議な力ですか。超能力とでも?」
 沢木は冗談っぽく言った。
「よく分からん」
 そう言いながら白石は机のところまで歩いて行き、引き出しの中から数枚の便箋を取り出した。
「これを読んでみてくれ、友人がわしに相談するために送ってきた手紙で、これまでの不可解な出来事のいくつかが書いてある」
 沢木は便箋を手に取り読み始めた。

 白石 功三殿
      一九九五年七月十三日  見山 哲司

 前略。ここ一年あまりご無沙汰しております。貴兄並びにご家族の皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。私は来月七日からアメリカに赴任することが急に決まり、その準備に追われる毎日を過ごしています。
 さて、お手紙を差し上げたのは、貴兄に相談したいことがありましたからです。その相談とは人美のことです。
 お陰様を持ちまして、人美もこの五月で十八歳になりました。友人にも恵まれているようで、高校生活を謳歌しております。しかしながら、私は最愛の娘である人美を、とても恐ろしく思うことがあるのです。貴兄にはおそらく信じられないことと思いますが、人美には何か恐ろしい力、不思議な力があるように思えてならないのです。一言で言えば、超能力とでもいいましょうか。
 このような相談を一体どこにすればいいのかと悩んだ挙げ句、貴兄のことを思いついたのです。現在、貴兄の相模重工は世界でも屈指の重工業メーカーにまで成長し、さまざまな研究機関があると聞いております。貴兄に力をお借りすれば、人美の持つ力について、何か答えが出せるのではないかと勝手に想像した次第です。
 まずはこれまでに起こった、人美がしでかしたであろう出来事を、いくつかご紹介します。どうか、バカげた妄想と思わずに最後まで読んでください。そして、お力を貸して頂ければ、たいへん幸せと思います。
 最初の出来事は人美が七つの時、小学校に入学した年のことでした……

 沢木は手紙を読み終わると、Yシャツの胸ポケットからタバコを取り出し、その煙を深く吸い込んだ。
「感想は?」
 白石が尋ねた。
「非常に興味をそそられますね。ここに記された出来事は、単なる偶然にしては話しができ過ぎています。何か…… 何かあるのかも知れませんね」
 白石は期待どおりの沢木の反応に満足しながら言った。
「思ったとおりだ。好奇心旺盛の君のことだ、きっとそんな反応をすると思ったよ」
 沢木は苦笑しながら答えた。
「とはいうものの、見山氏の推測を手放しに受け入れるつもりはないですがね」
 沢木はタバコの灰を灰皿に落とした。
「で、会長は私に何をやれと言いたいんですか」
 白石はいつになく真剣な眼差しで沢木を見つめながら言った。
「ずばり言おう。真相を究明してくれないか」
 沢木は深い溜め息を吐いた。
「会長、確かにこのことは興味を引かれるテーマではあります。ですが、私の専門は制御システム工学ですよ。超自然的現象の有無を確かめるなどというものは専門外です」
 沢木はその好奇心とは裏腹に、慎重にことを構えた。
「それはよく分かっているよ。しかしな、沢木。この手紙を寄越した見山という男は、娘と過去の出来事を関連づけて、真剣に悩んでおるのだ。わしとしてはなんとか力になってやりたいのだよ。偶然でも超能力でも原因は何でもいい、とにかく見山君を安心させてやりたいんだ」
「ですが会長。そういう趣旨ならば興信所なり何なりに、調査を依頼したほうがよいのではありませんか」
「ああ、そういった選択も見山君と考えたよ。だが、ことは娘さんに関わるデリケートな問題だ。仮に原因が人美さんの能力によるものだった時のことを考えてもみろ、やはり信頼できる者に調査をさせるのが一番だ。そうは思わんか」
「ええ、それには同感ですが……」
 白石は腰かけたソファから身を乗り出して尋ねた。
「沢木。君は超能力をどう思う。そんなものは存在しないと思うかね」
「いいえ、ないとは思いません。しかし、あるとも思いません。つまり、私の既知の範囲では、存在云々は語れないということです」
 白石は声を若干張りあげた。
「ならば沢木よ。この機会にそのことの有無を確認しようではないか。はたして人美さんに超能力があるのか、あるいは偶然とはいくつも重なるものなのかを」
 沢木はタバコを揉み消しながら言った。
「会長。会長はあくまで、この件を私にやらせたいのですか」
「ああ、そうだ。君は信頼できると同時に、頭の切れる男だ。なにがしかの策を必ず講じられるはずだ。考えてみろ、あるだろう、切り口が」
 沢木はしばし考えた後、白石の言わんとしていることが分かった。
「なるほど、確かにASMOSを使えば、ある程度のことはできるかも知れませんね。しかし、それはあくまで見山人美という少女に特異な精神的能力がある場合に限定されます。真相究明となると、人員、時間、資金も必要になります」
「すべては君に任せる。君が思いどおりにことを進められるよう、取り計らおう」
 白石は一息おいてから言葉を続けた。
「もしもだ。もしも、超能力なるものを発見できたなら、そのメカニズムを解明できたなら、これは間違いなくある種の革命をもたらすぞ。そうなれば、我が相模の可能性もますます広がるというものだ」
 白石はしたたかな笑みを浮かべた。沢木はその笑みを見ながら、白石の商魂たくましさを改めて知ったと同時に、彼の本心がどこにあるのか、それが気になった。
「会長、正直におっしゃってください。会長は、見山親子のためにことの究明を図りたいのですか、それとも、相模の利益のためですか。はっきり言っておきますが、私は一人の少女を利潤追求と結びつけるような考え方は受け入れられません」
 そう語る沢木の目は、白石に威圧感さえ与えるほど鋭かった。白石はその目を見ながら思った。
 やはり、この男に限るな
 そして言った。
「両方だよ、沢木。わしは見山親子のことを心から心配している、と同時に相模の未来も考えている―技術屋の華は新しいものを発見すること、すなわちチャレンジだ。常識や手垢のついた知識にしがみついていては何もできん。沢木、君ならそれができるはずだ」
 沢木は白石に相模重工への誘いを受けた時の言葉を思い出した。
 〈技術者はあらゆる可能性にチャレンジせねばならない。私は君に冒険の舞台を用意しよう〉
 沢木はYS‐11を創った男に敬意を込めて答えた。
「分かりました、可能な限りのことをやってみましょう」



 沢木はやっとエアコンのスイッチを入れた。
 この土曜日は、読みかけの本を片付けたり、じっくりとピアノを弾いたりして、久し振りの休日らしい休日をのんびり過ごそうと思っていた。しかし、昨夜の白石会長の話しを聞いて以来、頭の中は見山人美のことで一杯だった。
 エアコンから吹き出される涼しい風は、彼の頭を冷やし汗を乾かした。その風を頭に受けながら、再び考えを巡らした。
 超能力とは存在するのだろうか? いやいや、超能力とは限らない。それ以外の超自然的な力―心霊現象なのかも知れない。それとも、奇妙な偶然の一致?
 沢木は窓を閉めるために歩きだした。
 ある意味では俺も超能力を信じる。でもそれは、いわゆる超能力というものとは少し違う。スプーンを曲げたり、ものを体にくっつけたり、そんなくだらないものが超能力だなんて思えない。俺の考える超能力とは、人間の奥深くにある精神的な作用―例えば、何かを愛する気持ちや信じる気持ち、そういう心が、精神が、自分や他人に影響を及ぼした時に現れるようなもの―そう、そんな精神作用により、病気が回復に向かったりするようなことだ。しかし、案外超能力なんてくだらないものなのかも知れない
 窓の前まで来ると、セミの声は一層けたたましく頭に響いた。
「うるさいセミだなぁ」
 沢木は窓をぴしゃりと閉め、ガラス越しに見える海を見つめながら思考を続けた。
 昔から言われる言葉の中には結構不思議なものがある。袖振り合うも多生の縁―これは仏教思想からきている言葉だが、つまりは輪廻転生のことだ。同じく仏教にまつわる以心伝心は、現代風にいえばテレパシーだろう。虫の知らせや正夢は、一種の予知能力―こんな言葉が何の根拠もなしに生まれ、使われてきたとは思えない。超自然的現象といわないまでも、何かそれに近いことがあるからこそ、そう人々に感じさせる何かがあるからこそ、こうした言葉が生まれたに違いない
 沢木は愛好のセブンスターを取り出し、それに火をつけた。
 きっと何かあるんじゃないだろうか。それとも人類の想像の産物なのだろうか。数々の事象の出来事から巧みに物事を関連づけて想像する。そんな人間の想像力のせいなんだろうか
 さらに沢木は、少女の能力を確かめるためにはどうすればよいのか、それが確かめられたとして、どう対処するのか。また、それらを一切少女に悟られることなく進めるにはどうすればよいのか、そんなことを考え頭を痛めた。しかし、久し振りに刺激的なテーマに出会ったことに、ある種の興奮を抱いているのも事実だった。
「とにかく真実を」
 沢木はそうつぶやくと、心の中で続けた。
 超能力云々を信じる信じないの前に、まずは事実関係を明らかにしていかなくては。まずはそれからだ



 夏休みに入った見山人美は、毎日のように友達と近くの海に遊びに行っていた。もうじき両親はアメリカに行ってしまい、自分はしばらくの間一人で、父親の友人の家に居候しなければならないことなど、少しも気にしていなかった。
 人美の家は神奈川県の横須賀、居候先は葉山だから、高校へはちょっと遠くなる程度で通えるし、当然、友達とも今までどおり会うことができる。白石のおじさんはちょっと怖そうに思えたが、それでも全く知らない人ではないし、奥さんは対照的にとても優しそうな人だという印象がある。卒業してからアメリカに行ってしまい、友達と別れるのは少しさびしいが、アメリカでの生活への期待は、そんなさびしさを吹き飛ばすに十分だった。 人美がこの夏夢中になっているのは、岩場付近を素潜りすることである。海中の光景はとても美しく、小さな魚たちはとても愛らしく、時折出くわすクラゲの隊列は愛敬たっぷりだった。中でも彼女が特に気に入っているのは、海中から見た海面の光景である。それは上から見るのとは全く違う光景で、差し込む日の明かりがゆらゆらと揺らめき、吸い込まれてしまうような、何かとても気持ちを落ち着かせてくれるものだった。人美は水中眼鏡越しに、その光景を息が続くまで見続けていた。
 日も落ちてきて、友達がもう帰ろうと言った。人美を含めた二人の少女は、夕暮れの中を家路についた。
 日中は大勢の人でにぎわう海岸も、夕日に照らされるこの時間になるとその数は一気に減ってしまう。このため、浜辺からバス通りに出るまでの細い道には、人美たち以外の人の姿はなかった。
 ちょうど公園の前に来た時に、人美たちの前に突然二人の若い男が現れた。彼らは人美たちをにらんでいる。よく見ると、先ほど自分たちに声をかけてきた二人だった。人美はひるむことなく前進し、友達は人美の後を恐る恐る着いて行った。男たちも彼女たちのほうへ直進して来た。約一メートルほどまでに両者が接近した時に、人美は男の一人と目と目が合った。その目は悪意に満ちた冷たい目だった。彼女の直感はこの場を早急に離れなければならないことを告げていた。人美は後ろの友達のほうを振り返り声をかけた。
「急ごう!」
 そう言いながら見た友達の目は、既に恐怖の瞬間を捕らえていた。男の腕が人美の首に巻きつき、もう片方の手が口を押さえた。友達も男に捕まり、二人は草むらのほうに強引に連れ込まれ、人美は男に押し倒された。その時、口を押さえていた手が外れた。人美は渾身の力を振り絞って叫んだ。
 運がよかった。ちょうど海の家から引き上げて来た、三人の中年男がその悲鳴を聞きつけた。彼らは一目散に草むらに駆け込むと、若い男たちを蹴り飛ばして人美たちを救った。彼女たちを襲った二人は大慌てで駐車場のほうへ走って行き、止めてあった車であっという間に逃げて行った。
 人美たちはその後の帰り道で、先ほどの事件のことを冗談混じりに話し合っていた。少女たちには、ついさっきまでの恐怖を、笑いに変えてしまうエネルギーがあった。



 次の日の日曜日、昼近くになってやっと目を覚ました沢木は、テレビのスイッチを入れるとニュースにチャンネルを合わせ、コーヒーを入れるためにやかんを火にかけた。その時、アナウンサーは次のようなニュースを読みあげていた。
「昨夜の午後七時半ごろ、神奈川県三浦市の三戸海岸で、二人の男性の溺死体が発見されました。警察のこれまでの調べによりますと、二人の男性の遺体からはかなりの量のアルコール分が検出されており、酔った勢いで海に入ったために、溺れたものと考えられています」
 沢木はつぶやいた。
「バカな連中だ」



 七月三十一日、月曜日。沢木は幾分重い足取りでいつもより早く本社に出社した。といっても、それは普通の社員ならとっくに仕事に取りかかっている午前九時だった。彼には特に定められた出社時間などないのだ。相模重工において、このようなことが許されているのは、重役たちと沢木のみであった。
 沢木は東京工業大学の工学部制御システム工学科を卒業した後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学し、機械をいかにして制御するか、ということの研究にさらなる磨きをかけていた。その研究過程で、彼は経験を反映することができるコンピューター・システムの基礎論理を構築した。EFC論理と呼ばれるこのアイデアに、最初に飛びついたのはアメリカの航空機メーカーのボーイング社だった。
 当時ボーイング社では、ボーイング747-400型(最新型ジャンボジェット機)の飛行制御システムの再検討を進めていた。400型は機関士を必要とせず、機長と副操縦士の二名で運行するように設計されている。しかし、機関士を搭乗させないことは危険だと、有益な市場である日本の航空会社の労働組合が、400型導入に対して猛反対していた。400型の飛行制御システムの見直しは、これへの対応の一環として検討されていた。そんなボーイング社に、沢木の研究論文が舞い込んで来たのだ。
 ボーイング社は十分過ぎるほどの環境を沢木に与え、そして、SFOS(Sawaki's Flight Operating System)が完成された。
 このシステムは、あるパイロットが行った離陸から着陸までの操縦手順と実際の機体の動作、気象データ、機体のトラブルとその対処方法などを記録し、それがある程度蓄積されたところでパターン化(学習)する。このパターン・データ(経験)を次のフライトに反映させて、パイロットの負担や事故を減らそうとする制御システムである。
 例えば、離陸の際に蓄積されたパターン・データと違う操作をパイロットがしたとする。するとSFOSは直ちに与えられた条件(機体のコンディションや気象データなど)を検討し、その操作がふさわしくないと判断した時、自動的に誤操作を修正するのである。また、これらパイロット特有のパターン・データ(癖など)は、直径五インチの光磁気ディスクに保存し持ち運ぶことができるので、SFOSを搭載した別の400型に搭乗した時にも、データを読み込ませれば扱い慣れた機体に変身させることができる。しかも、SFOSはメモリーの許す限りパターン化を繰り返す。したがって、SFOSは使えば使うほど、経験を積めば積むほどに、より信頼性が向上するという画期的なシステムであった。
 このSFOSにより沢木の名は世界中の関係者に知られることとなり、さまざまな企業が彼の才能を欲しがった。そんな中で彼を射止めたのが、当時の相模重工社長・白石功三だった。
 沢木は鳴り物入りで相模重工に入社するやいなや、SFOSの汎用版であるSMOS(Sagami Multiple Operating System)を完成させた。現在、SMOSは原子力発電所や船舶、F-15Jイーグル戦闘機など、ほとんどの相模製品に実装されている。
 沢木が籍を置く総合技術管理部は、通称“沢木組”と呼ばれている部署で、相模重工内で開発されたさまざまな技術を、相互に応用できるように管理運営することを目的としている。もちろん、SMOSの強化改良型であるASMOSなど、沢木組独自の研究開発も行っている。また、通称に彼の名の冠が付いていることから分かるように、この部の部長には沢木が着任している。沢木組のスタッフ数は一二〇名で、皆、沢木自身により選ばれ、白石会長の鶴の一声により集められた、精鋭中の精鋭だった。それだけに、相模内のある勢力からは強い反発もあった。
 沢木は朝のあいさつをしながら自分のオフィスに入って行き、皮張りの茶色い肘掛け椅子に座ると、早速今日行うことの準備に取りかかった。
 相模重工本社は横浜市中区の官庁街の一角にある。港と高速道路に囲まれたこの辺りは、横浜ベイスターズのホームグラウンドである横浜スタジアムや、山下公園、中華街などがあることで知られているが、それと同時に多くの官庁施設や公共施設が点在している。神奈川県庁、横浜地方裁判所、神奈川県警察本部、横浜税関、県立博物館、県民ホールなどなどである。そしてすぐ近くの西区では、横浜市が進めている都心臨界部総合整備計画“みなとみらい21”の名のもと大規模な開発が進められ、その一つのシンボルとして、日本最高の高さを誇るランドマークタワーがそびえ建っていた。この街は神奈川県の中枢であり、シンボルであると同時に、そこで生まれ育った相模重工のホームタウンでもあった。
 山下公園道り沿いにある相模重工本社ビルは、地上三十六階建て、高さ一四七メートルの超高層ビルであり、その二十三階に沢木のオフィスはあった。この階とその下の二十二階は総合技術管理部に独占されており、例え相模の社員であっても部外の者は立ち入ることができない。といっても、規則や警備員により規制されているわけではない。部外者の行く手を阻むものは、エレベーターを降りてすぐにある鋼鉄の扉のアイID識別式電子ロックである。これにより、あらかじめ眼球の虹彩パターンが登録された人物以外は、ロックを解除することができないのである。
 沢木組の中枢であるこのフロアを構成するのは、部長室―すなわち沢木のオフィス、部長秘書室、スタッフ用の広いオフィス、会議室、開発室七部屋、電算室、休憩ラウンジなどである。内装はほとんどが白で統一されているが、これは部長秘書室長の秋山美佐子の趣味により決定された。
 沢木のオフィスはおよそ二十畳くらいの広さがある。ドアを入った正面には大きな机があり、その脇にはIBMのコンピューターが置いてある。机の後ろには腰の高さから天井くらいまでの窓があり、そこからは横浜港が一望できる。その窓に沿って右手奥のほうに目を移すと、皮張りのソファに囲まれたガラス板のコーヒー・テーブルがあり、その近くには三十二インチのテレビとビデオデッキなどが置かれていた。
 ノックが聞こえて扉が開くと、コーヒーの香ばしい香りが部屋の中に広がった。秋山がコーヒーを持って入って来たのである。
「今日は珍しく、お早い出社ですね」
 秋山は沢木をからかうように言った。こんな時、いつもの沢木なら気の利いた冗談で言い返し、彼女を笑わすのだが、今日の彼は真剣な顔をして言った。
「これから厄介な仕事に取りかかることになる。秋山さんもたいへんになると思うからそのつもりでいてね」



 沢木はスタッフを集めることから始めた。まず、沢木組の中からは部長秘書室長の秋山美佐子をはじめ、“センサーの魔術師”と異名を取る片山広平。プログラマーの岡林敦。東京大学付属病院の脳神経外科師から相模に転身した松下順一郎の四人。
 外部からは、相模重工総合研究所の人間工学研究室に所属し、人間が機械に関わる時に生じるストレスの研究を専門としている桑原久代。相模重工が保有するさまざまな機密情報の外部流出を、独自に防ぐために設置された情報管理室の室長、渡辺昭寛の計六人であった。
 沢木は以上の六人に連絡を取ると、午後五時から自分のオフィスで会議を行うことを告げ、皆それに同意した。
 そして、午後四時五十分。沢木のオフィスに人が集まり始めた。
 最初にやって来たのは松下順一郎であった。彼は五十五歳で、身長は一七〇くらい、眼鏡をかけ、ヒョロっとした風貌は、神経質そうな印象を周囲に与えた。彼は沢木が抱えているプロジェクトのひとつ、ASMOS計画を推進する上で重要な人物である。
 ASMOSとは Advanced SMOSの略であり、その名の示すとおり、先進的なSMOS、次世代SMOSとして現在開発中のものである。このASMOSは、従来のSMOSに比べて処理能力が大幅に向上されていて、それだけでも十分な“売り”になるのだが、沢木はこれに思考検知システムを加えようとしていた。人が思考した命令をセンサーで検知し、それをコンピューターで処理し、機械を制御するという試みである。松下の仕事は、思考を検知する際の医学的な分野での技術開発を進めることである。
 笑いながら入って来たのは岡林敦だった。秘書室にいる秋山をはじめとする女性たちでもからかって来たのだろう、と沢木は思った。岡林は童顔で、背丈は一六〇と小柄なため、一見すると頼りなさそうな、おとなしそうな印象を与えるが、実は非常におしゃべりで、人を笑わそうとすることばかり考えている男である。しかし、彼はその性格によらず、地道な作業をコツコツとするタイプで、沢木の無理難題な注文をいつも鮮やかに切り抜けてきた。彼は二十七歳。プログラマーとしては一番油の乗った年齢かも知れない。
 油が染み込みよれよれになったオレンジ色の作業着、それを着て入って来たのは片山広平であった。“センサーの魔術師”と異名を取る彼は、沢木組のナンバー2であり、沢木のよきパートナーであった。また、沢木と同じ年齢ということもあってか、私的部分で彼と馬が合った。片山は松下よりも少し背が高く、細面の顔はクールな印象を人に与えた。彼は今、松下と協力してASMOSの思考検知用センサーの開発に没頭している。
 何で俺がこんなところに呼び出されるんだ、という顔をしてやって来たのは、渡辺昭寛であった。三十六歳の彼は、一八〇近い背丈とたくましい肉体を持つ屈強そうな男だった。 今から三年ほど前、SMOS関連の機密情報を奪取せんと、産業スパイが相模重工に送り込まれる、という事件が起きた。相模重工にはSMOS以外にも、同業者が喉から手が出るほど欲しいような先進技術がたくさんある。これらの技術の不正流出を防ぐために、事件後情報管理室が設置された。
 渡辺に関して沢木はある噂を聞いていた。その噂とは、彼がかつてSOPの隊員であった、というものだ。
 SOPとはSpecial Operation Policeの略で、テロ犯罪の抑止、鎮圧を目的として警察機構内に創設された特殊部隊であり、その監督は首相や法務大臣をはじめとするSOP総括委員会により行われている。SOP創設の理由は、八〇年代後半から相次いで起こったテロ犯罪への対抗である。外国人労働者が大量流入したことによるナショナリズムの高まりと右派勢力の拡大、それに対する国内極左及びアジア諸国の反抗。西側先進諸国の思惑を顕著に表す、日本の経済支援に対する発展途上国の反感。国内外を問わずテロの動機はいくつもあった。事態を重く見た政府はテロ対策法を制定し、その実践部隊として近代兵器と先進技術により武装されたSOPを配備した。
 今回の計画では、情報管理や事件、事故の詳細な調査活動が必要になると判断し、沢木は渡辺に声をかけた。
 続いて桑原久代が入って来た。彼女は沢木を見つけると歩み寄り、初対面のあいさつを始めた。彼女は若くは見えるが、おそらく四十代後半くらいの年齢だろうと沢木は思った。美人とはいえないまでも、きりりと引き締まった顔立ちは、賢そうな、いかにもキャリアウーマンといった感じだった。身長は一五五くらい、ほっそりと小柄な女性だった。
 沢木は彼女と関わるのは今回が初めてだが、彼女の書いた研究報告書はいつも興味深く読ませてもらっていた。今回の計画では、人美の心理面からの考察が非常に重要になるだろうと考え、心理学を専門とする彼女に迷わず声をかけた。
 最後に人数分のコーヒーを持って入って来たのは秋山美佐子である。彼女は大学で航空宇宙工学を学んだ後に相模重工へ入社し、宇宙関連事業に技術者として携わることを夢見ていた。しかし、配属されたのは期待に反して秘書室だった。彼女の夢は入社と同時に破れたのだ。だが、相模重工の重役秘書ともなれば、技術関連の知識も無駄にはならないだろうと自分を励まし、新しい目標に向かって歩み出した。その一年後に沢木が入社してきて、秋山は彼のアシスタントに抜擢された。沢木の仕事は非常に高度かつ大きなプロジェクトばかりで、当然彼女の仕事も楽しくなった。総合技術管理部創設の際にも彼女の意見は積極的に採用され、沢木のもと彼女の才能は開花された。
 長い髪をバレッタで後ろに束ねた髪型と、あどけない顔立ちが印象的な彼女は現在二十八歳、聡明かつ美しい女性だった。

「それではそろそろ始めようか」
 全員がコーヒー・テーブルを囲んだソファに着席すると、沢木は切り出した。
「初めに言っておくが、これから話すことは今まで我々が出会ったことのないような不可解な事柄だ。それと同時に非常にデリケートな部分も合わせ持っている。したがって、この件は一切部外秘とする。また、各自この件を最優先事項として仕事に取り組んで欲しい。その保証は白石会長がする」
 沢木は用意してあった資料を配った。白紙の表紙をめくると、カラーコピーされた人美の写真があった。
「その少女の名前は見山人美といい、年齢は十八歳。横須賀市の県立高校に通っている。その娘の父親の見山哲司氏は貿易会社に勤めていて、来月の七日からアメリカのロサンゼルス支社に赴任することになっている。本来ならば娘を一緒に連れて行きたいところなのだろうが、高校卒業までの残り七カ月間は―正確には来年三月十五日までは、友人である白石会長のもとに預けることにした」
 ここで沢木はタバコに火をつけた。
「ところが見山人美には、ほかの人間にはない特殊な能力があるらしいんだ」
 皆が沢木の顔に注目した。
「見山哲司氏はその疑問を一人抱えて悩んでいたのだが、そこへ海外赴任の話しがきた。娘を一人残すのは心配だが高校も卒業させてやりたい。そこで、白石会長に相談を持ちかけ、会長は疑問解明を約束するとともに、見山人美を預かることにした。というのがことの粗筋だ」
 秋山が尋ねた。
「特殊な能力って、何なんですか?」
 岡林が間髪入れずに言った。
「超能力だよ! それとも心霊現象とか」
 沢木は岡林を軽くにらむと話しを続けた。
「では本題に入ろう。三ページめをめくってくれ。そこにあるのは見山氏が会長宛に送った手紙のコピーだ。まずはそれを読んでくれ」
 沢木も手紙を読み返した。

 最初の出来事は人美が七つの時、小学校に入学した年のことでした。そのころの人美は人見知りが激しくて、友達を作るのに苦労していました。
 そんなある日、学校から帰って来た人美が延々と泣き続けていたという話しを妻から聞きました。どうやら同じクラスの女の子にいじめられていたようなのです。私も妻も一時の出来事と思い、人美を励ますこと以外には何もしてやりませんでした。しかし、いじめは数カ月に渡って続いていたようで、ついに人美は登校拒否という手段を選びました。私は怒りに震えながら、ひとまず担任の教師のところへ相談に出向きました。ところが、人美をいじめていた女の子が、相談に行った前の日から行方知れずになっているということを聞かされました。
 事情はどうであれ、いじめの心配がなくなった人美は再び学校へ行くようになり、ひとまず安心しました。
 ちょうどそのころ、貴兄もご記憶のことと思いますが、三浦半島地区では奇怪な幼女連続誘拐事件が起こっていました。確か九月の初めごろにようやく犯人が捕まり、誘拐された少女たちの遺体が発見されました。その被害者の中には、人美をいじめていた少女もいたのです。もちろんこの時は、たまたま不幸にして人美の同級生が悲惨な目に遭ったとしか思いませんでした。

 次は人美が六年生の時です。
 人美がとても仲よくしていた女の子が、担任の教師にいたずらされるという事件が起こりました。教師は警察に捕まり新聞にも取り上げられ、たいへんな騒ぎになりました。
 その教師の話は幾度となく人美や妻から聞いていましたが、人美をはじめ生徒皆から好かれ、また父兄の間からも教育に対する熱心さに好感を持たれていました。
 まさに、魔が差したとしかいいようのない事件でした。しかも、事件を犯したのは、人美たち生徒全員が見ている目の前だったのです。
 数日後、被害者の女の子と家族はどこかへ引っ越してしまいました。人美は親友を失ったことと事件のショックが重なって、しばらく口を利かなくなりました。
 それからまもなくして、留置場に入れられていた教師は精神錯乱を起こして、しかるべき施設へと送られました。

 人美が中学三年生の時に、妻から人美の初恋話しを聞きました。同じクラスの男の子に恋心を持ったらしいのです。その話を聞いた私は、時の過ぎることの早さを実感するとともに、ある種の嫉妬心を覚えたのを記憶しています。
 しかし、その恋は実のりませんでした。初恋の相手は、隣のクラスの女の子に奪われてしまったのです。
 時が過ぎ、受験の時が人美にもやってきました。元々成績のよかった人美は、それほど苦労もせずに、県下でも有数の県立高校に合格しました。
 ある日、仕事から帰って来た私に妻が言いました。人美と同じ中学の生徒が、受験失敗を苦に自殺したというのです。その生徒とは、人美の初恋相手を奪った女の子でした。

 そして、いよいよ人美に対する疑惑を持つことになった出来事は、昨年の秋、人美が高校二年生の時に起こりました。
 その秋、人美の高校では文化祭が行われました。人美たちは打ち上げと称して街に繰り出し、居酒屋で大人気取りの時を過ごしたようです。飲み慣れない酒を口にした人美は酷く酔ったようで、駅前まで迎えに来て欲しいと家に電話をしてきました。私は叱るのを後にして、急いで車で迎えに出かけました。
 駅前に着くと、人美の同級生らしき男子数人と、大学生風の男たち数人との激しい喧嘩の真っ最中でした。そして、人美は喧嘩を止めようと盛んに大きな声を出していました。 私は必死の思いで殴り合う若者たちの間に入りました。幸い、私より遥かにたくましい、誰かの父兄と思われる男性がいてくれたお蔭で、その場は何とか治まりました。
 私は、帰る方向が同じ同級生数人と人美を車に乗せ家路につきました。道中、人美は酔いと疲れからぐっすりと眠っているようでした。
 しばらくして、辺りがさびしい道を走っている時に、突然後ろの車がけたたましくクラクションを鳴らしたかと思うと、私の車の横を並走し、空き缶などを投げつけてきました。その車に乗っていたのは、先ほど人美たちが喧嘩をしていた相手でした。どうやら、私たちをつけて来たようなのです。後ろの席に乗っていた男の子もそのことに気づき、「てめえら死んじまえ」と、大声で怒鳴りました。そのすぐ後の人美のつぶやきが、私には確かに聞こえました。「そうよ」と。その瞬間、隣を走っていた車は突然加速すると、急なカーブの入り口にあるガードレールに向かって一直線に突っ込んで行き、激しい音とともに激突し炎上しました。私は人美を守らなければならない、という考えで頭が一杯になり、そのまま走り去りました。
 翌日の夕刊の地方欄に、そのことは小さな記事で載っていました。車に乗っていた男性三人は、全員死んだそうです。
 私は身が凍りつくような思いをしながらも、人美がそのことを眠っていて気がついていなかったことにほっとしました。

 以上がこれまでに起こった出来事です。最後の出来事のことを考えているうちに、その前の三件の不可解な出来事を思い出し、それらがすべて人美と関わっていることに不安を抱きました。人美は何か不思議な力、恐ろしい力を持っているのでは、これらの出来事はすべて人美が起こしてのでは、と疑問を持つようになったのです。
 どうか白石様……

 沢木はそこまで読み終わると、全員をゆっくりと見まわして口を開いた。
「皆、読み終えたかな」
 黙ってうなずく六人の姿を確認すると、桑原が切り出した。
「これが人美という少女により本当に引き起こされたものならば、いわゆる超能力、と考えてよさそうですね」
「心霊現象かも知れないよ。何かに取り憑かれているとか」
 岡林は特に普段と変わらぬ口調で言った。再び桑原が発言した。
「いずれにしても、超自然的な現象ということになりますね。そう、サイ現象ということに」
「偶然と想像力の産物だ」
 松下がけげんそうな顔でそう言うと、岡林はがっかりした顔をした。松下はさらに続けた。
「沢木君。君は我々をここに集め、一体何を始めようというのかね。まさかこんな絵空事に取り組もうというんじゃないだろうね。こんな寄り道をすることよりも、我々はASMOSの開発に全力を尽くすべきだ。だいたい、我々に何ができるというんだ!」
 桑原が言った。
「しかし、松下さん。サイ現象の研究は立派な学問として認知されているものなんですよ。超心理学とか、意識科学とかの名で」
「そんなことは私だって知ってるさ。要は、この手紙の内容をどう判断するか、そういうことだろう」
「沢木さんはどう考えているんですか?」
 秋山が言い、片山が続けた。
「沢木の考えが聞きたいな」
 渡辺は視線をじっと下に向けて渋い顔をしていた。
 沢木はゆっくりと座り直すと、髪の毛を一度掻き上げ口を動かした。
「まず何よりも大切なことは、真実がどこにあるのか、それを確かめることだと私は思う。過去の出来事一つ一つをできる限り詳しく検証し、それらの実体が何なのかを見極めることが必要だと…… みんなそれぞれにいろいろな考えがあるだろうが、今現在、このことについてはっきりとした答えを出せる者はいるか? 確かに松下さんの言うように、偶然と想像の産物かも知れない。しかし、例えそうだとしても、彼らにとってはある種の現実なんだ。精神世界における“現実”とは、事象の出来事とは異なる。見山氏が誤った現実を作り出しているのなら、それは取り除かれるべきだろう―娘さんのためにも。そしてもう一つの可能性―もしも、過去の出来事が見山氏の推測どおり、見山人美により引き起こされたものならば、驚異と同時に少女の今後の人生を、未来を不安に思う。結果的がどう出るのかは分からない。だが、万に一つの可能性で超自然的現象の発見と少女の未来がかかっているのなら、私は十分にやる価値があると思うんだ。そして、新しいチャレンジに不毛はないと私は信じる」
 沢木はそう言うと、ソファに深く身を沈め皆の反応を見守った。しばらくの沈黙の後、秋山が言った。
「ASMOSの完成にはまだまだかなりの時間がかかります。その間にちょっとだけ好奇心を持って寄り道してみても、大した害にはならないと思います。やってみましょう、見山人美という少女のために」
「そうそう、何だかわくわくするなぁー」
 岡林はそう言った後に松下の顔を見た、思ったとおり自分をにらみつけている。
「反対意見は」
 沢木の問いに口を開く者はいなかった。
「ありがとう。では具体的な仕事の話に移ろう」


 見山家では、人美の白石会長宅への引っ越し準備と、両親の海外赴任の準備が同時進行で行われていたため、そこは戦場と化していた。人美の両親は八月七日の午後にアメリカに向けて出発する。人美は両親を空港で見送った脚で、所帯道具一式がすっかり運び込まれた白石会長宅に行き、それから約七カ月間をそこで過ごす予定になっている。
 自分の荷物を丁寧に段ボール箱へと詰めていた人美は、ふと窓の外の空を見上げた。すると、紫色の美しい夕暮れ時の光景が広がっていた。彼女は慌てて一階に下りて行き、母に向かって叫んだ。
「ちょっと行って来る!」
 人美は赤いフレームのマウンテン・バイクに飛び乗ると、夕日に向かってこぎ出した。自転車はいつになくスイスイと心地よく前進し、いつもより余計に走る気分にさせてくれた。薄いピンク色の綿の半袖シャツは風になびき、スリムのジーンズに包まれた細い脚は軽快なペダルリングで、疲れることを知らないかのようだった。
 三戸海岸まで行ってみよーっと
 人美はその心地よさに身を任せ、自宅から三キロほど離れた海岸まで行ってみることにした。
 三戸海岸まで来ると、紫色の空と海と赤い太陽が人美を迎えてくれた。
「奇麗だ」
 人美はそうつぶやくと、砂浜近くの駐車場に自転車を止め、波打ち際に向かって歩き出した。
 目を覆うばかりのまばゆい光は富士山の後ろに回り込み、まるで巨大な影絵のように、そのシルエットを浮かびあがらせ、海は鏡の絨毯のように、赤々とした光りを照り返していた。それはいつ見ても飽きることのない美しい光景だった。しかし、感動の時間は短かった。突然の寒気が人美を襲う。
「何だろう?」
 人美には分からなかった。自分が二人の男の溺死体が発見された場所に立っているということが。



 沢木は計画の概要を説明し始めた。
「まずは過去の出来事の調査だ。そして事件、事故の詳しい情報を入手次第、見山人美の心理面からの考察が必要だろう。また、手紙に記されたこと以外の出来事も彼女の周辺で起きている可能性があるので、過去から現在に至るまでの身辺調査も必要だ。さらに、彼女が会長宅に入り次第、リアルタイムでの観測も試みたい。これらの作業を進めれば、確証を得られないまでも、偶然か、あるいはそれ以外の何かなのか、おおよその見当はつくはずだ。取り敢えずはこれらの作業を行おう」
「話は分かった。で、俺は何をすればいいのかな」
 渡辺が初めて口を開いた。沢木は答えた。
「渡辺さんには過去四件の出来事の詳細をできる限り詳しく調べてもらいたいんです。しかも早急に。見山氏の手紙がすべてを語っているとは思えないので」
「なるほど」
「その後は見山人美の身辺調査をお願いします。特に彼女の周辺に類似したことが起こっていないかということを」
「了解した」
 沢木は次に秋山に指示をした。
「秋山さんは取り敢えず、白石邸の近くに空き家があるかどうかを調べてくれ。そこに計画本部を設営する」
「分かりました」
 片山が言った。
「沢木の家を使うのが手っ取り早いんじゃないか。会長宅にも近いんだし」
 沢木の自宅もまた葉山にあり、白石邸から一キロほど離れたところに位置していた。
 沢木は苦笑しながら答えた。
「それは勘弁だな。短期間ならともかく、今回は長くなるかも知れないし、第一、みんなだって私の自宅じゃ気を使うだろう」
 秋山が言った。
「明日早速、不動産屋をあたってみます」
「お願いします」
 沢木は続けて言った。
「片山は八月六日までに、つまり見山人美が入居する日の前日までに、白石邸の彼女の部屋にPPSを設置してくれ」
「PPSを!」
 片山は驚いたように言った。
「PPSとソフトに細工を施せば、現時点でのPPSの完成度でも成果を期待できるはずだ。つまり……」
 沢木がそこまで言いかけた時に、桑原が口を挟んだ。
「あの。お話の途中すいませんが、PPSとは何なのでしょうか?」
「ああ、すいません」
 沢木はPPSの説明を始めた。
「人間の脳が活動する時、そこには電流が発生し、決まったリズムの電位変化が起こります。つまり、交流電気信号が発生するわけです。ただし、これは非常に微弱なもので、具体的には五〇〇万分の一から五〇〇〇万分の一ボルトという大きさです。これがいわゆる脳波というもので、脳波は意識の状態と密接に関係しています。ここまではご存じですね」
 桑原はうなずいた。
「さて、次は電気のお話です。一本の電線に交流電気を流すと、その周りには電磁波が発生します。電磁波とは、電波や可視光線、赤外線、紫外線、X線などの総称と考えてください。そして、人間の脳からも非常に微弱ながら、この電磁波が出ているのです。PPSはこの電磁波をとらえるためのセンサーであり、PPSとはPsychological Pulse Sensorの略です。したがって、PPSを使えば見山人美の意識の状態を観察することができるわけです」
「なるほど」
「ところが問題がありまして、我々の普段いる空間には電磁波が無数に飛び交っているのです。例えば、人間の体から放出される赤外線、家電製品から漏れる電波など、その数は計り知れません。しかも、それらの電磁波は脳波のそれよりも遥かに強力で、脳の電磁波などはマスキングされてしまうのです。今までは、PPSをそれらから隔離された実験室の中で使用してきました。電波暗室といわれる電波を遮断する部屋にさらに改良を加えてです。しかし、今回は普通の家にPPSを設置しなければなりません」
 片山が言った。
「どうするんだ」
 沢木は桑原に尋ねた。
「桑原さん。フーリエ分解というのを御存じですか」
 岡林はその沢木の発言から予想される自分への指示を察して悲鳴をあげた。
「ええー! それ俺がやるの……」
 桑原は一瞬岡林を見た後、沢木に視線を戻して言った。
「いいえ」
「では、これもご説明しましょう。我々が耳にする音、これはなにがしかの振動が、空気を伝わって鼓膜を振動させることにより知覚されます。例えば、ピアノの音は弦の振動が耳に伝わります。つまり音の実体とは波であり、同じく波の性質を持つ交流電気信号や電磁波と性質は同じなのです。ですから音を例にして説明します。ピアノの音の波形は非常に複雑な形をしていますが、実はサイン波という単純な波形の集合体なのです。サイン波の音は、ピアノの調律などに使う音叉の音を想像して頂ければいいと思います。この世に存在するすべての音は、サイン波の合成によりできているわけです。ですから、サイン波を出力する発振器を複数用意し、それぞれの周波数と音の大きさを変えてやれば、さまざまな音を理論的には作れることになり、その発振器の数が多ければ多いほど、より複雑な音が作れるわけです。実際に一部のシンセサイザーには、この加算合成方式と呼ばれる音作りの方式が使われています。そして、音を複数のサイン波に分解すること、すなわち波の構造を分解することを、フーリエ分解と呼びます。この技術を利用すれば、複数の音の中から一つの音だけを抽出することが可能になります。さて、これをPPSにどう用いるかですが。まず、PPSでとらえたさまざまな電磁波を、一定時間単位でサンプリングし、このサンプルをフーリエ解析します。これを繰り返していけば、いくつもあるサイン波の内どれが脳波成分かを判断することができます。後はそれを再合成し、見山人美から放たれた脳波として観測すればよいのです」
「はあ。大体のことは理解できました」
 桑原がそう答えた後、岡林が桑原に向かって言った。
「まあ、口で言うのは簡単なんですけどね、それを行うためのプログラムを新たに組むのはたいへんなんですよ」
 沢木は岡林を諭すように言った。
「岡林、俺もできる限り手伝うから何とか今度の日曜日までにやってくれないか。ゼロからとは言わない。手本は船舶事業部から潜水艦のソナー用のものをもらってくるから」
 岡林は渋々うなずいた。この瞬間、今度の週末から予定されていた岡林の夏休みは消滅した。
「松下さんと桑原さんは、サイ現象の事例をそれぞれの見地から考察しておいてください。渡辺さんが詳しい情報を持ってき次第、心理面や医学面からの分析をしていただきたいと思いますから」
「はい」と桑原が返事をし、それに合わせて松下がうなずいた。
「それから桑原さんは、この計画が進行中の間は総合技術管理部に一時籍を置いてもらいます。いろいろお仕事を抱えているでしょうがよろしくお願いします。手配は私のほうでしておきますので、明日からはこちらに出社願います」
「たいへん興味あることですので、願ってもないです」
「ありがとうございます。秋山さん。桑原さんの仕事場を用意しておいてください。それから夏季休暇のことだが、しばらくは各自見合わせて欲しい。どうしても無理なようならその限りではないが。みんな大丈夫だろうか?」
 岡林以外は全員うなずいた。
「では、最後にもう一度言っておくが、このことは一切部外秘だ。また見山人美に我々の行動が悟られることのないように、特に渡辺さんと片山は慎重に行動してください」
「言われるまでもない。この道のプロだ」
 渡辺はやや不愉快そうに言った。
「失礼」
 沢木は渡辺の目を見ながら軽く詫びた。その時彼は一瞬思った。この男をメンバーに加えてよかったのだろうかと。
「さて、質問がなければ今日の会議はこれで終了したいと思うが」
 言いながら沢木は全員を見まわした。
「では、これにて終了します。ご苦労様でした」



 沢木は皆が去った後のオフィスの窓際に立ち、すっかり暗くなった外の景色を眺めていた。眼下に広がる黒い海―横浜港の彼方に見える横浜ベイブリッジには、何台もの車が光の粒となって走り、ランドマークタワーは点々とした光を灯しながらシルエットを闇に浮かべ、その近くには巨大な観覧車がネオンを輝かせていた。それは現実そのものであり、また、日常だった。それに比べ、今自分が探究しようとしていることは、非現実、非日常の最たるものであり、自分はそれに有能なスタッフを従え取り込もうとしている。そこまでやってどうなるのだろう? 彼は好奇心という名の欲求をいぶかしく思いながらも、その先にある答えとは何なのか、そんなことを考えていた。
 そこへ、秋山がコーヒーを持って入って来た。
「コーヒー入れました」
 秋山はそう言いながらコーヒー・テーブルにカップを置いた。
「ありがとう」
 沢木はソファに腰掛けコーヒーを口にした。秋山も近くに座り口を開いた。
「何て言ったらいいのか。まさか相模でこんな仕事をすることになるとは」
「そうだね」
 沢木は優しく答えた。秋山はうつむき加減に言った。
「人美という女の子、もしも自分に特殊な能力があり、犠牲者が出ていることを知ったら、一体どうなるんでしょう?」
 沢木はしばらくの暇を空けてから答えた。
「僕には想像もつかないよ」
「そうですね」
「でもね、それは何としても回避しなくてはならないことなんだ。そのために、我々は知恵を絞らなくては……」
 秋山は作り笑いをしながら言った。
「沢木さんならきっとできますよ。でも、私は偶然の産物であることを祈ります」
「僕もその意見に賛成だ」
「ところで沢木さんは何をするんですか?」
「見山哲司氏に会ってみようと思ってる」
「見山氏に」
「ああ。見山家の事情をもう少し知りたいからね。何かヒントがあるかも知れない―」
 沢木はそこまで言うと、突然口調を変えて言った。
「ところで秋山さん、もう夕飯時だよ。何かおいしいものでも食べに行こうよ」
 秋山は心からの笑みを浮かべ、涼しい声で答えた。
「はい。お供します」



 白石会長の自宅は、葉山町と横須賀市の境に近い海沿いの山の中腹にあり、そこへは国道一三四号線から続く、細い急な坂道を登って行かなくてはならない。その家はとても老夫婦二人で住むには広過ぎる大きさで、二人の中年女性の家政婦がいることが、せめてもの救いだった。しかし、夜にはにぎやかな二人の女性も帰ってしまうため、家の電気はところどころしかつかず、近所の子供たちはお化け屋敷と呼んでいた。芝生が敷き詰められた庭の一角にはプールもあったが、これを利用する者はこの家にはいなかった。
 プールの見える居間のソファに座り、白石夫婦は話しをしていた。
「来週の今ごろには、もう人美さんがこの家にいるんですね」
 白石の妻である千寿子が、そう言って話しかけた。
「そうだな。わしは女の子が欲しかったから楽しみだよ」
「あら、父親気取りをしようというおつもりなの」
「それじゃいかんか?」
「誰がどう考えても、十八の娘さんは孫ですよ。まぁーご」
 白石は憮然たる表情で言った。
「余計なことは言わんでいい」
 千寿子は苦笑しながら視線を暗闇の中に浮かぶプールに移すと、溜め息混じりに言った。「あのプールも使われなくなって何年になるでしょうね」
「んん、和哉が家に遊びに来てくれれば、孫たちが使うだろうになぁ」
 和哉とは、白石夫婦の一人息子の名であった。父と息子は対立し合い、家族としての交流もあまりなかった。
 白石は千寿子を見つめてつぶやくように言った。
「やはり、わしが悪かったのだろうか?」
「誰も悪くなんてありませんよ。ただちょっと、二人に辛抱がなかっただけです」
「お前にもすまないと思っているよ」
 千寿子は静かにうなずくと、声を明るい調子に変えた。
「あのプール、掃除しとかなくちゃね。人美さん泳ぎが得意だそうだから、きっと夏の間中使ってくれるでしょう。あなた…… あなたそれを眺めてばかりいてはだめよ」
 二人は声を出して笑った。そこへ電話がかかってきた。千寿子は電話を受け白石に告げた。
「あなた、沢木さんからお電話です」
 白石は千寿子から受話器を受け取り答えた。
「もしもし、わしだ。どうした」
「今日、例の件で会議を開き明日から動き始めますので、まずはその報告を」
「そうか。メンバーは誰だ」
「秋山、片山、岡林、松下、それに総合研究所の桑原久代と情報管理室の渡辺昭寛の六人です」
「んん、申し分ないな」
「ところで会長、見山氏にお会いする機会を出発前に一度作って頂けないでしょうか。直接お伺いしたいことがあるんです。できれば早急に」
「そうか。それならちょうど明日の午後四時に見山君が家に来ることになっているから、そこへ君も来ればいい。彼にはこの後電話で伝えておくよ」
「助かります。では、明日お伺いしますので、詳細はその時に」



 八月一日、火曜日。沢木はやはり午前九時に出社した。いつものように秋山がコーヒーを持って入って来たが、今日は片山と一緒だった。
「おはよう。こんなに早く出社して、体を悪くするなよ」
 片山がからかうと、沢木は答えた。
「昨日も秋山さんに同じようなことを言われたよ」
 秋山が笑いながら言う。
「誰だって言いますよ。いつもはお昼近くになってやっと来る人が、いきなり早く来るんですもの」
 沢木はここ半年あまり、まともな時間に出社したことは一度もなかった。
「まあ、そう言うなよ。一応普段だって早く来ようとは思っているんだから……」
 片山が突っ込んだ。
「思ってるだけじゃなぁ。まあ、いつまで続くか見物だな」
 口をへの字に曲げる沢木を見ながら、秋山と片山が笑った。
「それはそうと沢木さん。私たちはこれから葉山に行ってきます。私は不動産屋さんをあたりますので」
「俺は白石邸の下見をしてくる」
「分かった。実は私も午後から葉山に戻るんだ。四時に会長宅で見山氏と会うことになっているんでね」
 秋山は考えながら言った。
「そうなんですかぁ…… 沢木さん、私も一緒に行っていいですか?」
「それは構わないが、何かわけでも」
「特別なわけはないんですが、ただ、人美さんのことがとても気になるので、見山氏の話しに興味があるんです」
 沢木は秋山の不安げな表情を見ながら、昨日の会議の後で秋山が言ったことを思い出した。
「そうか、いいよ。どこかで落ち合って一緒に行こう。場所と時間は後で僕のほうから連絡するよ」



 時計の針がそろそろ午前十一時を指そうという時刻になって、人美は母の呼び声で目を覚ました。
「人美、人美、彩香ちゃんから電話よ。人美、起きて!」
 人美はしばらくの間ベットの上で呆然としていたが、状況を理解すると急いで一階に下りて行った。そして母から受話器を受け取ると、息を切らしながらしゃべった。
「はっ、はい。人美ですけれど」
「何だー、今起きたの。相変わらずねぼすけね」
 その声の主は人美の親友の泉彩香だった。人美と彩香は中学校時代からの付き合いで、進学する高校も一緒に決めた仲だった。
 彩香は外見も性格も、人美とはほとんど正反対であった。彼女の髪は肩から腰の中間くらいまで伸ばされた黒く艶やかなストレートで、日本的な、なおかつ幼さの残った顔立ちをしていた。人美をボーイッシュとするならば、彩香は女の子らしい女の子といえるだろう。
「ああ、彩香か。どうしたの?」
 彩香はいらいらした口調で言った。
「もう、どうしたのじゃなくて。今日は荒崎に遊びに行こうって、人美のほうから誘ってきたんじゃない」
 この日、二人は荒崎海岸に遊びに行く約束をしていたのだが、人美はそれをすっかり忘れてしまっていた。その原因は、土曜日の晩から見始めた夢のせいであり、昨夜も人美はその夢を見たのだった。眠りにつきしばらくするとその夢が始まり目を覚ます。再び眠りにつくとまた同じ夢を見る。朝になるまでこれの繰り返しで寝た気がしなかった。これが土曜の晩から昨晩まで、もう三日も続いているのだった。
「ああ、そうだったね。ごめんごめん。お昼食べたらすぐ迎えに行くよ」
「だから、お昼はサンドイッチを私が用意するって―人美、変よ。何かあったの?」
 彩香の感情はいらだちから心配に変わった。なぜなら、人美は今まで約束を守らなかったことなどただの一度もなかったし、ましてやそれ自体を忘れてしまうということは、考えられないことだったからだ。彩香は思った。
 何かあるんだ、絶対に
「んーん、大丈夫よ、何でもない。寝惚けてただけよ。じゃあ、今すぐ行くから、待っててね」
 人美は電話を切った後に、夢のことを脳裏に描きながら思った。
 とはいったものの、やっぱり彩香に聞いてもらおうかな。何で同じ夢ばっかり見るんだろう。こんなこと今までなかったのに……



 そのころ、渡辺昭寛は相模重工本社の近くにある神奈川県警察本部で、ある人物と会っていた。その人物とは、十一年前の幼女連続誘拐殺人事件の捜査本部長を務めていた神村県警副本部長で、当時は県警本部の捜査課長だった。渡辺はかつてのつてを通じて、彼への面会を求めたのである。
 神村が言った。
「お噂はかねがね聞いてますよ。SOPの中でも相当の凄腕だったそうじゃないですか。例の東京サミットの時も作戦に参加していたんでしょう、あれは鮮やかだった。聞くところによると、米軍は特殊部隊まで出動させようとしたそうじゃないですか。何で辞めてしまったんです。SOPも惜しい人材をなくしましたよね……」
 渡辺には過去の栄光を語る気はなかった。
「まあ、そこのところは勘弁してください。今は相模の番犬ですから」
 渡辺は今の職場を歓迎してはいなかった。SOPを辞めた後に相模重工に拾われ、情報管理室室長の肩書と二倍近い年収を得たが、要は相模の番犬でしかないと悲観的になっていた。SOPにいたころは、自らの命をかけてテロと戦い、多くの要人や市民、仲間の命を救ってきた。それは知恵と勇気、挑戦に満ち溢れた、危険だがやりがいのある仕事だった。それに比べて今の仕事は何の緊張感もなく、ただ過ぎていく時間に溺れながら過ごしているだけだと考えていた。しかし、そうかといってほかに仕事のあてもなく、もう自分の人生は半ば終わったかのごとく、彼は日々を過ごしていた。
「相模重工とは、また変わった再就職先ですな」
「自分でもそう思いますよ。さて、そろそろ本題に入りたいのですが」
「ああ、そうですね。えーと、十一年前三浦半島地区で起きた幼女連続誘拐殺人事件のことでしたね」
 神村は、まるで昨日起きたことを話すような鮮明な言葉で、事件のことを語り始めた。



「いい眺めですね。こんな景色のいい部屋に住んでみたいですよ」
 片山は窓から見える海を見ながら、白石会長に向かって感想を漏らした。二人がいるのは人美がまもなく入居する二階の角部屋だった。
 片山広平が相模重工に入社したのは今から九年前、早稲田大学理工学部を卒業してすぐのことだった。入社当時の彼が籍を置いていたのは、船舶事業部システム開発室であったが、上司との馬が合わず、二年後には航空宇宙事業部飛翔体研究室に転属した。しかし、ここでも上司と折り合いがつかず、その後メカトロニクス事業部、エネルギー事業部と、まるでジプシーのように社内をさ迷い歩いた。歴代の上司たちに言わせれば、彼はトラブル・メーカーであり、協調性に欠ける人間だった。だが、彼の実績は確かなもので、その証拠に、“センサーの魔術師”という異名を同僚たちからつけられたいた。
 そんな彼に目をつけたのが沢木だった。沢木はSMOS開発のスタート当初から片山をスタッフとして招き入れ、二人の協力関係のもとSMOSが完成された。なぜ二人の馬が合ったのか、それは彼らにも分からないだろうが、おそらく片山は、沢木の技術者としての類稀な創造力や緻密な思考、虚勢や見栄をはらない人間性に引かれたのではないだろうか。その後、総合技術管理部が沢木のもとに創設され、その一員として片山の新たなる創造の歴史が始まった。
 白石は言った。
「ならば君もせいぜい仕事に励むことだな。わしなどは君の年齢のころには寝食を忘れて設計に励んだものだ。しかも、CAD設計などという小生意気なものがない時代にだぞ。それに比べれば今は随分と便利になった……」
 片山は白石を尊敬していたが、この説教癖だけはやめてもらいたいと常々思っていた。 今年で七十二歳になった白石功三は、沢木をはじめとする若い人間たちと接するのが好きで、何かと理由をつけては沢木たちを家に招き持て成していた。彼にとって、若い世代の夢や想像力に触れることは、大きな楽しみの一つなのだ。
 そんな彼は、技術の分野では“YS‐11を創った男”の一人として知られている。
 相模重工は彼の父が起こした会社であり、戦前は軍艦や戦闘機の製造を行っていた。少年時代の白石は飛行機が好きで、戦闘機の製造部門に出入りしているうちに、自然と技術者を目指すようになった。そして、一九五九年に国産初の旅客機開発プロジェクトが発足すると、彼は機体設計の責任者に抜擢された。一九六二年に就航し、一九七三年に一八三機の製造を持って生産を終えたYS‐11は、夢や情熱を飛行機に捧げた男たちの手によって生み出されたのだ。しかし、その後の旅客機開発はさまざまな要因のために進展せず、国内の航空機業界は冬の時代を迎えることとなる。
 父が急死し、四十三歳の若さで社長に就任した彼は、相模の生き残りの道を求め、次第に兵器製造部門の比重を増やしていくこととなる。しかし、敗戦と戦後日本の移り変わりを垣間見てきた彼にとって、それは厳しい選択でもあった。
 片山は、白石の説教はごめんだが、そうかといって話しを中断させるわけにもいかず困り果てていた。そこに助け舟が現れた―千寿子だった。
「お話中ごめんなさい。片山さん、お昼食べていかれるでしょう。用意しましたから、召し上がってってくださいね」
「ああ、奥さん。お手間をかけさせてしまってすみません。遠慮なくご馳走になります」 その返事を聞いた千寿子は、ニコニコしながら去って行った。
「ところで会長。この部屋にはエアコンがないですね」
「確かに、エアコンはない。何か問題があるか?」
 白石は不思議そうな顔をして言った。
「ええ、少しばかり。見山人美にはなるべく体温を低く保ってもらいたいんです。それと、部屋の室温も低いほうがいいので―エアコンは私のほうで特製のものを用意しますから、それを取り付けさせてください」
「うむ、それは構わんが。なぜだ?」
「赤外線の放射量をなるべく抑えたいんですよ。つまり、ノイズを少しでも減らして、聞きたい音を聞こえやすくしたいんです」
 白石はしばし考え込んだ後に言った。
「その音とは…… つまり、人美さんの心の声のことだな」
「そうです」
「で、実際PPSはどれだけやれるんだ」
 片山は薄い笑みを浮かべながら答えた。
「PPSの能力はいつだって最高ですよ。問題なのは、PPSが拾った信号をどう処理するか。つまり、沢木や岡林がどこまでやれるかにかかっています。まあ、彼らのお手並み拝見といったところですね」
「そうか、どうも最近のこじゃれた技術は分からんのう?」
「それから、会長。明後日辺りに技術スタッフを連れてまた来ますので。承知しておいてください。その時にPPSとエアコンの取り付けを行いますので」
「うむ、承知した。ところで片山」
 白石は満面に笑みを浮かべてその後を続けた。
「ついでにこの部屋の改装もやってくれんか。きっと人美さんも喜ぶと思うんだが……」



 荒崎海岸は三浦半島中央部の相模湾側に位置している。そこは砂浜が広がった普通の海岸とは異なり、岩が切り立つ絶壁と岩場により形成されていた。荒崎海岸の特徴は、波などの海水の運動により、この海岸を形成する貢岩と凝灰岩が浸食されてできた海飴台や海飴洞にあり、海飴とは海水の浸食作用のことを示す。
 人美と彩香はそれぞれ自転車に乗り、約三十分ほどかかって荒崎海岸に到着した。時刻は予定より遥かに遅い、午後一時ごろを示していた。二人は海岸へとつながる道の入り口にある駐車場の一角に自転車を止め、景色のいい場所に向かってテクテクと歩き始めた。
 彩香が言った。
「あの場所、取られてないといいけどね」
 二人は以前にも何度となくここを訪れているために、景色の奇麗な場所を知っているのだった。そのお目当ての場所には、絶壁沿いの細い獣道のような道を通って行く。しばらく登り道が続くと木々のトンネルに入るが、その内部は決して暗くはなかった。木々の葉の間からこぼれる白い光線は、葉の揺らぎに合わせて一緒に揺らめき、絶壁の一〇メートルくらい下にある海面からは、キラキラとした光の粒が飛び込んできていた。そして、そのトンネルを抜けると登り道も終わり、絶壁の頂に出る。その瞬間景色は一変し、青い空と青い海が一面に広がるのだった。
「やっぱり、ここの景色が一番奇麗だよね」
 彩香が言った。
「うん。ほら見て、開いてるよ。行こう」
 二人のお目当ての場所は、先客もなく二人を迎えてくれた。その場所は、今二人のいる位置から少し海側に下りたところにあり、そこは岩場に突き出した大きな岩の頂上が平になっているところだった。ここからの眺めはまさに絶品で、前方の海の奥には伊豆半島が、右手には江の島、左手には大島を一望でき、視界のよい日や日没時には、遥か彼方にそびえ立つ富士山を見ることができた。
 二人は背負っていたバックパックを下ろすと、その岩の頂に“お店”を広げ、彩香が腕によりをかけて作ったサンドイッチの遅い昼食を食べ始めた。眼下に広がる岩場の波打ち際には激しい波が打ち寄せられ、白い水しぶきが延々と立ち上り、夏の強い陽光と青い空が二人を覆っていた。



 沢木は計画を進めるために必要な事務手続きを終えると、自分のオフィスから秋山の持つ携帯電話にダイヤルした。
「もしもし、沢木ですが。いい家は見つかったかな?」
 その時、秋山は不動産屋に連れられて物件の下見をしているところだった。
「ええ、今ちょうど家を下見しているところなんですが、これなら重役も気に入ってくれそうです」
 重役? ああ、そういう設定にしたのか
 沢木は答えた。
「そうか、よかった。今どの辺にいるの?」
「森山神社の近くです。分かります?」
「ああ、僕の家の近くだよ。それじゃ、悪いけど一度逗子まで戻ってくれるかな。二時半にJR逗子駅の近くの喫茶店で落ち合おう。喫茶店の場所は……」
「分かりました。では二時半に」
 沢木は京浜急行の日ノ出町駅まで社の車で送ってもらい、そこから新逗子駅までを電車で移動した。日ノ出町から新逗子までは、新逗子行きの急行に乗ればおよそ三十分で到着する。
 新逗子駅に降り立った沢木は、逗子にあるもう一つの駅―JR逗子駅近くにある喫茶店に向かって歩き、二時半少し前にその待ち合わせ場所に到着した。
 沢木が店に入ると、既に秋山は本を読みながら彼の到着を待っていた。
「お待たせ、暑い中ご苦労だったね。早速だけど、家の件を聞かせてもらえる」
「はい。見て来たのは三軒です」
 秋山はそう言いながら、読んでいた本を鞄にしまい、替わりに葉山町の地図を取り出した。その時、沢木には秋山が読んでいた本の題名が見えた。
 ファイア・スターターか
 それはスティーブン・キングの小説で、超能力を持つ少女の話しだった。
 特別な思い入れを持たなければいいんだが
 沢木は秋山の顔をじっと見つめ、ふと、そんなことを思い不安な気持ちになった。が、次の瞬間、強い化粧の匂いを感じた。
「ご注文は?」
 喫茶店の若い女の店員が沢木に注文を聞いてきた。匂いの源はその店員だった。歳はおそらく二十歳前後なのだろうが、厚い化粧のために老けて見えた。髪はやや茶色く、ピンクの口紅と、真っ赤なマニキュアで飾り立てていた。化粧さえ取ればそれなりにかわいい娘だと思うのだが、装いとはその人間の精神を反映しているものだ。
 沢木はこういうタイプの女性が好きではなかった。彼はもっと清楚な感じの―そう、秋山のような飾らない女性が好きだった。秋山はいつも髪を後ろに束ね、うっすらとした化粧で、服装も地味なものが好みのようだった。
 今日の髪型、何といったっけ?
 彼女の長い黒髪は奇麗に編み込まれ、後頭部のところで団子状に束ねられていた。そしてその団子の上には、真っ白い柔らかなリボンが花咲いていた。
 確か前に聞いたんだけど―そうだ、シニヨン
 秋山の髪型の基本形は後ろで髪を束ねることである。最も多いのは束ねた髪をバレッタで止めること。次いでポニーテール。そして今日のように、たまにシニヨンと白いリボンになる。
 そういえばぁ、髪を下ろしたとこ見たことないなぁ
 沢木はそんなことを思った。
 元々技術者を目指していた秋山は、普段の事務的な仕事よりも、“現場”での仕事が好きだった。沢木と一緒に工場で作業するような時には沢木組カラーのオレンジ色の作業着を着て、油にまみれて仕事をすることもあった。彼女は常に生き生きと仕事をしていたが、好奇心旺盛な少年のように瞳を輝かせるのは、やはりその時だろう。そして、種子島の宇宙センターに、人工衛星プロメテウスの打ち上げを見学しに行った時などは、もう完全に子供に戻ってしまっていた。沢木はそんな秋山の顔を見ていると、彼女の両方のほっぺたを思い切り、ぐにゅーっと、つねってやりたい衝動に駆られるのだった。彼にとって秋山は、常に安らぎと清涼感を与えてくれる女性であった。
「まだお決まりにならないんですか?」
 店員のいらいらした声に、沢木ははっとして答えた。
「ああっ。えーと、アイスコーヒー」
 秋山はテーブルに地図を広げ、場所を指で示しながら説明した。
「三軒の場所は、ここと、ここと、ここです。どれも一軒家です」
 沢木の頭の切り換えはいつでも光速だった。彼は地図をのぞき込みながら尋ねた。
「んーん、どこも白石邸から約一キロくらいの距離か。二階建ての家はある」
「すべてそうです」
「周辺が開けているのは?」
 沢木は電波の通り道を考えていた。
「そうですね。この二軒でしょうか」
 秋山が示した場所の一つは、先ほどの電話で言っていた森山神社の近く、もう一軒は小学校の近くだった。
「駐車場はある?」
「どちらもありますが、森山神社側の家はそこまでの道が狭いので、軽自動車しか入れないかと」
「そうか、では決まりだな。ここにしよう」
 沢木は小学校に近いその場所を指差して言った。
「はい、分かりました。でも、ちょっと残念だなぁー。森山神社側の家の方がおしゃれな作りで気に入ってたのに」
 秋山は無邪気な笑顔を浮かべながら言った。その表情は、沢木が先ほど一瞬思った不安を忘れさせてくれた。
 アイスコーヒーがテーブルに来ると、沢木は腕時計を見ながら言った。
「さて、まだ時間もあることだし、話しでもして時間をつぶすそうか」
「すいません。気を使っていただいて」
「何で?」
「だって、沢木さん一人ならこんなに早く逗子に来ることなかったでしょう。私の暇つぶしに付き合ってもらっちゃって」
 秋山は沢木のことを尊敬すると同時に、一人の男性として好きだった。しかし、その気持ちを沢木に言ったことはなかったし、それを匂わせるようなことも一度も言ったことがなかった。彼女は、沢木がいつか自分に振り向いてくれることをただ切々と願っていた。一方、沢木は秋山をパートナーとして信頼すると同時に、彼女の能力を高く評価していた。そして、彼女のことがとても好きだった。しかし、その気持ちは恋愛感情というまでには至っていない。なぜなら、恋愛感情を抑制する記憶が彼の脳裏にあるからだ。沢木はその記憶から逃れたかったが、逃れようとすればするほど、その記憶が蘇ってくるのだった。
 沢木は思った。
 君と一緒にいたいから…… 何て言えたらなぁ。ああ、また思い出してしまった。美和、なぜ君は……
「沢木さん、どうしたんです?」
 沢木はその声に我を取り戻した。
「ええ、何に」
 秋山は、沢木が時々物思いに耽ることが気になっていた。



 ドンドンドンドン
 白石会長の書斎のドアがせわしなくノックされると、家政婦の一人の橋爪京子が入って来た。
「ノックは静かにしてくれといつも言っているだろう」
 白石は呆れた顔で言った。
「申し訳ありません、旦那様。あのー、見山様がお越しになりましたが」
「そうか、ここへ通してくれ」
 しばらくすると、橋爪に案内されて見山哲司が入って来た。
「どうも、こんにちは。少し早かったでしょうか」
 見山は遠慮がちに言った。時刻は三時四十五分を示していた。
「いやいや、別に構わんよ。暇を持て余す隠居の身だからな」
「ご謙遜を」
 橋爪は二人がソファに腰掛けたのを確認すると見山に尋ねた。
「コーヒーでよろしいでしょうか。それとも何か冷たいものにいたしますか」
「すみません、コーヒーで結構です」
「わしにも同じものをくれ」
「かしこまりました」
 橋爪は二人にお辞儀をした後、書斎を出て行った。
「ところで、例の件なんですが。昨日電話で言っておられた沢木さんというのは、どんな人なのでしょうか」
 見山は不安げな表情をして言った。
「心配するな。沢木は我が相模重工の頭脳と言ってもいいほどの優れた技術者であると同時に、わしが女房の次に信頼する人間だ。彼に任しておけば、必ず何か掴んでくれるはずだ。まあ、まもなくここへ来るから、本人を見れば安心するだろう」
「そうですか。すると人美に関する調査も、その沢木さんが行うのですね」
「まあ、どこまでできるかは分からんが、沢木は一度やると決めたことはとことんやる男だ。決してあきらめず、弱音を吐かず、自分の知を武器に難問に挑む男だ。だたし、今度ばかりは彼も苦労するだろうがね」
 見山は深々と頭を下げながら言った。
「本当に、何と言ったらいいのか。感謝してます」
「おいおい、見山君、礼を言うのはまだ早いぞ、我々はまだ何もしていないんだから―ところで、出発の準備はもうできたかね」
「ええ、後は出発を待つばかりです。できればこのまま人美の側にいたいのですが……ああ。それと、人美のほうの荷物は今度の日曜日に運送屋に運んでもらいますが、それでよろしいでしょうか?」
「ああ、結構だ。人美さんが入る部屋は改装する予定だし、女房は妙に張り切ってる。こちらの受け入れ準備は万全だよ。ところで、人美さんは今日はどうしているかね?」
「ええ、友達と荒崎海岸に遊びに行っています」



 人美と彩香は海の家の座敷を陣取り、かき氷を食べていた。
 人美たちのお気に入りの場所から海のほうへ下って行くと、ほんの僅かだが砂浜がある。そこにはテントがいくつか張られ、日光浴をする人やバーベキューをする人たちで、若干のにぎわいをみせていた。二人が今いる海の家は、その砂浜にポツンと一軒だけたたずむ、こぢんまりとした海の家だった。
「彩香、受験する大学もう決めたの?」
「んーん、まだだよ」
 彩香はかき氷を食べるのに夢中だった。
「のんきね。普通の高校三年生は、今ごろは夏季講習なんかに出たりして、忙しい勉強の毎日を送っているものよ」
 人美がいたずらっぽく言うと、彩香はスプーンを動かす手を止めて答えた。
「それはそうなんだけどね。でも、受験は再来年でもできるじゃない。でも、でもね。人美とこうやって過ごせる夏は、この夏が最後になるかも知れないし……」
 彩香は少しさびしそうな顔をして続けた。
「だったら、私は人美といることのほうが大事よ。だって、人美は私の親友だもの。赤毛のアン風に言えば、心の友ってところね」
 人美はとても幸せな気持ちだった。目の前にいるこの少女は、彼女自身の大学進学のことよりも、自分といることのほうが大事だと言ってくれている。今までにも多くの感動をしてきたが、自分のことを気遣ってくれる友人が、今、確かに目の前にいるということは、最大級の感動となって人美の心を打った。
「彩香、ありがとう」
 人美の目からは涙が溢れ出ていた。
「やだ、人美。何も泣くことないじゃない。そんなに感動しちゃったの?」
 彩香は少しおどけてみせた。
 それもあるけど
 人美は思った。
 それもあるけど、それだけじゃない。それだけじゃない何かが。そのせいで涙が出てくるの。どうして、何でなの



 白石会長の書斎には既に沢木と秋山が到着していた。初対面のあいさつを済ませた彼らはそれぞれ席についた。見山の正面に沢木が座り、その横には秋山が。白石は少し離れた机のところにある、肘掛け椅子に腰掛けた。
 沢木は見山をじっと見据えてその風貌を観察していた。やや太目の体形と、薄くなった白髪混じりの髪の毛、眼鏡をかけた四角い顔。その顔は人のよさそうな、正直そうな印象を沢木に与えた。おそらく今までの人生を実直に、真面目に生きてきたのだろう。沢木はそんなことを思った。
 一方、見山も沢木の人物像を考えていた。何しろ、大事な娘の極めてデリケートな問題を扱う人物なのだから、その人物について強い関心を持って当然である。見山が最初に思ったことは、この男は一体いくつなのだろうか、ということだった。外見だけなら二十代後半くらいでも通用するような若々しい顔をしているが、そんなに若いとも考えにくい。いかにも賢そうな、頭脳明晰そうな顔をしている。白石があれほど信頼している人物なのだから、自分も信頼していいのだろうが、上辺のおとなしそうな外見とは違う、何か激しいものを持っているように思えた。それは何なのだろう……
「それではいろいろと質問をさせて頂きたいと思います」
 沢木が言った。
「分かりました。どうぞ、何なりと質問してください」
 見山は神妙な趣で答えた。
「では、まず人美さんについてですが、見山さんが手紙に記された四件の出来事以外にも、何か類似したような出来事は起こっているのでしょうか。どんな些細な出来事でも構いません、何かあればお話ししていただきたいのですが」
「いいえ、私の知る限りではほかには何もないです。私もいろいろと思い出そうとしたのですが、あれ以外には何も起きていないと思います」
「そうですか。人美さんはどんなお子さんですか」
「んーん、そうですね」
 見山の表情が心なしか明るくなった。
「人美はまず感性のとても豊かな子だと思います。そして、想像力の豊かな子だと。人美の好きなことは、読書にピアノ―これは小学校に上がる前から習わせてまして、ちょっとした腕前なんです。それから絵もたまに描いています。色鉛筆を使って淡い色彩の絵を描いていますね、主に風景画です。人美はそういった、空想とか、創作といった作業をするのが大好きな子です。後はテニス、硬式テニス部に入っていました。三年生の部活は夏までで終わりだそうで、とても残念がってました…… そうそう、この夏はいつになくよく海に遊びに行ってますね。何でも素潜りに凝っているとか。海の中で見た光景のことをよく聞かせてくれます」
「性格は?」
「明るくて、気持ちの優しい子です。人の悪口を言ったのを聞いたこともないですし、友達とトラブルを起こしたようなこともないと思います。人美はどうも同性から好かれるタイプのようで、きっと男の子っぽいところがあるからだと思うんですが、友達グループのリーダー的存在のようです。そう、今の人美を一言で表すのなら、男の子っぽい子です」「小さいころはどんなでしたか、手紙によると小学校のころは人見知りが激しかったとありますが」
「中学校に上がるまではとてもおとなしい内気な子でした。一人で本を読んだり、絵を描いたり、とにかく友達と遊ぶことよりも一人でいることのほうが好きな子でした。それでも六年生の時には、一人だけ仲のいい子がいたのですが、手紙のとおり、あの事件の後どこかへ行ってしまいました」
「そういうおとなしい性格は小学校に上がる前からですか」
「そうですね。いじめの原因もおそらくその辺にあるのでは? と思います」
「すると中学に入ってから、徐々に今の人美さんに変わっていったということですね」
「ええ。中学に入学してからは物事に対して積極的になってきました。友達を作ること、学校の勉強や部活動、このころからテニスを始めました。それからピアノ。実はそれまでは何度となく止めたいと言ったことがあったのですが…… いずれにしても、人美は中学から変わり始めました」
「何がそうさせたのでしょう。心当たりはありませんか」
「分かりません。私も妻も特別何かをしたわけではありませんから。ただ、未だに付き合っている友人ができたことが、一つにはあるのかも知れないです」
「参考までに名前をお教えいただけますか」
「その娘は泉彩香さんといいまして、家の近所に住んでる娘さんです。小学校も一緒だったんですが同じクラスにはならず…… 二人はとても馬が合ったようです。何しろ進学する高校も二人で相談して決めたようですから。実は、今日もその娘さんと荒崎海岸に遊びに行っているんです」



「やっと元気になったみたいだね」
 彩香は人美の肩に手を添えながら優しく言った。
「ごめんね。何だか急に悲しくなっちゃって」
 人美は彩香の顔を見た。彼女は黙って微笑んでいた。
「実はね、彩香に聞いてもらいたいことがあるの」
「なーに、急にあらたまっちゃって。さては恋の相談とか。好きな人でもできたの?」
 彩香はわざと見当外れなことを言ってみた。彼女には何となく予想がついていた、人美に何かが起きているということが。
「うーん、それならいいんだけど…… そうじゃなくてね。最近同じ夢を見るの、しかも一晩に何度も何度も」
「どんな夢なの。怖い夢?」
 人美は夢のことを話し始めた。

 少女は薄暗い浜辺の波打ち際に一人たたずんでいた。優しくも冷たい穏やかな波が素足の足に触れていた。少女の頬には、海から吹く生ぬるい少し湿った風が当たっていた。辺りの景色は霧がかかっていてよく見えなかったが、沖合の小さな灯台の小さな灯が、わずかに見え隠れしていた。
 少女は、そう、それは自分、人美だった。
「誰か、ねえ、誰かいないの。お父さん! お母さん! 彩香! 誰か、誰か返事をしてよ。私はここにいるのよ!」
 少女は耳を澄ました。だが、その返事に答える者はいなかった。不安、さびしさ、孤独、恐れ、そんな感情が沸き出してきた。
「帰りたい。早く家に帰りたい」
 少女は全力で走り出した―この感情から逃れるために。しかし、走っても走っても、少女の目に映る光景は変わらなかった。やがて少女は息を切らし、膝を突き、腕を突いた。「どうして誰もいないの。誰か返事をしてよ!」
 気が狂いそうだった。一体どうしたらよいのか、何をどうすれば状況を変えることができるのか、もはやその判断力は失われていた。
 その時、少女の背後から地響きのような低い枯れた声がした。
「私ならここにいる」
 少女には後ろを振り向く勇気はなかった。恐怖に体は震え、血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「私ならここにいる。ここにいる。ここにいる」
 その声は徐々に少女の背後に迫って来た。
 もうだめだ、終わりだ。これで、これでもう終わりなんだ
 少女の心を絶望が支配していた。
「私はここにいる。さあ、振り向いてごらん。私はここにいる」
 その声はますます近づいて来た。少女はすべてをあきらめて振り向こうとした。
 その時、少女の前方から何かが近づいて来た。
 人? 誰、男の人
「振り向いてはだめだぁ! さあ、こっちへ来るんだ!」
 少女はその声の方に手を伸ばした。男も手を伸ばした。
 もうちょっと、もう少しで手を握り合うことができる。あの手を掴めば、私はここから逃げられる!
 穏やかだった波が急に激しく怒り狂い始めた。
「私はここにいる。さあ、振り向いてごらん。私はここにいる」
「振り向いてはだめだぁ!」
 少女は必死に手を伸ばした。
 後もう少し、ほんの僅か
 二人の手は触れる寸前だった。しかし―
 しかし、大きな波が少女をのみ込んだ。少女は波に翻弄されながら苦しみ悶えた。そしてほんの一瞬、波の隙間から背後に迫っていた声の主の姿を見た。
 それは…… それは人美だった。

 彩香はじっと人美の話しに聞きいっていた。そして彼女が話し終わり、プルプルと震え出すと、その肩を強く抱き締めて力強く言った。
「大丈夫よ、人美。何も心配しなくても大丈夫。ただの夢よ、夢。人美、想像力豊だから、怖い夢を見たのよ」
 自分が何の説得力もないことを言っているということが、彩香には分かっていた。しかし、怯える人美を目の前にして、今はこれ以外に言葉がみつけられなかった。



「それでは、今度は四件の出来事についてお聞きしたいのですが」
 沢木は質問を続けた。
「最初の出来事の発端は、人美さんがいじめられることに始まるわけですが、この加害者について、人美さんは何か言っていましたか」
 見山は当時のことを思い出そうと考え込んでいた。
「んんー、そうですね。確か、怖い、と言っていました」
「こわい」
「そうです。人美はなぜ自分がいじめられなければならないのか分からない、彼女のことが怖い、そう言ってました」
「憎しみを表すような言葉を言ったことはありませんでしたか」
「それはないです。先ほども言ったように、人美は人のことを決して悪く言う子ではありませんから。ただ、いじめをする女の子のことを恐れ、怯えていました」
「いじめの具体的な内容については、何か聞いてますか」
「ええ。いじめは最初、人美を仲間外れにすることから始まったようです。ただでさえ人見知りをする人美が、そのような状況の中で味方となる友達を作れるわけがなく、孤独が最初に人美を襲いました。それから、掃除当番を人美一人に押しつけたり、自分たちの嫌いな給食をむりやり食べさせようとしたり、細かいことを言い出したら切りがないです」「暴力を奮われたりということはありませんでしたか」
「どうでしょう、そこまではなかったと思いますが。ただ、言葉の暴力や無視されるということに、人美は打ちのめされていました」
「そして、ついに学校に行かなくなった」
「そうです」
「その時、家ではどのように過ごしていたんですか」
「ほとんどを自分の部屋にいました。自分の好きなことをやって、気をまぎらわしていたようです」
「加害者である少女が行方不明になったということを知った時には、人美さんはどんな反応を?」
「人美にそのことを伝えたのは私ですが、これといった反応は特になかったと思います。ただ、素直に私の言うことを聞いていました」
「その後すぐに学校へ行くようになったのですか」
「いいえ。その後しばらくして夏休みに入りましたので、学校に行き始めたのは二学期になってしばらくしてからでした。ある朝突然学校に行くと言い出しまして。それからは休むことはなくなりました」
 沢木は興味を持った。
 なぜ、突然
「その、ある朝突然とは、いつのことか覚えていられますか」
「いいえ、覚えてないです」
「そうですか」
 沢木は期待を裏切られた気がした。
「ところで、その後いじめはなくなったのでしょうか。加害者は集団のようですが」
「人美の姿から想像する限りでは、なくなったと思います」
「幼女連続誘拐殺人事件については何か言ってましたか」
「いいえ。おそらく、その事件のことはよく理解できてないと思います。七歳の子供が新聞やニュースを見ることはないですし、私も妻も知らない人には気をつけなさいよ、といった程度の注意をしただけですから」
「そうですか。では、次のいたずら事件ですが。人美さんはこのことにより相当のショックを受けたようですが、口を利かなくなったのはどれくらいの期間なのでしょうか」
「被害者の女の子、つまり人美の友達が引っ越してしまった直後から、三、四週間くらいの期間だと記憶してます」
「人美さんは事件について何か言ってましたか」
「事件のあった直後に、友達がかわいそう、とだけ言っていました。口を利くようになってからは、もう事件の話題は人美も私たち夫婦もしませんでした」
「人美さんは事件を起こした教師のことを好意的に思っていたようですが」
「ええ。事件前までは、担任の先生はとても優しくて、分かりやすく勉強を教えてくれると言っていました」
 沢木はタバコを口にくわえると、ライターを取り出した。シュッ、シュッ、シュッっと、安っぽい音を三回発した後、四回めの音にしてようやく火が灯った。
 百円ライター? この男、かなりの高給取りなのだろうに
 見山はふとそんなことを思った。一服めの煙を吐き出した沢木は言った。
「今までのお話を聞いてますと、人美さんは自分のことをよく両親に話すお子さんのようですね」
「ええ。人美と私たちの親子関係はとてもうまくいっています。それは昔も今も変わりありません」
「そのようですね。ところで見山さん、質問ばかりされてお疲れになりませんか」
「いいえ、私は大丈夫です。人美のためなら、私はできる限りの質問にお答えします」
 見山は沢木の目を見ながら真剣な表情で言った。
「沢木さん。人美にはやはり特殊な能力があるとお考えですか」
 沢木は思った。
 この男はどういう返事を待っているんだろうか。肯定? 否定? あるいは、娘には何か得体の知れない力があると確信しているんだろうか?
 沢木はあえて挑発的な意見を言った。
「どうなんでしょうね。超能力とか、まあ、そういった超自然的現象の存在とは、海のものとも山のものともつかない未知の領域ですから、現段階では想像や推測をすることしかできないでしょうね」
 見山はその挑発に乗ってきた。
「では、どういう想像や推測をしているのですか。ぜひ、聞かせていただきたい」
 今度は惚けてみた。
「まあ、あるのかも知れないし、ないのかも知れないし……」
 見山は完全にいらついていた。
「そんな! とても科学技術の最先端にある人物の発言とは思えませんね。いくら未知なることとはいえ、もう少しまっとうな見識をお持ちにはなっていないんですか」
 二人の会話を隣で聞く秋山には、沢木の意図が見えていた。秋山は尋ねた。
「では、見山さんはどういう答えをお望みなのですか」
 白石は半ば呆れた顔をしていた。
「あなたがたは、私が思っていることは単なる妄想だ、と言いたいんですか」
 見山の顔は紅潮していた。
「白石さん。本当に彼らを信頼してもいいんですか!?」
 白石は穏やかに、諭すように一言言った。
「見山君。君は彼らをおいてほかに誰を信頼しようというのかね」



「そうだぁ!」
 彩香が突然声を張りあげた。
「人美。私、今晩人美の家に泊まりに行ってあげるよ。二人でいれば、怖い夢、見ないかも知れないし、少しは安心して寝られるでしょう」
「うん、そうしてくれるのは嬉しいけど、いいの」
「あったりまえじゃない。そうしよう、決めたっ!」
 なんとも頼もしい友人である。二人が出会ったのは運命的なものだったかも知れないと人美は思った。
 思えば、それまでの自分は人と接するのが苦手で、なかなか心を許せる友人ができなかった。六年生の時に、やっとそれに近い友達ができたがすぐに失ってしまった。もう自分には友達はできないんじゃないか? そう考えていた。中学に入学した時には、小学校に入った時の記憶が蘇ってきた。ぼやぼやしてると、また友達を作る機会をなくし、またいじめられるかも知れない。勇気を出して、勇気を出して友達を作ろうとしなくては―
 ある朝、人美は中学に行く途中で同じクラスの女の子を見かけた。人美は勇気を出してその子に声をかけた。「おはよう」―細く弱々しいその声に少女は振り向くと、にっこりと微笑んであいさつを返してきた。以来、その少女との間に友情が生まれ、人美は変わり始めた。
 ほんの少しの勇気があれば、本当に僅かの勇気さえあれば、人は変わることができる。その時人美はそれを確信した。何ごとにも積極的に取り組むようになったのはそれからだった。今では小学校の時が嘘のようだ。多くの友達に恵まれ、その中には彩香という親友もいる。どんなことでも話し会える、かけがえのない友達がいる。
 まず、勇気を持つこと、そして勇気は人生を切り開いてくれるもの。いつしかこれが人美の哲学となり、彼女の長い艶やかな髪は惜しげもなく短く切られた。それは、決意の証だった。
 人美は思った。
 もしもあの時、彩香が振り向いてくれなかったら今の自分は存在しない。ありがとう、本当にありがとう、彩香



 沢木は質問を再開した。
「さて、次は初恋と自殺の件ですが。人美さんの恋が実らなかったということは、どうしてお知りになったんですか。これも人美さん自身からお聞きになったのでしょうか」
 見山は憮然とした表情をしながらも、言葉は丁寧に、冷静を努めていた。
「いいえ。それは彩香さんから妻が聞いたんです。彩香さんとは私たち夫婦も親しくしていましたので、ある時妻がそれとなくした質問に答えてくれたようです」
「人美さんも当然そのことを知っていたんでしょうね。つまり、自分の好きな人には別の交際相手がいるということを」
「ええ、知っていたはずです」
「それ以後は、初恋相手の男の子や、その女の子と関わることはなかったのでしょうか」「多分、なかったと思います」
「自殺の一件は人美さんも知っているわけですよね」
「ええ、随分話題になりましたから」
「何か言っていましたか」
「死ぬことはないのに、というようなことを言っていたと思います」
「そうですか。初恋相手の名前、お分かりになりますか」
「えーと。確か、やま…… 山本雄二といったと思います」
「ところで、人美さんの失恋から少女の自殺までの間には時間差があるようですが、それは具体的にどれくらいの期間なのですか」
「初恋云々の話しがあったのは、確か、高校二年の九月ごろだと思います。少女が自殺したのは二月ですから…… えー、五カ月間ですか」
「なるほど。では、最後の自動車事故の件ですが、この時見山さんの車に乗っていたのは何人ですか」
「私に人美、彩香さんに同級生の男の子一人、全部で四人です」
「人美さんは眠っていたわけですね。泉さんは?」
「ああ、彩香さんはもう死んだように眠ってました。よほど飲んだらしいので」
「すると起きていたのは見山さんと男の子一人、ということですね」
「ええ、そうです」
「となると自動車事故のことを知っているのも、見山さんと男の子ということになりますが」
「そのとおりです」
「見山さんは、人美さんは事故のことに気づいてないとお考えのようですが、その男の子から聞いて知っているのではないですか」
「そうかも知れないです。口止めをしたわけではありませんし、そんなことをすれば余計話しが面倒になると思いました。ただ、人美も彩香さんも、その後何も言っていないので、私は素直に知らないのだな、と考えていました」
「なるほど。で、その時人美さんは確かに“そうよ”と言ったのですね」
 見山は自信に満ちた表情で答えた。
「ええ、これは間違いありません。その言葉の響きは今でも鮮明に覚えていますから」
 そして、声のトーンを落として続けた。
「人美が“そうよ”と言った瞬間、男たちの車のエンジンが異常なほどの轟音を発し、私は彼らのほうを見ました。その時私が見たものは、顔をひきつらせて恐怖に怯える三人の男の顔でした……」
 見山はその顔を思い出したのか、顎が小刻みに震えていた。カツカツ、カツカツと― 沢木はこの時感じた。この見山という男は、過去の出来事の事実がどうであれ、既に自分の創りあげた世界に入ってしまっていると。そこで、沢木は質問の方向を変えることにした。
「なるほど、よく分かりました。さて、今度は見山さんと奥様の話をお伺いしたいのですが。まず初めに、奥様は見山さんが思っているような疑問を感じてはいないのでしょうか」「妻が? まさか。妻はそんなこと、夢にも思ってないでしょう」
「では人美さんについて、ある種の疑惑を持っているのは見山さんお一人なわけですね」「ええ、そうです」
「見山さん自身は、これまでの人生の中で何か不可解な体験をしたことがありますか。あるいは、奥様がされた体験を聞いたことがあるとか」
「いいえ、全くないです。妻からもそのような話を聞いたことは一度もありません」
「例えば、正夢とか虫の知らせとか、そういったものもないですか」
「んーん、なかったと思いますが」
「そうですか」
 沢木は身を前に乗り出して言った。
「実はですね、見山さん。私は見山さんがお書きになられた手紙を読んで、四つの可能性を考えたのです」
 やっとまともな意見が聞けるかな
 見山はそう思い、沢木の顔を期待を込めてじっと見つめた。
「まず一つめは、これらの出来事が全くの偶然により生み出されたものであるということ。二つめは見山さんの想像どおり、人美さんが何らかの力を持ち、それを無意識のうちに使ったということ。三つめは何か別の力―例えばオカルト的なものであるとか、そういった力です。そして、四つめは」
 沢木は見山の目を見据えた。見山は顔をこわばらせている。
「人美さん以外の人間に特殊な能力があるということです。例えば、見山さん、あなたにその力があるとか」
 白石と秋山ははっとして沢木の顔を見た。見山は驚愕の表情をし、かぶりを振りながら言った。
「ま、まさか、そんな……」
 沢木は見山の言わんとしている先を読んで言った。
「まさかそんなことがあるわけないと」
 見山は首を縦に振った。
「しかし、見山さんは人美さんに超能力があるのでは、と考えているわけですから、その論理からいけば、見山さん自身に超能力があると考えてもいいはずです。ご自分でそう考えたことはありませんか? あなたはすべての事件について、その背景をよくご存知だ。人美さんのことを守りたい、守らねばという心理は絶えず働いていたはずです。その時に、見山さんの隠された力が発揮されたと考えても、あなたの論理なら不思議ではありません」
 思ってもいなかった沢木の言葉に茫然自失となった見山は、何も言わずに窓の外をぼんやりと眺めていた。その窓からは、沈みかかった太陽の光が入り込み、白石の書斎をオレンジ色に染めていた。沢木は立ち上がって見山と窓の間に立ち、彼の視界の中に強制的に入って行った。
「見山さん、よく聞いてください」
 沢木は見山に一歩近づいた。
「私がなぜこのような推測を言ったのか、その理由はあなたがお書きになった手紙や先ほどの感情的な言動にあります。私はそれらに接しているうちに、あなたは、人美さんが不思議な力を持っているということを、半分では否定しながらも、もう半分では確信していると思ったのです。つまり、あなたは真実が何か、という以前に、既に自分で創りあげた世界の中に入ってしまっていると…… そんなあなたは、人美さんのことをとても恐ろしく思う、と手紙に書き記しています。ですが、私に言わせればその考えは間違いです。すべては状況だけで、さしたる証拠もなく、あなたは自分の娘を疑っている。そうした心理が無意識のうちに表に表れ、それを人美さんに悟られることを私は危惧するのです。あなたが一つの可能性を示唆するのなら、私はそれ以外にも可能性があることをあなたに理解していただきたい。そして、人美さんに対するその先入観を、まず、取り払ってもらいたいのです。過去に起こった四件の出来事には死者も出ているわけで、それは軽々に論じるような事柄ではありません。もちろん、あなたがことの真実を知るために、立ち上がったことには敬意を表します。そして、人美さんのことを心から思う気持ちも想像できます。しかし、現段階においては、誰にも超能力はないし、過去の出来事は事象の一つに過ぎないのです。そのことをよく理解しておいてください」
 沢木はそう言い終わるともとの席に座った。見山はしばらく顔を伏せながら、物思いに耽っているようだった。そして、沈黙の時が流れた―
 見山は娘にすまない気持ちで一杯だった。娘の身を案じていたこと、それは間違いない。しかし、この沢木という男の言うとおり、自分は勝手な思い込みで娘を疑い恐れていた。海外赴任の話しを受け入れたのも、人美から逃げたい一心からかも知れない―想像から、あるいは妄想から。それは、父親として失格なのだろうか。もしも、もしも人美が自分の思っていることを知ったら、どんなに傷つくだろう。そんなことを考えていると、彼の目には涙が込み上げてくるのだった。
 秋山は見山にそっとハンカチを手渡した。沢木は言った。
「見山さん。何よりも大切なことは、信じるとか、信じないという以前に、真実とは何なのか、それを知ること、それを知るための努力をすることだと私は考えます。そして、その努力を、私は人美さんや見山さんのためにするつもりです」
 見山はハンカチを目に当てたまま、つぶやくように静かに言った。
「ありがとう、沢木さん」



 人美と彩香はお気に入りの場所に並んで腰掛け、海に沈み込もうとしているオレンジ色の光の塊を眺めていた。海は夕日に照らされ、人美たちに向かって真直に伸びる光の絨毯を造り、空には赤く焼けた雲が浮かび、沖合の小さな灯台は、蜃気楼のように光に揺らめきながらたたずんでいた。
「ねえ、彩香。私って、変」
 その唐突な質問に彩香はたじろいだ。
「な、何よ。突然」
 人美は夕日を見ながら静かな口調で語った。
「私ね、漠然とだけど時々思うことがあるの。私には何かほかの子にはない力があるんじゃないかって」
「何でそんなこと思うの? 怖い夢のせい」
「んーん、そうじゃないけど。ただね、時々急に怖くなったり、悲しくなったり―さっきみたいにね。それから、直感、というのかな、それがよく当たったり。そんなことを考えてると、私、自分はほかの人と違うんじゃないかって思うの」
 彩香は人美のすぐ脇に座り直して言った。
「考えすぎよ、人美。急に悲しくなったりすることは私にだってあるし、怖い夢を見ることだってある。なんか今日はやなことが起こりそうだなぁ、と思うとそのとおりのことが起こったりすることもあるよ。まあ、確かに人美の感はよく当たるとは思うけど、それは結局、ただの偶然よ、ぐーぜん。人美は普通の女の子よ」
 人美は少しほっとした。
 そうだよ。少し考え過ぎだったかも知れない。そうだ、考え過ぎだ。でも、いつからこんなこと考えるようになったっけ。そうだ、先週の土曜。襲われた日からだ……
「人美、人美」
 その呼び声に人美ははっとして答えた。
「ええ、なーに」
「もう、人美、しっかりしてよ。もうじきおじさんとおばさんはアメリカに行って、人美一人になるんだから」
 そうだ、そうだった。変なことで悩んでいられない。心配かけないためにも元気を出さなくっちゃ
 人美は最大級の作り笑いをして彩香に言った。
「ええ、そうね。元気を出すわ」
 でも、でもやっぱり気になる……



 見山の乗った車が走り去って行くのを、沢木は感慨深げに窓越しから眺めていた。
「全く意外な展開だったよ」
 白石会長は沢木の横に立つと、去り行く車を見ながら言った。
「まさか、ああいうことを君が考えているとはね。で、沢木。次はどうするのだ」
「取り敢えずは手紙に記された出来事を調査します―あっ! そうそう。片山の下見は終わりましたか?」
「ああ、明後日辺りに技術スタッフを連れたまた来るそうだ」
「そうですか」
 この時、沢木の腰に備えられていた携帯電話が鳴った。
「はい、沢木ですが」
「もしもし、渡辺です」
「ああ、ご苦労様です。何か収穫はありましたか」
「あったなんてもんじゃありませんよ。非常に興味深い事実が出てきました」
 その声は心なしか緊張しているように思えた。
「どういうことでしょう」
「ええ、まあ詳しいことは後日報告ということで。二、三日このまま調査を続けますので、承知しておいてください。本社へも出社しませんので。それでは―」
「あっ、もしもし」
 既に電話は切れていた。
 興味深い事実? 一体……
 沢木はそんなことを思いながら、背筋からじわっと冷気が入り込むのを感じていた。



 それから二日後の八月三日、木曜日、午前十時。片山は沢木組の技術スタッフ七名を引き連れて、白石会長の家を訪れていた。理由はもちろん、人美が入居予定の部屋にPPSなどを設置することにあった。
 片山たちの作業を興味深げに見守っていた白石会長が尋ねた。
「これが特製のエアコンかね」
 片山は大きな段ボール箱からエアコンを取り出しながら言った。
「そうです」
「どの辺が特製なのだね」
「観測の妨げとなる不必要な電波が漏洩しないように、カバーの内側をアルミと電波吸収塗料でコーティングしてあります。まあ、これでもある程度は漏れるんですが、ないよりはましです。それから、屋外機も同じような処理がなされ、さらに観測データを送信するための発信機が内蔵されています」
「んんー、なるほど」
「そのほかにする作業は、照明器具の変更、電源周りのコーティングなどです。後は人美さんが電化製品をあまり持ち込まないことを祈るのみです」
「PPSはどこに取り付けるんだ」
「天井です。PPS(長さ五センチ、直径一.八センチの円筒形をしている)を三つ一組とし、それを八組、円を描くように天井に埋め込みます。もちろん、PPSを隠すための偽装も行いますから、人美さんに気づかれる心配はないでしょう。そして、その円を一つのセンサーに見立てて観測を行うわけです。これでかなりの感度が期待できます」
「なるほど。で、作業は後どれくらいかかる」
「一応三時を目標にしています―ご注文の改装のほうは、明日行いますので」



 人美はすがすがしい朝を向かえていた。一昨日の晩に彩香が泊まってくれて以来、二晩怖い夢を見ていなかったからだ。怖い夢を見なくなった、ということも逆に気になることだったが、ぐっすりと眠れることの幸せにまずは満足していた。
 人美には今日もやることがたくさんあった。彼女はとても忙しく、退屈という言葉をすっかり忘れている。彼女はベットの上で眠りの余韻を覚ましながら、今日は何をしようかと部屋の中を見回した。部屋の片隅にはいくつかの段ボール箱が置いてある。引っ越しの準備は大体終わっている。後は衣類や細々としたもの、本棚の本、それにお気に入りの縫いぐるみ―背丈が七〇センチくらいのスヌーピーと小さなウッドストック―などを詰め込むだけだった。
 どうしようかなぁ
 例えば読書。彼女の本棚にはたくさんの本があるが、それは専門書がほとんどである。動物、自然、宇宙、進化、恐竜、音楽、宗教など、少しでも興味を持ったものはすぐに本を買ってきて読んでいた。そして、それらの本から得た知識やイメージを頭の中でさまざまに組み合わせ、想像し、自分の精神世界を広げていった。
 現在の一番の関心事は、海で暮らすイルカやシャチ―クジラはちょっと苦手だった。なぜなら彼らは結構グロテスクだから―にあった。人美はよく彩香に彼らのことを話した。イルカやシャチはクジラの仲間であり、大きく二つに分けられたグループのハクジラ類に属していること。クジラの定義は噴気孔と水平な尾を持つ水生哺乳類であること。彼らは高い知性とコミュニケーション手段を持ち、そのコミュニケーションは数百キロ離れた距離でも可能であるということなどなど―しばらくは興味を持って聞いてくれる彩香も、さすがに一時間近く話しが続くと、夢うつつの状態になってしまうようだった。
 人美は不思議だった。なぜイルカは音波を操る能力を持ったのだろう? その不思議をいつか解き明かしたいと思っていた。
 また、彼女は絵も描くし音楽を創ったりもする。それらはまったくの自己流で、技術的には未熟なのかも知れなかったが、創作作業は溢れる精神世界のはけ口だった。さらに、運動も好きで、最近はマウンテン・バイクを乗り回している。通学にも使っている彼女の愛車は、赤いメタリック塗装のフレームを持っていた。週に一度は必ず洗車をし、スポーク一本一本に至るまで奇麗に磨きあげた。彩香はよく、そんなに磨くと磨り減っちゃうよ、とからかっていたが、人美は自分の行動範囲を広げてくれるその愛車をとても大事にしていた。
 ああ、今日は何をしようかな。海に行こうか―でもあんまり日焼けするのもなぁ
 人美は平和な日常を取り戻していた。しかし、いつまで続くのだろうか。



 沢木は第六開発室に入って行った。その部屋の片隅では、岡林がコンピューターとの格闘の真っ最中だった。沢木は岡林の背中を軽くひと叩きして言った。
「どうだ、進み具合は」
 岡林はコンピューターのキーボードを叩きながら答えた。
「ええ、なんとか間に合いそうです」
「そうか、ご苦労さん」
「ただですね、脳波の再合成過程でノイズが入ってしまうことがあるんです。どうも、分解された波形の選別定義がいまいちあいまいのようなんです。もっと融通の効くプログラムでないと、現場では対応できないかもしれません……」
「んー。で、今はどういう仕掛けを考えてるんだ」
「はい。PPSでとらえた信号をこのプログラムで分解し、脳波成分だけを抽出します。それを別のコンピューターで合成処理させようと思っています」
 沢木は腕組みをし、しばらく思考のための沈黙に入った。そして―
「それならば、いっそASMOSにフーリエ解析機能を持たせてみてはどうだ。そうすればあいまいな選別定義に対しても、ASMOSが経験から学習したパターンにより、フレキシブルに対応してくれるはずだ」
「なーるほど、そうなると学習時間が問題になりますよね」
 岡林は隣にある別のコンピューターの前に移動しながら言った。
「ちょっと、試算してみます。えーと、ASMOSのハードの処理能力がこれで、パラメーターが……」
 沢木は試算結果の表示されたCRTをのぞき込んだ。
「六七.五時間か、約…… 三日ってところか」
「そうですね。実際には被験者が常に部屋にいるわけではないですから、これよりももう少し時間がかかるでしょうね」
「そうだな、一週間くらいは大した観測はできないかも知れないな。まあ、急ぐ旅ではないんだ、人美さんが白石邸に入ってからはじっくりやるさ」
「となると、後はPPSがどこまでやってくれるか、センサーの魔術師のお手並み拝見といったところですね」
 沢木は微笑みながら言った。
「多分、片山も俺たちのお手並み拝見と思っているだろうよ」
 岡林は苦笑した。



 午後一時。沢木は自分のオフィスでIBMのコンピューターに向かい、葉山の計画本部に運び込む機材リストを作成していた。その時、直通電話のベルが鳴った。
「はい、沢木ですが」
「渡辺です」
 やっと連絡してきたか
「ああ、どうしていたかと思っていましたよ。そろそろ成果を伺いたいのですが」
「ええ、ちょうど一区切りついたところですので、社に一度帰ろうと思っていたところです」
「そうですか。では夕方辺りから会議を開きその時にでも―時間は後でオフィスのほうに連絡いたしますから」
「了解。二時までには戻ります」
 電話を切ると沢木は思った。
 さあ、何が聞けるのか楽しみだ



 午後五時三十分。沢木のオフィスにスタッフが集まった。
 沢木が言った。
「片山。PPSの取り付けのほうはどうなった」
 葉山から戻ったばかりの片山が答えた。
「予定より時間はかかったけど無事完了、テスト結果も良好だ。同行したスタッフには固く口止めしておいた」
「そうか、ご苦労さん。それではまず、私のほうからの経過報告としては、見山哲司氏に一昨日会ってきた。これから配るのはその時の会話を録音したものを文書化にしたものだ。松下さんと桑原さんには既にお渡ししてあるので、残りの者に配る。よく読んでおいてくれ」
 ざわざわと紙がうごめく音がやんだ後に沢木が続けた。
「それから、葉山の計画本部の場所が決まった。明日、機材の搬入及び設営を行いたいと思う。が、その件は後に回そう。ちなみに、本部となる借家は松下さんの個人名義で契約した。相模の重役という設定で」
 岡林がからかうように言った。
「松下さんが重役ねー」
 松下の険しい視線が岡林に飛んだ。彼はまた余計なことを言ってしまったと思った。
「岡林。観測システムのほうの経過を、簡単にみんなに説明してくれるかな」
「はい。えー、システムのほうは土曜日までには完成できると思います。何か問題が生じたり、付加する機能が望まれた時には、随時バージョン・アップで対応していきます。試算ではシステムが稼動してから六七.五時間後から、有効なデータが得られると思いますが、実際には被験者が部屋にいる時間が関係しますので、まあ、一週間くらいは必要かも知れません」
 片山が苦笑しながら言った。
「どうやら今回の計画は、PPS及びASMOS初の臨床実験ということになりそうだな。一石二鳥というのかな」
 松下は不機嫌そうに言った。
「まったくだな。こんな形で使うことになるとは」
 秋山が言った。
「いいじゃありませんか。人美さんを観測することでASMOS用の貴重なデータが得られれば、まったくの無駄ということはなくなるんですから」
 沢木が付け加えた。
「まあ、結果的にそういうことになったな。ある意味で今回の一件はタイムリーな巡り会わせだったかも知れない。もっとも、ASMOSやPPSがなかったら、この件には関わっていなかったかも知れないがな…… さてと、桑原さんは何かありますか」
「いいえ、今のところは特に報告するようなことはありません」
「そうですか。松下さんは?」
「右に同じだ」
 沢木は松下の言葉にうなずいた後、視線を渡辺のほうに向けた。そして、今日二回めの言葉を心に浮かべた。
 さあ、何が聞けるのか楽しみだ
 沢木は言った。
「それでは渡辺さん。どんなことが分かったのか、聞かせていただきましょうか」
「では資料を配りましょう」
 渡辺の作成した資料が全員に配られた。沢木はそれにパラパラっと目をとおした。その資料は奇麗にワープロで印刷されていて、新聞の切り抜きなど―スキャナーを使って取り込まれたもの―が奇麗に添付されていた。また、A4サイズの資料の左端は、ホチキスで三カ所留められていた。沢木はその几帳面な仕上がりの資料を見て、渡辺を意外に思った。沢木は彼のことをもっと粗野な人間だと思っていたのだ。
「最初のページを見てください。これは幼女連続誘拐殺人事件の犯人が逮捕された翌日の朝刊です。見てすぐに分かるように、六体の遺体が犯人の自宅の裏山から発見されています。私はこの件に関して、当時の捜査責任者に会って話しを聞いてきました。その結果、こういう事実が分かったのです」
 全員が渡辺を注目する中、彼の静かな語り口の報告は続いた。
「逮捕後の取り調べに対して、犯人が犯行を認めたのは五件、残る一件については犯行を否認しています。そして、その後の裁判で刑が確定されたのも五件までで、残りの一件は宙に浮いた形となっています」
 沢木が尋ねた。
「どういうことです」
「捜査当局は遺体捜索の際に、五体の遺体を捜していました。なぜなら、奇怪な電話や手紙、むごたらしい被害者の写真など、同一犯の犯行を示すものは被害者宅や警察に送られ、それが五人の被害者の存在を示していたからです。ところが、犯人が遺体を埋めたと自供した場所からは、六体の遺体が発見されたわけです。このプラス1の少女は、行方不明者として警察が扱っていた少女です。当初捜査当局は、この少女についても犯行を追求しました。ですが、犯人はあくまで犯行を否定し、また、犯行を裏付ける証拠も発見されませんでした。もちろん、遺体の状態も他の被害者とは異なっています。他の被害者は皆遺体の一部が切断されたり、焼かれた跡があったりしていますが、プラス1の少女の遺体は完全は形で発見されています。直接の死因は不明ですが」
 渡辺はひと呼吸、間を空けた。
「宙に浮いた一体。これに該当するのは安西真理子。見山人美をいじめていた少女です」 誰も口を開かなかった。渡辺が続けた。
「この当時見山人美は登校を拒否し自宅にいました。登校を再開したのは一九八四年九月十一日火曜日です。学校の記録で調べました。さて、新聞の日付を見てください、同じです」
 岡林がつぶやいた。
「なんてこった」
 ほかの者は沈黙していた。
「安西真理子については、十一年たった今も死体遺棄事件として捜査中だそうです。しかし、実態は迷宮入りでしょう」
 松下が言った。
「謎が謎を呼ぶとはこういうことだな」
 秋山が小さな声を出した。
「安西真理子に何があったんだろう」
 渡辺はクールに一言言った。
「そこまでは分かりませんね。おそらく、誰にも」
 沢木が少し大きめの声を出した。
「取り敢えず報告の続きを聞こうじゃないか。細かいことはその後で話し合おう」
 沢木は渡辺の目を見てうなずいた。
「三ページめはいたずら事件の記事です。この事件が明るみになったのは、被害者の父兄が警察に訴え出たことによります。事件の明くる日、その教師は幼年者への強制わいせつ罪で逮捕されました。精神錯乱を起こしたのは拘置されて三日めのことだそうです。担当警察官の話しでは、それまではまったく異常は認められなかったそうです。四日めには舌を噛み自殺未遂を起こし、ついに精神病院に収容されました。そして一年後、極度の拒食症により衰弱死したそうです」
 片山が言った。
「死者二名か」
 沢木はタバコに火をつけて、ゆらゆらと揺らめく煙をぼんやりと眺めながら言った。
「次の事件は」
「自殺したのは西田純子という子です。彼女は自室の天井からロープをつるし、首をつりました。ところが遺書がなかったのです。こういう場合必ず検死解剖に回されます。そこで検死に立ち合った警察官に話しを聞いたのですが、要点は二点、一つは自殺に間違いないということ、もう一つは妊娠二カ月だったということです」
 桑原が言った。
「つまり自殺の原因は二つあるわけですね。受験失敗と妊娠と」
 秋山が言った。
「それなら、人美さんの関与はないんじゃありませんか。妊娠し悩んでいた、その影響による受験失敗、そして自殺。つじつまが合います」
「ところが、後日談があるんですよ」
 相変わらず渡辺はクールだった。
「西田純子の宿した子の父親は山本雄二という少年です。これは当時の警察の調べで確認されています。その少年なんですが、高校進学後すぐに中退しまして、地元の自動車修理工場で働いていました。ところが事故が起こったんです。ジャッキで持ち上げられた車の下に潜って作業している時に、それが外れて車の下敷きになったんです。幸い一命は取り留めましたが、下半身不随の身になってしまったそうです。彼は現在母方の実家のほうで暮らしているとのことです」
 秋山は沢木の顔を見て言った。
「山本雄二って」
 沢木が答えた。
「んん、見山人美の初恋相手だ」
「そういうことです。これは私の想像なんですが、下半身不随ということはつまり男性機能の喪失ということでして…… その辺が非常に引っ掛かるんですよ」
 片山がせかすように言った。
「最後の件は」
「事故が発生したのは昨年の十月二十四日、日曜日、午後十一時ごろです。事故現場はかなりの急カーブでして、そのカーブの進入口にあるガードレールに事故車は衝突しています。事故の通報は近くの住人からのもので、警察に加えて消防車も出動しています。事故車から火災が発生しているためです。消火後、事故車から三人の男性の遺体が発見されています。さて、この事故には不審点がいくつかあります。まず、事故現場にはブレーキを踏んだ痕跡がありません。たいていは道路にタイヤの摩耗した跡がつくものなんです、急ブレーキを踏んでいれば。そしてもう一点は、なぜ三人とも脱出できなかったのか、ということです。三人の直接の死因は有毒ガスによる中毒死であり、火災によるダメージのためではありません。つまり、彼らを襲った火災は爆発的なものではないわけです。事実、彼らの遺体はあまり傷んでいません―一人ぐらい脱出できてもいいはずです」
 岡林が声を震わせながら言った。
「やばいよ。これって……」
 片山は目を閉じ腕を組ながらささやいた。
「死者六名、身体障害一名か。確かにまずい、まずい気がするな」
 松下が言った。
「しかしだ。へ理屈ではなく実際問題としてまだ確証を得たとはいえない。沢木君、そうだろう」
 沢木は松下の動揺ぶりが手に取るように分かった。なぜなら、彼が前置きをし同調を求めたからだ。
「確かにそうです。状況証拠は完全にそろい、どれも人美さんにサイ・パワーがあるとするならば奇麗につじつまが合う。しかし、まだ確証がない。確証がない限り断定はできない」
 片山が反発した。
「だが沢木、偶然にも限度があるぞ。十八年という間に四件の、それも不可解な出来事に遭遇する可能性は、統計学的に考えたって極めて少ないはずだし、それは偶然の域を超えているんじゃないか」
 岡林が付け加えた。
「そうだよ。具体的な数値は出せないにしても、少なくとも僕らの経験則からしてこれは異常だ」
 沢木は腕組みをし、溜め息を一度した後に言った。
「まあ、そう結論を急がなくてもいいだろう。まだ計画は始まったばかりなんだから」
 秋山が言った。
「でも、沢木さん。仮に人美さんにサイ・パワーがあり、そして彼女が私たちの存在に気づいたとしたら、一体私たちはどうなるんでしょう」
「殺される」
 岡林が青ざめた顔をしてつぶやいた。その瞬間、誰もが背筋から冷たいものが入り込むのを感じた。
 しばらくの沈黙の後、桑原が言った。
「……でも、それはちょっと悲観的過ぎると思います。過去の事例では、人美さんに何らかの危害を加えた者が奇怪な出来事に遭遇しています。少なくとも私たちは彼女に危害を与えることはないはずです。この計画自体、それと悟られないように行うわけですから」
「でも!」
 岡林は桑原の話しをかき消すように叫んだ。
「彼女は予知能力を持っているかも知れない。そして、彼女の正体を暴こうとしている僕らを快く思わなかったら……」
 沢木が静かに言った。
「クールにいこう、みんなクールにいこうよ。今ここで想像や憶測で話しを広げたところで、何も問題は解決されない。我々は科学や技術の世界に生きる人間なんだ。確証を得るまでは中立のスタンスを崩すべきではない。そうだろう岡林」
 沈黙の時間が再び流れた。それぞれの脳裏に不安、恐怖、好奇心の感情が、そして、想像や憶測の思考が駆け巡った。
「それとですね。もう一件気になる事件があるんですよ」
 渡辺が口を開いた。
「まだ何かあるんですか」
 桑原が驚異の眼差しで渡辺を見た。
「これは見山人美と関連があるかまでは分からないんですが、横須賀警察署をうろついてた時にこんな事故の話しが耳に入ったんです」
 渡辺が沢木の顔をうかがった。沢木は言った。
「どうぞ、聞かせてください」
「先週の土曜日の午後七時半ごろ、二人の男性の溺死体が発見されました。場所は三浦市の三戸海岸、見山人美の家から三キロほどの距離です」
「ああ、それなら知っています。酔って海に入ったために溺れたとされている事故ですね」 沢木は日曜の昼に見たニュースを覚えていた。
「そうです。ところがこの事故も実に不可解でして」
「どういったことが?」
「実は、アルコールが検出されたのは二人いるうちの一人だけなんです。一人は体質的に酒が飲めなかったそうですから、当然酔っていたのは一人だけということになります。そこで考えられるのは、酔って溺れた一人を助けるためにもう一人が海に入り、結果二人とも溺れた、ということです」
「そうですね。それが自然な推測です」
「ところが不自然な点がありましてね。その酒を飲めないほうの男なんですが、遺体で発見された時、衣服も靴も身に着けたままなんですよ。酔っていたほうもそれは同じです」「なるほど。普通海に入るなら、緊急時ならなおさら、靴ぐらい脱いでもよさそうですね」「ええ、そうなんです」
「他殺の可能性は?」
「海で溺死させたのなら、そのまま沈めておくはずです。二人の死因は窒息死、外傷はありません。警察も事故以外の可能性は否定しています」
「その二人は住居はどこですか」
「二人とも東京です」
「となると、事故当日以前に人美と関わっている可能性は少ないですね」
「ええ、私もそう考えてます。もしも見山人美と関わるならば事故当日だと」
「二人の足取りは?」
「当日は車でやって来てます。海岸近くの駐車場から車が発見されてますから。現在までに分かっているのは、横横(横浜横須賀道路)を衣笠インターで下り、コンビニとファミリー・レストランに立ち寄ったということだけです。それぞれ車内から領収書が見つかりました」
「それ以上のことも掴めそうですか」
「今は調査中としか言えないですね」
「そうですか。後は見山人美の足取りですね」
「ええ、これから調査するつもりですが、そこでお願があるんですよ。人員を増やしたいんです」
「ああ、そのことは私も相談しようと思っていたんです。人美さんが白石邸に入り次第、二十四時間体制の監視を行いたいと思っていましたから。で、何人くらい必要ですか」
「それならば私以外に四人要りますね。監視役二名にそのバックアップ二名、もう一名は調査要員です。私の部下でやりくりします」
「分かりました。お任せしましょう」
 岡林は恐る恐る沢木に尋ねた。
「あのー、沢木さん。ということはまだやるんですか?」
「もちろん」
 沢木は力強い口調で言った。
「私はこの目でしっかりと真実を見極めるまではとことんやるつもりだ。しかし、この考えをみんなにまで強制するつもりはない。辞退したい者は遠慮なく言って欲しい」
 沢木は全員を見回した。岡林も皆を見回した。誰も辞退を申し出はしなかった。
 岡林は怖かった。見山人美という少女には関わらないほうがいい、関わることは避けなければいけない、そう考えていた。しかし、ここにいるみんなはまだ続けるという。自分には勇気がないのか、自分は情けない奴なのか、それともほかのみんなは狂人なのか、恐怖という感情を持たない変人なのか。さまざまな思いが短時間のうちに駆け巡った。
 でも、僕は仲間を見捨てたくない。それは卑怯なことだ。怖がりと思われるのは構わないが、卑怯者とは思われたくない。そう、松下は無愛想なおやじだがこれまで一緒に仕事をしてきた仲間だ。沢木さんは? 沢木さんはとても頭のいい人だ。きっと素晴らしいしアイデアを持っているんだ。勝算があるから怖くないんだ。秋山さんはとても奇麗だ。それは今は関係ないことだ。ああ、僕は何を考えてるんだ。でも、でも僕は仲間を大切にしたい
 岡林はなんとも頼りない口調で言った。そして、それはユーモラスでもあった。
「まいったなぁ、みんなやるんだ。勇気あるよなぁ…… だったら、だったら僕もやりますよ。みんな死んで僕だけ生き残ったりするのは、僕だけ死ぬよりもっと嫌ですから。みんなの死と呪いを背負ってこれから生きていくなんて考えられないから」
 沢木は思わず笑ってしまった。
 秋山も、片山も、松下も、桑原も、声を出して笑った。
 岡林も作り笑いをした。
 渡辺はクールだった。
「岡林、そしてみんな、ありがとう」
 沢木は言った。
「それではこの計画の呼称を決定する。エクスプロラトリー・ビヘイビア計画だ」
「どういう意味ですか?」
 秋山が尋ねた。
「心理学用語の一つなんだが私の解釈はこうだ。“未知なるものへの探索行動”」



 八月四日、金曜日、午前十一時。白石邸で沢木組建築工学部門のスタッフが人美の部屋の改装作業をしているころ、沢木と秋山、片山、岡林の四人は、松下名義で借り入れた葉山の一軒家に到着していた。一行は三台のワゴン車に分乗し、沢木がリストアップした機材とともにやって来たのだ。
 その家は白石邸から約八〇〇メートル、沢木の自宅からは約一二〇〇メートル離れたところに位置し、近くに小学校と幼稚園がある住宅街の一角にあった。道幅の広い道路沿いに建てられたその家は、道路よりも一段高くなっている土地にたたずみ、正面の玄関へはコンクリートの階段を少し登って行くのだった。家の正面には車が一台駐車できるスペースがあり、左側には小さな庭があった。そこには屋根までとどきそうな背の高い木が三本立っていて、二階のベランダを覆い隠すように枝葉が伸びていた。
 沢木たちが中に入ると、岡林は興味津々といった面持ちで、家の中を隅から隅まで探索した。
 玄関を入ってすぐ正面にはドアが二つあり、右の部屋はダイニングキッチン、左の部屋はリビングになっていて、その二部屋は間仕切りを挟んでつながっていた。二階には六畳の和室と四畳半の洋室が二部屋、計三部屋あり、ベランダへは和室から出るようになっている。
 探索を終えた岡林が、リビングルームにいるみんなのもとに戻って来た。
「なかなかいい家じゃないですか」
 岡林が感想を口にした。
「そうだな。よし、それじゃ部屋の割り当てを決めよう」
 沢木が指示を始めた。
「まず、メインの機材はこのリビングに設置する。二階の和室のベランダには各種アンテナを設置し、部屋の中には通信機器関係を置きラインをここまで引き込む。残りの二部屋は仮眠室に使い、一つは秋山さんと桑原さん用で、もう一つが男性用だ」
「それじゃ、後で僕が鍵を付けといてあげますよ。片山さんがのぞくといけないから」
 岡林は秋山の顔を見ながら冗談っぽく言った。
「ありがとう」
 秋山はそう言って微笑んだが、片山は岡林の額を軽くひっぱたいた。
「よし、機材の搬入から始めよう」
 沢木はそう言って手のひらを打った。
 未知の能力を探るための観測システムは、次ぎのような構成になっている。
 人美の部屋に設置されたPPSは、そこで発生するすべての電磁波をとらえ、そのデータはエアコンの屋外機内に仕込まれた送信機から本部に送られる。受信したデータは解析システムの中枢となる、IBM社製ワークステーション(コンピューター)で処理される。このワークステーションには、沢木たちが開発したASMOS用の処理回路、及び岡林により作成されたソフトが実装されている。ここでさまざまな処理が行われ、人美の脳波が抽出、分析される。

第二章 エクスプロラトリー・ビヘイビア―Exploratory Behavior

 八月七日、月曜日。人美が白石会長宅に入居する日がやって来た。
 人美は両親の旅立ちを見送るために、成田空港の第二旅客ターミナルビルにやって来ていた。彼女の両親は、午後三時三十分発マレーシア航空九三便にて、ロサンゼルスへと旅立つのだった。所要時間は約十一時間。そして、旅のパートナーを務めるのは、ボーイング747400S、SFOSを実装した機体である。
 時刻は午後二時を少し回ったところ。見山一家はターミナルビル内のとんかつ屋で、遅い昼食をとっていた。
 哲司は噛み砕いた食べ物を、お茶で喉の奥に流し込んだ後につぶやいた。
「いまさら言うのも何だが、やはり人美も連れて行くべきだったかな」
「なーに言ってるのよー、ほんとにいまさらね」
 人美はそう言った後に、とんかつを口にほうり込んだ。そして、屈託のない笑顔で口をもぐもぐ―
 母、泰恵が言った。
「人美の言うとおりですよ、あなた。それに、高校はきちんと卒業するべきだと言ったのはあなたじゃないですか。今はもう、人美を信頼してさえいればいいんですよ」
「そうだな、確かにそうだ」
 哲司は心の中で続けた。
 そして、白石夫妻と、あの沢木という男を信頼するしか……
「お父さん。私はしばらくの間、お父さんやお母さんと離れることになるけれど、彩香や白石のおじさんやおばさんもいるし、決して一人じゃない。それに、私、心配をかけるようなことはしないわ。だから、安心して行って来てちょうだい」
 人美は何も案ずることがなかった。むしろ、初めて親元を離れて生活することへの期待に、胸を膨らましていた。
「まったく人美ったら、ちょっとぐらいさびしがってくれたっていいんじゃないの」
 泰恵がおどけた口調でそう言うと、母と娘は笑った。それは、まったくもって明るい平和な家庭の一場面として、他人の目には映ったことであろう。しかし、哲司の脳裏には、その二人の笑い声、人美の輝く瞳、娘を信頼しきっている妻の笑顔、それらが自分だけが知っていることへの当てつけのように思えた。
 俺だって人美を信じてるさ。でも、人美…… いや、それを考えるのはやめよう
 哲司の脳裏に今度は沢木の顔が浮かんだ。
「どうしたの、お父さん」
「んっ、いやぁ、何でもない。お前はしっかりした子だからな、いまさら心配することなんてないな」
「うん! そのとおりよ」
 心配ない、心配なんてすることない。心配なんか……
 哲司は人美にぎこちない笑みを見せながら、胸の奥に何か異物を詰められたような圧迫感を感じていた。



「出て来ました」
 ガラス張りの壁の向こうに見える、駐機中の旅客機を眺めていた渡辺は、その声に振り返った。その声の主は渡辺の部下の一人、進藤章であった。
 進藤は二十八歳の見た目は精悍な男であったが、実際の彼はやや精神的に弱いところがあった。彼がSOPに採用されなかったのも、おそらくその辺なのだろうと渡辺は思っていた。彼の身長は一七五センチ、体格は中肉で、灰色のスーツを着込んだそのこざっぱりとした姿には、元機動隊員の匂いなど少しも漂ってはいなかった。
 そんな進藤と渡辺は、今朝、見山一家が自宅を出発した時点から、人美の監視を始めていた。
 とんかつ屋から出てきた見山一家は、エレベーターで階下に下り、出発ロビーへと向かった。渡辺たちは彼らの後を追う。
 見山哲司は旅客サービス施設利用料のチケットを自動販売機で二枚買い、そのうち一枚を妻に渡した。そして、一家三人のしばしの別れの儀式が始まった。
 出発ロビーの中央に据えつけられたたくさんのソファ群。その一つに腰を下ろして彼らを見つめていた渡辺は、この時初めて気がついた。人美のバックパックに、小さなスヌーピーが―それはキーホルダーだった―ぶら下がっていることを。
「スヌーピーね」
 渡辺はつぶやいた。


「それじゃ、先に行っているからね。くどいようだが、くれぐれも体に気をつけて、白石さんに迷惑をかけることのないように。いいね」
 哲司の言葉に人美は静かにうなずいた。
「人美、何かあったらすぐに連絡するのよ」
 人美は泰恵の言葉に答えた。
「うん、その時はそうする。お父さんとお母さんも、何かあったらすぐに連絡するのよ」 人美の冗談めかしの言葉に、哲司は自分が励まされた気になった。
「秋には一度帰ってくるから、その時会うのをお互い楽しみにしよう」
「それじゃ、人美。しばらく会えないけど元気でね」
「うん。お父さんも、お母さんも」
 見山夫婦は出国審査カウンターに向かって歩き、その前まで着いた時に後ろを振り返った。そして、二人そろって人美に向かい大きく手を振った。人美も両手を一杯に伸ばし、思いっ切り手を振った。
 人美の両親は旅だった。それは人美の旅立ち―親元を離れての新しい生活への旅立ちをも意味していた。そして、沢木たちにとっても……



 葉山の本部で待機している沢木たちのもとへ、渡辺からの電話連絡が入った。その声はスピーカーで皆が聞けるようになっていて、こちら側で発せられたすべての声は、マイクを通して相手に聞こえるようにもなっていた。
「今、両親と別れたところです、引き続き監視します。ところでコードネームのことですが、スヌーピーはどうでしょう」
 まさか渡辺の口からスヌーピーなどという言葉が出てくるとは思ってもいなかった沢木たちは、思わず笑ってしまった。
 昨日、沢木たちは今日に備えての最終的な打ち合わせをした。その時、渡辺から出された提案は、電話及び無線での通話の際に、“人美”などの固有名詞を出さないほうが機密保持に適し、それらはコードネームで呼んだほうがいいだろう、ということであった。
 沢木たちが今回使用する携帯電話機及び無線機には、特製の周波数変調装置―それは沢木組で作られたもの―がつけられているので、万が一盗聴されても、「ピーガラガラガラ」という、周波数変調独特の信号音が聞こえるだけなのだが、渡辺は念には念を入れたほうがいいと主張した。
 さまざまなネーミング案が出されたが、どれもぴったりとせず、その案は宙に浮いた形となっていた。
 沢木は笑みを浮かべながら尋ねた。
「どうしてスヌーピーなんですか?」
「目標のバックパックにぶら下がってるんですよ。スヌーピーが」
 秋山が楽しげに言った。
「それなら、スヌーピーを監視するのはウッドストック、こちらはチャーリーにしましょう」
 沢木は秋山にうなずきながら、渡辺に言った。
「よし、そうしましょう」
 渡辺が答えた。
「了解。チャーリーへ、ウッドストックは引き続きスヌーピーを監視する」
 秋山たちの間からまたしても笑いが漏れたが、沢木にはその笑い声がある種の歓声に聞こえた。エクスプロラトリー・ビヘイビア計画が開始されたことへの―


 人美は両親の姿が見えなくなった後、しばらくの間出発ロビーに設置された巨大な航空ダイヤの電光表示盤を眺めていたが、突然くるっと回れ右をして、意気揚々と歩き始めた。それはまるで―どんな困難でも克服してやろう、私の行く手には輝かしい未来が待っているのだから―とでも主張しているような、そんな威風堂々の行進だった。渡辺と進藤は人込みにうまく紛れ込みながら、その行進に続いた。
 第二旅客ターミナルビルの地下一階にある、JR空港第二ビル駅には、午後三時発の横須賀線直通逗子行きの快速電車、エアポート成田が待機していた。人美はそれに乗り込むと、四人掛けの対座席の窓側に、進行方向に向かって座った。
 逗子までの所要時間はおよそ二時間半ある。人美はこの間を、本を読んだり、新しい生活の構想を練ったりして過ごそうと思っていた。そのために、人美は二冊の本―それはイルカについて書かれたものと、彩香が面白いといって貸してくれた小説だった―を用意していた。
 電車が発車してからしばらくの間は、車窓から見える外の景色を眺めていた。すると、ジャンボジェット機が人美の真上を飛んで行く姿が飛び込んできた。「うわぁー」と小さな歓声を漏らし、初めて見るジャンボの真下からのアングルに心を躍らせた。彼女の感受性は、見聞きするあらゆるものに反応するのだった。
 ややあって、人美は彩香ご推薦の小説を読み始めた。しかし、うとうと―
 車窓から差し込む夏の陽光と、クーラーから吹き出す冷たい風は、絶妙のハーモニーとなって人美を睡魔に導いた。

 人美はマウンテン・バイクに乗り、海岸沿いの道を走っていた。舗装されていない土の道の右側には海と砂浜が、左側には森があった。
 突然、どこからともなく―
「あー急がし急がし、早くしないと遅れちゃうよー!」という声が聞こえてきた。人美は辺りを見回した。すると、海の上をジャンプしながら凄い勢いで泳ぐイルカの姿があった。「そんなバカなぁ」
 人美はそうつぶやいた。なぜなら、そのイルカは赤いチョッキを着て、大きな懐中時計をせびれからぶら下げていたからだ。
「急がないと、急がないとー。急がないと遅れちゃうー!」
「待って! イルカさーん! 何でそんなに急いでるのー!」
 イルカはちらっと人美を見たが、返事もせずにさらに加速した。
 よーし、後をつけてみよう
 人美はマウンテン・バイクのギアをトップに入れ、最大スピードでイルカを追った。
 イルカと人美の競争がしばらく続くと、前方には砂浜に突き出た絶壁が出現し、その波打ち際には洞窟が見えはじめた。イルカはその中へと入って行った。人美も後に続いた。「よーし、もう少しで追いつくぞ!」と人美が言った瞬間、イルカの姿がすっと消えた。「あれっ」と声を漏らすと、突然ペダルが軽くなった。そして浮遊感―「わぁー!」人美は穴の中に落ちて行った。
 気がつくとそこは、イルカの人々が行き交う町の中だった。
 ああ、なんてことなの。ここは、ここは―そう、イルカの国だわぁ。でもこんな話し、どっかで聞いたことある。えーと、えーと―そうだ! 不思議の国のアリスだ!ふふっ、それならきっとこれはイルカの国の人美ね
 人美はそんなことを考えながら一人笑っていた。すると―
「お嬢さん、何がそんなにおかしいのかね」
 一頭のイルカが尋ねてきた。
「だって、イルカの国の人美なんですもの」
「これこれ、間違ったことを言うではない。それを言うなら不思議の国のイルカだぞい」
「イルカ?」
「そうじゃ。イルカがお嬢さんのような生き物のいる世界に迷い込むお話ぞい」
 人美はくすくすと笑った。
「ところであなたの名前は何ていうの?」
「イルカじゃ」
「それは分かってるわ。名前よ、名前、あなたのな・ま・え」
「だからそれがイルカじゃ」
 そこへもう一頭のイルカが通りかかった。
「こんにちは、イルカさん」
「よう、イルカ君、元気かね」
「おかげさまで元気です」
「ほう、それはなにより。奥さんや子供たちも元気かね」
「ええ。妻のイルカも、娘のイルカたちもいたって元気です」
 人美は首をひねりながらその会話を聞いていた。ややあって、通りがかりのイルカが去って行った後に人美は尋ねた。
「ここのイルカたちはみんながみんなイルカという名前なの?」
「そうじゃよ」
「それでよく混乱しないわね」
「何を混乱するのじゃ。イルカはイルカ、イルカ以上でもなくイルカ以下でもない、あくまでもイルカじゃ」
 人美は声を出して笑った。
「ははははぁ。そうね、あなた―いえ、イルカさんの言うことはもっともだわ」
「ところでお嬢さん、お主は何の用でここへ参られた」
 人美は追いかけていたイルカのことを思い出した。
「あっ、そうそう、私はイルカを追っていたの。赤いチョッキを着て、大きな懐中時計を下げたイルカよ」
 すると、またあの声が聞こえてきた。
「あー急がし急がし、早くしないと遅れちゃうよー!」
 赤チョッキのイルカは、猛然と人美たちの横を通り過ぎて行った。
「私、行かないと。イルカさん、さようなら」
「おい、おい、待ちなされ。行くのは危ないぞ」
 イルカの制止の声も聞かずに、人美は赤チョッキイルカの後を追って走った。
 原っぱの中にたたずむ赤チョッキイルカにようやく追い着くと、人美は尋ねた。
「ねえねえ、赤チョッキのイルカさん。なぜあんなに急いでいたの?」
「これから僕は決闘をするんだ」
「決闘?」
「そうだ。僕らの町を侵略しようとするサメ族の戦士と、一対一の真剣勝負だ」
 赤チョッキのイルカは胸を張って答えた。すると、三頭のサメが現れた。
「卑怯者! 一対一の勝負のはずだぞ!」
 赤チョッキイルカはサメ戦士に向かって叫んだ。
「へへへへ、戦いというのはなぁ、勝ちゃいいんだよ」
 三頭のサメはほくそ笑んだ。人美はイルカに言った。
「大丈夫よ、私も闘うわ」
「君が?」
 見つめ合う人美とイルカには、それ以上の言葉は必要なかった。
 やがて戦いが始まり、幾時間かが過ぎた後―
「畜生、覚えてやがれ」
 頭に絆創膏をつけたサメ戦士は、負け惜しみを言いながらも後退りしていた。「なによ!」と人美が一歩足を前に踏み出すと、サメたちは尻尾を巻いて逃げて行った。人美と赤チョッキイルカは勝ちどきをあげた―
 気がつくと、そこはイルカの女王陛下の前だった。女王陛下が言った。
「皆の者、よく聞け。ここにいる赤チョッキのイルカと、人美という人間の勇気ある働きにより、我らの国に再び平和が訪れた。私は、この二人の勇気をたたえるとともに、国民を代表し、そなたたちに感謝の意を表するものである」
 人美の後ろにいるたくさんのイルカたちから大歓声が沸き起こった。そして、イルカのオーケストラによって『威風堂々』が演奏された。
 女王陛下が人美に小さな声で言った。
「お主、何か持っていないか?」
 人美は戸惑いながらもジーンズのポケットの中を探った。
「こんなものしかありませんけど」
 それはくしゃくしゃになった、二枚のブルーベリー・ガムだった。女王陛下はそれを取ると、今度は大声で言った。
「今ここに、二人の勇気をたたえ、ブルーベリー・ガムを進呈する」
 赤チョッキのイルカが深々と頭を下げながらそれを受け取った。人美もそれに習った。そして、二人は回れ右をして、観衆のほうを向いた。
 目の前にいる何万ものイルカの群衆が、人美たちに熱い拍手と歓喜の声を送った。それは人美の頭にこだまし、深い感動を誘った。
 拍手と歓声はなおも続く―

 旅の出だしは実にあっけなかった。人美が眠りから覚めると、電車は北鎌倉の駅を出るところだった。
 なんだぁ、寝ちゃったんだぁ
 がっくりきた。しかし、旅立ちの第一歩など、案外あっけないものかも知れない―
「イルカの国の人美かぁ…… ふふふふっ」
 人美は思い出し笑いを浮かべながら、不本意な旅の出だしを、楽しい夢を見たことで帳消しにした。



 そのころ、吹き出る汗をハンカチでぬぐいながら、海水浴場を歩く男の姿があった。その男はスーツの上着を肩に引っ掛け、折り目のないズボンを履いた冴えない中年男だった。 彼の名前は相馬雄介、渡辺の部下の一人である。彼は今、三戸海岸で溺死した男たちの足取りを探るべく、地道な聞き込み調査をしているところだった。これまでの調べで、溺死した男たちの車には、濡れた水着があったことが分かっている。ということは、どこかの海水浴場に立ち寄った、と予想できる。彼は男たちの残したわずかな手がかり(衣笠インター、ファミリー・レストラン、コンビニの各領収書)と顔写真をもとに、その足取りを調査していたのだ。それは、五十二歳という年齢の彼には、決して楽とはいえない仕事だった。
「畜生、よりによって何でこんなに暑いんだ。バカ野郎」
 彼はそう毒づきながらも、革靴を砂に汚しながら調査を続けた。
 相模重工情報管理室は現在十五名のスタッフにより運営されているが、創設当時は渡辺と相馬の二人しかいなかった。彼ら二人を相模に導いたのは、某政治家秘書を務める人物であった。政治家秘書は白石会長からの要請を受け、司法関係者から適性人物を選定し、これにより渡辺と相馬が相模に招かれたのである。渡辺は元SOPの精鋭、相馬は新宿警察署捜査四課の敏腕刑事だった。
 相馬は相模への誘いがある前に、既に警察を辞めていた。いや、辞めさせられたのだ。その成り行きはざっとこんなものだった。ある情報屋からの垂れ込みで、マンションの一室に出向く。そこには肌もあらわの女が一人いて、突然叫びながら彼に抱きつく。そこへカメラを持った男が入って来て写真を撮る。それが警察署へ送られる。彼は懲戒免職処分となった。相馬は、彼を敵視する香港マフィアの陰謀に、ものの見事にはまってしまったのだ。それは彼にとって一世一代の不覚であった。
 渡辺と相馬以外のスタッフは、その後彼らにより元警察官を中心に集められた。例えば進藤は、SOPを志願したものの、厳しい訓練の前に挫折し、国へ帰ろうとしたところを渡辺に声をかけられたのだ。



 午後五時二十五分。定刻より一分遅れて、人美を乗せた電車は逗子駅に到着した。ホームに降り立った人美は、「ふわぁー」とあくびとも背伸びともつかない動作をした後、改札口に向かって歩き始めた。
「あの娘、かわいいですよね。室長はどう思います」
 渡辺は進藤の顔を見たが、冷めた視線を送るとすぐに人美の後を追って歩き出した。
 まったく、どうしたらああいう無愛想な人間ができるんだか
 進藤はそう心の中でつぶやいた。
 渡辺たちが改札口を抜けると、人美は既に葉山行きのバス停の列に並んでいた。渡辺は改札口の横に立ち、ショートホープを一本取り出すとそれに火をつけた。そして、通話距離に入った無線機のマイクに向かい、沢木たちに逗子到着の連絡をした。
 数分後、人美が並んだ列の前にバスが止まり、彼女は一番後ろの席に座った。渡辺と進藤も、それぞれバスに乗り込む時間をずらして、素早く前側の席に座った。
 さらに数分が経過した後、人美と渡辺たちを乗せたバスは、黒々とした煙を噴き出しながら発車した。



「私は田宮さんの思想の共感し、できる限りの援助をしてきたつもりです。しかし、もう余裕がないのです。ご存じのように、相模の技術力は群を抜いています。私の会社よりも優れた製品を、より安く提供でき、さらに、政治力もかなりのものを持っています。このままいけば、相模にすべて食いつくされてしまいます」
 男は落胆の表情を浮かべ、溜め息混じりの声で胸の内を語った。
 白髭の老人は答えた。
「君らしくもない、そんな弱気でどうすんだ」
「私も努力はしています。開発部門への増資、営業の強化、それにリストラ―ですが、根本的なところで力が足りないのです。今日ではあらゆるものにマイクロプロセッサーが搭載され、ソフトウェアで制御されるのです。家電製品から軍需製品にいたるまで、何もかもすべてです。つまり、ソフトの開発技術がないメーカーに、未来などないのです」
「では君の会社はどうなる?」
「メカの技術は大手に負けない自信があります。しかし、ソフトの技術がない限り、いずれは下請けに成り下がってしまうでしょう……」
 男は「はぁ」っと深い溜め息をついた後に心の中でつぶやいた。
 あの時沢木を獲得できていれば……
「何とか挽回できんのかね? 君の会社は建設機械に強いはずだ」
「ええ。ですが、秋には相模の新製品が登場します……」
 白髭の老人は立ち上がると男に歩み寄り、肩を叩いて言った。
「君の言いたいことはよく分かった、私に任せなさい」



 午後六時を過ぎたころ、人美は葉山公園前停留所でバスを降りた。渡辺たちはバスを降りずにその場を離れ、それから先を交代要員に任せた。
 ウッドストックの任をこの先引き継ぐのは、渡辺の部下である森田雄二と篠原久美の二人だった。森田は四十一歳になる小太りの男で、元は厚生省の麻薬取締官。篠原は二十六歳になる小柄な女性で、元は科学警察研究所の研究員だった。
 脇道の路肩に駐車された、ガンメタリックパール塗装のサニー4ドアセダンから降りた森田は、人美との距離を約三〇メートルほどおいて歩き出した。サニーの運転席に座る篠原は、ゆっくりと車を動かし始めた。
 白石邸に行くには、バス通りである国道一三四号線から、細く急な坂道を登っていかなくてはならないが、人美の足取りは軽快で、急な坂道は大した障害ではないようだった。しかし、森田には息切れの原因となった。
 約一〇〇メートルも坂を登ると、人美の視界に白石邸が映り始めた。それは、青い空に栄える真っ白な壁とブルーの屋根を持つ、家というよりは西洋風のお屋敷という印象だった。お屋敷の周りは石壁で覆われ、その壁の上には人の背丈くらいの植木が透き間なく植えられていた。石壁を繰り抜くように造られた大きなガレージには、黒いベンツと白いシビックが駐車してあり、もう一台分のスペースには、人美のマウンテン・バイクが置かれていた。
 人美はガレージ脇の門に据え付けられたインターホンのスイッチを押した。
 居間のソファに腰を下ろして、今か今かと人美の到着を待っていた白石は、家政婦の橋爪から人美の来訪を知らされると、一目散に外へと飛び出した。
 バタバタバタというせわしない足音とともに、人美の前に白石が現れた。
「やあやあ、人美君。さあさあ、中にお入りなさい」
 白石はニコニコしながら門を開け、人美を中に通した。
 門を入るとすぐに石造りの階段があり、それを数段昇りきると、道路より一段高くなった前庭に出て、そこから真直一〇メートルほど歩くと、玄関にたどり着いた。
 白石は玄関のドアを開けるなり、家の中に向かって叫んだ。
「千寿子! 千寿子!」
「はいはい、そんなに大声を出さなくてもちゃんと聞こえてますよ」
 和服姿の千寿子が姿を見せた。そして、人美の姿を認めると、品のある笑みを浮かべながら歩み寄って来た。人美は白石夫婦に向かって言った。
「白石のおじさま、おばさま、しばらくご厄介になりますが、どうぞよろしくお願いします」
 人美はペコリとを頭を下げた。
 おじさまか、悪くないな
 そんなことを思いつつ白石が言った。
「今日からはここを我が家と思ってもらっていいぞ。何の遠慮もすることはない。どうせわしらはこの家では食べることと寝ることくらいしかせんからなぁ」
「ええ、そのとおりよ。私たちは人美さんが来てくれて、心から嬉しく思うわ。仲よくしましょうね」
 千寿子は優しく言った。
「ありがとうございます。おじさまも、おばさまも、私に何か問題があればすぐにおっしゃってください。すぐに改めるよう努力しますから」
「人美さんは本当によくできた子だわ。ねえ、あなた」
「ああ、そうだな。まあ、堅苦しいあいさつはこのぐらいにして―とにかく、楽しくやろうじゃないか。はははははは……」
 白石の豪快な笑い声にまみれて、黒のワンピースに白いエプロンをした二人の中年女性が現れた。千寿子が言った。
「このお二人は、家の中のことを面倒みてもらってる方たちで、こちらが橋爪京子さん、こららは紺野啓子さん。二人ともとっても楽しい人たちよ」
 人美は家政婦の二人と簡単なあいさつを済ませた後、千寿子に連れられて新しい生活の場を一通り見て回った。
 玄関の右側には十六畳もある大きな居間があり、少し高くなったダイニングルームへと階段でつながっている。ダイニングルームの床はフローリングで、カウンターを挟んで広々とした明るいキッチンへと続いている。また窓からは、日本庭園風の裏庭と、横庭にあるプールを眺めることができた。キッチンを抜けたその先の廊下には、バスルームやトイレがあり、家政婦たちの居室やピアノを置いた部屋に通じている。半地下室には立派なシステム・コンポと大きなテレビなどが置いてあり、それは和哉がホビールームとして使っていた部屋だった。階段から二階に上がると、二階を真直に突き抜ける長い廊下へと出る。二階には白石の書斎、白石夫婦の寝室、客間が数室あり、西側の一番端の角部屋が人美の部屋となる場所だった。人美の部屋の近くにはバスルームとトイレがあり、それらは今後、人美専用として使われることになる。

 白石邸の近くにサニーを止め、車中での監視に入った森田と篠原からの連絡により、沢木たちが動き出した。
「よし、システムのほうの準備はいいな」
 沢木は岡林に言った。
「はい、問題ありません」
「よーし、いよいよだ。サンプリングを開始しよう」
「了解」
 CRTの画面には、PPSがとらえた電磁波の波形が映し出されていた。それは秩序正しく揺らめいていたが、しばらくすると波形が乱れだした。
「部屋に入ったようだな」
 沢木はそう言うと、固唾を飲んで揺らめく光の線を見守った。

 部屋の真ん中に立った人美は「うわぁー」と声をあげて喜んだ。なぜなら、人美が前に見た時と、部屋の内装が一変していたからだ。
 人美は父と一緒に白石家へあいさつに訪れた時、一度だけこの部屋を見ているのだが、その時の印象は決してよいものではなかった。部屋の壁には染みが点々とあり薄気味悪く、元はアイボリーと思われる絨毯は茶色くくすんでいた。白石のおじさんは確かに改装しておくとは言っていたが、まさかここまで変わっているとは思わなかった。
 まず、床の絨毯は取り払われ、美しい木目のフローリングになっていた。壁は真っ白く塗装され、二つある出窓も木製のものからアルミ製のものに変えられていた。エアコンも据え付けられていたし、部屋の照明は無表情な蛍光灯から、おしゃれな白熱球のシャンデリアへと衣替えされていた。沢木組建築工学部門のスタッフの技術力は、少女を感動させるに十分過ぎるほどだった。
 この部屋は十二畳半もある大きな真四角の部屋で、入り口の正面北側の壁には一間(約一.八メートル)の横幅の出窓、その左側の壁には同じく一間幅の西向きの出窓があり、右側の壁には一間の押し入れと、三尺(約九〇.九センチ)の収納戸があった。そして、西向きの出窓からは、葉山の海と横庭のプールを眺めることができた。
 出窓を開け外の景色を興味津々と見渡す人美に千寿子が言った。
「ここからはね、とっても美しい夕日を眺めることができるのよ。富士山だって見えるんだから」
 だいぶ低くなった太陽を見ながら、人美は富士の裾野に沈んで行く太陽の姿を想像しながら言った。
「素敵な出窓ですねぇ」
「それから、下に見えるあのプール。人美さんのために奇麗にしておいたから、思う存分使ってちょうだいね」
「はい! ありがとうございます」
 人美の瞳はきらきらと輝いていた。千寿子は人美がそんな目をするのが嬉しくてたまらなかった。



 長者ケ崎―人美が降りたバス停の一つ先―でバスを降りた渡辺と進藤は、タクシーで本部へと戻って来た。二人は沢木らに初めて見た人美の感想を語り終えると、本社へと引きあげた。沢木は二人の感想を興味深く聞き入っていたが、中でも特に印象に残ったのは、渡辺のこんな言葉だった。
〈今日一日で私が見たものは、両親と楽しげに会話をする姿、軽快に歩く姿、かわいらしい仕草などです。それから思うに、彼女は一般的な女子高生とは違う―理由を聞かれても困るのですが、とにかく違う、ということを強く感じました。そして、もしも彼女にサイ・パワーなるものがあるのなら、彼女はそれに気づいていないような気がします。なぜなら、あの表情や雰囲気、明るさというのは、本物だという気がするからです。心に陰のある人間に、あんな雰囲気は出せませんよ、きっと……〉
 沢木は次ぎなる作業をしながら考えていた。
 違う、そう渡辺さんに思わせたものは何だろう? 確かに写真からでも彼女の独特の雰囲気は伝わってくる。少女の顔と女の顔、大人と子供の境目、そんな言葉がぴったりの顔立ちをしてる。そういうところなのか? それとも、内面からにじみ出てきているのだろうか? 特異な力を持つという内面から…… しかし、彼は人美さんが自分の力に気づいていないようだとも言った。あー、彼女に会ってみないなぁー
 リビングルームに置かれた折り畳み式の机の一つには、六台のCRTと、それに接続されたパソコンなどが載っていた。沢木はテプラでラベルを作り、そのCRTへ左から順に、PPS検知波、フーリエ分解後、抽出波、制御用、汎用1、汎用2、とラベルを貼り付けていった。このうち人美の脳波を示すものは、〈抽出波〉のラベルが貼られたCRTであるが、そこに映し出される波形は、波の形や大きさをひっきりなしに変えているだけであり、それはASMOSが学習を行っていることを示していた。
 ラベルを貼り終わり満足げな沢木のもとに、秋山が近寄って来て言った。
「相変わらず几帳面ですこと」
 言いながら彼女は沢木の横の回転椅子に座った。
「こうしないと落ち着かなくてね。やはり物事の基本は整理整頓だよ」
 秋山は「ふふっ」と笑った後に、〈抽出波〉のCRTを見ながら言った。
「振幅がだいぶ大きいですね」
 沢木はタバコに火をつけながら返事をした。
「んん、そうだね」
「でも、脳波の観測だけでは…… どうなのかしら?」
「まあ、僕らも一つ一つ経験を積んでいくしかないね」
「人美さんって、どんな娘なんでしょう?」
「興味ある?」
「沢木さんだってそうでしょう?」
「そうね、会ってみたいよ、彼女に直接。どんな話しかたをするのか? 何を考えているのか? 将来の夢は何なのか? そんなことをサイ・パワーの有無に関わらず、ぜひ知りたいね」
「随分お熱なんですね」
「まあね、若い人って、いいだろう」
「沢木さんには若すぎるわ」
「そういう意味じゃなくてさぁ。つまり、若いということは、僕らよりも多くの可能性を秘めている、ってことじゃない」
「ああ、そういう意味ですか」
「うん」
「私にはどんな可能性があるんだろう……」
 秋山は思った。
 沢木さんと結婚する、何て可能性、あるのかなぁ
 そしてつぶやいた。
「ないかなぁ」
「あるさぁ」
 沢木は元気よく答えた。
「本当!?」
「ああ。プロメテウスを契機に僕たち総合技術管理部も本格的に宇宙開発事業に進出する。そうなった時には君に活躍してもらわないとね。夢だったんでしょ? 宇宙が」
 何だぁ
 秋山はがっかりし、それを見て取った沢木は思った。
 嬉しく、ないのかなぁ
 秋山は気を取り直すかのように言った。
「ええ、楽しみだわ。でも、今の仕事に不満はありませんよ。何せ、世界でも屈指の技術者のアシスタントを務めてるんですから」
「誉め過ぎだよ」
 沢木はタバコの灰を落とした。
「ところで沢木さん。プロメテウスのほうが最近お留守になってますけど、いいんですか?」「そうね、あっちにも顔を出さないと。でも、スタッフはみんな有能だから、ちょっとぐらい僕がサボってたって大丈夫でしょう」
「のんきですね」
「忙し過ぎるのはよくないよ。創造力にかけてしまうからね」
「で、今は人美さんに夢中なわけですね」
「そういうこと」
 それからの一週間は特に変わったこともなく過ぎていった。そのことは沢木の手帳に次ぎのようにメモされていた。

   八月八日(火曜日)晴れ
   ○チャーリー担当 片山、岡林
    ASMOSに変化なし。
    人美は夕方海に散歩に出る。
    会長から電話あり(人美部屋の整理、見山氏から人美に国際電話)。

   八月九日(水曜日)晴れ
   ○C 秋山、松下
    ASMOSに変化なし。
    人美は一日中部屋の整理。ASMOSにとっては都合がいいが退屈だ。
    家政婦の橋爪が足を捻挫したとのこと。彼女のおてんばぶりを思えば、
    人美のせいではないだろう。
    秋山が夕食を作ってくれた。

   八月十日(木曜日)晴れ 暑い
   ○C 桑原、岡林
    抽出波に若干の変化あり、脳波成分を理解し始めたらしい。
    人美の友達が訪れる。会長により泉彩香と判明(学籍簿より、
    住所 神奈川県横須賀市林……、ウッドストック写真撮影)。
    岡林がTVゲームを持ち込み、そのことで岡林と桑原、喧嘩になる。

   八月十一日(金曜日)晴れ 今日も暑い
   ○C 片山、秋山
    人美は午前中、自転車で近所の散策。その間、抽出波を映すCRTには
    何も出ず。予定よりも早く学習が進んでいるようだ。
    秋山の作った夕食は今日もおいしかった。
    秋山の帰宅後、片山と二人で酒を飲んだ。今の恋人と結婚する決心が
    ついたらしい。

   八月十二日(土曜日)晴れ あつい、あつい、あつい
   ○C 松下、桑原
    抽出波の周波数が〇.五~四〇ヘルツの間に収束してきた。松下さんが
    検討するも、特に異常なし。
    人美は午後から自転車。かなりの時間と距離を走り回り、ウッドストック
    を困らせた。本屋で本を買ったらしいが、何の本かは不明、残念。
    それにしても自転車の機動力には車では対応できない。明日から
    ウッドストックにはスクーターも使ってもらおう。
    松下がゲームがうまいのは意外だった。聞けば子供たちの相手を
    させられているとのこと。ご苦労なことだ。
    午後から久しぶりに本社へ。幕張でのシンポジウム用の資料作成。
    夕方には本部へ。突然寿司が食べたくなり出前を三人分取る。

   八月十三日(日曜日)暑さで気が狂いそうだ
   ○C 久しぶりに全員そろう
    松下さんによる脳波講習会が行われた。
    松下さんの分析によると、若干ノイズが混入しているようだ。
    念のため岡林と二人で位相補正プログラムをチェック。
    人美は外出しなかった。
    岡林に寿司を食べたことが発覚。おごらされることになってしまった。



 八月十四日、月曜日、午前九時三十分。フリー・ジャーナリストの木下賢治は、都内のアパートの自室でワープロのキーボードを軽快に叩いていた。
 彼はこれまでに多くの記事を書いてきたが、それらは軍事技術に関連したものが多かった。ある一部の人間たちは、彼のことを軍事評論家と呼んでいたが、彼はそれを嫌い、自分はあくまでもジャーナリストである、と主張していた。
 彼が記事を書いて生計を立てられるようになったきっかけは、中南米諸国の一つであるエルサルバドルの内戦を克明に記したことによる。今を去ること一九七九年、エルサルバドルでは軍事クーデターが起こり、それまでのロメロ政権が倒された。以来、革命評議会による暫定政権と、FMLN(民族解放戦線)との激しい内戦が展開された。彼は、そうしたエルサルバドルで一九八三年から一九八五年までの二年間を過ごし、自分の目で目撃した事実を衝撃的につづったのだ。帰国してからの彼は、ジャーナリストとしては一流の部類に仲間入りし、自らの取材で掴んだ、軍事、刑事事件、科学技術に関連した記事を、精力的に執筆していった。
 ちぇっ、乗ってきたところなのによ
 彼の仕事を邪魔したのは、訪問者の到来を告げるドア・チャイムだった。彼は口にくわえていたタバコを荒っぽく揉み消すと、玄関に向かって歩き出した。再びドア・チャイムが鳴る。「今行くから!」と彼はいらいらした口調で言った。「どなた」と言いながらドアを開けた瞬間、彼の左頬を激しい衝撃が襲った。彼は後ろに吹っ飛んだ―訪問者に殴られたのだ。殴った男はドアを閉め、仰向けに倒れた木下の前に近づくと、仁王立ちをして薄く笑った。その男は一八〇以上もありそうな背丈と、筋骨隆々の肉体を持っていた。 木下は叫んだ。
「お前は誰だ! 相模の人間か! 情報管理室か!」
 男はまた薄く笑うと、スーツの懐からサイレンサー付きのオートマチック・ピストルを取り出し、スライドを引き発砲できる状態にすると、銃口を木下に向けた。
「質問するのは俺だ」
 男は冷淡な響きの声音で言った。次の瞬間、シュッ―という小さな鋭い音と同時に木下の叫び声―「うわぁー!」―男が木下の太腿を撃ったのだ。
「貴様が調べていることについて言え」
「う…… な、何のことだ」
 再びシュッ―「あぁー!」―反対側の太腿を撃たれた。
「あー、分かった、話す。相模だよ。相模重工についてだ」
「もっと具体的に言え。きちんと整理して、原稿を書くようにな」
 男はまた笑った。
「プロメテウス計画だ。政府、防衛庁、そして相模重工の三者により立案実行された―相模は地球環境観測や衛星通信のための技術試験と銘打って、独自に人工衛星を打ち上げた。プロメテウスだ。ところがこの衛星には公に明かされていない極秘事項があった。高解像度衛星写真システムだよ。相模は画像解像度は十メートルと発表しているが、実際には一メートルなんだ。なぜ相模は撮影解像度を偽ったか。つまりプロメテウスは、日本初の軍事スパイ衛星何だよ」
 木下は苦痛に顔を歪ませながら必死に答えた。
「なるほど、貴様はなぜそれを知った」
「最初は単なる衛星の取材だった。ところがある時、プロメテウス計画の相模のトップが、白石副社長であることを知ったんだ。本来ならばそれは航空宇宙事業部長の管轄だ。にも関わらず軍需部門のトップである白石副社長が―そこに目をつけたんだ」
「そうか、君の着眼点は実にすばらしい」
「まだあるさ。沢木聡、相模の技術部門の最高頭脳で、総合技術管理部の部長だ。奴もまたプロメテウス計画に参加している。これも引っ掛かった」
「なぜだ」
 木下は息を切らしながら、脂汗を垂らしている。男は無情に言った。
「言え!」
「沢木は優秀な技術者だが、衛星などの宇宙関連技術に関しては奴の専門外だ。なのに沢木がいるということは、奴の技術が必要だということだ。沢木の最も得意な分野は制御システム工学であり、そして、SMOSの産みの親だ。SMOSという制御システムは、基本的な動作は毎回同じだが、動かす度に微妙に動作が異なる、というような機構の制御に適している。つまり、経験を反映させられるものでなければだめだ、ということだ。これに対しロケットは一度で終わりだし、衛星制御も現有の技術で間に合うはずだ。そんな時、ある極秘レポートの存在を知った。牧野レポートだよ。新防空戦略について書かれた。そしてそれはプロメテウス計画と結びついている。そこで俺は考えた。その防空システムの開発を沢木にさせているのだと」
「その確証は得られたのか?」
「ああ、もちろん。最近になって俺は、プロメテウス計画の中枢にいる相模社員との接触に成功した。そして、そいつから情報を聞き出した。それによると、沢木は現在、川崎工場で管制センターのシステム作りを指揮しているそうだ」
 男は深々と感心げに首を縦に振った。
「実に見事だ。君は一流のジャーナリストだよ。ところで、お前はこのことを誰かにしゃべったか」
「いいや、それより俺にも質問させてくれ。お前は誰だ」
 男はまたしても笑い、木下が生涯最後に聞くこととなった言葉を口にした。
「それは死に逝く人間が知ることではない」
 男は木下の書斎を物色した後に去って行った。頭を打ち抜かれた木下の死体を残して。



 午後二時四十分。進藤はプールで泳ぐ人美と彩香を双眼鏡で眺めていた。渡辺と進藤は、白石邸の裏にある小高い山の頂上付近で、それを監視していたのだった。
 進藤の口調はやけに陽気で明るかった。
「なかなかいー眺めですよ。室長も見ます。人美もかわいいけど、あの彩香っていう―
あっ!」
 進藤がそこまで言いかけた時、渡辺は双眼鏡を強引に取りあげると言った。
「いい加減にしろ。俺たちの仕事はのぞきじゃないんだぞ」
 進藤はふて腐れた顔をして渡辺を一瞬見たが、すぐに顔をそらした。
 まったく、進藤といい、岡林といい、この世代はきっと不作だな
 渡辺はいぶかりながら、白石邸の周囲を双眼鏡で見渡した。
 本当は自分だって見たいくせに
 進藤は手の甲に止まった蚊を思いっ切り叩いた。が、蚊は逃げて行った。
 その時、進藤のズボンのポケットに入っていた携帯電話のベルが鳴った。
「室長。本社の倉田さんからです」
 それは、本社情報管理室からだった。
「もしもし、渡辺だ」
「室長、木下賢治が殺されました」
「何だって!」
「今日の午前十一時ごろ、自宅で死んでいるところを愛人に発見されました」
「手口は?」
「拳銃で頭と両脚の太腿に一発ずつ、計三発食らってます。致命傷はおそらく頭でしょう」「プロの仕業か? 警察の見解は?」
「今のところは特にはありませんが―室長、どうしますか!?」
「とにかく情報を集めろ、詳しいことが分かったらまた連絡してくれ」
「こっちには戻れませんか、せめて相馬さんだけでも」
「すぐには無理だ。悪いがこっちも重要なんだ。何とかやってくれ、頼むぞ!」
 渡辺たち情報管理室は、プロメテウス計画の情報漏洩の可能性を察知し、プロメテウス計画に参加者した社員数人と、フリー・ジャーナリスト木下賢治の内偵を進めていた。
 現在、プロメテウス計画の一部は、相模重工の最高機密に指定されており、その詳細までは情報管理室の人間たちにも知らされていなかった。
 渡辺は険しい顔をしながら、進藤に電話機を突っ返した。
「どうしたんです」
「木下賢治が殺された。拳銃でな」
 渡辺は思った。
 雲行きが怪しくなってきたな。沢木さん、あんたにも話しを聞かせてもらわないと



 午後六時十三分。森田、篠原の両名と、ウッドストックの任を交代した渡辺と進藤が本部に帰って来た。渡辺は沢木の前に来るなり、厳しい表情と口調で言った。
「聞きたいことがあるんだが」
 ただならぬ雰囲気を悟った沢木は、「上に行きましょう」と言って歩き出した。渡辺はそれに続いた。二階の和室にたどり着くと、渡辺が重々しい口調で切り出した。
「プロメテウス計画の全貌を知りたい」
 沢木は窓の脇の壁に寄りかかりながら、腕組みをして言った。
「理由を言ってください。正当な理由があればお話ししましょう」
 渡辺はいらついているようだった。
「今日、木下賢治というフリーのジャーナリストが何者かによって殺された。アパートの自室で、拳銃の弾を三発食らって―殺された男は我々情報管理室がマークしていた男だ。その理由は―」
「プロメテウス計画の情報漏れ?」
「そのとおり。我々は相模の社員数人がある人物と密会しているとの情報を入手し、調査を開始した。その相模社員はいずれもプロメテウス計画の参加者。そして、密会の相手は木下賢治だ。ここまで突き止めた。しかし確証を得るまでには至らず、内偵作業を進めていたんだ。とこがだ―奴が殺された。沢木さん、一体プロメテウス計画には何が隠されているんだ。それは人殺しまで誘うような計画なのか? あんたなら知っているはずだ!知らないなんて言わせませんよ、沢木さん」
 沢木は渡辺に対して最初に思ったことを思い出した。この男をメンバーに加えてよかったのだろうか―彼は渡辺の真意が知りたかった。
「とぼけるつもりはありませんよ。ただ、それを知ってどうするんです。その木下という男に情報を漏らした相模社員は分かっているんでしょう。ならば、その社員たちを取り調べればいい。それだけの権限が情報管理室にはあるんだから。それに、その男の殺された理由がプロメテウス計画と関連しているかどうかも、現段階では定かじゃない。違いますか?」
「おっしゃるとおりだよ」
 渡辺は皮肉っぽく言った。
「しかしねぇ、沢木さん。あなたはテロの驚異というものを分かっていない。実は、私が信頼できる筋から聞いた情報によると、テロ対策法により解体された過激派組織が、水面下で再び結集し活動を再開しようとしている。彼らは手段を選ばない。彼らなりの大義名分のもと、テロ行為を再び繰り広げるつもりだろう。そうなった時、この相模重工も標的にされる可能性は十分にある。私が危惧するのは、今日の木下殺しが、その第一歩かも知れないということですよ! 私は情報管理室の室長として、相模の企業秘密保全に努めるとともに、そうした驚異から相模を守ることも自分の仕事だと考えている。そのためには、相手が何を考え、何を狙っているのか、それを十分に理解する必要がある。そうでなければ相模を驚異から守ることはできない!」
 沢木は渡辺の表情と言葉に、その内に秘めるものを感じ取った。
「なるほど、よく分かりました」
「それじゃ、聞かせてもらいましょうか」
 沢木はタバコに火をつけた。そして、立ち上る煙を見つめながら言った。
「ええ、それもいいんですがね。その前にちょっと確かめたいことがあるんですよ」
 渡辺はいぶかりながら言った。
「何を?」
「一つはSOP第二セクションに動きがあるかどうか、ということ」
 警察の特殊部隊であるSOPには、第一セクションと第二セクションがある。第一セクションは、かつて渡辺が所属していた武装警察隊だが、第二セクションのほうは、公安関係の捜索活動を主な任務としている。
「いや、ないと思う。あればとっくに情報が入ってくるはずだ。SOPが絡むようなことなのか?」
 沢木は渡辺の質問を無視した。
「もう一つは、木下賢治がなぜ殺されたのか? そして、どこまで知っていたのか? ですよ」
「何だって!」
 沢木は淡々とした口調で言った。
「あなたに情報管理室長としての責務があるように、私にも相模社員として、プロメテウス計画の参加者として、守秘義務というものがある。私は決して組織に執着した人間ではありませんが、それを破るのには、それ相応の条件というものが必要なんですよ」
「その条件が殺しの理由か?」
「そうです。殺害理由がほかにあるならば、あるいは情報漏れの程度が軽症ならば、私は何も守秘義務を犯さなくてもいいはずだ。そうでしょう?」
「まあ、確かにそうともいえるが……」
 沢木は渡辺の真ん前に移動しその顔を見つめると、弾んだ口調で言った。
「行きましょう」
「どこへ?」
「木下は自宅で殺されたんでしょう。そこへ行くんですよ」
「何だって!」
 渡辺は意外な言葉に驚いた。そして、思った。
 何て奴だ! どういう頭の構造をしてるんだ! 好奇心もいい加減にしないと怪我するぞ!
 沢木は襖を開けるとすたすたと階段を下りて行った。
「お、おい、待て!」
 階段の途中で立ち止まった沢木が振り返って言った。
「あっ、そうそう。自宅の場所、知ってますよね?」
「あ、ああ」
 沢木はにっこり笑って言った。
「では、参りましょうか」
 もはや何を言ってもこの男は行くつもりだろうと渡辺は思った。が、一応言ってみた。「行ったって何にもありゃしないさ! 警察だってバカじゃない。重要なものは見つけて持って行ってるさ」
 沢木は階段の残り三段を飛び下りると、再び渡辺を振り返り答えた。
「そうですかね? まあ、とにかく行ってみましょうよ」
 沢木の声はパソコンに向かって作業をしていた秋山まで届いた。
「行くって? どこに行くんですか?」
 秋山が沢木に歩み寄りながら尋ねた。
「ちょっと、いや、しばらく留守にするがよろしくお願いします」
 沢木の勢いは止まらない。吸いかけのタバコを秋山に渡すと、機材の脇に置いてあった自分の鞄を引っ掴み、玄関で靴を履き始めた。あきらめた渡辺が言った。
「秋山さん、あなたの上司には困ったもんだよ―進藤! 俺は出かけるがお前は帰っていいぞ! あばよ!」
 事情が分からずポカンとする秋山と進藤を残して、二人は外へ出て行った。



 沢木と渡辺の乗った黒いスカイライン4ドアセダンは、横浜横須賀道路を北上していた。ハンドルを握る渡辺は、法定速度をはるかに越えるスピードで、東京足立区にある木下の自宅を目指していた。
 二人の乗る黒のスカイラインは情報管理室用の車両で、無線機、電話機、端末機などを搭載しているほか、エンジンやサスペンションなどにも改造が施されていた。渡辺はこのスカイラインを気に入っていて、車を使う時にはいつもこの車を指名していた。
 沢木が言った。
「警察関係者なんていないですよね?」
 渡辺はちらっと時計を見た後に答えた。
「多分な。しかし、警備の警官ぐらいは立っているかも知れん。まあ、その時は沢木さん、あなたがぶちのめすんだな」
 沢木は肩をすくめておどけて見せたが、渡辺は前方を見たままだった。
「ところで渡辺さん。SOPにいたっていう噂は本当なんですか?」
「ああ、本当だ」
「どの小隊に?」
「第三小隊だ。そこで小隊長をやってた」
「第三小隊っ! すると、東京サミットの時のアメリカ大使館人質救出作戦はあなたが?」「ああ、俺が指揮した」
 沢木は驚かずにはいられなかった。まさか、渡辺がそこまでの人物とは……
「驚いたなぁ、凄い実績じゃないですか。でも、なぜ辞めたんです?」
「聞きたいか?」
 それは三年前、渡辺がSOPを辞める二週間前の出来事だった。渡辺率いるSOP第一セクション第三小隊の精鋭たちは、テロリストにより拉致された某石油会社社長の娘を救出すべく、テロリストのアジトを急襲した。人質奪還作戦は極めて正確に、かつ敏速に実行され、テロリストは次々とSOPの放った銃弾の前に倒れていった。
 最後の一人を撃った渡辺は、六歳の少女を抱き抱え、「もう大丈夫だよ」と優しく声をかけ、少女はそれに涙で答えた。が、その時それは起こった。渡辺により倒されたはずのテロリストが、銃口を彼と少女に向けた。渡辺はそれに素早く反応し、短機関銃を構えテロリストに六発撃ち込んだ。しかし、それでも遅かった。テロリストは死んだが、少女もまた死んだ。腕の中でぐったりとした少女を床に寝かせると、彼のボディ・アーマーには少女の鮮血がべっとりと染みついていた。それは渡辺にとっても、“栄光の第三小隊”と賛美されたSOP第一セクション第三小隊にとっても、初めて経験する耐え難い敗北の瞬間だった。
「俺はミスをした。最初の銃撃でテロリストを撃ち損じたんだ。あの時ミスさえしなければ、少女は死なずに済んだ。俺のミス、間違いなく俺のミスだ」
 渡辺は今でも自分を責めているようだった。沢木にもその気持ちはよく理解できた。守るべきものを守れなかった悔しさは、状況こそ違えど同じだった。
「俺はねぇ、沢木さん。もう二度とミスはしたくない。人の生死に関わるようなミスはしたくないんだよ。そして、今回の計画に関わるうちに、死んだ少女と人美とが重なって、何が何でも人美を守ってやりたい、と思うようになったんだよ」
 沢木は何も言い返しはしなかった。ただ、人それぞれにいろいろな過去があるものだ、と思い、自分の過去を振り返っていた。
 ピピピピピッ、ピピピピピッと電話が鳴った。
「ん、ん、そうか。分かった」
 渡辺は電話を切った後に言った。
「木下の家からは犯人を特定できるようなものは何も見つからなかったそうだ」
「そうですか」
「無駄骨になりそうだな」



 午後九時を少し過ぎたころ、黒いスカイラインは木下のアパートの近くに止まった。木下の部屋の前には、幸いにして人の姿はなかった。
 木下の部屋の前まで来ると、渡辺はドアの前にしゃがみ込み、車から持って来た鞄の中から細長い金属の棒を取り出し、それを玄関ドアの鍵穴へと差し込んだ。
「そんなものを持ち歩いている何て、穏やかじゃないですね」
 沢木が小声でそう言うと、渡辺はむっとした顔をして答えた。
「ここへ来ようと言ったのは、どこのどいつだっけ」
 渡辺はカチャカチャという音をしばらく鳴らした後、やや大きめのガチャリという音をさせた。ドアが開き、二人は中へと入って行った。
 玄関を入ってすぐの居間につながる廊下には、生々しい赤い染みが懐中電灯の光に浮かび上がっていた。渡辺は居間のほうへと進み、沢木は赤い染みをよけながら彼に続いた。「さあ、お望みの場所ですよ、沢木さん」
 沢木は居間を見回した。正面の窓の側には大きな机があり、その上にはデスクトップ型のワープロが置いてあった。机と反対側の壁際には本棚があり、軍事関係、技術関係の本がずらりと並んでいた。
「とにかく調べてみましょう。私はこの居間を調べますから」
「よし、俺はほかの部屋を見よう」
 渡辺は寝室へと入って行った。
 沢木はワープロが置かれた机に歩み寄り、その上を眺めた。普通ならば置かれているはずの資料やフロッピー・ディスク、打ち出された原稿など、そのようなものは机の上にはなかった。三つある引き出しの中も全部調べてみたが、やはり何もない。
 空振りだったかなぁ
 沢木はそう思いつつ、本棚のほうへと移動した。
 それにしても熱転写プリンターなんかでよく仕事が間に合うなぁ
 ジャーナリストという仕事柄を想像した沢木は、印字速度の遅い熱転写プリンターは非合理的だと思った。
 待てよ、熱転写プリンターだと
 沢木はすっと回れ右をして、再びワープロに近づいた。そして、ワープロと一体型になったプリンターの内部を懐中電灯で照らし、そこをのぞき込んだ。
「ようし」
 沢木はそうつぶやくと、プリンターの用紙挿入口の蓋を開け、さらに透明のカバーを外し、インクリボンカセットを取り出した。
 熱転写プリンターは、オーディオ・カセットテープのような構造をした、インクリボンカセットにより印字を行う。この際、印字した文字は白抜け文字となってインクリボンに残り、カセット内に巻き取られている。つまり、そのインクリボンカセットで印刷されたすべての文章が、カセット内に残っているのだ。
 沢木は懐中電灯をワープロの上に置き、その明かりのもとでインクリボンを引き出し始めた。しばらくリボンを引き出すと、沢木はほくそ笑んだ。
「渡辺さん! 渡辺さん!」
 小さな叫び声に気づいた渡辺が、小走りに沢木の脇にやって来た。
「どうした?」
 沢木はインクリボンを指差した。渡辺がのぞき込むと、“軍事衛星プロメテウス”の文字が見えた。
「やれやれ、立派なもんだよ沢木さん。あんたはきっといい警官になれる」
「話しを整理しましょう」
 沢木が言った。
「木下はプロメテウスに関する極秘事項を知っていた。そして、このワープロで記事を書いていた。なのに印刷物もフロッピーディスクもない。ということは、誰かが持ち去ったことになる。警察じゃないとしたら、それは木下を殺った奴だ」
「そうだな。そして、殺しの理由がほかにあるならば、プロメテウスに関連するものを持ち去る必要はない。つまり、犯人はプロメテウスについて知りたかった。そして、それを他の人間に知られたくなかった」
 沢木は大きくうなずいた。
「渡辺さん、条件はそろいましたよ。お話ししましょう、プロメテウスについて」
「ああ、だがその前に……」
 渡辺は険しい表情をして言った。
「今度は渡辺さんですか、何です?」
「腹が減ったよ」
 沢木は笑って答えた。
「私もです」



 空腹感を満足させることのできる場所を探して、渡辺は車を走らせた。その間、沢木はワープロ・リボンの中身を夢中になって読んでいた。
 環七通り沿いにあるファミリー・レストランに入った二人は、何よりもまず空腹感を満足させることに努めた。沢木はもろみソースのかかったチキンソテーのセットを、渡辺は大根おろしが乗ったビーフステーキのセットを注文し、お互いビールを口に運びつつそれを食した。食後のコーヒーを飲みながら、沢木はセブンスターを、渡辺はショートホープを吹かした。
 沢木が切り出した。
「それではお話ししましょう」
 渡辺は周囲を見渡し、近くに人がいないことを確認すると小さくうなずいた。
「一九九二年二月、相模重工に衛星写真技術研究室が設置されました。これは国需製品企画部(軍需部門を担当している部署)と、航空宇宙事業部共同の研究開発チームです。これを指揮したのは白石和哉副社長兼国需製品企画部長です。当時、国際的な軍縮気運が起こる中、日本でも防衛事業の縮小が叫ばれ始めました。これを懸念した白石副社長は、新たな利潤目標を模索する中で、偵察衛星に目をつけました。また、宮本誠航空宇宙事業部長は、二〇〇〇年には国内で三百億、世界では八千億円と推定される、衛星画像データ市場に興味を抱いていました。今でいうプロメテウス計画は、この両者の思惑の一致によりスタートしたのです。その翌年の五月、一つの事件が起こりました。北朝鮮による日本海への弾道ミサイル発射実験です。このことは国防関係者に大きな衝撃を与え、これまでにない偵察衛星論議を呼び起こしました。ここに第三の人物が登場します。時の防衛事務次官、牧野将明です。彼は白石副社長からプロメテウス計画を聞かされると、それに大きな関心を示すと同時に、後に牧野レポートと呼ばれる報告書を作成しました。それは……」
 それはこのような報告書だった。

『包括的多重層防衛戦略構想―弾道ミサイルからの防衛と装備近代化について―』
                一九九三年十一月  防衛事務次官  牧野 将明
 構想提起にあたって
 今年五月。北朝鮮により弾道ミサイル「ノドン一号」が日本海に試射された。この件に関し我が国は独自に事態を知るに至らず、在日米軍からの情報提供により、初めてこれを知るところとなった。これは日本の防衛体制を根底から揺るがす問題であり、なおかつ、非常に憂慮すべき問題である。それは、これが試射でなかった場合、着弾地点が日本海でなかった場合を想像してみれば、一目瞭然のことと推察される。
 近年、北朝鮮の核開発疑惑が叫ばれる中、その弾道ミサイル―より具体的にいうならば、核を搭載した弾道ミサイルが、万が一にも日本に放たれた場合、我が国の防衛体制の現状では、その迎撃はおろか迫り来る危機すら察知することなく、惨憺たる光景を目の辺りにすることにより、初めてその事実を知ることとなるのである。これでは一体何をもってして防衛というのだろうか。また、これまでの防衛政策とは何だったのか……
 四方を海に囲まれた我が国の領土特性を考慮すれば、敵なるものが我が国に対してその武力を行使するルートは、間違いなく空と海である。現在の国防体制でも、通常兵器(航空機や艦船など)によるものならば、それを早期発見し撃破することも可能である。しかし、弾道ミサイルについてはどうか。もはやいうまでもないであろう。
 今我が国にとって最も驚異となるものは、弾道ミサイルである。今日の国際社会においては世界的規模の戦争や、我が国に対する侵略行為などは起こり得ないであろう。だが、弾道ミサイルについては例外である。なぜなら、弾道ミサイルの発射は、ほんの少数の人間の意思により可能であるからだ。特に、独立国家共同体の国々が保有する核弾道ミサイルについては、どこまで政治的・軍事的統制が保たれているかは疑わしいものであり、少数の無知なる者や悪意ある者が、その力を行使せんとする可能性は大いなる驚異である。しかるに、弾道ミサイルに対する防空システムの確立は……
 このような防衛戦略を実現するためには、偵察衛星の存在が不可欠である。敵に知られることなくその戦力を把握し、また、早期のうちにその手のうちを見て取れるものは、偵察衛星をおいてほかに皆無であろう。しかしながら我が国には、一九六九年に衆議院で採択された、「宇宙開発及び利用は平和目的に限る」とする国会決議がある。また、偵察衛星運用開始には約一兆円(詳しくは後述)規模の莫大な予算が必要とされる。さらに、我が国の憲法上の問題などもあり……では、我が国はこのまま目と耳をそがれたままの、盲目的かつ粗略な防衛体制でいいのであろうか。
 米ソの冷戦終結、ソ連邦の解体、これらの影響により、今年、ロシアは衛星写真の販売を発表し、これを受け米政府も衛星写真の商業販売を解禁した。また、米国を中心とする外国企業により、商業衛星もいくつか打ち上げられる予定である(資料七)。このことは、我が国が特に「偵察衛星」と称する目耳を持たずとも、高解像度衛星写真(解像度一メートル=軍事的に価値のある写真)を入手することができることを示唆している。そして、実際にこれらの衛星写真を購入することは可能であろう。が、しかし、ことは国防に関わる事柄である。諸外国や外部機関に依存するような形態で、はたして即戦力となる情報を入手することができるのだろうか。またここに大いなる懸念が生ずる。やはり、我が国防衛機関独自の「目と耳」を持つことが必要なのである……
 我が国において衛星技術を有する企業は、相模重工、東芝、日本電気、三菱電気の四社である。その中でも相模重工は、打ち上げのためのロケット技術を有するとともに、衛星写真を提供する商業衛星の開発に最も意欲的である。信頼できる筋からの情報によると、相模重工は既に解像度一メートルの衛星写真技術を獲得し、また、実験衛星打ち上げの準備を推進中である……

「……というようなものです」
 沢木は続けた。
「牧野レポートは政府と防衛庁を動かす原動力となり、昨年六月、相模重工と自衛隊により、それは具体的な方向へと動き出したんです。そして、牧野レポートの確信部分とは、偵察衛星、早期警戒衛星、AWACS(早期警戒管制機)、レーダーサイト、そしてABM(弾道弾迎撃ミサイル)などによる、彼の言葉を借りれば“包括的多重層防衛戦略”なるもので、簡単にいえば日本版SDI、あるいはTMD(戦域ミサイル防衛)ということになるでしょう。まあ、このようにしてプロメテウス計画は、いつしか壮大な防空計画へと変貌していったわけです。そして、プロメテウスは完成し、今年の四月に打ち上げられ、地球の周りを高度七〇〇キロで二日周期に回っているんです。プロメテウスに搭載された高解像度衛星写真システムは、十五キロメートル四方を、解像度一メートルという鮮明さでとらえることができます。現在日本が保有する商業衛星〈ふよう〉の能力が、解像度十八メートルといえば、いかにプロメテウスのシステムが優れているかがお分かりになるでしょう」
 渡辺は二本目のタバコに火をつけながら尋ねた。
「で、沢木さんはプロメテウス計画のどの部分に関わっているんだ?」
「仮に国家防空戦略システム、といわれているコンピューター・システムの開発です」
「なんだい、そりゃ?」
「偵察衛星、早期警戒衛星、各種レーダー網からの情報を包括的に分析し、その結果から最も適した迎撃作戦を立案する。さらに、必要な情報をABMに転送し発射。その結果を判定し、必要ならば次ぎなる作戦を立案する。これらのことをすべて自動で行えるコンピューター・システムの構築です」
 渡辺は首を横に振りながら言った。
「まるでSF映画だな」
「実現可能なシステムですよ。ただし、実際にそこまでやるとなるととても相模一社の技術力ではカバー仕切れません。いずれは日本のほとんどの重工業メーカー、及び研究機関が参加することになるでしょう」
「俺にはとても信じられんよ。そんな国防上の極秘事項を知る―いや、その計画自体に関わっている人間が目の前にいるなんてね」
 沢木は軽く微笑んで冗談っぱく言った。
「まあ、こうみえても私は相模の最高頭脳ですから」
 それはそうだろう、と渡辺は思ったが、からかってみたくなった。
「俺はそんなこと始めて聞いたぞ。一体誰が言ってるんだ?」
「木下ですよ。彼の原稿が世に出てれば、渡辺さんもそれを目にしたでしょうに……」 とぼけた沢木の言いように、渡辺の心は笑っていたが、それを顔には出さなかった。沢木はこの手の冗談は通じないのだろうと思った。
「ところで沢木さん。これは私の個人的興味からの質問なんだが、そういうことに関わることに対してどう思っているんだ」
「兵器開発、などにですか?」
「ああ」
 沢木は唇を噛み締め小さく唸ると、火のついていないタバコを両手でいじりながら話し始めた。
「かつて、マンハッタン計画の指導者である核物理学者ロバート・オッペンハイマーは、“罪を知った科学者”という言葉を口にしたと伝えられています。私にもいつの日か、そんな言葉を口にする日があるのかも知れません―今、私の胸のうちにはさまざまな思いがあります。それを一口に説明するのはなかなか難しいことでして…… それは……例えば、渡辺さん、あなたもSOPにいたのなら、人を撃ったたことがあるでしょう。例えテロリストとはいえども。その時、あなたはいろいろなことを考えたはずだ。例えばそういうことです。何が正しいのか、あるいは何が正義なのか―いや、この話しはまた今度にしましょう」
 沢木は手に持っていたくしゃくしゃのタバコに火をつけた。
 渡辺には沢木の考えが、あるいは迷いというものが分かったような気がした。いみじくも沢木が言ったように、正義という名の殺人をSOP時代何度も行ってきたのだから―「なるほど、非常に参考になったよ」
 沢木と渡辺はともに感じ取っていた。お互いに共通な思いを持っているを―
 守るべきものを守れなかったこと―
 自分の行為に対する葛藤―
 しばらくの沈黙の時間が過ぎた後、沢木が言った。
「渡辺さん、プロメテウスに関連してもう一つ言っておくことがあります」
「何だ」
「プロメテウスの管制センターはどこにあると思います?」
「種子島か? いや、自衛隊施設のどこかか?」
 沢木はかぶりを振った。渡辺はいぶかりながら―
「じゃあ、どこにあるんだ」
「相模重工川崎工場ですよ。就業者数六千人の……」
「何てこった! そこをテロの標的にでもされたら―六千人もいるのに!」



 午後十一時四十分。観測機材の前に置かれた回転椅子に座り、うとうととしていた岡林は、薄く開かれたまぶたの隙間から、ちらつく光が入ってくるのに気がついた。
「たたたたたたっ、たいへんだぁー!」
 岡林は階上の仮眠室へ駆け込むと、簡易ベットの上で休んでいた松下の体を揺すりながら叫んだ。
「松下さん! 起きて起きて! たいへんなんだから!」
「うーう、なんだぁ岡林、また寿司でも食い損なったか」
「いいから早く早く! 早く下に来て!」
 松下は目をこすりながら立ち上がった。それを確認した岡林は今度は階下ヘ駆け降りて行き、ちらつく光の源を横目でにらみながら電話機を引っ掴むと、短縮ダイヤルのスイッチを押した。
 ちょうどその時刻、沢木を乗せた横須賀線の電車は、東戸塚の駅を出るところだった。月曜日の遅い時間の電車とあってか、彼の周囲には人影はなく、その車内は閑散としていた。沢木と渡辺は東京駅で別れ、沢木は電車で葉山の本部へ、渡辺は車で本社へと、それぞれ戻ることにしたのだ。
 携帯電話機を耳に当てた沢木は、そこから発せられた大声に思わず耳を背けた。
「岡林か? どうした」
「たたたたたたっ、たいへんなんですよ!」
「何が、何が起こった!」
 その答えをしたのは松下だった。彼は外部スピーカーとマイクのスイッチを入れ、動転した岡林に変わって答えた。
「抽出波に変化が現れてる。周波数は―」
 松下は目を凝らし、ちらつく光の源―人美の脳波を映し出すCRTに表示された数値を読み取った。
「およそ六〇ヘルツ、振幅は激しく増減している」
 沢木は腕時計に目をやった。この時間人美はおそらく寝ているはずだ。
「夢? 夢でも見てるんですか?」
「おそらくそうだろう。しかし、この脳波は異常だ」
「分かりました。とにかく観測を続けてください。私は今横須賀線の車中です。後一時間ぐらいでそちらに行けると思いますので」
「分かった。状況が変化したらまた報告する」
 沢木は通話スイッチをオフにすると、すぐにオンにしてウッドストックに電話した。
「沢木です。何か変わったことはありませんか」
 答えたのは森田だった。
「いえ、何もないですが。どうかしましたか」
「こちらの観測状況に変化が現れています。どんな些細なことでも構いません、何かあったらすぐにチャーリーに連絡してください」
 沢木は次ぎに白石邸に電話した。沢木の耳元で呼び出し音が何回、何十回と鳴った。それは永遠に続くかのごとく、長い長い時間に感じられた。
 これだから年寄りは困るんだ。早く出ろ
 沢木はいらつき、毒づいた。
「もしもし、白石だが」
 安眠を妨げられたその声も、幾分いらつき気味だった。
「沢木です。人美さんの脳波に変化が発生しました」
「何だって、どういうことだ」
「今は何とも、それより会長に確認してもらいたいことがあります」
「何だ」
「人美さんの部屋にそっと近づいて行って、中のようすをうかがって欲しいんです。ただし、どんな状況であっても、こちらの指示があるまでは絶対に部屋の中には入らないようにしてください」
 人美はうなされていた。激しく寝返りをうちながら、全身に汗をかき、呼吸も荒かった。それはうなされてるというよりも、苦しみ悶えているといったほうが適切だった。人美にあの悪夢が再び襲って来たのだ。
 ワイヤレスホンを右手にしっかりと握り締めた白石は、人美の部屋のドアの近くまでたどり着いた時、その苦痛に歪んだ声を聞いた。彼は思わず後退りをしながら、小さな声で沢木に言った。
「苦しんでるようだ」
「ええ、私にも聞こえました」
「どうする、うなされてるのか? いや、何かの発作―もしかしたら怪我をしたのかも。だったら待ってはおれんぞ!」
「もう少し待ってください。部屋を離れて待機していてください。いいですね」
「ああ、だがなるべく早くしろ」
 沢木はチャーリーに電話した。
「松下さん、人美は声をあげて苦しんでるようです。何か予測はできませんか!?」
 沢木は車窓の外を流れる陳腐な夜景を見ながら遅い電車を呪っていた。電車は今、大船駅のホームに滑り込もうとしている。時刻は午後十一時五十二分。横須賀線は定刻どおりに運行されていた。
「何とも言えない。何しろこんな脳波を見たのは生まれて初めてだ。エネルギーが大き過ぎる! こんなエネルギーは脳波にはないはずなんだ!」
 松下は自分の目に飛び込んでくるちらつく光に当惑されていた。
「人美の身体や精神に対して危険ということは?」
「分からん! 沢木君、一度この状態にストップをかけよう。ゆっくりとこれを分析し、対処法を考えるべきだ!」
「分かりました」
 再び白石に電話する。
「会長。人美の部屋に入ってください!」
 白石はその言葉を最後まで聞き終わらないうちに電話機を放り出すと、人美の部屋に突入した。人美は苦しんでいる、悶えている、苦しみ悶えている。
「人美君! 人美! 大丈夫か! おい、しっかりしろ!」
 白石は人美の両肩を掴み、激しく揺すりながら叫んだ。
「もうだめだ! 終わりだ!」
 人美は泣き叫んだ。
「あなたは誰! 誰なの! 助けてー!」
 人美は激しく口を開け閉めしている。
 舌を噛む
 白石はとっさにそう判断し、人美の頬を思い切りひっぱたいた。
 ピシャッ!―叫び声が止んだ。
 人美はぐったりとしながらも、徐々にまぶたを開けていった。
「人美君、大丈夫か」
 白石はそっと声をかけた。
「ああ、おじさま。怖かった。私とても怖い夢を見たの」
 人美は鼻を鳴らしながら静かに涙を流した。
「もう大丈夫だ。夢は終わったよ」
 白石は人美の頬にそっと手を寄せると、その頬を流れる滴をぬぐってやった。



 日付が変わったころ、沢木を乗せた電車は鎌倉駅を出たところだった。いらいらと落ち着かない沢木のもとに、やっと連絡が入った。
「ああ、会長。心配しましたよ」
「悪い夢にうなされていたようだ。しかも、かなりの激しいうなされようで、わしは舌でも噛み切るんじゃないかと思ったほどだよ」
「そんなにですか」
「ああ、しかしもう大丈夫だ。今家内と一緒に居間でココアを飲んでいるよ。落ち着きを取り戻してる」
 沢木は深い溜め息を吐いた。彼をずっといらだたせていたもの―守るべきものを守れないこと―その懸念が溜め息とともに吹き出した。
「そうですか、安心しました。何だか偉く疲れてしまいましたよ」
「何を言っとるんだ、いい若いもんが。はははははは……」
 白石は豪快な笑い声を発していた。その声に沢木はより安堵の気持ちを深くした。
「ところで会長、明日―いえ、もう今日ですね。午前七時三十分にお迎えに参りますのでそのつもりでいてください。詳しい話しはその時にまた……」
 一方、本部では早くも松下によるデータの解析作業が始まっていた。岡林は今だ興奮冷めやらずといった趣で、盛んに松下に向かって口を動かしていたが、手だけは松下に命じられたとおり―データの検索やプリント・アウトをすることなど―に着実に動かされていた。
 人美は千寿子の腕に肩を抱かれながら、ココアをすするようにしてゆっくりと飲んでいた。頬には涙の跡がつき、目は今だに真っ赤だった。人美を抱いた千寿子の腕には微弱な振動が伝わり、まだ悪夢から完全に覚めきっていないことを知らせていた。
 沢木を乗せた電車は午前十二時九分に逗子駅に到着した。ホームに降り立った沢木はすかさずセブンスターを口にくわえ、その煙を深く深く吸い込むと、「ふぅー」と溜め息混じりに吐き出した。彼は日に二十本弱のタバコを吸うが、そのほとんどは思考の手助けをするものである。彼は物事を考える時にはタバコの煙をまとわせる。しかし、今くわえたタバコは、ただ単にほっとしたいがためだった。
 今日は忙しい一日だった。人美、そしてプロメテウス。だが始まったばっかりだ
 ゆっくりと歩く沢木を尻目に、タクシーの順番を争う人々が、彼の横を慌ただしく駆け抜けて行った。



 八月十五日、火曜日、午前六時十二分。閑静な住宅街の一角に位置するある一戸建ての家では、その家の主婦により朝食の準備が着々と進められていた。また、その夫はダイニングルームに置かれた円い木製のテーブルに座り、熱心に新聞を読んでいた。
「あなた、幸子を起こしてきてくれませんか」
 夫は妻の声には見向きもせず、相変わらず新聞を読んでいる。夫を釘づけにしている記事は、『軍事評論家殺される』という見出しの記事だった。妻は仕方なく、フライパンの上に載ったハムエッグを気にしながら階段のところまで歩いて行き、「幸子! 朝よ、起きなさーい!」と大声を出した。妻はすぐさま耳を澄ましたが、返事も物音も一向にしなかった。もう一度声をかけようと思い、最初の一言―「さち……」まで言いかけた時、その声は悲鳴に変わった―「きゃぁー!」
 夫は驚きのあまり新聞を引きちぎって、「どうした!」と叫びながら妻のいる階段の下に駆け込んだ。階段の上を見上げた夫は声も出ずに硬直した。愛しいの七歳の娘はパジャマ姿で、口にガムテープを張られ、腕と脚をロープに縛られていた。そして、何よりも夫婦を畏怖させたものは、ナイフを持った巨人の腕に抱き抱えられていることであった。その巨人は、夫が熟読していた記事の当事者、つまり、ジャーナリストの木下賢治を殺した男だった。
 木下を殺った男は、まず、彼と手を組む組織のところへ行き、木下の所有するワープロと互換性のある機種を用意させ、フロッピー・ディスクの中身を頂戴した。そして、そのほかに持ち去った手帳や資料などと照らし合わせ、その内容をじっくりと吟味したのだった。その結果、木下に情報を提供した相模重工社員、大平勇一の存在を知るに至ったのだ。 大平は相模重工本社にある衛星写真技術研究室に所属する技術者であり、その地位は研究主幹であった。年齢は四十三歳、三十七歳の妻と七歳の娘を持つ男である。また、彼の自宅は東京世田谷区の駒沢オリンピック公園の近くにあった。
 男はある計画を立案し、その前段階として、寝静まる大平家へ一階の勝手口から侵入し、その時を待っていたのだった。
 黒い目開き帽で顔を隠した男は、鋭く大きなナイフを娘の頬にあてがいながら、ゆっくりと階段を下りて来た。大平と妻はそれに押されるかのように、ダイニングルームとリビングルームがつながる部屋へと後退りして行った。
「なっ 何なんだ。娘をどうするつもりだ!」
 大平は妻をかばいつつ叫んだ。
「心配するな。俺の言うとおりにすれば、娘と女房、そしてお前にも、危害を与えるつもりはない」
「目的は何なんだ!」
「まあ、そうあせるな。ゆっくり話してやる。だがその前に―」
 男はたすき掛けにした黒いナイロン製の鞄の中から、ロープとガムテープを取り出すと、大平の前に投げつけた。
「これで女房を縛り、口をテープでふさげ。話しはそれからだ」
 大平は床に落ちたロープを見つめながら言った。
「まさか、木下を殺したのは……」
「つべこべ言わずに早くしろ!」
 男は娘を抱く腕の力を強めた。少女の顔が歪む―「んーう……」
「わっ! 分かった」
 大平は床からロープを拾い上げると、妻を縛り始めた。妻はがたがたと震えながら、黙ってされるがままに従った。
「大丈夫。何とかなるさ」
 大平は小声で妻に呼びかけながら、ロープを妻の身体に巻いていった。
「しっかりときつく縛れよ。足首にもガムテープを巻いて、済んだらそこのソファに座らせろ」
 男は夫婦から二メートルほど離れたところから、その作業を注意深く見守った。大平は作業を終えると、妻をリビングルームに置かれた陶製のソファに座らせた。
「よし、お前も隣に座れ―いや、その前にあのガスコンロの火を止めろ」
 ハムエッグはジュージューと悲鳴をあげていた。大平は言われたとおりガスコンロの火を止め、妻の隣に腰掛けた。男は彼の着席を確認すると、自分の後ろにあったキッチン・テーブルの椅子を引きずり寄せ、そこに腰掛けた。娘は男の膝の上に座らされ、相変わらずナイフをあてがわれている。
「さて、それでは自己紹介といこう。俺は昨日、木下を殺した人間だ。お前の対応いかんによっては、この娘も殺すことになるかも知れん、それをよく肝に銘じておけ」
 大平はブルブルっと身体を震わせながら、首を縦に何回も振った。妻はしくしくと涙を流し始めた。男は続けた。
「お前は相模重工の社員であり、衛星写真技術研究室の一員だな」
「ああ、そうだ」
「よし、では俺の望みをかなえてもらおう」
「何だ」
「川崎工場及びプロメテウス管制センターの見取図が欲しい」
「そっ、そんな。一体何に使うんだ」
「余計な干渉は命取りになるぞ。イエスかノーか、どっちだ」
 大平は必死に訴えた。
「そんなのは無理だ。川崎工場の見取図ならともかく、管制センターのほうは総合技術管理部の管轄だし、その部の部長の許可が必要だ」
「では、お前では用意できないと?」
「ああ、無理な注文だ」
 男はうつむき、もの悲しげな口調で言った。
「そうか、残念だ。非常に残念でならない」
 そして娘を見つめながら続けた。
「こんなかわいい娘が、この若さにして人生を終えなければならないとは、無能な父を恨むがいい」
 男は娘に当てたナイフを頬から外し、喉もとへと移した。そして大平に視線を移すと、少しずつナイフの刃を娘の首の皮膚にめり込ませていった。
「やめてくれー!」
 大平は立ち上がりながら叫んだ。男がナイフを娘の首から離すと、そこには一本の赤い筋ができていた。
「何てことを」
 大平はそうつぶやき、妻は激しく首を振りながらもがいた。娘は涙を滝のように流している。
「では、再び聞こう。俺の望みをかなえてくれるかな」
「分かった、何とかする。だが、すぐというわけにはいかない。しばらく時間をくれ」
「どのくらいだ」
「川崎工場への往復の時間と、見取図を入手するのに必要な時間…… 半日以上かかる―嘘じゃない、あそこはガードが堅いんだ。特に、プロメテウスに関するものは―分かるだろう」
「よし、そのくらいの理解は示してやろう。ただし、妙な小細工をしてみろ、娘と女房の身体は血と肉の塊となり、その判別すらつかないほどになるだろう。分かったな」



 午前八時三十分。始業を告げる鐘が相模重工本社内に響き渡るころ、最上階の大会議室には十二人の男性と一人の女性が、大きなドーナツ状の机に座っていた。まず、白石会長、その左に海老沢社長、右には紅一点の矢萩専務。海老沢の隣に白石副社長兼国需製品企画部長。以下、航空宇宙事業部長の宮本誠、衛星写真技術研究室長、川崎工場長、厚木工場長、相模総合研究所所長、富士総合試験場管理部長、防衛庁の実務代表者であるプロメテウス研究部会座長などが白石会長を囲むように着席し、白石の真向かいの席には沢木が、その横には渡辺が座っていた。渡辺を除く十二人は、プロメテウス計画実行委員会のメンバーであり、実行委員長には白石副社長が着任していた。
 司会進行役の白石副社長が口火を切った。
「本日は早々からのお集まり、ご苦労様です。さて、本日緊急に委員会を招集いたしましたのは、会長からの火急の要請によるためです……」
 沢木は今朝の七時三十分に車で白石会長を迎えに行くと、本社に向かう車内で木下殺しの一件などを話して聞かせた。白石は息子である白石副社長に電話をし、プロメテウス実行委員会の招集を促したのだ。
「では会長、ご趣旨を説明願います」
 白石会長は軽くうなずくと、沢木を見やり言った。
「沢木」
 まったく、不精者だなぁ
 そう思いつつ沢木は答えた。
「では、私からご説明いたします。昨日、木下賢治というジャーナリストが殺害されました……」
 沢木はことの経緯を説明し、さらに―
「そこで入手したのが、これからお配りする木下の草稿です」
 ここで配られたものは、渡辺が徹夜で仕上げたものだった。彼は昨夜沢木と別れた後、ワープロリボンを持って本社へ戻り、そのリボンをカセットから引きずり出し、A4の用紙に切り貼りしたのだった。
 二十八ページにもなる草稿を読み終えた各委員からは、口々に困惑の声があがった。
 白石副社長が衛星写真技術研究室長に向かって怒鳴った。
「何ということだ! これ程までに情報が漏れていたなんて。君は部下にどういう教育をしているんだ! 管理能力に疑問があるぞ!」
 やれやれ、また始まったか
 火の粉はそんなことを思った沢木と渡辺にも降り掛かった。
「それに渡辺室長、君も君だ! こういう事態を招かないために、情報管理室は存在しているんだぞ! 聞くところによると君は最近沢木部長と―」
 渡辺は白石副社長の言葉を遮り言った。
「お言葉ですが副社長。我々にすら秘密にしておきながら―」
 さらに海老沢社長が割り込んだ。
「まあまあ、お互い大きな声を出すのは止めたまえ。副社長、実は沢木君には別件で動いてもらっているんだ。そして、渡辺君はその手伝いをしている。これは私も会長も承知していることだ。それに、いまさら責任云々を言ったところで―まあ、情報を漏らした者については処分を考えるにしても―結局は後の祭りだ。それよりも、今我々にとって重要なことは、何をなすべきか、ということだ。違うかね」
 この言葉に怒れる二人は静まった。
 矢萩専務が言った。
「それで、我が社がテロを受ける可能性はあるのですか? 犯人は情報を公開することが目的なのかも……」
 渡辺が答えた。
「その程度の腹づもりなら、殺しまではしないでしょう」
 川崎工場長が声を震わせながら言った。
「では、やはりテロを? 川崎が狙われるんですか?」
「断言はできませんが、その可能性は大です」
 渡辺がそう言うと、白石会長が判断をくだした。
「うむ、分かった。早速政府側へ事態を説明し、警備の要請をしよう。また、相模の各施設並びに全社員に対し、細心の注意を勧告する。以上でいいかな」
 再び川崎工場長が懸念を表した。
「会長。お分かりのこととは思いますが、川崎工場には六千人の従業員と、育児施設には十八人の子供や赤ん坊がいます。ぜひとも十分な警備体制をひいていただきたいと思います」
 白石会長はその言葉にうなずくと、渡辺に尋ねた。
「渡辺君、君の専門家としての意見は?」
「SOPの出動を要請するのが最も適切かと」
 渡辺の答えに矢萩専務が質問した。
「そんなことが要請できるんですか?」
「テロ対策法第三十四条の三項、及びSOP法第七条の四項に該当するケースです」
「よし。わしは早速官房長官を尋ねる。後のことは海老沢、頼んだぞ」
 白石会長は足速に会議室を出て行った。
 沢木は思った。
 ふう、どうやら説明係で終われそうだ
 この会議が重要であることは分かっていたが、沢木は早く本部に帰りたい一心だった。
 人美さんは大丈夫だろうか?


 都内のとあるホテルの一室で白石会長を待ち構えていた内閣官房長官は、政府のプロメテウス委員会及びSOP総括委員会のメンバーである。白石から事態の説明を受けた官房長官は、すぐさま首相官邸へと向かい対応を協議した。その結果、SOP総括委員会が緊急招集されたのは、白石が会議室を出てから約一時間半後の午前十時二十分だった。
 SOPの指揮監督権を持つSOP総括委員会を構成するメンバーは、内閣総理大臣、副総理(現在の副総理は大蔵大臣)、内閣官房長官、法務大臣、国家公安委員長の五人の国務大臣、及び警察庁長官、警視総監、公安調査庁長官、SOP本部長の九人である。
 会議は迅速に進められ、約二十分で終了した。ここで決定されたのは次ぎの三点―一つ、相模重工へのテロ行為警戒のため、相模重工施設が所在する各警察本部へ警備体制を執るよう命令する。二つ、特に川崎工場については、SOP第一セクションを持ってこれにあたり、その法的根拠はテロ対策法及びSOP法の該当条項による。三つ、木下殺害事件については、SOP第二セクションへ捜査が引き継がれる―以上である。
 この二つめの指令を受けたのは、アラート5体制(五分後に出動できる体制)で待機していた、SOP16部隊(SOP第一セクション第六小隊)の総勢二十五人である。
 戦術部隊であるSOP第一セクションでは、四人編成の班が六班集まり一個小隊を形成する。小隊には小隊長がいるために、一個小隊の人員は二十五人ということになる。また、小隊は全部で六隊あるので、SOP11部隊からSOP16部隊まで、総勢百五十名の隊員がいる。第一セクションを率いるのは隊長(階級は警視)であり、その下に副隊長(階級は警部)がいる。
 また、三つ目の指令を受けたのは、SOP第二セクションの二つの班である。
 捜査部隊であるSOP第二セクションでは、六人編成の班が十班集まり捜査部を形成する。つまり、六十人の捜査官がいるのだ。捜査部を率いるのは捜査主任(階級は警視)であり、その下に捜査補佐官(階級は警部)がいる。
 さらに、第一セクションと第二セクションを統括するのがSOP本部長(階級は警視監)であり、その上に内閣直属のSOP総括委員会が置かれている。
 SOPは警察庁のもと、警視庁、北海道警察本部、各管区警察局と同列に位置する組織であり、その機能はアメリカのFBIに類似している。SOP法のもと、強力な権限が与えられている彼らは、テロ対策法に基づく諸事項を実践するための組織である。
 近代的な兵器で武装した第一セクションは、ほとんどの行動がSOP総括委員会の意志により決定されるが、いざ出動となれば、一般警察や行政機関への指揮権すら発動でき、その戦術の多くはイギリス陸軍のSAS(特殊空挺部隊)を規範にしている。
 一方SOP第二セクションは、特にSOP総括委員会の判断を仰がなくとも、SOP本部長の意志により捜査活動が行える。また、その捜査権には制限がなく、日本国内のどこであろうと、一般警察より優先して活動することができる。公共の安全と秩序を守ることを目的とする第二セクションの具体的な活動内容は、テロ事件の捜査と防止、学生運動及び労働運動の過激行動の防止、右翼と左翼の監視、諜報活動の防止などである。



 午前十時五十五分。墨田川の河口に近い晴海埋め立て地にあるSOP本部から、ヘリコプターでやって来たSOP16部隊は、既に川崎工場に展開していた。
 相模重工川崎工場は、横浜市川崎区の千鳥町と名づけられた埋め立て地にあり、その隣には東京電力の川崎火力発電所がある。千鳥運河、大師運河、塩浜運河、京浜運河に囲まれた、川崎港に浮かぶこの埋め立て地への地上からの侵入路は、国道一三二号線が通る千鳥橋と、東扇島へ続く川崎港海底トンネルの二経路だけである。なお、この工場での主な生産品は、産業用ロボット、土木建築機械、鉄道車両、特殊車両、小型船舶などである。
 つい最近二十六歳の誕生日を迎えたばかりの彼は、SOPの制服を着、手にはドイツ製のMP5SD3(短機関銃)を構える自分の姿に、強い誇りを抱いていた。彼は、厳しい関門と半年間に渡る激しい訓練に耐え抜き、ようやく正式隊員と認められ、SOP16部隊に配属されたのだ。今日は彼にとって初めての、出動を経験した日であった。
「何だよ。せっかくの初出動が警備とはなぁ……」
 彼にはどんな戦闘の中においても、冷静かつ敏速に行動できる自信があった。そんな彼にとって、一日のほとんどを棒立ちして過ごすであろう警備任務は、このうえなく退屈な仕事であった。彼は持ち場から離れ、一人ふらふらと歩き出した。
「あれっ」
 彼はそうつぶやいた。大きな書類ケース―A3サイズくらいあった―を抱え込むように持った男が、周囲を盛んに気にしながら建物の隅を歩いたいたからだ。彼はその男に走り寄って職務質問をした。
「あーそこの人、ちょっと待ってください」
 ケースを持った男、それは妻と娘を人質に獲られた大平だった。
「なんですか?」
「私はSOPの者です」
 彼は誇らしげに言った。
 言わなくたって分かるよ、タコ
 大平はそう思いながらも―
「SOPが何の用でしょう。私は急いでいるんですが」
「お手間はとらせません。ただ、ちょっとそのケースの中身を見せていただきたいのですが」
 大平は毅然として答えた。
「これは設計図です。部外者には見せられません」
 新米隊員の彼も負けじと言った。
「そうはいきませんよ。残念ですが我々SOPには特権があるんですよ。それにあなた、急いでいると言ったわりには、やけに周囲に目配りしならがら歩いてましたよね」
「どんなふうに歩こうが勝手でしょ」
「まあ、とにかく中を見せてもらいます」
 大平はどうしようか迷っていた。この中にはプロメテウス管制センターの設計図と川崎工場の見取図が入っているが、見たところでこのバカには分からないだろう―いや、大きく書かれた文字は、こいつにだって“プロメテウス”と読めるだろう。それを問い合わされたら一巻の終わりだ。自分にはこれを持ち出す必要性も命令もないのだから……
 大平はこれより少し前、プロメテウス管制センター内に侵入した。彼は、管制センターで働くかつての部下に頼んで中に入れてもらい、LAN(コンピューター・ネットワーク)のデータ・バンクから必要な図面をプリント・アウトしたのだ。
 新米隊員の手がケースに伸びてきた。
「分かりましたよ。今見せますから」
 大平は隊員の手を振り払い、ケースのチャックを少し開けた。この時である。新米隊員がミスを犯したのは―
 大平は、ケースをのぞき込むようにして近寄って来た隊員の顔めがけて、渾身の力を込めてそのケースを振りあげた―「ボカ」―鈍い音がした。さらに、不意の衝撃のためにのけ反った隊員に向けて素早く二発目―「うう……」―今度は隊員のうめき声のほうが大きかった。大平のケースは彼の急所に見事命中したのだ。
「やった!」と大平は思わず叫んだ。新米隊員は彼の前にうずくまっている。
 SOP何てちょろいもんだぜ
 大平は走り去って行った。
 ややあって、うずくまる新米隊員は四人の同僚―それは第五班の隊員たちで、彼らは持ち場の移動をしている途中だった―に発見された。
 第五班のコマンダーは新米に走り寄って尋ねた。
「どうしたんだ!」
 新米は涙目で答えた。
「男が、何かを持って逃げました」
「何を」
「分かりません。しかし設計図か何かじゃないかと思います。A3サイズぐらいの薄いケースを持ってました。特徴は……」
 それを聞いた第五班のディフェンマンは、直ちに無線で本部に連絡し、男を手配した。まだ構内にいるはずである。
「それにしても、何だって一人なんだ。第一、丸腰の人間にやられるなんて……」
 コマンダーは新米を叱責した。SOPの隊員であることの鉄則は、何よりも単独行動を自重し、互いに協力し合い難局を克服することにある。そのために四人編成の班が設けられているのだから。
 SOPの班を構成する四人の隊員には、厳格な役割分担がある。それは、班を指揮するコマンダーと、家屋などへの侵入や戦闘をリードするポイントマン、ポイントマンの安全を確保するディフェンスマン、後方の警戒と散弾銃、爆薬などの追加装備をするバックアップである。
 新米隊員を取り囲んだチームメイトのもとに、後からゆっくりと歩いて近寄って来たのは、ポイントマン―実際にはポイントウーマンだが―を務める、星恵里だった。
 彼女は二十七歳の一見か弱そうな女性に見えるが、実はCQB(近接戦闘)の腕は超一流であり、エースと呼ばれるにふさわしい手腕を持っていた。エースの称号は、SOPを辞職した渡辺と、彼の右腕だった現第三小隊長である男、そして星恵里を除いてほかにはいない。
 星はふと見たコンクリートの地面の上に、きらりと光るものを見つけた。それを拾い上げた彼女は新米隊員に尋ねた。
「あなたが見たのはこの男?」
「そ、そうです。そいつです」
 ディフェンスマンは星からそれを取りあげると無線機に向かって言った。
「賊の正体が分かりました。名前は大平勇一、相模の社員です。所属は航空宇宙……」 大平は胸にクリップで付けられた身分証明書を落としていってしまったのだ。しかし、構内で彼は発見されなかった。彼は不測の事態に備えて、川崎工場からの脱出経路を調べてあったのだ。それは、産業廃水を浄化する施設から下水道へとつながる経路だった。
 信号待ちで停車していたトラックの荷台に飛び乗り、千鳥橋に設けられた検問を彼が無事突破したのは、午前十一時六分のことであった。



 人美はうたた寝から目を覚ました。昨夜はあの恐怖に襲われて以来、また悪夢を見るかも知れないという脅迫観念に駆られて一睡もできなかったが、やはり身体は睡眠を必要としている。気分転換に本を眺めていた人美は、知らず知らずのうちに机に突っ伏して寝いってしまっていたのだ。
 机の上に置いてある小さな鏡に映った自分の顔を見た時、思わず笑ってしまった。なぜなら、彼女の頬には腕枕の跡が、きっちりとついていたからだ。しかし、その笑顔は長くは続かなかった。悪夢の記憶がすぐに蘇えってきたから―「はー」と溜め息混じりの声を発しながら、両手で髪の毛をくしゃくしゃにしながら考え込んだ。
 あーあ、一体どうすればいいんだろう。あんな夢、しばらく見ていなかったのに…… そうだ! また彩香がいてくれたら、変な夢は見ないかも…… 彩香に来てもらおう 人美は足で床を蹴って回転椅子を回し、身体をドアのほうに向けた。その時―
 スーっと音もなくドアが開いた。
「あれっ」誰だろう? と思い、「誰かいるんですか?」と小声で言った。しかし、返事は返って来なかった。彼女はドアに歩み寄り廊下をのぞき込んだ。
「おかしいなぁ」
 だーれもいないのに
 彼女はそれをいぶかしく思ったものの、きっときちんと閉まってなかったのね、と片付け、居間にある電話に向かって歩き出した。彼女が階段にさしかかった時、ドアは静かに閉まった。誰もいないのに、独りでに―
 居間に入った時、タイミングよく電話が鳴った。しかも、それは彩香からだった。
「人美が電話に出るなんて珍しいわね。いつもお手伝いさんが出るのに」
「ちょうど彩香に電話しようと思ってたところだったの」
 人美は明るく努めた。
「やっぱりね」
「何が?」
「何となくそんな気がしたの―人美が連絡して来るような。以心伝心って奴ね」
「ふふっ、そうね。ところで彩香―」
「おーとっ、残念でした。悪いけど今日は家族でお出掛けなの。お姉さんの誕生日でね、一家でお食事なのよ。一種の家庭サービスね―三人そろわないとお父さんがごねるから」「そうなんだ。どっちのお姉さん」
 彩香は三姉妹の末っ子だった。
「二番目」
「そう。じゃあ、たのしくね」
「うん、明日なら遊びに行けるから。バイバーイ」
 人美は受話器を置いた後にふと思った。
 兄弟かぁ、いいなぁ。私ならお兄さんが―ないものねだりしてもしょうがないよ―でも、弟か妹なら可能性あるかなぁ
 人美は兄弟のいる自分を思い浮かべてみた。が、すぐに悪夢のことを思い出し、不安な気持ちにさいなまれるのだった。



 葉山の本部に戻った沢木と沢木組の面々が、昨夜の人美に現れた現象についての分析を試みているころ、渡辺は晴海埋め立て地にあるSOP本部にいた。相模重工の警備及び木下殺害事件の捜査を命じられたSOP本部長の田口謙吾警視監は、相模に渡辺がいることを知っていたので、彼に連絡し、細かい情報を得るために本部へ招いたのだった。
 本部長室には、渡辺、田口本部長のほかに、もう二人の男がいた。どちらも渡辺とは知り合いで、SOP第二セクション捜査第七班に所属する捜査官である。この二人はコンビを組んで仕事をしているのだが、体格も性格も何もかも、まったく対照的なコンビだった。 一六〇と背が低く、優しそうな顔の男は里中涼といい、SOP第二セクションきっての切れ者でとおっている。彼は国家公務員採用試験Ⅰ種に合格し、警察庁に入庁したいわゆるキャリア組である。警察官としての彼の非凡な才能―その明晰な頭脳は、警部補として渋谷区の渋谷警察署捜査一係での研修中に既に発揮されていた。不可解な一つの難事件と、二つの殺人事件、そしてテロ工作を一件、彼はほぼ彼自身の手で解決した。これは極めて異例のことである。なぜなら、キャリア組として“現場”に研修に来る者など、その目的は“現場”の見聞であり、実質的な捜査に携わること、ましてや事件を解決するなどということは皆無に等しいからである。その後、彼の捜査力は高く評価され、出世街道をひた走る土台が構築されたのだが、SOP創設と同時に第二セクションへの参加を志願し、今日に至った。SOPに入隊して八年、これまでに数多くのテロリストを摘発し、二つのテロ組織を壊滅に追い込んだ現在の彼は三十四歳、階級は警部である。
 里中の相棒を務めるのは、一八〇強の背丈とタフな肉体、たいていの子供なら怖がってしまうような顔、そして、妻と三つになる娘を持つ西岡武信、三十二歳である。
 彼は里中とは対照的に、高校を卒業してから警察官になり、交番勤務から始めたノンキャリアの代表のような男である。彼の武器はその鍛え抜かれた肉体にあり、空手、柔道、剣道において“段”を有し、射撃の腕前も極めて優秀であった。外勤警察官をへた後、機動捜査隊の一員として長らく活躍していた彼は、本来SOP第一セクションに志願したのだが、あろうことか上司の不手際により、第二セクションに配属されてしまった。しかし、上司の不手際は思わぬ幸運を彼にもたらした。それは、里中との出会いである。
 誰もがおっとりとした頭脳派の里中と、気短にして肉体派の西岡とのコンビなど、うまくいくわけがないと信じていた。だが、それは思い違いであった。コンビを組んで八年、二人は常にSOP第二セクションの功績の担い手であった。
「なるほどね、やっと全体像が見えてきたよ」
 田口本部長が渡辺からの説明を聞いた後に言った。
「まったく上の連中ときたら、いつも肝心なことは秘密にしてやがる」
 西岡がSOP総括委員会をいぶかしく思いながらそう言うと、そのメンバーである田口本部長は苦笑しながら言った。
「そう言うな、私だって知らなかったことなんだ」
「とにかく、木下を殺った奴を一刻も早く捕まえてください。八〇年代後半の、あの悪夢のようなテロ活動の復活などごめんですからね」
 渡辺の要求に田口本部長が答えた。
「捜査は里中率いる第七班に担当させる。加えて第二班、計十二人の捜査官を投入する。まあ、我々を信用しておけ」
 その言葉を受けた里中は、いつもと変わらぬのんきさで「えー、何とかしますよ」と言った。
 渡辺はSOP時代、里中とは何度となく共闘している。例えば、里中が突き止めたテロ計画を、渡辺が阻止するというような形で。したがって、渡辺は里中の実力を熟知しているのだが、里中の発する独特の声音は、いつ聞いても頼りないものであった。
 渡辺は里中に尋ねた。
「で、どこから手をつけるんだ?」
 その問いに里中が答えようとした時、本部長室の電話が鳴った。電話を取った本部長が里中に向かって言った。
「里中、お前にSOPの女戦士様からだ」
 それは川崎工場に展開中のSOP16部隊の女性隊員、星からの電話だった。
「やあ、恵里さん。どうしたの? 今川崎にいるんでしょう」
「もう、名前で呼ぶのやめてって言ってるでしょう。それより、伝えておきたいことがあってね。里中さんに直接」
「何?」
「木下殺しの一件、里中さんが担当するんでしょう。実は、ついさっきここに賊が侵入してね。設計図か何か、はっきりとはしないんだけど、何かを持ち去ったらしいの」
「おやおや、SOP第一セクション一個小隊が出張っていながら、とんだ大失態だね」
 星は声を大きくして言った。
「大失態はないでしょう! 人がせっかく正規の連絡前に、少しでも早くと思って連絡してあげたのに。大体ね、16部隊は経験の浅い隊員が多いんだから、文句があるなら本部長に言ってよ!」
「はいはい、そんなぁ怒らないで。で、賊に関して何か分かってることはあるの?」
「名前は大平……」
「はーい、分かりました。それじゃ、へましなでね。バイバーイ」
 里中は電話を切るとすぐに渡辺に向き直り尋ねた。
「大平勇一って社員、知ってますか」
「ああ、木下に情報を漏らした社員だ」
「なーるほど」
 里中はにっこりと微笑んで言った。
「渡辺さん、どこから手をつけるか決まりましたよ。まずは、大平の家へ案内してください」
 渡辺はこの時強く思った。沢木といい、里中といい、インテリとされる部類の人間はどうも苦手だと……



 居間のソファに座り、ただぼうっとして時を過ごしていた人美は、響き渡るサイレンの音にはっと我を取り戻した。時刻は八月十五日の正午ちょうど。サイレンは第二次世界大戦の犠牲者をしのぶものであった。ふと見ると、千寿子がダイニングルームのテーブルの側に立ち、黙祷をしている姿が映った。人美もそれに習い、黙祷を捧げた。
 サイレンが鳴り止み、人美は目を開けた。と同時に、千寿子の呼び声がした。
「人美さーん、お昼ですよ」
「はーい」と答えて食卓に着いたものの、食欲はあまりなく、食べ物を箸で突っ突くのが精一杯だった。
 向かいの席に着いていた千寿子が心配そうに尋ねた。
「食欲ないみたいね。まだ、昨日の夢のことを気にしてるの?」
 人美はうつむいたまま答えた。
「ええ、何だかとても気になって」
「そのようすじゃ、睡眠もろくにとってないんでしょう」
「ええ」
 千寿子はどうしたらよいのやらと思案しながらも、話しをしていれば少しは気分も変わるだろうと思い、「今までにも怖い夢を見たことがあって?」と尋ねた。
「はい、何回かはありますけど。こんなに続くのは初めてです」
「続く?」
「そうなんです。この家に来る前にも、昨日と全く同じ夢を何回か見ているんです。でも、彩香が心配して泊まってくれてからは、しばらく見てなかったのに……」
 人美は今にもべそをかきそうな顔をしていた。
「そう、それなら彩香さんに遊びに来てもらうといいわ。泊まってもらってもいいのよ、遠慮しないでね」
「ありがとうございます。でも、彩香、今日は用があって出掛けてしまって」
「あら、心細いわね…… それにしても、いつからそんな夢を見るようになったの?」
「七月の二十九日、日曜日の夜からです」
「まあ、よくはっきり覚えているわね」
「ええ、ちょっとやなことがあって」
「なーに、やなことって? もしかしたらそれが原因なんじゃないの、よかったら話してみて」
 人美は彩香と一緒に長浜海岸に遊びに行った帰り道、二人の男に襲われそうになったことを話して聞かせた。
「まあ、何てことでしょう。でも、大事にならなくてよかったわ、本当に」
 千寿子は人美の話しに驚きつつも、自分の推測を言ってみた。
「よほど怖かったでしょう。それがきっかけかも知れないわね」
「でも、そのこと自体はそれほど気にしてなかったんです―もちろん怖かったけれど、その後、彩香と一緒に笑い飛ばしてしまったくらいですから……」
「そう。でも、ほかに原因らしいものもないわけだし、専門的なことは分からないけど、トラウマ(精神的外傷)っていうの? それかも知れないわ」
 千寿子は沢木にこのことを伝えようと思った。



 葉山の本部では、出前の麺類や丼ものの昼食を摂りながら、沢木たちによる討議が進められていた。議題はもちろん人美に関することであり、その焦点は、昨夜彼女を襲った悪夢とその時観測された脳波の解釈に絞られていた。
 松下が言った。
「どうにも分からんというのが正直なところなんだよ。ただ、脳波形には三サイクルの棘徐波や鋸歯状波がみられるんだ」
 沢木が尋ねた。
「それはどういうことなんです?」
「つまり、昨夜人美さんの身に起こったことは、“てんかん”の発作に類似しているということなんだ―あくまで、脳波からいえばだがね」
 秋山が言った。
「“てんかん”には昨夜のようなケースもありうるんですか? 夢にうなされるような」「んん、まあ、ないとはいえんと思うが…… “てんかん”と一口に言っても症状はさまざまでね、発作の形式だけだって、痙攣発作、失神発作、精神運動発作、精神発作、自律神経発作とあるんだ。例えば、覚醒時から発作が始まり夢を見ているような状態に移行する〈てんかん性朦朧状態〉は鋸歯状波を伴うんだ。それから考えれば人美さんは“てんかん”を起こしたといえなくもない。だが、例え“てんかん”だったにしても、昨夜観測された脳波の振幅は異常の一言に尽きる。一時的に記録された周波数だって六〇ヘルツだ。脳波というのは速くても四〇ヘルツぐらいまでだからね」
 沢木は一番心配していることを尋ねた。
「昨夜のようなことがまた起こった時に、精神的な障害や脳に損傷を及ぼすような可能性は?」
「んー、難しい質問だね。しかし、可能性はあるよ。精神的興奮などによって急激な血圧上昇があると、脳の血液循環に障害を引き起こすことがある。具体的な病名で言えば、脳卒中とか、脳出血とかね。だが、今現在分かっていることからでは、何とも判断しかねる。彼女を直接診察できればいいんだが、全くもどかしい限りだよ。せめて脳波の出現箇所を特定できればいいんだが」
「つまり、脳のどの部分から異常波が出力されているか、ですか?」
「んん」
「分かりました。ソフトの変更で何とかなるか、検討してみます」
「できそうか?」
「PPSは全部で八カ所設置されていますから、それぞれの位相差を解析すれば位置を特定できるでしょう。ただし……」
 ここで電話が鳴り、応対した秋山が沢木に言った。
「沢木さん。本社からの転送で、会長の奥様からだそうです」
「奥さんから? 何だろう」
 沢木は電話に出た。
「もしもし、沢木ですが」
「あーよかった。やっとつながったわ」
「すみません、今出先なものですから。それで、ご用件は?」
「実は、人美さんのことなんですけど」
「えっ」
 沢木は一瞬驚いた。千寿子にはこの計画に関することは内密にしてあるのだ。
「ああ、お預かりしているというお嬢さんのことですね」と一応とぼけながら、沢木は皆に会話が聞けるように外部スピーカーのスイッチを入れた。
「ついさっき人美さん自身の口から聞いたんですけど。七月二十九日に……私としてはそれが原因じゃないかと思って」
「そうですか、それにしてもどうしてそれを私に?」
 千寿子はくすっと笑った後に答えた。
「誰だって分かりますよ。うちに近寄らない片山さんが珍しく来たと思ったら、人美さんのお父さんが来た日に沢木さんと秋山さんが来る。そうかと思えば何人かの人たちが人美さんの部屋に出入りをする。最も、具体的に何をしてるかまでは分かりませんけどね」
 沢木は苦笑しながら答えた。
「それもそうですね。どうもありがとうございました、非常に参考になりました」
 千寿子は重々しい口調で言った。
「沢木さん、何をしてるかは知りませんが、くれぐれもよろしく頼みますよ。お願ね」
「はい、ベストを尽くしますので」
 沢木が電話を切ると、待ってましたとばかりに岡林が叫んだ。
「その男って! 例の溺死した……」
 沢木は短縮ダイヤルのボタンを押しながら言った。
「かもな」



 神奈川県の三浦海岸にある海の家の座敷で、情報管理室の相馬はふて寝をしていた。彼は先週の月曜日から今日を含めた九日間を、三戸海岸で溺死した二人の男の足取りを探るべく捜査に費やしてきたのだが、これといった情報は何も得られず、連日を炎天下にさらされて、いい加減嫌気がさしてきたところだった。彼のすぐ脇の卓袱台の上にはビールの空き缶が二缶と、食べかけの枝豆が置かれていた。
「お客さん、お客さん!」
 バイトの若い女性が言った。
「何か鳴ってますよ、電話じゃありません?」
 彼は目を覚まし、「ああ、すまない」と言いながら携帯電話機を耳に当てた。
「もしもし、沢木ですが」
「ああ、こりゃどうも。あいにくまだ何も掴めてませんよ」
「こちらで有力な情報が得られました。二人の溺死体があがった日、人美は長浜海岸に友人の泉彩香と遊びに行っています。その帰り道、海岸近くの公園で二人の男に襲われかけたところを三人の男性に助けられています」
 彼は沢木の説明を聞きながら、目を完全に覚ましていった。
「そうか! 分かった。すぐに長浜海岸をあたってみる」
 彼はおもむろに靴を履くと、勢いよく海の家を飛び出そうとした。しかし、行く手をバイトの女性に阻まれた。
「お客さん! お勘定、まだなんですけど」



 相馬が海の家で勘定を払っているころ、渡辺、里中、西岡の三人が乗った車は、大平の自宅にまもなく到着しようかというところだった。
 地図を見ながら助手席に座る渡辺が言った。
「次ぎの角を左に曲がって一〇〇メートルほど行った右側だ」
 西岡はハンドルを左に切り、その角を曲がった。その時、「止まれ」と渡辺が指示した。「どうかしました?」
 後部席にいた里中の問いに、渡辺が前方を指差しながら答えた。
「あのタクシー」
 見ると、タクシーから大きな書類ケースを持った男が、足早に近くの家の中に消えていった。
「大平?」と里中が聞くと、渡辺はうなずいた。
 西岡が言った。
「さてと、どうしますかね。あのようすじゃ、中に誰かいそうですよ」
 次いで渡辺が―
「木下を殺った奴かもな」
 里中は―
「可能性は大ですね。大平が川崎から何を持ち去ったかは知りませんが、自身の意思での行動ならば、もっと計画的に行動したはずだ。押し込み強盗よろしくSOP隊員をねじ伏せて、急いで自宅に帰って来たところを見ると―こりゃ、物騒なお客がいそうですよ」「大平には妻と娘がいる。人質に捕られているかも知れん」
 渡辺がそう言った後に、西岡が言った。
「お客は複数かも知れない」
 里中は頭に手をあてがいながら言った。
「まいったなー、第一セクションの連中を連れてくりゃよかった―ああ、忘れてた。ここに一人いる」
 里中は渡辺の顔を見ながら尋ねた。
「こういう場合、どういう戦術をとります?」
 渡辺は答えた。
「とにかく状況を把握しないことには。まずは偵察だな」
「そうですね」と言いながら、里中は懐からSOP正式採用銃であるベレッタM92Fを取り出し、それを渡辺に渡した。
「これは渡辺さんが持っててください。大丈夫ですね」
 この“大丈夫”という言葉には、里中の渡辺に対するある想いが込められていた。彼は渡辺がSOPを辞めた理由を知っている。あの敗北に喫した人質救出作戦の際、その舞台となったテロリストのアジトを突き止めたのは里中だったからだ。そして今、大平の娘が人質に捕らわれているかも知れないのだ。
 渡辺と目と目を合わせた里中は、やや口調を明るくして続けた。
「私はろくに射撃訓練も受けてないですから」
 西岡もそれは踏まえたうえで、「いいのか? 今は民間人だぞ」と言った。
「俺が持っているよりはましだ」
「しかし、万が一のことがあったら」
「その時はお前がやったことにするさ」
 西岡は苦虫を噛み潰したような顔を里中に見せながら、自分の銃のスライドをカチャリと引いた。
「心配するな、腕は衰えていないよ。多分……」
 そう言いながら渡辺は車を降りていった。
「聞いたか? 多分だぞ、多分」
 里中は西岡の言うことを無視して言った。
「ささっ、行った行った」
 三人は大平の家へと歩き始めた。



「ご苦労だった」
 木下を殺った男は満足げに言った。ダイニングのテーブルの上には大平の持って来た資料が広げられ、椅子に座らされた娘に覆いかぶさるようにして、男はそれを眺めていた。「約束は果たした。さっさとこの家から出て行ってくれ」
 男は薄ら笑いを浮かべて言った。
「よし、いいだろう。ただし、俺がここに来たこと、お前に資料を持って来させたこと。そういったことをサツにばらしてみろ。例え俺が捕まろうと、俺の仲間が必ずお前たちを殺しに来るだろう。分かったな」
「ああ、誰にも言わん、約束する」
「では、お前は女房の隣に座れ。娘は勝手口を出たところで放してやる。それまでそこを動くんじゃないぞ」
 男は娘を抱き抱えると、ナイフをその頬に当て、後退りをしながら部屋を出て行った。 その途端、大平と妻の座るソファの裏にある、庭につながる大きな窓は音もなく静かに開いた。気配を感じた大平は、振り向きざまに思わず声を発しそうになったが、それよりも早く、飛び出した里中が彼の口をふさぎ、SOPの身分証明書を見せ、じっとしているようにと動作で指示した。やや遅れて西岡も入って来た。西岡は銃を抜き、足音を消して男が出て行った廊下のほうへと進んだ。一方、勝手口近くの裏庭にいた渡辺は、里中からの無線により男の接近を知り、側にあった物置の陰に銃を構えて身を忍ばせた。
 勝手口の前にたどり着いた男は、そのドアを開け、外のようすをうかがった。人の気配はない。男は娘を下ろすと、口をふさいでいたガムテープをはがし、ロープを解いてやった。娘はしばらく男をじっと見ていた―それは憎しみが半分と、拘束から解放してくれたことへの感謝の気持ちが半分だった―が、「行け!」と怒鳴られると、父と母の待つ部屋に向かって駆け出した。男が外へ出ようとした時、「あぁー!」という娘の悲鳴と、「ドタッ!」という音が男に聞こえた。部屋の入り口に隠れていた西岡に、娘がぶつかり転んだのだ。西岡は娘の足を引っ掴むと強引に部屋の中に引きずり込み、銃を構えて「SOPだ! 動くな!」と叫んだ。しかし、男は既にイングラム(小型の機関銃)を構えていた。彼は胸にガムテープでそれを止めていたのだ。シュシュシュシュシュシュッ―とサイレンサー付きのイングラムは音を発し、「バキバキバキ……」と廊下の突き当たりの壁に穴を開けた。とっさに身を隠した西岡は、銃声がとぎれたのを期に、部屋から身を乗り出して銃を撃とうとした。しかし、男は勝手口から外に出ていた。
 男は渡辺の目の前に飛び出して来た。渡辺は物置越しに銃を構え「これまでだ!」と叫んだが、男の反応は極めて早く、彼に向けてイングラムを乱射した。彼も身を隠しながら二発撃ち、このうち一発が男の左腕に当たった。「ううっ」と身を屈めた男に、西岡が素早く飛び掛かった。渡辺もすぐに西岡に加勢した。だが、男の力は一八〇もの背丈と屈強な肉体を誇る二人を持ってしても制することができなかった。男は背中にまとわりついた西岡を背負い投げにし、近づいて来た渡辺に回し蹴りを放った。が、渡辺はこれを両手で受け、掴んだ男の脚を手前に思い切り引き、男の身体にしがみついた。そして男の目開き帽に手を伸ばし、それをはぎ取った。
 勝手口まで来ていた里中は、その男の顔を見た途端一瞬息が止まった―そんな!―が、すぐに叫んだ。「鮫島っ!」―木下を殺った男―鮫島は、ナイフで渡辺の腕を切りつけ、立ち上がろうとした西岡の顎に蹴りを入れ、さらに催涙ガスのスプレーを撒き散らしながら庭の弊を乗り越えて逃走した。渡辺も西岡もこれを追おうとしたが、催涙ガスによる涙と痛みで視界を奪われ、それを阻まれた。里中はやや遅れて―あまりにも意外な人物の顔を見たためにすぐに動けなかった―弊を飛び越え追跡を試みたが、鮫島の姿は既に消えていた。彼は拳を握り締め、怒りの表情をあらわにした。これほどまでに感情を高ぶらせたのは、鮫島という男が里中にとって、これまでで唯一取り逃がした獲物だったからだ。
 彼は無線で本部に連絡し、鮫島の手配及び鑑識を寄越すよう要請した。
 里中に近づいて来た渡辺は、ハンカチで目を押さえながら言った。
「あいつを知ってるのか」
「ええ。ちょうど渡辺さんが辞めたころから暗躍しだしたテロリストですよ。それも一流の……」
 よろよろと目と顎を押さえながら西岡も側に来て言った。
「奴は海外に脱出したんじゃ?」
「ひょっこり帰って来たんだろう。おふくろの味でも懐かしくなって……」
 里中は渡辺に向き直り続けた。
「渡辺さん、奴は非常に邪悪な男です。十分用心したほうがいい。それからお貸しした銃は、そのまま持っていて結構です。あなたの身を守るために」
「そんなに危険な奴なのか? 詳しく教えてくれ」
「ええ―しっかし、まいったなぁー」
 突然口調の変わった里中に西岡は尋ねた。
「何が?」
「鮫島を取り逃がしたことを恵里さんが知ったら…… 何て言うかなぁ……」
 川崎工場にいるSOPのエース、星恵里がくしゃみをしたのは午後十二時四十一分のことだった。


 鮫島守の頭は疑問で一杯だった。なぜSOPが? なぜあんなに早く里中が? 大平が刺したのか? いや、例えそうだとしても、一般警官ならともかく、やって来たのは里中だ。木下を殺ったのが俺の仕業とかぎつけたのか? それも違う、そんなはずない。だとしたら…… プロメテウスの情報漏れ―それならSOPが動いていることもうなずける。ならば、川崎工場は……
 鮫島は都内の雑居ビルに用意された自分の隠れ家で、そんなことを考えていた。撃たれた傷―彼にしてみればほんのかすり傷程度。事実軽傷だった―からは今も血がにじみ出ていたが、彼は長い間の経験で身に付けた精神力により、それを神経から切り離すことができた。肉体的な苦痛をコントロールすることなど、彼には容易いことだった。
 鮫島は高校を卒業すると陸上自衛隊に入隊し、そこで戦士としての基礎を学んだ。しかし、自衛隊での生活は、あらゆることに関して欲求不満のもととなった。駐屯地での生活、間抜けな上官の怒号、現実感のない戦闘訓練、不完全燃焼の肉体、愚痴ばかりこぼす同僚、あいまいな自衛隊の位置付け、偽りの平和に戯れる危機感に欠ける国民、政治の不誠実。そうした彼の不満は日を追うごとに累積し、ありあまる力を思い存分開放できる場所を求めさせた。
 数年の後、彼はフランスに渡り、そこで外人部隊への入隊を志願した。訓練を終え、初めて派遣されたのはアフリカだった。彼の戦士としての類稀なる才能は確実に開花され、水を得た魚のように生き生きと、活力にみなぎり、そして誰よりも強く勇ましかった。
 彼は戦いの中からある種の信念―政治的でもあり、宗教的でもあった―を見出した。それは、「この世の中には卑劣にして強大なる権力が存在し、多くの善良なる民を迫害、弾圧し、己の力と私腹を固持せんとしている」という観念であり、「間違った思想には力を持って対抗しなければならない」という答えだった。その確信を得てからは外人部隊を離れ、ある時は共産主義と闘う人々と、またある時は国粋主義と闘う人々と、そしてまたある時は迫害される少数民族とともに闘った。しかし、彼なりの理想の達成の道は険しく、多くの壁が立ち塞がった。また、行く度にも積み重ねられた狂気の世界―暴力と破壊、死、混沌、野心、憎しみに包まれた世界―での生活は、次第に彼の心を狂わせた。いつしか彼の信念は彼自身の手によってねじ曲げられ、金で動く殺人マシーンへと変貌していった。
 鮫島が日本に戻って来たのは四年前、一九九一年の十一月の寒い冬のことだった。久しぶりに日本を見た彼は思った。この世の中に、まだこんな陳腐な平和を携えた国があるなんて、と。
 彼が帰国したのは、日本のある組織に雇われたためだった。その組織は〈民の証〉と称する右派系テロ組織であり、“民族の独立”というスローガンのもと、天皇の立憲君主たる地位の改善、憲法の自主制定、左翼思想の非合法化、日米安保条約の解消と自衛隊の正規軍化、他民族の排除など、テロを持ってこれらを現体制に討ったえた。
 〈民の証〉を形成するのはテロリストだけではなく、政治団体、企業、マスコミ、新興宗教団体などの一部も加わっていた。中でも改元党と称する政党は、〈民の証〉の後押しを受けて誕生した政党であり、一九八五年から高まりをみせたナショナリズムの波に乗って、その年の総選挙で八議席を奪ったのを皮切りに、一九八七年には十五議席を得て、さらに一九九一年には二十六議席を有する野党第二党にまで昇りつめた。その間、テロに関与していること、〈民の証〉の支援を得ていることなど、黒い噂は絶えずささやかれたが、ナショナリズムをくすぐる彼らの問いかけに、多くの有権者が票を入れていったのだ。
 このような当時の背景の中、鮫島は金に操られるがままに、与党のリベラル派の旗手である代議士と共産主義政党の党首、現体制に影響力を持つ実業家二人、計四人を暗殺し、さらに在日米軍基地に対する爆破テロ(死者十四名、重軽傷者三十一名)、有力企業の社長の誘拐など、悪の限りをし尽くしたのだった。
 しかし、鮫島や〈民の証〉、改元党の栄華も長くは続かなかった。彼らに執拗に迫ったのが、SOP第二セクションの捜査官、里中涼だった。彼の追求は鋭く的確であり、一九八七年のSOP創設以来、一九九三年までの六年間に、〈民の証〉の指導者二名をテロ対策法違犯の罪で、改元党の代議士と大手出版社の週刊誌編集委員をテロ扇動の罪で、さらにテロの実行犯数名を逮捕した。また、SOP第一セクションの活躍もあいまって、国内右派系テロ集団は壊滅に近い打撃を被り、一九九三年の総選挙では、改元党は六議席と惨敗した。が、里中の最大の目標は鮫島だった。
 里中は、SOP第一セクション一個小隊を率いて、鮫島のアジトと目される場所に踏み込んだ時、思わず絶句した。鮫島はその時既に海外へ逃亡した後だった。
 それから二年、鮫島は再び帰って来たのだ―
 鮫島はベットに横たわりながらつぶやいた。
「確かめてみるか……」
 彼は銃による傷を自ら治療した後、かつら、口髭、眼鏡を用いて変装し、相模重工川崎工場へと向かった。途中で車を一台失敬し、千鳥橋から川崎海底トンネルへと抜ける道路を走る車の車窓から、川崎工場を守るSOPの隊員を確認したのは、午後六時過ぎのことだった。
 やはり獲物はばれていたようだな。どうやらどこかに切れ者がいるらしい



 そのころ里中はというと、西岡とともに大平勇一をSOP本部に連行し、数時間に渡る取り調べを行っていた。
 プロメテウス計画は国防に関する最重要機密であり、それを漏らした大平には、“国家の安全保障に関する情報を漏洩した罪”が適応されてしかるべきだった。しかし、SOP総括委員会の意向により、彼は夕飯時には自宅に帰ることが許された。なぜなら、大平を罰するための裁判が行われれば、プロメテウス計画が公になってしまうからだ。また、相模重工も、彼を企業秘密漏洩のかどで告訴することはなかったが、理由はこれと同じである。だが、彼はその日をもって相模を解雇され、その数カ月後には一家そろって彼の生まれ故郷である岩手県に帰ったと噂された。
 中途半端な正義感を持つ者ならば、大平に対するこのような措置を許しはしなかっただろう。しかし、里中はそれを黙認し、彼を自宅まで送り届けてやった。大平は車を降りる時、里中に向かって不安げに尋ねた。奴はまた私を狙うでしょうか、と。里中は、父を迎えに飛び出して来た少女に微笑みかけながら答えた。「もう大丈夫だよ」と。そして大平に向き直ると、「奴も私と一緒でね、小者には興味がないんですよ」と言いアクセルを踏み込んだ。
 里中と西岡を乗せた車は、鮫島の陰を追って夜の街へと走り去って行った。



 時がさかのぼること午後三時過ぎ、葉山の本部はひっそりと静まり返っていた。人美を巡る議論は底を突き、誰もが精神的疲労を感じ、口を開くことすら億劫というような状態だった。誰かがポンと答えを渡してくれたならどんなにか楽だろう。しかし、彼らは自分自身の手で答えを探さなくてはならないのだ。なぜなら、彼らは開拓者であり、冒険者であるから―
 その静けさを打ち砕いたのは電話のベルだった。
「もしもし、相馬です。分かりましたよ、ついに!」
 秋山の取った受話器から、相馬の勢い勇んだ声が飛び込んできた。
「ちょっと待ってください。沢木さんと替わります」
 彼女は沢木に「相馬さんからです」と告げ、外部スピーカーとマイクのスイッチを入れた。マイクに近寄った沢木が言った。
「沢木です。何か分かりましたか」
「つながりましたよ。見山と溺死体」
 スピーカーの前に集まって来た沢木組の面々がどよめいた。
「彼女を救った男の一人を見つけたんです。その人は海の家の経営者で、その時のことをよく覚えていましたよ。なんせ、少女を救うなんてことは、彼にしてみればちょっとした英雄伝ですからね」
「でっ! 確認は? 間違いないんですか!?」
 沢木が問い質した。
「ええ、写真で確認しました。見山のことも、友達の泉でしたっけ? それから溺死した男二人、すべて顔を確認できました」
 岡林が思わずつぶやいた。
「すっげぇー」
「念のため、その時いた別の二人にも面通ししてもらったんですが、結果は同じです。あの日見山人美を襲ったのは、海で死んだ男たちだったんですよ」
 沢木は唇を噛み締めた。なんてことだろう。予想していたこととはいえ、ショックは隠せなかった。これはもう偶然の域を越えている。偶然の域を…… やはり彼女は……
「もしもし、もしもし……」
 相馬の呼びかけに答える者はしばらくいなかった。皆、沢木と同じ衝撃を味わっていた。ややあって、ようやく沢木が答えた。
「ああ、すみません。どうもご苦労様でした」
「いえいえ。それじゃ、私の任務はこれで終わりましたから―ほかに何かありますか?」「いえ、もう十分です。元の仕事にお戻りください」
「分かりました。それじゃあ、本社に取り敢えず戻りますので、失礼します」
「はい。本当にお疲れ様でした」
 電話がとぎれた後も沈黙の時間は続いた。それぞれが思い思いの場所に座り、直面した事実をどう受け止めたらいいものか苦慮していた。ある者は単なる偶然と思っていた。しかし、偶然がもたらすことにも限界がある。もはやサイ・パワーは確実のものなのか? そういぶかっていた。またある者は最初からそれを信じていたが、いざ自分がそれに接しているのかと思うと、何ともいえぬ恐怖心が湧きあがってくるのだった。そしてまたある者は、偶然であろうとサイ現象であろうと、そのことを人美という少女が知った時、彼女は一体どうなるのだろう? あるいは彼女はそれを意図的に行使しているのだろうか?
そんな思いで不安になっていた。だが、誰の心にも、答えとなるべきものはみいだせなかった。そして心の中は曇り、不安、恐怖、疑問、迷いが駆け巡り、そうしたそれぞれの思いが、彼ら―沢木、秋山、片山、岡林、松下、桑原―を不思議な空間へと送り込んだのだった。
 そのころ、人美は自室のベットの上で服を着たまま眠っていた。彼女の意識下の恐怖心と、無意識下の眠りへの欲求が互いに激しくぶつかり合い、ついに欲求が勝利したのだ。安らかな寝息をたて、死んだように、深く、深くと眠りの中へ、自身の心の中へと導かれていくのだった。そして、彼女の眼球がピクピクとうごめくレム睡眠を迎えると、精神は肉体を離れ、自分を見つめている者のもとへと旅立った。
 沢木たちの沈黙はその声によって破られた。時間が止まり外の世界と隔離され、彼らのいる場所は現実世界から脱した異次元空間のごとく、異様な空気が渦巻いていた。音はなく、ただその声が聞こえるだけだった。
「あなたたちはだーれ?」
 秋山の口から発せられたその声音は、優しいそよ風のように繊細で、少女の純真な心を物語るかのような、甘く切ない問いかけだった。
「えっ!?」
 沢木は突然の問いかけにはっと我を取り戻し、声のほうを向いた。
「どうして私を見つめるの?」
 皆、息を飲んだ。彼らに問いかけるその声音は、秋山から発せられてはいるものの、彼女の声ではないことに既に皆が気づいていた。それは彼女に乗り移った何かだった。
「ねえ、誰なの?」
 秋山の身体を借りた何かは、執拗に彼らを問い質した。沢木は彼女に歩み寄ろうとしてて突き進んだが、その行く手を「話しかけないほうがいいわ、多分」という桑原の言葉に阻まれた。
「どうして答えてくれないの? 答えもしないのに、どうして私に構うの?」
 秋山は鋭い視線で沢木を見つめながらそう言ったが、誰も答える者がないと知ると、もの悲しげな表情を浮かべ涙を流し始めた。その表情にいたたまれなくなった沢木は、ついに言葉を投げかけた。
「人美? 君は見山人美さんだろう?」
 秋山の顔をした人美は答えた。
「ええ、そうよ」
 その瞬間、沢木を除く者たちは身震えした。もはや偶然という逃げ場はなくなり、サイ現象は実在する、という事実のみが示された。―ええ、そうよ―その一言が証明したのだ。それは、発見の喜びや遭遇の興奮という感情の前に、ただただ驚愕させるだけの事実であった。しかし、これは沢木には当てはまらなかった。彼の心の奥深くで固まりつつある探究心と人美に対する想いは、この事実と遭遇したことによってより増強され、彼の行動を支配した。彼女を知りたい、そして守ってやりたい……
 人美は暇なく言葉を続けた。
「やっと答えてくれたのね。あなたは誰?」
 沢木はソファに座った人美の前まで近づくと、その前にしゃがみ込んで名乗った。
「私は沢木聡」
 人美は涙を流すのを止め、頬を流れた滴を手のひらでぬぐいながら言った。
「そう、沢木さん。私をずっと見ていたのは、あなた?」
「そうだよ」
「そうだと思ったわぁ。ずっと前から意識してたの、あなたの視線を」
「ずっと前って、どのくらい?」
 彼女はかぶりを振りながら言った。
「だめよ、質問するのは私よ」
「そうだね」
 沢木はにっこりと微笑み答えつつも、何ともいえぬ不思議な気分に包まれていた。今、自分は何の抵抗もなく、こうして人美の精神と会話している。一度も会ったことのない彼女と、一度もしたことのない方法で。目の前で起こっているサイ現象を、これほど無垢な状態で受け入れている自分の心理とは何なのだろう。そんな気分だった。彼は自身の心の奥底にある、行動を支配するものを意識下で理解していたわけではなかった。
「なぜ私を見つめるの?」
「答えに困るな」
「どうして?」
「自分自身でもよく分からないんだよ、どうして君を見ているのか。でも、君には非常に魅力的な―そうだなぁ、一種の才能がある。それを見届けたいと思っているのかも知れない」
「才能? どんな?」
「……」
 答えに苦慮する沢木を見て取った人美は、もういいわ、と言うかのように微笑むと、新たなるテーマを彼に示した。
「ねえ、あなたが怖いものはなーに?」
「私に怖いものなんてないさ」
 決して嘘ではない答えだった。彼は八年前にとても愛していた女性を失って以来、自分は過去の夢の惰性で生きている、という観念が頭を支配し、もはや怖いものなど何もない、得るものはあっても失うものは何もない、とずっと思っていた。
「本当?」
「ああ。私はとても大切なものを既に失ってしまっている。そのことに比べれば、もう怖いものなんてないよ」
「それは違うと思うわ。だってあなたには…… 止めとくわ」
「気になるな」
「自分で考えるのね。他人が口を挟むことじゃないから。それと、あなたは多分私と一緒、自分自身が怖いと思うわ」
「自分? よく理解できない。なぜ君は自分が怖いの?」
「私の心の中には何か別のものが棲んでいるのよ。それがとても怖い夢を見せるの。もしかしたら、私の知らないところで悪いことをしているのかも……」
 人美は視線をふっと下に落とすと、息を深く吸い込みながら天井を見あげた。沢木はその仕草から、彼女が抱く恐れや不安に対する思い込みの程度を見て取った。
「ねえ、見山さん」
「人美でいいわ」
「じゃあ、人美さん。一緒に互いの恐怖を取り除こうよ」
「それは無理よ」
「どうして?」
「だって、あなたは恐怖を自覚してないもの」
「教えてくれないかい?」
「だめ、さっきと一緒。自分で考えるのね―とにかく、私に構うのはもうやめて。じゃないと…… じゃないとあなたはひどいめに遭うわ、きっと」
「どんな?」
「自滅するわ」
 沢木は十分に言葉を選んだつもりで尋ねた。
「死ぬ、ってこと?」
「そんな感じかもね―私、もう行くわ。二度と会うことはないと思うから…… さようなら」
 人美は去って行った。沢木は何度か彼女の名を呼んだが、答える声はなかった。彼女が抜けた秋山の身体は、彼に覆いかぶさるように倒れ込んだ。彼はそれを受け止め「秋山、大丈夫か!?」と叫んだ。すかさず松下が「そこに寝かせて!」と指示し、沢木は秋山をソファに寝かせた。松下は秋山の首に手を当て脈を取り、呼吸数を数え、ペンライトで瞳孔の動きを確認した。その間、こんな怒号が飛び交った。
「もう止めたほうがいいよ。彼女は悪魔だ!」
 岡林の叫びを受けて片山が言った。
「そんな言い方は止めろ!」
「じゃあ、なんて言うんだよ!」
「そんなこと知るか!」
「分からないで偉そうなこと言うなよ!」
「何だと!」
「無責任だよ!」
「じゃあ、ここでやめることが責任あるって言うのか!? ええ!」
 それを止めたのは桑原だった。
「うるさい! 黙って!」
 ペンライトの光を消しながら松下が言った。
「大丈夫、気を失ってるだけだ。だが念のため、明日にでも精密検査を受けさせたほうがいいだろう」
「上で休ませましょう」
 桑原がそう言うと、沢木は秋山を両腕で抱き上げ、二階に向かって歩き出した。
「どうするんだよ、一体?」
 岡林が震えながら、誰に言うともなくそう尋ねた。
「うろたえるんじゃない」
 片山にそう言われた岡林は、再び声を荒げた。
「うろたえて悪いのか! ただごとじゃないんだぞ! 人美は沢木さんが死ぬって言ってるんだぞ!」
 今度は松下が制した。
「止めろ! 二人が争うことじゃない。とにかく、秋山君が意識を取り戻したところで、みんなで今後のことを話し合おう」
 秋山を抱き抱えた沢木は、怒鳴り合った二人のほうを振り返って言った。
「片山、岡林、すまない」
「……」
「片山、観測機材の電源を切ってくれ。それから、ウッドストックを呼び戻してくれ」
 それだけ言うと沢木は二階へと上って行った。
 二階の仮眠室にたどり着くと、沢木は秋山を簡易ベットの上に寝かせ毛布を掛けると、彼女の顔が近くに見える位置にあぐらをかいて座った。そこへ桑原が入って来て、彼の隣に座ると尋ねた。
「終わりにするんですか?」
 沢木は秋山を見つめたまま答えた。
「いいえ、止めません。人美の顔、見たでしょう。彼女は誰よりも怯えてる。このまま放り出すわけにはいきませんよ、絶対」
「そうね、基本的には賛成よ。私もこのままでは引き下がれない思いだから。でも、あなたは彼女に警告されたのよ。これ以上は危険かも知れない……」
「私はねぇ、桑原さん。どんな問題にでも必ず解決方法があると確信しているんです。今はその方法を思いつきもしませんが、絶対にある、そう信じてるし、また、それを見つけなければいけないと思ってます。今ここで彼女を一人にしてしまったら、彼女のほうこそ自滅してしまうような気がするんです。私はそんなことは嫌なんですよ。彼女を守ってやりたい。もしも私に怖いものがあるとすれば、彼女がそうして自滅してしまうことですよ」 桑原はそれに対して何も言わなかった。しかし、心の中ではこんなことを彼に話しかけていた。
 あなたにとって怖いもの、人美がさっき言いかけたことは、多分そういうことじゃないと思うんだけど。もっと別のものを、あなたの深層心理は恐れているんじゃないかしら



 それから数十分の時がたち、渡辺が本部に帰って来た。彼は里中たちと別れた後、鮫島から受けた傷の手当てを病院で受け、それから本社に立ち寄り、テロ対策に関する指示や警察との協力体制を整えるための段取りをうっていたのだ。
 渡辺はリビングルームに入るなり、ウッドストックたち―進藤、森田、篠原―の顔を見て言った。
「どうしたんだ? 雁首そろえて」
 進藤が答えた。
「室長こそ、腕? どうしたんです?」
 渡辺は右腕に巻かれた包帯を押さえながら言った。
「ちょっとな、サメに噛まれたんだ」
「サメ?」と何人かが言ったが、彼は無視してウッドストックに尋ねた。
「それより、何でみんながここにいるんだ?」
 片山がここで起こったことについて説明しているころ、二階で沢木に見守られながら横になっていた秋山が目を覚ました。桑原は階下に降りていて、部屋にいるのは二人きりだった。彼女は目を開けてからしばらくはポカンと天井を見つめていたが、「秋山さん」という沢木の優しい呼び声に、やっと我を取り戻したようだった。
「ああ、沢木さん。どうして、私?」
「何も覚えてないの?」
「確かぁ、相馬さんから電話があって、それから…… 分からないわぁ」
「んん、そうか。具合はどう?」
「大丈夫です。ちょっと頭が痛いけど、それは寝てたせいで―ああ、そういえば夢を見てたわ」
「どんな?」
「沢木さんとずっと話しをしている夢。でも、変な夢。話してるのは私なのに私じゃないんです。誰かが勝手に私の口を動かして……」
「それはね…… それは人美さんだよ。君は見山人美の力によって、彼女のメッセンジャーを務めさせられたんだよ」
「メッセンジャー? 私を使って?」
「そう、彼女はもう私に構わないで、って警告してきたよ」
「警告?」
「うん、止めないと僕はひどいめに遭うそうだ」
 沢木はことの一部始終を秋山に話して聞かせた。
「沢木さん、私、怖いわ」
「大丈夫、何とかするよ。しなくちゃならないからね」
「でも、沢木さんの身に何か遭ったら…… 私……」
「心配しなくても平気だよ。僕らは彼女のためによかれと思ってやってるんだ。その気持ちはきっと彼女にも伝わるはずだ」
「でも、それは私たちのエゴかも知れないわ」
「そうかも知れない。でもね、僕は自分の信じる道を行くよ」
 秋山は沢木に優しい笑みを見せて言った。
「じゃあ、私も着いて行きます」
「ありがとう、君がいてくれることは何より心強いよ」
「そんな…… 私……」
 照れながらも秋山は起きあがろうとしたが、軽い頭痛に阻まれた。
「痛たたぁ」
 沢木は微笑みながら言った。
「もう少し休んでなさいよ。ご苦労だったね。夕飯、何でもご馳走してあげるから」
「本当ですか? それだったら、私もお寿司がいいなぁ」
 彼は鼻で笑って答えた。
「うん、いいよ。葉山で一番おいしい寿司屋に連れてってあげるよ」
「岡林君、行きたがるでしょうね」
「それを知ればね。でも、二人で食べに行こう」



 秋山が再び眠りについたころには渡辺もことの成り行きを聞き終わり、いくつかの答えを期待できない疑問を当事者にぶつけ、沢木はどうしたのかと思っていた。そこへ沢木がやって来た。
「ああ、渡辺さん、お帰りなさい。あれっ、腕どうしたんです?」
「ちょっとな」
「サメに噛まれたそうですよ」と岡林が口を挟んだ。
「サメねぇー、プロメテウスのほう、何か進展があったんですね」
「ああ、だがこっちのほうが先だ。終わりにするつもりなのか? どうなんだ?」
 沢木はかぶりを振り、全員の顔を見回しながら言った。
「一旦休みましょう。考えてみればこの二週間近く、ろくに休みもなくみんな働いて来たんだ。私もさすがに疲れてきましたよ。ゆっくり休んで、頭がリフレッシュされたところで今後のことをみんなで話し合いましょう」
 彼はカレンダーの前に歩み寄り、それを眺めながら言葉をつなげた。
「来週の月曜、午前十時に皆さん私のオフィスに集まってください。それまでの五日間はEB(エクスプロラトリー・ビヘイビア)計画を一時中断します」
 それだけあれば、何か思いつくだろう
 進藤が沢木に尋ねた。
「でも、その間に何か合ったらどうするんです?」
 沢木はあっけらかんとして答えた。
「大丈夫。何かあるとすれば私の身に起こるだろうから……」



 人美は夕日の色に染まる部屋の中で目を覚ました。起きあがり窓のほうへと進み、まばゆい夕日に目をくらませながら、小さな声でつぶやいた。
「サワキさん、って誰?」

第三章 ブラッド・アンド・サンダー―Blood And Thunder

 八月十六日、水曜日、午前十時少し前。テレビ画面ではギターを持ったエディがにこにこと微笑み、画面の外では彩香がギターのリフに身体を揺らしながら、ワープロのキーを叩いていた。彼女はバン・ヘイレンの、中でもギターリストのエドワード・バン・ヘイレンの大ファンであった。彼女は今、彼らのライブ・ビデオを横目で見てはワープロを打ち、また見ては打つという、ながら作業の真っ最中だった。
 彩香がワープロで打っているのは小説であり、去年の誕生日に父親にねだってやっと買ってもらったワープロは、彼女の夢への掛け橋だった。なぜなら、彼女の将来の夢は小説家であるからだ。幼いころから空想好きな少女であった彩香は、童話の中のしゃべる動物たちやテレビ・アニメの魔法が使える女の子、ミッキーマウスにトムとジェリー、さらにはテレビゲームのRPGなど、そうした創造物に恋い焦がれ、夢中になりながら育ってきた。
 そんな彩香が初めて出会った小説は、小学四年の時に読んだ『赤毛のアン』であり、彼女はこの作品に感銘し、主人公に共感を抱いた。そして、想像するということがどんなに素晴らしいことかを発見し、自分はものを創る人間になろう―そうだ! 小説家になろう!―と夢見るようになったのだ。中学生になってから恋愛感情という未知の心と出会った彼女の創造力はさらに増強し、大学ノートにたくさんの短編小説を書きまくった。ファンタジー、メルヘン、SF、ホラーなど、どの作品にも彼女のユニークな発想と独特の恋愛観が存在し、人美曰く、「彩香には才能があるわ」と言わしめる作品群だった。また、そうした作品の多くは、彼女自身の精神世界を反映した“一人称で語られる主人公の私的世界”が印象的なものだった。ワープロを手に入れた去年の十二月十三日からは、初の長編の創作にとりかかっているのだが、なかなか思うようにはかどっていない。「これだっ!」と思って勢いに任せて書き始めたストーリーも、プリントして客観的に読むと短編の時のような冴えがなく、「これじゃぁ、ただ長いだけだわ」と迷い悩んでいるのだった。しかし、彼女はそれを楽しみ、心はいつも創作欲に満たされていた。
 曲と曲との合間を縫って、愛犬のエディの鳴き声が聞こえてきた。窓から外をのぞき込むと、人美が門のところに立っている姿が見えた。
 艶やかな毛並みを持つゴールデンレトリバーのエディに吠えられていた人美は、何度も訪問した親友の家にも関わらず、中に入るのをためらっていた。エディがこんなに激しく彼女に吠えるのは、これが初めてだったからだ。
 もう! どうしちゃったのよ。私のこと忘れたの?
 人美がそんなことを思いながらまごついていると、「エディっ! 静かになさい!」という彩香の叱り声が飛んできた。見上げると、窓から身を乗り出した彩香が手を振りながら「おはよう」と笑顔で迎えてくれた。主人に叱られたエディはやっと静かになったのだが、その目は人美のことを警戒するかのような鋭い眼差しのままだった。もしもエディが口を利けたなら、親しい彩香にこう語っただろう。
〈あの娘には怖いくらいの力があると思うんだ。どんな力かって? それは僕にも分からないさ。でもね、彩香や普通の人たちにはない力なんだよ。僕の直感に間違いない、動物的感ってやつさ。そして、その力はあの娘の知らないところでいろんなことを引き起こしてる。もうじき目覚めるよ、彼女の力が、きっと……〉
 エディが何を考えているのか人美には知る由もなく、おずおずと玄関へと進み、家の中へと入って行った。
 彩香の部屋に入った人美は電源の入っているワープロを見て、「小説書いてたの?」と言いながらベットに腰掛けた。
「よくできるわよね、ながら作業」
 彩香はテレビとビデオの電源を落としながら答えた。
「だって、このほうが集中できるんだもん」
「変なのー」
「そう言われてものねー、長年やってきたことだから」
「それで、今度はどんなお話なの?」
「今度はSFよ。ちょっと自信あるんだ」
「この前ホラーを書いてる時もそう言ってたわよ。一体いつになったら初の長編は完成するの?」
 彩香はおどけた口調で答えた。
「んんー、難しい問題ね。私も完成品を早く読んでみたいんだけど、何せ書いてるのは私だから、とほほほだわ」
 人美は笑みを漏らした。
「ところで彩香。エディ、今日機嫌悪いのかなぁ?」
「ああ、そうみたいね。利口そうに見えても結構おバカさんだから、人美のこと忘れて吠えたのかもよ。最近来てなかったじゃない」
「ひどい言い方。でも、そうなのかなぁ? 私に敵意を持ってたみたいだけど」
「気にしない気にしない―」
 言いながら彩香は悪夢の件を思い出した。
「気にしないと言えば、夢、どうなったの?」
 人美の顔はたちまち不安げな表情へと変わり、うつむきながらぼそぼそと答えた。
「それなのよ、問題は…… また始まったの、同じ夢の上映が……」
 彩香は人美の横に寄り添うように座って尋ねた。
「全く同じ夢なの?」
「ええ、同じよ」
「不思議、何でだろう?」
「白石のおばさまに話したらね―ほら、長浜に遊びに行った時、変な人たちに襲われたじゃない。あれが原因なんじゃないかって」
「んー、そうね。突然怖い夢を、しかも同じ夢を繰り返し見るなんて、何か原因があってもいいものね」
「んん。ほかに思い当たることもないし、自分でもそうかなって思うんだけど…… でも、彩香はそんな夢見てないでしょう?」
「うん。でも、おかしなものよねー。だって、私はあの時人美より遥かに怖がってて、それに比べたら人美は勇敢だった。なのに人美は悪夢にうなされて―最もそれが原因とは言い切れないだろうけど」
 彩香はふさぎ込む人美を何とか元気づけようと言葉を続けた。
「ねえねえ人美、悩んでたって始まらないんだし…… もしも不安だったらまた泊まりに行ってあげるから、ねぇ。とにかくなるべく楽しいことを考えることよ。それでだめならカウンセリングを受けるとか、とにかく解決の方法はきっとあるだろうし、永遠に悪夢が続くなんてあり得ないでしょう?」
 人美は顔を上げ、視線を彩香に合わせて答えた。
「うん、ごめんね心配かけて」
「いいのよ、そんなこと」
「ねえ。じゃあ、今日泊まりに来てくれる?」
「うん、いいよ。実をいうとね、私会長の家気に入ってるの」
 彩香は白石会長のことを“会長”と呼ぶ。
「それに、会長も私に会いたいだろうからね!」
 人美は彩香の心配り―何とか元気づけようと努めて明るい口調でものを言い、笑顔を浮かべる姿―に答えるべく、笑顔を作ろうとした。その時、もう一つのテーマを思い出した。
「ああ、それとね。もう一つ気になることがあるの」
「何?」
「昨日違う夢を見てね―男の人と話しをしている夢」
「やっぱり怖いの?」
「んーん、逆。ほっとする感じなの」
「へぇー、知ってる人?」
「んーん、知らない。でも、優しそうな顔で、話し方が柔らかくて―会話の内容は覚えてないけど…… でも、名前は分かるの」
 彩香は不思議そうな顔をして尋ねた。
「どうして?」
「その人が名乗ったから、そこだけ覚えてる」
「ちょっと不気味ね。で、なんていうの?」
「サワキサトシ」
「サワキ? どっかで聞いたことがあるような気がするなぁ」
「本当?」
「んん。芸能人じゃないし、小説家でもないし、スポーツ選手? 違うなぁー。でも聞いたことがあるような…… ないような……」
「……」
「ああっ!」
 彩香は叫び声とともに本棚の前に滑り込み、一番下に入れてある雑誌を物色し始めた。人美もその横に座り込み「分かったの?」と声をかけたが、彩香は思い当たった人物の捜索に忙しく、その心当たりを彼女に披露している暇はなかった。何冊めかの雑誌のページを開いた時、彩香の手は止まった。彼女が今手にしているのは、高名な物理学者のニールス・ボーアにちなんで名づけられた科学情報誌『ボーア』であり、彼女は小説のアイデアを得る資料と銘打って、それを毎月買っていたのだ。
「もしかして、この人?」
 彩香はページを開いたまま『ボーア』を人美に手渡し、そして見て取った。人美が一瞬息を飲むのを。開かれたページには、『制御システムの未来―EFCの可能性』と題した沢木のインタビュー記事と、彼の写真が掲載されていた。
 人美はぽつりと言った。
「そうよ、間違いないわ」
「人美、この人のこと会長から聞いたことあるの?」
 人美はいぶかりながら答えた。
「どうして? ないわよ」
「だって、この人は会長の会社の人よ」
「ええっ! そうなの!?」
「んん、とっても賢い人でね。そうね…… そうそう、ジャンボジェットの制御装置とか、んーと…… とにかく機械を操る仕組みを作ってる人なのよ。この道じゃ世界的に有名なのよ」
「そうなんだぁ。でもなんで私の夢に……」
「本当に聞いたことないの?」
「ない」
「そうか、聞いたことあるなら夢に出てきてもよさそうだと思ったんだけど」
「でも、顔までは分からないじゃない」
「んん」と彩香は考え込み、ややあってから言った。
「じゃあさあ、こうゆう推理はどう? つまり、この人は有名な人で、結構マスコミにも登場してる人なのよ―NHKの技術もののドキュメンタリーとか。きっと、そういうのを何気なく見ていて、顔もはっきり見ていたの―意識はしてなかったけど。そして、相模重工の会長のところに居候した。それと潜在意識の中の記憶とが重なって夢の中に現れた―んん、完璧!」
 彩香はパチリと手を打ち言葉を続けた。
「これで一件落着よ」
「そうね、それならつじつまが合うかもね」
 彩香は誇らしげな表情をしてうなずいた。
「でもさあ彩香? 私、今の今までこの人のこと知らなかったのよ。本当なのかな?」
「本当も何も、それ以外説明のしようがないじゃない。夢って突拍子ないとこあるから」 人美は深い溜め息を一つ吐き、一応の納得をしようとした。と、突然彩香がまた叫んだ。「ああっ!」
「今度は何!?」
「人美の怖い夢に男の人が出てくるじゃない、その人の顔分かる?」
「分からないわ、はっきりと見えるのは腕だけなの」
「声は? 振り向いちゃだめだぁー! っていう声はこの人とは違う?」
「どうだろう、それも分からない」
 彩香は想像力に身を任せるがままに口を動かした。
「私はね人美、今閃いたのよ。その人は沢木っていう人じゃないかって。人美を怖い夢から救ってくれるのはきっとこの人なんじゃない」
「まさか、ちょっと突飛過ぎない」
「そんなことないわよ。正夢とか予知夢とかっていうのもあるんだし、私がこう思ったこと自体がその兆しなのよ」
「小説家っぽい発想ね」
「私は真面目よ」
「ごめん、ごめん」
「だってさあ、怖い夢に登場する人は人美を助けようとしてるじゃない。そして、現実にも人美は悪夢に怯えている。そこへ今度はほっとする夢。しかもそれは優しそうな男の人が現れる夢。男の名は沢木聡、会長の会社の人。ばっちりだわ」
「そう言われるとそんな気もするけど……」
 すっかり自分の世界にいってしまった彩香は、人美の両肩を掴んで言った。
「あのね、人美。この世の中には“共時性”というものがあるのよ。共にする時間と書くんだけど、それはね、それぞれが別々に思える事柄も、つきつめてよく考えていくとある一つの答えに向かって行ったりとか、互いに関連し合ったりしながら存在するということなの。しかも、ただ単にそうなんじゃなくて、なんて言ったらいいかなぁ?」
 彩香は再びパチリと手を打った。
「そう! ミラクルなのよ。それを“共時性”というの。人美の悪夢、会長の家への居候、沢木さんの夢。これは“共時性”で説明できるわ」
「“共時性”ねぇー」
「もっとも、これはクライブ・バーカーが小説に書いたことの受け売りなんだけどね―正確には私の解釈かな」
「彩香」
 人美はぼそりと言った。
「今日の彩香はいつにも増して冴えてるわ。段々そんな気がしてきたもの」
「でしょう」
「で、“共時性”があるとして、その答えは何なのかしら?」
 人美の質問に対して彩香は「んー」と考え込んだ後、「どうしたらいいかな?」と疑問を投げ返し、「私ってだめよね、詰めが甘いのよ。長編が完成しないのもきっとこのせいね」と口を尖らせて反省した。それを受けた人美は笑わずにはいられなく、「だめな人」と言って吹き出した。
 荒崎で初めて悪夢のことを打ち明けた時もそうだったし、今までに何度か遭った辛いことを話した時もそうだった。いつも最後は彩香に笑わされてしまう。彼女と話すと元気が湧き出て笑みがこぼれてくる。だから、人美は彩香のことがとっても好きだった。
「もう、だめな人はないでしょ!」
 言いながら彩香も一緒に笑い、やっと出た人美の笑顔に少しほっとした。
 人美には“元気”という言葉がよく似合う。ボーイッシュで活力に満ち、夢や創造について語る彼女はきらきらと輝いて見え、それは彩香のファンタジックなものの考え方を刺激し、創造力を掻き立てる原動力となっていた。それは例えばこんなことだ。自分の書いた小説を誰かに読ませると、「面白いね」とか「つまらない」という言葉がまず返って来る。まあ、これは初歩的感想であるからよいとして問題はその先だ。どう面白いのか? どうつまらないのか? それをはっきりと自分の言葉で語ってくれるのは、彩香の知る限り人美しかいない。彩香が自分の作品について知りたいことは、単なる賛否や評論家気取りの感想ではなく、わたしはこう感じました? ということなのである。創造により生み出されたものには普遍的な価値はなく、個々人の価値観が存在するのみだ。だからこそ、“あなたが感じたこと”を、言い替えれば“あなたの価値観”を知りたいのだ。彩香が人美を好きな理由、“心の友”と賛美する理由はここにある。
 その笑いをきっかけに、二人の話題は先のテーマを離れ、無邪気な少女の会話へと変わっていった。もちろん二人の脳裏の不安や疑問、恐怖が吹き飛ばされたわけではなかったが、特別意識するでもなく明るい話題へと自然に転じていった。少女たちの精神は、傷ついたり、怯えたり、戸惑ったり、苦しんだりしても、それらを自然に打ち負かそうとするだけのエネルギーに満ち溢れていた。



 午前十一時半ごろ、沢木と秋山、松下の三人は、横浜市戸塚区にある国立横浜病院を訪れていた。この病院には松下の医師時代の後輩―友人でもあり教え子でもある―が勤めているため、秋山の精密検査を依頼したのだった。
 松下は医師免許を所持し、なおかつ現役時代はかなり優秀な医師として名を馳せていた―だからこそ沢木の目に留まったのだ。したがって、秋山の検診を彼が行うこともできるのだが、そのための設備というものが今の彼にはなかった。しかし、初歩的なチェックは彼にも行うことができた。病院に向かう赤いハイラックス・サーフの車中―それは沢木の車であり、彼が運転し、秋山は助手席に、松下は後部席に着いていた―で、松下は秋山に以下のことを質問した。めまい、耳鳴り、手足の冷え、震え、動悸息切れ、食欲不振、睡眠障害など、精神的ショックを一原因とする自律神経失調症の症状が出てはいないかと。ほかにもいくつかの質問を秋山に浴びせたが、彼女の答えはいずれもノーだった。
 秋山は昨夜沢木と寿司屋に行った時の会話の中で、自分は大丈夫だからと検査を拒み、愛らしい笑顔とそれに似合わぬ旺盛な食欲で身の健全さをアピールしたのだが、「念のため、ねっ」という沢木の一言で、検査を受けることを承知したのだった。
 彼女が受けた検査の主なものは、CTスキャンによる頭部断層撮影と、脳波賦活法といわれる脳波の検査である。脳波賦活法とは、脳波を採るための電極を左右対称に取り付け、横になり安静を保った状態で刺激(光や音による)を与え、それに起因して発生した脳波の種類や発生頻度を観察することにより、脳内部に潜む異常を発見しようとするものである。脳腫瘍、脳の損傷、脳内出血などの病気は、異常な脳波となって現れる。
 神経外科の診察室が並ぶ廊下のソファに腰掛けて、検査の終了を待っていた沢木と松下のもとに、後輩医師が結果を持ってやって来た。松下は診察結果が記されたカルテを後輩から受け取り、それをぱらぱらとめくり切った後、異常はどこにもないと沢木に伝えた。ほっとした沢木が思わずタバコに火をつけようとして、医師に「ここは禁煙ですよ」と注意されている時、秋山は彼らのもとに会心の笑みを浮かべながら戻って来た。大丈夫と思ってはいても、やはり一抹の不安は彼女にもあった。何しろ、過去には精神錯乱を起こした者もいるのだから、多分、人美の力で……
 松下は、「私は彼と昼飯に行くから、君たちは二人で仲よくしてくれ」と意味ありげな笑みを浮かべながら二人に別れを告げた。残された沢木と秋山は、何となく気まずいような、そんな心境でしばらく黙って立ち尽くしていた後、沢木のワンパターンの誘い文句で状況を打開した。
「よかったね、何ともなくて。さて、僕らも食事に行こうか」
 秋山は自分を誘うことに関して芸のない沢木のことを、この人は私に食べ物さえ与えておけばいいと思ってるのかしら、と少しばかり不満の気持ちも持っていたが、それでも彼女にしてみれば、彼と一緒に過ごせる時間―しかも仕事以外で―は、幸せを感じる時の一つだった。
 秋山が沢木に好意を持つことは、沢木組では周知の事実であり、多くの者が、何で二人の関係はいつまでたっても今以上の発展をしないのだろう、といぶかしんでいた。岡林が今年四月に入社した新人の女性に語った解説によると、「あの二人の関係は中学生レベルの恋愛関係だよ。いやー、違うな。今の中学生はもっと進んでるから、小学生レベルだな」とのことだった。また片山は、「問題は沢木にあるんだよ。あついがいつまでも過去の出来事を引きずってるからいけないんだ。中途半端じゃ秋山がかわいそうだよ」と同棲中の恋人に語っていた。さらに白石会長は、「男と女はなるようにしかならん。わしは賭けてもいいが、あの二人はいずれは結婚するぞ。わしの目に狂いはないんじゃ」と妻の千寿子に語っていた。
 こうした周囲の意見の信憑性はともかくとして、沢木と秋山の微妙な関係―互いに好意を持ちつつも、沢木には過去の悲しい出来事がトラウマとなり、自分自身の気持ちを素直に表現できなく、秋山には自分からアプローチするだけの勇気がなかった―は、彼らが出会った五年前の春からずっと続いているのだった。実に歯がゆい、ある意味ではプラトニックな、しかし、切ない恋の物語かも知れない。もうほんの少しの勇気を二人が持てば、今以上の幸せを築くことができるだろうに……
 沢木は秋山をハイラックスに乗せ、国道一号線を一路西へ―彼女の住むマンションがその方向にあるため―走らせた。
「さて、何が食べたい?」
 ハンドルを握りながら沢木がそう尋ねると、秋山は「んー、何がいいかなぁ」といつものように顔をほころばせながら思案した。なんだかんだと思ってみても、やはり彼女は食べ物に弱かった。そして、それが彼女の人生における楽しみの重要部分であることを、沢木はよく心得ていた。
 沢木組の七不思議の一つは、食通の秋山がどうやってプロポーション―身長一六三センチ、体重四五キロ―を維持しているのだろうか? ということだった。
 平日、秋山は午前六時半に起床する。彼女は独り暮らしだったが、自分のためにしっかりと朝食―もちろんパンではなくご飯である―を作り、それを食べてから七時四十分ごろに家を出る。会社に着くと、始業の鐘が鳴るまでの間はコーヒーを飲みながら新聞を読んで過ごし、仕事の合間にもよくお茶を飲んでいた。昼食は必ずといっていいほど沢木と一緒に社員食堂へ食べに行くのだが、食の細い沢木と比べると、彼女はその倍も食べているような印象を受ける。そして残りの昼休みは、お茶を飲みながら沢木か秘書室の女性たち―二十五歳と二十三歳の女性。秋山を含め三人の女性が沢木の秘書を務めている―とおしゃべりし、午後三時の休憩時間にはお菓子をつまんだりしていた。五時半に終業の鐘が鳴ると退社して、帰宅途中で晩ご飯の献立を考えながらスーパーで買い物をする。そして、再び自分のためにご馳走を作り、それを時間をかけてゆっくりと食べる。さらに、九時ごろにはビデオで映画を見たり、本を読んだりしながらケーキや〈ミスタードーナッツ〉などをつまみ、十一時ごろベットに入るという生活だった。
 出無精である秋山は、休日も自宅で過ごすことが多かったが、こと食べ物に関してはその限りでなく、友人と“おいしい店”の探索に出掛け、気に入った店を発見するとそれとなく沢木に報告し、「じゃあ、行ってみようか」と彼が誘ってくれるのを期待していた。また、食べ物の研究にも余念がなく、料理関係の本を買っては“料理の腕”を磨いていた。
 そんな彼女自身が述べた七不思議への回答は、「私は食べても食べても太らない体質だから」と、多くの女性がうらやむような答えだった。
 秋山の希望によりそば屋に入った二人は、ともに天ざるを食べながら会話をしていた。「それにしても、今年の夏の暑さは異常ですよね。沢木さん、暑いの弱いから、身体には気をつけてください」
 沢木は毎年夏になると、ただでさえ細い食がさらに細くなり、冷たいものばかりを口にして体調を崩すことが多かった。
「んん、ありがとう。この夏は忙しいからね、君も気をつけないと―」
 沢木はそばをつるつると食べる秋山を見て、にこりと微笑み言葉を続けた。
「もっとも、その食欲が途絶えない限りは心配ないか」
 言われた彼女は「ええ」と微笑み、天ぷらに箸を伸ばした。
「君は本当に食べるの好きだね」
 彼女は箸を止めて答えた。
「だって、食べることは人が生きていくための基本ですよ。沢木さんももっと食べないと―今より痩せたら骨だけになっちゃいますよ」
 沢木は身長一七〇にして体重五三キロという、かなりスリムな体形だった。八年前まで六三キロあった体重は、ある出来事をきっかけに一〇キロ減り、以来そのままの体形が維持されていた。
「大丈夫、これ以上は痩せないよ」
 この何気ない一言には、もう最悪のことは起こりはしないだろう、という沢木の考えが含まれていた。なぜなら、自分はもう人を愛することはないだろうから、愛した人を失いはしないだろうから…… しかし、今目の前にいるこの女性―秋山のことを想うと、失った勇気と力と情熱―彼は人を愛するためにはこれらのものが必要だと考えていた―を取り戻さなくてはいけないのかも知れない、とおぼろげに思うのだった。
 沢木は視線を秋山の顔からそばの載ったざるに移し、強引と思われる量のそばを箸で掴むと、それを口の中にほうり込んだ。が、むせた。
「そんなに頬張るから」
 秋山はけらけらと笑いながらそう言い、沢木は口にハンカチをあてがい堰き込みつつも、彼女に笑みを返した。
「ところで沢木さん、これからどうするんですか?」
 沢木はハンカチをズボンのポケットにしまいながら答えた。
「人美さんのこと?」
「ええ」
「そうだねー、んー」
 沢木はしばらくの間を開け言った。
「実はね、直接行動に出てみようかと思ってるんだ」
「直接行動? まさか人美さんに会ってみよう、っていうんじゃ?」
「そのとおり」
 秋山は溜め息を一つ漏らした後に尋ねた。
「会ってどうするんです?」
「具体的なことはまだ考えてないんだ。でもね、彼女のもっと内面に迫らなければ、彼女の持つ力の確信は見えてこないと思うんだ。それに、彼女自身がどう考えているのか。つまり、サイ・パワーの存在を自覚しているのかいないのか、その辺のところは彼女に聞かないことにはどうしようもないだろう」
「そうかも知れないですけど、危険度は高まるんじゃ…… 第一、沢木さんに心を開いてくれるかどうか、難しいことですよ。何しろ女の子は微妙ですからね」
「大丈夫、君のアドバイスがあれば」
「警告されたというのに、随分楽観的なんですね? 彼女の力に太刀打ちできますか?」「さあ、どうだろう。しかし、一つだけ言えることは、彼女は悪魔でも魔女でもない、十八歳の女の子なんだ。同じ人間ならば理解し合うことができるはずだ」
「沢木さん」
 秋山は真剣な顔をし、沢木のほうに身を乗り出して言った。
「十八の女の子だから怖いんですよ」



 午後四時ごろ、白石邸の門が見える場所に止まった黒いスカイラインの中に、人美の帰りを待つ二人の男の姿があった。
「いいでんすか? 本当に」
「何が?」
「だって、沢木さんは計画の一時中断を指示してるんですよ」
 運転席に座っていた渡辺は隣に座る進藤のほうを向き、この場にいる理由をもう一度言って聞かせた。
「いいか進藤。俺たちは鮫島から白石会長を守るためにここにいるんだ。決して人美を監視するためじゃない、分かるか」
 進藤は呆れ顔で質問した。
「そんな理屈が通用しますかね?」
「するさ」
「沢木さんにもしものことが遭ったらどうするんです?」
「人美にもしものことが遭ったらどうするんだ?」
 渡辺はショートホープに火をつけてから言葉をつなげた。
「世の中、二つのことを同時に満足させることは難しいんだよ。つべこべ言わずに少し黙ってろ」
 その時、人美が彩香と一緒に歩いて来る姿が進藤の目に映った。
「あっ! 帰って来ましたよ。彩香ちゃんも一緒だ」
 それを確認した渡辺がつぶやいた。
「やれやれ、やっと帰って来たか」
 進藤は思った。
 やっぱり目当ては人美じゃないか、嘘つき



 この夜、自宅に戻った沢木がシャワーを浴び終え、ビールを飲みながらタバコを吹かし、人美のことを考えているころ、人美もまた沢木のことを考えていた。彼女はパジャマ姿でベットに横になり、彩香が風呂からあがるのを待ちながら、『ボーア』に載った沢木のプロフィールを読んでいた。

 沢木聡。一九六三年、東京生。
 東京工業大学卒業後、マサチューセッツ工科大学に留学し、同校の人工知能分野の指導者、マービン・ミンスキー氏に師事、制御システム工学の研究に精励する。
 一九八七年、エクスペリエンス・フィードバック制御論理(経験帰還制御論理)を構築、翌年、EFC(Experience Feedback Control) プロセッサーからなるシステムを開発した。その後、ボーイング社の研究チームに参加し、一九八九年、今日では航空機制御のスタンダードともいえるSFOSを生み出す。
 現在、相模重工主席研究員兼総合技術管理部部長。次世代SMOSの開発に取り組んでいる。

 プロフィールを何度となく読み返し、沢木の写真を見ているうちに、人美は夢の中での会話の雰囲気を思い出し、この人はどんな人だろう、会ってみたいなぁ、と強く思うようになっていた。雑誌に載った沢木の表情には優しい笑みがうっすらと浮かび、淡いブルーのシャツに深い茶のネクタイ、黒のジャケットを着ていた。髪の毛は短くさらさらで、タバコを挟んだ人差し指と中指は、まるで女性の手のような細長さだった。
 一度も会ったことのない人、意識したことのない人、そんな人がなぜ夢に現れたのだろう? 彩香の説にもうなずけるところはあるが、それだけじゃない何かが―やはり“共時性”というのだろうか? そんなものの存在を感じつつ、本当に夢で感じたとおりの人なのか、外見から察するとおりの優しい人なのか。無性に会ってみたいと思う衝動、ただその一心から写真を見つめ続けていた。
 沢木と人美は会ったことはなかったが、いくつかの手がかりから互いの人間像の輪郭を知り、何よりもまず会ってみたい、と時を同じくして願っていた。それは単なる好奇心に起因する欲求のようなものではなく、ある種の運命―二人が出会うことがあたかも宿命づけられているような―を感じさせる崇高な願いだった。しかし、二人のその願いが、今、まさに目覚めようとしている人美の力を刺激して、彼女の意志とはまるで方向が違うところへ力を及ぼそうとしていた。もちろん今の二人には、これから起こることなど、想像すらしていないことだった。
 風呂からあがってきた彩香は沢木の写真を見つめる人美を認めると、長い髪を丁寧にバスタオルでふきながら声をかけた。
「ずいぶん熱心ね。まるで恋人の写真を見てるって感じじゃない」
「そんなんじゃないけど。でも、この人ってどんな人なのかなぁ、と思ってね」
 彩香は人美の横になるベットに腰掛けて言った。
「きっと、いい人だと思うよ」
 人美はその言葉が嬉しくて、少し大きな声で「本当に! そう思う!」と言った。
「うん。だって、優しそうな人じゃない。第一ハンサムだわ。私の好みとはちょっと違うけどね」
 人美は視線を写真に戻して納得するかのようにつぶやいた。
「そうよね、優しそうだよね」
「まあ、そのうち会えるよ、きっと。何せ“共時性”があるからねー。ところで人美、人美はさあ、こうゆう人はどう思う。つまり、男の人としてはどう?」
「んー、分からないわ。だって、そうゆう興味とは違う興味の人だもん」
「でもさあ、タイプかタイプじゃないかくらい分かるでしょう。自分のことなんだから」「そうねー、外見的には好きだよ。インタビューの受け答えも、このとおりにしゃべってるとしたら凄く知的で、想像力のある人だと思うし……」
「んん、想像力はあるに越したことはないわ。想像に乏しい人はつまらないからね」
 人美はにっこりと微笑んで彩香に言った。
「ねえ、私もう眠くなちゃった。今日は安心して眠れそうだし、私先に寝るね」
 時刻が午後十一時を回ったころ、人美はそう言って眠りについた。彩香は目を閉じた人美に、にこっと微笑みかけて、鏡の前に座りドライヤーで髪を乾かし始めた。
 彼女は右手にブラシ、左手にドライヤーを持ち、バン・ヘイレンの『ホエン・イッツ・ラブ』を鼻で歌いながら全身でリズムをとり、丹念に自慢の黒髪を乾かしていた。
 と、突然ドライヤーが止まってしまった。何度かスイッチを入れ直したが何の反応もない。どうしたんだろう? ああ、コンセントかなぁ、と思い当たり、鏡台とタンスの間にあるコンセントを、床にひざまずいてのぞき込んだ。しかし、プラグはきちんとコンセントに差し込まれている。おかしいなぁ、といぶかしんだ時、「ううっ、うーん」というかすかなうめき声を聞き取った。彩香は上半身を起こし、ベットで眠る人美のようすをうかがった。見ると、さっきまで穏やかな表情で眠りについていた人美の顔は歪み、夢にうなされているかのように頭を左右に振りながら、低いうめき声を発していた。彩香は「人美、人美」と呼びかけながら彼女の側に歩み寄り、「どうしたの? 夢なの? 起きて、人美。ねえ、起きてよ!」と彼女の身体を揺すりながら起こそうとした。しかし、目覚める気配は一向になく、むしろうなされる度合いは激しさを増し、呼吸は荒くなり額から脂汗を浮かべ始めていた。
「人美、起きてよ。起きて起きて起きてーっ! お願だから目を覚ましてよ!」
 彩香は必死に叫び続けたが、それでも効果は現れない。
 どうしよう、人美。どうしよう、どうしよう。あー、落ち着くのよ彩香
 人美はさらに激しくうなされ始め、それはもはや苦しんでいる状態だった。
 そうだ、とにかく会長に知らせなきゃ。急がなくちゃ
 彩香はドアに駆け寄りノブを掴むと、ぐいっと押した。しかし、ドアは開かない。もう一度押す―開かないっ!―今度は引いてみたがやはり開かない。押したり引いたり、何度か繰り返したがドアはピクリともしなかった。
「何よ! どうなってんの!」
 彩香はさらにドアと格闘を続けた。その時―バシャーン!―鏡台の上に置いてあった化粧水のビンがドアのすぐ横の壁に激突して木っ端微塵に砕け散った。「きゃあーっ!」と悲鳴をあげながら彩香はしゃがみ込み、恐る恐る後ろを振り返った。
 スヌーピーの縫いぐるみが宙を舞っていた。ドライヤーもブラシも、本、CD、鞄、そうしたものがまるで宇宙空間に投げ出されたかのごとく宙に舞っていた。そして、人美は青白い光に包まれていた。
「何よ、何なのよ!」
 彩香は目の前で繰り広げられている異常な光景に畏怖しながらも、光に包まれながら悶え苦しむ人美を見て悟った。
「人美だ、人美がやってるんだ。人美、人美…… ひとみー! 起きてー!」



 沢木はベットの上に寝転んだが、蒸し暑さのためになかなか寝つかれずにいた。二つある窓は両方とも開け放されていたが、なぜか今夜に限って、いつもの涼しい風はひと吹きたりともしなかった。彼は何としてでも寝てやろうと、暑さを意識から切り離すことに努めていた。しかし、頬と枕の間のじめじめとした感触が、それを許さなかった。
 暑さに耐えきれなくなった沢木は、ようやくエアコンのスイッチを入れた。そして、二つの窓を閉め、鍵をかけた。
 素直に冷房を入れるべきだったな
 しばらくすると寝室は心地よい室温に落ち着き、沢木はいまさらながら技術に感謝した。さっきまでの我慢は一体何だったんだろうか? と自問自答しているうちに、彼は眠りへと導かれていった。そしてしばらくすると、まぶたに埋もれた眼球が、ピクピクとせわしなくうごめき始めた。額には脂汗がにじみ出て、右へ左へ、あるいは一回転と、寝返りをうった。
 彼は夢を見ていたのだった。

 沢木は、さらさらとした、ほんのりと焼けて暖かい白い砂の上に立ち、迫り来る波を眺めていた。青く晴れ渡った大空からは、太陽の光がさんさんと降り注がれ、数羽のカモメたちがまるで彼をからかうかのように、つかず離れず、彼の周囲を飛び回っていた。
「いい天気だぁ。空も、海も、いつもよりずっと素晴らしい青だぁ」
 彼はそうつぶやいたが―突然、強烈な閃光が彼を襲った。
 あまりのまぶしさに、彼は両目を腕で覆った。そして、その光は彼の体をじわっと暖めた。やや遅れて激しい風、爆風―
 彼は脚を踏ん張り、なんとかそれをしのいだ。
 風が止んだ―
 沢木は腕を下ろし、遥か沖合を見つめた。そこには黒々としたキノコ雲が、もくもくと立ち昇っていた。
 あれは一体?
 その後を考える暇もなく、彼は足の裏に不快感を感じた。見ると、白い砂はヘドロのようなどろどろの物質に変わっていた。
 彼は思わず片脚を上げて叫んだ。
「何だこれは!?」
 軸となった足がぐにゅっと沈み込んだかと思うと、足の指の間にその不快な物質が、にゅるにゅると入り込むのが感じられた。
 彼はバランスを崩し倒れた。今度は体のあちらこちらに不快感―彼は素早く立ち上がった。背中の皮膚とシャツの間を、ヘドロがたらりたらりと流れ落ちていくのが分かった。その流れに沿って、首筋から入った冷気が背骨伝いに体を貫いていく。
 彼は身を震わせながら周囲を見渡した。そこは、見渡す限りをヘドロの荒野とどす黒い雲に覆われた空間だった。
「ここは一体どこなんだ。あの、あのキノコ雲は何だ!」
 彼がそう叫ぶと、それに答える声があった。
「原子力発電所が爆発したんだよ。何しろ、あの原発は相模重工製で、しかもSMOSを使用してるからねぇ。爆発したって何の不思議もありゃしない」
「何だって、そんなバカな!」
 ばりっとした紺のスーツを着た長身の中年男は沢木に言った。
「バカなのはあんただよ。あれを見てごらん」
 沢木は紺のスーツの男が指差すほうを見た。霧が掛かってよく見えなかったが、何かが積み重なってできた丘のように見えた。見つめるうちに霧は次第に晴れていき、何が積み重なっているかが見て取れるようになった。それは、焼けただれた死体が積み重なった―そう、死体の山だった。
 その死体の山からは、屍からはがれ落ちた肉と血が赤紫色の泥となり、とくとくとした流れを造っていた。そして、その流れは沢木の足下に続いていた。
「こっ! このヘドロは…… うわぁあー!」
 絶叫と同時に、沢木は身体にこびりついたヘドロを、血と肉の泥を振り払おうと狂喜乱舞した。
「ひぃっひひひひ…… 愉快、愉快。あんたはダンスの才能があるよ」
 紺のスーツの男は続けた。
「しかしねぇ、まだ見せ―ちょっとあんた。ダンスはそのくらいにして人の話しをお聞き。まったくどうしようもないバカたれだね」
 沢木は制止した。しかし、顎と首と肩が、小さく細かく震えていた。
「こんなことで取り乱したりするんじゃないよ、大バカ者が。ほら、あそこも見てごらん」 紺のスーツの男が指し示した場所には、めらめらと燃え上がる巨大な炎があった。そして、その中には白い円筒状のものがあった。
「大バカ野郎の沢木さん、あれが何だか分かるかい?」
 沢木は震える声音で答えた。
「いいや」
 すると紺のスーツの男は溜め息を一つ吐き、呆れ顔で言った。
「やれやれ困ったもんだねぇ、あんたは正真正銘のバカだよ。バカで、あほで、まったく手の施しようのない愚か者だよ。自分が造ったものも分からないとは、とほほほほほ…… あれはボーイング747だよ。墜落したんだ。何しろ、あれにはSFOSが使用されているからねぇ。ひぃっひひひひひ……」
 そんなぁ、747が落ちるなんて
 沢木は呆然としていた。すると、747の残骸から小さな男の子が這い出て来た。その目は異様に血走り、白目が赤目になっていて、左右の目は別々の方向を見ていた。髪の毛はちりちりに焦げ、服はところどころに穴が開きぼろぼろだった。また、皮膚やぼろ服は、焼けたのか煤がついたのか、原因は分からぬが黒ずみ、右腕の肘から下はプラプラと不自然に揺らめいていた。
 男の子はゆっくりと、確実に沢木へと迫って来た。男の子が近づくごとに、彼はなんともいえぬ威圧感を感じ、男の子の歩調に合わせて後退りしていった。
 男の子が何歩めかに脚を踏み出した時、その振動でプラプラの腕がドサリと落ち、血肉の泥の中に溶けていった。
 男の子は血の色の涙を浮かべながら叫んだ。
「お前のせいだぁ! お前のせいで、お父さんも、お母さんも、お姉さんも、みんな、みんなぁ! みんな死んだんだよ。この大バカ野郎!」
 沢木の目からも涙が溢れ出てきた。
「そんな、そんなはずない。俺のせいなんかじゃない…… 俺のせいじゃないよぉ!」
 彼は喉がはち切れるほどの大声で叫んだ。
 男の子はいつの間にか現れたテレビのスイッチを入れた。
「未来を切り開く先進技術の相模重工……」
「未来を切り開く先進技術の相模重工……」
「未来を切り開く先進技術の相模重工……」
 それは、相模重工のPRコマーシャルだった。そして、その言葉を画面の中でしゃべっているのは、あの、紺のスーツの男だった。
「未来を切り開く先進技術の相模重工……」
「未来を切り開く先進技術の相模重工……」
「未来を切り開く先進技術の相模重工……」
 沢木はぼろ雑巾と化していた。目は腫れ上がり、涙が絶え間なくこぼれ落ち、全身には汗と血肉の泥とがこびりつき、強烈な悪臭を発していた。
 なんてことだ。俺の技術は、何の役にも立たなかったというのか
「そうだよ、当たり前じゃないか」
 男の子が言った。
「お前のようなバカでも、それに気づくことがあるんだな」
 男の子は沢木に一歩、また一歩と、徐々にその距離を詰めて来た。歩く度に、顔や腕、脚の肉がはがれ落ち、次第に白い骨が見えてきた。
 突然、男の子はうめき声をあげながら、今では白骨化した左手で、半ズボンの中からTシャツの裾を引っ張り出した。と同時に内蔵が―まるで満水になったダムが崩壊し、蓄えられた水が一気に流れ出るかのごとく―ザーっと流れ落ちた。
「おゎえぇー」
 沢木は嘔吐した。胃の壁面が収縮し底が激しく波打った。口から飛び出した流動物は、やがて乳白色の液体へ、さらに透明の液体へと変化した。
 なおも男の子は近づいて来る。そして、かがみ込んだ沢木の前にまで来た時に、男の子は崩れ落ちた。まるで、ビルの爆破解体のように。
 男の子の体は消え、その破片がヘドロの中に沈み込もうとしていた。しかし、頭が残った。頭は沢木をにらみつけていた。
「お前を殺してやぁぁぁぁぅ……」
 その言葉を最後まで言い終わらないうちに、頭は口を境にぱっくりと割れ、崩れ、そして血肉の泥に溶け合わさった。
「わあぁぁぁぁ……」
 沢木は叫び声とともに号泣し、それはむせび泣きへと変化した。
「お若いの、あんたも随分と無駄なことをしてきなすったのう。今ではみんなが死んだよ」 いつの間にか、沢木の隣には年老いた白髪の紳士が立っていた。
「原発が吹っ飛び、みんな死んだ。おっきな飛行機が落ちて、みんな死んだ。おっきな船も沈んで、みんな死んだ。あんたのせいで、みんな、みんな死んでしもうたよ」
「父さん」
 沢木は白髪の紳士に呼びかけた。
「貴様などから父さんなどと呼ばれる覚えはないっ!」
 それでも必死に訴えた。
「みんなじゃない! まだ残ってる! プロメテウスが! プロメテウスが残っているよ!」「この世に及んでまだそんな戯言をぬかすかぁ! 上を見てみっ!」
 沢木は言われるままに天を仰いだ。そこには、赤々と燃えるまばゆい光の塊が飛来して来ていた。それを見た彼の思考は、これまでの人生においてかつてなかったほど目まぐるしく働いた。
 この世に生を受けてから今日まで、さまざまなことを経験し、多くのことを学び取ってきた。ある時は喜び、ある時は悲しみ、希望と絶望とを垣間見てきた。その中で彼は、ものを創ること、創造すること、知を身につけることに精励し、それを咀嚼することを自己のあるべき姿と信じてきた。また、彼は深い自信を持っていた。自身の思想、行動、結果、それらがすべて正しいと―いや、正しいとはいわないまでも、かなり真理に近いと確信していた。事実、人は彼を指導者として、識者として、尊敬と羨望の眼差しを持ってこれまで見つめてきた。だが、それは今をもって崩壊した。これまで築きあげてきたすべてのものは、虚構であり、過ちであり、裏切りだった。何もかもが失われ、残ったものは虚しくもはかない己の身一つだった。
「ああ、そんなぁー。すべてが失われるなんて。そんな、そんな…… 俺の真実の姿が破壊神だなんて。嘘だぁ、嘘だぁ。嘘だ!嘘だ!嘘だぁー!」
 空気の摩擦で真っ赤に焼けたプロメテウスは、今、地表に向けて、ゆっくり、ゆっくりと落ちて来る。
「俺のしてきたことは一体なんだったんだ…… 一体…… 何だったんだよぉー!」

 沢木はばさっと上半身を起こした。心臓はどくどくとのたうちまわり、呼吸は荒く窒息しそうだった。
「はあ、はあ、はあ、ゆ…… はあ、夢か……」
 安堵の気持ちに包まれた。気が緩んだせいか、頭の中の血がすうっと落ちていき、頭蓋骨の中に冷水を入れられたような感覚の後、じわっと脂汗がにじみ出た。
「なんてひどい夢だ」
 膝が笑い出した―
 歯がかちゃかちゃと音を出した―
 鳥肌が立った―
 恐怖に怯えた―
 しかし、まだ終わらない―
 バシャーン!
 突然、窓ガラスが割れた。
 すさまじい炸裂音とともにガラスが飛び散り、突風がなだれ込んだ。タオルケットが舞い、枕が転がり、額が落ちそのガラスが割れ、机の上の本のページが勢いよくめくれた。「うわぁー!」
 沢木はベットから飛び降りたが、枕を踏みバランスを崩しガラスの破片の上に倒れた。「あぁー!」
 激しい苦痛が体中を駆け巡った。腕や脚―露出した部分にガラス片が食い込んだ。それでも構わず、夢中で立ち上がりドアまで走った。足の裏にめりめりとガラス片が突き刺さった。足が着地するごとに激痛―
 ドアを開け寝室を出たところで、風で押し戻されそうになるドアのノブを両手でしっかりと握り、渾身の力を振り絞って閉めた。
 風が止んだ―
 沢木はドアの前にへたり込んだ。
 何だ! 何がどうしたっていうんだ! まだ夢なのか!?
 すると、荒い呼吸音の合間を縫って、ピアノの音が聞こえてきた。しばし聞き入る―「サティだ」
 その曲は、サティの『ジムノペディ第一番』だった。彼は立ち上がってピアノのほうを見たが、それを弾く者の姿はなかった。
 静かに、穏やかに、優美に流れるサティの曲―
「美和の好きだった、サティ。よく弾いていた、サティ」
 彼は血のにじみ出た足の痛みも忘れて、美和が愛した、いつかプレゼントしてあげると約束した、スタインウェイのピアノに近づいて行った。
 沢木の目に映るハンブルグ・スタインウェイには、うっすらと靄が掛かり、境面の黒いボディは冷たく光り、白い鍵盤は曲に合わせて浮き沈みしながら、怪しく輝いていた。
 ヒタッ
 彼の頬を不意に柔らかく冷たいものが触れた。振り向くとそこには―
「み…… 美和」
 柔らかく冷たいものの正体は、かつての婚約者、水野美和の手のひらだった。
「久し振りね。元気だったぁ、聡」
「どっ、どうして君が」
「いいのよ、何も言わないで。さあ、帰りましょう」
「帰るって、どこへ」
「決まってるじゃない、私たちのお家よ」
「おうち?」
「そう、子供たちが待つ、私たちのお家」
「子供?」
「そう、最初の子は女の子、次ぎは男の子、最後の子は女の子。聡の望みどおり、女、男、女の順で生まれた私たちの子供よ」
 彼は顔をほころばした。
「そうか」
「そうよ、そしてルースンのいるお家」
「ルースン?」
「犬よ、ベタールースンアップ。聡が飼いたがっていたシェパードじゃない」
 彼の顔は完全に笑みに覆われた。
「そうか、そうかそうか」
「さあ、行きましょう」
 美和は満面に笑みを浮かべ、沢木の手を取り導いた。彼はその導きのままに歩いて行った。
 サティはまだ奏でられている―
 いつしか二人は、まぶしい光に満ち溢れる霧の中を歩いていた。そこは、白く、真っ白だった。
 そうか、美和は生きていたんだ。美和が死んだ―あれは夢だったんだ。子供たちとルースンのいる、何より美和のいる家
 彼は幸せな気持ちに包まれていた。
 夢が、望みが、やっとかなったんだ。どんなにこの日を待ち望んでいたことか―子供たちとルー……
 その時、沢木は冷たい美和の手の感触を新たに感じた。さっきよりもさらに冷たく、今では氷のようだ。
 待てよ、待て、待て。なぜ子供たちの名前が分からないんだ。犬の名が分かって、なぜ自分の子供の名が分からない。顔は? どんな顔だっけ? だめだ、思い出せない……いや、違う。思い出せないんじゃない。そんなもの、そんなもの存在しないんだ
「そうだろう、美和」
「えっ、何か言った」
 なぜ美和の手はこんなに冷たいんだ。俺の知っている美和の手はもっと、もっともっと温かかった。これはきっと
「嘘だ」
「何が?」
「これは嘘だ。なにもかもでたらめだ! 子供も犬も、そして美和、君もだ」
「いやだわぁ、どうしてそんなことを言うの?」
「君は死んだんだ、八年前の飛行機事故で。死んだ人間が生き返るなんて、僕は信じない」「まーた始まったぁ」
 美和の口調はとても明るく穏やかだった。
「それが聡の悪い癖よ」
 美和はそう言いながら、人差し指を彼の唇に当てた。
「この世の中にはねぇ、聡。不思議なことがたくさんあるのよ。科学や技術では分からないこと、解明できないことがたくさんあるの。聡は何でも論理的に物事を考えようとするけれど、それはいけないことよ。そして、死んだ人間が生き返るようなことも、聡には不思議なことかも知れないけれど、そうしたことのほとんどは、いちいち人が知らなくていいことなの。不思議なこと、知らないこと、知らなくていいこと、そういうものが世の中にはたくさんあるのよ。分かって、聡」
「ああ、そうだね」
 美和は優しく微笑んだ。
「でも……」
「でも、なあに?」
「やっぱり君は死んだんだよ。そして、死んだ人間は生き返りはしない。決して、絶対」 沢木はきっぱりと言い切った。
 サティが止んだ―
 その瞬間、美和の手のひらが沢木の手を振り払ったかと思うと、彼の頬に強烈な平手打ちを浴びせた。彼女は目をつり上げ、きばをむき出し絶叫した。
「なんて聞き分けのないの人なの、あんたなんか死になさい!」
 美和のようなもの、それは沢木を突き飛ばした―
 まぶしい光がよろめく彼に近づく―
 けたたましいクラクションの音―
 車が彼を跳ね飛ばす―
 沢木は宙を舞った―

「沢木さーん!―」



「―死なないでー!」
 人美は絶叫した。その途端―ガシャーン!―二つある出窓のガラスとシャンデリアの白熱球が割れた。
「きゃあー!」
 悲鳴をあげパニック状態になった彩香は闇の中で方向感覚を失い、「人美! 人美!」とわめきながらやみくもに部屋の中を歩き回った。本棚の近くにまで来た時に、そこから飛び出した何冊かの本が彩香の身体に激しく当たり、さらに地震のような揺れを感じた後、彼女は頭に激しい衝撃を受け倒れ込んだ。そして、今度は全身に衝撃―倒れた本棚が彼女の頭を襲い、次ぎに床に倒れた身体を襲ったのだ。
 意識が段々遠のいていく。
 人美、起きて、お願い……

 渡辺と進藤はガラスの割れる音に素早く反応し、車から飛び出すと一目散に白石邸を目指した。門を抜け石段を駆け上った渡辺は、庭を照らすライトの光に浮かびあがった人美の部屋の出窓を見て、ガラスが割れているのを認めた。彼は「人美の部屋だ!」と進藤に叫び、走りながらズボンのポケットから鍵を取り出した。その鍵は、いざという時のために預かっていた白石邸の玄関の鍵だった。玄関を抜け階上への階段を上り、二階を貫く長い廊下に二人が着いた時、「人美君! 泉さん!」という叫び声と、バンバンという音が鳴り響いていた。白石会長が人美の部屋のドアを叩きながら、中の二人に呼びかけていたのだ。そして、千寿子は白石の後ろで戸惑い立ちつくしていた。
 渡辺は白石に走り寄ると、「どいてっ!」と言いドアに体当たりした。二回めには進藤と二人で体当たり―しかし、ドアはあくまで強情に、微動だにしなかった。
「外だ! 窓から入るんだ!」
 渡辺がそう叫びながら廊下の突き当たりの窓を開けると、そこから進藤が先に飛び出した。進藤は屋根伝いに進み人美の部屋の出窓に着くと、その下にあるエアコンの屋外機に登り、割れたガラスの間から手を差し込み鍵を開けた。そして、中に入ろうと出窓のサッシに手を掛けた瞬間、強烈な突風が進藤を吹き飛ばした。彼は後ろに大きく舞い上がり、庭にあるプールへと落下した。
「進藤!」
 渡辺は宙を舞う彼の姿を目で追った。水しぶきが高々と上がり、それが収まった時、進藤は水面に顔を出し「ぷはぁっ!」と息をした。彼の無事を見て取った渡辺は、やはり屋外機の上に登り、突風により開かれた出窓から注意深く中のようすをうかがった。その途端、彼は血の気が引く感覚を覚えた。室内は電気が消えていて暗かったが、庭の照明が差し込み、中のようすは十分見ることができた。その光景は、これまで暴力と血しぶきが飛び交う戦いの場面を見てきた渡辺にとっても、壮絶にして信じられない光景だった。
 目覚まし時計、本、スヌーピー…… さまざまなものがまるでメリーゴーランドのように回りながら宙に浮かび、倒れた本棚の下には額を真っ赤に染めた彩香が倒れていた。そして、人美は息絶え絶えにもがき苦しんでいた。百戦錬磨の戦士である渡辺といえども、驚愕に立ちすくまずにはいられなかった。
 なぜ、どうして!
 渡辺を我に返らせたものは、彼の頭に当たって庭に落ちていったスヌーピーの縫いぐるみだった。彼はすぐさま出窓から部屋の中に入り、彩香の上に倒れた本棚を起こした。

 白石は物置から持って来た大きなハンマーで、閉ざされたドアのノブを叩き続けた。何度めかの打撃でドアのノブは壊れたが、それでもドアは開かない。彼は蝶番を叩きのめし破壊すると、今度はドアそのものを狂ったように連打した。彼の全身から汗が湧き出て手の皮がむけ、息がもうこれ以上は続かないというところまでハンマーを振った時、ドアは観念したのかようやくドスンと前に倒れた。廊下の明かりが部屋の中に差し込み、部屋の中の光景が白石と千寿子の目にも飛び込んできた。白石は手の力が抜けハンマーを床に落とし、渡辺が受けたのと同じ衝撃を味わった。そして、千寿子は大声で泣き崩れた。

 渡辺が本棚を起こした直後、部屋の中はぱっと明るくなった。彼はその理由を悟り、「会長! 人美を頼みます!」と叫び、すぐさましゃがみ込み彩香を見た。渡辺の目に映った彩香には、彼女本来の愛らしい姿はどこにもなく、額から血を流し、髪は乱れ、顔は青白く、唇は凍えそうな紫色だった。彼は彩香の額の傷を確認すると、こうした時のために常備している清潔なハンカチを取り出し、不用意に頭部を動かさないように気をつけながら傷口を圧迫止血した。さらに開いている右手で腕や脚などを軽く掴みながら、骨折や外傷がないかどうかを確認し始めた。その最中、渡辺は苦しみ悶える人美を見た。依然として苦しんでいる彼女の表情は、あの空港の帰りの電車の中で見た、微笑ましい寝顔とは似ても似つかぬ形相だった。美しい少女たちがこれほどまでに変貌してしまうとは、何が起こったのか、誰の仕業なのか、やはり人美なのか。渡辺は彩香の傷口を押さえる手が震えているのに気がついた。

 白石は、「会長! 人美を頼みます!」という声を合図に我を取り戻し、部屋の中に浮かぶさまざまなものに身体をぶつけながら、人美のいるベットの脇にたどり着いた。大声を出し、彼女の身体を揺すり、正気を取り戻すことを祈った。
 一方、渡辺は携帯電話を取り出して一一九番に通報し、救急車を手配した。その時、彩香はおぼろげな意識の中で弱々しい声音を発した。
「人美、やめて……」
 その途端、宙を舞っていたものがすとんと下に落ち、人美のうなされ声は静まった。
 人美が目を開けると、白石の疲れ切った顔があった。そして、見知らぬ男の話し声が聞こえる。どうしたのだろうと思い上半身を起こすと、目の前の床に血を流し倒れている彩香の姿が飛び込んで来た。
「彩香?」
 しばし呆然―人美は彩香のもとへと近寄りひざまずいた。そして、彩香の額に流れた赤い液体に触れ、それが確かに血だと見て取ると、絶叫とともに泣き崩れた。
「どうして、何でなの! 彩香! 彩香!」



 午後十一時五十分。彩香は人美と白石千寿子が同乗した救急車で、葉山から国道一三四号線を南下し、白石邸から約七キロのところに位置する横須賀市民病院に運び込まれた。ただちに救急治療室に運ばれ治療を受けたが、出血こそ多かったものの頭部の外傷は軽傷で、応急処置後のCTスキャンやレントゲン撮影でも、頭蓋骨や脳内部、及びその他の箇所に何ら異常は認められなかった。額の髪の生え際にできた約二センチの切り傷は縫合され、病院到着から約一時間後には一般病室―千寿子の配慮により一人部屋に入れられた―に移され、白石からの連絡で駆け着けた両親と、人美と千寿子に見守られながら、すやすやと穏やかな表情で眠りについていた。
 この夜、横須賀市民病院にはもう一台の救急車が、彩香が運び込まれるおよそ五分ほど前に一人の男性を運び込んでいた。交通事故に遭ったその男性は、これといった致命的外傷が見当たらないにも関わらず、心臓の鼓動は弱まる一方で、身体の内部に重大な損傷があるのではと医師たちを当惑させた。医師たちはあらゆる可能性を考慮して治療に全力を尽くしたが、男性の心拍数は徐々に減少していき、日付が変わった八月十七日、午前十二時五分、ついに命の鼓動は鳴り止んだ。
 男の名は沢木聡。彼の心臓と呼吸は活動を停止した。



 これより前の午後十一時三十五分、彩香が救急車で運び出された後の白石邸では、白石会長が彩香の両親に連絡し、移送先の病院が分かり次第また連絡すると告げた。
 また、渡辺は沢木の自宅に電話をしたが、これに答える声があるはずもなく、沢木の携帯電話、葉山の本部と順にダイヤルしていらいらしていた。そして、もしやと思い秋山の自宅に連絡すると、「沢木さんとは夕方別れたきりですけど、自宅にいないんですか?」と逆に質問を返された。渡辺は胸騒ぎを覚え、ずぶ濡れの進藤とともに白石邸を飛び出しスカイラインに乗り込んだ。渡辺の指示を受けた進藤は、車に搭載された端末機を操作し沢木の住所を検索すると、それを相模製のサテライト・クルージング・システムに入力した。ディスプレイに映し出される葉山の地図を参照しながら沢木の家に向かう車の中で、渡辺は秋山に白石邸での出来事をかいつまんで説明し、それを聞いた彼女はすぐさま片山、岡林、松下、桑原の四人に連絡した上で、白石邸に集合することを決めた。
 渡辺たちが海岸沿いの道を走っていると、前方から赤と青の光が飛び込んできた。パトカー一台と警察の事故処理用のバン、それに事故車と思われる乗用車が一台止まっていた。渡辺はそれを気にとめるでもなく、事故現場の手前を山側にハンドルを切り、数秒で沢木の家の前に到着した。
 沢木の家の電気はすべて消えていたが、なぜか玄関のドアは開けっ放しになっていた。渡辺と進藤は玄関から家の中へと進み、荒れ果てた寝室をみつけた。窓ガラスが割れその破片が床に散乱し、タバコの吸い殻や本、枕などが床に転がり落ちていた。そして、赤い液体が床のところどころについていて、よく見ると、それは寝室を抜けピアノのある居間へ、さらに玄関へと続いていた。渡辺の直感は叫び声をあげさせた。
「さっきの事故だ!」
 渡辺は進藤を残して車に飛び乗り、海岸通りの事故現場に舞い戻った。そして、警官に事故の状況を聞くと、車に跳ねられたのは男の背格好からして沢木に違いないと確信し、運ばれた病院を聞きつけると直ちに確認に向かった。
 沢木の家に残った進藤は、白石に状況を報告した後、家の中や外を隈なく調査した。しかし、寝室が荒れ果てた理由を説明をしてくれるような物的証拠はどこにもなく、寝室に彼の目を引く一枚の写真が落ちているだけだった。壊れた額の中に納められたその写真には、幸せそうな一組の男女が映っていた。長い髪をまとった美しい女。その表情は幸せに包まれていることを雄弁に物語る笑顔を浮かべ、そして、その肩は同じように微笑む沢木に抱かれていた。
 渡辺がスカイラインで時速八〇キロ近いスピードを出し、国道一三四号線を南下しているころ、白石のもとには千寿子からの電話があった。それを受けた白石は直ちに彩香の両親に連絡し、知らせを受けた両親は急ぎ娘のもとへと向かった。
 横須賀市民病院に渡辺が到着したのは、翌十七日の午前十二時九分だった。渡辺は受け付けカウンターの前にいた警官に沢木と思われる人物の居場所を尋ねた。警官は、心臓が停止し現在手術室で蘇生中だと告げた。渡辺は死にもの狂いで走り出し、手術室の前に着くと、看護婦の制止の声も聞かずにそこへ走り込んだ。彼は己の目を疑った。そして、その場に呆然と立ち着くし、しばらくして看護士と看護婦の二人によって担ぎ出された。彼はその間、ベットの上に横たわり除細動器(電気ショックにより停止した心臓の活動を促す装置)を胸に当てられ、「バンッ!」という激しい音とともに身体を舞いあげる男を見つめながら、「沢木! 死ぬなー!」と絶叫した。

 心臓と肺の機能が停止した沢木だったが、彼にはまだ蘇生により命の火を取り戻すという希望が残されていた。医師たちは彼に心臓マッサージと人工呼吸を施し、さらに心臓の活動を促進するホルモン剤を注射して、彼の心臓が自ら動き出すのを待った。
 二分経過―心臓は動かない。
 医師たちは心臓マッサージから除細動器へ切り替えた。
 ブーン、バンッ!
 除細動器の蓄電と放電の音が鳴り響き、放電のショックで沢木の胴体は宙に跳ねた。心電計は軽く波うった後、再び直線に戻った。
 もう一度―バンッ!
 さらに―バンッ!
 すると、心電計は「ピ、ピ、ピ」という電子音を心臓の鼓動に合せて発し、光の波を描き始めた。医師たちは安堵した。沢木は蘇ったのだ。

 手術室の出入り口の前を行ったり来たりしながら数十分間を過ごしていた渡辺に、手術室から出て来た医師はこう告げた。助かりましたよ、と。
 秋山が自分の車で白石邸に到着したのは午前十二時二十五分のことだった。既に渡辺からの報告を受けていた白石は、沢木が死の瀬戸際から生還したことを彼女に告げた。しかし、沢木の顔を見ないことにはどうにも安心できない秋山は、取って返すように病院へと向かった。
 その後、片山、岡林、松下、桑原の四人も順を追って白石邸に到着し、沢木までもが危機に陥ったことを知りおののきの悲鳴をあげた。そして、人美の部屋の割れたガラス、床に滴り落ちた彩香の鮮血、それらを見て平常では考えられない出来事が起こったのだと確信し、恐怖した。
 こうして慌ただしい夜は明けていった。沢木は死の縁から生還し、彩香は傷つき、人美は親友を心配しつつも、自分には何か得体の知れない力があるのでは、といぶかしんでいた。渡辺は惨憺たる光景を一晩に何度も垣間見て、精神的疲労感に包まれ、また、沢木組の面々も、白石邸に集まりはしたものの、なす術もなく時が過ぎることにいらだちを感じ、状況を整理し分析するどころの状態ではなかった。一方、秋山は沢木の意識が戻り、戸惑う自分を力強く導いてくれることを期待し、彼が眠るベットの横で一夜を過ごした。
 後に沢木により〈ブラッド・アンド・サンダー〉と名づけられたこの壮絶な一夜は、人美のパワーが恐ろしいまでのサイ現象を引き起こすことを裏づける決定的事件となったのだが、完全なる力の開放を間近に控えた人美の真の力から比べれば、まだほんの小さな力でしかなかった。



 徐々に光が差し込んできた。少しずつ、また少しずつ、彼はまぶたを開けていった。後ろ姿の女がおぼろげに見える―シニヨンと白いリボン。沢木はやっと悪夢から開放されたことを知った。そして、安堵の気持ちとともに再びまぶたを閉じ、安らかな眠りについた。
 秋山は沢木の眠るベットの横で、花束を花瓶に挿していた。そして、それを沢木の枕元に置くと、彼の額に慈しむように手を当てながら、優しくささやいた。
「沢木さん、お大事に」
 彼女はそう言った後、病室を出ようと一歩足を踏み出した。と、その時、彼女の手を握るぬくもりがあった。彼女は沢木のほうに向き直り言った。
「沢木さん?」
 沢木は眠っていた。しかし、その手は秋山の手をしっかりと握り締めていた。彼女はもう片方の手で彼の手を包み込み、ベットの横の椅子に腰掛け、ずっと見守っていてあげよう、と思った。
 ―数時間の後、沢木は再び目を覚ました。彼の右手は柔らかく温かな感触に包まれていた。そして、ほのかに香るシニヨンと白いリボンの香り。見ると、秋山は沢木が横になるベットに顔を突っ伏して眠っていた。
 かわいい人だ
 沢木はそう心の中でつぶやくと、点滴の管がつながれた左手の人差し指で白いリボンをはじいた。「ふわぁー」と大きなかわいらしいあくびをしながら目覚めた秋山は、「あっ!」と目の前にある沢木の顔に驚きながら、慌てて大きく開いた口を手で覆った。沢木が笑みを浮かべ、か細い声で「おはよう」とささやくと、秋山はほっとして笑みを浮かべた。だ
が、笑顔は長続きせずに泣き顔へと変化し、彼女は涙ぐみながら沢木の手を頬に当てた。彼の手の甲にはひと滴の冷たくも温かな水滴が流れた。
「よかった、本当によかったぁ」



 こうして沢木が意識を取り戻した八月十七日、木曜日の午後一時過ぎ、病室のベットに横たわる彩香は、軽い頭痛を感じながらも徐々に彼女本来の姿に戻りつつあった。顔の血色はよくなり、唇も愛らしいピンク色に染まってきた。そして、ベットに横たわりながら手鏡で自分の顔を映し、包帯に巻かれ頭の髪型を、盛んに気にするまでに精神も安定してきていた。午前中まで側についていた父と二人の姉、白石千寿子は既に帰宅し、母と人美の二人が彩香に付き添っていた。
 彩香は母に「ちょっと二人で話しがしたいんだけど」と言い、それを受けた母は外へと出て行った。
「人美、もっと側においでよ」
 病室の隅で小さく固まって座っていた人美に彩香は優しく声をかけた。人美はそれに従い、ベットのすぐ横の椅子に腰掛け不安げな表情で言った。
「彩香、大丈夫? 痛くない?」
「平気よ。このくらいの怪我なんて、大したことないわ」
「本当?」
「ええ」
「一体何があったの?」
「私にもよく分からない…… とにかく、見た事実だけを話すと……」
 彩香は自分が目撃したことを話して聞かせた。
「どうしてそんなことが!?」
「さあ? でも、一つの可能性としては―人美、あなたには何か特別な力があるのかも知れない」
 人美は一呼吸の間を開けてから言った。
「超能力とか?」
「そうかも知れない。昨日起こったことは普通のことでは説明できないもの」
「だとした、彩香が怪我をしたのは私のせい」
 彩香はかぶりを振りながら言った。
「そんなことないわよ、悪いほうにばかり考えちゃだめ」
「だって……」
「人美、“共時性”の話しだけどさあ、まんざら的外れでもないような気がしてきたの。そして、この不可思議な出来事の謎を解く鍵は、あの沢木さんという人にあると思うの」「会ってみるべき?」
「うん。そうすれば何か道が開けるんじゃないかなぁ」
「そうね、そうかもね」
 それは心細げな声音だった。
「人美、一人で平気?」
「ええ」
 彩香は人美の手をしっかりと握り締め、今言える精一杯の言葉を口にした。
「人美、しっかりね。勇気を出して」
「ありがとう、彩香」



 臨死状態から蘇生により蘇り、およそ十四時間に渡る意識喪失状態から目覚めばかりの沢木だったが、意識は徐々にしっかりとした状態へと回復していった。しかし、昨夜ベットに入ってから目覚めるまでの記憶は空白状態にあり、自分が現在いかなる状況に置かれているのかを、把握するまでには至っていなかった。だが、不安な気持ちはなかった。なぜなら、自分の手をしっかりと握り締め、頬の温かなぬくもりを伝えてくる女性―秋山の存在が、彼に深い安堵の気持ちを与えていたからだ。
 秋山は涙をハンカチでぬぐった後、沢木の意識が戻ったことを医師に伝えるべく、ナース・ステーションへとつながるインターホンのスイッチを押した。
 しばらくすると、沢木の蘇生を担当した外科医が看護婦を伴ってやって来て、彼の診察を開始した。秋山は気を利かせて病室を出ようとしたが、手を握り合う二人の姿を見た医師は、「どうぞ奥さん、側にいてあげてください」と彼女に言った。その言葉は秋山に戸惑いを与える一方、胸をときめかせるものでもあった。意識が回復したとはいえ、何らかの後遺症や精神的障害が危惧される状態にある沢木を目の前にして、自分は一体何を考えているのだろう。そんな思いがすぐさまその“ときめき”を打ち消したが、その時秋山は、この一瞬のときめきこそ、何にもまして自分の気持ちを素直に表しているという実感を覚えたのだった。愛してる―単純な言葉だが、しかしこれ以外に言葉はない。今まで想っていたようなある種のあこがれや夢、そうした幻想的なものではなく、実感としての愛情を、彼女はこの時初めて沢木に感じたのだった。
 医師は沢木に簡単な質問を始めた。
「話しはできますか?」
「ええ」と沢木は息のような声音で答えた。
「あなたのお名前は?」
「沢木聡」
「生年月日は?」
「六三年五月、二十五日」
「こちらにいる女性はどなたですか?」
「秋山さん」
 医師は自分の勘違いに気づいた。そして秋山に、「あっ、失礼。奥さんじゃないんですか。でも……」と、そこで言葉をやめにやりと笑った。秋山は無言でうつむいた。
 医師は質問を続けた。
「下の名前は?」
「美佐子さん」
「そうですか、お奇麗な人ですね。恋人ですか?」
 余計なことを言う医師の言葉に、秋山は火を吹きそうになった―恋人っ!
「同僚です」
 沢木の答えに秋山はがっかりした。しかし、それが事実だから仕方がない。でも、沢木さんは私のことをどう思っているのだろう? 彼女の思考回路は混沌としていた。
「そうですか、意識ははっきりしているようですね。ところで、昨夜何があったか覚えてますか?」
「いいえ、覚えてない……」
 医師は交通事故に遭って病院に運ばれたこと、危機的状態から蘇生により蘇ったこと、怪我の状態などを沢木に話して聞かせた。沢木はその説明を受けながら、医師の胸元でキラリと反射している聴診器、海から吹く強い風によりガタガタと音を発する窓ガラス、これらから車のサーチライトや寝室のガラスが割れたことなどを断片的に思い出していった。 医師はさらにこう続けた。
「実に不可解なんですよ、あなたが病院に運び込まれた時の容体は。まず、車に跳ね飛ばされたにも関わらず、それにより負ったと思われる外傷は右大腿部の打撲のみで、CTスキャンやレントゲンによる検査でも、骨や内臓器、脳の損傷は全くありません。唯一外出血を伴う外傷は、何とも不可解なガラスの傷のみ。少々深めの傷ですが、さほど長くはかからず完治するでしょう。まあ、そんな容体なのですが―つまり、心臓が停止するような状態とは思えないのですが、あなたの心臓は停止し蘇生を要した。これは非常に―いや、何とも奇妙でして―まあ、事故のショックからということもあるのかも知れませんが、何ともはや、実に不可解です……」
 医師は説明の最中でいくつかの質問を沢木に浴びせたが、彼の答えは首を横に振るか「記憶にない」の一言だった。医師はいぶかしんだようすをみせながらも、質問が尽きたところで病室を後にした。
 この時、既に沢木の断片的な記憶は全体像を知ることができるまでに復活していた。そして、彼の思考回路も徐々に本来の性能に戻りつつあった。
 沢木は秋山に言った。
「僕の家の寝室の状態を見て来て欲しい」
 これに応じるまでもなく、秋山は渡辺からの報告を聞いていた。
「既に渡辺さんが立ち寄っています。寝室の窓ガラスが割れて、部屋の中もかなりの散らかりようだったそうです」
 沢木は天井を見つめながら「そう」と一言言い、そして思った。
 人美だろう、きっと。手加減してくれたようだ
 秋山は沢木に何があったのかを尋ねたかったし、昨夜の白石邸での出来事も話したかった。だが、今に見て取れる沢木の状態は、それに耐えうるものではないと判断し、ひとまず白石邸に戻り、沢木の状態を皆に報告する一方、今後をどう対応するかを検討しようと考えた。
「私は一旦みんなのところに戻ります。沢木さんの無事を報告しないと。それと、自宅のほうの後片づけもしておきますから。夕方にはまた来ます」
 秋山はそう言い、沢木のか細い「ありがとう」という返事を聞くと、彼とつないでいた手をそっと放し病室を出て行った。
 沢木は誰もいなくなった一人部屋の病室で、昨夜の悪夢を最初から順番に思い出していった。
 なんて夢だろう。でも、見事だった。あそこまで俺の潜在的な恐怖を引き出すなんて。もう怖いものなど何もないと思っていたのに
 そして、今は亡きかつての婚約者、水野美和のことを想い始めた。

 沢木は自分の隣に座る少女のことを、とてもかわいらしい人だと思っていた。この時、高校二年だった沢木は、四月の進級時に同じクラスになり、隣の席に座ることとなった水野美和という少女に恋していた。シャイな沢木は、既に“彼女”がいる友人たちのように振る舞うことができず、自分の気持ちをどう伝えたらよいのかと悩んでいた。
 ある五月の放課後、沢木は教室に一人残り、友人から頼まれた作業を行っていた。その作業とは、エレクトリック・ギターのピックアップを交換することだった。機械や電気の知識に長けている彼は、この種の作業をよく友人たちから依頼されていた。今日のようにピックアップを交換することやエフェクター(楽器の音にさまざまな効果を加える音響機器)の製作、あるいはバイクの修理や改造など、こうした技術を有する彼は、ロック少年やバイク少年たちからちょっとしたヒーローとして崇められていた。
 ハンダごてを片手に持ち、ピックアップから伸びるリード線をハンダ付けしていると、沢木に語りかける声があった。
「何してるの?」
 手元から顔を上げると、そこにいたのは美和だった。教室の窓から差し込む午後の陽光は美和を背後から照らし、沢木の目には逆光の中に浮かぶ彼女のシルエットが映し出されていた。光の中にたたずむ少女―それはとても美しい光景であり、美和の持つかわいらしさをより美しいものへと演出していた。ポニーテールの髪型、くりっとした二重の瞳、細くとがった顎、華奢な身体つき。沢木はしばしその光景に目と心を奪われた。
「修理?」
 その問いに我を取り戻した。
「えっ! ああ、ピックアップを交換してるんだ」
「それって、なーに?」
「弦の振動を拾うんだ。つまり、マイクみたいなものだよ」
「んんー」
 美和は感心したような素振りをみせ言葉を続けた。
「沢木君って、そういうこと得意なんだってね。友達が言ってたよ、修理や改造でひと財産築いたって」
 沢木は照れ笑いをしながら答えた。
「そんなでもないよ。でも、バイトをしなくても小遣いに困らないくらいは稼いでる」
 それを受けた美和はにこりと微笑みながら、沢木の横の椅子に腰掛けた。
 日の光が徐々に赤色に染まり始めた二人だけの教室で、沢木は作業を続けながら美和との時を楽しんだ。今までにも話しをしたことは何度かあった二人だが、会話らしい会話はこれが初めてだった。そして、沢木の仕事に対する苦情―ギター少年は言った。「おい、音が出ねえぞっ!」―が初めてきたのは、この次の日のことだった。
 こうして二人の恋の物語は始まった。この日を境に二人の会話は日を追うごとに多くなり、また、二人そろって帰宅することも多くなっていった。
 美和は帰宅の途中に沢木の家に度々立ち寄り、彼にピアノのレッスンを行った。彼女は幼いころからピアノを習っていて、その腕前はかなりのものだった。一方、沢木も音楽や演奏への興味は深く、家にあるピアノで独学ながら演奏を楽しんでいた。美和は、そんな沢木に正しい運指やペダリングの技術、音楽理論などを手解きしていたのだ。
 二人を結びつけるものはピアノのほかにもう一つあった。それは、飛行機―
 エジソンもどきの少年時代を過ごしてきた沢木のこの当時の夢は、自分一人の手で飛行機を造りあげ、大空を飛ぶことだった。彼はハングライダーと廃車になったスクーターのエンジンをもとにして、その夢をかなえるべく試行錯誤を繰り返していた。
 ある日、沢木は自分の飛行機を美和に披露した。それは、父が営む沢木自動車修理工場の片隅に置かれていた。
「これが沢木君の作ってる飛行機?」
「そう」
「凄いね。もう飛ばしてみたの?」
「いや、まだなんだ。この辺じゃ場所がないし…… もう少し勉強して工夫しないと、飛べないと思うんだ」
 そして彼はこう続けた。
「それにね、これを二人乗りに設計変更しようと思ってるんだ。君と一緒に飛べたらいいなぁと思って……」
 美和は満面に笑みを浮かべて答えた。
「沢木君と空の散歩かぁ……? 素敵ね。でも、私は十分な安全性が確かめられてからにするわ」
 美和は沢木をからかった。しかし、彼女自身が後に沢木に語ったところによると、この言葉が何より彼女の心を掴んだそうだ。豊かな創造力と夢を持つ沢木に、美和は共感と親しみを覚え、それは愛情へと変化していったのだ。
 そして、三カ月の月日が流れた一九八〇年の夏は、二人にとって忘れられない思い出となった。幾度かのテスト飛行の末、遂にフライトらしいフライトに成功した沢木は、いよいよ美和とのフライトを決行し、そして夢を一つ実現した。
 飛びながら沢木は美和に言った。
「僕は君といつまでも飛んでいたい」
 美和は答えた。
「ええ、私も」
 それは僅か三分間のフライトだったが、この時二人は永遠のフライトを誓い合ったのだ。 二人が出会ってから別れが訪れるまでの間には、いくつかのエピソードがあったが、最も大きなものは沢木の父が亡くなったことだろう。彼は父から多くのことを学んだが、最も感謝していることは、父の与えてくれた環境により、創造することの喜びと有意義さを知ることができたことである。
 彼は父の死を悲しむ中で、大学進学を断念し父の工場を継ぐことを考えた。だが、その考えを美和に言った時、彼女はこう答えた。
「私、聡君にはもっと大きな舞台で活躍して欲しい。聡君にはそれだけの素質があるもの。夢はあきらめないで欲しい」
 そう願ったのは彼女だけではなかった。母も、姉も、そして、父の片腕として沢木自動車修理工場を支えた柏木という初老の男も、彼が大学に進学し、専門的かつ高度な教育を受けるべきだと主張した。彼はそうした周囲の励ましのもと、父の死のショックから立ち直り、その翌年の春、東京工業大学に合格した。一方、美和も自分の夢をかなえるべく、音楽大学へと進学した。
 沢木の創造者としての非凡な能力は大学時代に頭角を現し出し、後にEFC論理へと発展する基礎理論をこの時既に構築していた。また、その成果は口コミを通じていくつかの企業や研究機関に伝わり、これを聞き及んだ当時相模重工社長の白石功三は、沢木獲得を人事部長に指示していた。
「相模重工!」
 沢木の話しを聞いた美和は驚きの声をあげた。
「相模重工って、あの相模重工!?」
「そう。相模には相模総合研究所っていう部署があるんだけど、そこへ来ないかって」
「すごーい! 相模重工っていったら日本最大手の重工業メーカーでしょう」
「うん。飛行機、船舶、ロボットに建設機械、宇宙開発にも参入してる」
「聡の夢をかなえるにはもってこいの環境じゃない」
 相模重工人事部長じきじきの誘いを受けた沢木と美和の最初の会話がこれだった。しかし、美和はもう一度驚くことになる。沢木の恩師の一人といえる大学教授が、MITへの留学の話しを持って来たのだ。
「MITって、マサチューセッツ工科大学のことだよねぇ?」
「そう。教授が言うにはね、今は就職することよりも僕の論理を完成させることのほうが大切だって言うんだ。研究機関といえども相模総研は企業の一部所であるわけだし、そこには当然経済論理が働いてる。そういうところよりも、純粋に研究に専念できる環境のほうがいいだろうって。それに、MITで学んだとなれば技術者としても箔が付くし、将来の選択肢も増えるだろうってね」
「うーん、それもそうね。でもさぁ、相模重工にMITでしょう。聡の論理ってそんなに凄いの?」
「どうだろう? でも、これからの時代は制御システムの発達が、技術全体の発達に大きく影響してくると思うんだ。僕の頭の中にあるものが実現できれば、画期的であることは間違いないよ」
「経験を反映する、って奴ね」
 美和はそこでしばし考えた後、いたずらっぽく言った。
「凄いねー。そうなったら聡はにはたくさん仕事が来るだろうから、私にピアノをプレゼントしてね。スタインウェイのコンサート・グランドよ」
 沢木は笑いながら答えた。
「いいよ、約束するよ。でも、そのためにはアメリカに行かないと…… 美和としばらく離れ離れにならなきゃ……」
「そうね、それが問題ね。でもさあ、聡大事なことを忘れてるわよ」
「なあに?」
「だって、聡は英語しゃべれないじゃない」
 こんなやり取りの後、沢木は美和といろいろなことを話し合い、そして、世界最高峰の理工系教育機関、MITへの留学を決意し、英会話の猛勉強を開始した。
 アメリカへの旅立ちが一カ月後と迫ったある日、沢木はあることを心に決め美和を呼び出した。世田谷公園をふらふらと散歩しながら話しをし、今日起きたことをそれぞれが語り終えた後、二人は広場のベンチに腰掛けた。
 沢木は言った。
「スタインウェイのピアノだけどさ」
「ええ」
「あれだけのピアノなんだから、置く場所だって選ぶよね」
「そうね。専用の部屋かなんかあったら最高だね」
「うん。だからね、僕は頑張って家も建てるよ。そしたら、そこにスタインウェイを置いて、そして…… そして美和と一緒に住もうと思うんだ。ずっと、いつまでも」
 これが沢木のプロポーズの言葉だった。美和は笑みを浮かべながらも瞳を潤ませ、こう答えた。
「ピアノがなくったって、私は聡と一緒に暮らすわ。だって、聡の飛行機で飛んだあの夏に、私はあなたとずっと一緒に飛び続けると約束したもの」
 こうして二人の婚約は、一九八六年の三月に成立した。だが、運命の日はこの一年後にやって来たのだ。
 アメリカに渡ったばかりの沢木は、何より英語をマスターすることに追われていた。しかし、一年の月日が流れた時には、ほぼ言葉の障害は取り除かれていた。技術系の専門用語は元々英語のものが多いし、それに留学とはいっても、一般の学生たちのように授業を受けるといった形式のものではなく、人工知能分野で世界的に高名なマービン・ミンスキー氏の主宰する研究チームでの活動が主だった。そして、彼の論理も着々と具体化しつつあった。
 一九八七年四月。スタジオ・ミュージシャンとしてレコード会社と契約し、ピアノやシンセサイザーの演奏をする仕事―主にレコーディングで―をしていた美和は、沢木のもとへと遊びにやって来た。
 沢木が留学したMITは、アメリカ東海岸北部に位置するマサチューセッツ州のケンブリッジという街にある。州都ボストンとチャールズ川を挟んで隣接するケンブリッジは学術都市として知られ、MITのほか、アメリカで最も歴史の古いハーバード大学など、大小約六十校にものぼる大学が軒を連ねている。また、先端技術関連企業も実に七百社近く点在し、アメリカで最も進んだ学問と研究、技術開発が行われている地域といっても過言ではなかった。
 この当時沢木が住んでいたアパートは、チャールズ川河口付近の街、チャールズ・タウンという住宅街にあった。赤茶けた壁を持つ古びた五階建てアパートの住人は、沢木を含めそのほとんどが周辺の大学に通う学生たちで占められていた。そのアパートでの一週間に渡る美和との生活は、やがて訪れる夫婦としての生活を、より期待させるような幸福感に満ち溢れたものだった。
 沢木は美和の来訪に合わせて一週間の休みを取り、彼女と二人でボストンを毎日探索して回った。MITやハーバードのキャンパスを見学し、ダウン・タウンのクインシー・マーケットでのウィンドウ・ショッピングやストリート・パフォーマンスを楽しんだ。そして、アメリカの歴史を物語る数々の事物―オールド・サウス集会場、オールド・ノース教会、バンカーヒル記念碑など―を見て回った。
 美和がボストンという街で楽しみにしていたものは、ボストン交響楽団とボストン・ポップス(映画音楽で活躍している作曲家、ジョン・ウイリアムズが主宰する楽団)の公演を鑑賞することであった。ボストン・ポップスの人気は非常に高いため、チケットはなかなか手に入らないのだが、沢木と同じ研究室に属し、なおかつその筋にコネのあったアルバートの活躍により、彼は美和の望みをかなえてやることができた。念願かなった美和は終始笑みをたたえ、深い満足感を覚えるとともに創作欲を刺激され、「レコーディング・ミュージシャンでは終わらないわ」と沢木に何度も繰り返し夢を語った。
 こうして二人で過ごした最後の時は終わった。二人は再会を喜び、そして愛し合い、ボストンを探索する中でそれぞれの思いも新たにした。

 日本に向かっていた二機のジャンボジェット機は、太平洋上空を緯度にして一度の距離を置き並行に飛行していた。だが、この内の一機のINS(慣性航法装置)の入力データに誤りがあったため、二機は空中で接触してしまった。入力ミスを犯したほうの機はそのまま飛行を続け、ロサンゼルス空港に引き返すことができたが、もう一方の機は水平尾翼の片方と垂直尾翼を破損したために、太平洋に墜落した。
 ダメージを受けたジャンボジェット機の機長は、自機がコントロール不能であることを知ると同時に国際救助信号を発する装置のスイッチを入れた。この信号を最初にとらえたのはアメリカの軍事衛星ネプチューンだった。ただちに近海を移動中のアメリカ海軍第七艦隊所属の機動部隊(航空母艦を軸に二隻の巡洋艦で構成されていた)に救助命令が出されたが、航母から発進したヘリコプターが現場に到着した時には、ジャンボの破片が海を漂うのみであった。
 沢木の婚約者である水野美和は、海の藻くずとなったほうのジャンボジェット機に乗っていた。数日間に渡る捜索活動のかいもなく、彼女は行方不明者から死亡者へと変更された。
 沢木に事故の第一報が入ったのは、彼がMITの研究室で作業をしている時だった。ボストン・ポップスのチケットを取ってくれたアルバートが、泡を食って駆け込んで来たのだ。
「アル、冗談だろう」
 これが沢木の第一声だった。しかし、アルの表情は真実を雄弁に物語っており、それを見て取った沢木の脳裏には混沌とした感情が沸き起こった。
 アルがテレビをつける。すると、アナウンサーは行方不明者のリストを読みあげていた。何人かの名が読みあげられた後、「ミワ・ミズノ」とアナウンサーは言った。沢木はただ呆然と、うつろな目でテレビの画面を眺めているのみだった。
 信じられない。美和は生きている! きっと助け出される
 沢木はかすかな望みを持っていた。しかし、その望みも虚しく、捜索活動は一週間後に打ち切られた。
 アパートのテレビでそのことを知った沢木は、夢遊病者のように街へと出て行った。チャールズ川に掛かるチャールズ・ブリッジを渡り、灰色の雲が立ち込める薄暗いボストンの街を歩き続けた。目に映るボストンは―摩天楼も、歴史ある教会も、行き交う人々も、今ではくすんで見えた。ついこの間までの活力や希望、夢、そんなものが街からも自分自身からも抜けてしまったかのようだ。そして、沢木はただ歩き続けた。
 日が沈み暗闇がボストンを包み始めていたころ、沢木はウォーター・フロント公園のベンチに海を眺めながら座っていた。しばらくすると、二人の警官が彼の前にやって来て、「どうかしたのかね?」と尋ねた。しかし、沢木は答えなかった。同じ質問を警官が繰り返す。彼は、どうもしません、と答えるつもりだった。だが、警官を見つめ、口を動かした途端、顎が激しく震え出し、顔はくしゃくしゃとなり、涙がとめどもなく溢れ出し、号泣した。これまで一滴の涙も見せなかった彼は、この時ついに崩れたのだ。警官たちはただ困惑し、彼を見続けていた。
 日本に戻った沢木は、亡骸のないまま行われた美和の葬儀に参列した。彼は葬儀の間中、誰とも口を利かなかった。美和の両親とも、美和の死をしのんで集まった高校時代の同級生たちとも、誰とも、一言も話しをしなかった。口を動かせばまた泣き崩れ、深い悲しみの谷底へと落ち、二度とは上がってこれないように思えたからだ。
 葬儀が終わると、沢木は真直に実家に帰った。そして、工場の片隅に置かれた、あの夏の日の思い出が詰まった飛行機の椅子に腰掛けた。いくつかの光景が彼の脳裏を駆け巡った。初めて会話をした放課後の教室、ピアノと飛行機、父が死んだ時の励ましの言葉、世田谷公園でのプロポーズ、ボストンでの一週間。沢木は思い出しながら微笑んだ。しかし、それらが過去のものであり、もう二度とはやって来ない時間だと知ると、彼は鼻をすすりながら涙をにじませ、静かに、静かに、ずっと泣き続けたのだった。
 沢木は美和を失った悲しみの中で、自らも死ぬことを考えた。二人の思い出の飛行機に乗り、ひたすら水平線を目指して飛び続け、いつか燃料が尽きた時、彼女と同じように海に落ちて死ぬことを考えたのだ。しかし、彼は死ねなかった。死を選ぶことは自分自身の夢を放棄することに等しい。今ここで自分が夢を諦めてしまうことは、彼女との楽しかった過去を捨ててしまうように思え、なおかつ、彼女はそんなことを望みはしないだろうという想いが勝ったからだった。沢木はそう考え、美和の分までも生き、自分自身の夢を、そして美和との約束を果たそうと、ボストンへと引き返したのだった。
 絶望の中から己の生きる道を再認識した沢木は、ひたすら研究に没頭した。そして、ついにEFC論理は完成し、SFOSが誕生した。これを期に彼は世にいう地位と名声、さらは財産をも手に入れた。沢木のこうした活躍を端で見ていた人々は、彼はもう悲しみを乗り越えた、と思っていただろう。しかし、彼の心の片隅には八年という歳月をへた今も、美和の思い出が潜んでいた。普段は明るく振る舞う彼も、ふとしたきっかけで彼女のことを思い出し、ふうっと深い溜め息を吐く日々を送って来たのだ。そして、その度に美和を守れなかったという思いに無念さを抱くのだった。

 どのくらいの時間がたったのだろう―ベットに横たわりながら自分の過去を振り返っていた沢木は、来訪者により“現在”に呼び戻された。
「思ったより元気そうだな」
 その声は片山だった。時刻が午後五時を過ぎた今、白石邸での討議を終えた片山は、親友の身を案じて見舞いにやって来たのだった。
「とても一度死んだ人間には見えないよ」
 片山の言葉に、沢木は小さな笑みを返した。
「沢木、一体何があったんだ?」
 沢木は悪夢の一部始終を片山に話して聞かせた。聞き終わると、片山は悪夢のことでも人美のことでもない、こんな質問を口にした。
「お前は今でも水野さんのことを想っているのか?」
 尋ねられた者は深呼吸を一つ吐き答えた。
「ああ、そうだよ」
「そうか。それはそれで立派なことだと思うよ。水野さんもさぞや幸せだろう」
 片山は以前から沢木に言いたかった言葉を口にした。
「で、秋山のことはどうなんだ?」
「どう? って」
「好きなのか? 嫌いなのか?」
「そりゃ、好きさ」
「だったら! なぜ彼女に好きだと言ってやらないんだ。彼女の気持ちが分からないほど鈍感じゃないだろう」
「嫌なんだよ」
「何が?」
「愛する人を失うことだよ」
 片山は呆れた顔で答えた。
「随分悲観的なものの考え方だな」
 言われるまでもない、そんなことは沢木にもよく分かっていた。しかし、愛する人を失った時のあの虚無感を、もう二度とは味わいたくない。そんな想いが意識的とも無意識的ともつかぬうちに働き、これまで秋山に対して一定の距離を置いてきたのだ。
「なあ、沢木。それじゃあ、仮に今秋山が死んだらどうする?」
「ええ」
「お前にとって秋山は、既にかけがいのない存在なんじゃないのか? その気持ちを押さえ込み、失うのが怖いの何のと言ってみたってしょうがないじゃないか」
「……」
「もしも今、俺の彼女が死んだとしたら―そう考えれば沢木の気持ちも何となく分かるよ。でもなぁ沢木、俺は思うんだが、人間死んじまったらおしまいだろうが。水野さんのことをどんなに想ってみても、その人はもういない人なんだ。愛情とか、友情とかっていうものは、生きている人間にこそ注ぐべきものなんじゃないのか? 今を一緒に生きる人こそが、自分を想ってくれる人こそが、なにより惜しみない愛情の対象になるんじゃないか。沢木、そうは思わないか?」
 沢木は黙っていたが、その目は心なしか潤んでいるように片山には見えた。
「すまんなぁ沢木、勝手なことを言って」
「いや、君の言うとおりだよ。そうだね、生きてる人間にこそだね……」
 片山はその言葉を聞くと、病室を静かに出て行った。そして、病院の廊下を歩きながら思った。
 沢木、早く元気になれよ。お前を待ってるのは秋山だけじゃない。俺も、みんなも、そして、あの娘も待ってるんだから



 少女は唇を噛み締めながら海を眺めていた。海岸に流れ着いた大きな流木に腰掛け、自分の胸を抱き小さく丸くなり、水平線に向かってゆっくりと落ちていく太陽を眺めながら、物思いに浸っていた。
 男は、その少女を遠く離れた場所から見守りながら、やはり物思いに浸っていた。
 人はなぜ海に来るのだろう? 悩みや悲しみがあった時、海を見ながら一人時間を過ごすのはなぜなのだろう? 物語の中でこんなシーンはいくつもあるが、現実の人間もまたそんな行動をする。生命を生み出した巨大な母性は、悩める人間たちを包み込むだけの慈悲を持っているのだろうか?
 今、人美と渡辺は夕暮れ迫る葉山の大浜海岸にいた。
「沢木さんかぁ」
 人美は溜め息のようなつぶやきを漏らした。
 沢木さん、あなたはどうして夢に出てきたの? 私にあるかも知れない力と関係があるの? でも、ほんと? そんな力があるなんて?
 太陽から視線を下に移すと、砂に半分埋もれたコーラの空き缶が光っていた。
 ものを浮かべたりガラスを割ることができるんだったら、コーラの缶ぐらいつぶせるよね
 人美はそう思い、「つぶれろ」と缶を見つめながら念じた。しかし、何の反応もなかった。
「ばっかみたい」
 そんなわけないよ。私が超能力者なんて
 人美はすくっと立ち上がり、白石邸に戻ろうと歩き始めた。が、その時、後ろで「キュキュキュキュキュッ」という音が聞こえた。振り返ると―
「つぶれてる」
 人美の心臓は高鳴り、全身に鳥肌が立った。
「そんなぁ、こんなのって……」
 辺りを見回し別の缶を探した。そして、今度はビールの空き缶を両手の手のひらに載せ、再び念じた。
 反応は早かった。缶はみるみるつぶれ、彼女の手のひらですっぽりと覆えるほどの大きさにまで小さくなった。
 私は…… 私は一体何なの!?
 渡辺は思わず双眼鏡を足元に落とした。
 とうとう、自分の力に気がついたか

 秋山は白石邸に集まった沢木組の面々との討議―といっても大した話し合いはなく、参加したそれぞれの人間の憶測が空転するだけだった―を終えた後、沢木の家へと出向いた。
 家には午前中に見舞いに来ていた沢木の母がいた。荒れ果てた寝室は既に奇麗に片付けられ、割れた窓ガラスも白石会長の手配により新しいものがはめられていた。
 秋山は寝室に置かれた机の上に、一枚の写真を見つけた。それを手に持ち見つめていると、沢木の母が話しかけてきた。
「聡は、まだそんな写真を持ってたんですね」
「どなたですか、この女性は?」
「聡の婚約者だった人です。もう、八年も前に亡くなりました」
 えっ! そんな人が
「どうしてお亡くなりに?」
「飛行機事故です。大きな事故でしたぁ、たくさんの方が亡くなって……」
「そうですか。沢木さんにはそんな過去が……」
 秋山は謎が解けたような気がした。沢木が過去の恋愛に関することを話したがらないこと、時々ぼうっと物思いに耽っていること、自分との距離を今以上に近づけようとしないこと。きっと、きっと今でもこの人のことを想っているのだろう。
 秋山はそう思うと、沢木の顔を見たくてたまらなくなり、再び病院へと向かった。
 彼女が病室のドアを開けると、沢木はベットの上に腰掛けながら、窓の外に広がる夕焼けを眺めていた。
 秋山は沢木の側に歩み寄って尋ねた。
「起きてて、平気ですか?」
 沢木は秋山に向き直り、「んん、大丈夫だよ」と答えた。彼のそれは、思いもよらぬにこやかな表情だった。秋山はその笑顔に答えるかのように言った。
「奇麗な夕日ですね」
「んん」と返事をした後、沢木は再び夕日に目を移し、「秋山さん」と切り出した。
「何です」
 しばしの暇があった。
「ああ、いや、何でもない。今度にするよ」
 秋山には沢木が何を言おうとしたのか分からなかった。しかし、「はい」と一言返事をした。

第四章 リアクション・フォーメーション―Reaction Formation

 タバコの煙がこもる薄暗い地下室の中で、二人の男はバーボンを飲みながら話しをしていた。
「鮫島、お前にしてはやけにのんびりしてるじゃないか?」
「当たり前だろう。あの野郎がかぎ回っている以上、ことは慎重に運ばないとな」
「あの野郎? 里中のことか?」
「そうだ」
「だったら、いっそのこと殺っちまえばいいだろう。そうすりゃ、俺も枕を高くして寝られる」
「それはだめだ」
「どうして?」
 鮫島はにやりと笑い、バーボンを飲んだ後に言った。
「つまり、男の美学さ」
「美学?」
「まあ、あんたには分からんさ」
 鮫島と話しをしている男は橋本浩一といい、表向きは石油会社会長の秘書でとおっている。しかし、その裏の顔は〈民の証〉のテロ実践の指揮者であり、鮫島を始めとするテロリストや暴力団などを指揮し、これまで多くのテロを実行してきた人物である。
 橋本は言った。
「まあ、何でもいいが、船の都合があることを忘れないでくれ、出国が面倒になるからな―でぇ、次の計画はもう決まってるのか?」
「ああ、獲物は決まってる」
「何だ」
「その前に、兵隊を集めてくれ。CQBの得意な奴を三人」
「分かった、すぐに手配しよう。それで、獲物は何なんだ」
 鮫島は再びにやりとして言った。
「沢木聡さ、相模重工の」



 人美が覚醒してから六日後の八月二十三日、水曜日、午後二時ごろ、この日退院した沢木は自宅に戻り、入院中に溜まった仕事の整理―それは書類に捺印したり、郵便物を整理したりなど、多くは雑務の類だった―をしていた。しかし、頭の中は人美のことで一杯で、一刻も早く次なる策を講じなければ、と思索を繰り返していた。
 そんな中、彼は気分転換をしようとピアノを弾き始めた。
 ふらふらと行く当てもなく、マウンテン・バイクで散歩をしていた人美は、ピアノの音色を聞きつけた。
 オネスティだ
 それは沢木の奏でるビリー・ジョエルだった。
 誰が弾いてるんだろう? うまいなぁー、それにいい音
 人美はピアノの音色に呼び寄せられるかのように、音の源を目指してペダルを漕いだ。 沢木は曲を弾き終えるとタバコに火をつけ、小さな庭を見渡せるテラスに立った。口から吐き出された煙を目で追うと、視界の下のほうに人影が見えた。彼はそこに目を移す。ピンク色のリボンが巻かれた麦藁帽子、襟の大きな白とブルーのストライプのシャツ―
 人美だっ!
 人美は庭の垣根越しに沢木を見つめていた。
 沢木さんだっ!
 見つめ合う二人―それは長い長い時間だった。
 沢木はやっと口を動かすことができた。
「やあ」
 はっとする人美。
「あっ! あ…… すみません、のぞいたりして」
 沢木はサンダルを履き庭に下り、人美に歩み寄り始めた。近づくにつれはっきりと見て取れる人美の姿は、愛らしい、どこか大人びたところもある少女にしか見えなかった。
 彼は知らないふりをして言った。
「私に何か?」
「いっ、いえ。ただ、ピアノの音はどこからするんだろうと思って」
「ピアノを弾くのかい?」
「ええ、少し」
「そう。よかったら弾いてみない? スタインウェイだよ」
「ええっ! 凄いピアノをお持ちなんですね」
 沢木は微笑みながら言った。
「私にはもったいないけどね」
「そんなぁ、とってもお上手ですよ」
「ありがとう。ところで、私は沢木聡。君は?」
「見山人美です」
 沢木は芝居を続けながら―
「見山人美さん? どこかで聞いたことがあるなぁ…… ああ、もしかして、白石さんの家に来た人かい?」
「ええ、そうです」
 人美も芝居をしながら―
「白石のおじさまをご存じなんですか?」
「んん、よく知ってるよ。何せ、私は相模重工の社員だから―君のことも聞いたことがあるよ」
「そうだったんだ」
 人美はにっこりと微笑んだ。
「見山さん」
「人美でいいです。みんな名前で呼ぶから」
「そう。じゃあ、人美さん。よかったら家のピアノを弾いてごらんよ。白石さんちにあるのよりずっといいよ」
 実物の沢木は人美のイメージどおりの人だったが、近づくのが怖いような気もした。しかし、彼への好奇心と、ピアノを愛する者なら誰もが憧れるであろうスタインウェイへの誘いに心を動かされた。
「いいんですか? おじゃましても」
「どうぞ」

「あっー! 家の中に入っちゃいましたよ!」
「いちいちでかい声を出すな!」
 渡辺は思った。
 不思議だなぁ…… 運命、だろうか?
 渡辺と進藤は、今日も人美を見守っていた。

 沢木の住む家は、小さな庭付きの平家で、かなり“がた”のきている家だった。この家は相模重工総務部が、彼を迎えるために“取り敢えず”用意したものだったが、彼はこれを気に入り、帰国以来ずっと居をここに構えている。
 人美はピアノの前にたどり着くまでに、いくつかのことに注意を引かれた。一つは玄関の靴―男性用の靴しかなく、彼女は、独身なんだぁ、と思った。もう一つは、スタインウェイの置かれた居間にある本棚で、その蔵書の数は人美のそれを遥かにしのぐものであり、また、その本棚にはロボットや飛行機、スペースシャトルなどの模型がいくつか並べられていた。
 スタインウェイの前に立った人美は、鍵盤を人差し指で軽く押してみた。途端に顔がほころぶ―感激の瞬間。
「すごーいっ! 今まで触ったピアノと全然ちがーう!」
 沢木は人美の麦藁帽子を預かると、「弾いてご覧よ。音もいいよ」と言って微笑んだ。 人美はピアノの前の椅子に腰掛け、何を弾こうかと考えた。
 沢木さんのイメージは?
「冷たいものでも入れようか? 麦茶でいいかい?」
「すみません、お構いなく」
 沢木は居間から続く台所へと進み、冷蔵庫の扉を開けた。その時、人美の演奏は始まった。
 悲愴かぁ。いい趣味だ
 人美の選択した曲は、ベートーベンのピアノ・ソナタ第八番『悲愴』の第二楽章だった。 沢木はピアノの近くに置かれたコーヒー・テーブルの上に麦茶を置くと、ソファに腰掛けた。そして、曲を奏でる人美の指先を見つめながら、演奏に耳を傾けた。
 瞳の奇麗な娘だ。“美しい人”とは、またピッタリの名前をつけたものだ。ピアノも上手だし。この娘が、本当にあの力を持つ少女なんだろうか?
 曲が終わると沢木は人美に歩み寄り、ピアノに肘をついて言った。
「少しどころか、私より全然うまいじゃないか」
 人美は照れながら答えた。
「そんなぁ、ピアノがいいんですよ」
「謙遜だな。私なんか自己流で、きちんと練習もしてないから、とても人美さんのようには弾けないよ」
「それであれだけ弾けるんなら、逆に立派ですよ」
「そうかなぁ?」
「そうですよ。でも、いいなぁ。私にもこんな素敵なピアノがあったらなぁ」
「よければ、もっと弾いていきなさいよ」
「でも……」
「私は今は夏休み中で暇なんだ。君さえよければ、もっと聞かせてくれないかなぁ。ピアノもうまい人に弾かれたほうが嬉しいだろうし」
 人美は二曲披露した。ショパンの『ノクターン第二番』、リストの『愛の夢』―
 この後、二人はピアノや音楽のことを語り合う中で、次第に打ち解け合い、互いに心を開いていった。それはまるで、ずっと以前からの友人のような、あるいは兄妹のような、そんな雰囲気さえ感じられるものだった。
 人美は帰り際にこんな質問をした。
「技術者である沢木さんに質問なんですけど?」
「なんだい?」
「沢木さんは、超能力ってあると思いますか?」
 ドキっとする質問だった。沢木はタバコに火をつけながら答えた。
「あると思うよ」
「本当?」
「んん。きっとあるさ」
 人美は嬉しそうな顔をした。
「それじゃ、私帰ります」
「ああ。今日は楽しかったよ、ありがとう」
「いいえ、私こそ」
「またピアノを弾きにおいで」
「はい」
 沢木は人美を家の前まで見送りに出た。彼女は自転車に乗って去って行った。そして、角を曲がる時に一度振り返り、沢木に手を振った。彼もそれに答える。
 沢木の視界から人美が消えると、彼の横に黒いスカイラインが止まり、中から渡辺が話しかけた。
「偶然、っていうのは奇妙だな」
「そうですね」
「どんな娘だった?」
「んー、名前どおりの娘ですね」
「人美、かぁ」
「ええ」
「で、収穫はあったか?」
「そうですね。会えたことが一番の収穫でしょう」
「なるほど」
 スカイラインは人美を追って走り去った。



 沢木と人美が出会ったこの日の三日前、彩香は退院し、静養という名目で部屋にずっとこもっていた。しかし、これは予備校の夏季講習をサボるための口実であり、彼女の身体はすっかり健康体に戻っていた。そして、今日二十三日は、彩香の退院を祝って白石家での食事会が行われることになっていた。
 午後五時半、彩香は白石会長が差し向けた迎えの車―白石のベンツを家政婦の橋爪が運転した―に乗り、白石邸に到着した。
 彩香は人美の部屋に入るなり、「ねえねえ、見せて、見せて」とせがんだ。彼女が言っているのは人美のサイ・パワーのことである。
 人美は覚醒した次の日に彩香の病室を訪れ、自分に隠された力があることを告げた。その時彩香は「見せて」とせがんだが、コントロールする自信がないからと断ったのだ。
 人美は言った。
「いまだにうまくコントロールできないの。今日も午前中に少し練習したんだけど、花瓶を割っちゃって」
「んー、取り敢えず家の中では止めたほうがいいかも」
「そうみたい。でも、簡単なことならうまくいくと思うから」
「本当?」
「うん、多分」
 人美はコーラの空き缶を手のひらの上に載せ、そしてイメージした―缶がつぶれるところを。緊張の眼差しで見つめる彩香の目の前で、缶はくしゃくしゃに丸まってしまった。「すごーいっ! 人美」
「このくらいのことならできるんだ。でも、大きなものを動かそうとするとだめなの。花瓶はベットを動かそうとした時に割っちゃったから」
 彩香はびっりくした顔のままで言った。
「まあ、人美結構大胆ね。きっとベットじゃ大き過ぎて、必要以上に力が入っちゃうんじゃない。やっぱり、徐々にステップアップしていかなくちゃ」
「そうね」
「でもでも、信じられない。超能力があるなんて、しかも、人美にあるなんて」
 彩香の喜びようとは裏腹に、人美は深刻な顔になって言った。
「彩香、私こんな力欲しくないよ」
「何もったいないこと言ってるのよ」
「だって……」
「持っちゃったんだから仕方がないじゃない。もっと前向きに、うまくその力と付き合っていくしかないわ。練習すれば、きっと思いどおりに使えるようになるだろうし、この前みたいに暴走することもなくなるよ」
「そうゆうものかしら?」
「そうよ。人美、あなたはその能力を活かして、あなたにしかできないことをしなくちゃいけないのよ」
 人美は首をかしげながら尋ねた。
「例えば、どんなこと?」
 彩香は束の間考え込み、「そうだ!」と手を叩いて続けた。
「人美、あなたはセーラームーンになるのよ」
 人美は溜め息を一つ漏らした後に言った。
「また、彩香。そんな突飛なことを」
「いいじゃない。愛と正義のために、その力を駆使して闘うのよ」
「一体誰と闘うの? 第一、私たちの高校の制服は、セーラー服じゃないわ」
「んん、もう、じれったいわね。そんな細かいシチュエーションはどうでもいいのよ。心構えの問題ね。要は、悩んでいたって何も解決しないってことよ。ハッピーエンドを迎えるためには、自分自身で道を切り開いていかなくちゃ。苦難に立ち向かう物語の主人公たちは、みんなそうしているのよ」
「そうね、彩香の言うとおりだわ。とにかく、前向きに、ね」
 彩香は納得の表情とともに首を縦に振った。と、人美が切り出した。
「そうそう、今日沢木さんに会ったの」
 彩香はまたびっくりした顔で叫んだ。
「ひえぇー! もう、そんな大事なことは先に言わなくっちゃ」
「だって、彩香がセーラームーンとか言うから」
「で、何でなの。会いに行ったの?」
「んーん、偶然。自転車で散歩してたらピアノの音がして、誰が弾いてるんだろう、と思って探したら沢木さんだったの」
「凄いわ、運命の歯車はどんどん回ってる」
「でもね、沢木さんは私のこと、白石のおじさまからここにいるって程度にしか聞いてないって」
「そうかぁ。で、どんな人だった?」
「思ったとおりの人だよ。優しくて、ピアノが上手で」
「話しは? どんなこと話したの?」
「ピアノのこととか、音楽のこと」
「それだけ」
「だって、私の夢に出てきたの、なんて言えないでしょう」
「んー、それはそうだけど」
「でも、超能力ってあると思うって聞いたら、あると思うって答えたわ」
 彩香はいぶかりながら言った。
「怪しいわね、沢木さん」
「どうして?」
「だって、得てして科学者とか技術者っていうのは、そういうものを否定するものよ。あると思うだなんて、んー、怪しいわ」
「そうかなぁ、私はあるって言ってくれて嬉しかったけど」
「まあ、とにかく沢木さんの正体が分かるまでは油断は禁物よ」
「んん、心得とくわ」
「ところで、会長やおばさんはなんて?」
「何も聞かないわ。きっと、気を使ってくれてるんだと思う」
「そう。じゃあ、超能力のことも……」
「うん、話してない」
「そっかぁ。まあ、しばらくは二人だけの秘密にしておいたほうがいいね」
「うん」
「とにかく、問題は沢木さんよ」
 鋭い表情でそう言った彩香を見ながら人美は思った。
 ああ、また彩香一人の世界に…… 楽しい人



 里中は、SOP本部の捜査官居室に置かれた自分の机に座り、一枚の写真をじっと見つめながら考えていた。そこへ―
「里中さーん」
 甘い声音で里中の名を呼んだのは、SOPのエース、星恵里だった。
 一七〇センチの身長とスレンダーな体格、ポニーテールに結んだ髪を持つ彼女は、幼いころからずっと警察官を目指してきた。それというのも、彼女の父は警視総監章を表彰されたこともある優秀な警察官であり、その影響をずっと受けてきたためである。
 そんな彼女の、今日の“エース”たる射撃の腕前は、警察大学校在学中に既に開花していた。それゆえ、射撃のオリンピック強化選手に、との話しもあったのだが、彼女はそれを拒み、刑事になることを目指した―父のように。
 外勤警察官を一年務めた後、彼女はSOP入隊を志願したが、“SOPは女の来るところではない”との保守的な思想と、隊員の身体的資格条件―身長一七五センチ以上―とに道を阻まれ、それは実現しそうもない願いに思われた。しかし、これを聞き及んだ当時のSOP総括委員会のメンバー数名は、陳腐な政治的判断―SOPに女性隊員を誕生させることで、警察機構並びにSOPのリベラル性をアピールする―のもと、彼女の入隊を許可したのだった。こうして、SOP初の女性隊員は誕生した。
 半年間に渡る厳しい訓練をへた後、彼女はSOP第一セクション第五小隊に配属された―それは、渡辺が辞職した二か月後、一九九二年の十二月のことだった。高度な射撃技術と敏捷な動き、不測の事態に柔軟かつ冷静に対応できる彼女の働きは目覚ましく、三か月後にはディフェンスマン、さらに二か月後にはポイントマンに抜擢され、それは正に飛ぶ鳥を落とす勢いだった。そして、いつしか彼女は“エース”と呼ばれるまでに成長していた。
 里中は尋ねた。
「あれ、恵里さん。川崎はもういいの?」
「へへ」
「なーに、変な笑い方して」
 星は目を輝かせて言った。
「私、今日から第三小隊で仕事することになったの」
 里中は髪の毛を掻き上げながら言った。
「あーあ、かわいそうに。君も国家権力の先兵にされてしまったんだね」
「何よ、その言い方。せっかく栄光の第三小隊の一員になったっていうのに、もっと感激の言葉はないの?」
「ないねー」
「憎い人」
「全く本部長は何を考えているのやら。第三小隊ばかり強化してどうするんだろう?」
「約束したのよ、本部長と。第六小隊のお守りが終わったら第三小隊に、ってね」
「へー。でも、16部隊が他の小隊並になったとは思えないけど……」
「まあ、そうだけど。でも、私は念願かなって嬉しいわ。何せ、SOPが市民から高い信頼を得ているのも、第三小隊の功績のおかげですもの」
「でも、13部隊だって、勝ってばかりじゃないよ、へまだってしてる。もっとも、僕にも責任の一端はあるけど」
「ごめんなさい、気にしてるの?」
「いやぁ、渡辺さんほどではないよ」
「渡辺さんって、初代の第三小隊長ね」
「んん」
「SOPを辞めてどうしてるのかしら?」
「相模重工にいるよ」
「相模? へー、随分変わったところにいったのね」
「まあ、今でも似たようなことしてるみたいだけどね。でぇ、何班の所属?」
「第一班よ」
「ポジションは?」
「もちろん、ポイントマンよ」
「そう、じゃあ、訓練バッチリやっといてね」
「どういう意味、皮肉?」
「いや。いずれ鮫島と戦うことになると思ってね」
「望むところだわ」
「相変わらず勇ましいね」
「だって、私は闘うために生まれてきた女ですもの。でも、里中さんの言葉は戒めとして肝に銘じておくわ」
「そりゃ、結構」
「それで、鮫島の捜査は進んでるの?」
「まあ、ぼちぼちってとこかな」
 里中は再び写真に目を移した。
「何の写真?」
「経団連の新年会でのひとコマさ。この真ん中の白髭のじじいは田宮総吉と言って、田宮石油の会長だ。そして、隣の長身の男が秘書の橋本浩一。前から臭いとにらんでいるんだが、なかなか尻尾を出さなくてね。でも、僕の直感に間違えなければ、鮫島を陰で操ってるのはこいつらさ」
「つまり、〈民の証〉のメンバーってこと」
「そうかも知れない」
 ここで里中は写真を机の引き出しにしまい、満面の笑みを浮かべてこう言った。
「ねえねえ恵里さん。今夜、食事でも、どうかなぁ」
 星は愛くるしい笑顔を横に振りながら答えた。
「いーや。今夜は夜間戦闘訓練があるんだもん」
「はーあ。好きだねー、お仕事」
「もちろん。それから里中さん」
「なーに」
「名前で呼ぶのは、やめてね」



 彩香はこの夜も人美の部屋に泊まることにした。部屋の電気を消し、二人が横になった時、人美は尋ねた。
「ねえ、怖くない」
「何が?」
「私のこと」
「どうして?」
「だって、この前みたいになったら」
「バカねぇー、人美のことが怖いわけないじゃない」
「……」
「明日さぁ、プールで遊ぼうね」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ、彩香」



 八月二十四日、木曜日。プールで大騒ぎをしていた彩香は、「疲れちゃったよ」と言って午前中で帰宅した。人美はその後、異変の起こった夜に破けてしまった本を買い直そうと、葉山町で一番大きな本屋へと出かけた。
 人美とのコンタクトの機会をうかがっていた沢木のもとに、渡辺から人美は本屋に一人でいるとの連絡が入った。彼は偶然を装って接触すべく、愛車のハイラックスに乗ってその本屋へと向かった。
 沢木が本屋の隣にある広い駐車場に到着すると、黒いスカイラインがヘッドライトを点滅させた。沢木は渡辺たちから離れたところにハイラックスを止め、彼らに軽く手を上げると本屋の中に入り、店内を見回した。人美は専門書が並ぶ棚の前で立ち読みをしていた。 沢木は彼女に近づいた。
「やあ」
「あっ! 沢木さん」
「こんにちは」
「こんにちは」
 にこっとする二人。人美は見ていた本を棚に戻した―それはサイ・パワーの本。
「どうやら最近は超能力に凝っているようだね」
「ええ、ちょっと……」
 口ごもる人美を見て取った沢木は切り出した。
「ねえ、もう用は済んだの? よかったら、お茶でも飲んでいかないかい? 海の見える素敵な喫茶店があるんだけど。音楽の話し、またしたいなぁ」
 人美は彩香の言葉を思い出した。
〈沢木さんの正体が分かるまでは油断は禁物よ〉
 でも、悪い人じゃないよ、絶対
 人美は答えた。
「はい、私でよければ」
 人美は本を一冊買って沢木とともに店を出た。
「私、自転車なんですけど」
「そう、私は車。でも、後ろに載せられるから大丈夫だよ。ほら、あれ」
 人美は沢木の指差した方を見た。
「あの赤い車?」
「そう」
「沢木さんは赤色が好き?」
「んん。そういえば、人美さんの自転車も赤だね」
「ええ、私も赤色が好きなの」
 人美は微笑みながら続けた。
「でも、友達は赤は血の色だから、赤色の好きな人は血に飢えてるって言うの」
 沢木は鼻で笑い答えた。
「なるほど、ユニークな説だ。でも、少なくとも私は血に飢えてるような危険人物じゃぁないから、安心して」
 人美はくすくすと笑った。
 沢木が人美の自転車を車の後ろに積み終わると、人美は尋ねた。
「この車って、四輪駆動なんでしょう?」
「んん、そうだよ」
「なんか、沢木さんのイメージと違う気がする」
「そうかなぁ」
「ええ。だって、この車はワイルドなイメージだもの」
 沢木はとぼけた口調で答えた。
「んーん、そう言われてみるとそうかも知れない。私は、ワイルドって感じじゃないからねー」
 人美はまたくすくすと笑った。
「でも、私はこういう車が好きなんだ。私の父は自動車修理工場をやっていてね、小さいころから車のメカには凄く興味があったんだ。まあ、それが講じて技術者になったんだけど。普通の車よりも、メカメカっとした車がいいんだ。だから、使いもしないのに電動ウインチとか補助ランプとか、エンジンも少しだけいじってるんだ」
「じゃあ、ずっと技術者になろうと思ってたんですか?」
「そう。ロボット・アニメなんかにもかなり夢中になってね。ああいう巨大ロボットや飛行機とか、いつか自分で造るんだって思ってたよ」
「へえー。じゃあ、子供のころからの夢をかなり実現したんですね」
「んん」と沢木は答え、助手席のドアを開けて「さあ、どうぞ」と言った。
 沢木の案内した喫茶店は、彼の言葉どおりの素敵な店だった。それは古い西洋風のたたずまいの大きな家をそのまま店として用い、店内もアンチックな雰囲気で一杯だった。そして、ベランダ越しの大きなガラス窓の向こうには、葉山の青い海を望むことができた。二人はそのベランダ越しの席に座り、沢木はアイスティーを、人美はアイスココアと沢木お勧めのチーズケーキを注文した。
「そういえば、さっき買った本はなんだい?」
 沢木が尋ねた。
「不思議の国のアリスの絵本です。絵が素敵で気に入ってるんです」
「んーん、そういうお話が好きなのかい?」
「ええ。でも、この本を買うきっかけは夢を見たからなんです」
「へえー、どんな?」
「“イルカの国の人美”です」
 沢木はふふっと笑った後に言った。
「それはまた楽しそうな夢だね」
 人美はにこやかに「ええ」と答えると、身ぶり手ぶりを交えながら“イルカの国の人美”を話して聞かせた。
「なるほど。それで“イルカの国の人美”なのか」
「ええ。私、この夢を見る前からイルカやシャチに興味を持ってたので、何だかとっても嬉しくて。でも、こんなお話の本はないから、それで不思議の国のアリスを買ったんです」
「そうか。人美さんは水性哺乳類に興味があるんだ。じゃあ、クジラなんかも」
「んーん、クジラは嫌なの」
「どうして?」
「だって、怖いんですもの」
「そうかな」
「そうですよ。だって、クジラって顔にふじつぼを付けたりしててちょっと不気味だわ」 沢木は笑いながらタバコに火をつけ言った。
「んー、つまりルックスの問題なわけね」
「ええ」
「じゃあ、イルカを見に行ったりしてるの?」
「ええ、この辺にイルカなんているんですか?」
「んん、いるよ。さすがに葉山の海には泳いでないけど、油壷マリンパークにはいるよ」「ああ、そうか。私バカみたい、全然気がつかなかった」
「見に行ってみるかい?」
「今から? いいんですか?」
「言ったろう、私は夏休み中で暇だって」
「じゃあ、行きましょう」
「よし、ケーキを食べたら出発しよう。たしか、イルカとアシカのショーをやってるはずだから」

 油壷マリンパークは、三浦半島南部の相模湾側にある、世界最大規模の回遊水槽を有する水族館であり、およそ三〇〇種、六〇〇〇尾の生き物を見ることができる。このマリンパークの最大の呼び物は、〈ファンタジアム〉と呼ばれる屋内劇場で行われるイルカとアシカのショーであり、春、夏、秋、クリスマス、正月毎に出し物を替え人気を呼んでいる。 午後二時ごろにマリンパークの着いた沢木と人美は、パンプレットでショーの時間を確認すると、まずは〈魚の国〉と名づけられた生態水族館に入り、続いて屋外に設けられた〈アシカ島〉や〈ペンギン島〉を見て回った。
 人美はペンギンを見ながら沢木に尋ねた。
「沢木さんはアメリカに留学してたんでしょう。アメリカって、どんな国なのかしら?」「そうかぁ、人美さんは来年アメリカに行くんだったね」
「ええ」
「そうだね。私が思うに、歴史に飢えた国かな」
「歴史に飢えた国? どういう意味ですか」
「アメリカっていう国は、建国からたった二百年しかたっていない新しい国でしょう。だから、アメリカ人は歴史―言い替えれば、自分たちの歩んで来た足跡をとても大事にするんだ。そして、それと同時に新しい歴史を造ることにも非常に熱心なんだ。今のアメリカは、財政赤字と貿易赤字、いわゆる双子の赤字っていうのを抱えていて、台所は火の車なんだ。ところが、一方では宇宙開発とか、膨大な資金を必要とする国家プロジェクトを推進している。これは一体何なんだろう? と私は考えたんだ。つまり、彼らは新しいものを創造したいんじゃないか、文化を築き、歴史を造りたいと。映画や音楽、そうしたエンターテイメントが盛んなのも、優秀な教育機関が数多く存在するのも、そうした欲が出発点のように思うんだ」
「んーん。沢木さんって、やっぱりものの見方が違うんですね」
「これはあくまで私の主観だから、何より自分の目で見て来るのが一番さ。人美さんの見たアメリカがどんな国か、いつか聞かせて欲しいなぁ」
 こうした会話の後、二人はショーの開演時間が近づいた〈ファンタジアム〉へと移動した。
 〈ファンタジアム〉で行われるショーは、“イルカとアシカ”という冠がついてはいても、主に“芸”を披露するのはアシカであり、イルカは時折“ジャンプ”をするくらいなのである。しかし、それだけでもイルカには十分な存在観があった。そして、人美が驚きを感じた瞬間は、『森の熊さん』を歌うイルカの芸を見た時、すなわち“知性”を感じた時だった。
 三十分に渡るショーの間中、人美は熱心に、また、感激を持って鑑賞を続け、その間一度だけ沢木に話しかけた―彼のシャツの袖を引っ張りながら「ねえ、あれ見て」と。それは、一頭のアシカがオルガンを演奏している時だった。
 アシカが弾けるように大きくした鍵盤―というよりスイッチだが―を、調教師の女性の指揮棒による合図で、アシカは指示された鍵盤を顎で弾く。だが、この時のアシカは―調子が悪かったのか、それともこれが実力なのかは分からぬが―一度に二つの鍵盤を弾いてしまったり、弾く鍵盤を間違えたりしてしまった。この時、調教師の若い女性はアシカの方に顔を近づけて、にこやかな愛情に満ちた表情でアシカに何かをつぶやいた―おそらくは、「だめよ、間違えちゃ」に類する言葉だろう。
 人美が何を感じ取って「ねえ」と話しかけたのか沢木には分からなかったが、そうした光景に注目する人美という少女が、感性の豊かな―そう、“アリス”のような少女に彼には思えた。
 ショーを見終わった後、二人は〈イルカのプール〉へと場所を移した。直径十メートル、深さ三メートルくらいのそのプールには、二頭のイルカが泳いでいた。二人はそのプールを囲む手摺りに肘を突きながら話し合っていた。
 人美は言った。
「沢木さんといると何だか不思議」
「なぜ?」
「だって、ずっと以前から知り合いだったような気がするんですもの」
「そう、実は私もそんな気がするんだ」
「本当?」
「ああ。人美さんは、“袖振り合うも多生の縁”っていう言葉の“たしょう”って、どういう字を書くか知ってる?」
 人美はしばし考えた後に答えた。
「多い少ない、かなぁ?」
「んーん、多く生まれるって書くんだよ。この言葉は仏教に由来する、つまり、輪廻転生の考え方からきてる言葉なんだ」
「へえぇー」
「私は輪廻転生を信じてはいないけど、人との出会いが時としてこうした言葉で語られるのは、それだけ、不思議な要素があるということだと思うんだ。運命的だったり、宿命的だったりね」
「沢木さんは、そういうことを私に感じる?」
 沢木はにこやかな表情で言った。
「少なくとも、君は私の新しい友人だ」
 嬉しい言葉だった。人美は小さな笑みを返すと、照れたようにうつむき、そして、イルカに視線を戻して言った。
「不思議なことって多いですよね。例えば、このイルカだってそう」
「どうしてだい?」
「だって、音波を使って障害物を見つけたり、餌を獲ったり、仲間と交信したりするでしょう。それって、超能力みたい」
「それで超能力に興味があるの?」
「ええ、それもあるんだけど…… どうしてだろう? そんな力を持ってるなんて」
「きっと、生きるために必要だからじゃないかなぁ」
「生きるため?」
「んん。私は思うんだけど、生き物っていうのは生きて行くために進化をしてきた。そして、その過程で必要な力を身に着けてきた。無駄なものって、生き物の持つ機能にはないんだよ」
 無駄なものはない、かぁ?
「だからイルカも音波を使えるんだろうし、もしかしたら、人間だって今はない力を身に着けるかも知れない。あるいは、既に持っている人もいるのかも知れない」
 そうよ、私にはあるもの
 人美は尋ねた。
「じゃあ、もしも超能力を持ってる、っていう人がいたら、沢木さんは信じる」
「私は技術者だからね、確たる根拠もなしに信じる信じないを口にしたくはない。でも、今はあるような気がするんだ」
「どうして?」
「どうしてかなぁ?」
 沢木がその先を答えようとした時、一頭のいたずら好きのイルカが、胸びれで水面をバシャンと叩いた。人美は素早くよけたが、沢木は水を頭から浴びた。けらけらと笑う人美。沢木は深い溜め息とともに笑みを浮かべ、一言つぶやいた。
「なんてざまだ」
 こうして二人のイルカ見物は終わった。沢木は人美を送るべく白石邸に向けて車を走らせた。道中、人美は疲れたのか、すやすやと眠ってしまった。その寝顔を横目で何度となく見た沢木は、この娘の力の解明など試みないほうがよいのかも知れない、そっとしておいてあげたほうがよいのかも知れない、そんなことを思うのであった。
 時刻が午後六時近くになったころ、彼らは白石邸に到着した。沢木はガレージにハイラックスを入れ、人美の自転車を下ろし、そして、助手席の窓ガラスをトントンと叩いて眠れる少女を起こした。まだ半分寝ている人美は車を降りると、しばしぼうっとした後に今日の礼を沢木に言った。その何ともいえぬ愛らしさに、彼は笑みを返した。



 沢木は白石会長に用があるからと、人美と一緒に白石邸の中に入って行った。
「そうか、そんな展開になっていたのか。全く、突然人美君と一緒に来るから驚いたよ」 白石会長は沢木の話しを聞いた後に言った。
「でぇ、偶然だと思うかね。つまり、出会ったことを」
 沢木は答えた。
「さあ? あるいは彼女の力が何かを感じ取ったのかも知れません。しかし、もうそんな推測はしなくてもいいでしょう」
「どういうことだ?」
「彼女にサイ・パワーがあることは間違いないし、渡辺さんの報告だとその力にも気づいている。そして、彼女自身の口からも、何度となく超能力に関する話題が出ています。彼女のサイ・パワーは実在し、また、それを自覚してもいるんです。これから我々にできることがあるとすれば、それは憶測や推測を行うことではなく、一つ一つの事実を検証しながら、彼女の力になってやることだと思います」
「具体的に考えていることはあるのか?」
「一つは、彼女が自らの能力について私に語ってくれればと思っています。しかし、それには時間が必要でしょうし、これから先のEB計画は、何より彼女を尊重したものであるべきだと考えています」
「つまり、彼女の本意のもと、研究が進められれば、ということか」
「そうです。彼女は秋山さんを通じて干渉するなとのメッセージを我々に示し、また、私に強烈な警鐘を鳴らしました。そして私自身、たった二日ですが彼女を知る中で、EB計画を打ち切ってもいいかと、そう思ってもみたんです。しかし、彼女の持つ能力が、過去に起こったようなことを引き起こしたり、あるいはこの前の夜のような現象を起こしたり、こうしたことが起こるのは好ましいこととはいえません。そして、何より私が一番危惧することは、彼女の能力が、彼女自身の精神や肉体に悪影響を及ぼすようなことがないか、という点です。こうしたことを回避するためにも、やはりEB計画は続けた方がいいかと、そう結論を出した次第です」
 白石は深くうなずいた後に言った。
「うむ、分かった。この先のことも君に一任しよう。ところでだ、君なら見山君に、つまり、人美君の父に何と答えるかね」
 沢木は「んんー」とうなった後に答えた。
「難しい問題ですね。真実を伝えればかなりのショックがあるでしょうし……」
「君の流儀からすれば、真実は伝えるべき、となるはずだが」
「ええ、確かにそうです。しかし、私は人美さんには今の輝きのままでいてもらいたいんです」
 白石は再び深くうなずいた。沢木は続けた。
「何も過去のことなど知る必要はないんじゃないかと。そう考えれば、当然彼女の父親にも知らせなくていいと思うんです」
「そうだな」
「しかし、真実を隠すことは弊害を起こしがちです。これについては慎重に検討したいと思いますが」
「んん、わしもいろいろと考えてみよう」
 こうしたやり取りが交わされた後、沢木は白石の勧めで夕食をご馳走になり、彼と人美、白石夫婦の四人による団欒の一時がこの夜は過ぎていった。白石は、最近ではめったに口にしなくなった酒を飲み、沢木は水野美和以外の人間には一度も披露したことのない、“ビリー・ジョエル”をピアノで弾き語りした。そして、人美は終始笑顔に溢れていた。



 それから一日が過ぎた八月二十六日、土曜日、午前一時、沢木は自宅の寝室に置かれたパソコンに向かい、総合技術管理部内に新しい部署を設立するための計画書を作成していた。
 キーボードを叩く手を休め、コーヒーカップを口に運ぶと、カップの中が空であることに気がついた。彼はカップを手に立ち上がり、寝室のドアを開けた。そして、一歩部屋を出て居間に立つと、彼は自分の目を疑った。
「……誰だ」
 台所に置かれたテーブルの椅子には、大柄な男が一人背を向けて座っていた。
「沢木聡だな」
「そうだが―」
 その先を言うことはできなかった。沢木の後ろに潜んでいた男が彼の口を押さえ込み、さらにもう一人が後ろ手に手錠をはめ、突き飛ばすようにしてソファに座らせると、銃口を身体に押し当てた。
 MP5! テロリストか
 沢木がそう思いながら部屋の中を見回すと、顔を目開き帽で隠した男たちは全部で四人いた―台所にいる大柄な男、眼鏡をかけた男、太った男、目開き帽から茶色い髪がはみ出した長髪の男。そして、全員がMP5SD3で武装していた。
 MP5シリーズは、SOPも採用している九ミリ口径のサブ・マシンガンであり、その中のSD3というモデルはサイレンサーを組み込んでいる。ドイツのヘッケラー&コッホ社が製造し、高い信頼性と毎分八〇〇発もの連射能力を持つこの銃は、いくつかの特殊部隊―イギリスのSASやアメリカのネイビーシールズなど―でも使用されている。
 沢木は言った。
「なんだお前たちは」
 その声を聞くと、椅子に腰掛けていた男はゆっくりと立ち上がり、沢木の方に歩み寄りながら言った。
「我々が何者かは好きなように想像すればいい。今夜はちょいと用があってやって来た」「何の用だ」
「大したことじゃない。ただ、遺書を書いてもらいたい」
「遺書? 残念だが私に自殺の予定はない」
「安心しろ、俺が殺してやる。もちろん自殺にみせかけてな」
「何だと。なぜ遺書がいる。何を企んでる」
「では、冥土の土産に教えてやろう。まず、貴様にはプロメテウス計画の全貌を暴露する遺書を書いた後に死んでもらう。俺はその遺書を新聞社やテレビ局に送る。どうだ、簡単だろう?」
「なるほど、いいアイデアだ。相模も政府も大ダメージだな」
「お誉めにあずかって光栄だ。では、早速遺書を書いてもらおう」
「そんな要求を受け入れると思うのか。どっちにしろ殺されるというのに」
 鮫島はかぶりを振りながら言った。
「一つだけ違うことがある」
「何だ」
「遺書を書けば死ぬのはお前一人で済むが、拒めばほかの人間も死ぬことになる」
 男は笑い声で続けた。
「そうだなぁ、一人めは秋山とかいう女にしようか」
 その言葉に沢木の表情の険しさは増した。
「愚劣な奴め。木下賢治を殺したのもお前か」
「ほう、いい読みだ」
「お前は、鮫島だな」
 男の視線は鋭く沢木に注がれた。
「図星のようだな」
「なるほど。切れる奴が相模にいると思っていたが、貴様だったのか」
 男は目開き帽を脱ぎ捨てながら言葉を続けた。
「いかにも、俺が鮫島だ。さあ、遺書を書いてもらおうか」
 沢木は思った。
 さて、どうする。このまま終わるわけにはいかないぞ



 人美はなかなか寝つかれずにいた。ベットから起き上がり、窓越しに夜空を見上げると、半分欠けた月には黒い雲が薄く掛かり、幼いころに見た怖い映画を思い出させた。途端に不安な気持ちが込み上げてくる。何だろう? と思った途端、今度は沢木のことが頭をよぎる。
 まさか、沢木さんに何か
 人美は電話をかけに行こうとした。しかし―
 いけない、電話番号なんて知らないじゃない
 人美はパジャマを脱ぎ捨て、シャツとジーンズに着替えると慌てて部屋を出て行った。 トイレから寝室に戻ろうとした白石会長は、階段のところで人美に出くわした。
「おや、人美君。どうしたのかね?」
 人美は階段を駆け下りながら答えた。
「ちょっと出てきます」
「出てきますって、こんな夜中にどこへ行くんだ!?」
 白石は人美の後を追って走った。



「あーあ、風呂に入りたいなぁ。汗臭くて、これじゃ女の子は近寄らないよ」
 進藤のその言葉に渡辺は答えた。
「元々そんな女はいないだろう」
 ちぇっ! 嫌なおやじ
「明日になれば森田たちと交代できる。もう少しの辛抱だ」
「もう少しって、人美さんの監視はまだ続くんでしょう。そしたらまた車住いだぁ」
「進藤、嫌ならいつでも辞めろ。俺はいっこうに構わん」
「普通、そこまで言いますか。だいだい室長は―」
「話しは後だ。車を出せ」
「えっ」
 進藤が前方を見ると、人美が自転車で走って行く後ろ姿が見えた。やや遅れて息を切らした白石会長。
 渡辺は車中から白石に声をかけた。
「どうしました?」
「分からん。だが、かなり慌てて出て行った」
「そうですか、後は任せてください。連絡します」
「うむ。頼んだぞ」



 人美の視界に沢木の家が入ると、寝室と居間の電気がついているのが確認できた。そして、自転車の速度を落としながらしばし考えた。
 やっぱり止めようかなぁ。でも、せっかく来たんだから―姿を見れば安心だものね
 人美は自転車を降りると、それを押しながら玄関に近づいて行った。

 沢木の家へと続く一本道を曲がったところから、黒いスカイラインはヘッドライトを消しゆっくりと人美の後を追っていた。
 ハンドルを握る進藤が言った。
「こんな時間に沢木さんに何の用だろう? まさかあの二人、危ない関係になっちゃうんじゃ……」
「それならいいんだがな」
「よかーないですよ! 神奈川県の青少年保護条例では―」
 渡辺の目には、自転車を押しながら歩く人美の姿と、沢木の家の前に止まる白いバンが映っていた。
「進藤、お前の言いたいことの結末はとっくに分かってる。それよりもう少し近づいたら車を止めろ」
 スカイラインは沢木の家から二〇メートルほど離れたところで止まった。渡辺は双眼鏡を目に当て、白いバンのナンバー・プレートを見た。
 こんな時間に品川ナンバーか
「よし、中のようすを探る」



 沢木は鮫島に監視されながら、寝室のパソコンを使い遺書を打っていたが、頭の中はこの危機からいかに脱出するか、その一点に絞られていた。
 どうする?
 彼はキーボードの横にあるタバコを見た。
 タバコの火を押しつけてひるんだ隙に窓から脱出するか? いや、プロのテロリストにそんな小細工が通用するわけない
 次にディスプレイの脇にあるスプレー式のOAクリーナーが目に入った。
 こいつに火をつければちょっとした火炎放射器だな。しかし、銃を乱射されたら一巻の終わりだ―ああ、そうだ。引き出しの中にナイフがあったんだ。んー、これもだめだな。こんな奴と白兵戦だなんて、結果は目に見えてる
 そんなことを沢木が考えていると、ドア・チャイムが鳴った。
 鮫島が問い質した。
「誰だ」
 沢木が首を横に振ると、眼鏡の男が入って来て言った。
「女だ。高校生くらいの」
 人美?
 鮫島は鼻で笑った後に沢木に言った。
「貴様も罪な奴だな。よし、出ろ。妙な真似をしたらすぐに撃つ、いいな」
 沢木が玄関のドアを開けると、そこには予想どおり人美が立っていた。
「人美さん、どうしたの」
「あの―」
 沢木は人美に話す暇を与えずに言葉を続けた。
「こんな遅くに出歩いちゃだめだよ。早くお帰りなさい」
 鮫島は眼鏡の男に指示した。
「持ち駒は多い方がいい。あの娘を捕まえろ」
 人美は沢木が無事なことに安心はしたものの、いつもと違う冷たさのある言葉にがっかりした。
 やっぱり来なければよかった
「すみません、私帰ります」
「それがいい」
 人美はドアを閉めようとした。その時、窓から出て人美の背後に回った眼鏡の男が、彼女を家の中へと押し込んだ―「きゃあー」
 渡辺と進藤は人美の悲鳴を聞き取った。
「俺は裏へ回る、お前は玄関から行け。ぬかるなよ」
「了解」

 沢木は人美を押さえる眼鏡の男に飛び掛かったが、彼の後ろにいた太った男に居間の方へと投げ飛ばされた。そして、長髪の男に再び後ろ手に手錠をかけられた。
 この時、玄関ドアがぱっと開き進藤が飛び込んで来た。眼鏡の男は片手で銃を構えたが、人美が暴れたために狙いが定まらなかった。果敢に飛び掛かる進藤。しかし、太った男は進藤の大腿部に二発の九ミリ弾を撃ち込み、さらに、銃を使って彼の頭部を殴打した。
 渡辺が台所にある勝手口のドアを蹴破って家の中に突入しようとした途端、それに気づいた長髪の男が沢木を盾にしながらMP5を乱射し、彼は勝手口の外に戻された。
 渡辺の姿を認めた沢木は「鮫島だーっ!」と叫び、その声を聞いた渡辺は、ベルトに挟んでいた里中の銃―ベレッタM92Fを取り出し、発砲の隙をついてドアの陰から長髪の男の右肩を撃ち抜いた。
 鮫島はその光景に少なからず畏怖を覚えた。なぜなら、人質を盾にしているのにも関わらず発砲し、なおかつ、標的を正確に撃てる人間は、この日本においてSOPの隊員以外には考えられないからだ。
 SOP…… ということは里中も
 鮫島は大声で指示した。
「人質を盾にして脱出する! 計画変更だ」
 さらに、渡辺に向かって怒鳴った。
「外の奴! 今度撃ったら人質の命はないぞっ!」
 鮫島たちは沢木と人美を盾にしながら家の外へと進み出た。
 渡辺が人の気配のなくなった家の中に入ると、進藤のうめき声が聞こえた。彼は玄関近くに倒れる進藤に駆け寄った。
「進藤! 大丈夫か!」
「僕に構わず二人を……」
 この時、外のバンのエンジンがかかる音がした。
「早く」
「救急車を呼んでやる。しばらく辛抱してろ」
「こういう時はさすがに優しいんですね」
 進藤は微笑みながら続けた。
「さあ、早く」
 渡辺が外に出ると、バンは走り出したところだった。彼はバンを追うようにしてスカイラインに向かって走った。
「ボス、追ってくるぜ」
 その言葉に振り向いた鮫島は、大平の家で遭遇した男であることに気づいた。
 奴はあの時の…… 一人か? 里中は?
 長髪の男は肩の傷に顔を歪ませながらも「俺がぶっ殺してやる!」と叫びながら車窓から身体を乗り出し、MP5を構えた。だが、その銃弾が炸裂することはなかった。
「畜生! 弾詰まりだ!」
 車内に身を戻した長髪の男は銃を点検したが―
「変だ、なんともねー」
 この時、人美は意識してサイ・パワーを使ったわけではなかった。しかし、彼女の心の叫び―「撃たないで!」―は、確実に反映されていた。
 渡辺はスカイラインに飛び乗ると、タイヤがスピンするほどの急発進をして白いバンを追った。

 午前一時四十分。里中は捜査第七班の部下たち五名を率い、横浜市の根岸港にある田宮石油根岸製油所の埠頭に停泊中の、大和丸という名の石油タンカーを監視していた。なぜなら、田宮石油が所有するこのタンカーが、テロリストの密入国や国外逃亡に関与しているという疑惑を持っていたからだ。
 とあるビルの屋上から双眼鏡で大和丸を見つめていた西岡が言った。
「鮫島は来るかな?」
 隣にしゃがんでタバコを吹かしていた里中が答えた。
「さあ? でも、張ってみる価値はあるさ」
「もし鮫島の乗船が確認できたらどうする?」
「出港してからSOP1に乗り込んでもらう。袋のネズミさ」
 この時、里中の携帯電話が鳴った。それは鮫島を追跡中の渡辺からだった。
 西岡は電話を切った里中に尋ねた。
「なんだい?」
 里中はにやりとして答えた。
「へへっ。鮫の奴、葉山にいるよ」



 里中からの連絡により、SOP本部で待機中だったSOP131(SOP第一セクション第三小隊第一班)が―すなわち、星を含む四人の隊員が、ナイトハウンドと呼ばれる戦術ヘリコプターで出動したころ、秋山は電話のベルに起こされた。
「もしもし……」
「渡辺だ。沢木と人美が拉致された」
「ええっ!」
 驚きとともにベットから落ちた秋山は、その衝撃で目を覚ました。
「だっ! 誰に」
「木下を殺った連中だ。今追跡してる」
「沢木さんは!? 二人は大丈夫なんですか!?」
「取り敢えず怪我はしてないはずだ」
「渡辺さんたちは? 大丈夫ですか?」
「進藤が撃たれて救急車を手配したが、心配ないと思う。SOPにも連絡した、すぐに応援が来てくれるだろう」
「分かりました。私は社に出社して対応に備えます」
「そうしてくれ」
「渡辺さん」
「何だ」
「沢木さんを、頼みます」
「……心配するな。必ず助け出す」
 秋山は電話を切ると慌てて着替え、髪を振り乱しながらマンションを飛び出し、愛車のインテグラで本社に向かった。



 沢木と人美を乗せた白いバンは、国道一三四号線を通ってJR逗子駅前を過ぎ、京浜急行の線路沿いの道を横浜市に向かって走っていた。
 時速三〇〇キロ強のスピードで飛行するナイトハウンドは、白いバンを追う渡辺からの連絡を受けながら飛び続け、午前一時五十五分、横浜横須賀道路と京浜急行線が交差する付近の道路で目標を捕捉した。
 鮫島が雇った男たちが口を動かした。
「畜生! ナイトハウンドだ」
「びくつくなデブ、こっちには人質がいるんだ」
「ボス、どうするんだ」
 助手席に座る鮫島は答えた。
「当初の脱出経路は使えない。ひとまずどこかに籠城するしかないな」
 ハンドルを握る太った男が言った。
「でもよボス、籠城なんかしたらSOPの思う壷だぜ。やつらは人質救出のエキスパートなんだ」
「俺はお前たちをCQBの得意な奴らと聞いて雇ったんだ」
 後ろの席で長髪の男の傷を手当していた眼鏡の男が尋ねた。
「それじゃ、ボスはSOPと初めから戦う気で」
「まあ、ある程度は予想してた。とにかく、今は戦うことだけを考えろ。脱出方法は俺が考える」
 長髪の男は銃を沢木たちに向けながら、不敵な笑みを浮かべて言った。
「へへっ、おもしろくなってきたぜ」
 バンの後ろ―荷台部分に座らされていた沢木と人美は、小さな声で話していた。
「沢木さん、私たちどうなるの?」
「大丈夫、私の仲間が動いてくれている、それにSOPも。きっと助かるさ」
「でも、一人は撃たれたわ。あの人は大丈夫かしら」
「撃たれたのは脚だ。早期に治療を受ければ心配ない」
「本当?」
「ああ。とにかく、チャンスを待つんだ、いいね」
「はい」
 沢木は思った。
 人美はなぜ力を使わないんだろう? 今以上に危機的状況に陥らないと力を発揮できないのか? あるいは…… まあいい―しかしまいったなぁ。あんなに銃を撃たれて、ピアノは大丈夫だろうか?
 人美も考えていた。
 力を使えば…… でも、コントロールできるかしら? 悪い人でも人間だわ、缶や花瓶のようにするわけにはいかない、そしたら私は人殺しだもの。どうしよう―でも、なんか沢木さんは落ち着いてるなぁ。怖くないのかなぁ?……
 二人がそんなことを思っている時、地図を見ていた鮫島は突然沢木に質問した。
「エアステーションの滑走距離を教えろ」
「なぜ?」
「貴様死にたいのかっ! 余計なことを言わずにさっさと答えろ!」
 鮫島が大声を出すと人美はビクっとした。それを感じ取った沢木は答えた。
「離陸が九六三メートル、着陸が八九〇メートルだ」
「航続飛行距離は!」
「三五五八キロ」
 二つの答えを聞いた鮫島はほくそ笑みながらつぶやいた。
「ふふっ。余裕だな」



 白いバンは時速一〇〇キロ近いスピードで、国道一六号線を南下し始めた。バンの約二〇メートル後方には渡辺の乗るスカイラインが、そして、上空にはナイトハウンドが、それぞれ白いバンを追跡していた。
 星が搭乗するナイトハウンドの正式名称は、相模MD/AH93Jといい、これは相模重工がアメリカのマクドネルダグラス社の技術協力を得て開発したSOP仕様のヘリコプターである。一九九四年から陸上自衛隊にも導入され始めたナイトハウンドの任務は、SOPの作戦行動時の情報収集、管制などであり、防弾加工された黒い機体に赤外線暗視装置、高感度指向性マイク、サーチライト、コンピューターなどの近代装備が施されている。最大速度三一二キロ、航続距離三六八キロのスペックを誇るナイトハウンドには、パイロットとオペレーターのほか、SOPの隊員四名(つまり一班)が搭乗できる。
 星は現場に車で急行中の里中に無線連絡した。
「こちら131。271聞こえますか」
 里中が応答した。
「こちら271」
「目標は国道一六号線で進路を南に変更、横須賀方面に向かっています」
「13はどうしてる」
「アラート1でスタンバイしてます」
「了解」
 里中は思った。
 横須賀方面だと。鮫の奴どこへ行く気だ?



 白いバンが京急追浜駅前の交差点に近づくと、鮫島はバンを運転する太った男に指示した。
「あの交差点を左折しろ」
「何があるんだ?」
「横須賀自工の工場だ」
「そこで籠城するのか?」
「そうだ」
「で、その先は?」
 ここで沢木が口を挟んだ。
「そうか! テストコースを使う気か」
 鮫島が答えた。
「そのとおりだ。貴様が人質にいると分かれば、相模は喜んでエアステーションを寄越すだろう」
 横須賀自動車工業の追浜工場には、一キロ強の直線を有する巨大なテストコースがある。鮫島はこのテストコースを滑走路代わりにして、相模重工に用意させたビジネスジェット機―エアステーション1で、国外への脱出を図ろうと考えていた。
 白いバンは追浜工場の敷地内へと入り、テストコース近くにある資材倉庫の中で車を止めた。一方、渡辺は白いバンが倉庫の中に入ったところで車を降りた。
 バカなやつらだ。自分から檻の中に入るとは
 渡辺は上空を旋回しながら倉庫を監視するナイトハウンドの姿を認めると、ひとまずタバコに火をつけた。



 午前二時七分。SOP本部の屋上にあるヘリポートから、SOP13部隊を乗せたボーイングCH47Jチヌークが飛び立った。
 チヌークは、川崎重工がライセンス生産する全天候型輸送ヘリコプターであり、SOPでは隊員や武器弾薬類、指揮車の輸送に使用されている。最大積載重量は約一三トン、最大速度二九八キロ、航続距離二〇五七キロのスペックを誇り、ナイトハウンドと同様、防弾加工された機体を艶消し黒で塗装している。
 また、このチヌークで隊員たちとともに現場に向かう指揮車は、SOP1が小隊規模以上で行動する時―これを行動レベル2といい、レベル1は班規模の行動、レベル3は中隊規模の行動を意味する―に出動する。この指揮車は、相模重工が陸上自衛隊に納入していた四輪駆動の装甲車をSOP仕様に改良したもので、現場においては小隊の作戦指令室として機能する。
 各隊員と指揮車をつなぐものは、隊員たちが頭部に装備する無線機とモニターカメラが一体になったヘッドギア(ヘルメットのようなもの)であり、これにより音声や映像を指揮車に送信できる。指揮車にはこの映像を映す一四インチのモニターが七台あり、モニター一台は画面を四分割して一班分の映像を映し出し、六台のモニターにより全隊員の“視界”が映される。残りのモニター一台は、全二十四画面の中から任意の画像に切り換えできるようになっている。
 さらに、指揮車には戦術コンピューター・システムと呼ばれる高度なワークステーションや赤外線カメラなどが装備されていて、ナイトハウンドと連携することにより、膨大な量の情報を収集、解析できる。
 午前二時十七分。チヌークは鮫島たちが籠城する資材倉庫の近くにあるビルの裏手に着陸した。後部のハッチが開くと隊員たちが一斉に飛び出し、セオリーどおりの行動を開始した。
 第一に、警備員から資材倉庫の見取図を入手し、その情報を指揮車のコンピューターに入力する。そこへナイトハウンドの収集した情報を加え、コンピューター画面上に資材倉庫の立体モデルを作成する。さらに、赤外線カメラを使い、倉庫のどこに人質と犯人がいるかを探索する。赤外線カメラとは、熱源の発する赤外線をとらえる特殊なカメラであり、このカメラを用いれば、壁の向こう側にいる人間を透視するかのように見て取ることができる。そして、資材倉庫の立体モデルに赤外線カメラの映像を重ねることにより、内部の状況の一部始終を監視することができるのだ。
 第二に行われるのは、情報からの隔離である。その一つが電話配線を遮断することで、これは犯人が特定の交渉人以外にコンタクトをとるのを防ぐためである。また、状況によっては無線器や携帯電話の電波を妨害する“ジャミング”も行われるが、これを実行するとSOPの無線も使用できなくなるため、常時使用されることはない。

 渡辺はスカイラインに乗り込み、チヌークの着陸した地点に車を進めた。途中で出会う第三小隊の隊員たちは皆かつての部下であり、彼はすれ違いざまにある種の懐かしさを感じていた。
 第三小隊長の笠谷将樹は近づいて来るスカイラインを笑顔で出迎え、車を降りた渡辺に親しげに声をかけた。
「よう、久しぶりだな。元気そうじゃないか」
「ああ、SOPを辞めたおかげで健康状態は良好だ」
「ふふっ。しかし、やってることは大して変わりなさそうだな。里中から聞いたよ」
「静かに暮らしてくつもりだったんだが、相模の厄介になったのが間違いのもとだった」
 笠谷将樹は渡辺と同じ三十六歳で、渡辺がSOPを辞職した時に第三小隊の隊長に任命された。ともにポイントマンであった二人は、“栄光の第三小隊”を築いた立役者であると同時に、多くの困難な任務を切り抜けてきた“戦友”だった。
 渡辺と笠谷が話しをしていると、ナイトハウンドから降りたSOP131の四人が側に歩み寄って来て、かつての上官に再会の言葉を発した。そんな中、星は「はじめまして」と渡辺に声をかけた。彼女を見た渡辺は、一瞬、女? と見下しかけたが、その制服の襟に特級射撃手徽章が付いているのを見て取ると、その考えを改めた。
 特級射撃手徽章とは、最も勝れたCQB技術を持つ隊員に与えられるバッチであり、かつては渡辺もSOPの制服に付けていたものである。そして、この徽章を付ける者こそが、エースと称されるのである。現在、SOPの隊員の中でこの徽章を身に付けている者は、星と笠谷の二人しかいない。
 渡辺は星に言った。
「いいバッチをつけてるな。SOPに女がいるのは知ってたが、まさかエースとは」
 笠谷が言った。
「彼女は星恵里。お前が辞めた後に入ってきて、あっという間にそいつを付けるまでになった。まあ俺の見たところじゃ―そうだな、SOP史上最強ってところかな」
 渡辺は半信半疑で「ほう」っと言った後、星の持つMP5を見て感想を漏らした。
「エイミング・ポイント・プロジェクターか。俺はそんなものに頼りはしなかった」
 エイミング・ポイント・プロジェクターとは、銃に取り付ける照準器の一つであり、取り付けた銃の平均着弾点にレーザー光線を照射することにより、狙いを定めることができる装置である。
 星はその言葉に反論した。
「お言葉ですが、私はこれを使わなくても標的を射抜く技術は持っています。しかし、私はそれ以上の精度を求めているんです」
「それ以上とは?」
「相手が例えテロリストでも、できることなら命は奪いたくないんです。そのためには、ウイークポイントをより正確に撃つことが要求されます。これはそのために付けています」「なるほど、優しいんだな。しかし、どこの対テロ部隊もそうだが、標的には可能な限りの銃弾を撃ち込むことを指導している。SOPもその例外じゃない。一発で仕留めるのは難しいことだ。かつての俺はそれでしくじった」
「もちろん状況によります。ですが、私の求めるものは必要最小限の弾で最大の効果を得ることです」
「ふふっ。その腕、どれほどのものか楽しみにさせてもらうよ」
「どうぞ、ごゆっくり見学してください」
 そう言うと、星はにこっと笑顔を浮かべた。



 沢木と人美は資材倉庫の二階にある事務室のソファに座らされていた。かなり大きなこの事務室は、ドアを入るとすぐにファイリング・ケースによる仕切りがあり、その向こう側に二人の座るソファとコーヒー・テーブルが置かれていた。ドアは東側の壁にあり、北側の壁にはテストコースが見渡せる窓と、屋外に設置された非常階段へのドアがあった。
 長髪の男は部屋の中央より窓側に並べられた事務机の上に銃を構えて座り、渡辺に撃たれた傷の痛み止めに注射されたモルヒネのせいで、ニタニタと薄気味悪い笑いを浮かべながら二人を見張っていた。眼鏡の男は閉ざされたブラインドに穴を開け、外のようすを探り、太った男はドアの陰から一階と屋上に通じる階段を見張っていた。また、鮫島は事務机の上に脚を載せ、踏ん反り返って座っていた。
 そんな中、沢木は、我ながら落ち着いたもんだ、と思っていた。最初に殺すと言われた時も動揺しなかったし、人質にされている今も恐怖を感じることはなかった。それがなぜかを考えはしなかったが、八年前から彼の心の中に宿っている虚無感は、こうした状況下でも彼に冷静さを与えていた。
 一方、人美はテロリストたちよりも、自分自身の力に不安を感じていた。力を使わなければならない時が来るのだろうか、コントロールできるのだろうか。それとも、暴走してテロリストたちを殺して…… そう思うと、彼女は沢木に身体を寄り沿わせ、頬を彼の肩に載せるのだった。



 渡辺と笠谷小隊長は、指揮車の中で強行突入の可能性を模索していた。そこへ、事故処理の渋滞に巻き込まれたために到着が遅れた里中と西岡の二人がやって来た。
 笠谷が言った。
「根岸港からにしては遅かったじゃないか」
 里中が答える。
「いやー、申し訳ない、渋滞に引っ掛かってね。で、状況は?」
 笠谷はコンピューターのモニターを指差しながら言った。
「まあ、見てのとおりだ。犯人は鮫島を含めて四人、人質はここに座らされている二人だ」 西岡が尋ねた。
「部隊の配置は?」
「一班から四班までは通常装備で倉庫の周囲に展開してる。五班には五〇口径を装備させて倉庫一階に待機させた。六班はライフル装備でテストコース側に二名、ナイトハウンドに二名だ」
 里中が言った。
「強行突入した際の勝算は?」
「取り敢えずは我々に有利だ―これだけ状況を把握しているんだから。まあ、二流が相手なら五〇口径だけで決着がつくだろう。しかし相手は鮫島だ。おそらく仕掛けを作って待ってるだろう」
「だろうね。ほんじゃ、一応要求を聞いてみますか」
 笠谷は遮断中の電話回線を接続し、里中が電話をかけられるようにした。
「もしもし、里中だ」
 里中の耳元で鮫島の低い声が響いた。
「ふふっ、貴様もしつこい奴だな」
「あんたがのこのこ帰って来るから悪いんだよ。俺だっていつまでもお前に構ってられるほど暇じゃぁないんだよ」
「だろうな、では早速本題に入ろう。相模にエアステーションというビジネスジェット機を用意させろ」
「ジェット機だと、冗談じゃない。お前に逃げられた上、パイロットまで人質にされるんじゃ歩が悪過ぎる」
「心配するな、ジェット機は俺が操縦できる。それに、人質も空で釈放してやる」
「空で? スカイダイビングでもさせる気か?」
「そのとおりだ」
「バカなことをいうな」
「ふふっ。自分の命がかかっているんだ、パラシュートの紐を引くことぐらいできるだろう。どうだ、悪い取引じゃないだろう。相模にとっちゃ飛行機の一機ぐらい安いもんだし、人質も無事に釈放される。そして、俺も貴様とおさらばできる。最も勝れた選択だ」
「一体どこへ逃げる気だ。北朝鮮か?」
「どこへ行こうと貴様の知ったことじゃない。返事はイエスかノーか、それだけでいい」「あっそう、相模に問い合わせてみるよ。それで、飛行機はどこに用意すればいいんだ」「ここのテストコースに着陸させろ。もっとも、この暗いコースじゃ着陸は無理だろう、日が昇るまで待ってやる。今日の日の出は五時八分だ。その時刻きっかりにはエアステーションをここの上空で旋回させろ、着陸は十分な明るさになってからでいい。それと、パラシュートを二つ用意するのも忘れるなよ」



 総合技術管理部の秘書室で、片山とともにいらだちと不安の時を過ごしていた秋山のもとに、渡辺からの電話が入ったのは午前二時五十分のことだった。彼女は海老沢社長に連絡し―海老沢は本社へ向かう車の中でこの知らせを聞いた―エアステーションの使用許可を得たものの、大きな障害を一つ取り除かなくてはならなかった。それは、相模重工所有のエアステーションが駐機されている調布飛行場の運用時間が、午前八時三十分から午後四時三十分であるということだった。飛行機を一機飛ばすためには、管制塔を運用し、しかるべき手続きと準備を行わなければならないのだ。彼女は白石会長に連絡し、彼の政治力に期待した。
 連絡を受けた白石は、彼にとって大切な二人の人物のために最善の努力を果たした。その結果、既に招集していたSOP総括委員会と、叩き起こされた運輸大臣の措置により、調布飛行場をエアステーションが飛び立つまでの間、その運用を相模重工に任せることが決定された。
 これを受けた秋山と片山は、沢木組の航空部門のスタッフ九名を、川崎工場のヘリコプターで調布飛行場へ送り込むことを決めた。また、この事態を聞きつけた航空宇宙事業部長の宮本誠は自分の部下に招集命令を出し、調布飛行場へ向かわせた。このことにより、飛行場施設の運用及び機体の整備を行うに十分なスタッフが調布飛行場に送り込まれ、午前四時四十分に眠気眼のパイロットが飛行場に着いたころには、エアステーション1はいつでも飛べる体制に準備されていた。
 しかし、こうした相模の行動とは裏腹に、SOP総括委員会が現場の指揮権がある里中に伝えた命令はこうした内容だった。早期のうちに強行突入し、テロリストを排除せよ。そして結び言葉は、失敗は許されない、だった。委員会の連中の言うことはいつもこうであり、里中を始めとするSOPの隊員たちのいらだちの原因となった。だが里中は、SOP総括委員会に言われるまでもなく、鮫島に空の散歩を楽しんでもらう気も、沢木と人美にスカイダイビングを楽しんでもらう気もさらさらなかった。彼は鮫島が飛行機に乗り込もうとした時に、一気に勝負をつけるつもりだった。



 鮫島は、自分の出した要求に対する返事がなかなか返ってこないことにいらだっていた。そして、午前三時を過ぎたころ、そのいらだちの矛先を沢木に向けた。
「相模は何をしてるんだっ!」
 この時、人美は沢木に寄りかかって眠っていた。
「大きな声を出すのはやめてくれ、彼女が起きるだろう。それに、飛行機を飛ばすのにはいろいろと手続き必要だ。タクシーを呼ぶようなわけにはいかないんだよ」
 鮫島は憮然とした表情で言った。
「気に入らん。貴様はなぜそんなに落ち着いている。たいていの人間なら殺すと言われれば、泣き叫びながら命乞いをするものだ」
 沢木は穏やかな口調で答えた。
「さあ、自分でも分からないね。しかし、ただ一つだけ確かなことは、私はお前たちのような人間に命乞いなどする気はない、ということだ」
 その言葉を聞くと、鮫島は沢木の正面のソファに腰掛けた。
「ふふっ、さすがは日本の頭脳とまでいわれるだけの男だ、立派だよ」
「尋ねたいことがあるんだが」
「何だ」
「お前は何のためにこんなことをするんだ。理想のためか、それとも金か」
 鮫島は懐からタバコを取り出し、火をつけた後に答えた。
「まあ、いくつか理由はあるが、一つは金であり、一つは報復だ」
「報復? 一体何の」
「腐った人間たちへさ―堕落した資本主義社会の豚どもに、恐怖を思い知らせてやるのさ」
「お前はコミュニストなのか?」
「この俺にイデオロギーなど関係ない」
「ではどういうことだ」
「貴様は今の日本の人間たちをどう思う? 平和に、幸せに、明るく楽しく、そんなふうに暮らしているように見えるか? 俺に言わせれば、奴らは目先のことしか考えていないのさ。何を学でもなく大学で暇をつぶし、大した能力もなく就職する。そして、一部の“できる”連中に寄生して給料泥棒をしてるのさ。お前の部下に、お前ほど稼げる奴がいるか? いやしないだろう。どいつもこいつも、ほとんどの奴らが寄生虫なんだ。そんな男たちがバカな女と結婚し、生まれた子供がまたでき損ないだ。街を歩いている若い連中を見てみろ。女はみんな娼婦の予備軍で―その娘だってそうさ」
 鮫島は人美を指差して言った。
「この娘はそんなじゃない」
「そして、男はそのけつを追っかけ回す盛りのついた豚さ。そんな連中がまた結婚し子供を生めば、この世は劣性遺伝子で埋め尽くされてしまう。結局この日本の連中は、悦楽に支配され、悦楽を求めるがままの人生をただ生きながらえているのさ。日本だけじゃない、アメリカもヨーロッパの国々も、先進国とは名ばかりで、物質的豊かさの中で人間が本来あるべき姿を失っているんだ。俺はそんな連中が許せない。だから、俺は世の中をだめにした連中に報復するのさ」
 沢木は鮫島の言うことに、少なからずうなずくところがあった。
「なるほど。しかし、暴力によりそれを主張すれば、結局犯罪にしかならない。そして、何も変わらない。そうだろう?」
「ある日本の国粋主義者はこう表現したことがある、肉体言語、と。第一、俺は“変えよう”などとは考えていない。だめになったものを破壊するだけだ」
「だめの判断はお前の価値観に過ぎん」
「ふふっ。まあ、貴様のようなものを創る世界にいる人間には分からんことだ。破壊、殺戮、混沌、そんなものを見続けてきた俺にしか分からないことだ」
「だろうな」
「お前は何を思って生きている」
「さあ、何だろう? そうだな、過去の夢の惰性かも知れない」
「惰性?」
 鮫島はその答えを以外に思った。この手の男は、野心に満ちていると想像していたからだ。
「貴様もつまらぬ男だな」
「お前ほどじゃないさ」
「口の減らない男だ。ところで、その娘は何だ? お前の女か?」
 沢木は薄い笑みを浮かべながら言った。
「いや、彼女はアリスさ」
「アリス?」
「そう、不思議の国のアリスさ」
 それを聞いた鮫島は、鼻で「ふっ」と笑うと沢木の前から立ち去った。
 寝たふりをして二人の会話を聞いていた人美が沢木に尋ねた。
「沢木さん」
「やあ、目が覚めたかい?」
「さっき言ってた、過去の夢の惰性ってどういう意味?」
 沢木はにこりと微笑み、「聞きたい?」と尋ねた。
「ええ。だって、意外な言葉だもの」
 沢木は静かな溜め息を吐いた後に語った。
「かつて、私には同じ夢を見られる人がいた。しかし、その人は私を残して遠くに逝ってしまったんだ。私だけが夢の中に取り残されたんだよ」
「それじゃ、沢木さんは仕方なく夢の中にいるの?」
「すべてがそうではない。しかし、夢は二人で見たほうがよりよいものだと私は思うよ」
「そういう人はいないの?」
「んー、どうだろう?」
 人美は力強く言った。
「いるわよ、絶対。沢木さんにはいると思うわ」
「……」
「沢木さんの側で、沢木さんのことを想って、同じ夢を見てくれる人がいるわよ。私には分かるの、ずっと前からその人は沢木さんを大切に想ってくれてるわ」
 この時、沢木は人美が秋山の肉体を通じ、メッセージを送ってきた時のことを思い出した。
「どうして人美さんに分かるの?」
「それは……」
 それは人美自身にもどこに根拠があるのか分からない発言だった。しかし、彼女は沢木を見守る優しい影を感じ取っていた。
「いや、いいんだ。君らしい言葉だ、ありがとう」



 絶え間なく続く不安といらだちの中で、彼女の心臓はその重さを増し、まるで異物が体内にあるかのようだった。が、彼女はそれを必至に耐え、最善をつくし、その結果相模のスタッフを効率よく調布飛行場に送り出すことができた。関係機関への連絡が一段落した今、彼女は沢木のオフィスの彼の椅子に座り、闇の中に静まり返った横浜港を眺めていた。そして、これまで続いていた緊張がいくらか緩むと、暗く悲しい気持ちが立ち込めてきた。 オフィスのドアが開くと、両手にコーヒーカップを持った片山が入って来た。彼はその一つを秋山に差し出した。
「ありがとう」
 秋山は両手でカップを受け取ると、再び夜景に視線を戻した。片山は言った。
「何だよ。今にも泣き出しそうな顔だな」
「……」
「君は強い人なのに…… 好きなんだな、沢木のことが」
 秋山は膝の上に運んだコーヒーカップに視線を落とすと、小さな声で答えた。
「ええ。でも、ずっと片思い……」
 それは痛々しいくらいの声音だった。
「そんなことないさ。あいつだって君のことが好きなんだよ」
 片山は、視線を下げたままの秋山を見やりながら続けた。
「秋山、一つヒントをやろう。沢木が君と話す時、自分のことを何と呼ぶか。俺の知ってる限り、その一人称は君にしか使わない」
 一人称? 私、俺、僕…… 僕?
 秋山は立ち上がり、片山に向き直って言った。
「片山さん。私、追浜工場に行ってもいい?」
「行ってどうなるものでもないよ」
「ええ、分かってます。でも、側にいたいんです」
 片山は“やれやれ”というような顔で答えた。
「仕方ない、ここは俺が引き受ける。行っておいで」
「ありがとう」
 秋山が小走りにオフィスを出て行くと、片山は沢木の椅子に座り、夜景を見ながら一人つぶやいた。
「全く、世話のやける二人だよ」



「サメよりシャチへ」
「こちらシャチ、どうした?」
「犬どもに囲まれた」
「どんな犬だ」
「三番だ」
「支援しようか?」
「いや、こちらで何とかする。しかし、最初の手はキャンセルだ」
「分かった。無理するなよ」
「心配するな。サメは不死身だ」
 無線連絡が途絶えた後、橋本は深い溜め息を一つ吐き、田宮石油会長の田宮総吉へと連絡した。
「鮫島がしくじりました」
「そうか」
「私としては支援してやりたいのですが」
「何をバカなことを。しくじった奴のことなどほうっておけ、しょせん奴は消耗品だ」
 橋本が自動車電話の受話器を置くと、彼の運転手兼ボディーガードの男が尋ねた。
「どうします、戻りますか?」
「いや、このまま出港時間まで待とう」
 橋本は心に決めた。例え鮫島が来なくても、大和丸が出港するまではここで待とうと。


 鮫島が橋本に連絡するために事務室を出ている時、長髪の男の獣のような目は人美の身体に注がれていた。そして、男は人美に近づいて行った。
 沢木は人美をかばうようにして立ち上がり、男に向かって言った。
「何だ」
 男は沢木に「どけっ!」と怒鳴りながら彼の脇腹に足蹴りをいれた後、人美の腕を掴むと「こっちへこい! かわいがってやる」とにやけながら言った。人美は男の手を振り解こうと「放してっ!」と言いながら抵抗したが、男の握力は異常なまでの強さだった。沢木は男に体当たりし、転んだ男の傷口を足で踏みつけた。男は「うわーっ!」と叫びながら猛烈な勢いで立ち上がり、沢木をソファに突き飛ばすとMP5を構えた。引き金は引かれる寸前だった。その時―
 風が吹いた―
 それは、静かな流れだった―
 人美が「だめーっ!」と叫んだ瞬間、空気が動き出した。そして―
「うわぁーっ!」―長髪の男は喉が張り裂けるかのような叫び声をあげると銃を落としてその場に立ち尽くし、身体全身を小刻みに震わせ始めた。顔は真っ赤になり血管が浮き出て、傷口からは「シュッ、シュッ」と時折微量の血しぶきが上がった。
 沢木は人美を見た。それは始めて見る怒りの表情だった。そして、彼女の前髪は風によって小さくなびいていた。
「人美」
 人美は沢木の呼び声に怒りを静めた。
 風が止んだ―
 鮫島と傭兵たちが駆けつけて来ると、長髪の男は身体を硬直させたまま後ろに倒れた。「てめーら、何しやがった!」
 太った男がそう怒鳴ると、鮫島が叫んだ。
「やめろ!」
 眼鏡の男が長髪の男の脈を取る。
「生きてる」
「手当してやれ。デブ、お前は外を見張ってろ」
 鮫島はこの時思っていた。
 さっきの風は何だ



 コンピューターのモニターを見ていた里中は、今起こった事務室の中の出来事をつぶさに見ていたと同時に、笠谷小隊長に突入のゴーサインを出した。しかし、事態の収集を見て取るとそれを中止させ、鮫島に電話した。
「里中だ。飛行機の手配ができた、午前五時十五分に着陸させる」
「よし、分かった」
「人質は無事だろうな。取引のルールは守れよ」
「当然だ」
 切れた電話機を耳に当てたまま、里中はしばらく考えた。
 男の動きが止まったのはなぜだ。倒れたのは?…… 何があったんだ



 沢木と人美は寄り添うようにして再びソファに座っていた。
「ごめんね、怖かったろう。私がもっと強ければ……」
 沢木がそう言うと、人美は遠くを見据えたまま答えた。
「私が怖いのは、いつだって自分自身よ」
「どういう意味だい?」
「見たでしょ。さっきのは私がやったの」
 ついに告白を受けた沢木の心臓は高鳴った。
「どうやって?」
「超能力、っていうのかしら。私には特別な力があるの」
「なぜ怖い? 身を守るために使った力じゃないか」
「ええ、確かに。でも、殺してしまうかも知れない。自分ではコントロールできないの」「いつから力を?」
「最近、だと思うけど」
 人美は沢木を見つめて言った。
「ねえ、沢木さん」
「なんだい」
「私のことが、怖い?」
 沢木は笑みを浮かべながら首を横に振り、優しい声音で答えた。
「君のことが怖いわけないだろう」
 人美は笑みを浮かべると、沢木の胸に顔を沈めた。
「沢木さんは彩香と同じことを言うのね」
「誰だい? 友達?」
「ええ、親友よ」



 多くの特殊部隊では、隊員たちに射撃や格闘技などの戦闘技術のほかに、特殊技能を最低一つは身につけさせるように訓練している。例えばSOPには、爆発物、化学兵器、情報分析、通信、医療のスペシャリストが存在し、これにより部隊全体の能力値を高めている。
 鮫島と行動をともにする三人の男たちは、皆かつては何らかの特殊部隊またはゲリラ部隊にいた人間たちであり、眼鏡の男は医療技術を、太った男は爆破技術を、長髪の男は通信技術を修得していた。
 荒い息をしながら事務机の上に横になっていた長髪の男は、眼鏡の男から治療―止血とモルヒネの投与―を受けていた。鮫島は、長髪の男がこの処置により、脱出までの間生きながらえることを望んでいた。そして、どうせ死ぬのなら、自分が脱出するために役立って死んでもらわなければ、支払った報酬の元が取れないと考えていた。



 里中は当初、鮫島たちが飛行機に乗り込むために外へ出て来たところを急襲しようと考えていた。しかし、決戦の時はそれより早まるかも知れない、という直感から、13部隊にいつでも作戦行動に移れる体制を指示した。これにより、星がいる第一班と第三班は資材倉庫の屋上に身を潜ませ、第二班は一階の階段下に、第四班は非常階段の下に、第五班は事務室の真下に、それぞれ移動した。
 そんな中、午前三時四十分、秋山の乗ったインテグラが追浜工場に到着した。正門の前には何人かの警官が立ち、パトカーと救急車が回転灯を輝かせながら停車していた。彼女が警官に声をかけてからしばらくすると、西岡が出迎えにやって来た。そして、彼の案内でSOPの指揮車へと向かった。
 指揮車の中に入った秋山に渡辺が声をかけた。
「やっぱり来たか」
「ええ、心配で」
 里中が言った。
「渡辺さんが育てた優秀な部下たちが問題の解決にあたっています。どうか彼らを信頼してやってください。期待を裏切ることはないはずです」
 秋山は取り敢えずうなずいた。そして、渡辺の横に座ると闇の中に浮かぶ資材倉庫に目をやった。
 沢木さん、戻って来てね



 おそらく自分は死ぬのだろう。男が目覚めて最初に思ったことがそれだった。しかし、恐怖を感じることはなかった。このままずっと動かずに、死の時を待つのもいいだろう―そんな思いになりかけた。だが、自分は一体何をしてきたのだろう、という疑念が浮かんだ途端に、なぜか強烈な怒りが込み上げてきた。
 長髪の男は人美のサイ・パワーに翻弄された後、事務机の上に横になっていた。多くの血液が体外に流出した彼の命が尽き果てるのは、もはや時間の問題だった。
 この怒りを持ったまま死ぬことなどできない。絶命間近に狂気の頂点に達した長髪の男は、その行き場のない怒りを銃に委ねた―ぶっ殺してやる!
 男はMP5を握り締めると事務机の上に立ちあがり、獣のような叫び声とともに銃弾を撃ち放った。蛍光灯が割れ、窓ガラスが割れ、壁に穴が開き、書類の束が吹き飛んだ。
 太った男は事務室を出たところで階段を見張っていたが、突如始まった銃声にSOPが突入して来たと思い、仲間を援護すべく事務室に戻った。だがその途端、彼の内蔵は数十発もの弾丸を浴び、すべての臓器が混ざり合い、吹き飛ぶ結果となった。
 沢木と人美は凶行が開始された直後、ソファの後ろに転がり込むように身を隠した。だが、一発の銃弾が人美の左腕をかすり、さらに太った男の断末魔の叫びを聞いた時、とてつもなく大きな恐怖感が表出し、彼女の自己防衛本能は猛烈な勢いでサイ・パワーを開放させた。
 風が吹いた―
 それは、猛烈な流れだった―
 MP5を乱射し続ける長髪の男は、風によってバランスを崩したために銃口を自分の足首に向けてしまった。彼は吹き飛んだ足とほぼ同時に、事務机の上から床に落下した。
 人美の起こした風は、書類や伝表を巻き込みながら次第に渦を形成し、窓ガラスと二つのドアを吹き飛ばし、ファイリングケースや本棚を次々となぎ倒していった。

 長髪の男による銃声が轟いた瞬間、里中はSOP13部隊に強行突入を指示した。
 資材倉庫の屋上に待機していた第一班―星たちは非常階段から、第二班は屋内の階段から、それぞれ事務室を目指して走った。
 一方、長髪の男の位置を赤外線照準器で明確に捕捉していた第五班の狙撃手は、五〇口径の銃口を天井に向けて発砲した。その途端、床に転がって悶え苦しんでいた長髪の男の身体は、強烈な爆音とともに宙に舞い上がった。資材倉庫一階から撃たれた五〇口径の弾丸は、二階の床を貫通し長髪の男を即死させた。
 五〇口径を構える狙撃手たちは、鮫島と眼鏡の男にも照準をセットしていた。が、引き金を引こうとした時、一人の隊員が叫んだ。
「天井が落ちるぞっ!」
 この時、天井には無数のひびが入り、コンクリート片がパラパラと落ち始めていた。

 眼鏡の男の位置からは、非常階段を駆け下りる星たちの姿を確認することができたが、人美によって起こされている暴風を避けるために腹這いになり、銃を構えるどころではなかった。それでも何とか体制を立て直そうと床に手を突いた時、手の下の床にひびが走るのを感じ取った。そして、何とも不気味な金属音。

 沢木は床に転がっていた人美の側に這って進み、「人美、人美!」と叫んだ。一種のトランス状態に入っていた人美は、沢木の声により常態に戻された。
「沢木さん、私……」
 そう言いかけて人美は息を飲んだ。額から血を流した鮫島が、沢木の首を閉めあげたからだ―「沢木さーん!」
 最初に窓側の壁が吹き飛んだ―
 そして、事務室の床は蟻地獄のように中央からくぼんでいった―

 絶え間なく続く資材倉庫からの破壊音に、渡辺は倉庫に向かって走り出した。秋山も同様に走り出そうとしたが、里中に腕を掴まれ阻まれた。
「彼らに任すんだ」

 吹き飛んだ壁の破片を辛うじて避けることができた星は、爆薬? と思いながらもすぐさま暗視装置を装着し、瓦礫の山となった倉庫一階を、非常階段の踊り場から見渡した。「みつけたわ」
 鉄骨に足を挟まれてしまった眼鏡の男は、もはやこれまでと観念し、腰のホルスターから短銃を抜くと自分の頭に当てた。が、銃は衝撃とともに彼の後ろへと弾かれた。彼が顔の近くにあった右手に目を映すと、手の甲には小さな赤い光が当たっていた。彼は両手を挙げ降伏の意を表した。赤い光は、星の構えるMP5のエイミング・ポイント・ジェネレーターからの光だった。

 沢木の身体には傷一つできることはなかった。落ちたという感覚はまるでなく、ふわっと舞い降りた、そんな印象だった。
 沢木は起きあがるとうつぶせに倒れた鮫島を見たが、その背中からは細い鉄骨が突き出していた。「死んだか」と小さくつぶやき、後ろを振り返り人美を捜した。
 人美もまた、床が崩れた際に怪我を追うことはなかった。彼女のサイ・パワーは、彼女自信と沢木の身を守ったのだ。
 人美は言った。
「終わったみたい」
「そうだね」
 だが、鮫島は生きていた―
 鮫島は両腕を踏ん張り、身体を串刺しにした鉄骨を抜きながら立ちあがった。
「貴様ら、ぶっ殺してやる。それで、本当の終わりだ」
 沢木と人美に逃げ道はなかった。一方には積みあげられた自動車部品の山があり、後は崩れた床の瓦礫の山だった。両手を手錠で拘束された二人には、それらは乗り越えられない壁だった。
 鮫島はじわりじわりと二人に近づいて行った。
 沢木は言った。
「人美、逃げろ、早く」
 人美は首を横に振りながら言った。
「無理よ、どうすればいいの!?」
 沢木は側にあった鉄パイプを両手で持ち、間近に迫った鮫島に挑んだ。しかし、鮫島は鉄パイプを受けるとそれを奪い取り、沢木を突き飛ばした。そして、強烈な力で彼の首を締めあげた。
 使わなきゃ。今力を使わなければ……
 人美は念じた。しかし、何も起こらない。
「どうして!? どうすればいいの!」
 沢木は必死の思いで鮫島の腹の傷を膝で蹴りあげた。「うっ」という低いうめき声、それとともに首を締める力が弱まった時、沢木は叫んだ。
「人美、自分を信じろ! 君の持つ力なんだ!」
 そうなのだろうか? でも、沢木さんが死……
「そんなのいやーっ!」
 人美は目を閉じ、沢木を救う、ただそれだけを念じた。すると、頭の中にイメージ見えてくる。鮫島が沢木を放し、そして身体が動かなくなるところが。人美はこの時確信した。
 できる、きっとできる
 人美は静かに目を開き鮫島を見つめた―
 静かに風が吹き出し、人美の前髪をなびかせた。そして、彼女のサイ・パワーは彼女の意のままに開放された。それはとても静かな、穏やかな力だった。
 鮫島の身体からは力が抜け、沢木を放すと身体をぶるぶると震わせながら後退りした。並の人間ならこれで動くことができなかったであろうが、鮫島の執拗なまでの執念は、人美のサイ・パワーに抵抗するだけの力を発揮させた。
 鮫島は震える右手を動かし、腰のホルスターから短銃―ブローニング・ハイパワーを抜くと、人美に狙いを定め引き金を引いた。
 この時、人美の目の前に渡辺が飛び出した。彼は人美を抱き抱えるようにして自らの肉体を盾とし、その結果、彼の左大腿部に弾丸が命中した。
「渡辺!」
 沢木がそう叫ぶ間にも、鮫島は二発目の狙いを沢木の頭部につけようとしていた。
 渡辺は人美を見やりながら言った。
「目をつぶってろ!」
 渡辺は人美が自分の胸元に顔を沈めたのを確認すると同時に、鮫島の額に銃口を向け、そして撃った―
 二発の銃弾が飛び交った。しかし、命中したのは一発だけだった。
 仰向けに倒れた鮫島の耳には、ジェット機の飛行音が聞こえていた。それは、彼が乗るはずのエアステーションだった。
 終わりとは、こんなものか? あっけない
 渡辺の撃った銃弾を眉間に受けた鮫島は即死に近い状態だったが、死に至るまでのごく僅かな時間に、こんな言葉をつぶやいた。
「ドゥルジの開封を……」
 鮫島守の三十八年間の人生は終わった。



 午前五時八分。大和丸の停泊する埠頭にじっと立ち、海から昇る朝日を見つめていた橋本は、彼の運転手が持ってきた受信装置に耳を傾けた。
「……作戦終了。人質は無事救出、犯人は共犯者一名を除き全員死亡、鮫島守も本隊により射殺された。繰り返す、SOP13より神奈川県警本部へ。作戦終了……」
 橋本はこの時朝日に誓った。
「鮫島、敵は必ずとってやる」
 彼の頭上を調布飛行場へ帰還するエアステーションが通過していった。



 沢木と人美はSOPの隊員に手錠を外してもらい、資材倉庫の外へと出て行った。二人が並んで歩いていると、秋山が沢木に走り寄り、そして抱きついた。沢木が両手で秋山を受け止めると、彼女の髪の毛が頬に当たり、彼女の匂いがし、彼女の体温を感じることができた。そして、彼女の胸の膨らみから伝わる命の鼓動を感じ取った時、沢木はこう彼女に囁いた。
「よかった。君に会えて」
 人美は少し離れたところから、抱き合う二人を笑みをたたえながら見ていた。
 だから言ったでしょう。沢木さんには想ってくれる人がいるって
 そこへ、担架に載せられた渡辺が通りかかった。彼は人美と目が合った時、何も言葉をかけはしなかったが、にっこりと満面に笑みを浮かべると、人美に向かって拳を突き出し、そして親指を立てた。その笑顔は、渡辺がこの夏初めて見せた笑顔だった。見つめ合う二人に言葉などいらない―人美も同じようにして親指を立て、そして笑みを返した。



 里中は鮫島の死体に向かって言った。
「散々暴れた割にはあっけない最後じゃないか。一体お前は何を考えていたんだ。できればそれを聞かせて欲しかったよ」
 里中が振り向くと、星と西岡の二人が立っていた。星は瓦礫の山を見回しながら言った。「里中さん、これは一体どういうことかしら? 爆薬を使った形跡は今のところないし、不思議だわ」
 里中は答えた。
「疑問はいつか解決されるさ」
「いつかって?」
「さあ? いつかだよ」
 西岡が言った。
「沢木さんと見山さんの事情聴取はいつにする?」
「先に眼鏡をつるしあげたいから…… そうだな、明日にするか。ただし、沢木さんだけな」
「どうして?」
「あの娘のことは記録から削除する」
 今度は星が言った。
「どうして?」
「そりゃ、分かるだろう。普通じゃないからさ」
「でも」
「それもいつか分かることさ。でも、今は知らなくていい、というより、別にしておいた方がいいよ。多分、あの娘のために」
 二人は首を捻りながらも、取り敢えず里中の言うことを承知した。
「ああそれとさぁ」
 里中が言った。
「渡辺さんがサメを撃ったこともなしな。いろいろ不都合だから」
 星が尋ねた。
「じゃあ、誰が撃ったことに?」
「誰でもいいけど、そうねぇ、恵里さんにしとこうか」



 救急隊員に傷の手当を受けた人美は、黒いスカイラインの後部席に座っていた。そこへ沢木がやって来た。
「やあ」
 沢木が声をかけると、人美は尋ねた。
「さっきの女の人は誰?」
「職場の同僚だよ」
 人美はにこっと笑いながら言った。
「奇麗な人ね」
「ああ、そうだね。ところで、大丈夫かい?」
「私は全然平気よ。傷もかすり傷だもん」
「そう、よかった。精神的には?」
「それも大丈夫」
「本当かい?」
「ええ。私ね、自分の力がこの先どうなるのか、って考えると正直言って不安なの。でもね、沢木さんがさっき言ったでしょう。自分の力なんだから信じなさいって。そう思って力を使ったら自分のイメージどおりに使うことができたの。だから私、もう落ち込んだりしないわ。いつかきっと、この力を思いどおりに操ってみせる。それに、大人になったらなくなってしまうかも知れないし…… とにかく前向きに考えるようにするわ」
 それははつらつとした少女の姿だった。
「そうか、それを聞いて安心したよ」
「だからね、沢木さんも、過去の夢の惰性で生きてる、なんて思っちゃだめよ」
「ああ、そうだね。私も前向きに生きることにしよう」
 二人は微笑み合った。
「沢木さん、一つお願いがあるの」
「なんだい?」
「ずっと友達でいてね。そして、力になって」
「ああ、もちろんだとも」
 こうしてこの夏芽生えた沢木と人美の友情は、この先二人に訪れる冒険の数々を乗り越えるための原動力となるのだった。そして、二人はいつでも助け合い、信頼し合うことで、無敵ともいえるパワー―知恵と勇気を手に入れるのだった。

終章 沢木と人美―Sawaki & Hitomi

 ロサンゼルス時間、八月三十一日、木曜日、午前十時。ロサンゼルスの郊外に居を構えていた人美の両親のもとへ、愛しい我が子からの手紙がやって来た。
 人美の母、康恵は手紙を握り締めると夫の会社へと車を飛ばし、人美の父、哲司のオフィスに入ると「あなた、人美から手紙ですよ!」と大声で叫んだ。

 お父さん、お母さんへ
 二人とも元気にしてますか? そちらの暮らしにはなれましたか? 私はとても元気にしてますし、白石さんの家での生活は、わが家のように快適でリラックスできます。おじさまも、おばさまも、二人いる家政婦の人たちも、私にとてもよくしてくれます。
 さて、今年の夏は、私にとって忘れることのできない貴重なものとなりました。
 ひとつは、新しい発見がありました。でも、このことはとても不思議な、信じられないようなできごとなので、秋に二人が帰って来た時にゆっくりと話したいと思います。その時に、二人がどんな反応をするのか分かりませんが、素直に理解してくれることを願っています。
 もうひとつは、すばらしい人たちとの出会いがありました。それには白石家の人々も含まれるのですが、特別なのは沢木聡さんという男の人です。誤解しないでくださいね、恋愛がどうとかいうことではありません。沢木さんはおじさまの会社の人で、三十二歳で、独身で、葉山に住んでいて、とてもきれいな恋人?がいます。実は、ひとつめの発見に関していろいろな事件が起こったのですが、それを乗り越えることができたのも、沢木さんのおかげなのです。沢木さんは頭がよくて、というより想像力のある人で、感性の豊かな人です。そして、沢木さんの周囲にいる人々も個性的です。きれいな恋人?の秋山さん、不思議な存在の渡辺さん、そうした多くの人たちと出会うことができました。
 それからもう一つ、彩香との友情も深められました。彼女の個性的な想像力は私を励まし、深刻な問題でも、時には楽観的な考えが必要なんだ、ということを教えてくれました。やはり彩香は最高の友達です。そして、沢木さんと同じく、彼女の助けがなければ、この夏を乗り越えることはできなかったと思います。
 最後にもうひとつ。私は今考えていることがあって、それは、アメリカに行くのはやめようか、ということです。まだ決めたわけではありませんし、お父さんとお母さんとも相談しなければいけないことだと思います。でも、今の私にとって大切なことは、アメリカに行くことよりも、この夏出会った人たちとの関わりを深めることや、そうした人たちから何かを学ぶことにあるように思うのです。せっかく出会った友人と、あと半年たらずで別れてしまうのは、とてももったいないように思えるのです。
 とにかく、今度会った時には話すことがたくさんありますから、その時を楽しみにしています。では、くれぐれも身体を大切に、危ない地域には行かないように。
                                   人美

 父は手紙を読み終わるとオフィスの窓際に立ち、ロサンゼルスの町並みを見つめながら、娘が一つ大人になったような、たくましくなったような、そんな実感を胸に抱いた。そして、やがては独立し、自分の人生を歩んで行くのだと、何かさびしいような思いに駆られた。しかし、娘は元気そうだし、希望に満ち溢れている。発見とはおそらく超能力のことであろうが、彼女はそれに臆することなく、前進しようとしている。父、見山哲司はロサンゼルスの青い空を見上げながら心の中でつぶやいた。
 沢木さん、ありがとう



 八月二十六日付の各新聞社の夕刊、及びテレビのニュースは、相模重工沢木聡の拉致事件を大きく報道した。報道の内容は、主犯は国際的テロリストの鮫島守であり、彼を含め二人のテロリストがSOP第三小隊によって射殺され、一名は仲間割れにより殺され、残り一名が現行犯逮捕された、というものだった。いずれの報道にも、沢木と一緒に見山人美が拉致されていたという事実は見当たらなかった。また、里中涼がSOP総括委員会に提出した公式の報告書にも、その事実が記載されることはなかった。
 里中は、この事件にはもう一つの隠された事実が存在し、それを解く鍵は一人の少女にあると確信していた。しかし、その事実にまで言及することは、おそらく少女にとって好ましくなく、SOPが関与することでもないであろうと判断し、それを公にすることを避けたのだ。だが、一個人としては、その真実に高い関心を持っていた。
 テロリストの生き残り―眼鏡の男は、里中から執拗なまでの取り調べを受けたが、完全黙秘を続け、この事件の背後に存在する巨悪を追及するまでには至らないまま、書類送検された。また、相模重工に対するテロ警戒体制も解除され、SOP第六小隊は相模重工川崎工場から撤収した。
 星恵里は通常任務に戻り、里中、西岡のコンビは、巨悪に迫るべく地道な捜査活動を再開した。

 一九九五年九月十八日、相模重工総合技術管理部内に沢木直轄の新しい部署が設置された。ASMOS開発のための付属機関と称して設置された意識科学研究室は、この夏にその存在が実証されたサイ・パワーを専門的に研究する部署であり、その室長には桑原久代が就任し、アドバイザーとして松下順一郎も名を連ねた。そして、沢木と人美の信頼関係のもと、彼女の持つ力の研究が開始された。
 これより前、沢木拉致事件の際に負傷した渡辺昭寛と進藤章は、同じ病院の同じ病室で入院生活を送っていたが、後遺症が現れることもなく無事退院することができた。しかし、入院中進藤の他愛のない話しを聞かされ続けていた渡辺は、「これでは頭が変になってしまう」と、医師から退院許可が出る前に情報管理室の仕事に復帰した。
 渡辺は、相模での仕事は番犬のようなものだ、とマイナス思考でいたのだが、この夏の出来事に直面し、自分にもまだやることはある、と新たな目的意識を持ち、特に意識科学研究室の機密保全に関しては、細心の注意を持って職務にあたった。
 また片山広平は、エクスプロラトリー・ビヘイビア計画で得た貴重なデータをもとに、PPSの性能向上のために研究を開始し、十一月には同棲中の恋人と入籍し、また、結婚式を行うと発表した。
 岡林敦は師である沢木の指導のもと、ASMOSを始めとするソフトウェアの開発に従事し、また、彼のライフワークでもあるゲームソフトの製作に打ち込む日々を送り始めた。 白石会長はそのほとんどを自宅で過ごし、本社に出向くことは余りなかったが、健康状態は以前として良好で、とりわけ精神状態に関しては、人美の存在のためか、平静かつ健全そのものだった。
 こうしてエクスプロラトリー・ビヘイビアの夏は過ぎていった。一人の少女への疑問から始まったこの夏の出来事は、多くの人々の思想や意識に変化を生じさせ、また、人々の出会いをもたらす結果となった。そして、この後に沢木や人美に訪れる、あるいは周囲の人々―彩香や渡辺、里中や星たちに訪れる、知と勇気が試される冒険の数々を乗り越えるための土台となるのだった。



 八月三十一日、木曜日、人美の夏休み最後の日。午後から白石邸のプールで遊んでいた見山人美と泉彩香は、日が落ちてきた午後五時ごろ、プールサイドの椅子に座り、家政婦の橋爪が作ってくれたチョコレートパフェを食べながら話し合っていた。
 彩香が言った。
「あーあ、でもショックー」
 人美が尋ねる。
「何が?」
「だって、私の寝ている間に大事件が起きるなんて……」
 人美は呆れ顔で言った。
「またそれ」
「だって、見たかったんだもん。SOPが突入するところとか、人美のパワーが炸裂するとことか…… きっと、それを見ていたら凄い刺激になって、とっても凄い小説が書けたろうになぁ」
「もう、だめな人。私は怖かったんだから」
「でも、結果的に助かったんだからよかったじゃない」
「人ごとだと思って」
 人美が頬を膨らますと、彩香は小さな微笑みを浮かべた後に言った。
「でも、本当によかった。人美がもとの人美に戻って。やっぱり人美は元気じゃないとね」「彩香のお蔭よ。今回はいろいろ助けてもらったから」
「今回“も”、でしょう」
 人美は笑いながら答えた。
「そうねぇ、そうしときましょう」
「ところでさぁ、今後の展開はどうなるの?」
「展開?」
「だって、沢木さんも人美のパワーを知ったわけでしょう。あの人は技術者なわけだし、超能力の実体を研究するとか、そういう刺激的なことはないの?」
「ああ、そのことなんだけどね、沢木さんがいろいろと考えてくれてるの。それで、沢木さんが一番強調してることは、パワーを使うことで私の身体に害がないかっていうことなの。そういうことを防ぐためにもある程度の研究が必要だって」
「んー、それには私も賛成だわ。ほら、いろいろな職業病っていうのもあるわけだしさ」
「別に私は超能力者を職業にする気はないけど」
「でも、これから人美は愛と正義のために闘うわけだから、そのためにも万全な体制でいないとね」
「彩香はどうしてもその路線でいって欲しいのね」
「ええ。だって、私の書き始めた今度の小説は、超能力を持つ少女のお話なんですもの。もちろんモデルは人美よ」
「モデルになるのは構わないけど、ちゃんと最後まで書いてね」
「ええ、今度は大丈夫よ。構想はかなりまとまっているから」
「へえー、具体的にどんな話しになるの」
「じゃあ、特別に教えてあげよう。まず、一人の女の子がいてね、その娘には超能力があるの。でも、悪者と闘うとか、そういうことじゃなくてね、ごくごく普通のお話なの。例えば、友達の飼っている犬が迷子になっちゃって、その犬を超能力を使って探すとか、そんな感じなの。そして、私が一番主張したいことは何かというと、超能力なんて特別凄い力じゃなくて、誰もが一つくらいは持っている得意なことの一つなんだっていうことなの。だってさあ、人美がどんなにパワーを使ったって、会長みたいに大きな会社を作れるわけじゃないし、沢木さんみたいにいろんなものが創れるわけでもないじゃない。主役の女の子はね、最初は自分のパワーに戸惑い悩むんだけど、段々そういうことが分かってきて、そして、自分が決して特別なんじゃないってことを確信するの。まあ、こんな感じね」
 人美は彩香の感性の魅力を再認識すると同時に、間接的に自分へのエールを送ってくれているのだと思い、幸せな気分になった。しかし、余り誉め過ぎると彩香はすぐに調子に乗ると思い、こう言った。
「んーん、何かとても面白そう。それに、主役の女の子に共感できそうだわ」
「そうでしょう」
「でも彩香って不思議な人ね。賢いのかおバカさんなのか分からないもの」
 彩香はパフェをテーブルに置くと、人美の腕をとってプールへと投げ込んだ。その後、日没近くまで白石邸のプールからは黄色い歓声があがり続けたのであった。



 午後五時二十五分。そろそろ終業のベルが鳴ろうかという相模重工本社のオフィスで、沢木聡はIBMのコンピューターに向かい報告書を作成していた。誰に見せるためのものでもないその文書は、報告書というよりも、彼自身のこの夏の体験を整理するためのものだった。

『エクスプロラトリー・ビヘイビア計画に関する報告書』
                         一九九五年八月三十一日
                         総合技術管理部  沢木 聡

   人の可能性とはどこまで広がるのだろう。
     あるいは、
     人の能力とはどこまで掘り下げられるのだろうか。
     人の心の奥底には、何が棲み何をさせようとしているのか。
     善なのか、悪なのか。
     知あるところには希望が満ち、
     勇気あるところには道が開かれるだろう。
     人は生まれた瞬間から命が尽きるまで、
     知と勇気を携えながら、人生を冒険し、探究し、
     歩んでいかなくてなるまい。
     ―Exploratory Behavior―
     それは、未知なるものへの探索行動である。

 沢木はここまでキーボードを打つと、「ふふっ」と笑いながらつぶやいた。
「報告書に序文なんていらないか」
 彼はタバコに火をつけると回転椅子を回して窓に向き、眼下に広がる横浜港を見渡した。 ややあってからドアがノックされると、秋山美佐子が書類を持って入って来た。
「沢木さん。下期の予算案ができましたのでチェックしてください。それと、明日はメカトロニクス事業部の……」
 沢木は窓の外を見つめたままだった。
「沢木さん、聞いてますか?」
「んん。ああ、聞いてたよ」
 秋山は沢木の脇へと歩み寄り、冗談っぽく尋ねた。
「どうしたんです? センチな気分にでもなっていたんですか」
 沢木は薄く笑うと答えた。
「そんなこともないけどね。ただ、今年の夏は終わってしまうのがさびしいような気がして」
「そうですね、私もそう思います。この夏はいろいろありましたから。たいへんだったけど、とても貴重な夏でした」
「そうだね」
 秋山は遠くを見つめながら言った。
「人美さんはこの先の人生をどう生きるんでしょう」
「心配かい?」
「ええ、少し」
「大丈夫さ」
「どうしてです?」
「アリスはさぁ、不思議の国や鏡の国を冒険する中でさまざまな出来事に遭遇するけれど、自分自身のバイタリティーと想像力でそれらを乗り越えて行くでしょう。僕が思うに人美さんはアリスだよ。大丈夫、心配いらないさ」
「アリスかぁ」
 秋山はちょっと尋ねてみたくなった。
「ねえ、沢木さん。人美さんがアリスなら、私はなあに?」
 沢木は即答した。
「君はトム・ソーヤだよ」
 少し不満だった。
「どうして私は男の子なんです?」
「君はいつでも少年のような目と、少年のような夢を持っているからさ。どう? いいでしょう」
「そう言われれば悪くはないですけど…… まあ、一応納得しておきます」
 二人は見つめ合って微笑んだ。
「ところで沢木さん、今回の出来事の総括をまだ聞いていませんが」
「そうねえ、キーワードは四つかな。一つはフィジオグノミック・パーセプション、次いでエクスプロラトリー・ビヘイビア、さらにブラッド・アンド・サンダー、リアクション・フォーメーションの四つ」
 秋山は再び冗談っぽく言った。
「解説をどうぞ」
 沢木はタバコの揉み消し答えた。
「フィジオクグノミック・パーセプションは心理学用語の一つで、例えば、太陽が笑ってるというような、生命を持たないものが感情を持っているように感じることをいうんだ。あるいは、壁にできた染みをじっと見ているうちに人の顔や何かの形に見えてくる、というようなことも同じ言葉で表現される。つまり、サイ・パワーの存在を知らずにある状況からさまざまな憶測―妄想や想像も含んでだけど、そうして人美さんのことを思い巡らしていた我々は、あたかも壁の染みを見て人の顔だ、と言うのに等しかったと思うんだ」「なるほど」
「そしてエクスプロラトリー・ビヘイビア。計画を始めた時点ではサイ・パワーの有無に関しては正しい答えを出すことはできなかった。しかし、いずれにしろ未知なるテーマへ挑んだことには変わりない。そういう意味で、僕はこの計画を“未知なるものへの探索行動”と名づけたんだ。そして、結果的には未知なるものに出会ったわけだ」
「一つ質問があるんですけど、沢木さんはなぜ一気に計画を押し進めたんです? 渡辺さんの調査が済んでから片山さんたちを動かしてもよかったと思うんですが、何か確信が?」
「確信なんてまるでなかった。確かなのは、分からない、この一点だけ。そこでどうするか考えたんだけど、どうせ分からないことなら、考えられる手をすべてやってみることが一番なんじゃないかと思ってね。それだけだよ」
「相変わらずですね」
「何が?」
「論理的なところと楽観的なところの差が激しいんですよ、沢木さんは」
「そうかな」
「そうですよ」
「まあ、そうしておくかなぁ。さて、次にブラッド・アンド・サンダーだけど、意味は映画なんかの血なまぐさいシーンのことをいうんだ。これは僕が奇妙な出来事と臨死を体験し、泉さんが傷つき、そして人美さん自身も精神的にまいったあの夜のことを指している。つまり、人美さんの力には、ある時には恐ろしさも含まれる、という事実を警鐘する意味でのキーワードだね」
「そうですね。彼女自身の制御を離れたところに、もしかしたらもっと大きな力が存在するかも知れませんからね」
「ああ。そういう意味で、我々は可能な限りの技術力を持って彼女を援助をしてあげないと」
「人美さんは運がいいわ」
「どうして?」
「だって、ファイア・スターターのチャーリーは、政府の研究機関に狙われたために、悲劇的な体験をすることになるんですよ。その点、人美さんは沢木さんに出会ったんだから、これは幸いといえるわ」
「なるほど。でも、正直言って技術者としての好奇心は持っているよ。彼女の力を解明したい、それをさらなる技術に利用したい。そういう思いがないと言ったら嘘になるさ」
「それは私も同じです。それともう一つの興味は、人美さんにサイ・パワーがあるのなら、ほかにもサイ・パワーを持っている人がいていいはずでしょう。そこなんですよ、私の最大の関心事は」
「まあ、僕が願うことは一つだけだね。それは、鮫島のような人間にサイ・パワーがないように、ということさ」
 秋山はくすくすと笑いながら言った。
「そしたら沢木さん、またたいへんですね」
 ここで話しが脱線し、しばらく他愛のない話しが続いた後、沢木は最後のキーワードを説明した。
「リアクション・フォーメーションの本来の意味は、抑圧された感情とは逆の感情が起こるという防衛反応のことをいうんだ。例えば、ある人のことが憎くてたまらなかったが、それをずっと我慢していた。そうするうちに防衛反応が起こり、憎かった人に逆に優しくする、というようなことなんだ。人美さんはおそらく相当な精神的抑圧を受けていたと思うんだけど、それを最終的には跳ね飛ばし、本来あるべき自分の姿に戻ろうと努力した。これは正しい意味でのリアクション・フォーメーションとは異なるけれど、そうしたことのキーワードにはできると思ってね」
「なるほど。で、最終弁論は?」
 沢木は立ち上がり秋山を椅子に座らせると、自分は机に腰掛けて語り出した。
「エクスプロラトリー・ビヘイビア計画は、人美さんの父である哲司氏の意向を受けて開始された。すなわちそれは、人美さんの周囲で起こった不可思議な出来事に何らかの関連性があるのか? ということを解くことだった。渡辺さんの調査の結果、謎は謎を呼び、ある種の疑惑が一人の少女に浮かび上がった。我々はそれを追求しようとした結果、ついにその存在を確認するに至った。しかし、すべての謎が解き明かされたのではなく、以前として過去に起こった出来事に関しては灰色のままだ。そこで、僕は思うんだが。もうそんなことはどうでもいいと思うんだ。確かな事実、人美さんがサイ・パワーを持っているということ、そして、彼女には未来があるということ、それだけあれば十分であり、何も過去に起こったことを掘り返して、それを見山氏に報告することはないし、また、人美さんもそれを知る必要はないはずだ。大切なことは、今、彼女がどう生きようとしているか、そして未来がどうあるべきか、ということだと思うんだ。
 君も知っているように、僕は常々真実とはどんな場合においても明かされるべきだ、と考えてきた。それは、偽りは新たな偽りを呼び、真実によって傷つくことよりも、偽りによって傷つくことのほうがより大きく深いと考えてきたからだ。しかし、かつてヘーゲルはこう言った、理想的なものは現実的であり、現実的なものは理想的であると。これを今回の出来事に当てはめるならば、仮に人美さんが過去の出来事を起こしていたのだとしても、今の彼女はそれを知らないはずだ。もしそれを知っていたのなら、今の彼女はなかったと思う。つまり、現実的なものは理想的である、と考えられるんじゃないんだろうか。 僕の義務として、見山氏への報告という仕事が残っているけれど、僕は真実を伝える気はない。見山氏にはカントの有名な言葉を持って答えに替えようと思っている。それは、内容なき思想は空虚であり、概念なき直感は盲目である、という言葉だ。そして、僕自身の言葉としては、何よりも今の人美さんから真実を悟るべきだ、という一言に尽きる。これは僕自身にもいえることで、今までの僕は過去のある出来事に捕らわれてきた。しかし、大切なことは今であり未来であると、そう思えるようになったんだ。十八歳の少女があれほどの冒険を乗り越えようとしているのに、自分は一体何をやっていたのだろうってね。 サイ・パワーに関して言えば、これはまだまだ未知の領域で何とも言えない。しかし、多く生物がそうであるように、人も進化の過程でさまざまな能力を身につけてきた。そうしたことから考えていけば、安定した環境の中で暮らす人類から微妙な差異を持った個体が誕生し、その中にサイ・パワーを持つ者がいたとしても、決しておかしくはない話しだと思うんだ。あるいは、すべての人間に潜在能力としてサイ・パワーが存在するのだが、それが覚醒していなかったり、気づかなかったり、ないと信じ込んでいたり、そうしたことで表に現れてこないのかも知れない。
 まあ、いずれにしてもサイ・パワーは存在し、その一つの現れとして物理的な影響をおよぼすことができるわけだから、既存の物理学以外の真理が存在することになるはずだ。当面は、そんなところを切り口としてサイ・パワーに取り組んでいこうと思ってる。
 そして最後に、我々がサイ・パワーを研究するにしても、人美さんを何よりも尊重し、彼女の自発的な協力のもとに進めなくては、僕らは罪を犯すことになる。おそらく技術者や科学者という者は、そうなってしまったらおしまいなんだろうね」
 秋山は深くうなずくと、笑顔に変えて言った。
「たいへんよくできました」
「そうかい? ありがとう」
「さあ、帰りましょう」
「そうだね」
 秋山はドアに向かって歩いて行った。その後ろ姿に当たるオレンジ色の陽光は、歩調に合わせて揺れる彼女のシニヨンと白いリボンを光らせていた。彼は、それを見ながら彼女に声をかけた。
「ああ、秋山さん」
 秋山が振り返る。沢木は側に歩み寄って言った。
「僕はね、高校の時に飛行機を造ったんだ。といっても、ハングライダーとスクーターのエンジンを組み合わせたいわゆるライトプレーンなんだけど、今度の休みにそれを十五年ぶりに飛ばしてみようと思ってるんだ。よかったら、君も一緒に来ないかい。一応二人乗りなんだけど」
 秋山は首を捻りながら尋ねた。
「十五年ぶり? ちゃんと飛ぶんですか」
 沢木は明るい口調と笑顔で言った。
「ああ、君と一緒なら飛べるさ」
 秋山は満面に笑みを浮かべて答えた。
「はい、お供します」

                    (終)

エクスプロラトリー・ビヘイビア ~ Exploratory Behavior

 小説『エクスプロラトリー ビヘイビア』は、私が1994年の初夏から冬にかけて執筆した初めての小説であり、総文字数は191,961とかなりの長編作品になりました。この当時、私は冒険小説やホラー小説に夢中になっていました。フレデリック フォーサイスやスティーヴン キングを中心に、たくさんの小説を読みまくりました。そして、自分も書いてみたいという衝動に駆られ、もともとはホラー小説として書き出しました。しかし、書き進めるうちに方向性が変わり、このような作風となりました。
 主人公である沢木聡は知性に優れた男。もうひとりの主人公見山人美は勇気ある少女です。知性と勇気で困難に立ち向かう。こんなメッセージを込めた作品です。

エクスプロラトリー・ビヘイビア ~ Exploratory Behavior

エクスプロラトリービヘイビア シリーズ第1弾 あらすじ 娘に対する疑念、それは不可解な事件と娘との関係。この真相を究明するために相模重工の沢木は仲間と共に行動を開始する。一方、テロリストは相模重工の極秘プロジェクトに興味を持つ。2つの出来事は重なり合い、沢木と少女に危機が迫る。

  • 小説
  • 長編
  • 冒険
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-08

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第一章 フィジオグノミック・パーセプション―Physiognomic Perception
  2. 第二章 エクスプロラトリー・ビヘイビア―Exploratory Behavior
  3. 第三章 ブラッド・アンド・サンダー―Blood And Thunder
  4. 第四章 リアクション・フォーメーション―Reaction Formation
  5. 終章 沢木と人美―Sawaki & Hitomi