未定

或下 麦 作

 ──そうして雨は一層強まった。
 タイル状のアスファルトが砕けた部分に、歪な水溜りができている。斜めに突き刺す雨粒がその湖に飛び込むたび、同心円状の模様ができては消えた。親父がふざけて吐き掛けてくる煙よりはいくぶん建設的で、海豚の仔が見せる泡よりは幾らか慎ましやかな輪である。
 雨は止まなかった。
 伏し目がちに、しかし確実に『彼』に向けて、『彼女』は言い放つ。
Memento(メメント) mori(モリ)
 彼女の身体は、妖艶でないにもかかわらず、どこか見惚れるものがあった。ほっそりとした指先から、なだらかに雨粒が滑り落ちる髪先に至るまで、すべてが上品であり、華奢であった。
 華奢な彼女は再度呟く。
「死を記憶せよ」
 その言葉は、今度は誰に向けたわけでもなさそうに、華奢な彼女の足元に落ちた。猫背の彼はそれをおもむろにに拾い上げ口に放り込み、奥歯から順番に噛み砕き、少し無理をして飲み込む。猫背の彼は、口角が上がり芝居がかった笑みを顔に貼り付け、乾いた笑いをもらした。
 雨に紛れて、左の目尻から水っぽい雫が一滴、うまれていた。
 画面は暗転し、少しの間をおいて、タイトルが中央に現れる。数秒のあいだ表示され続けたタイトルは短命で口煩い昆虫の如く消え去ってしまい、その上をスタッフロールが駆け流れる。彼等は立ち上がり、会場に向かって礼をした。聴衆の拍手が彼等を優しく包み込む。おもむろに顔をあげた先には、ちょこんと座り、満足そうな笑みを浮かべているあの子の影が目の端に映った。けたたましい拍手が館内に響き渡る。
   *
 けたたましい蝉の大合唱の中を、氷學(ひがく)はやや猫背気味に通り過ぎる。その様はさながら、至極有名な交響楽団の公演中に、申し訳なさそうにお手洗いへと急ぐ男のようだった。男はそこらじゅうを漂う蒸された空気を切り裂きながら、足早と道の前進に勤しむ。激しく射す陽が、コンクリートに反射して男の眼に体当たりを繰り返すようで、自然の猛威に抗わんと、男のまばたきは徐々に回数を増す。次第に現れた、傾斜の利いたその坂を登れば、少し小ぶりな八鹿(やつしか)高等学校が見える。頬をつたって流れ落ちんとする汗を、純白のカッターシャツの、その半袖の端で拭いながら氷學は校舎の中へと歩を進める。
 バスケットボールのスキール音にも似た、高周波の摩擦音を足元に纏いながら、氷學は部室へと向かっていた。最新の冷房システムを備えている訳ではないこの校舎では、たとえ室内だからと冷えた心地がするわけでもないらしく、氷學は(ふいご)の要領で執拗に首下の布を前後に揺らし、一時を凌いでいた。
 壁から飛び出した標札は、ここが確実に視聴覚室であることを示している。氷學は、引き戸に備え付けられた金属の引き手に手をかける。標札の下にガムテープで乱雑に貼り付けた、「映画部」と殴り書きされているダンボールが、大きく開いた窓口から流れ込む風に揺られている。
「氷學ってさ、なんであんなに真面目を気取ったキャラを貫こうとするのかね」扉の向こうから、瀧浪(たきなみ)の野太い声が聞こえる。
「わかるわあ。本性はちゃらんぽらんやのに」狭霧(さぎり)が甲高く、瀧浪のあとを継ぐ。
 氷學の引き手を掴む手が、徐々に力を込めて丸くなる。噛んだ下唇は、血が止まって白味を帯び始めている。
 狹霧が思い出したように声をあげた。「あ、そういえばこの前アイツ、『なのである!』とか言うとったで」狭霧は付け足す。「説明キャラじゃあるまいし」
「うわ、流石にそれはキツイ」
「やめときなよ。もうすぐ氷學くん来ちゃうよ?」雨戀(あまごい)がおっとりとした口調で制止しようとするが、一度流れ出した川はもう止まらない。
「そもそもアイツが部長ってのが俺は未だに納得できん」
「よう言うわ。強引に押し付けたのはアンタやろ」
「んー? なんのことだかさっぱりなのである!」
 彼らが投げ合う、十分希釈が済んだと思っている悪意のキャッチボールは、怒りを繋ぎ留めていた氷學の糸を断ち切るには十分な濃度を持っていた。
「説明キャラで悪かったのである!」氷學は、力任せに引き戸を開くと同時に叫んだ。三人の見開いた瞳を確認したのち、澄ました顔で室内に入る氷學を見て、瀧浪は言う。
「よっ! 部長のご登場!」
「今更取り繕ったって、今日の鍵閉め当番はおまえだぞ」
「そんな! そこを何とかお願いしますよ部長様ぁ」
 すり寄る時代劇の悪役商人のような瀧浪を引き剥がし、お決まりの席へ歩き出す。
 一般教室と違って、冷房のスイッチが職員室ではなく視聴覚室内にあるので、夏になっても我々は常に快適な環境下で駄弁ることができた。我が物顔で急速冷凍庫の中に居座っている我々に、一切お咎め無しな教職員らが、なんとも言いしれぬ不気味さを纏っているのだが、そんな不安は冷房の風にすぐ吹き飛ばされる。
「悪かったアル!」狭霧が壊れたレコードのように、何度も氷學の言葉を真似る。「エセ中国人みたいやな」
 誇張しすぎた自分のモノマネがよほど面白かったのか、両手を叩いて笑い転げている。捲れ上がったスカートの下からハーフパンツの体操着が覗いているのはお構いなしのようだ。
「狹霧、明日の当番はお前な」
「なっ、ウチ!?」思わぬ流れ弾に驚きを隠せない狭霧だったが、これ以上の反論はもはや何の意味もなさないと悟り、再度傷のついたレコードに針を落とす。
 越後屋と蓄音機を尻目に、氷學は雨戀に話しかける。
「脚本、どうだった?」
「読んだよ。うん、いい感じ。ただ最後のシーンで──」
 ひんやりとした空気が揺蕩うこの視聴覚室に、扉のほうから再び蒸し暑い風が流れ込む。氷學と雨戀が見上げた先には、扉にもたれかかった(まどか)がいた。
 依然、氷學を侮辱し続けている狭霧にヒールの音を立てながら近づいた圓は、狭霧の頭上に乗ったお団子ヘアを右手でがっしりと掴み、「静かに」と低い声で唸った。綺麗に整えられた爪の先で団子を刺された狭霧は、力なく笑うのみで、震える声帯以外は一切動かさない。否、動かせない様子でいる。
「さあ、改めて、注目」
 狭霧の拘束を解いたのち、腕を組んで仁王立ちした彼女を、注目していない者などこの場にいなかった。その姿は、法隆寺中門に屹立する阿形吽形に勝るとも劣らない荘厳な雰囲気を醸し出していた。圓は続ける。
「氷學、脚本はできた?」
「は、はい、あとは他のメンバーに確認して修正するのみであります!」
 つい出てしまったエセ中国人など、圓は気にもとめなかった。
「そ。あんまり時間もないし、早めに完成しちゃいなさいね。あと、これ、言ってたビデオカメラ。壊さないでよ」と言って圓は氷學に、ビデオカメラを手渡した。両手で深々と受け取る氷學は、ちょうど女神の慈悲を受ける仔羊のそれだった。
「そんなに新しいものじゃないけど、ちゃんと映るはず。なにかあったらまた言ってね。んじゃ、先生これから職員会議だから」
 言うが早いか、部屋をあとにした圓の背中を四人が見送る。嵐のようにやってきては去った圓に、しばらく全員が固まっていた。やがて瀧浪が口を開く。
「ありゃ昨日の合コンも駄目だったな」
「撃沈するたびにうちらに当たるのやめてほしいよなあ、ほんま」狭霧が自慢の団子をさすりながらぼやく。
「まあまあ、こうやって私達に協力してくれるし、普段は優しい先生だよ」雨戀はそう言いながら、氷學の手にあったビデオカメラを机の上に移す。
 四人はそれを眺めた。
「思ったよりちっさいねんな」
「これで道具は揃ったんじゃないのか」
 訥々と感想が述べられてゆく中、氷學が提案する。
「そこに並んでくれよ。ちゃんと撮れるか試したい」
 氷學が指さした箇所に、三人が寄り合う。電源のスイッチを入れ、液晶モニターを横に開こうとした氷學は、ビデオカメラの側面に小さなイチゴのシールが貼ってあることに気が付く。どう見ても幼児用のそのシールを、暴風雨もしくは氷の女王のような圓が貼っていると想像すると、氷學は笑みを隠すのに苦労した。
 開いたモニターには、きちんと三人が映っていた。雨戀と狭霧が仲良しそうにくっつき、その上から瀧浪が顔を覗かせる。この状態で自分が後ろに入ったら、鼻より下が隠れてしまうだろうと勘付いてしまった氷學は、誰に揶揄されたわけでもないのに、独り悲しくなり、同時に瀧浪を羨み睨んだ。睨まれた瀧浪は何を勘違いしたか、ギョッとして雨戀から少し距離を置く。
 ふと、このビデオカメラにはファインダーが搭載されていることに、氷學は気付いた。覗き窓を介した景色に好奇心を抱いた氷學は、何の気なしに録画ボタンを押し、ファインダー越しの三人を視る。
 確かに視えた。肩を寄せ合う三人の学生。
 と、独りの幼女が。
 彼女は、伏し目がちにレンズを見ていた。
 金切り声を上げ、氷學はビデオカメラを投げ出す。少し暗めの蛍光灯と夏の太陽に照らされながら、白い機械は宙を舞う。机に不時着したそれは、氷上のチェスが如く机上を滑り、バックラインの際涯で停止。ストーンはなんとか有効となった。
「ちょ、何してんねん! カメラが壊れるやろ?!」狹霧が持ち前の甲高い声を上げ、カメラを持ち上げた。幸い、着地点が高低差の少ない机だったことと、グリップベルトがクッション代わりになってくれたことが功を奏して、ビデオカメラは殆ど無傷だった。ビデオカメラを我が子のように撫でる狭霧のその姿は、釘ならぬ爪を圓に刺され、自分のお団子をさする姿と丁度重なった。
「あ──あそこに女の子が!」氷學は、声にならない声を絞り出し、三人の奥を指差す。 雨戀、瀧浪、狹霧がほぼ同時に後ろを振り返るが、窓から差し込む日光によっ姿を現した微量な埃のみが、そこにはただ舞うばかりであった。
「誰もいないぞ」瀧浪は氷學のほうに向き直り、冗談の真意を問いただそうと息巻いていたが、大きく見開かれた氷學の双眼からは、悪戯やジョークといった余裕のある者のみが提供できる平たい物が一切汲み取れなかった。
「貸してくれ」
 我が子を愛でるのを中断し、空虚を眺め続けていた狭霧からビデオカメラをふんだくり、瀧浪はファインダーを覗き込む。レンズは空虚に向けられた。
 幼女は、依然として伏し目を継続していた。その瞳はゼラチン質に沈んだ葡萄のように、芯だけはいやに瑞々しく、燻んだ硝子がそれを抱擁していた。睫毛の先は目に見えない糸で吊り上げられたように空を仰いでおり、今にも溢れ出そうな涙は重力に負けじと目下の器に灌がれていた。
 突如、幼女は小さく息を吸い、存在さえ怪しいその発声器官を震わせた。
「……おかあさんは……どこ?」
 その声は、瀧浪の耳に直接ではなく、瀧浪の右手に構えられたカメラのスピーカーを介して届けられた。瀧浪以外の三人にも確かにその声は聞こえたようで、二・七インチしかない備え付けの回転式スクリーンを雨戀と狭霧は両肩越しに覗いてきた。定まりのない羊雲な存在だった例の幼女が、音吐を抱えて積乱雲になったと氷學は感じたようで、両の耳に密着させた掌をわなわな(丶丶丶丶)させていた。その様はやはり、かみなり雲に怯え震える仔羊のようだ。
「女の子が映ってる……」
「えっと──誰かのイタズラやないよな……」興味に先立って現実を直視した雨戀と瀧浪は、浮腰になりながら後ずさる。どちらかの背中が机と衝突し、その上に乗っていたシャープペンシルが金属音を立てながら何度か床に叩きつけられる。音が止んで刹那襲った静寂は、四人の四肢を厳重に縛り付け、瞬きでさえ大気の流れに影響を与えてしまいそうな錯覚に陥る。額の汗は冷房を無視して滲んだ。
 永遠に続くかと思われた拷問のような時空間をほどいたのは、スピーカー越しの幼女の声だった。
「おかあさんは……どこなの?」スタッカートとクレッシェンドの指示に従った呼吸音があとを継ぎ、やがて幼女の泣き声が辺りに響く。不規則なリズムを奏でる彼女の喚きに鼓膜を揺らされた彼等は、事態の解釈に精を出す。
「お──お嬢ちゃん、どこから来たの?」瀧浪は対象とのコミュニケーションにより事態の収集を図る。
「……もとからココにいたよ?」荒波のようだった幼女の声は徐々に落ち着きを取り戻し、ゆっくりと寄せては返すを繰り返している。
 瀧浪の頬は血の気をなくし、瀧浪自身は足元から頚椎にかけての濡れ手による撫で上げに遭っていた。いまだ及び腰から立ち直ることのできていない雨戀と狹霧に至っては、全身の芯を根こそぎ抜き取られたように不安定に震えている。
「お兄ちゃんに名前を教えてくれないかな?」それでも負けじと、瀧浪は懇ろに幼女に問いかける。その姿はある意味で、ともすれば己の身の縁を侵しかねない朧げな蒸気を、澄んだケースに密閉しようとしているようにも映った。
「シズク──」浮遊する気体の中に彼女の言葉はゆっくりと滲み、次第にその影は捉えがたくなってゆく。このまま彼女ごと消えてしまうのではないかと憂うのも束の間、上擦った彼女の声が辺りに劈く。「シズクの名前はねっ! シズクってゆーの!」
 目下の潮も人知れず引いており、彼女が自分の名前にひどく愛着を持っていることを歴然と示していた。アイデンティティの誇示は一波では終わらない。
「かんじっ! シズクね、かんじってゆーの書けるんだよ!」
 小股を素早く回転させ、まるでチャップリンの『モダンタイムス』みたいに画面の中の彼女は駆け寄ってきた。足元で急旋回し卓上の筆箱を漁っている背中を唖然として眺めていた瀧浪は、その春荒れに類似する忙しなさと我道を突き進む芯の太さに、何処となく見覚えを感じていた。
 目当てのマジックペンを筆箱から見つけ出した幼女はそれを頭上に掲げた後、くす玉を無理矢理こじ開けるような体制でペンの蓋を外し、次に散乱する白紙のルーズリーフにを一枚引っ張り出して何やら描き始めた。紅葉(もみじば)ほどのあどけない右手に、親指までもを巻き込んで握りしめられた黒々しい油性ペンは、大好物のハンバーグをいざ喰らわんとする子供の持つフォークを彷彿とさせた。容易に想像できる幼女の無邪気な悪戯顔の上では、舌が口角から飛び出していることなど言うまでもない。摺られてゆく矩形が奏でる小気味よい摩擦音と、言いしれぬ罪悪感を孕んだシンナーの馥郁たる香りとが部屋中を立ち込め、やがて音が止んだと思えば再び鳴り出し、を繰り返していた。
「できたー! 書けたよ、みてみて」
 シズクと自称する幼女は、『勝訴』の二文字を高々と掲げる若手弁護士よろしくルーズリーフを両手で持ってみせた。一画一画が拙く震え大きく縦に背伸びしているその文字は、雨冠の傘下に横広がりの丁字が象られている。
(しずく)ちゃん、惜しいっ! 一画だけ足りないよ」瀧浪は幼女からその紙切れとペンを丁重に受け取り、最後の一本を加筆する。
「よし、これで完璧」
 修正の加わった一字と暫く相対し、あらゆる角度からそれを眺めたり蛍光灯に紙を透かしたりしたのち、校閲が終わり満足したのかしたり顔で漢字表記の名を見せびらかす。
「雫ってゆーのっ! 雫だよっ!」

未定

未定

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-01-20

Copyrighted
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