ペガサス

ペガサス


 台風が近づいている。海は荒れはじめ、大風が時折吹く、町中には、ざざーっと強い雨が気まぐれに吹き荒れている。雷もなっている。
 「重馬場か」
 あたりそこねた馬券を手に一人の男がぽつんと言った。
 「馬ってやつはなんてきれいなんだ、地球上で一番整っている生きものだよ、あの目見てみろよ、力強さ、だけどやさしさ、慈悲に満ちている」
 隣の男は遠くを眺めて言った。
 「そうだな、地球の他の生物には見られない美しさだ」
 二人ともこのひどい雨の中を傘もささず馬場を見ている。もっともこの横殴りの雨では傘も役にたたないだろう。
 「次のレースやるんかなー」
 「やるだろう」
 「馬のやつどう思っているんだろう、広い野原を太陽の下で、裸で思いっきり駆け回りたいんじゃないだろうか」
 「いや、わからないさ、雨が好きかもしれない、人間が好きかも知れない」
 「今度は、たった六頭か」
 「少ないな、あいつら何を思っているのだろう」
 「馬屋にいるよりも楽しいだろう」
 「そうなのかな」
 雨の中、手綱をひかれゲートに向かう馬。横なぐりの雨に打たれ、彼らは背中がむずむずするのを感じていた。激しく地をたたく雨。
 (背中の上の鞍の重みと、騎手である人間の重み、どうしてあれにあんなに似ているのだろう)
 馬たちは不思議に思っていた。
 (まさか、人間はあれをどこかで見つけたわけではあるまい、でも、どうやってこの重さ、この感じをみつけたのだろう、走りたくなる背中の重さ)
 彼らは鞍と騎手を背に乗せるたびに故郷を思い出していた。その重さが彼らの脳の奥にしまわれている原始の自分を刺激し、夢に火をつけ。
 母の代、その母の代、そしてその母の代。
 広い広いところを自由に飛び回る夢、故郷。
 男がつれに言った。
 「やっぱりあいつらは広い野原を駆け巡りたいのだろうな」
 六頭の馬はゲートインし終わろうとしている。
 もう一人が言った。
 「いや、野原じゃないかもしれない、もっともっと、広いところを駆け回りたいのかもしれない」
 「どこを」
 「例えば、広い広い宇宙(そら)」
 「宇宙?」
 「なんとなくそう思ったんだ」
 雨はますますひどくなってくる。雷もなり始めた。
 ゲートは開いていた。六頭はそろってスタートをきった。
 彼らは走り出すと、鞍と騎手の重さが軽くなるのを感じた。まるであれを広げ、動かした時と同じように。
 「故郷に帰るんだ、故郷に」
 彼らは夢中になって走った。叩きつけるような雨。泥は彼らの美しい毛を汚し、荒れ狂う風、雷の轟音は彼らの耳の中で渦巻いた。
 (生れた故郷、青い原、透きとおった泉、自由な恋、自由な生活、自然、故郷)
 雷が近くに落ちたらしい、稲光とともにオゾンの匂いが彼らの鼻をつき、地球がまだ緑だった頃を思い出させた。なぜこの星に住みついたか思い出した。あの若々しい美しい星がこのようになるとは、まして自分たちがこのような境遇に陥るとは夢にも思いはしなかった。
(なぜあのまま故郷に帰らなかったのか、なぜ翼を落としてしまったのだろうか
 だが似ている、あまりにも似すぎている、この鞍と人間の重さが、翼を畳んだ時の重さと、一体なぜだろう、鞍と人間の合体が翼にそっくりなのは、故郷に向かえ)
 彼らは走った。
 彼らはふっと、風の中に潮の匂いを感じ取った。
 (荒れ狂う海、太陽の火を消してしまいそうな大きな波、あらあらしく刻まれた岩礁、そして、凪の優しさ、荒々しい父よ、隠れたる我々の父よ)
 彼らはなつかしく思い出した。
 (荒々しさの中に優しさのある父、ポセイドン、広大な海を、水を、手の中に収めーーー)
 降りしきる雨、馬たちはたてがみが雨に洗われるのを楽しんだ。
 (母も誇らしげに見事な髪を泉で洗い、風をなびかせたことだろう、母譲りの美しい毛、誰が見たって最高なんだ)
 馬たちは自分たちに言い聞かせた。
 (父なるポセイドンも母の見事な髪に魅かれたに違いない、だが、可愛そうな母、メドゥーサ、ゴルゴーン)
 この雨は彼らの母メドゥーサの首より滴り落ちる血を思いださせる。彼らの生れたるところの血)
 彼らは目に涙を浮かべて走った。
 (故郷に帰るんだペガサス、広い広い宇宙を走れペガサス、故郷へ帰れ、ペガスス)
 馬たちは背中に翼が戻ったような気がした。いや本当に戻った。大きな力強い、真っ黒な、真っ白な翼。
 (昔、ペレロポーンを乗せ、この強い翼で天を駆け巡り、口から猛火を吐くキマイラを退治した、そんなすばらしい思い出)
 彼らは天の星、ペガススに行き着くことを祈り、天高く羽ばたいた。
 後を振り向くと、最後に残した足跡に雨がたまり、大きく広がるのがわかった。
 (ヒッポクレーネ、ヘリコーン山に湧く泉、自分の足跡、ミューズのように)
 彼らの姿は稲光に照らし出され、自分の役目、ゼウスの雷と、電光の担い手であることを思い出し、兄弟、クリューサ、オールを考えた。
 父なるポセイドンに見守られ、母メデュサに励まされ、彼らは羽ばたく。
 (故郷は近いんだ、故郷は近いんだ、近いんだ)
 彼らは走った。
 (さー、もう青い故郷、天の星、ペガススに着く。もう目の前だ。自然の木陰で休憩だ。木からもぎ取る林檎の実、みんなに会える、夢中で動かした翼が痛かった)
 故郷、彼らは目を開けた。そこにはどろどろの馬場があった。その瞬間、故郷の夢は消え、背の上の翼は鞍と人間に変わっていた。
 ペガススは遠い、彼らは目を閉じ、またかと慣れたはずの地球に目を落とした。

 一人の男が言った。
 「いい走りをしていたな」
 つれが答えた。
 「ああ、俺はあいつらに羽が生えて飛んでいるのかと思ったよ、優雅だ」
 「そう言えば、俺も翼をみたよ」
 二人の男は馬のいなくなった水溜りの馬場を何時までも見ていた。

ペガサス

私家版初期(1971-1976年)小説集「小悪魔、2019、276p、二部 一粒書房」所収 IMP6
挿絵:著者 

ペガサス

雨の降る競馬場を見つめる二人の男の前を駆け抜ける馬。馬は何を思うのか。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-18

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