後回し

彼はいつも後回しだった。
脱ぎっぱなしの靴下から大事なレポートから、いつも部屋のあちこちに投げたままにして、ベッドの上で私にはよく分からないゲームをしながら、「あとでちゃんとやる」と笑った。「後で後でって後回しにしてると余計しんどくなるんだからね」と文句を言いながら、彼の洗い物を洗濯機に突っ込み、散らかった荷物をこづめる。彼は「後でやろうと思ったのに〜」と夏休みの宿題を急かされた小学生のような小言を言いながら、最後には必ずありがとう、と笑って私の頭をくしゃっと撫でた。その腑抜けた笑顔に丸められて、私はもう、と怒ったふりをしながら、今日も嬉々として彼の抜け殻をせっせと片付けるのだった。

俺たち別れよう、と唐突に言われたのは、何でもないいつもの日曜の昼下がりだった。洗濯物を畳んでいる背後から聞こえたその声は、私の動きを停止させた。
しばらくして、どうして、という声が出そうになったが、それはすぐに愚問だと察して呑み込んだ。彼は提案ではなく結論を口にしているのだ。私の意見を聞いて変わってしまうようなやわな相談のようなものではなく、考え抜いた結果の決意。彼が今求めているのは理由ではなく同意であることは、長年付き合ってきた私だからこそ即座に読み取れた。
でも言葉が出ない。本能がそれを拒絶している。
彼もそれを察したのだろう、ぽつりぽつりと、でもはっきりとした口調で、もう私に恋愛感情を抱けない、と言った。
そんなの分かりきっていたことだ。小言を言いながら彼の世話を焼き、彼をいつも笑顔で送り出し迎える私は彼の母親だった。世にいうカップルらしいようなことは、とうの昔になくなっていた。彼の一挙手一投足に浮き足立ったり憂いたりすることももうなかった。
でもそれはきっと、恋愛感情が愛情に変わり、彼をほんとうに愛しているからだと信じ、疑わずに今日まで過ごしてきた。私はいつも彼に愛されていると感じていたし、彼のそれも私と同じ愛情なのだと思っていた。
私のことをもう愛していないの、振り絞った精一杯の小さな一言に、彼は「愛してるよ」と間髪入れずに答えた。
でも、と彼はつっかえた。そして大きく深呼吸をしてから、精一杯の正直と共に、「でももう愛していない」と吐き出した。
彼は私のことを十分に愛してくれている。だから私の手を放そうとしているのだ。そんなことはちゃんと理解している。理解しているから、だから今はその彼の誠実が苦しい。
彼に背を向け一通り泣きじゃくってから、私は「わかった」と一言震える体から絞り出した。ただ、と呟いて、そこからまた涙が溢れ出した。彼は「うん」と優しく頷いた。焦らなくてもいいよ、と彼の左手が私の肩を持つ。「もう少しだけ、そばにいさせて」

隣で眠る彼の布団をかけ直してから、どうせ眠れないなら、とキッチンでコーヒーを淹れて飲みながら、ゆらゆらと浮かんで消えていく湯気をぼんやりと眺めた。今日はさすがに泣き腫らしてしまったので、明日は仕事を休むことにした。上司と外回りの予定だったが、しょうがない、今度きちんと謝りにいこう。机の横に昼から中途半端に積まれたままの洗濯物が佇んでいる。かけようとした掃除機も出したままだし、付け替えようとしていた廊下の電球も切れたままだ。とんだ青天の霹靂のお陰で、やろうとしていたことが何も片付いていない。ぶるりと身震いをして、彼の眠る布団に潜り込む。荷物もまとめないといけないし、新しい部屋も探さないといけない。やらなければいけないことは山ほどあるが、そんなことは後でもいい。
彼の隣で眠りにつける日常が、もうすぐ終わってしまう。別れを引き延ばしたところで、なんの慰みにもならない。そんなことは十分に分かっている。それでも今は何も考えずに、彼の温もりを感じていたいのだ。
「後で後でって後回しにしてると余計しんどくなるんだからね」
どこかで聞いた声が胸を刺す。現実に蓋をするように、彼の腕にしがみついて布団で体を覆った。

後回し

後回し

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-15

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