おやすみ理科室
理科室は、ねむっていた。
理科室は部屋だけれど、ねむっていた。
ずっと、ねむっていた。
ぼくは、理科室がねむっていることを知っていて、友だちはだれも、知らなかった。
「知っているのはおそらくきみと、ぼくだけでしょう」
先生は言った。
おもしろおかしそうに笑っていた。
白衣の袖が、いつもよれよれの先生だった。
めがねが、やっとやっと、鼻に引っかかっているような感じの、先生でもあった。
先生はビーカーのなかの、コーヒーと思われる液体を飲みながら、さらにつづけた。
「これは、ぼくときみだけのひみつです。だれにも話してはいけない。話したところでだれも信じてはくれないでしょうが、あたまのおかしなやつと思 われるよりは、いいでしょう。学校生活は卒業まで、異動、辞職まで、平凡に、穏便に、はみださずに生きてゆくのがポイントです」
なんだか、先生っぽいですね。
そう言ったら先生は、先生っぽいではなく先生なんですよ、と微笑んだ。
理科室は、ねむっているせいか、ほかの教室よりも、寒かった。
先生の飲んでいるコーヒーと思しきものは、あまり美味しそうにはみえなかった。
窓際で、象牙色のカーテンがただ静かにぶらさがっていた。
理科室がねむっている理由を、ぼくは知らないでいた。
先生は知っているようだったけれど、教えてはもらえなかった。
興味はあった。
けれど、知らないと困るわけでもない、と思っていた。
理科室はちゃんと、理科室としてのあるべき姿を保っていたし、その義務を全うしていた。
ぼくは、でも、ときどき、理科の授業中に、理科室のことを、気にかけていた。
ねむっている。
安らかに。
理科室のテーブルを撫でると、なんとなくわかるのだった。
ねむっていてもいいよ。
起こすつもりはないから。
そう心のなかで話しかけながら、理科室のテーブルをやさしく撫でた。
撫でるとテーブルは、きゅ、と鳴いた。
理科室の、微かな寝言ようだ。
そう思うと、ぼくは、理科室に対して聖母のような気持ちにも、なれた。
「きょうも花壇の花が、きれいに咲いていますね」
窓の外を眺めながら、先生が言った。
理科室はやっぱり、いつ来ても寒かった。
先生が、めったにカーテンを開けたがらないせいだろうか。
きょうは象牙色のカーテンが開いていて、先生は窓際にいた。
ビーカーで、いつものコーヒーと思しき液体を飲んでいた。
「ときどき、こうやって陽射しを浴びなければ。腐ってしまいそうですからね」
そう先生は笑った。
腐ってしまいそうですからね。
ぼくは、その言葉は、先生自身ではなく、理科室のことだろうと思った。
先生は理科室を、とてもたいせつにしているようだった。
理科室を、恋人と重ねているようだった。
寧ろ、先生にとっては恋人なのかもしれない、とも想像した。
理科の先生だから、ではないような。
この教室にあるものすべてを、先生はうっとりと見つめ、愛おしそうに触れるのだった。
小さくて壊れやすいものを扱うように。
至極、丁寧に。
先生、ぼくもそのコーヒーみたいなやつ、飲みたいです。
ぼくがそう言うと先生は、おもしろおかしそうに笑った。
笑って、今にもずれ落ちそうなめがねを、くいっと人差し指で持ち上げた。
「コーヒーみたいなやつではなく、ちゃんとしたコーヒーですよ」
先生は椅子から立ち上がり、理科準備室の方に向かった。
ぼくは先生が座っていた椅子に腰かけ、窓の外を見た。
花壇には、紫の花と白い花が咲いていた。
先生の言う通り、きれいに咲いていた。
(先生に好かれて、いいね)
ぼくは理科室に、そっと囁いた。
少しだけ床が、揺れた気がした。
ねむっている理科室が、あの、ねむっているときにたまにある落下感に、びくっとしたのだろうと想った。
おやすみ理科室