ブラット・ムーン

香月 鐘二郎 作

  1. 序章
  2. 第1章 花柳慧一
  3. 第2章 神宮匠
  4. 第3章 桜木晃一郎
  5. 第4章 御門龍介
  6. 第5章 7代目、火車の仁吉
  7. 第6章 朱雀喜重郎
  8. 第7章 百合愛
  9. 終章

序章

さて、どうしたものかな。
 俺はベットの上を眺めながらため息をついた。
 見知らぬ部屋。見知らぬベット。目覚めたとき、俺の横にはひとりの女が横たわっていた。
 もっともそれは、俺にとっては別段珍しいことではない。ここが誰の部屋かもわかっている。
 隣に眠る女にしても、知らない顔ではない。
 ただひとつ、俺が知らないのは、なんで女が死んでいるかということだ。

 まあ、待て。まずは落ち着くことだ。
 俺は立ち上がった。
 ベットサイドのソファの背もたれに掛けられた、自分の上着からタバコケースを取り出すと、女の周囲を廻って窓際に近寄った。確認するまでもなく、女は冷たくなっている。
 俺は煙草を咥え火を点けた。
 窓際のカーテンの隙間から外の気配に目をやる。
 地上8階。ガラス戸の外は白々とした夜明けだ。ほの明るい街灯の下に、閑散とした駐車場が続く。人の気配はまるでない。
鍵は掛かっていた。
 ガラス戸を細めに開けようとして思い留まった。下手に指紋を残して疑われてもかなわない。
 そこまで考えてふと可笑しくなった。
 ここに俺がいること自体が疑惑のもとなのだ。
 俺はため息を吐くように、煙草の煙を吐き出した。
 改めてベットの女に目をやる。
 左側を下にした女の身体は、青白くひかっている。首の辺りにはドス黒く変色した一筋の痣。あれは絞殺跡なのか?
 すると女は絞め殺されたことになる。自分の寝ているすぐ横で、だ。
 それに何で、気づかなかった?
 ギリリ。
 屈辱に唇を噛み締める。吸いかけの煙草を床に叩きつけようとして思い止まった。
 その理由もわかっている。
 一服盛られたからだ。睡眠薬を飲まされて、それで正体なく眠りこけていた。
 その隙に、女は殺されたのだ。よりによって、この俺様の眠るすぐ横で、である。

 ふざけやがって!
 こんな屈辱があるか。
 絶対に許さねえ!
 ベットで死んでいる女。それには見覚えがある。
 ワケありの女であった。
 その女と一夜を共にしたのだ。豊満な肉体をした女だった。
 顔も悪くない。銀座の一流どころとはいかないまでも、そこそこの店なら十分にママとして通用するだろう。
 西麻布のクラブバーで待ち合わせたあと、数件の店をはしごしたのち、彼女のマンションに行った。
 彼女の現住所は、南青山3丁目。すなわちここだ。
 大分、酔っていた。
 恐らく彼女が酒の中に何かを混ぜたのだろう。そうでなくては説明のつかない酔い方だった。
 部屋に入るなり、崩れるようにベットに倒れ込んだ。
 彼女の服を剥ぎ取るように脱がせたまでは覚えている。しかし、覚えているのはそこまでだった。
 目が覚めたら全裸の女の死体が隣に寝ていたというわけだ。
 俺は考える。
 俺は、この女とやったのか?
 いやいや、問題はそこではない。
 問題は何で女が、ここで死んでいるかということだ。
 誰かが女を殺し、その罪を俺に着せようとしている。そこまでは判っている。
 では誰が殺したのか?
 ベランダから窓越しに侵入したというのならありそうだが、ガラス戸の鍵は掛かっていた。
 そうでなくともここはマンションの8階である。スパイダーマンでもなければ、簡単に登ってこられる高さではない。
 それに彼女が俺に一服盛ったとするならば、それはどういうことだろう?
 彼女は自分が殺されることを予期して、そんなことをしたわけではないはずだ。では、彼女が俺を眠らせた目的は何だろう。

 ベットに座って2本目の煙草に火を点ける。
 女は左側を下にしてベットに横たわっている。首にはくっきりとした一条の絞殺痕。ちょっと見ただけで、頚椎が折れているのがわかる。よほど強い力で絞められたのであろう。
 凶器と思われる白いロープは部屋の隅に転がっている。登山に使うザイルのようだ。
 次第に冷静さを取り戻し、改めて部屋の全体に目をやる。
 白を基調とした1LDK。
 ガラス窓に面したダブルベット。小さなソファセット。壁際のラックとテレビセット。
 おかしい。昨夜は気づかなかったが、生活感がまるでない。
 キッチンへと続く扉の脇にはウォークインクローゼット。中には数着の服やコートが下がっているものの、この手の職業の女の物にしては少なすぎる。
 この女は本当にここに住んでいるのか?
 ベットサイドのテーブルには綺麗に畳んだ洋服が置いてある。
 おかしい。昨夜、強引に剥ぎ取った覚えのある服だ。それが何故畳まれているのだ?
 俺が眠った後に、女は一度着替えている。
 玄関に向かう。
 彼女の靴は綺麗に揃えて置かれていた。
 つまり俺が眠った後、どこかへ外出したということか。そして、誰かと一緒に帰宅した。そいつに殺されるとも知らないで・・・
 とりあえず、この状況をなんとかしなくてはならない。このままでは、殺人の犯人として逮捕されるからだ。
 方法はいくつかある。
 死体を消すか、俺が消えるか。
 いずれにしても自分ひとりでは無理だ。助けが必要だ。
 携帯電話を出して考える。
 誰を呼ぶか。
 よほど信頼できる人物でなくてはならない。そしてこういう事情に精通している人物だ。

 ピンポーン。
 携帯のボタンを押そうとしたとき、部屋のインターホンが鳴った。
 心臓が跳ね上がる。
 時計を見ると、まだ朝の6時前だ。こんな時分に訪問者? 一体何者だろう。
 用心深くインターホンのモニターを確認する。
 画面に映るのは小柄な男がひとり。のほほんとした感じの、童顔の男だ。組のものとも思えない。近所の引きこもりのお兄ちゃんといったところである。
 さて、どうしたものか。
 まさか返事をするわけにもいかない。ドアを開けて死体と対面させるわけにも、もちろんいかなかった。
 ここは無視する一手であろう。
 すると引きこもりのお兄ちゃんが、インターホンのマイクに話しかけてきた。
「朝早く済みません。窓の明かりがみえたもので、お目覚めかと思いまして」
 しまった。
 俺は舌打ちをした。
 部屋の明かりを消しておかなかったことは失策だった。
「怪しい者ではありません。自分、こういう者です」
 男はカメラに黒い手帖をかざした。
 警察手帳。
 この男、刑事か?
 まさか、なんでこんなところに刑事が?
「ちょと訊きたいことがあるのですが、開けていただけませんかね。藤井佳子さん」
 藤井佳子?
 何者だ、その女?
 

第1章 花柳慧一

 ふざけるな!
 と、喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。
 そんな馬鹿馬鹿しい話が呑めるか。
 そう思いつつも、花柳慧一(はなやぎ・けいいち)は余裕の態度を崩さない。咥えた煙草を一息吸い込んでから、ゆっくりとした動作でテーブルの灰皿に押し付ける。
 でかいテーブルだ。有に普通のテーブルの2枚分はある。
 でかいだけではなく分厚い。厚さは5センチを越えているようだ。余程体力に自信のある大人でも、数人掛りでなくては動かすことも出来るまい。そんなことをぼんやりと考える。
 慧一はテーブルの前の二人がけのソファーに座らせられている。彼の横には女がひとり、身を縮めて微かに震えている。
 無理もない。
 竹田不動産。
 表向きは普通の不動産会社だが、裏に回れば立派なヤクザ事務所だ。
 テーブルの向こうに、でっぷりと座っているのは竹田忠。指定暴力団芦田組の若頭だ。芦田組は練馬・中野区あたりに居を構える暴力団組織である。竹田不動産は芦田組の新宿出張所といったところか。
 しかしそんな事情を慧一はもちろん知らない。彼にとってはどうでもいいことだからだ。
 差し当たっての問題はこの状況をどうするかだ。
 彼の座っているソファーの後方には、凶悪な面構えをした男がふたり。懐に刃物(ヤッパ)を呑んで突っ立っている。
 慧一が少しでも妙な動きをみせたら、彼らは平気でギラギラ輝く刃物を、その身体に滑り込ませてくるだろう。それよりも厄介なのは、テーブルの右端に腰掛けている男だ。懐の膨らみ具合からみて、まず間違いなく拳銃(チャカ)を呑んでいる。
 目つきにも只ならない雰囲気を感じる。
 いわいるトンでいるというやつである。ひょっとしたら人のひとりやふたり殺しているかも知れない。例え殺していなくても、こういう男は他人の命を奪うことに何の罪悪感も感じないであろうことを、花柳慧一はよく知っている。
 歌舞伎町の東通りを女と歩いているところを拉致され、連れ込まれたのである。並みの男なら小便を漏らして泣き叫ぶシチレーションだが、慧一にはどことなく現実感がない。
 やれやれ、まいったな。
 くらいにしか感じていないようだ。度胸があるのか鈍いのかよくわからない。
「で、どうなんだよ」
 目の前のでぶった男が言った。
「条件を呑むのか呑まないのか?」
「そうだな・・・」
 いつもの習慣で慧一は隣に座った女の背中に回した腕を、身体の下に滑らせながら考えた。
 さて、どうしたものか。
 背中に回した掌を、女の張り詰めた尻の下にすべり込ませる。彼にしてみれば、殆ど条件反射みたいな行為だった。
 ひやっという声を、女は寸前のところで飲み込んだ。男の指が尻の割れ目に食い込んだからであった。
 なにするのよ。
 という顔で女が慧一を睨みつける。
「凶悪なヤクザたちに囲まれて、いまにも殺されそうな状況だというのに、一体何を考えているの?」
 とでも言いたそうな顔つきに、
 いい度胸をしている。
 自分の行為を棚に上げてしみじみと女の顔を見やった。この危機的状況にあって、隣の男を睨みつけるなんぞ中々どうして出来る芸当ではない。
 いい、おんなだ。
 と、その目ヂカラのある瞳をみながら慧一は思う。考えてみればこの女のせいで、いまのこのヤバイ状況にあるのだ。
 雨宮雫。
 女と出会ったのは、一週間ほどまえ。そう、あの雨の夜だった。

 花柳慧一。
 スカウトマンである。街を歩いているちょっと見た目のいい女を口説いて、クラブやらキャバクラやら、いわいる水商売系の店に紹介するのが彼の仕事である。
 新宿歌舞伎町。そこが彼の仕事場であり、いわいる狩場でもあった。
 純白のシャツとスーツ、アイボリーホワイトのソフト帽、イタリア製の靴までが白い。赤い色はネクタイと胸に刺した一輪バラ。それが彼のスタイルであった。
舎弟の相馬誠などに言わせれば、実にキザっぽいということになるのだが、そのキザっぽさも含めてこの男の魅力なのである。
 その夜、慧一は3丁目の行きつけのバーで飲んでいた。
 スカウトマンというのは、ただ単に女を紹介すればいいというわけにはいかない。その女が愚痴をこぼすようなら聞いてやらねばならないし、問題を起こすようなら手当をしてやらねばならない。アフターケアが重要なのである。要はその女が如何に気持ちよく働けるか、絶えず気を配る必要があるということなのだ。
 面倒といえば、これほど面倒なことはない。
 今回もあるキャバクラに紹介した女の問題を解決してやったところだ。店の客がその女のストーカー紛いの行為を始めたという。店の前に張り込んでその男を一喝してやった。ストーカーはうらびれたサラリーマン風の男で、凄んで脅してやるとすぐに大人しくなって尻に帆かけて逃げ出した。
 この程度ならどうということはないのだが、度重なるといい加減うんざりする。それで仕事上がりにバーで一息ついたわけだ。
 外は冷たい雨が降っている。
 確か隣の席には弟分の相馬誠が座っていたはずだ。
「いやあ、ケイさん。この間引っ掛けた女なんですがね。これがまた、ひどい女で・・・」
 いつものように顔見知りの韓国人バーテンダーの入れてくれたカクテルを傾け、弟分の他愛のない愚痴を聞いていると、入口のドアがカランと開いてひとりの女が入ってきた。その女が登場しただけで店の雰囲気が、急に色を増したように感じられる女であった。
 オーラのある女優が入ってきたような錯覚さえ覚えた。
 女は幅の広い帽子を被り、黒っぽいロングコートを着ていた。コートの上からもスタイルの良さが滲み出る肢体をしている。
 匂うような色気を漂わせながら、慧一のひとつ空けた隣の席に座った。
 コートを脱ぎ、被っていた帽子とサングラスを外すと、思いの他長い黒髪が姿を現した。癖のないきれいな黒髪である。
 それまで多弁に語っていた相馬が、開いたままの口を閉じることさえ忘れたほどだ。
「よう、いい女だな。あんた」
 席に着く前から、慧一は平然と口説き始めた。
 切れ長の目ヂカラのある瞳が、色気を湛えたまま慧一に注がれる。並みの男ならそれだけでイッてしまいそうであった。
「なあ、あんた。一発やらせてくれよ」
 女はクスリと小さく笑った。
「ずいぶんとストレートなものの言いようね」
「俺は回りくどいことが苦手なんだ」
「出会って2秒で口説かれたのは初めてだわ」
 女に対しては常に誠実である。それが花柳慧一という男であった。
 ただしそれは、個としての女性に限定したことではないのだが。
 女は、雨宮雫と自分を紹介した。
 如何にも水商売系の名前だ。当然ながら本名ではないだろう。つまり、ワケありということだ。
 ワケありといえば、こんな夜更けにイイ女がひとりで、こんな場末のバーに入ってくる時点でワケがないはずがないのだが、そこはエチケットとして訊かないことにする。
 その夜、ふたりは男と女の関係になった。
 枕語りに聞いた話では、銀座のクラブで働いていたところ、店のオーナーに言い寄られて逃げ出したとのことだ。そのオーナーというのはヤクザの組長で、変態のサディストらしい。
 もちろん、すべてを信じたわけではないが、仕事は仕事である。思い切り同情したふりをして、歌舞伎町ではとびきりのクラブを紹介してやった。それでも銀座の一流店とは比べようもないレベルではあるが、雫はそれなりに気に入ったようで店の雰囲気にも十分満足しているようであった。
 慧一はもちろんアフターケアも欠かさない。
 機嫌伺いを口実に、度々枕を並べる。今日も今日で馴染みのホテルで一発抜いた後、寿司でも食おうかと歌舞伎町の東通りを歩いているところを、数人の男達に囲まれたのである。
 連れ込まれた所は竹田不動産という不動産会社の事務所。歌舞伎町に数点の貸ビルを持つ管理会社だ。
 もちろんそれは表の顔で、裏へ回れば指定暴力団芦田組の歌舞伎町出張所である。
 新宿歌舞伎町は日本一ヤクザの多い街である。わずか0.34ヘクタールほどの面積に600からのヤクザ事務所が点在する。ヘタをすれば、ひとつの貸ビルに複数のヤクザ事務所が同居するというケースもある。それだけ身入りのいい街だということであろう。
 しかるにその殆どは舎弟企業や出張所で、本店がそこに居を構えることはまずありえない。
 唯一、歌舞伎町に根を張る組織は、歌舞伎町「俥座一家」という構成委員20人ほどの小さな組のみである。花園神社裏に居を構えるこの組は、歌舞伎町誕生当時からこの地を守護する目的で作られた。
 組長は代々「火車の仁吉」を名乗り、歌舞伎町を荒らす外敵からこの土地を守っているのだ。
 それはともかく、そのうちのひとつに慧一と雫は拉致されたわけである。

 なんということはない。
 雫の言っていた「変態のサディスト」という銀座の店のオーナーは、芦田組の組長芦田礼二のことであり、逃げた自分の女を舎弟である竹田忠若頭に追わせたという次第なのであった。
 竹田の言い分は、

 ひとつ、雨宮雫を無事に帰すこと。
 ふたつ、芦田組長に対する慰謝料200万円を払うこと。
 みっつ、花柳慧一は落とし前として指を詰めること。

 と、いうのが事を収める条件だというのだ。
 冗談じゃない。
 百歩譲って一つ目の条件は呑んだとしても、残りのふたつは納得がいかない。そもそも慧一が雫をスカウトした時点では、彼女の事情など知らなかったのだ。知らないことに関して慰謝料を払う意味がわからない。
 ましてや自分はヤクザじゃない。まっとうなスカウトマンだ。なんで古いヤクザ映画みたいに、親からもらった大事な指を切り落とさねばならないのだ?
 考えれば考えるほど腹が立つ。腹が立てば、当然尻の下に潜り込んだ指にも力が入ろうというものだ。
「ひゃっ」
 思わず雫が声を漏らした。
 慧一の指先が、ミニスカートの縁を潜って、パンティの脇から奥に滑り込んだからだ。
(やめて、何をしてるのよ)
 雫は困惑して慧一の耳元に訴えるが、彼は素知らぬ顔で指先を尻の割れ目の奥に進めて行く。
「おい、何をしてんだ?」
 只ならない雫の表情に竹田が気づいた。とはいえ、この状況下でまさかそんな行為が行われているとは、さすがのヤクザ男にしても思いも寄らないらしい。
「なんでもねえよ。ところで、慰謝料の件だがな。少しまけてもらえねえか?」
 ニヤリと笑って、平然とうそぶいた。
「なんだと。てめえ、ヤクザを値切るとは、いい根性してんじゃねえか」
 バン。
 という物凄い音が部屋を揺らした。竹田が両手で、思い切りテーブルを叩いたのだ。
 その瞬間、雫の身体がビクリと震えた。
 弾みで慧一の指が奥深く潜り込んだからだ。
「へえ」
 慧一はうれしそうな声を挙げた。
「すげえな、おめえ。濡れているぜ」
「なんだと?」
 竹田が声を荒らげた。自分が舐められていると勘違いをしたのだ。
「ふざけるな、てめえ。死にてえのか!?」
「死にてえんじゃねえよ、イキたいそうだぜ」
 そこで初めて女の変化に気がついた。全身を小刻みに震わせて、恍惚の表情を浮かべている。
 竹田も周囲を取り巻く3人の構成員たちも、目の前で行われている信じられない光景に目を奪われている。
「あ、ああ、・・・ああイク、イク・・・」
 雫は口から涎を垂らしてヨガっている。もうすぐ絶頂を極めようとしているのは、誰の目にも明らかだった。
「ほら、イッちゃえよ、イケ、いけ」
 調子に乗って慧一は更に責め立てる。
 目の前に繰り広げられる、絶世の美女のあられのない姿に、一同は完全に言葉を失って、股間は例外なく大きくそそり立っていた。
 突如、雫の声調が変化した。
「あ、だめ。いく!!」
 身体が後方に反り返って、全身に痙攣に似た震えが走った。
 次の瞬間、信じられないことが起こった。
 中指を深く沈めたまま、慧一は左手一本で雫の身体を持ち上げたのだ。
 如何に女性とはいえ、グラマラスな彼女の体重は50キロをくだらない。それを片手で軽々と持ち上げ、あまつか幅1メートルはあろうかという長テーブルを飛び越して、竹田若頭の頭上に放り投げたのである。
 凄まじいほどの腕力である。
 いまだ快楽の余韻を引きずりながら、雫の伸びやかな肢体は、竹田若頭の身体に抱きつき、そのまま椅子もろとも後方にひっくり返った。
 それと同時に慧一は、長ソファごと後ろに倒れこみ、長い両足で後方の男どもを蹴り上げたのだ。
 男たちは懐に呑んだ刃物を抜く間もなく、顎先を蹴りあげられてその場に倒れ込んだ。
 唯一反応を示したのは、テーブルに腰を掛けていた男だけだった。
 彼は素早く懐ろの銃を引き抜くと、有無を言わさずぶっぱなした。しかし、慧一がソファーごと倒れ込んだため、ソファーの陰に隠れて狙いが定まらない。
 一瞬の隙をみて、慧一はソファの下から飛び出すと、銃を持った腕に飛びついた。
 引き鉄に掛かった指ごと、大きな手の平で包み込む。
「ヒッ!」
 男が悲鳴を挙げた。
 引き鉄に掛かった指ごと、慧一が拳銃を引き離したのだ。何本かの指が反対側に折れ曲がった。
 そのまま肩の関節を極め、変形の一本背負いの要領で投げ落とした。
 男は倒れたテーブルの角に腰を打ち付けて動かなくなった。
 顎を蹴られて昏倒した男たちが立ち上がって、抜き身の短刀を構えた時には、慧一の手には奪った拳銃が握られていた。
 竹田はまだ雫にしがみつかれてもがいている。
 そのとき、部屋の扉が開いて、遅らばせながら数人の構成員たちが躍り込んできた。
 だが、時はすでに遅く、竹田のこめかみには銃口が突きつけられている。
「ご苦労さん」
 慧一は雫に向かって片眼を瞑ってみせた。
「・・・まったく」
 雫はあきれた顔で慧一をみた。
「こんどは、あんたが逝きなさいよね」

 花柳慧一は東京荒川の下町で生まれた。
 早くに父を亡くし、母親ひとりの手で育てられた。片親ということもあって、同級生たちのいじめに合い、不遇な少年時代を過ごしている。
 そんな彼が「古法体錬」という古武術にハマったのも、そういう理不尽な想いから脱するためだったのかもしれない。
 体練というのは古来忍者の用いたといわれる体術の修練方法である。すなわち古法体錬というのは、その昔忍者の用いた体術を、現代風にアレンジした格闘技だというのである。
 当時、「古法体錬」の本部道場は両国にあった。
 古法体練の初代道場主である赤城鉄臣は、終戦直後のヤミ市あたりで猛威を振るう愚連隊の一員だったが、のちにアメリカに渡って地元のプロレスラーやボクサーたちと、今でいう異種格闘技戦のようなことをやっていた。ちなみにこの興行には、武藤流空手の武藤雄山も参加している。武藤雄山は英雄的プロレスラーであった力皇山と死闘をくりひろげた伝説の空手家である。
 余談ではあるが、この興行を企画したのは、後に西日本最大の暴力団・住島連合会の設立者のひとりとなる柳川虎吉、通称「ヤサの虎吉」であった。その後、柳川虎吉は国民的演歌歌手・海空かすみを担いで芸能界を席巻することになる。
 彼のプロデュース能力は、当時から卓越したものがあったということだろう。
 一方、武藤雄山の設立した「昇龍館」は、世界的中に支部道場を広げてゆき、やがては世界大会を開くほどの国際空手組織となった。

 話が逸れた、花柳慧一のことである。
 さて、高校在学中に、ただひとりの肉親である母親を病気で亡し、孤立無縁となった花柳慧一は、学校を中退し六本木のジャズクラブでバーテンダーのマネ事を始める。体格に恵まれ格闘技の経験もあった彼は、その腕ぷしを認められ店の用心棒のような仕事をも請け負っていた。
 そのころ出会ったのが、後の彼の人生に大きな影響を与える万丈東天という男であった。万丈東天は当時六本木あたりを闊歩していた、「半グレ」と呼ばれる不良集団のアタマだった人物である。
 万丈は学生時代、国体で総合優勝を勝ち取ったこともある柔道の達人だった。得意技は大外刈りで、そのあまりのスピードと威力に彼の大外は「死神の鎌」と呼ばれ、大いに恐れられたものであった。
 国体での祝勝会の席上、彼は酒に酔って傍輩の学生らに怪我をさせている。彼はその理由をがんとして語ろうとはしなかった。もっとも畳の上ではない、路上で「死神の鎌」を仕掛けたのだ、どんな理由があろうとも許されることではない。
 万丈東天は柔道界から追放されることになった。
 一方、当時まだ十代だった慧一は「一撃(ワンパン)の慧」と呼ばれており、どんな相手でも一発のパンチのみで倒すとの伝説をもっていた。並外れた体格と、古法体練仕込みの「掌打」がそれを可能にしたのだ。
 掌打というのは、拳ではなく掌の底の硬い部分、いわいる掌底部で打つ打撃技である。拳で硬い頭部を叩けば、自分の拳を痛める恐れがあるが、掌打ではその心配がない。また、手の平で包み込む様に衝撃を与えるため、打撃は振動となって身体の奥深くを破壊するのだ。
 一撃伝説を耳にした万丈は慧一に興味をもった。
 英雄並び立たずという言葉があるが、ふたりは当然のようにぶつかった。
 決闘の場所はニッサンウィスキー工場の跡地、現在の六本木ヒルズのあたりである。
 勝負は一瞬でついた。
 慧一の「掌打」を交わした万丈の「死神の鎌」が、彼の意識を刈り取ったのだ。
 気がついたとき、慧一は病院のベットの上にいた。眼を開けた彼の目の前には万丈東天の顔があった。
「よう」
 眼が合った時、彼は少し照れたようにハニカミながら言った。
「いい、パンチだったぜ」
 そういう万丈の右頬は真っ赤に腫れあがっていた。慧一の「掌打」がかすめた跡だ。
 正に紙一重の勝負だった、と彼は言うのである。
 もしも最初のパンチを外すことが出来なかったら、そのベットに寝ているのは俺の方だったろう。
 慧一は万丈が寝ずの介護をしてくれたのだということを知った。それから彼は、万丈東天を実の兄貴のように慕うようになるのである。

 万丈と慧一のコンビは、もはや無敵であった。
 六本木界隈に出没する愚連隊、ヤクザ、果ては不良外国人たちも彼らの姿を見かけると、雲の子を散らすように逃げまどった。
 慧一がトレードマークである白いスーツにアイボリーホワイトのソフト帽を身につけ、肩で風を切るようになったのはこの頃からである。
 ふたりは六本木の夜を謳歌した。
 そのころ万丈は「六本木愚連隊」というチームを組んでいたが、相棒であるはずの慧一はとうとう最後までそれに属することはなかった。群れることを嫌う慧一の美学はこんな所にも現れている。
 ところで当時、万丈東天には、慧一のほかに親友と呼べる人物がいた。後に歌舞伎町「俥座一家」の幹部となる岩倉政孝。
 通称「鬼政」である。
 岩倉政孝と万丈東天は同期であり、大学こそ違えど同じ柔道の道に青春を燃やしてきた仲間であった。学生柔道では無類の強さを発揮し、このふたりのどちらかが学生日本一を手にするだろうと皆思っていた。
 得意技は背負投げ。
 万丈の大外刈りに対して、岩倉の背負いは「逆巻」と称されていた。いつ技に掛けられたのかも分からず、気がついたときには天と地とが入れ違っている、というところから付けられた呼称である。
 最終学年の春、彼らは国体の決勝であたるはずであったが、結局ふたりの対決は実現しなかった。
 準決勝で岩倉の放った「逆巻」の受身を失敗した相手選手は、脳に強い衝撃を受けて半身不随になってしまったのだ。彼は責任をとって柔道着を脱いだ。
 万丈が祝勝会で荒れたのは、岩倉の行為を非難されたせいだという人もいる。万丈の意見では、真剣勝負である以上、受身を取れなかった相手の選手が悪い。岩倉には何の落ち度もなく、従って彼が決勝戦を棄権する必要はないというのだが、それが今回の乱闘の原因になったかどうかはわからない。
 その後岩倉政孝は新宿に流れ、俥座一家に身を寄せることになる。
 岩倉は腕や度胸だけではなく面倒見のいい、いわいる親分肌の持ち主だけあって組の中でも人望は厚かった。
 武藤流空手の異端児といわれた佐藤光盛。大阪の喧嘩屋・久我涼太。プロレスラー崩れの富司武士などの名うての豪の者が、彼を慕っていわいる「鬼政軍団」を構成するようになるのだ。
 思えば岩倉政孝も万丈東天も、似たような境遇にあると言えなくもない。同じ柔道家の道を志しながらも、一方はヤクザの構成員になり、一方は愚連隊のアタマになった。

 事件はそんな時分に起こった。事の発端は些細なことだったに違いない。
 新宿のヤンキーたちが六本木にやってきてトラブルを起こしたのだ。それに対して仲裁に乗り出した六本木愚連隊のメンバーを、彼らは待ち伏せしてフクロにしたのである。
 怒った万丈は、愚連隊のメンバーを連れて新宿に殴り込みを掛けた。
 それで済めば大したことはなかったのだが、そこに乗り出したのが歌舞伎町の守護神を自認する俥座一家だったのだ。
 六本木愚連隊は許せない。
 と、いうところでチームに追い込みを掛けた。歌舞伎町の俥座一家といえば、数ある新宿の極道組織の中でも極めつけの武闘派である。まともに戦えば、六本木あたりの半グレ集団の手に負える相手ではない。
 とはいえアタマの万丈としては簡単に引くわけにはいかない。大体、もとを正せば新宿側に責任がある。彼らが六本木で騒動を起こさなければ、こんなことにはならなかったのだ。
 そう言って決戦を覚悟した。
 その一指触発の状況を救ったのが岩倉政孝だった。
 岩倉はかってのライバルの為に親分である六代目仁吉に直談判をし、万丈東天の現役引退を条件に事を荒立てないことに話をつけた。
 それで万丈はチームを去り、やがて潮が引くように六本木愚連隊は、消滅の一途をたどるのである。
 しかしこの裁定に、ただひとり反発したものがいた。他ならない花柳慧一である。
 喧嘩両成敗という言葉がある。なんで万丈ひとりが責めを受けねばならないのだ。
 そう言って鬼政に噛み付いたのだ。
 もとより慧一は六本木愚連隊のメンバーではない。少なくともこの問題に関して彼は無関係だった。本来なら彼の口出しすべきことではないのだ。しかし彼はどうしても我慢がならなかった。彼の美学がそれを許さなかったのだろう。
 花柳慧一はただひとりで、俥座一家の本部事務所に殴り込んだ。関東最強の暴力団事務所に、だ。
 もちろん彼はその場で半殺しにされた。が、それだけだった。通常なら東京湾に沈められていてもおかしくないところである。それが半殺し程度ですんだというのは、慧一の度胸と無鉄砲さを俥座一家の猛者ども認めたということであろうか。
 岩倉は入院中の慧一を見舞い。
「よう、ボウヤ、威勢がいいな。どうだい、俺らんところに来んかい?」
 と言って俥座一家への入所を誘った。当時、俥座一家へ入ることは簡単な事ではなかった。余程の実力と任道を認められなければ、なれるものではなかったのである。
 それに対する慧一の答えは。もちろん、
 ふざけるな。
 の、一言だった。
「俺は死んでもヤクザにはならない」
 それが彼のポリシーだったのだ。
 答えを聞いて、岩倉はニヤリと笑った。それもまた、この男らしいと思ったからだ。
 俥座一家への勧誘は諦めたが、兄弟分だけにはなってくれ、と岩倉のほうから言い出し、半ば強引に新宿へ連れ出したのだ。

 だから、今回の騒動も岩倉が間に入ってケリをつけた。
 芦田組の芦田礼二に直接ワビを入れたのだ。俥座一家の若頭に頭を下げられては、さすがの芦田といえど鉾を収めるしかない。
 如何に関東最強とはいえ、極城会傘下の芦田組とは組織の規模が違う。
 本来なら、
「なめるな!」
 と一喝したいところだが、俥座一家の後ろには兄弟組織の浅草「だるま組」が控えている。だるま組は西日本最大の暴力団組織・住島連合会と継っているのだ。ヘタに事を構えて、東西暴力団同士の戦争になっても敵わない。
 泣く泣く承知するしかなかった。
 然るに表面上はそれで済んでも、腹のうちは憎しみで燃え上がっている。
 それが、これから起こる事件の火種になっていくのであった。

 それから半年が経ったが、大都市・新宿にはいろいろなことが起るものだ。
 そのうちの最も最たるものは、池袋のチーマー軍団「豊田連合」の台頭であろう。豊田連合というのは、池袋あたりを根城にした族の集合体であった。
 キングと呼ばれたチーマーのヘッド城田興毅が、各地に群がるカラーギャングらを統合して造り上げた組織である。もともと豊島連合は、豊島北区を縄張りにしていた極城会系金村組に対抗するために出来た組織である。その金村組は、渋谷のクラブ「マリンフォース」で起きた暴動事件を切っ掛けに生じた住島連合会系の暴力団一心会との抗争のため、急速にその勢力を失っていった。
 その間隙を突いた豊島連合は、ついに金村組を解散に追い込むのであった。
 その頃、歌舞伎町ではある種の「お香」が、ちょっとしたブームになっていた。ハーブの香である。通常、香とはその香りを楽しむものだが、その香には薬理作用があり、覚せい剤のような精神作用を生じるものであった。
 とはいえ麻薬や覚せい剤のようなものではない。成分的にはあくまでハーブの類なのであった。法律の裏をかくものとして、それは「脱法ハーブ」とよばれた。

 弟分の相馬誠が注進に及んだとき、花柳慧一は一番街のキャバクラにいた。
 最近スカウトした女の子の御機嫌伺いに立ち寄ったのである。というのは口実で、実は単純に女の子の元に遊びにきたのであった。
 というのは、今回スカウトした女の子は近年まれに見る逸材であると、彼は見て取ったからだ。ただ単に容姿が優れているだけではなく、明るく気立てがいい。男心が分かるのか、実に細かいところまで気が回るのだ。
 聞けば青山学院の学生だという。確かに頭はいいのだろうが、それを鼻にかけて無用な上昇志向に囚われないところがいい。普通こういう娘は新宿のキャバクラなどは鼻にもかけない。いきなり銀座のトップを狙うものだ。
 しかしこの娘は新宿のこの地から、一歩一歩上り詰めていくつもりらしい。慧一のようなスカウトのプロからすると、そういうところに好意を感じるのだ。この娘を育ててみたいと、そんなふうに思うのである。
 その娘は「百合愛」という源氏名をもらい、たちまちの内に店のナンバー1に成り上がった。
 その娘を隣に侍らせて水割りを酌み交わしているところへ、誠が飛び込んできたのであった。
「アニキ、こんなところに居たんですかい。探しましたよ」
 相馬誠は地方の高校を中退して、家出同然に新宿へ流れてきた男である。最初はホスト見習いのようなことをやっていたが、気が利かないところがあるせいか、すぐにそこをクビになり歌舞伎町あたりをウロウロしているところを慧一に拾われた。
 拾われたと本人は思っているのかもしれないが、もちろん慧一にそんなつもりはない。ゴールデン街でヤクザ者に絡まれていたところを助けてやったら、犬コロのように懐いてきただけだ。もともと慧一には誰かとつるむという発想はないのだ。
 その誠が血相を変えて詰め寄って来たのだ、隣の百合愛も驚いて目を大きく見開いた。
「どうしたの? マコトくん。そんなに慌てて」
「どうもこうもありませんよ、ユリアさん。ブクロのやつらが2丁目でレッド・ローズの連中ともめているんです。ちょっとヤバイ雰囲気ですよ」
「ふうん」
 慧一は百合愛の腰に手を回しながら、興味なさそうに言った。
 レッド・ローズというのは歌舞伎町のホスト達が、地元のヤクザや外国人ギャングたちから自分たちの縄張りを守るために立ち上げた組織だ。リーダーの東条銀河という男は、「歌舞伎町の帝王」と呼ばれたホスト界のカリスマで、いくつものホストクラブを経営している。
「そういうことは、俥座一家の仕事だろ。俺には関係ないよ」
「でもね、ケイさん。ブクロからは例の城田興毅が出張って来ているそうですよ。池袋のキング、ちょっと興味をそそられるじゃないですか?」
「ほう」
 確かに池袋のカラーギャング達を制したというキング城田には興味がある。噂では雲を突く大男だというが、どんなものか。
「そいつは確かに面白そうだな」
「でしょう。一丁、キング見物にいきましょうよ」
 ということで、ゴールデン街を飛び出して2丁目に向かうことになった。

 歌舞伎町の2丁目はいわいるホスト街である。大久保公園の裏辺りから、北は職安通り、西は明治通りに囲まれた狭い地域に数十のホストクラブが軒を連ねている。
 3番通りの交差点に多くの人々が集まっている。ヤジ馬たちの中央に、黒服のホスト軍団とヤンキースタイルの豊島連合が睨み合っている。ひときわ目立つ大きな男が噂の城田興毅だろう。
 慧一が近づくと顔なじみのスカウトマンが近寄ってきた。
「ご苦労様です。ケイさん」
「おう。どういうことだ?」
「はい。ブクロの連中がホストの客にアイス(覚せい剤)を配ったそうで、それでレッド・ローズが怒っているようです」
「アイス? ハーブじゃねえのかい」
「いえ、覚せい剤だそうです」
「ふーん。そいつはいけねえな」
 慧一と誠は人ごみを掻き分けて、にらみ合う両者の間に入った。
「よう、銀河。大変だな、手伝うか?」
 慧一はホスト軍団の先頭でガンを飛ばしている東条銀河の肩を叩いて話しかけた。東条は城田から目を離さず応える。
「いらぬお世話だ。お前らスカウト連中の手は借りねえよ」
「まあ、そう熱くなるな。・・・ふうん、お前がブクロの城田か、でかいな」
 慧一は珍しい動物を見る目つきで城田をみた。城田はそんな慧一を、ジロリと見下ろす。慧一も人よりは大きな体格をしているが、城田はそれより頭ひとつは確実にでかい。
「なるほどな」
 城田は得心したという表情でニヤリと笑った。
「新宿に「ワンパンの慧」とかいうキザな野郎がいると聴いたことがあるが、てめえがそうか。どうだい、一丁俺とやってみるかい?」
「ま、やめとくよ。今日はてめえのツラを観に来ただけだからな」
 慧一はトレードマークの白いソフト帽を直しながら言った。
「怖いか?」
 ふん。
 鼻で笑う。
「笑わすな。そんなにやりてえってんなら、相手はそこに来てるぜ。赤鬼どもがな」
 人混みが割れて4~5人の屈強な男たちが現れた。俥座一家の鬼政軍団だ。
 先頭の岩倉政孝は慧一を押しのけるように城田興毅の前に近づくと、ほとんど顔を触れ合わせんばかりの近さでその目を覗き込んだ。城田の巨体と殆ど遜色はない。凄まじいばかりのガンの飛ばし合いだ。
 勇猛、豪腕。獰猛なグリズリーを連想させる迫力だ。これが歌舞伎町の守護神、鬼の政孝こと岩倉政孝である。
 さしものキングも、その迫力に押されて後方に後さずった。関東最強の鬼政軍団では相手が悪いと思ったのだろう。
 まあ、無理もないと、ちょっと慧一は気の毒になった。
 自分が俥座一家に殴り込んだときも、この鬼政の威圧感には正直キンタマが縮み上がったものだ。
「別にあんたたちと事を構える気はないですよ、岩倉さん。いずれ挨拶に伺いますから」
 城田はそう言って踵を返した。その背中に鬼政が声を掛ける。
「おい、城田。この歌舞伎町で勝手をしたら、ただじゃ置かねえぜ」
 城田は後ろ手を上げて軍団を引き連れ去っていく。
「ケイ、東条。この件は俺に任せろ。お前らは手を出すんじゃねえぞ」
 慧一と東条は頷いたが、もちろん豊島連合はそれでは収まらなかった。新種の覚せい剤「ロボ」はあっという間に歌舞伎町を席巻し、渋谷から品川近辺まで蔓延し始めたのである。その背後には東日本最大の暴力団・極城会の存在があることは明らかだった。
 それを機にひがし東京の有力暴力団が集結し、六条委員会を立ち上げて極城会の襲撃に備えることになるのである。
 そんな時分、あの事件は起こった。
 渋谷抗争。
 戦後最悪の暴力団抗争である。極城会系薩田組のヒットマンらが、対抗する住島連合会系の一心会統括本部長桜木晃一郎と、赤龍会の赤沼虎次郎会長を強襲した事件である。襲撃に失敗した彼らは渋谷駅のスクランブル交差点に侵入し、そこへ駆けつけた城田一味らと一心会・赤沼組、そして機動隊との間に激しい銃撃戦を繰り広げた事件であった。
 急を聞きつけた慧一もその現場に駆けつけた。そして彼の目の前で、特別機動隊SATの狙撃チームにより、城田興毅は頭部を打ち抜かれて息絶えるのであった。
 
 そんなおり、雨宮雫から、久しぶりに連絡があった。
 つい一昨日のことだった。
 電話があったのは新宿3丁目のバー「クリスタル」。慧一と雫が初めて出会った店であった。
 その日彼は仕事終わりの一時を、いつもの店でくつろいでいた。それが彼のいつもの習慣であったからだ。
 雨宮雫も当然、彼のその習慣を知っていた。だからこの店に連絡の電話を入れたのだろう。
「慧一。わたし、覚えている?」
 顔馴染みのバーテンダーから、コードレスホンを受け取った慧一の耳に雫の声が飛び込んできた。
「よう、久しぶりだな」
「ごめんね。あなたには助けてもらったのにお礼も言わないで」
 電話の向こうで雫は物憂げな声を漏らした。
 あの事件の後、雫は歌舞伎町から姿を消した。あれほどの事があったのだ、それも無理はないと慧一は思っている。
「いいさ、別に。で、どうした、元気でやってるのか?」
「まあ、元気と言えば元気なんだけどね」
「今はどこに居るんだ?」
「銀座よ」
 ちょっと意外な気がした。もともと彼女は銀座から逃げてきた女なのだ。
「元の鞘に収まったってわけか?」
「まさか。あの店にはもう戻れないわ。今は別の場所でお店を出させてもらってるの」
「店を出させてもらう? 新しい旦那ができたってことか?」
「まあ、そんなところね」
「ふうん。そいつは目出度いな」
 慧一は心からそう言った。
「本気で言ってんの、それ」
「もちろんだよ。一度でも抱いた女には幸せになってもらいたいからな」
 電話の向こうでクスリと笑う気配があった。
「相変わらずね、あなた」
「で、今日は何の用だい? まさか、お惚気を聴かそうってんじゃないだろう」
「ちょっと相談したいことがあるのよ、あなたに」
「相談?」
「あなたにとっても損のない話のはずよ」
「ふうん」
「で、会いたいんだけど、明日広尾のグランドホテルでどうかな?」
「わかった」
 それで慧一は9ヶ月ぶりに雨宮雫と逢うことになった。雫は懐かしがって、仕切りと酒を勧めた。慧一は話の内容が気になってはいたが、彼女は中々それを切り出さない。
 幾つかの店を重ねて行く間に、次第に慧一の意識は朦朧とし始めた。
 最後に覚えているのは、彼女の部屋で服を剥ぎ取り、ベットに倒れ込んだところまでだった。
 そして。
 翌朝、雨宮雫はベットの中で死んでいた。

第2章 神宮匠

 ここでこの物語のもうひとりの主人公を紹介しなくてはならない。
 神宮匠(じんぐう・たくみ)。
 警視庁捜査一課強行犯第4捜査係の刑事である。階級は巡査。
 生まれは栃木県の宇都宮である。父親は宇都宮東署の地域課を長年に渡って勤め上げた。その影響もあってか、匠は上京して警察学校にはいることになるのである。
 もっとも彼が警察官になろうと思ったかどうかは定かでない。というより高校卒業時点で、彼は将来における希望がなかった。彼には自分という人間が何者であるのかよくわからないでいた。
 彼が将来の目標を警察官に置いたのは、最も身近な職業に身を委ねただけだというのが相応しい。それが父親の希望であるなら、それもいいかも知れないと思った部分も確かにある。母親を早くに亡くし、ずっと父親ひとりの手で育てられた彼には、父親に対する負い目のようなものがあったのかも知れない。
 それほど彼は小賢しい少年だった。
 ひとより秀でた能力を有しながら、彼は決してそれを表面には出さなかった。学問にしろスポーツにしろ、彼の能力を持ってすれば数段上のクラスを狙うことも不可能ではなかった。しかし彼は適当な所で自分の能力を抑えようとしたのだ。
 自分の真実の姿を表すことが怖い。それは自分の本性を晒すことが怖いということでもあった。
 神宮匠は、そんな卑屈な少年時代を過ごしてきた。
 やがて、板橋警察署の地域課に卒配された彼に、あの運命的な事件が起こる。卒配2年目の春であった。

 当時、板橋の常磐公園前交番に勤務していた彼は、同僚と地域の巡回連絡を行っていた。数ヶ月前からこの地区で発生している連続放火事件の注意勧告のために、地域の事業所や家庭を訪問して回っているのである。
 その最中、たまたますれ違ったひとりの男に違和感を覚えた。微かに灯油の匂いがしたのである。
 20代後半であろうか、グレーのジャージの上下を着て、ペタンコのサンダルをだらしなく引っ掛けている。その裾の辺りに染み込んだ茶色の染みは油のあとだろうか。
「橋本さん」
 匠は隣の先輩巡査に声を掛けた。当時の相方は、定年間際の巡査長であった。
「いまの男、なんか灯油の臭い、しませんした?」
「灯油の臭い? いや、気づかなかったがな」
「自分、行ってくるっす」
 躊躇する先輩巡査を尻目に、ジャージ姿の男に声を掛ける。男は制服姿の警官に声を掛けられ、あからさまな警戒の色を示した。
「何だ、何の用だよ」
 匠はにこやかに話し掛ける。
「ちょっと済みません。最近この近辺りで放火事件があって、注意勧告しているんすが」
「だから何んだってんだ」
 男は両手をポケットに突っ込んだまま言った。そんな男の顔に鼻先を近づけ、匠は先を続ける。
「あなた、油臭い匂いがするっすね」
「ジ、ジッポウの匂いだろ」 
 男は右手をポケットから取り出した。その手には四角い金属のライターが握られている。左手はまだ、ポケットに入れられたままだ。
「なるほど。ライターのオイルの匂いっすか。・・・でも、あなた、タバコは吸わないっすよね」
「な、何を言うんだ? タバコくらい吸うよ」
「そうすか。でも、あなたの服からも口からもタバコの匂いはしないっす。あなたの着ているそのジャージ、かなりくたびれているように見えるんすが、おそらくそれは部屋着っしょ。日常的にタバコを吸うなら、服にタバコの匂いが染み込んでいてもおかしくはないと思うんすが」
「お、俺は普段、部屋ではタバコを吸わないんだよ」
「そうなんすか。でも、ライターを持っているってことは、当然タバコも持っているっしょ? そのポケットに入れられたままの左手に、タバコの箱が握られていたら、何の問題もないんすがね」
 匠はにこりとして詰め寄った。意を介した同僚の巡査は、退路を塞ぐように後方に回った。
「わ、わかったよ」
 男は諦めたように言って、左手をゆっくりとポケットから出した。その手に握られていたのは、銀色に輝く飛び出しナイフであった。
 男は取り出したナイフで匠の胸を突いてきた。匠はそれを予想していたかのように、上体を逸らしてナイフの切っ先を交わした。
 男はその一瞬の隙をついて道路を横切り、向かい側のコンビニエンスストアに逃げ込んだのだ。

「しまった、匠。追うぞ」
 ふたりの警官がコンビニの出入り口に駆けつけた時、入れ違いに店からは数人の客が飛び出して来るところだった。突然現れたナイフの暴漢に驚いて逃げ出して来たのだろう。その人たちと扉のところで揉み合いになって、僅かに時間をロスしてしまった。
 男はその間に、店員の女の子の喉元にナイフを突きつけ、カウンターの奥に籠城した。
「来るな、来ると。この女をブッ殺すぞ」
 男の目は完全にイッている。
「橋本さん」
 匠は落ち着いた声で、突然の事態に度を失っている先輩巡査に声を掛けた。
「本部に連絡、お願いするっす。ここは自分がなんとかします」
 新任であった神宮匠には、もちろんこのような事態に直面するのは初めてだった。しかしこの時の彼は、自分でも驚くほど冷静であった。後にそばに居た橋本巡査長の語ったところによると、そのときの彼は唇に微笑すら浮かべていたという。
 匠はその場で制服を脱ぎだした。
「自分が人質になるっす。その娘さんを離してください」
「ふざけるな。警官なんかが人質になるか」
「そりゃ、そうっすよね。もちろん、タダとは言いません。あなた、拳銃はお好きでしょう?」
「なんだって?」
「自分の拳銃を付けるっす、それでどうっすか?」
 とんでもないことを言い出した。
「おいおい、匠。何を言ってるんだ」
 橋本は声を荒立てるが、匠は無視してホルダーの拳銃を外し始めた。
「本気か? 貴様」
 驚きながらも、男の顔には明らかに喜色のいろが浮かんだ。
「もちろん。その娘と引き換えっす」
 匠は銃口を持ち、グリップを相手に向けてゆっくりと歩き出した。男の視線は手元の拳銃に釘付けだ。
 男の手がグリップに掛かった瞬間、匠は素早く女子店員の身体を引き寄せ、出口のほうに突き飛ばした。その身体を橋本巡査が受け止める。
「匠ィ!!」
 橋本が叫んだとき、匠の身体は暴漢に抱き寄せられ、その頭部には彼の拳銃が突きつけられていた。
 橋本巡査の連絡により、応援の警官隊が到着したのは、正にその瞬間だった。
「なんという、馬鹿な事を・・・」
 警察車両から姿を現した、捜査課長は言葉に詰まった。
 神宮匠巡査はこめかみに銃を突きつけられ、コンビニのカウンターの奥に監禁されていた。
 やがて周囲を包囲した機動隊の投降勧告が始まった。
「お前が人質にしているその男は警官だぞ。お前、警官を傷つけたらどうなるか、わかっているのか? 警察は絶対にお前を許さない。全国の警察官を敵に回すことになるんだ。どこにも逃げる場所はない。どこへ逃げても、俺たちは絶対にお前を捕まえるぞ」
 橋本巡査長は鬼気迫る勢いでそう説得した。
 そのとき、彼が目にしたのは信じられない光景だった。
 暴漢に拳銃を突きつけられたまま、神宮匠は退屈そうに口を開け、大きくあくびをしたのだ。この危機迫った状況の最中で、ある。
 どんな神経をしているのだろう。
 周囲を取り囲む警官隊はもとより、暴漢の男ですらも一瞬呆気に取られてなす術を忘れた。
 その瞬間だった。
 匠は素早く銃を持った男の腕を捻り上げた。
 ダーン。
 という銃声が轟いた。
 匠が腕を捻り上げたため、男は天井に向け銃を発射したのだ。
 わっ。
 という声とともに、機動隊が一斉に飛びかかった。もみくちゃの中、匠は男から取り戻した拳銃を手に平然と橋本巡査の前に現れたのだ。
「ありがとうございます。先輩」
「馬鹿野郎!」
 頭を下げる匠の頬に、橋本の鉄拳が飛んだ。匠は床に転がり気を失っていた。
 後に橋本は匠に聞いた。
「なんでやつが拳銃に興味を持っていると判った?」
「気づきませんした? 奴はずっと橋本さんの腰の拳銃を見てたっすよ。最初、自分はその視線に気づいたんす。そしたら、灯油の匂いがしたんで、これは怪しいと思ったんっすよ。銃を奪うとしたら、若い自分より、橋本さんのほうが奪いやすいっすからね。放火の次は拳銃を奪って、騒ぎを起こしたいと思っていたんじゃないすか」

 結果的に匠の活躍のお陰で、連続放火犯を逮捕することが出来たのである。そして、あれだけの籠城事件を引き起こしながらも、誰ひとり犠牲者を出すことがなかったのである。
 しかしそれは、あくまで結果的に、であった。
 一歩間違えれば匠は殺されていただろうし、彼の渡した銃によってもっと沢山の犠牲者が出たかもしれないのだ。
 査問委員会ではその点が問題になった。どのような理由があろうとも、警察官が容疑者に拳銃を渡していいはずがないからだ。
 通常なら懲戒処分でもおかしくないところであったが、警察本部としてもそれは難くい状況になった。というのは、彼の取った行動が一種の英雄的行為として報道されたからである。世間というのは前後の状況より、こういう刺激的な英雄行為を支持するものだ。また報道するマスメディアにしても、そのほうが売上のアップに繋がることがわかっているから、ことさら彼を英雄として祭り上げようとした。
 そんな世論の中では思い切った処分は中々難しい。結局彼の処分は訓告処分に留まった。
 その後、匠は警視庁刑事部に移動となった。
 異例の栄転である。
 本庁の刑事部長が熱烈に彼の移動を希望したのだが、その裏には先輩である橋本巡査長の強烈な押しがあったという。
 キャリアである鶴田刑事部長がまだ新卒の頃、この橋本巡査長の上司として赴任したことがあった。そのときに「現場」とは何かを教えたのが、この橋本巡査長であったのだ。だから彼は、今だに親子ほど年の離れた初老の巡査長に敬意を払っているのである。
 彼はその橋本からこう言われたのだという。
「自分の退職の代わりと言ってはなんですが、神宮のやつを預かってくれませんか。あいつは無茶な奴ですが、必ず部長のお役にたてる男です」
 鶴田刑事部長は黙って頷いた。
 この刑事部長も相当変わった男だったらしい。何より彼は凶悪犯に銃を突きつけられ、平然とあくびをしているそのクソ度胸に興味を持ったのである。
 こうして刑事、神宮匠は誕生したのであった。


 
 その話を持ち込んできたのは地域課のある刑事であった。匠とは警察学校で同期だった男である。
 同期会という飲み会の席で、雑談の合間にでた他愛のない話であった。
「実はな夕べ、ちょっと変わった事件があったんだ」
 と、その刑事は仲間の刑事に話していた。その話を隣に座っていた匠は偶然小耳に挟んだのである。
 話によると、その日深夜の1時頃にガラスの割れる音がするという近所の住民の通報があり、彼が駆け付けるとマンション8階の部屋の前面のガラス戸が割られており、寒風が吹き込んでいたのだという。
 部屋の住民は藤井佳子という銀座のクラブのホステスで、店のお客さんとちょっとした喧嘩をしたのだという話であった。彼女は常連客だったその男といい仲になって、この部屋を買ってもらったらしい。
「まあ、よくある男女の痴話喧嘩なんだが、変わっているのは部屋のガラス戸全部がコナゴナに割られていたんだ。部屋といってもたっぷり30畳はありそうなでかいリビングで、ガラス戸だって10枚くらいはありそうだった。それが一枚残らず割られていたんだからな。どれだけ激しい痴話喧嘩をしたんだよって話だ」
「銀座の女を妾にして、そんな大きな部屋に住まわすって、相当な金持ちだな」
 同僚は酔った顔を赤らめて言った。
「そっちに喰いつくのか」
「ちょっとその話、もう少し詳しく聴かせてほしいっす」
 匠はふたりの同期生の話に割り込んだのであった。

 その話を聞いたとき、神宮匠はすぐに数日前に起こった暴力団の抗争事件に思いがいった。
 通称、渋谷事件。
 暴力団抗争史上最悪とも称される事件である。その現場に匠は居合わせたのであった。
 そのとき彼は渋谷区管内で発生した殺人事件の捜査に駆り出されていたのだが、その最中にたまたま居合わせたスクランブル交差点でこの騒ぎに巻き込まれた。相棒であった刑事とも人混みに巻き込まれて離れ離れになった。
 さてどうしたものかと考えていた所へ、駅前交番の警官らしき男が目に入ったので声を掛けた。
 「なんだ、君は?」
 眉を潜めてその警官が訊く。無理もない。その時の匠の服装は、黒っぽいTシャツの上に派手な柄のジャケットを引っ掛けただけだ。おおよそ刑事の格好ではない。しかし自由人の彼にしてみれば、これでも精一杯のフォーマルということになる。
 口の利き方も社会人っぽくはない。なんと言うかそこいらのチンピラみたいだ。
「自分、こういう者っす」
 匠は内ポケットからバッチを取り出して観せた。
「本庁刑事部の神宮匠っす」
 刑事部捜査第一課、殺人犯捜査専門の部署である。警視庁の中でも特に花形の部署であった。
 殺人犯捜査の刑事がなんでこんな所に?
 制服警官はますます怪訝な表情をした。この男、本当に捜査一課の刑事か?
「別件の捜査の応援でこの辺りに居たんすが、いやはやとんでもない事になってるっすね」
 なんかとぼけた男である。その口調にはどこかこの事態を楽しんでいる雰囲気がある。
「借りを返しに来か? え、赤沼よ」
「それはこっちのセリフだ」
 道路を挟んだ向かいに陣取ったヤクザ達の中から、一際大きな声が聴こえた。それに応えて、ダンプカーの屋根に登った巨大な男が声を張り上げる。
「へえ。あれが城田興毅すか」
 噂には聴いたことがある。豊島連合の城田興毅は雲を突く大男だという。
 面白くなって来たな。
 不謹慎とは思いつつ、ついつい口元が緩んでしまう。
 いつの間にか警察車両が交差点を固めている。渋谷警察だけではあるまい。本庁の機動隊のみならず、周辺の所轄署からの応援も駆けつけているのであろう。見慣れない捜査官たちが、野次馬たちとの間に2重3重の垣根を築いている。
「河上巡査部長」
 名前を呼ばれた。それで隣に制服警官が、河上巡査部長という名前であることが判った。名前を呼んだ警官には見覚えがあった。渋谷署の警備部長で確か高橋とかいったはずだ。
「君は?」
 高橋警備部長は隣に立った匠に気がついた。
「本庁刑事部捜査第一課強行犯第4捜査係の神宮匠巡査っす」
「なんで本庁の刑事部がいるんだ?」
 彼は頭を掻きながら前述の説明を繰り返した。高橋もやや疑わしそうな顔つきをしたが、それ以上は詮索せずに制服警官のほうに向かった。
「まあ、いい。それより河上巡査部長、状況を説明したまえ」
「はい。それが・・・」
 河上巡査部長はそれまで彼が見聞きしたことを、しろどもどろに報告したが、あまりに慌てている為にまるっきり要領を得ないものであった。
 ふたりが駅前交番に設けられた仮説の捜査本部に向かうのを尻目に、匠は興味を持って交差点のほうに近づいた。
 そこに離れ離れになっていた相棒の刑事を見掛けたからである。
「高藤さん・・・」
 声を掛けながら、はっとした。先輩刑事の肩ごしに目的とする男の顔を見つけたからだ。
 それは人混みの遥か彼方。交差点の向かい側で体格のいい、初老の男となにやらヒソヒソ話しを交わしている。
「おお、匠か。捜したぞ」
「あれあれ」
 匠は交差点の向こうを指差して必死に叫んだ。しかし、人々の怒号や叫び声に遮られてうまく伝えられない。
「あの、向こうに居るの、松沼じゃないっすか?」
「何だって? 聴こえないよ」
 4日ほど前、渋谷区初台の居酒屋で事件は起こった。
 夜更け頃、店に入ってきた二人連れの客のひとりが、いきなり連れの男の頭部を飲みかけのビール瓶でしこたま殴りつけたというのだ。最初ふたりはにこやかに話していたという店員の証言から、その話の中で何やら腹に据えかねる発言があったのであろうと想像できるが、それにしてもいきなり殴りつけるというのはどういうことだろう。
 傷害の容疑者の身元は付近の防犯ビデオからすぐに知れた。
 松沼泰治。
 極城会系暴力団鳥鎧組の下部組織・波濱興行の構成員である。被害者は沼田出版という小さな雑誌社の記者であった。週刊問題芸能というゴシップ誌を発行している。
 最初は傷害事件として扱われていたものが、翌日に死亡が確認されると殺人事件として渋谷署に捜査本部が立ち上げられた。
 そして本庁の一課からは強行犯捜査4係の彼らが出張してきたというわけである。
「あの野郎か」
 匠の指差す方向を眺めて、高藤刑事は声をあげた。手配写真で確認するまでもなく、そこには探し求めていた松沼泰治の顔があった。すぐにも駆けつけて手錠(ワッパ)を噛ませたいところだが、何分この騒ぎの最中である、容易に近づけるものではない。
「ねえ、先輩。あの松沼が喋ってる相手、誰っすかね?」
 人混みを捌くのに閉口している高藤に、ひどくのんびりした口調で匠が話し掛ける。
「ああ、あれは確か一心会の時任だな」
 高藤は強行犯に移動になる前は組織犯罪対策課にいた。だから地域の暴力団には詳しいのである。
 時任重光。
 指定暴力団一心会の統括副本部長。ヤクザ流にいえば若頭といったところであろう。
「しかし妙だな。一心会といえば住島連合会の系列組織だ、それがなんで敵対する極城会系の波濱興業組員と話をしているんだ?」
 極城会と住島連合会は日本を二分する巨大暴力団組織だ。
 高藤が呟いた時、一発の銃声が轟いた。
 振り向いた匠の目には、ダンプカーの屋根上に陣取った城田興毅の頭部から、真っ赤な血しぶきが噴水のように吹き上がる光景が飛び込んできた。104ビルの窓際から特別機動捜査隊のスパイナーが射撃をしたのである。
 反対側の歩道に設置されたサーチライトの逆光の中、城田のシルエットはスローモーションの映像をみるようにゆっくりと倒れ落ちていった。
「実に美しいっすね」
 匠はうっとりとするように言った。


 
 結局、松沼はその場では取り逃がすことになったが、翌日に情婦宅に潜んでいるところを逮捕された。
 ひとつの事件が解決しても、捜査一課は忙しい。匠たちはすぐに次の事件に駆り出されることになった。
 今度の事件は赤羽駅の構内で起こったヤクザ幹部の転落事件である。
 被害者は広域暴力団極城会系鳥鎧組の筆頭若頭である円道寺健壱という男である。
 事件が起きたのは京浜東北線の大宮方面行きホームであった。数人の構成員たちと共にホームの端を歩いていた彼は、突然進入してくる電車に向かって倒れ込んだのだ。
 彼の身体は電車とホームの間に挟まれて半分程に縮まっていた。無論、即死である。
 ホームに居た数人の目撃者の証言によると、彼は自ら吸い込まれるように電車に倒れ込んだという。もちろん、その時手を触れたり接近したりした人物はいない。もしもそのような人間が居たら、護衛役の構成員たちが阻止しないはずがないからだ。
 現状からみて、自殺もしくは事故死と考えるのが自然な事といえた。
 しかし捜査本部としては、簡単に自殺や事故死としては終らせられない理由があった。というのは、少し前に起こった渋谷でのヤクザ抗争に、この円道寺が大きく関わっていることが次第に明らかになってきたからだ。
 渋谷抗争の背景には、城田興毅率いる豊島連合による覚せい剤蔓延事件がある。そしてその豊島連合に覚せい剤「ロボ」を卸したのは、鳥鎧組の円道寺だという疑いが浮上してきたからだ。
 その円道寺が不信死を遂げた。
 ふたつの事件の間には何かしらの因果関係があるのではないか?
 そう考えた当局は異例の捜査本部を池袋警察に置いたのである。そして神宮ら強行犯第4捜査係の刑事たちもそこに派遣されていた。
「とはいえ、鳥鎧組そのものはロボには係わってはいないすよね」
 と、匠はいう。
「ああ、円道寺は鳥鎧組本部には秘密裏に事を推し進めていたようだな」
 話し相手はもっぱら先輩の高藤刑事だ。単独行動を好む匠は、刑事部屋でも鼻つまみ者扱いである。唯一気を許せるのは、同郷の先輩であるこの高藤進次郎刑事くらいしかいない。
「単独で動いたってことは、何らか腹に含むものがあるっちゅうことっすよね」
「ああ、ブクロ署の組織犯罪捜査課(ソハン)の話しによると、円道時は密かにクーデターを計画していたらしい。すでに内堀は埋まっており、あとは本丸を抑えるだけというところだったらしい」
「つまりクーデターを企んだ円道寺は鳥鎧組本体に暗殺されたちゅう話しすか?」
「ああ、上はそう考えているらしい、それが事実なら鳥鎧組を解体に追い込むいい機会になると思っているようだ」
「しかし、事件自体はどうみても殺人である可能性はないっすよね」
「そうなんだよなあ」
 高藤は頭の後ろで手を組んで言った。

 匠が目をつけたのは前述した、円道寺の事件が起こる前日に、北赤羽のマンションで起こったあるちょっとした騒ぎであった。
 藤井佳子という女性のマンションのガラス戸が、広域にわたって割られていたという事件である。
 彼はこのちょっとした事件に興味を持った。ほとんどそれは、彼の第六感だったといってもいい。
 彼は「赤羽」という地理的ポイントに目をつけたのだ。
 赤羽は鳥鎧組本部のある川口と、円道寺の事件があった池袋駅の中間である。そして円道寺健壱の自宅は埼玉県の和光市である。
 神宮匠という男は刑事という仕事を趣味でやっている傾向がある。彼の行動様式は面白いか面白くないかで決定するようであった。
 本命の事件とは関係のなさそうなちょっとした事柄に妙に興味を覚えるのだ。そういう彼独特の行動様式が、周囲のいわいるまともな刑事仲間にとっては勘に触るところなのである。
「刑事を舐めるな」
 と言われる所以である。
 必然的に彼の周囲からは人が離れていく。自然、単独行動が多くなった。
 彼は単独でこの些細な事件を探りはじめ、その結果マンションの近くで数発の銃弾を発見した。つまり藤井佳子の部屋のガラス戸は、何者かの銃撃によって破壊されたものだということである。
 匠の想像は現実のものとなりつつあった。
 通常なら、この時点で捜査本部に報告をあげるところであろう。しかし彼はそれをしなかった。
 ひとつには今の時点で、この事件と円道寺の事件との間に関連性が見られないという点がある。そして何より、単独行動を好むという彼自身の気質がそこにはあった。彼はこの興味深い事件を「ひとり占め」にしたかったのだ。
 彼は単独で藤井佳子の周辺を洗い出した。
 佳子の勤め先のクラブを尋ねると、彼女はこのところ店を休んでいおり、連絡を取ろうにも携帯は解約され、その行方はようとして知れないという。店の者の話では、彼女と連絡が取れなくなったのは、北赤羽の事件のあった直後だということであった。
 つまり、事件の直後に藤井佳子は姿を消したということになる。
 佳子にパトロンのような男はいなかったか、と問うと。
「そういえば、2ヶ月くらい前にパパにマンションを買ってもらったといっていたわ」
 そう答えたのは、彼女と仲の良かったホステスである。
「この中にその男はいないすか?」
「あら、この人、よく来るお客さんだわ」
 匠の示した数枚の写真の中から彼女が選んだのは、鳥鎧組の円道寺健壱の写真であった。
 それでふたつの事件が繋がったのである。
 しかしそれが分かったからといって、事件解明につながるとは思えない。円道寺健壱の死は自殺ということでケリが付きそうな雰囲気であるのだ。
 複数の目撃者の話では、円道寺はホームのほぼ中央から、ふらふらと吸い込まれるように列車に向かって倒れ込んだというのである。その時の状況を鑑みるに他殺はもちろん、事故死という選択肢もありえない。
 自殺である以上、どんなに疑わしくとも事件性はないといえる。捜査本部も解散されるであろう。
 捜査本部では円道寺の女性関係すら洗っていなかった。
 だから、例え円道寺の情婦が事件の前日に奇妙な事件に巻き込まれていたとしても、捜査本部としてはまともに取り上げてはくれないであろう。匠は単独で捜査を続けざるを得なかったわけだ。
 もっともそのほうが、彼にとっても好都合であった。彼はただ好奇心に釣られて捜査をしていたに過ぎない。組織に縛られ、チームワークに乗っ取ってする捜査を、彼は好んではいなかった。

 その翌日、神宮匠は高校時代の友人の所へ電話を掛けた。
「やあ、つきっち。ひさしぶりっす」
「・・・なんか用?」
 とはいえ彼の元に電話を掛けてくる相手は匠くらいしかいない。
 月山俊樹というその男は高2の夏から不登校になった。原因はいじめである。
 もともと大人しく人付き合いが苦手な彼は、いじめの標的には格好の相手であった。1学年の頃はそうでもなかったが、2学年に上がると殆どのクラスメートは彼を無視し、リーダー格の何人かはこぞって暴力を加えた。そして夏休みが開けると同時に彼は学校に来なくなったのである。
 それはそれで良かった、と匠は思う。
 無理やり学校に連れ出せば、きっと彼は自らの命を絶っていたことだろう。
 月山が学校に来なくなってからも、匠だけは頻繁にメールのやり取りをしていた。目的はゲームである。
 月山俊樹はゲームの腕だけは抜群だったのである。
 彼も、口を開けば学校にいけとしか言わない親や先生とは違い、純粋にゲームの話しかしない匠に、次第に心を許すようになっていた。そしてそれは現在も続いている。
 現在、月山俊樹は引き籠りのハッカーになっている。そして時に頼まれて匠の仕事を手伝うようになったのだ。
「いつものように、人探しを頼みたいっす」
「誰?」
「藤井佳子という人なんすが」
 そして匠は、彼女が勤めていた銀座のクラブで得た個人情報を与えた。運転免許番号、クレジットカードの番号、そして給料振込の口座番号などだ。クラブのような水商売系では、通常の企業より個人情報の収集には厳しい。キャストを店に縛り付けるのが目的である。
 当時は現在ほど個人情報の流出にうるさくはなかった。匠は半ば脅すようにして、それらの情報を手に入れたのであった。
 数日して匠の元に連絡があった。
「藤井佳子というのは偽名だね。運転免許も偽造みたい」
「まじすか?」
「銀行口座のハックは手間がかかったけど、そこからアマミヤシズクという女の口座に全資金が流れているね。クレジットカードのほうも同じだ。アマミヤシズクはアタリだね」
「アマミヤ? それが藤井の本名すか?」
「さあ、それはわかんない。もしくは全く別の人物か」
「面倒な女っすね。そっちの住所、わかるすか?」
「ああ、南青山だね」
 月山俊樹は優秀なハッカーであった。

 さすがにこれはヤバイことになった。
 と、花柳慧一は思った。
 突然の訪問者が、選りに選って刑事とは。
 もちろん簡単にドアを開けて通すわけにはいかない。ベットの上には雨宮雫の死体があるのだ。何万語の言い訳を費やしても、間違いなく殺人容疑で逮捕されてしまうだろう。
 では、逃げるか?
 ここはマンションの8階である。逃げるといっても簡単にいくわけがない。
 そうこうしているうちにまたインターポンが鳴った。
「藤井さん。いや、雨宮さんですか。それとも同伴の男性の方でも構いません、とりあえずここを開けてはもらえませんかね」
 なんだ、俺のことがバレている?
「隠してもムダっすよ。居ることはエントランスの防犯ビデオで確認済すから」
 刑事の口調が急にチャラ系になった。
 それにしても防犯ビデオまで確認しているとは、見かけによらず抜け目のない男だ。
 やれやれだ。
 慧一は覚悟を決めた。
 ゆっくりとした動作で、ドアを細めに開く。
 ニコリと笑う童顔が半分ほど見える。チェーンロックが掛かっているのでそれ以上は開かない。
 男は扉の隙間から警察バッジを提示した。
「本庁の神宮いいます。藤井さんはご在宅ですか?」
「藤井?」
「ああ、雨宮さんでしたっけ」
「どっちもいねえよ。今はな」
 面倒臭そうに慧一は応える。
「今は? 以前はいらっしゃったとか?」
「さあな。俺は何も知らねえ」
「失礼すが、お名前は?」
「花柳ってんだよ」
「このお部屋は雨宮雫さん名義になっているようすが、雨宮雫と藤井佳子は同一人物らしいんすよ」
 雨宮雫と藤井佳子が同一人物? どういうことだ、それは。
「立ち話もなんすから、ここ開けてもらえませんかね」
 慧一はちょっと考えた。ここで開けることを拒否しても、こいつはここを立ち退かないだろう。見たところひとりのようだが、刑事は必ず複数人で行動するものだ。こいつの相棒がどこかにいて、仲間に連絡をとっている時分であろう。そうすると、どうあっても逃げ切れるものではない。
「わかったよ」
 慧一は覚悟を決め、一度ドアを閉めてから大きく開け放った。
 神宮刑事は身をかがめて、興味深そうに周囲を見回しながら中に入ってきた。白っぽいTシャツに派手な柄のなジャケット。想いのほか小さな男であった。どうみても刑事には見えない。そこらへんのチンピラ以下だ。
「ほうほう。なるほど。なるほど」
 嬉しそうに部屋の中を見回しながら、ずかずかと奥へ入っていく。
 そしてベットルームで雫の死体を見つけると、
「あらあら、これはこれは」
 と大げさに言ったが、別段驚いた様子もなく。白い手袋をはめながら、喜々として死体の様子を眺め回している。
 慧一はそれを見ながら煙草を取り出した。
「ま、信じらんねえだろうが、一応は言っておくぜ。俺がやったんじゃねえ」
「なるほど。あ、済みません。現場は一応禁煙なので」
 匠は首の扼状痕を見ながら言った。
 チッ。
 舌打ちして慧一は煙草をしまう。
 匠は雫の手を取って、細い指先を眺めている。きれいにネールされた指先だ。
 それから死体から離れて、ぐるりと部屋中を見回す。
「この部屋、なんか生活感がないすね。この人、本当にここに住んでいるんすか?」
 確かに匠の言うとおり、雫の部屋は驚くほど家具類が少ない。ベットとソファセット、それにテレビがあるくらいだ。クローゼットの中の洋服も同年齢の女性のものとしては格段に少ないといっていい。しかも彼女は銀座の女なのだ。この数倍の量の衣類があってもおかしくはない。
 キッチンにも調理道具は殆どない。冷蔵庫の中は何本かのビールと、ハムやチーズといったツマミ程度のものが幾つかあるだけだ。傍らの食器棚には空のコップや食器類が並んでいるが、ほんんど使われてはいないのだろう、微かに埃をかぶっている。
「さあな。部屋に入るのは昨夜が初めてなんでな、俺はしらねえよ。それより・・・」
 そう言って慧一はいきなり匠の胸ぐらを掴んだ。
「てめえ、さっき俺の言ったことをどう聴いていやがんだ?」
「さっきって?」
「ふざけんな。俺はこの女を殺ってねえって言ったろう」
「ああ、そのことすか。わかってますよ。そんなこと」
 匠は慧一の腕を振りほどきながら言った。
「わかってる、ってお前・・・」
「あなた、左利きっしょ。この人を殺ったのは右利きの人間すから、あなたは犯人じゃないことになるす」
 慧一は左腕で匠の胸ぐらを掴んでいたのだ。
「なんで右利きだとわかるんだ?」
 匠は無視してベランダに向かうガラス戸に近寄った。ベージュのカーテンを開く。
 ガラス戸の外は細長いベランダである。その向こうは地上8階の虚空である。
 どうやら匠はガラス戸の鍵を調べているらしい。
「首を絞められた後をみればわかるっす。普通首を絞める時は、逆手のほうでロープを固定して、利き手でグイと絞めるもんです。だから利き手とは逆の方向に大きなダメージが掛かるもの。この人は左側によりダメージが掛かってるっすから、犯人は右利きの人間ちゅうことすよ」
 思い出したように慧一の問いに答えた。
「なるほど」
 慧一は驚いた。見掛けによらずこの男、なかなかに抜け目がない。
「しかし、それは背後から絞めた場合だろ?」
 慧一はふと思いついて聞いてみた。匠はほう、というように慧一を振り返った。
「意外と頭がまわるっすね。確かにいまのは背後から首を絞めた場合で、正面から締めれば、利き手側の首にダメージが残るっす。でも通常人の首を絞める場合、背後から絞めるものですよね。正面から死んでいく人間の顔を見ながら、絞める奴はまずいないでしょう。そんなことをするのは、死に顔をみて喜ぶ変態か、サイコパスくらいなものっす。あなたは変態さんすか?」
「おちょくってんのか、てめえ!」
 慧一は頭に血が登ったが、匠は無視して部屋の片隅に転がっているロープの束に目をやった。
「これが凶器というわけっすね」
「ああ、お前さんの言う通り女は首の骨を折られている。余程強い力で絞められたんだろうな」
「それより普通、首を絞められたりすると、首に掛かったロープを外そうとして、その辺を爪で掻き毟るものす。でも、この被害者の首の周りにはそんな痕跡はない。爪にも引っ掻いた跡はないっす」
「どういうことだ?」
「おそらく犯人は、そんなことをするヒマすら与えず、一瞬で絞め殺したちゅうことすね」
「瞬殺かよ」
 慧一は息を飲んだ。
「プロっすね」
「殺し屋の仕業か?」
「ところであなた、大した度胸っすね」
 匠は慧一に向き直った。その瞳はまだ笑っている。
「普通、こんな立場に陥ったら平静じゃいられません。頭の中が真っ白になってパニくるのが普通っす。でも、あなたは最初から冷静でした。余程場慣れしているのか、あるいは・・・」
「何が言たいんだ?」
「あなた、いい体格してるっすね。こう見えても自分も刑事す。ある程度格闘技の経験もあるっす。その自分が、あなたに胸を掴まれたとき、まるで抵抗ができなかった」
 じわり、匠の身体から気が膨れだした。いつの間にか顔つきも変わっている。
「ふん」
 匠の身体から溢れ出たものに応えるように、慧一の身体からも何かしらの気が湧き出すようだ。
「さっきの文言を訂正するっす」
「さっきの・・・なんだって」
 慧一の放つ気は、殆ど殺気に近いものだ。
「通常人の首を絞める場合、背後から絞めるものっす。正面から、死んでいく人間の顔を見ながら絞める奴はまずいない。そんなことをするのは、死に顔をみて喜ぶ変態くらいなものっす。さっきの自分の推理は、あくまで背後から首を絞めた場合の話しす。正面から締めれば、利き手側の首にダメージが残るっす」
「どういうことだ? 俺が死んでいく人間の顔を見て喜ぶ変態だとでも言いたいのか!」
 慧一は怒りを顕に叫んだ。
「いいえ。あなたがプロなら、利き手とは逆の手で絞めるかも知れない」
「ふざけたことを抜かすな!」
 ふたりは無言でしばらく睨み合った。やがてプッと吹き出したのは、匠のほうだった。
「冗談。冗談っすよ。あなたがプロなら、殺人の現場にいつまでもいるわけがないっす。この人、死んでから数時間は経っているすからね」
「ちっ。脅かすなよ」
 うふふ。
 と、笑って匠はソファに腰を降ろした。
「では、そろそろ聞かせてもらいましょうか。どうして、こんな事態に陥ったんすか?」

第3章 桜木晃一郎

 一心会の桜木晃一郎統括本部長は、渋谷神泉の一心会本部で副本部長の時任重光と向き合っていた。
 桜木は3日ほど前に病院を退院したばかりであった。道玄坂の料亭で薩田組のヒットマンに撃たれたのである。
 桜木は右肩と腕、そして横腹に銃撃を受けていた。肩と腕の銃創は組織を貫通していたが、右腹の銃弾は体内に残っていた。それを摘出して体力が回復するまでに時間が掛かったのである。
 薩田組は一心会の属する住島連合会と対立する極城会の系列組織である。一見するとそれは、東西の暴力団同士のちいさな抗争にも思えた。しかしそれは、「渋谷抗争」と呼ばれる暴力団抗争史上最悪の抗争事件に繋がったのであった。
 その渋谷抗争の悲劇から、すでに2カ月半の月日が流れていた。
 桜木が病院のベットで過ごした2カ月半の間にはいろいろなことが起きた。その最たるものは、渋谷抗争の首謀者とみられる鳥鎧組の円道寺健壱の自殺であろう。鳥鎧組は極城会系の暴力団組織の中では、薩田組の上位に位置する組織であった。その筆頭若頭である円道寺から、薩田組長に桜木襲撃の指令が飛んだのだと当局はみているのである。
 その円道寺健壱が自殺した。鉄道自殺である。進入してくる京浜東北線の列車に飛び込んだのだ。
 これはある意味、渋谷抗争以上の事件であった。
「あの円道寺が自殺などするわけがない」
 と桜木は言う。
 円道寺には野望がある。すなわち関東最大ともいわれる鳥鎧組を自分のものにすることだ。
 そのために彼は裏で手を回し、6人いる鳥鎧組の最高幹部たちを凋落し、薩田組を使って渋谷抗争を引き起こした。すべては彼の計画であり、それはうまくいっていた。あと一歩で鳥鎧組は自分のものになるはずだったのだ。
 その最中に自殺などとは考えられない。
「警察もそう考えているのでしょう」
 時任は言った。
「しかし、現場の状況から他殺の件は考えられない、というのが当局の見解です」
 円道寺は自ら電車に飛び込んだのだ。目撃者も多数居た。その件に関しては疑う余地はない。
「うむ。確かにな」
 桜木も頷くしない。
「ひとつ、面白い情報があります」
「面白い情報?」
「円道寺にはおんながいるのですが、事件の前日にその女の部屋のガラス戸が全壊したというのです」
「ガラス戸が?」
「はい。女の話では情夫である円道寺と喧嘩をしたということですが、痴話喧嘩の結果にすれば少々派手すぎます」
「その翌日に円道寺が自殺したというのも気に掛かるな」
「まさか情婦と喧嘩して落ち込んだというのでもありますまい」
「調べたのか、その女のことは?」
 桜木の問いに時任は声を潜めた。
「はい。藤井佳子というのですが、一週間程まえに殺害されています」
「なんだって」
 桜木は思わず声をあげた。
「これは果たして偶然といえますか?」
「まさかな。警察ではどうみているんだ?」
「まだ情報は入ってきていませんが、警察でも円道寺の事件と関連づけないわけにはいかないですから、その方向で動くでしょう。ただ、円道寺の事件の捜査本部は解散していますから、表立っては動けません」
「だいぶ面白いことになっているな」
 桜木は愉快そうに笑ったが、時任は苦い顔つきをした。
「ところで赤沼組の二代目が不穏な動きを始めています」
「虎次郎の奴が報復に動いたというのだろう」
 桜木が道玄坂で襲撃を受けた時に、その場に居たもうひとりの男が、赤龍会々長の赤沼虎次郎であった。
 桜木と虎次郎は、料亭での会合の帰りにヒットマンたちの襲撃を受けたのであった。ただ、虎次郎は遅れて店を出たために、かろうじて襲撃を避けることができたのだ。
 もちろん避けたとはいえ、襲撃を受けた事実には変わりがない。しかも同盟者である桜木は傷を負っているのだ。ヤクザの親分としては黙っていられないというのも分からなくはない。
「虎次郎は六条委員会の発動を要請しております」
 虎次郎は品川一帯を支配する赤沼虎之助の実子であり、彼が主催する赤沼組の最高幹部でもあった。つまり赤龍会は赤沼組の舎弟組織であるといえた。
 その赤沼虎之助たち、ひがし東京を束ねる6人の大物組長たちが組織したのが六条委員会であった。関東制覇を目論む極城会に対抗するために桜木が立ち上げた組織である。
 その虎之助は渋谷事件のもうひとりの首謀者として逮捕されているのだ。
 息子の虎次郎としては黙ってはいられない。当然鳥鎧組に対して報復の行動にでるだろう。
 虎次郎はそれを六条委員会を巻き込んでの事にしようとするのである。というのは、六条委員会の規約に「極城会の進行に備えるもの」という条項があるからだ。
 鳥鎧組は極城会の下部組織である。鳥鎧組の攻撃は、極城会の進行と捉えられても仕方がない。
「まあ、さもありなんだな。あの男の性格からすれば、当然そうなるだろう」
 桜木は笑みを残したまま言った。
「笑い事ではありません。すべてはあの男の策略ですよ。今は鳥鎧組や極城会と事を構える時ではありません」
「わかっているよ。それは奴も同じだろう。そう言わねばメンツが立たないからそう言ってるだけだ」
「面子ですか?」
 桜木はニヤリと笑った。
「虎次郎の狙いは赤沼組の跡目だ。いまさら鳥鎧組とどうこう構える気はないだろう」
「では、どうします」
「ま、手打ちだな。鳥越鎧雄に会いに行く」
 鳥越鎧雄は鳥鎧組の組長である。
 一代で関東最大の暴力団組織を作り上げた伝説のヤクザであった。二代目極城会々長高松是政と組んで、公共事業の不正受注で一世を風靡した人物である。
「虎次郎のほうはどうします?」
「お前に任せるよ、適当にあしらってやれ」
「わかりました」
 時任は慇懃に頷いた。

 その頃、花柳慧一の姿は神楽坂にあった。
 パブスナック「東天」。
 もと六本木愚連隊の総長であり、慧一の先輩でもあった万丈東天が開いた店である。
 岩倉政孝との約束に従い現役を引退した万丈は、この神楽坂に店を構えるようになったのである。そしてそこは慧一のように彼を慕う者の溜まり場となっていた。
「いろいろ大変だったようだな」
 開店前のカウンターに慧一は座り込んでいる。万丈は仕込みをしながら弟分の愚痴に付き合っているのだ。
 万丈は肩から吊った右腕を庇いながら、左手で器用にコーヒーをいれている。
 聞けば暫く前に店の階段から落ちたのだという。酒に酔って階段を踏み外したのだ。
 俺もヤキが回ったな。
 そう言って万丈は自虐的に笑ったものだ。
「本当っすよ、万丈さん。あれって一体何だったんでしょう?」
「さあな。誰かがお前に罪を着せようとしているのか?」
「俺にすか?」
 ふたりは一週間ほど前に慧一が巻き込まれた殺人事件について話し合っているようだ。
「しかし、まあ、助かったな。その風変わりな刑事以外だったら、お前、今頃ブタ箱行きだったぞ」
「そうなんすが、どうにも妙な野郎なんすよね」
「その刑事が、か?」
「はい。俺を現場から逃がしたまま、いまだに連絡ひとつよこさない」
「確かにな」
 カウンターの上の新聞には事件の報道がでかでかと載っている。今日の、ではない。一週間前の朝刊だ。
 さすがに一週間も経てば事件の報道も減ってくる。
 南青山で美人ホステスの絞殺事件。
 という見出しで当時の新聞は大体的に書き立てた。センセーショナルな事件だけに、それから数日に渡ってはテレビのワイドショーなどでも大きく取り上げられたりした。
 それによると、事件の発見者は警視庁の神宮匠刑事。別の事件の捜査線上で、今回の事件に遭遇したという。
 事件の内容は彼が見聞きしたことと変わりはない。ただ、その中に慧一の存在だけがきれいに消え失せているのだった。
「あの野郎。一体何を考えているのか」
「確か防犯ビデオに、お前とその雨宮という女の姿が映っていたと言ったな」
 万丈は言った。
「はい。そう言えばあのビデオはどうなったんだろう?」
「恐らく神宮というその刑事が隠したんだろう」
「それって証拠隠滅ってやつじゃないですか」
「まあな。そこまでして、お前を守ったってわけか」
「俺は犯人じゃないっすよ」
「わかっているよ。だから神宮もそうしたんだろう。しかしわざわざ証拠を隠滅までして、お前の存在を隠そうとするとはな。やはりその刑事は何かを企んでいると見るのが正しいだろうな」
「何かって、なんですか?」
「さあな。俺はデカじゃないんでな、さっぱりわからんよ」
 万丈は大げさに頭を振ってみせた。
「ところで、慧一よ。もしその刑事が来なかったら、お前どうしていたんだ?」
「どうって?」
「俺のところに泣きついて来たのかって聞いてんだよ」
「あー。いや。まあ、そうなりますかね」
 慧一は申し訳なさそうに頭を掻いた。万丈は昔のツテもあって、裏の仕事を請け負っている。脅し屋、地上げ屋、占拠屋など闇の仕事人たちとの付き合いも多いのだ。
「それにしても、問題は雨宮雫とかいうその女だな」
「神宮の話だと藤井佳子とも名乗っていたそうですが」
 万丈は頷いた。
「彼女の部屋に生活感はなかったんだろ」
「はい。どうみても若い女の部屋じゃないですね」
「恐らくそこは彼女の部屋ではない。多分、何かのアジトみたいなもんだろうな」
「ということは、彼女は・・・」
「まあ、堅気の人間じゃないな。何かのスパイか、工作員の類だな」
 慧一は息を飲んだ。
「つまり何かしらの組織に属していたと?」
「ああ、確か彼女は芦田組の組長のおんなだと言っていたな」
「ええ。そこから逃げようとしていたのを、俺が助けたんです」
「しかしその神宮とかいう刑事の話では、彼女は鳥鎧組若頭の円道寺健壱のおんなでもあるという」
「なるほど」
 慧一は大きく手を打った。
「つまり、藤井佳子である雨宮雫は円道寺のおんなで、芦田組の内情を探っていたということになるんですか」
「まあ、そういうことだろう」
「ということは、円道寺のスパイであることがバレて、俺のところに逃げてきたということか・・・」
 慧一は考えながら言った。
「まてまて、すると彼女を殺ったのは芦田組の組長ということになる。・・・あの野郎!」
 慧一はいきり立った。
「舐めやがって、タダじゃ置かねえ!!」
「まあ、待て。慌てるな」
 怒りに任せて飛び出そうとする慧一を万丈は止めた。
「なんで止めるんすか。野郎は女を殺した上に、この俺にその罪をなすりつけようとしたんですぜ。黙ってはいられません」
「だからそう焦るなってんだ。単純にそう考えるには、まだ謎の部分が多すぎる」
 万丈ははやる慧一を抑えるように言葉を続けた。
「謎の部分って?」
「彼女がなんでお前を巻き込んだかってことさ」
「なんでって、そりゃたまたま俺がその場にいたからでしょう」
「そうかな。彼女はお前を薬で眠らせた。その後、彼女は一度部屋を抜け出して、その後何者かに殺されたと、そういうことだな」
「まあ、そうですが」
「お前が眠っている間、彼女は何をしていたんだろうな」
「何をって、俺が知るわけはないじゃないすか。眠っていたんだから」
 万丈はクスクス笑った。
「それに殺人犯は、そこに眠っているお前を、何故殺さなかったのか」
「それは俺に殺人の罪をなすりつけようとしたんじゃないですか」
「おいおい。相手は殺しのプロなんだろう。プロがそんな面倒なことをするか。目撃者は後腐れなく始末する、それがプロのやり口だ。ましてやお前はアホのように眠りこけていたんだからな、殺さない方がどうかしている」
「俺は殺しを目撃したわけじゃないですよ」
 慧一は不貞腐れた。
「とにかく、この事件にはまだまだ裏がありそうだ」
「じゃあ、どうするんすか。このままじゃ、腹の虫が収まんないっすよ」
 慧一は悔しそうに言った。
「まあ、そうだな・・・」
 万丈はちょっと考えた。
「とりあえずは神宮刑事だな」
「神宮っすか。あの野郎、なんか気に食わないんですよね」
「そう言うな。俺の見たところ、あいつは相当の切れ者だぞ。いま俺が話した程度のことは、事件現場を一目見た段階で気付いているだろうな。奴が何を考えているのか、それが知りたい。お前、奴と連絡は取れるか?」
「そりゃまあ、連絡先は交換してますがね。俺がというより、野郎のほうが俺の居場所を特定して置きたかったんでしょうが」
 万丈はニヤリとした。
「じゃあ、早速連絡を取ってくれ。俺はそっち方面をあたってみる」
「そっち方面?」
「裏には裏のルートがあるってことさ。そしてその情報は、野郎に取っても損な話じゃねえ。取り引きの条件に使えるかも知れない」
「万丈さん」
「ああ、中々面白いことになってきたな」
 万丈は嬉しそうに言った。

 池袋のクラブハウス「新世界」。そのVIPルームにふたりの男たちが座っていた。
 華やかな大広間とは違って、シックな内装の個室だ。キャストと呼ばれるホステスたちも、ここへは滅多なことでは立ち寄らない。
 経済界の大物や代議士たちが密会に使うには十分な場所であるといえた。
 ひとりは銀縁のメガネを掛けた神経質そうな男。一見して大手銀行の融資担当者のようにもみえるが、実は極城会系暴力団八坂興行の最高幹部・朱雀喜重郎である。
 もうひとりは黒縁のメガネを掛けた長身の男。住島連合会系暴力団赤龍会々長・赤沼虎次郎である。
 どちらもヤクザの親分にはみえない。
 対立する東西2大暴力団の幹部同士がこうして会合を持つこと自体が驚きだが、ふたりはそのようなことを気にする風もなく、穏やかに杯を重ねている。
「万事、うまく運んでいますよ。赤沼さん」
 満足そうにウィスキーのグラスを傾けるのは八坂興行の朱雀副会長だ。
 指定暴力団八坂興行は、もとは山梨県の大月辺りに居を構える地方ヤクザのひとつであった。やがて東日本の巨大組織極城会が頭角を現し始めると、真っ先にそれに合流し組織内での勢力を増していった。
 その大きな要因は組長である八坂繁竹の実務能力の高さにあるだろう。彼はヤクザ者としての資質はイマイチであったが、経理能力には明るかった。自然極城会の経理担当を任され、やがては組織の金庫番と呼ばれるようになった。
 さらに言うなら、現在会長代理を務める朱雀喜重郎の経済ヤクザとしての手腕も、八坂興行の勢力拡大に大いに貢献しているといえよう。彼は数種類のダミー企業を経営し、株価操作で多額の資金を獲得した。更には複数の仕手集団を組織してサギ紛いの融資集めに奔走した。
 そしてその大部分の資金は極城会本部に流れているのだ。瞬く間に鳥鎧組と並ぶ関東最大の舎弟組織に成り上がるのも無理はないだろう。
 鳥鎧組と八坂興行。
 このふたつの組織は、極城会の中でも一二を争うライバルであり、首都圏進出を画策する尖兵隊でもあるのだ。
「こちらも順調ですな。鬼の居ぬ間になんとやら、赤沼組はいずれ私のものになります」
 赤沼組は虎次郎の実父、赤沼虎之助が興した組織だ。虎次郎の赤龍会はその舎弟組織といえる。
 虎之助は先の渋谷抗争の首謀者のひとりとみなされ、現在は東京拘置所に留置されている。トラックで乗り付けた城田一派や機動隊に発砲したのだから実刑は免れないところであった。
「その節は是非とも昵懇にお願いしたいところですな」
 朱雀は言った。
 事実上それで両組織の協定は成ったということだろう。しかし八坂興行は極城会派、赤龍会は親組織である赤沼組と共に住島連合会派で、いわば敵味方の関係にある。ましてや赤沼組は他の6つの組織と連合して六条委員会を設け、極城会系の鳥鎧組とは戦闘状態にあるのだ。その中でのこの協定は、両組織にとっては裏切りとも取れるのではないだろうか。
「朱雀さんのお陰で、親父はムショ入りです。その間に組の方はまとめて置きます」
「それでは私の方も準備を進めて置きましょう」
 朱雀も満足そうに言った。
「それにしても、まさかあの円道寺が自殺をするとはねえ。鳥鎧組の内部工作がうまく行かなかったということですか」
「それはないでしょう。私の得た情報では、円道寺の計画はうまく進んでいたようです。6人いる若頭たちはすべて凋落しており、あとは実行を待つばかりだった。その矢先に自殺とは考えにくいですな」
 虎次郎と同じように、円道寺も鳥鎧組の奪取を計画していたようで、その工作も最終段階まで進んでいたという。その矢先の自殺という結論は、あまりに不自然だと朱雀は言うのである。
「では誰かに殺されたのか?」
「さあ、うちには何の情報も入って来てはいません。少なくとも極城会側の仕業ではないですな。まあ、私の知らないところで、別の計画が進んでいる可能性はありますが。・・・住島さんのほうはどうです。例えば桜木あたりが手を下したんじゃないですか?」
「あの男はそれほど直情的な男ではありません。自分がやられたからといって、衝動的に報復を考えるようなタイプではないということです。殺るなら殺るで、明確なビジョンを持って事を起こすタイプです」
「なるほど。だからこそ、あなたは彼を始末しておきたかった・・・」
 意味深な言葉に虎次郎は苦笑を漏らした。
「色々と面倒な男ですからね。出来ればそうしたかったのですが、仕方がありません」
「桜木はこの後、どうでますかね」
「さあ、私としては六条委員会を動かして、鳥鎧組を追い込みたいところですが、あの男が何を考えているかは不明です」
「とりあえずは足固めですかな」
「鳥鎧組の件はまた後日ということで」
「そうですな」
 朱雀にも異論はないようであった。
「ところで朱雀さん」
 虎次郎は思い出したように話題を変えた。
「新聞で知ったのですが、円道寺のおんなが死んだそうですな」
「藤井佳子ですか?」
「ああ、そんな名前でした。犯人はまだ、分からないようですな」
 虎次郎はニヤリと笑った。
 この男、何を知っているのか?
 朱雀は一瞬ひるんだが、すぐに知らぬ素振りを装った。
「それが何か?」
「いやね。奇妙な偶然というものがあるものだなと思いましてね」
「そうですな」
 ふたりは暫くの間、無言で見つめ合った。頃合を見図るように、虎次郎は腕時計を眺めた。
「おっと、いけない。こんな時間だ。では、私はこれで」
 そう言って立ち上がりかけた虎次郎に、朱雀は声をかける。
「赤沼さん。今後、しばらくは会わないほうがいい」
「ほう。どうしてですか?」
「用心はしたほうがいいということです。お互いに」
 朱雀は意味深な言い方をした。
「なるほど」
 その意味を察したように、虎次郎も大きく頷く。
 ふたりの会話は、正に狐と狸の化かし合いのようであった。

 新宿警察署の組織犯罪対策課は5階にある。組織犯罪対策係、暴力犯捜査係、暴力団対策係、銃器薬物対策係などが混在する大部屋の片隅、古ぼけたソファにその男は横になっている。顔に新聞紙を乗せて、どうやら熟睡をしているようだ。
「先輩」
 部屋の入り口を潜ってきた童顔の男は、キョロキョロと不審な視線を走らせたあと、ようやく目的の人物を見つけたようにソファの男に近づいた。
 標準より小柄な体格。ひょろりとしたやせ型。どことなく頼りない童顔。どう見ても荒っぽさが売りのマルボーの刑事とは思えない。
 週末の昼下がり。忙しい時期だけに殆どの署員たちは出払っていて、部屋はほぼ空っぽの状態だったからまだいいようなものの、多少なりとも人が居たらたちまちの内に部屋の外へつまみ出されていたところだ。
「先輩。起きてくださいよ」
 警視庁強行犯係の神宮匠刑事は眠っている男を揺さぶった。
「う、うーん。俺は夕べ徹夜なんだ。・・・寝かせてくれよ」
 男は薄目を開けて、言い訳をするように呟いた後、神宮の姿に気がついた。
「なんだ。お前。・・・誰だ?」
「自分っすよ、本庁の神宮っす。お忘れですか?」
「知らねえよ、バカ。俺は眠いんだよ」
 新宿署暴力犯捜査係の鬼島隈吉部長刑事は迷惑そうに寝返りを打った。
「それはないしょ、鬼島さん。去年、四谷の外国人殺しの件でお世話になった神宮っす」
「なんだ。あの時のボウヤか」
 鬼島刑事は欠伸を噛み殺しながら起き上がった。大きく後退した頭髪、薄汚れたワイシャツ、ヨレヨレのズボン。徹夜というのも嘘ではないだろう。
 お前、これ持ってるか?
 というように口の前で指を2本伸ばして見せる。
「すんません。自分、煙草やらないもんで」
 ふん。これだから最近の若い者は。
 ボリボリと頭を掻きながらフラリと立ち上がる。
「どこ行くんすか?」
「うっせえな、バカ」
 そう言いながら部屋の外の喫煙コーナーに向かう。当時はまだ、こういう喫煙場所が署内のあちらこちらにあった。コーナーの灰皿からシケモクを見つけると、喜々として火を点けた。
「で、ホンテンの捜一さまが何の用だ?」
「嫌っすねえ、先輩。実は先輩に聞きたいことがあるんす」
「俺はお前の先輩じゃねえよ。まあ、いい。で、何だ? 聞きたいことって」
「花柳慧一って男なんすけど、どこの組の者か知りたいんす。多分、新宿の者だと思うんすけど」
「花柳だあ、あいつは組の者じゃねえよ。フリーのスカウトだ。単なるチンピラだよ」
「チンピラっすか?」
「まあ、ひと口にチンピラって言ってもピンキリだがよ。あいつはまあ、ピンの部類だな。歌舞伎町あたりじゃ、ちょっとした顔だ」
「プロってことはないすか」
「プロ? プロって何のプロだ? お前、野郎の何を探っている?」
 鬼島は怖い顔をした。
「あいつはスジモンじゃねえが、俥座一家の岩倉と繋がっている。下手に手を出せば、えらいことになるぜ」
「鬼政っすか。それはヤバいすね」
 流石に俥座一家の岩倉政孝のことは知っているようだ。
「まあ、先に手を出して来たのは、あっちの方なんで」
「どういうことだ?」
 鬼島は興味を持ったようだ。匠は南青山で起こった殺人の顛末を話した。もちろん、その現場に慧一が居た事は伏せている。
「その事件は新聞で読んだが、お前、まさかホシは花柳だと思ってんじゃないだろうな」
「容疑者ってか、まあ関係者ってとこっすね」
 そして声を潜めて、
「これは自分だけのネタなんで、口外無用でお願いしたいっす」
「ふん。相変わらずスタンドプレーが多いな。だから嫌われるんだ」
「先輩には言われたくないっす」
「うるせえ、バーカ。で、お前はどう考えているんだ?」
「自分、プロの仕業だと思うんすよね」
 そう言って匠は自分の推理を話した。
「ふん、なるほどな。で、帳場の見解はどうなんだ?」
「捜査本部は痴情がらみのもつれと見ているようす。この女の前の男が芦田組の組長ということで、その辺りの痴情がらみじゃないかと」
「芦田組か」
「自分、そのあたりの事情は疎いんすが」
「芦田組は広域暴力団極城会の系列組織だな。極城会ってのは、さすがに知ってるだろう?」
「日本を二分する巨大暴力団のひとつでしょう」
「まあそうだな。その極城会には本部の他に「柱」と呼ばれる四つの組織があるが、そのうちのひとつ八坂興行の下部組織が芦田組だ」
「極城会といえば、例の渋谷抗争にも係わっていると噂されている組織ですね」
「ほう、詳しいじゃねえか」
 鬼島はニヤリと笑った。
「渋谷抗争の首謀者は薩田組といわれているが、その裏では鳥鎧組の最高幹部円道寺健壱が糸を引いているんじゃねえかという話だ。もっともその円道寺も死んじまっちゃあ、死人に口なしで真相は闇の中だがな」
「自分、その円道寺の事件にも係わっているっす」
「なるほど、そういうことか。あの事件、自殺ということでケリはつきそうだが、お前はどう思ってんだ?」
「さあ、先輩はどう思います?」
「馬鹿野郎。あの円道寺が自殺なんかするかよ」
 鬼島は吐き捨てるように言った。
「自分も同感っす。でも、状況はどうみても自殺なんすよね」
 匠は悔しそうに言った。
「で、それと花柳の件と、どういう繋がりがあるというんだ?」
「そこなんすけどね。実はこの女、いまのクラブに務める前に、新宿のクラブに在籍していたそうなんすが、その店を紹介したのが花柳だという話なんす」
「それで花柳か?」
「自分、この事件のホシはプロじゃないかと睨んでいるといいましたが、花柳がそうだということはないですか?」
「いや。あいつは女たらしの馬鹿だが、殺しのプロってことはねえだろう。まあ、それでもあいつは、てめえがスカウトした女は必ず抱くから、まんざら関係がないとは言えんがな」
「でね」
 匠は更に声を落とした。
「これも極秘情報なんすが、殺された女、雨宮雫というのですが、現在のパトロンは自殺した円道寺なんすよ」
「なんだと?」
「どういうことだと思います、これ?」
「普通に考えれば、芦田が円道寺の動向を探るために近づけたということになるのだろうが、・・・待てよ」
 鬼島は考えながら言った。
「芦田組は同じ極城会系の組織ながら、鳥鎧組の系列ではない。系列的には八坂興行の下部組織にあたる」
「八坂興行?」
「4つあると言ったろう。極城会の柱のひとつで、鳥鎧組に匹敵する大組織だ。なるほど、朱雀の野郎が絡んでやがるな。それなら納得がいく」
「朱雀?」
「朱雀喜重郎。八坂興行の次期会長候補だ。あの野郎なら何をやらかしてもおかしくはねえ」
 鬼島は興奮して叫んだ。
「てことはつまり、殺された雨宮はその朱雀ってやつのスパイで、円道寺の動向を探るために送り込まれたというわけっすか?」
「ああ。ちょっと面白れえ話があるんだ」
 鬼島は匠の肩を抱いて、その耳に囁きだした。
「これは公然の秘密なんだが、極城会は西の住島連合会の縄張りにちょっかいを出そうとして、最初八坂興行にその任をまかせたんだ。八坂興行は下部組織の金村組を使って、渋谷に危険ドラックをバラまかせた。それを面白くないと思ったんだろうな、鳥鎧組の円道寺は独断で池袋の豊島連合を使って、八坂興行傘下の金村組を解散に追い込んだ。それが渋谷抗争の始まりといえば始まりだ」
「なるほど。そんなことをされちゃ、八坂興行としても黙ってはいられないっすよね」
「その雨宮って女は、暴力団同士の内部抗争に巻き込まれたってわけさ」
「酷い話す」
「酷いことをするのが暴力団だ」
 匠はふと思いついて言った。
「待ってください。そうなると、円道寺の事件に、その朱雀が絡んでいても、何の不思議もないという話になるじゃないすか」
「ああ。あの事件が殺しなら、やつには決定的な動機があることになるな」
「しかし、円道寺は自殺し、そのもとへ送り込まれた女スパイは何者かに殺された。・・・彼女は誰に殺されたんすか?」
「知るか馬鹿。自分で考えろ」
 ああでもない、こうでもないとしきりに考え込んでいる匠を尻目に、鬼島は早々とソファの寝床に滑り込んだ。
 しかし目が冴えて前のように眠りにつくことが出来ない。
 彼は彼で思うところがあるのだろう。
 まだ匠には漏らしていない情報も、ふたつやみっつはあるようだった。

 そこは豪勢な屋敷であった。
 古寺のような門構えから、玄関までは歩いて5分はたっぷりと掛かる。玄関までの通路の両側には、樹齢50年はくだらないと見られる巨木が植えられている。屋敷の周囲は高い堀壁に囲まれ、その全長は有に1キロメートルにも達するだろう。
 とにかく桁外れに大きな屋敷である。
 関東最大ともいわれる指定暴力団鳥鎧組の組長、鳥越鎧雄の自宅であった。
 玄関前の巨木の前には篝火が焚かれ、黒服姿の男たちが険しい顔つきで立ちふさがっている。
 夜の9時過ぎ。
 屋敷の中には煌々と明かりが灯っている。まるで出入り直前のような緊張した雰囲気が漂っていた。
 その門構えの前に、ひとりの中年の男がふらりと通りかかった。
 洗いざらしのジーンズに薄茶のサマージャケット。ジャケットの下は黒っぽいTシャツだ。酒の入った一升瓶を肩に担いで、飄々と門の方に近づいて来る。
「なんだ、貴様」
 門番の黒服たちが、当然のように彼の周りを取り囲む。
 恐らくは彼らのリーダーなのだろう、ひとりの強面が詰め寄った。ノーネクタイ。シャツの前を外した胸には、ゴールドの金輪が光る。右手の指にもゴツイ指輪が光っている。これで殴られたら、さぞかし痛そうだ。
「よう。鳥越さんは居るかい」
 サマージャケットの男は親しい友人に声を掛けるようにニコリと笑った。
「鳥越さん?・・・親父のことか」
 男は目を白黒させた。泣く子も黙る鳥鎧組の組長を、「鳥越さん」などと呼ぶ男には出会ったことがない。
「誰なんだ、てめえは」
 黒服の男は、酒瓶の男の襟首を掴んだ。
「そう熱くなるな。俺は渋谷の桜木ってもんだよ」
「さ、桜木? 一心会の桜木会長か?」
 渋谷の一心会といえば住島連合会の重鎮で、鳥鎧組の属する極城会とは敵対する間柄だ。おまけに桜木本部長は、同じ極城会系の薩田組がそのタマを狙い、傷を負わせた上に失敗している。
 当然、一心会としても黙ってはいるまい。だから報復の襲撃に備えて、こうして臨戦体制を取っているのだ。
 その敵陣に、当事者の桜木晃一郎が、単独、丸腰で現れるとは。
「鳥越組長と一杯やりにきたんだ。すまねえな。案内をしてくれないか」
 肩に担いだ一升瓶を降ろしながら、桜木は言った。

 鳥越鎧雄は壮健な男であった。
 齢72歳。
 頭髪は短くその7割は白髪だが、三角に尖った顎には強烈な意志の強さが伺える。
 もとは埼玉県熊谷のいち土建業者に過ぎなかったが、ひょんなことから建設族の大物代議士と懇意になり、業界の裏稼業を一手に担うことになった。やがて公共事業を不当に受注して私服を肥やし、その後盟友であった二代目極城会組長高松是政の傘下に加わり、極城会の東北制覇に貢献した男である。
 現在の極城会三代目総会長島崎辰臣の、後見人的な役割を果たす人物でもある。
 若かりし頃には様々な英雄譚を残した男だったが、70を越えた今では昔の威光は感じさせない。
 その鳥越鎧雄が自前の和室に桜木を招き入れた。
 20畳はあろうかという畳敷きの大きな部屋だ。部屋の中には鳥越組長と桜木がサシで向かい合っている。
 他には誰もいない。
「まずは一献」
 畳のうえに胡座をかいて、桜木が一升瓶を傾けた。
「ほう、権田の直実(じきざね)かな。これは懐かしい」
「造古酒です」
 鳥越の地元、熊谷の地酒であった。
 酒を注いでもらいながら、鳥越はクククっと笑った。
「どうしました」
「いやね。あんたと酒を飲むのは始めてだが、大したもんだと思ってよ」
「は?」
「だってよ。戦争中の大将だぜ、俺はよう。その俺のところへ、たった一人で乗り込むとは、度胸があるというのを通り越して、大馬鹿野郎だよ。そこの襖の裏にはチャカを構えた兵隊がうようよしてんだぜ」
 鳥越の言うとおり、襖ひとつを挟んだ隣の部屋には、息を殺した数人の殺気じみた気配がする。屈強の組員たちは組長のひと声で、雪崩をうって飛び込んで来るだろう。
 それを知ってか知らずか、桜木は平然と笑顔をみせた。
「いやあ、戦争といっても、あれは円道寺が仕掛けたものであって、あなたが指示したものじゃない。そうでしょう?」
「・・・・・」
 鳥越は否定も肯定もしない。
 桜木はジャケットを脱ぐと、肩と腹の傷跡をみせた。
「それに怪我を負わされたのは、一方的に俺のほうだ。その俺がいいって言うのだから、それでいいんじゃないですか」
「・・・・・」
「あんただって、円道寺に嵌められたクチなんでしょう?」
「何を知ってるんだ?」
 鳥越は険しい口調で言った。
「クーデターですよ、円道寺健壱の。奴はこの鳥鎧組を乗っ取る計画だった。そうなんでしょう?」
 鳥越は黙ったまま桜木の顔を見つめていたが、やがてフッとため息を漏らした。彼の双肩にみなぎる意地も精力も、根こそぎ吐き出すようなため息だった。
「ああ、そうだよ。笑ってくれ、俺は飼い犬に手を噛まれたんだ」
「6人いる若頭が寝返ったのですか?」
「ああ。円道寺が死んで、6人のうち4人はもとの鞘に戻ったが、2人は離反したままだ」
 屋敷のこの構えは、一心会に対するものというより、その離反した2人の組への備えということだろう。戻ったという4人の若頭たちにも、それなりの制裁が待っているのはいうまでもない。
「円道寺が誰と組んでいたのか、知っているのですか?」
「ああ。是非もねえ」
「そうですか」
 桜木は居住まいを正した。
「それなら、何も言うことはありません。今回のことは手打ちということに致しましょう」
「俺は引退するよ」
 間髪を入れずに鳥越は言った。
「は?」
「手ぶらで手打ちじゃ、誰も納得はしねえだろう。俺の隠居を手土産にしてやるよ」
「いいんですか?」
「ああ、構わねえよ。俺もいい加減ヤキが回ったってことだろう。ここいらで隠居して楽をさせてもらうよ」
 そして裏に向かって手を鳴らした。
 襖が開いて、ひとりの男が現れた。30代後半の鋭い目つきをした男だった。
 男は慇懃に頭を下げた。
「鳥越時貞、俺の甥だ。長いこと極城会本部に預けていたが、今回頼んで帰ってきてもらった。跡目を、この時貞に継がせたいと思う」
「よろしくお願いします」
 頭を下げてもギラギラ光る視線は外さない。桜木は人のいい笑みを浮かべたままだ。
「これはこれは、こちらこそよしなに」
 手を差し出す。視線を絡めたまま、その手を握る。
「頼もしい若者ですね」
 時貞が辞した後、桜木は声をかけた。
「桜木さん。知ってるだろうが、今回の絵を描いたのは八坂興行の朱雀だ」
「はい」
「俺らは協力し合えるということだ」
「わかっております」
 こうして鳥鎧組と一心会の協定は秘密裏に成立した。
 方や八幡興行と赤龍会。そして鳥鎧組と一心会。奇しくもふた組の仇敵同士の協定が成立し、事態は思わぬ方向へと進んでいく。

 それから数日後、開催された六条委員会では、この手打ちが議題に上っていた。
 六条委員会とはひがし東京を代表する、6つの有力組長で構成される協同組織体である。渋谷の一心会、浅草のだるま組、品川の赤沼組、赤坂の大原興行、霞ヶ関の菅原経済研究所、そして足立の明神一家がそれである。
「それにしても」
 大笑いをしたのは、浅草だるま組の熊谷文次郎だ。
 200年前から浅草の地を守る侠客。その末裔がこの文次郎である。住島連合会の東京進出の際には先頭に立って闘った豪の者だ。
「相変わらず無茶なことをしちょる」
 熊谷文次郎が言うのは、単独で鳥鎧組の本部に乗り込んだ、先日の桜木晃一郎の行動についてだ。
 桜木は独自の判断で鳥鎧組との手打ちをまとめてきた。それが今、問題になっているのだ。
 手打ちの条件は、鳥鎧組が強奪した池袋のシマと組長鳥越鎧雄の引退である。
「俺ァ、それで構わねえよ。当事者の桜木がそれでいいと言うんだ。俺らがどうのこうのいう話じゃねえわさ」
 文次郎の意見は筋が通っている。表立って反対する者はいなかった。
「では、鳥鎧組との手打ちの件は済んだということで、池袋のシマは桜木さんが管理するということでいいですか?」
 議長に立った明神一家の最高顧問・西崎あたるが言った時、赤龍会の赤沼虎次郎が立ち上がった。
 服役中の組長・虎之助の代理としてこの席に出席しているのだ。
「ちょっと待ってください。被害に会ったのは、桜木さんだけじゃない。この私も命を狙われているんです。手打ちの件はそれでいいとしても、シマに関しては私にも権利があります」
「赤沼さんのお気持ちは良くわかります」
 桜木はにこやかに言った。
「では、池袋のシマのうち、高田馬場を差し上げますが、それでどうでしょう?」
 場内がザワついた。
 高田馬場は池袋と新宿の中間にある。新宿の隣は渋谷だ。つまり高田馬場を抑えるということは、渋谷と池袋との間に楔を差すことになる。渋谷から西新宿一体に縄張りを持つ、一心会のテリトリーを分断することが出来るのだ。
 そこを抑えることが虎次郎の思惑であったのだが、それを当の桜木自身から言い出したのだ。
 本気か?
 と、虎次郎は思った。
「それで如何ですか?」
 桜木が重ねて訊いた。
 もちろん異存はない。
「それで結構です」
 虎次郎は承知するしかなかった。

「あれで、本当に良かったのですか?」
 後日、一心会の副本部長・時任重光は桜木に念を押した。
「ああ、虎次郎は高田馬場を抑えるために、腹心の飯山三郎を現地に送り込むだろう。虎次郎と飯山とを分断させるのが俺の目的だ」
「なるほど。飯山は虎次郎のブレーンですからね。で、池袋のほうはどうします?」
「本部を移す。ブクロへ、な」
 時任は驚いて桜木の顔をみた。
「池袋なら、鳥鎧組と八坂興行の両方に睨みを効かせることが出来るからな」
「鳥鎧組も八坂興行も信用がならない、と」
「当たり前だろう。ありゃ、極城会だぜ。ついでに高田の飯山を前後から挟むことが出来る」
 ・・・なんと抜け目のない人だ。
 時任は内心舌を巻いた。
「では、渋谷はどうします?」
「何を言っているんだ。渋谷にはお前がいるじゃないか」
 そう言って桜木は蕩けるような笑みを浮かべるのであった。

第4章 御門龍介

 車から降りて、少し歩かされた。5分くらいだと思う。
 身体の両側には巨大な肉の壁。
 日本人ではない。
 アフリカ系黒人独特の体臭が臭うからだ。
 彼らに左右から腕を取られて身動きが取れない。いずれもプロレスラー並の体力の持ち主なのだろう。
 すぐに狭い路地に入った。
 目隠しはされていても、雰囲気は伝わるのものだ。
 エアコンの室外機の濁った空気。中華店の排気口から漏れる汚れた油の臭い。小便臭いアンモニアのかおり。
 前にひとり。後ろにふたり。
 こちらは中国人のようだ。時折交わす言葉は英語だが、中国系の訛りがある。
 先頭の中国人が立ち止まった。
 ギギっと立て付けの悪い、金属の扉が開く気配がした。
 金属扉の中は、人ひとりがやっと通れるくらいの狭い階段だ。奈落へ続くかのように、下へ下へと延びている。
 今度は黒人のふたりが、前後を挟むようにして下へ降った。
 数えてみると階段は全部で13段。決して縁起のいい数とはいえない。
 降り立った先は少し広い廊下のような場所だ。数人の人間の気配がする。
 先頭の男が中国語でなにやら話しかけている。
 廊下の先を右に折れて、左を向いた。そこにも扉があるのだろう。
 扉の近くには、またふたりの人間の気配がする。扉を警護しているのかも知れない。
 今度の扉は木製のようだ。
 ガチャリ。
 と鍵の開く音がして、中へ連れ込まれた。後方で扉の鍵が閉まった。

 そこで初めて目隠しが取られた。
 正面に初老の男が座っている。小さな木製の椅子だ。
 目つきが鋭く。鼻筋が通っている。頬から唇へかけての深いシワは意志の固さを表している。
 男の左右には強面の、スーツ姿の男たちが、椅子にかけた男を守るように寄り添っている。
 そこは周囲をコンクリートで囲まれた20畳ほどの部屋だ。
 部屋の中には、先ほどの3人の他にジャンバーと作業着姿の男。一緒に入ってきたふたりの黒人をいれると、全部で7人の男達に囲まれていることになる。黒人以外は全員が中国人だ。
 いずれも只者とは思えない。
 殺せ。
 と命じられれば、躊躇なく喉元をかっ切るだろう。
「名前は?」
 正面に座った初老の男が言った。いや、正確には左隣りのスーツ姿の男が、老人の言葉を通訳したのだ。
「御門龍介」
 龍介は躊躇なく応えた。
 サングラスは外され、銀色の瞳が男を見つめている。初老の男は小首を傾げている。
「不思議な瞳だな。日本人か?」
 龍介はにやりと笑っただけだ。
 男が人差し指を上げた。それに反応して、黒人のひとりが粗末なパイプ椅子を持ってきた。
 龍介を座らせ、後ろ手に手錠を掛ける。更に両足にも手錠を掛けて、胴体と両膝を太いロープで椅子に縛り付ける。
「やれやれ、厳重だな。周さん」
 笑いながら龍介は言った
「わしの事を知っているのか?」
 周と呼ばれた男は、驚いたような目つきをした。
「そりゃ知っているだろう。中国マフィアのボスだ」
「正確にはボスではないがな」
 周泰徳(ヂュウ・タイデェア)は、中国系マフィア黒手組(ヘイショウズー)の最高幹部のひとりだ。
 ここ、新宿歌舞伎町の中国系マフィアを支配している。
 黒手組は中国南西部に勢力を持つ、神鳴社(シェンミンシェア)という黒社会の下部組織である。神鳴社は中国黒社会の五大勢力のひとつで、日本の関東地区の不法労働者たちを束ねているのは、主にこの下部組織であった。黒社会というのは、中国マフィアのことである。
 以前は同じ神鳴社の白髪会(バイファフゥェイ)という組織が幅を利かせていたが、俥座一家によって壊滅的な打撃を受けると、代わって台頭してきたのがこの黒手組なのである。
「で、お前は一体、何者なんだ?」
「インターナショナル・システム・インテグレータというネット企業会社の社員だよ」
 龍介は言った。

 六本木ヒルズビルのオフィスを出たところで、数人の男達に囲まれ拉致された。
 目隠しをされた状態で車に乗せられ、都内をグルグル引きずり回されたあげく、たどり着いたのがこの地下室だったのだ。
「歌舞伎町の貸しビルといったところか」
 と、龍介は言った。
「何?」
「この場所が、だよ。俺は人より方向感覚が鋭いほうでね。方向転換をした数、走行距離から考えてそのあたりかと踏んだんだが、どうかな?」
「・・・・」
「返事がないところを見ると、図星かい?」
「ただのサラリーマンにしては、ずいぶんといい度胸をしているではないか」
 周老人が初めて日本語で言った。思いのほか流暢な発音である。
 同時に龍介のこめかみに軍用拳銃の銃口が突きつけられた。
「お前が現在の状況を理解出来ない愚か者とは思えないが」
「おいおい、早まるな。わかった、言うよ。表の仕事はネット企業の社員だが、裏の稼業は始末屋だ」
「始末屋?」
「あんたのような人間が、いろいろと面倒を起こした時に、後始末をしてやる代行人だよ。まあ、一般的には探偵だな」
「具体的にはどんなことをしているんだ?」
「まあ、色々だな。揉め事のあと処理、浮気の仲裁、汚職の会計処理。それに・・・」
 声を潜めて、
「場合によれば、死体のあと処理も引き受けてやるぜ。その節には一声かけてくれよ」
「営業なら間に合っている」
 周老人は冷たく言った。
「で、いまはどんな仕事を請け負っているんだ? 組織の周囲を嗅ぎ回るのは何のためだ?」
 龍介は不敵な笑みを浮かべた。
「円道寺健壱という日本のヤクザを知っているかい?」
「極城会系鳥鎧組の若頭だろう。もちろん知っている、商売敵の情報は重要だからな」
「それなら話が早い。では当然、その円道寺が殺された事件は知っているな?」
「確か自殺ということでケリはついているはずだが」
「警察の見解ではそうだが、そうは思わない人間がいるんだ。俺は頼まれて、その周辺を探っている」
「誰に頼まれた?」
「それは言えないな。信用問題だ」
 周はジロリと凄い目つきで睨んだ。
「秘匿義務か。まあ、いい。それより、それと俺たちと何の関係があるんだ?」
「西尾儀一という男がいる」
「西尾?」
 龍介はニヤリとした。
「右翼の大物だよ。右翼とはコンサバ主義ということだ、わかるだろ?」
「もちろんわかるが、それがどうした?」
「西尾義一という男は日本を追われて、北朝鮮へ出国しているはずなんだが、密かに日本に帰国しているというのだ。俺の依頼人はその人物が、円道寺の事件に関係しているんじゃないかと疑っているんだよ」
「貴様。なんでそんなことを・・・」
「なあ、あんた知ってるんじゃないか? 西尾がいま、どこに居るのか?」
「・・・・」
 龍介はニヤリと笑った。
「口を閉ざしたところをみると、知っていると理解していいのかな」
「しゃべり過ぎだな。この世界、お喋りな人間は長生き出来ない」
 周老人は怖いことを口にした。
「おいおい、それはないだろう。あんたが喋れと言ったんだぜ」
「話はここまでだ」
 龍介のこめかみに銃を押し付けている黒人の腕に力がこもった。
「それはやめたほうがいいぜ。まあ、俺は構わないが、周大人が困るんじゃねえか」
 龍介が大きな声で言った。
「シャラップ!」
 黒人が銃のグリップで激しく殴りつけた。
 周泰徳の頭部が激しく揺れ、彼の上体が斜めに傾いた。
 気を失った彼は、それでもパイプ椅子から落ちてはいない。椅子に括りつけられたロープが、彼の身体を支えているからだ。
 その黒人が殴ったのは龍介ではなく、周泰徳の頭だったのだ。
 彼は愕然として、その信じられない光景を眺めていた。
 たった今龍介が縛り付けられていたパイプ椅子には周泰徳が縛り付けられ、龍介の頭を殴ったと思ったグリップは彼の頭を直撃していた。
 何が起こったのか理解が出来ない。
 信じられない光景に、部屋の中にいた誰もが言葉を失っていた。
「あ~あ、だから言ったろ」
 龍介の声が聴こえる。振り返ると、彼はいつの間にか開いた扉の前に立っていた。
「貴様! 何をしやがった」
「勘違いだよ。お前らは俺を縛り付けたと思ったんだろうが、お前らが縛り付けていたのは俺じゃなくて、そこの周じいさんだったんだ。俺は最初からここに立っていたんだぜ。つまりお前たちは勘違いをしたってことさ」
 そんな馬鹿な。
 先程ほどまで、確かに椅子には龍介が縛り付けられていたはずだ。それが今では周泰徳が縛り付けられ、黒人に頭を殴られて気を失っている。
 一体いつの間にすり替わったというのか?
 どうして誰ひとり、その事に気が付かなかったのか。
 龍介は勘違いと言った。自分と周とを間違えて椅子に縛り付けたのだ、と。
 だがしかし、彼らは確かに龍介の身体を拘束した。それはその場に居た全ての人間が目撃している。勘違いや錯覚で済まされる問題ではない。
「オオ、ジーザス」
 黒人が頭を抱えた。
 何やら中国語で叫びながら4人の中国人が飛びかかって来た。銀色に輝く龍介の瞳がそれを迎えうつ。
「フリーズ(停止しろ)!」
 その瞬間、ビデオのポーズボタンを押したように彼らの動きが停止した。
「なんだ、どういうことだ? 身体が動かない」
 男たちが口々に叫んでいる。不思議なことにいくら動かそうとしても、指一本動かせないのだ。
「悪いな。俺を部屋に連れ込んで、拘束するまでに時間をかけすぎだ。術をかける時間は十分にあったぜ」
 にこりともせずに龍介は言った。
 金剛心法。
 身体の自由を支配する古流武術の一種だ。幻惑術、めくらましの類いである。
 いわいる催眠術の一種といってもいい。戦闘状態の敵に仕掛ける催眠が「心法」なのであった。
 心法の極意は「思い込み」にある。
 思い込みにより、通常では有り得ないものをあると思わせたり、逆にないはずのものをあるように思い込ませる。その過程が「心法」なのである。
 人は眼で視るものではなく、脳で観るものだからである。網膜に写った視覚的情報を、一度脳内で画像解析し、それを視覚情報として認識するのである。従って脳を騙すことが出来れば、人は有り得ないものを見たり感じたりするものだ。
 その心理的影響は、時に身体的な影響にも及ぶ。
 例えば暗示の強さによっては、冷え切った金属の棒を身体に当て、「焼き火箸を当てた」と暗示を掛ければ、本当に火傷を負ってしまうこともあるのである。
 足が動かないと命令すれば、身体を動かすことも出来なくなるし、雨が針に変わると言えば、雨だれは鋭い針となって突き刺さるのである。
 心法の創設者は飛鳥奈良時代の修験道者・役の小角といわれている。その後、平安時代の陰陽師の一派、室町時代の幻術士・果心居士、戦国時代の風魔一族を経て、現代ではこの御門家と京都の分家にわずかに継続するのみであった。
 
 廊下に出た時には、入ってきたときに感じた人の気配はきれいに消え失せていた。
 2~3歩き出して、足を止めた。廊下の隅の暗闇に目を向ける。
「ねずみ、か」
「はい」
 暗闇が応えた。依然、人の気配は感じない。
「ご苦労。あとを頼む」
 廊下を歩いて出口へと向かう。廊下には誰もいない。ねずみという、その男がやったのか。
 金属ドアの出入り口を出ると、そこは思った通り歌舞伎町の裏路地だった。
 夜空にきれいな三日月が浮かんでいた。
「先生」
 振り返ると身体の線にぴったりフィットした、黒色のライダースーツを着た髪の長い女が立っていた。
「首尾は?」
「思った通り、西尾は黒手組が匿っていた」
「では」
「ああ、予定通りだ」
「了解しました」
「白銀くん」
 無言で立ち去ろうとするその背中に声をかける。
「は?」
「いや、なんでもない。普段とは違う衣装も新鮮だな、と思っただけだ」
 白銀玉藻は表情のない瞳で、しばらく御門龍介を見つめていた。彼女がその冗談を理解するには、少しのあいだ時間がかかった。

 キャバクラ「グランフェスティバル」は、新宿歌舞伎町の一番街にあった。
 一体、歌舞伎町にはキャバクラは星の数ほどあるが、その殆どは半年から1年あまりに消えてゆき、別の店へと代わっていく。
 そこには経営的問題や当局の締めつけも、もちろんあるが店のバックに居座る、いわいるケツ持ちの力関係が大きく影響している場合もある。そんなキャバクラ激戦区の歌舞伎町で、まがりなりにもグランフェスティバルが老舗のポジションを取っていられるのは、店のケツ持ちが俥座一家であることに他ならない。
 だから花柳慧一は、スカウトした女の子を安心して預けられるのだ。せっかく店を紹介しても、半年足らずで店そのものがなくなっては立つ瀬がないからだ。
 慧一と万丈東天は店の奥のボックスで飲んでいた。他の客の目に付かないように、店の隅に設けられたコーナーだ。いわいる太客が、特別な料金を払ってメニューにはないサービスを受けられる場所である。
 慧一が指名したのは、百合愛という店のナンバー1の女の子である。最近、慧一がスカウトした娘だった。
 入店後わずか数ヶ月で店のトップに躍り出た逸材だ。若くて可愛く、ものおじしない明るさが魅力の女の子だった。
「ね、ね、ケイさん。だれだれ、こちら。すっごいタイプ」
 百合愛はふたりの間に割り込むと、自慢の胸を万丈の腕にこすりつけた。
 もう右腕は吊ってはいない。しかしシーネは取れないようで、皮ジャンの下は固く固定されていた。
「おい、ユリア。やめとけ」
「あー、ケイさん。妬いてんの?」
「バーカ。これから大事な話があんだよ」
 そんな痴話っぽい話をしていると、別の女の子が申し訳なさそうに現れた。
「ユキちゃん。こっち、こっち」
 百合愛が手を振って、慧一の横を指さした。
「この子、ユキちゃん。クリスタルのパクさんの紹介で入った娘」
「ふうん。君、韓国人?」
 クリスタルのバーテンダー・白炳哲(パク・ビョンチョル)は韓国人なのだ。そこから想像したのだが、ユキは小さく首を振った。
「ユキちゃんはタイ人なの」
「ふうん。そうか」
 ユキは貰われてきた猫のように小さくなっている。丸顔の目の大きな娘だ。見た目以上に低年齢なのかも知れない。
「ここだけの話しなんだけど」
 百合愛はケイの耳に口を寄せて、小さい声で囁いた。
「ユキちゃん不法滞在なの。おかあさんが病気でお金を稼がなくちゃならないんだけど、ビザが切れちゃってそれで劉さんが何とかしてあげたいって」
 こういう店で働く外国人労働者の大部分は、観光ビザで働く不正労働者だ。ビザが切れるとそのまま居着くケースが多い。
 タイやカンボジアあたりの東南アジアの地方都市では、満足な仕事にありつけない若者たちは、不法を承知でも日本で働かなくてはならない。彼らの稼ぎには故郷の家族の生活がかかっているからだ。
「だからお願い、ケイさん。力になってあげて」
「力になれっていってもなあ」
 その時、店の入り口から挙動不審の男が入ってきた。キョロキョロ周囲を見回している。赤ら顔の童顔。派手なジャケットに大きなリックを担いで、秋葉原のオタクが持っていそうな紙袋をぶら下げている。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
 店の黒服が明るく声をかける。
「おい、タクミ。こっちだ」
 目ざとく見つけた慧一が声をかける。
 神宮匠刑事は海外の異人街で、日本人の顔を見つけた旅人のような表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「いらっしゃいませ」
 百合愛とユキが立ち上がって挨拶をした。
 百合愛の大きな瞳に見詰められて、匠は顔を赤くした。こういう場所は慣れてないみたいだ。
「こいつはタクミ。何ていうか、まあ妙な知り合いだな」
「友達の神宮っす」
 慧一は迷惑そうな顔をした。
「ダチじゃねえ」
 慧一は無愛想な顔をして、百合愛たちに目配せした。
 事情を察してふたりが席を外すと、慧一は改めて万丈を紹介した。

「こちらは万丈東天さん。俺の先輩だ」
「よろしくっす」
 匠はピョコンと頭を下げた。
「君が神宮刑事か。話は慧一から聞いているよ。なかなか変わった刑事さんみたいだな」
「自分も聞いているっす。元、六本木愚連隊の万丈さんっすね」
「知ってんなら話は早い。今回の事件では、ケイが世話になったそうだな」
「はあ」
 匠はあたりを見回して、
「ここ、大丈夫っすか?」
 と、聴いた。
「心配すんな。ここは馴染みの店だ。店長も店の女の子も信用がおける。それにこういう所のほうが、かえって目立たないものだ」
 慧一がいう。
「そうすか」
「で、早速事件の話だがな」
 万丈が声を潜めた。
「警察の見解は、あくまで人間関係のもつれか?」
「はい。それで彼女のパトロンが、鳥鎧組の円道寺であることが判明しました。最も円道寺の件は自殺ということでケリがついてますからね、そこからどうこういうことはないんすが」
「いずれは慧一に行き着くということか?」
「はい。もちろん、自分がバラせば一発すが」
「てめえ」
 慧一は匠の首を掴んだ。
「そういきりたつな。こちらがお前のことを黙っていること自体がおかしいんだ」
 万丈は慧一の腕を掴んで言った。
「それよりあんた、大丈夫か。このことが知れたら、あんただってタダじゃ済まないぜ」
「バレる前に事件を解決すれば、問題はないす」
「やれやれ」
 万丈は苦笑した。
「大したタマだよ、あんた。ところで死んだ女の部屋だが、あんたどう思う?」
「まあ、普通の部屋とは思えないす。刑事的に言えば、張り込みの前線基地ってところすかね」
 匠は言った。
「俺もそう思うよ。多分、あそこは何かのアジトだろう」
「同感す」
「あの女は芦田組の組長の情婦でありながら、円道寺のおんなでもあった。どちらかの情報をどちらかに売っていた可能性が高い」
「もしくはその両方か?」
「芦田も円道寺も同じ極城会の系列ながら派閥が違う。芦田組は八幡興行派、円道寺はそのまま鳥鎧組だ」
「はい」
「で、問題はここからだ。円道寺健壱は組に内緒で、「ロボ」という新種の覚せい剤を流している。それで東京地区の覇権を狙ったのだろうが、それを阻止しようと動いたのが、八幡興行の朱雀喜重郎だ。朱雀は赤龍会の赤沼虎次郎と謀って、円道寺に一心会の桜木晃一郎を殺害するように仕向けた。それが渋谷抗争の発端だ」
「それは新宿署の鬼島刑事に聞きました」
「鬼島だと! あの野郎か」
 それまで黙っていた慧一が声をあげた。
 新宿警察暴対の鬼島隈吉といえば、新宿界隈のスジモノでは知らない者がいないというほどの有名人だ。
「あの女が芦田を通して、円道寺側の情報を八幡興行に流しているんじゃないか、というところまでは当局も掴んでいるす」
「ところで俺の得た情報では、円道寺は西尾義一という男を通してロボを海外に売りさばこうとしているらしい」
 万丈は更に言葉を潜めて、内緒話しをするように言った。
「西尾?」
 慧一が怪訝そうに訊く。
「極右翼界の大物だ。しばらくなりを潜めていたが、こんな所に姿を現すとは」
「海外ってどこっす?」
「北朝鮮だ。もちろん直接の取引は難しいから、中国の黒社会を通しての取り引きになるんだろう」
「それって、まさか」
 ハッと思い当たった慧一に、万丈は頷いた。
「ああ、ここ歌舞伎町に拠点を持つ黒手組だ」
「なるほど、そういうことか。だから雫は俺に助けを求めたのだな」
「まあ、あくまで可能性の話だがな」
「そう言えば彼女は電話で、俺にとっても損のない話を持ちかけてきたな」
 慧一は思い出しながら言う。
「損のない話?」
「それが、相談があるからって会ったんですが、そんな話は一言も出なかったんですよ」
「ふうん。どういうことだろう」
「話が流れたのか。する必要がなくなったか」
「ところで、ちょっと見て貰えます?」
 匠は手提げの紙袋からノートタイプのパソコンを取り出した。何度かクリックを繰り返して動画を起動させた。
 そこに写っているのは、どこかのマンションのエントランスだ。
「おいおい、お前。これって・・・」
「はい。事件のあったマンションの防犯ビデオの映像です」
「こんなもん、良く持ち出せたな」
「警察に連絡する前にコピーしましたから。あ、大丈夫っす。そのケイさんの部分は予め消去してありますから」
 ふたりは顔を見合わせた。
「それで、怪しい人物は映ってなかったのか」
「はい。ケイさんと雨宮さんが一緒に入ってくる以外は」
 画像には酔っ払った慧一を抱えるようにして、エントランスを通る雫の映像だった。その後しばらくして雫ひとりが外出し、一時間ほどしてまた戻ってくる。
「その後は朝まで誰も通ってはいません」
「ちょ、ちょっと待てよ。これじゃまるで、俺が殺ったと言ってるようなもんじゃねえか」
 慧一は声を荒立てた。
「はい。誰がどう見ても、犯人はあなたすね」
「てめえ」
「安心して下さい。どうしてもというときには、ケイさんを犯人として立件するっす」
「ふざけるな!」
 殴り掛かる慧一を無視して話を続ける。
「もう一本、見てほしいビデオがあるっす。円道寺が雨宮雫こと藤井佳子という女に、貸し与えていたマンションの防犯ビデオの映像すが。例の窓ガラス破壊事件の前後の映像っす」
 そこにはエントランスを通るひとりの男が映っていた。
「この男、円道寺か」
 万丈が言った。
「ここっす」
 ストップモーションにした画像の一部をアップにする。男は胸のあたりに手をやっているが、そこに握られているものは・・・。
「これは、拳銃か?」
 慧一が言った。
「ご丁寧にサイレンサーまで付いている」
 それからしばらくして、数人のヤクザ風の男たちが慌ただしく駆け付ける光景が映っている。
「ガラス戸が割れた直後の映像っす」
「つまりガラスは、拳銃の射撃で割られたものなのか」
 万丈は呻くように言った。
「はい。弾丸も回収してあるす」
 ヤクザ風の男たちと入れ違うように、ひとりの男がエントランスに姿を現した。
 白いスーツにサングラスを掛けた男だ。身長は180センチくらいか。がっしりとしたスポーツマンタイプの男であった。ゆうゆうと玄関を出ていく。
 その後に、先ほど飛び込んだヤクザ風の男たちに抱えられるようにして、円道寺が姿を現した。
「さっきの男は?」
 万丈が言った。
「ビデオを戻すと・・・」
 画像を戻す。円道寺の来る20分程前だ。さっきの男がエントランスに入って来る。しばらくして、藤井佳子と思われる女が玄関を出て行った。
「間違いない。雨宮雫だ」
 慧一が言った。
「事件のとき、買い物に行っていたという藤井さん、いや雨宮さんの証言があります」
「問題はこの白いスーツの男だな」
「こいつが犯人か?」
 慧一がいきり立った。
「わかりません。見ての通り、この時点ではまだ円道寺は無事でした。彼はこの翌日、衆人下で飛び込み自殺をすることになるのです」
「もう一度、男を見せてくれ」
 万丈は食い入るようにビデオの男を見つめている。
「この男、何となくケイさんに似てません?」
 そういわれれば確かに、体格といい雰囲気といい、慧一に似ていなくもない。
「俺はこんなマンション知らねえぜ」
「わかってますよ。冗談っす。それより万丈さん。この男、探せませんか?」
 万丈が頷いたとき、慧一がシッというように口に手をあてた。
 ゆっくりと立ち上がると、パーティーションの陰に目をやる。
「どうした?」
「いえ。人の気配がしたと思ったのですが、気のせいだったのかも知れません」
 強い視線を店の奥に向けていた。

 東京警視庁本部。
 公安部人材登用課。通称「チェリー」
 公には存在しない部署である。警視庁職員ではない、民間人の協力者を募って捜査に当たる特殊部所であった。
 基本的に民間人には捜査権は存在しない。従って表向きの捜査はできないことになる。
 御子柴正義参事官の肝いりにより発足した、超法規的な極秘部署なのだ。
 参事官室の来客用ソファには御子柴警視正と御門龍介が向き合っていた。
「馬鹿野郎。無茶しやがって」
 御子柴は、先日の拉致事件のことを口にしている。中国黒社会の黒手組による龍介の拉致事件だ。
「あれは、お前のほうから仕掛けたことだろう?」
「まあな。黙っていても連中は何も喋ってはくれないからな。それらしい動きを見せて、向こうから手を出さざるを得ないようにしてやった」
「それにしても手段は選べ。チェリーは極秘部所だから、何かあっても警察は動かせないんだぞ」
「わかっているよ。自分の分は自分で責任を持つ」
「まあ、それはともかく、会社のほうはどうするんだ。暫くは寄り付く訳にはいかんぞ」
 会社というのは六本木にある龍介の勤務会社、インターナショナル・システム・インテグレータ、通称「ISI」のことだ。そこが彼らにバレている以上は、当然ながら彼らの手が回るであろうことは想像できる。あれほど手酷くやられた中国マフィアが黙って指を加えている道理がないからだ。
「心配ない。あそこはデライトコンサルティングの関連会社だ。舎弟企業といってもいい。まあ、困るのは渋沢統治郎くらいのものだな」
「悪人だな。お前は」
 御子柴は呆れたように言った。
 デライトコンサルティングという経営コンサルタント会社を経営する渋沢統治郎は、ひがし東京を支配する6人の極道筋のひとりといわれているが、表向き彼はヤクザの皮を被ってはいない。菅原経済研究所の菅原真一という男を陰で操って、政治経済界の情報網を支配する経済ヤクザなのであった。
 龍介がその会社に就職したのには、一重に彼の動向を監視する目的もあったのだ。
「しかし、この時期に西尾が都内に潜伏していたとは意外だな」
 西尾儀一は極右翼界の大物だった。北濤事件、オリオン商会粉飾事件などにフィクサーとして暗躍したといわれているが、ここ十年程は目立った行動を起こしていない。噂では北朝鮮あたりに身を隠しているともいわれていた。
「円道寺が学生時代、西尾の秘書を勤めていたというのは有名な話だ。そこから北へロボが流れているとしたら大変なことになる」
「国交のない北と、直接取引をするのは難しい。そこで中国マフィアか?」
「ああ、そう思って探りを入れたのだが、ビンゴだったようだ」
「中国経由でロボを北へ流す。しかし途中の中国が黙っているはずはない、か」
 御子柴は思案顔で言った。
 ロボという覚せい剤は、思考や感情を司る前頭葉に影響を与える。長期間に渡って投与された人間は、感情をなくしてロボットのように与えられた命令を実行するようになるのだ。
「ロボは覚せい剤というよりは兵器に近い。北朝鮮にしろ中国にしろ、流出させるわけにはいかない」
「当然だな」
 龍介は言った。
「問題は西尾の行方だが」
「わかっている。公安の外事課を動かして西尾の行方を探る」
「ああ、俺のほうも探りを入れてみる」
 そう言って席を立とうとした龍介を、御子柴は引き止めた。
「龍介。ちょと待て」
「なんだ?」
「実は先日起こった雨宮雫殺しの件なのだが」
「ああ、円道寺のおんなが殺された件か」
 御子柴は難しい顔をした。珍しく言い淀んでいる。
「うむ。実は当初、雨宮のマンションの防犯ビデオが故障しており、肝心の映像が映っていないという報告が上がってきたのだが、科捜研が解析したところ、何者かによって映像が加工されている可能性があるというのだ」
「加工?」
「そうだ。大事な部分が消去されている」
「誰がそんなことをしたのだ?」
「うん。それなんだがな。消去された部分の再生に成功している。まあ、これを見てくれ」
 そう言って御子柴は、自分のディスクトップのフォルダーをクリックした。
 やがて画面にはマンションのエントランスと思われる画像が浮かび上がった。
「雨宮が殺害されたと思われる前日の映像だ」
 御子柴が言った。
 画像には酔っ払った若い男を抱えるようにして、エントランスを通る女の映像が映った。
「この女が雨宮雫だ」
「この男は誰だ?」
 龍介が訊いた。
「まあ待て、映像は続く」
 その後しばらくして雫とみられる女がひとりで外出し、一時間ほどしてまた戻ってきた。
「女はどこに行っていたんだ?」
「さあな。男のほうはこの後、朝まで姿を現さない」
「なるほど」
「問題はこの後だ」
 それから数時間後、周囲が明るくなる時間にひとりの童顔の男がやってきて、管理室の扉をノックした。
 男は出てきた管理人に何やら手帳のような物を見せている。
「あれは、警察のバッチじゃないか」
「ああ・・」
 御子柴は苦い顔をして応えた。
 やがて男は物憂げにカメラの方を見上げると、これみよがしにウィンクをした。そのまま管理人室に消えると、ふいにビデオが砂模様の残像に変わった。
「何者なんだ、このふざけた警官は?」
 画面に大写しになった刑事のウィンクを見ながら、龍介は呆れたように言った。
「神宮匠巡査。ここの強行犯第4係の刑事だ。そしてこの男が事件の第一発見者だ」
「どうなっている?」
「知らんよ。この刑事の強4は、当時円道寺の事件を追っていたんだ。まだ、自殺という結論が出る前の話だ。その捜査の過程で、このマンションに行きついたのだろうが。円道寺の帳場のほうにはその報告もない」
 龍介は映像を戻して、何度も見直している。
「問題は雨宮と映っているこの男だな。何者だ?」
「ああ、その男なら調べは付いている。歌舞伎町のスカウトマンで花柳慧一という男だ」
「歌舞伎町?」
「そうか、お前が拉致られた先も歌舞伎町だったな」
 御子柴は思い出したように言った。
「もともと黒手組の本拠地は歌舞伎町だからな。で、この男はどこかの組の構成員なのか?」
「いや。正式にはどこの組にも属していない。ただ、俥座一家の岩倉の使い走りのようなことをしているから、俥座一家とはまんざら無関係とはいえないのじゃないか」
「俥座一家の岩倉か」
 龍介の脳裏に、以前俥座一家の本部で出会った、岩倉政孝の精悍な顔が浮かんだ。
「俥座一家と黒手組とは激しくやりあっている。そういう意味からは、この男が黒手組と組んでいるとは考えにくいな」
「それはわからん。調べてみなくては、な」
 龍介は画像をCDディスクにコピーした。
「ところでこの神宮という刑事、なんでこの画像を消去したのだろう?」
「さあ、わからん。この刑事はスタンドプレーが多いということで、直属の上司も頭を痛めているようだ。前回の円道寺のときも今回も、単独行動が多い。なにかと問題の多い捜査官らしい」
「なるほど、面白いな。この花柳という男が、雨宮の部屋で一晩過ごしたことは間違いなさそうだ。それで部屋から出てこないということは・・・」
「ああ、事件の第一容疑者だな」
「そしてその事実を隠したとなると・・・」
「神宮匠は共犯者という可能性が高い」
「なるほど、お前が頭を抱えるわけだ」
 龍介は気の毒そうに言った。
「で、この件は帳場には流したのか?」
「馬鹿言え。事件の捜査官が共犯者であるなんて言えるか」
 勘弁してくれという表情で、御子柴は言った。
「それでいい。この件は俺に預けてくれないか」
「預ける?」
「この神宮という刑事、なかなか面白そうだ」
 そう言って龍介は画面に向かってウィンクしている匠の画像を指で叩いた。

 深夜の歌舞伎町を若いカップルが闊歩している。
 純白のスーツ。アイボリーホワイトのソフトハットを被った長身の男に、ぶら下がるように腕を組んでいるのは、派手な毛皮のコートを身につけた小柄な女だ。長い金髪を大げさに盛り上げている。小柄ながら、出るところは出て、くびれるところはしっかりくびれ、中々のプロポーションである。昭和の言葉でいえば、「トランジスタグラマー」ということになる。
 花柳慧一とキャバ嬢の百合愛だ。
 午前2時半。
 ふたりは店が退けるのを待って、繁華街に繰り出した。いわいるアフターというやつである。
 慧一は自分が紹介した女のケアは欠かさない。実入りが悪いと察すると、積極的に同伴やアフターをして点数を稼がしてやる。だから女の子も信頼して仕事に専念できるのだ。スカウトマンと女の子の信頼関係は、店との信頼に繋がり彼への営業に跳ね返ってくる。
 もっとも百合愛のような売れっ子には、いまさら必要はないのだが、今夜はどうしてもと頼まれた。
「わたし、お寿司食べたーい」
 百合愛は上機嫌である。もっとも彼の行く店は、大体が安めの居酒屋か廻り寿司で、普段お客さんに連れて行ってもらうような高級店とは違うが、彼女にとってそれはどうでもいいことだった。
「結局は、どこへ行くかじゃなくて、誰と行くかよね」
 慧一は自分がスカウトした女の子とは必ず関係を結ぶ。関係を持てば情が移るからだ。
 女の子に情を持ってはいけない。
 というスカウトマンは多い。慧一に女の扱いを教えたナンパの師匠もそうだった。
 一旦情をむすべば、男と女の問題も同時に抱えることになるからだ。男と女の問題は、時に刃傷事件にまで発展することもある。
 そういう面倒くさい問題を抱えては、ナンパ師なんて仕事は到底やってはいけない。
 もっともとは思うが、しかし慧一の考え方はまったく逆だった。
 男と女の問題は、もっとも原始的な人間関係のひとつだ。そこを否定しては確かな人間関係は築けない、と彼は思うのである。
 慧一は嬢との人間関係をなにより大切にする。
 自分のスカウトした女の子には誰より幸せになってほしいと、彼は心底願うからである。だから彼女が自分のことを好きになり、面倒くさいことになろうとも、それはそれで真摯に受け止める覚悟が彼にはある。例えその結果その娘を傷つける結果になってしまっても、だ。
「わたしねえ、人を探しているの」
 百合愛はポツリと漏らしたことがある。出会って間もない頃、歌舞伎町のラブホの一室でだ。
「男か?」
 ダブルベットに身を重ねた慧一は、仰向けのまま薄汚れた天井に煙草の煙を吹き上げた。
「気になる?」
 百合愛は逞しい上半身に身を寄せて囁く。その顔は笑ってはいない。むしろ冷え冷えとした殺気のようなものが浮かんでいる。
 それで慧一は身を起こしたのだ。
「どういう男だ」
「名前は分からない。顔も、よ。ただ左の手の甲に刺青があるの、とぐろを巻いた大蛇・バジリスクの刺青」
「ふうん。ワケありなんだ」
「そう。ワケありなのよ」
 そう言って百合愛は口を閉ざした。それ以降、彼女はその刺青の男のことは二度と口にしなくなった。
 あえて慧一も訊こうとはしない。
 この天真爛漫に観える少女の中に巣くう果てない深闇を垣間見た気がした。そういえば百合愛がはじめて抱かれた時、彼女の身体が恐怖と不安とに細かく震えていたのを慧一は覚えている。
 あの時は単純に、経験が足りなくて不安なのだろうくらいに考えていたのだが、どうやら違うようだ。
 彼女には彼女なりに潜ってきた闇があるらしい。
 しかし彼女が自分に助けを求めない以上、自分にはどうしてやることも出来ないのだ。
 そんな慧一の気持ちを百合愛はわかっているのかいないのか、彼女は安っぽい回転寿司の慧一の隣で、キャッキャッとはしゃいでいた。
 しかし慧一はまったく別のことを考えていたのである。
 神宮匠のことをである。
 あの男、一体どういう男であるのか?
 慧一がいままで出会ったことのないタイプの男であった。
 確かに彼は、面倒くさい事件に巻き込まれるところを匠によって救われた。だがしかし、それは自分のことを思ってとった行動ではないだろう。
 彼は彼なりの捜査の必要上、自分の存在を隠したのである。
 それはわかる。
 それはわかるが、その真意はわからない。だから気味が悪いのである。いつ彼が豹変して、当局に事実を告げないとも限らないのだ。
 言ってみれば自分の安全は、匠の掌の上にあるといえる。
 彼にとってはそれが我慢できない。
 ではどうするか?
 一番簡単な方法は相手の弱みを握ることだ。脅迫とはいかないまでも、弱点を握ればそれなりのアドバンテージにはなるだろう。
 弱みといえば、最初から弱みはある。彼がこの事実を当局に隠しているという事実だ。それが明らかになれば、彼の処罰は免れない。懲戒免職か、ヘタをすれば証拠隠滅で逮捕すらされかねない案件なのだ。
 しかし、それは慧一にとっても諸刃の剣である。それが知られれば、彼は殺人容疑で逮捕されるだろう。
 別の弱みを握らなくてはならない。
 なにげなく、無邪気に寿司を頬張っている百合愛の横顔を見ながら考えていた。
 ひいき目なしに見ても、かなり可愛い部類に入る娘だ。美形といってもいい。
 その横顔を眺めているうちに悪魔の考えが頭をもたげた。この百合愛をあの神宮匠にくっ付けたらどうだ?
 あの男、どう考えても女に免疫があるとは思えない。まさか童貞ということはないだろうが、百合愛クラスの美女が言い寄ってきたら、ひとたまりもなかろう。
 しかしなあ。
 慧一はこういうハニートラップ的なやり方を好まない。ましてや自分がスカウトした女なのだ。
 ふたりは店を出て、大久保病院の方向に歩き出した。
「ねえ、ケイさん。さっきから何考えてるの?」
 百合愛は無邪気な笑顔を向ける。
「わかった。他の女の子のこと考えているんでしょ?」
「ちげえよ、バーカ。男のことだ」
「えー、ケイさん。アッチ系?」
 百合愛は細い左手を反対側の頬のところへ持っていき、奇妙なシナを作ってみせる。
「だから、違うと言ってるだろ。・・・なあ、ユリア。昨日きた神宮ってやつ、覚えているか?」
「ああ、あの刑事さん。覚えてるよ」
 当然である。
 一度でも来店した客の顔は決して忘れない。それがキャバ嬢というものだ。ましてや、昨日今日の話である。忘れるほうがどうかしている。
 慧一は大きく息を吸った。覚悟を決める。
「お前、あいつどう思う?」
「どうって、ちょっと変わった人だと思うけど、嫌いじゃないよ。刑事にしてはマシなほう。でもわたしは万丈さんのほうが好みかな」
 ん? という表情で慧一の顔をみる。
「そのタクミがお前のことを、気にいってるみたいなんだ。もし良かったらお前、あいつと・・・」
「わかった」
 百合愛は頭のいい娘であった。それに夜の世界で生きている女である。彼の言うことが何を意味しているかは、瞬時に理解できる。
「いいのか。気が乗らなければ、無理しないでいいんだぜ」
「平気。彼、ちょっと可愛いし、優しそうだし、全然嫌じゃないよ。それに」
「それに?」
「わたし、ケイさんの役に立ちたいの。ケイさんに頼まれて、わたしは嬉しいわ」
「ユリア」
 言葉に詰まった。内心、断ってくれたほうが有難かった。何と言ってあげればいいのかわからなかった。
「でもさ。わたしが本気で彼に惚れたら、ケイさんどうする?」
「待て、ユリア」
 その男たちの存在に、慧一は気づいていた。

 コマ劇場ビルの裏からホテル街へと連なる狭い路地だ。歌舞伎町には珍しく人通りの少ない狭い道である。
 その狭い路地を塞ぐように、ふたりの男たちが立ちはだかっている。
 振り向くと後方にもふたりの男たち。薄汚れた作業着やジャンバー。全員フェイスマスクや目出し帽で顔を隠している。
「なんだ、お前ら」
 百合愛を後ろに隠すようにドスの利いた声を出す。
 男たちは無言で得物を取り出した。
 木刀。チェーン。鉄パイプ。
 革の袋に細かい鉄球を詰めたもの。これで叩かれると、外傷は受けずに内部のみを破壊する、ブラックジャックと呼ばれる武器だ。日本人の好んで使うような武器ではない。
「てめえら日本人じゃねえな」
 男たちが身構えた。
 背中にしがみつく百合愛の身体が細かく震えている。それでも声ひとつ挙げないのは大したものだ。
 上等。
 殺気が走った。
 前方の作業着の男が鉄パイプを振り上げた。しかしそれはフェイント。
 絶妙のタイミングで、後方の目出し帽がブラックジャックを振り下ろす。こういうコンビプレーには慣れているのだろう。
 しかしこと格闘という点では、慧一のほうが一枚上だった。
 敵の行動を読んでいた慧一は、左足を後方に流す。半身になった慧一の鼻先を、音をたててブラックジャックが駆け抜ける。
 チャンスだった。
 ガラ空きの顎先に、渾身の左ストレート。必殺の掌打が顎先を打ち抜き、男は声も挙げずに昏倒した。
 同時に右足を振り上げる。
 慧一の長い脚は百合愛の身体スレスレを掠めて、右から殴り付けてきた木刀男の股間に滑り込んだ。悶絶して地面にのたうつ。
 一撃(ワンパン)の慧。
 ここまでで3秒。
「逃げろ、ユリア!」
 慧一の叫びに、弾かれたように百合愛が駆け出す。鉄パイプを持った作業着の男がその後を追う。
「待ちやがれ」
 作業着に組み付こうとする慧一の前に、チェーンを持ったフェイスマスクを被った男が立ち塞がった。
「邪魔だ、どけ」
 慧一が吠えた。
 男は黙ったまま、チェーンを振り回しながら近づいてくる。こいつがリーダーなのだろう。他の3人よりは出来そうだ。
 慧一は十分に間合いを取って、落ちていた木刀を蹴り上げた。
 はね上げた木刀は、フェイスマスクの顔面を直撃し、男は一瞬ひるんだ。
「うりゃあ!!」
 気合一閃。
 慧一の後ろ跳び回し蹴りが見事にきまり、フェイスマスクは後方に倒れ伏した。
 百合愛は?
 百合愛と後を追った男は、すぐそこの路地を曲がったところだ。
 ダッシュで後を追い、角を曲がる。
 戦慄が背筋を撫でた。
 曲がったすぐの所に、百合愛が倒れている。その先には作業着姿の男が、鉄パイプを握ったまま昏倒している。
 路地の先は漆黒の闇だ。
 その闇の奥に、何かが居る。
 慧一は動けなかった。
 圧倒的な力を持った巨大な生き物。例えていうなら野生の虎。
 その獣が息を潜めて暗闇の奥に潜んでいる。
 百合愛は無事か?
 確かめたくても、圧倒的な気配に圧されて動けない。冷めたい汗が慧一の頬を伝う。
 やがてその気配は潮が引くように去っていった。
「ふう」
 と、大きくひとつ息を吐いて、慧一は百合愛のもとへ駆けつけた。
「ユリア、大丈夫か」
「う、うーん。大丈夫」
 百合愛はゆっくり身を起こした。
「何があったんだ?」
「闇よ。闇の奥から何かがやって来て、あっという間にあの人を倒したの」
「それは何だった? 人間か?」
「わからない。わたしもすぐに気を失ったから」
 怖い。・・・・
 百合愛は慧一の身体にしがみついて、おいおい泣き出した。。
 震える百合愛の身体を抱きしめながら、慧一は暗い路地の奥底に強い視線を送っていた。

第5章 7代目、火車の仁吉

 火車(かしゃ)という化け物がいる。
 罪人や非業の死を遂げた人間の魂を、地獄へ送る御車の妖怪だ。
 鬼の顔に焔を纒った巨大な車輪。火車の刺青(モンモン)を背中に背負う男。それが七代目「火車の仁吉」である。
 泣く子も黙る新宿歌舞伎町俥座一家の頭領・火車の仁吉は、花園神社裏の本部社長室の大きな椅子にドッカリと腰を下ろしていた。
 仁吉は巨きな男だ。
 縦にも横にも大きい。重量感のある鋼鉄の箱という印象だ。朝黒い肌は、彼の体に黒人の血が混ざっているからだろう。
 仁吉は捨て子だった。
 花園神社の境内に捨てられていたのである。彼を救ったのは、今は亡き6代目の仁吉だった。
 俥座一家はもともとは浅草「だるま組」のいち組織であった。戦後、鴨場沼の跡地に新東京の復興事業が始まると、その地の安全を守る為に5代目仁吉の一派が派遣されることになった。それが俥座一家の始まりだったのだ。
 俥座一家の頭領には、代々「仁吉」の名前と、背中の「火車」の刺青が襲名されることになっている。
 仁吉の横には初老の男が立っている。
 大番頭と呼ばれている村田彦次郎という男だ。6代目の頃から仁吉に使え、現7代目の教育係だった男である。
 ふたりが話しているのは、毎年この時期に開催される歌舞伎町の恒例行事についてである。「歌舞伎町喧嘩祭り」と題されたそれは、終戦の混乱期からこの地に根付いている一大イベントなのであった。
 もともとは闇市の瓦礫の中で行われていたケンカの祭典である。当時の愚連隊や進駐軍らの間で、それは大層な人気だった。その初回開催には、現武藤流空手「昇龍館」の総館長・武藤雄山が参加していたというのは有名な話である。
 その後は地下に潜って密かに続けられていたが、昨今の格闘技ブームに乗ってスポーツイベントの一環として日の目をみるようになったのだ。もちろんスポーツイベントである以上、それなりのルールに則った興行でなくてはならない。
 その部分は「歌舞伎町商工会」の村田彦次郎が引き受けていた。
 ふたりがその男の来訪を知ったのは、丁度その時分であった。

 最初に対応したのは、近藤宗親という幹部の男である。
 俥座一家に3人いる「代貸し」のひとりだ。通常のヤクザ組織でいうなら「若頭」にあたる。
 髪の長い細面の顔つきをした男であった。顎先が鋭く尖っている。カミソリで削いだように目が細い。その目の奥には、見る者の心を凍らせるような、冷たい光が宿っている。
 漆黒のスーツを身につけている。喪服を思わせる黒だ。
 ネクタイも細く、黒い。それを緩めてくたびれたワイシャツの首に巻きつけている。
 まるで葬式に列席した帰りのような出で立ちである。
 その男が玄関先にまで出迎えた。
 応対に出た、若い衆の報告を受けて立ち上がったのだ。来訪者に心当たりがあったからだ。
「よう。あんたか」
 来訪者は近藤の顔をみて言った。銀色のミラーグラスを掛けた壮年の男だ。がっしりした体躰をゆったりしたジャケットに包んでいる。ひと目で鍛えている体であることは見て取れる。
 その男はひとりの女性を連れている。白いロングコートを羽織った女である。
 美しいといえば非常にうつくしい。うりざね型の小さな顔。黒目の多い大きな瞳。形の良い鼻と唇。ひとつひとつのパーツを見れば、非常に整った顔つきをしていることは見て取れる。
 しかし問題はその表情である。彼女の顔はまるで能面のように表情が乏しい。というか、殆ど表情を失っているのだ。顔の造形が美しいだけに、それはかえって不気味ですらあった。もしも暗闇で彼女に声を掛けられたら、思わず声を挙げてしまうことだろう。
「ひさしぶりです。御門さん」
 近藤は言った。
 ふたりは無論、初対面ではない。
 最初の出会いは「陽だまりの家」という宗教団体だった。麻薬売買に関連しているのではないかというその団体を探っているうちに、別の案件で探りをいれていた龍介たちと知り合ったのである。
 というよりは彼らが一方的に拉致したのであるが、その折りに近藤は龍介の底知れない力を知って脅威を感じていた。
「あんたに会えて良かったよ。若い者じゃ話にならないからな」
 そう言いながら上がろうとするのを、手を延ばして停める。
「どのような御用ですか?」
「連れないなあ。この前はそっちから無理やり招待したくせに」
「あの時とは事情が違います。断っておきますが、まだ御門さんを全面的に信用しているわけではないので」
 やれやれ、と龍介は頭を掻いた。
「火車の親分さんに話があるんだよ」
「だから、何の話ですか?」
「中国マフィアの件だ。黒手組とかいう黒社会、それだけ言えばわかるだろ」
「なるほど」
 近藤は道をあけた。
「どうぞ」
 そして龍介は再び7代目の前に立つことになったのだ。

 仁吉の前の椅子に龍介は足を組んで座っている。
 その右横には村田彦次郎と近藤宗親のふたりの幹部が直立して会合を見守っている。
 近藤は唇に微かな微笑を浮かべて、龍介を興味深い視線で眺めていた。
 一体、この7代目の前に立ったとき、どのような男であれ平静ではいられない。
 何をするわけではない。ただ黙ってそこに座っているだけなのだが、その全身から漏れ出す圧倒的な迫力、暴力的な匂いが会うものを縮みあがらせる。少しでも身を動かせば、即座に殺されてしまうのではないかという、殆ど脅迫観念にも近い感覚がひとを支配するからだ。
 然るにこの御門龍介という男は、初対面の時からそんな仁吉の威圧感を、そよ風程度にも感じていないようだった。よほど自分の体術に自信があるのか、それとも何も感じない阿呆なのか。
「こちらは秘書の白銀です。彼女は初対面でしたかな」
 御門は背後の女性を紹介した。白銀玉藻は相変わらずの無表情だ。
「話を聴こうか」
 と仁吉は言った。
 年齢でいえば仁吉のほうがはるかに下だ。本来なら敬語を使ってしかるべきだが、そう思わせない威厳が彼にはあった。
「実はこう見えて、黒手組に拉致られた」
 龍介は言いながらククッと笑った。以前、この俥座一家に拉致られたことを思い出したのだ。
「知っている」
 仁吉はにこりともしない。
「さすがに情報は早いな。では、なんで拉致られたのか、それも知っているのか?」
「お前が、いろいろとちょっかいを出すからだろう?」
「まあ、それはそうなんだがな」
 龍介は照れくさそうに頭を掻いた。仁吉がわずかに身を乗り出す。
「逆にあんたに聞きたい。連中の何を探っている?」
「西尾義一という男を捜している」
 龍介は唇の端を吊り上げた。
「西尾?」
「知ってるんだろ。極右翼の大物だ」
「知ってはいるが、やつは日本には居ないはずだが」
「それが極秘で帰国しているんだよ」
「ほう」
 仁吉は目を見開いた。
「それは初耳だな。で、それが黒手組と何の関係がある?」
「ロボを覚えているだろう。西尾はそれを海外に持ち出そうとしている。もちろん黒手組を通してだ」
「なるほど」
「西尾はいま黒手組に匿われている」
 龍介は言葉を切った。仁吉はその顔を、射殺しかねない視線で見つめている。
「・・・信じて、いいのか」
 ややあって仁吉は言った。
「信じていい、とは?」
「龍介、俺にはお前の仕事がわからない。始末屋とは一体なんだ? お前は一体なにを探って、何をしようとしているんだ」
「・・・・・」
「こうみえても歌舞伎町の俥座一家といえば、この世界ではちょっとは名の知られた存在だ。その俺たちが本気になって探ろうと思っても、お前の正体がさっぱり分からない。御門龍介とは、一体何者なんだ?」
 龍介はニヤリと笑った。
「心配するなよ、仁吉さん。少なくとも俺はあんたの敵じゃない」
「そう願いたいものだな。俺はたいがい怖いもの知らずだが、あんただけは別だ。出来るならやり合いたくはない」
「俺だって同じだよ。あんたみたいな男とはやりたくはないな。だからこそあんたに依頼しているんだ」
「依頼だと?」
「西尾義一の行方を知りたい」
 仁吉は黙り込んだ。
「あんただって歌舞伎町の平和は守りたいんだろ」
「わかった」
 ややあって仁吉は頷いた。
「その代わり代償はいただく」
「金か?」
「いいや。金じゃない」
「では何だ?」
「そのうちわかる」
 ふふん。
 話はついた。龍介と玉藻は席を立った。
 部屋を出るところで、近藤宗親が呼び止めた。
「ご苦労さまです」
「ああ、助かったよ」
 龍介は素直に礼を言った。
「わたしからもひとつ、お願いがあるのですが」
「なんだい?」
「来月末に喧嘩祭りというのがあるのですが、それに出てはいただけませんか?」
「おいおい、いきなりだな。俺は格闘家ではないよ」
「わかっています。あくまでケンカですから、格闘技の経験の有無は関係がありません」
「興味ねえな」
 肩を叩いて玄関に向かう。その背中に近藤が声を掛けた。
「気が変わったら、いつでもお待ちしていますよ」
 玄関を出たところで、巨大な壁が道を塞いでいた。鬼政こと岩倉政孝だ。
 燃えるような瞳で龍介を見つめている。
「よう。ひさしぶりだな」
「御門龍介」
 岩倉は熱いものを吐き出すように言った。
「丁度良かった。あんたに訊きたい事があったんだ。少し時間があるかい」
 龍介は朗らかに言った。


 
「で、朝までやっちゃったんですか?」
 相沢誠はあきれたように言った。
 歌舞伎町のアーケードが見下ろせるビルの最上階だ。弟分の相沢と並んで、マックの窓際の席に腰を下ろしている。
「しょうがねえだろ。あいつ、ビービー泣いて、離れようとしないんだから」
 慧一は最後のテリヤキバーガーを口内に突っ込んで、言い訳けをするように手を振った。
「とか言って、まんざらでもないんでしょ。あーあ、羨ましいな。あんなに可愛いコと」
「仕事だよ、仕事」
「それにしても、ケイさん。何なんすかね、そいつら」
 先日、慧一と百合愛が遭遇した暴行事件の話をしている。
「知らねえよ、あいつらが何者かだなんて」
「でも、そいつら日本人じゃなかったんでしょ?」
「ああ、多分な。しかし妙なんだ、俺は外国人に恨みを買う覚えはない」
「こちらになくても、向こうにはあるかも知れないっすよ。何しろケイさん、有名人だから」
「馬鹿をいうな」
 そんな会話をしながら、百合愛のことを考えていた。
「ところで、お前。この後どうする?」
「あ、すいません。自分、野暮用っす」
 意外な気がした。
「女か?」
「いえ、同伴頼まれまして、・・・ああ、来た来た」
 振り向くと、どこかで見た女の子が走ってきた。百合愛の店であったユキとかいうタイ人の娘だ。
 ユキは恥ずかしそうに頭を下げた。
「なんだ。お前ら、いつの間にそういう関係になった」
「やだな、ケイさん。まだまだ、これからですよ」
 ふっ、と慧一は笑って、そのケツを叩いた。
「気をつけろよ。そいつの後ろには、何十人もの家族がくっついてんぞ」
 誠とユキが踊るように出ていくのを見送って、再び百合愛の顔が浮かんだ。ここ2、3日店にも顔を出していない。
 無理もないと思う。
 あんな目にあったのだ。いかに気丈夫な百合愛とはいえ、相当なショックだったろう。
 見舞いにでも行ってやるか。
 そうは思いながらも、忙しくてそのヒマもなかった。問題を抱えている娘は百合愛だけではないし、そろそろ本業のスカウトにも戻らなければならない。
 ぼんやりしていると、誠がどいたばかりの席に誰かが座る気配がした。

「よう、奇遇だな」
 隣に座った男が言った。
「・・・鬼島」
 新宿署暴対係の鬼島巡査部長だった。ボウタイの刑事といえば、慧一のような人間には疫病神も同意語だ。全身を逆立てたハリネズミのように防御体制を取る。
「なんの用です? 刑事さん」
「そう突っかかるな。メシくらい食わせろ」
 そう言いながらメガバーガーにかぶりつき出した。
「あんたもいい年なんだから、いい加減にしたほうがいいですよ」
「へえ、意外だな。お前が俺の体を心配してくれるとは」
「別に心配しているわけじゃないっすけどね」
 鬼島はニヤリとして、コーラのLサイズを口に含んだ。
「なんか、いろいろと大変だったみたいじゃねえか」
「大変?」
「しらばっくれんなよ。お前、襲われたんだって」
 どいつもこいつも、と慧一は思った。
「別に、大した事じゃないですよ」
「まあ、お前にとっちゃな。しかし、あれが別の人間だったら話は別だ。あいつら、たいがいプロだからな」
「プロ?」
「強盗(タタキ)のプロだよ。本国と日本と、結構なマエがある。やっぱりお前は大したタマだ。あいつらを相手にして、かすり傷ひとつ負わないんだからな」
「やつら、何人ですか?」
「ふたりはフィリピン。ひとりはバングラデシュ。残りのひとりは中国人かな」
「その中国人がチェーンを振り回していたんですね」
「よくわかったな」
 なるほど。それで納得がいった。
 そんな慧一を鬼島はニヤニヤ眺めている。
「で、なんだな。お前、なんで連中に狙われている?」
「知りませんよ、そんなの。やつらは何と言ってるんです?」
「仕事だってよ、タタキの。でもな、どうにも腑に落ちないんだよ。やつら誰かと連んで仕事をするタイプじゃねえ。ましてや違う国の人間と組むか?」
「何が言いたいんです?」
「お前だってわかっているんだろ。ここいらの不法外国人就労の元締めは黒手組だ。リーダーの中国人は黒手組の下っ端だよ」
「・・・・・」
「やれやれだぜ。やっと白髪会が大人しくなったと思ったら今度は黒手組か。まったく、臭い匂いは元から絶たなきゃダメだな」
「鬼島さん」
 慧一は真面目な顔で言った。
「相手が外国人となれば、管轄は外事でしょう。なんであんたが出張ってくるのです?」
「そこなんだよ。実はここだけの話なんだが」
 鬼島は声を潜めて、
「実は別件で、公安が動き出している。黒手組の件でだ」
「別件?」
「詳しくはわからんが、何やらしきりと探っているらしい。そこへ持ってきて今回の事件だ。どう考えても普通じゃねえ」
 そう言いながら慧一の反応を伺う。
「円道寺健壱」
 ぴくんと慧一の体が震えた。
「知ってるだろ。鳥鎧組の若頭だった男だ。こいつのおんなが殺された。名前はなんだったかな、・・・ああ、そうそう。雨宮雫だ」
「・・・・」
 わざわざ藤井佳子と言わず、雨宮の名前を出した。この男、何を知っているのだ?
「その事件と、黒手組とが繋がっていると、連中はみているらしい。円道寺と連んでいる元右翼が、黒手組にいるんだとさ。こいつは噂なんだが、公安が捜しているのは、その西尾義一だって話だ」
「俺とは関係のない話だ」
「実をいうとよ、俺にも関係はない」
 そう言うと、鬼島は慧一の肩を叩いて立ち上がった。
「言ってみれば、これは、まあ、俺の趣味だな」
 ヤバイことになって来た。
 立ち去る鬼島刑事の背中を見ながら、慧一は不安な気持ちを抑えていた。

 落ち着いた間接照明に照らされた部屋。
 扉一枚隔てた華やかなホールとは違い、ここは怪しげな密封空間であった。
 大きめのロングソファに腰掛けた桜木晃一郎の隣には、紫のナイトドレスに身を包んだ艶やかな女性が寄り添っている。銀のスパンコールを散らした華やかなドレスの曲線が、しなやかな身体にフィットして、見事なプロポーションを際立たせている。
 歳は思いのほか若いようだ。20代の半ばから後半、まだ30の声は聞いていないだろう。もしかしたらもっとずっと若いのかも知れない。
 銀座8丁目、クラブ「静御前」のVIPルーム。
 銀座一の若いママとの噂の「静ママ」であった。
「珍しいですわね。おじ様」
 静ママが、もたれかかった桜木の耳に囁く。
「たまには静の顔を観に来なくては、忘れられてしまうからな」
「お上手ね」
 静ママは苦笑しながら、ロマネコンティをグラスに注ぐ。
「ところで、あちらのほうはどうかな?」
「あちらのほう?」
「お客さんのほうだよ」
 これみよがしにウィンクをする。
「大神さまも、渋沢さまも、近頃はご無沙汰ですわ。お忙しいのでしょう」
 大神士郎。渋沢統治郎。いづれも六条委員会に属するヤクザの親分だ。桜木にしてみれば同盟者であると共に、商売敵でもあるのだろう。
「外のお客さまは、どうだい?」
「外?」
「外国人観光客とか」
「ああ・・」
 静は納得したように頷いた。
「そういえば、中国のお客様はよくいらっしゃるようですわ。あれは歌舞伎見学の帰りかしら」
 歌舞伎町の黒手組のことだろう。
「そうか」
 桜木はワインで口を湿らせた。
「ところで、おじ様。今日はどんな御用ですの?」
「だから、静の顔を観に来たんだよ」
 そう言いながら、扉のほうに目をやる。扉が開いて、黒服が新しいお客さんを案内してきたのだ。
「そういうことですか」
 静ママは入ってきた客の顔をみて、にこりと笑った。
「では、ごゆっくり」
「ありがとう。ママ」
 御子柴正義は静ママに会釈して、桜木の向かいのソファに腰を降ろした。

 警視庁の参事官とヤクザの親分。
 どう見ても不似合いな組み合わせだが、ふたりは少しも気にする様子もない。桜木は御子柴のグラスにワインを注ぐ。
「お待ちしていました。御子柴参事官」
 ふたりはグラスを合わせた。
 桜木晃一郎はヤクザの親分でありながら、「チェリー」のメンバーであった。ヤクザを警察機構に組み込む御子柴も御子柴だが、それを平然と受けて公安のスパイもどきをしている桜木も桜木だ。
「身体はすっかり良いようだな」
「はい。お陰様で」
 道玄坂における桜木本部長の暗殺未遂事件の話をしている。
「しかし、まさか、あのような事態を引き起こすとは」
「渋谷抗争か」
「はい。あれは不幸な事件でした」
「お前さんがそれを言うのか」
「もちろんです。わたしとしても、それを望んだわけではありません」
 桜木は神妙な顔をした。
「ふうん。まあ、それはそうと、六条の件はご苦労だった」
「いえ、わたしに取っても渡りに船でした」
「そうだな」
 六条委員会はひがし東京のヤクザ組織を、ひとつにまとめて管理したいと欲する御子柴の意向を受けて、桜木が奔走した結果生まれたものである。もちろんその裏には、桜木なりの思惑があったことは言うまでもない。
 たまたまふたりの思惑が一致したというだけのことである。
「いいタイミングで鳥鎧組がちょっかいを出してくれましたからね。それでまとまったようなものです」
 桜木は思い出し笑いをした。
「それで話とは?」
 御子柴は桜木のそういうところが好きになれない。
「そうそう。御子柴さんに報告しておかねばならないことがあります。赤沼の息子が八坂興行の朱雀と手を組みました」
「虎之助の息子か」
「はい。赤沼虎次郎は親父の赤沼組を手に入れる目的で、朱雀と組んで今回の絵を描きました」
「円道寺がお前を狙っていることを承知で、虎次郎に道玄坂での会合を持ち込みさせたのだろう」
「はい。そして朱雀はその日時を円道寺に漏らしました」
「それでこれを好機とみた円道寺は、薩田組を使ってお前を襲わせたということか」
「はい。一方の虎次郎は自作自演の暗殺計画を、親父である虎之助に漏らしました。虎之助は血の気の多い男です。必ずや報復に動くと踏んでのの事です。案の定、虎之助は渋谷の交差点で、薩田組や豊島連合とぶつかり当局に逮捕されました。これが渋谷抗争の真相です」
 御子柴は頷いている。わざわざ説明されなくとも、その程度のことは想像がつく。
「で、お前さんはそれを承知で、会合に赴いたんだろう?」
「まあ、そうですが、まさか生命を狙われるとは思いませんでした」
「そうなのか」
 そうとは思えない。何を考えているのか、この桜木という男は底が知れなかった。
「で、御子柴さん。問題はここからです」
 桜木の声が低くなる。
「円道寺が渋谷抗争を起こした背景には、ロボのデモンストレーションの意味合いがあります」
「デモンストレーション?」
「奴はロボを海外に売り込む算段でした」
「北朝鮮だろう」
「知ってましたか?」
「その件で、西尾義一が動いている。渋谷抗争はいい宣伝材料になったというわけだ」
「ところがその宣伝効果が意外な所に影響を及ぼしました。中国です」
「中国?」
「西尾は中国のシンジケートを通して、ブツを北へ流すつもりでしたが、渋谷抗争のお陰でその効果を知った中国は、それを北へ渡すのが惜しくなった」
「なるほど、それで奴らは西尾を拉致したという訳か」
 御子柴は納得したように言った。
「しかし、中国というか黒手組はロボを手に入れることは出来なかった。何故だか分かりますか?」
「ロボの製造工場である飛駒研究所を公安が潰したからだ」
 ロボは蓬楽医薬品という製薬会社が開発した、抗精神薬から副産物的に生成された合成ドラックである。感情を司る前頭葉に作用し、人間性を著しく消失させる。
 円道寺はこれを栃木県の飛駒研究所で精製させ、豊島連合を通して市場に流した。その飛駒研究所は御子柴たち公安の手によって潰されている。
「その通りです。しかしロボの設計図はまだ存在します」
「どこにあるんだ」
 御子柴は声を上げた。
「わかりません。知っているとすれば、ロボの開発者である藤木浩輔か」
「藤木は「陽だまりの家」とともに姿を消している」
 宗教団体「陽だまりの家」は、同時期に藤木の開発した別の合成薬剤を狙って暗躍した。現在は本部道場を焼いて行方をくらましている。
「もしくは西尾義一」
「そういう構図か」
 段々と事件の背景が読めてきた。
「公安が動いています」
「ああ、俺が指示した」
「それとは別に新宿の俥座一家もです」
「俥座?」
「御門さんが動かしているらしいです」
「なるほどな。あいつがやりそうなことだ」
 桜木は苦笑した。
「わたしも動きますか?」
「いや、俥座一家が動くなら黒手組は大丈夫だろう。お前は八幡興行の朱雀をマークしてくれ。奴がなにを企んでいるのか、まだ腹が読めない」
「わかりました。朱雀の動きは、わたしも気に掛かっています」
「頼む」
 立ち上がり掛けた御子柴を、桜木は押しとどめた。
「それともう一つ。鳥鎧組の鳥越組長が引退します」
「今度の抗争の責任を取ってのことだな」
「はい。それで次期組長には極城会本部から鳥越時貞という男が送り込まれてきますが、それがどうにも気に掛かります」
「鳥越?」
「鳥越鎧雄組長の甥にあたるそうですが、本部に預けられていたそうです。組長は頼んで戻してもらったと言いますが、わたしの睨んだところでは本部の意向を組んで、鳥鎧組に送り込まれたとみていいでしょう」
「どういうことだ?」
「極城会としては円道寺のケジメを取るために、ブクロのシマを手放さなくなったことに抵抗感を持っています。そのため極城会本部としては、鳥鎧組を直接動かすために代理人を送り込んだというわけです」
「それが鳥越時貞というわけか?」
「はい。しかしその男、どうにも気に掛かるんですよ。何しろ極城会本部があの朱雀に対抗するために送り込んだ男ですから」
「わかった。気にかけておこう」
「では、そういうことで」
 桜木はグラスを上げた。それに御子柴が自分のグラスを重ねると、満足そうに微笑んだ。

 カウンターに座っている。
 新宿3丁目のバー「クリスタル」である。花柳慧一が仕事あがりのクールダウンに利用している店だ。
 カウンターに座っているのは、慧一と神宮匠刑事である。肩を寄せ合ってひそひそ話をしている。
 バーテンダーは気を利かせて、カウンターの奥で仕込みを続けている。
 店内に他の客はいない。普段から客の少ない時間帯なのである。
「へえ、先輩がねえ」
 匠は水割りのグラスを傾けながら言った。
 先日の鬼島刑事との一件で、神宮匠を呼び出したのだ。
「先輩がねえ、じゃねえ。お前、鬼島に何を喋ったんだ?」
「業界のことを聴いただけっす。自分、事件畑っすから、ソハン系は苦手なんで」
 匠は強行犯専門だから、組織犯罪のほうは知識がないということを伝えたいらしい。
「ああ、あとケイさんのこと」
「俺のこと?」
「まあ、なんていうか人のなりというか」
「どういうことだ?」
「ケイさんって、あっちの世界じゃ有名なんでしょ。裏の稼業とか、色々やってんじゃないかって」
 正直に喋る。
「てめえ。やはり俺を信じてねえじゃねえか」
「そりゃそうでしょ。何だかんだ言ったって、ケイさん事件の容疑者すからねえ」
「まさか、鬼島に喋ったんじゃねえだろうな」
 匠の首を絞めかねない勢いだ。
「それはないす。喋ったらヤバイのは自分も一緒っすから」
「しかし野郎、雨宮雫のことでカマをかけてきやがった」
「つまり、藤井佳子と雨宮雫が同一人物だと知っていたということっすね。でも、その程度のことなら、ちょっと調べればすぐに分かることっす」
 お前、分かってないな。
 と、いう顔を慧一はした。
「問題は何で奴が、それを調べているかってことだ。奴にとっちゃ管轄外の事件だろ」
「それはそうですが、あの人は気まぐれっすからねえ」
「気まぐれでそんなことをされちゃ叶わねえよ。わざわざ俺の前で雫の話をしたってことは、俺と雫の関係にも気付いているってことだろ?」
 匠は頷いてから、驚くべき報告をした。
「そうすね。でも、安心して下さい。捜査本部、解散になりましたから」
「解散? なんでだよ」
「さあ、知らないす。上からの圧力っしょ。よくあることす」
「上からの圧力って、どこからなんだよ」
「詳しくはわからないすが、公安じゃないかともっぱらの噂っす」
「公安が?」
 なんで公安が雨宮の事件を隠そうとするのだ。慧一にはさっぱり理解ができない。
「まあ、なんにしても良かったじゃないですか。これでケイさんも晴れて無罪放免っす」
「無罪放免って、お前それでいいのかよ」
「いいわけないじゃないすか。公安は公安、自分は自分っす」
 慧一は驚いて匠をみた。
「お前、単独でやるつもりか。上に知れたらクビだぞ」
 匠はクスリと笑った。
「今更、何言ってるんすか。クビが怖ければ、最初からケイさんの存在を隠してなんかいません」
「あきれた野郎だな、お前」
 慧一はつくづく呆れて言った。
「ケイさんだって、このまま黙って引き下がるつもりはないんでしょう?」
「ああ。雫の敵は必ずとる」
 それを聞いて匠はニコリと笑った。
「それを聞いて安心しました。では、これを見てほしいっす」
 例の紙袋の中からパソコンを取り出した。
「おい、また防犯ビデオか?」
「はい。苦労しました」
 慧一はパソコンを操作して、ひとつの動画を表示した。
 そこには夜間の公園らしき風景が映っていた。斜め横に街灯があるのだろう、淡い光が公園の茂みやその奥の遊戯類を照らしている。
「雨宮雫のマンション前の公園です」
 慧一が説明した。そういえば、雫のマンションの手前には50坪ほどの小さな児童公園があった。
「それがどうした?」
「見てて下さい。時間は事件のあった夜の、午前3時くらいです」
 しばらく見ていると、突然黒い影が画面を横切った。
 黒い上下のジャージに目出し帽を被った人影が、画面の右から左に走り抜けたのだ。その方向は明らかにマンションの方向だった。
「これは?」
「はい。どうみても怪しいっすよね」
「こいつが、雫を殺ったのか?」
「わかりません。ただ、マンションの外壁を調べてたところ、雨樋の表面に何者かがよじ登ったらしき痕跡が残っていました」
 慧一は息を飲んだ。
「それから彼女のベランダのガラス戸に、錐で開けられた程度の小さな穴がありました。鍵のすぐ下でレバーの死角になってましたが」
「それって?」
「ピッキングの痕跡っす。恐らく犯人はその穴から細い針金状の器具を使って、ガラス戸の開閉をしたと考えられるっす」
「つまりこの男は、マンションの雨樋を雫の部屋までよじ登ったというのか? あいつの部屋は8階だぜ」
「その可能性は十分にある、ということす」
「お前、このことは本部には話したのか?」
「話す前に、捜査本部は解散になりました」
 匠は残念そうに言った。
 慧一はしばらく考えてから、匠の耳に囁いた。
「実をいうとな、先日俺は黒手組らしき人間に襲われたんだ」
「黒手組?」
「中国の黒社会だ。まあ、中国マフィアだな」
「それが、このビデオの男だと?」
「さあな。しかし、どうにもこの事件には黒手組が関わっているような気がしてならないんだ」
「どういうことです?」
「公安が歌舞伎町で、黒手組を探っているらしいんだ」
「また公安っすか?」
「また、公安だ。おかしいだろ?」
「確かに」
 匠も考え込んだ。
「そう言えば万丈さんの話だと、死んだ鳥鎧組の円道寺は、ロボとかいうシャブを海外に持ち出そうとしているってことでしたよね」
「ああ、それに西尾とかいう右翼の大物が絡んでいるって話だ」
「それと中国マフィアとがどう繋がるんす?」
「恐らく西尾は黒手組を通してロボを海外に持ち出そうってハラなんだろう」
「なるほど、それで公安が動いたわけすね。大分繋がってきましたよ」
 匠はしばらく考えたあと、
「ところで以前お見せした、円道寺の動画に映っていた男なんすが、あの後万丈さんから電話があって」
「万丈さんから?」
「男の正体はまだ掴めないみたいなんすが、妙な噂を聴いたって」
「妙な噂?」
「裏社会の間ではちょっと有名な話みたいなんすが、ナイトランダーという殺し屋の噂す」
「ああ」
 その話なら慧一も聴いたことがある。
「年齢性別一切不明。誰にも知られない方法で人を殺し、誰にも知られずに姿を消す。まあ、都市伝説の一種だな」
「本当っすか」
「ああ、誰も見たものはいないんだ。そいつに殺しを依頼したやつも、な。そいつの仕事という殺しも聞いたことはない。まあ、探偵小説の「少年少女探偵団」に出てくる「怪盗幻」みたいなもんだな」
 少年少女探偵団は、宇田川独歩という探偵小説家が、終戦後から高度成長期にかけて創作した児童向けの探偵小説だ。名探偵有明精二と怪盗幻の戦いは、当時の少年少女たちを大いに興奮させたものだ。
「ああ、その話なら自分も知ってます。名探偵有明精二の息子が活躍するマンガを、子供の頃に読んだことがあるっす」
「つまりナイトランダーなんて、その程度のおとぎ噺しだということさ」
「でも、もしも円道寺の事件が殺しなら、仕事をしたのはそのナイトランダーじゃないかって、万丈さんが」
「まさか」
 慧一が言った時、匠の携帯が鳴った。
「はいはい。わかりました。じゃあ、これから行きます」
「誰だ?」
「あ、同伴の誘いっす。この間、ケイさんたちと行ったキャバクラの女の子」
 百合愛か。
 慧一はニヤリとした。慧一の見舞いの効果もあって、百合愛はこのところ随分と元気を取り戻していた。
「お前も隅におけないな」
「やだな、ケイさん。内緒っすよ」
 そう言って、唇に人差し指を持っていった。


 
 暗闇の中に、時折フラッシュライトのような火花が明滅する。
 パンパンという花火が破裂するような音が、深夜の住宅街に響いている。よくよく耳を済まさないと、聞き漏らしてしまいそうな微かな音だ。
 新宿百人町の住宅街にある、町工場の廃墟跡だ。
 火花の明滅もその工場の窓から漏れてくるようだ。音が小さいのも工場の中から聴こえてくるからだろう。
 火花が消えると工場の中は真の闇だ。
 中には数人の男たちが蠢いている。
 パンパン。
 中に入るとはっきり解る。それは明らかに銃声だった。
 工場の跡地にふた組みのグループが対峙して、互いに銃を撃ち合っているのだ。
「なめやがって」
 積み重ねられた木箱の陰に身を潜めた巨大な男が言った。
 俥座一家の岩倉政孝だった。
 身を潜めた木箱の表面に火花が散る。銃撃を受けているのである。
 相手は誰だ?
「おい。富司、久我。裏に回れ」
 富司武士と久我涼太が同時に頷いた。移動しようとする足元に、数発の銃弾が撃ち込まれる。
 先手を取られて、側面に回り込まれたようだ。
「あかん、岩倉さん。相手が多すぎまんねん」
 ケンカ屋久我が悲鳴をあげた。
 彼らが相手にしているのは、中国の黒社会・黒手組のメンバーである。
 敵の人数は30人あまり、対する俥座一家の精鋭は10人ほどだ。
 黒手組の周泰徳が、新宿在住の外国人組織の会合に出席するのを突き止めた俥座一家は、その帰り際を強襲したのだった。
 しかしそれは黒手組の仕掛けた罠だった。俥座一家は逆にこの工場跡地に誘い込まれ、伏兵たちの攻撃を受けるハメに陥ったのだ。

 正面と側面から、同時に攻撃を受けている。
「やばいですぜ、親父」
 7代目の仁吉がゆらりと姿を現した。
「心配するな、よく見てみろ」
 見ると正面の敵の後方に、長身の黒い影がスッと立ち上がった。
「近藤!」
 岩倉が叫んだ。
 銀色の光が曲線を描き、たちまち数人の男たちが倒れ伏した。
 近藤宗親。
 虎斬り宗親、とよばれた男だ。岩倉政孝と並ぶ、俥座一家最高幹部のひとりである。
 喪服のような黒のスーツに、黒いネクタイを巻いた男だ。
 いつの間に敵の後方に回り込んだのか。
 近藤の手元から白銀の閃光が放たれるたびに、数人の男たちが倒れていく。
 戦列が乱れた。
「今だ、ゆけ」
 仁吉が吠えた。
 岩倉が、富司が、久我涼太が、数人の組員たちを引き連れて、敵陣に突っ込んだ。
 特攻である。
 側面の敵には仁吉が対応した。
 巨大な拳骨が宙を舞うたびに、数人の男たちが吹き飛んだ。
 素手で銃を持つ敵に、平然と立ち向かう。それが7代目という男であった。
「おうりゃ!」
 敵陣に飛び込んだ鬼政が「坂巻」を仕掛ける。地を震わせ天を駆ける竜巻だ。
 混戦の中では銃は使えない。仲間同士の相打ちを避けるためだ。
 乱打戦なら俥座一家の右に出るものはいない。親分の仁吉にしてみれば尚更だ。たったひとりで10人からの伏兵を相手にしている。
 あっという間に黒手組は追い詰められた。

 大将の周泰徳を守るように、ふたりの黒人の巨人が立ち塞がった。ニューヨークのストリートファイトで馴らした屈強なボディガードたちだ。
 筋肉の化け物のような黒人の男は、上半身のTシャツを引ちぎった。プロティンと筋肉増強剤で造り上げた鋼鉄の鎧だ。
 対峙した岩倉も決して負けてはいない。身長差もほぼ同じ。2メートル近いふたりの巨人が向き合ったのだ。
「ここは俺に任せろ」
 岩倉は凶暴な牙を剥いた。
「ではこちらの方の相手は、わたしが」
 近藤の相手はミネタリースーツを着込んだ、やや小柄な男である。小柄とはいっても180センチを楽に越える体格をしている。
 隣に並んだ筋肉の化け物に比べればという話だ。
 男はサバイバルナイフを構えている。軍隊経験者なのであろう。
 いつぞや歌舞伎町の貸しビルの地下で、御門龍介の頭に拳銃を突きつけたのが、この男であった。
 近藤宗親は左手に掴んだ仕込み刀を青眼に構えた。
 無言で前に出る。
 男が下がる。下がると見せて左腕を振った。
 金属の光芒が近藤の顔面を襲った。左手に隠した小型ナイフを投げつけたのだ。
 投げつけたナイフと同時に男が動いた。
 ナイフを避ける近藤の隙を狙った攻撃だ。しかし近藤はピクリともしない。目すら閉じてはいなかった。
 近藤の頬すれすれに通り過ぎたナイフの切っ先は、彼の頬に浅く傷を残したがそれだけだった。
 キィイイン!
 金属同士の弾け合う音が響き、火花が散った。男の掌からサバイバルナイフが飛んでいた。
 閃光のように繰り出された近藤の太刀先は宙で鋭く旋回し、返す勢いで男の腹を切り裂いていた。
 虎斬り。
 俗に言う「燕返し」である。
 男は血しぶきをあげてその場に昏倒した。
「そう大袈裟にしなくても、ほんのかすり傷ですよ」
 悲痛な叫びを上げながら転げまわる男を、冷たい瞳で見下ろしながら近藤は言った。
 卓越した彼の剣技は、紙一重で内蔵に傷を与えずに腹腔のみを斬り裂いたのだ。

 その頃、岩倉政孝の戦いも決着を迎えていた。
 あとで聞いた話だが、岩倉と対峙したその男は、通称「ビック・ビル・アーチャー」という有名なプロ・フットボールの選手だった。3年前に内縁の妻に対する暴力事件で逮捕されている。それ以前には麻薬所持違反で選手資格を剥奪されていた。
 アーチャーは猛然とタックルに来た。まるでブルトーザーが突っ込んでくるような衝撃だ。
 両脇を締め脚を大きく開いて衝撃を受け止める。
「ガアァァ」
 黒光りする万力のような豪腕を岩倉の腰に巻きつける。
 凄まじいばかりのベアバックだ。
 アーチャーの肩の筋肉が巨大な瘤のように盛り上がっている。
 岩倉の顔が真っ赤に染まった。
「うぬっ」
 全身に力を込める。岩倉の胸部が倍くらいに膨らんだ。
 もの凄い力が籠っているのがわかる。
 遂にアーチャーの腕が外れた。しかし彼は岩倉の下に潜り込むと、その身体を持ち上げた。
 岩倉政孝。
 身長190センチ、体重120キロである。
 その巨体を軽々と持ち上げたのだ。凄まじいばかりの腕力だ。
 アーチャーはそのまま岩倉の身体を、コンクリートの地面に叩き落とそうとしたのだが、寸前のところで両足を首に巻きつけて堪えた。
 ふたりの身体がコンクリートの地面に転がる。
 その時には岩倉の両足がアーチャーの右腕と首を締め付けていた。
 三角締め。
 アーチャーは口から泡を吹いていた。
「済みましたよ、岩倉さん」
 振り仰ぐと近藤宗親が立っていた。
 戦闘は終わっていた。

 30人からの黒手組の構成員たちはことごとく床に倒れ臥し、立っているのはすべて俥座一家の組員たちだけだった。
 最高顧問の周泰徳は工場の隅に追い詰められていた。
 左右には久我涼太と富司武士が仁王のように立ち塞がっている。逃げるに逃げられない。
 周は普段の彼とは似ても似つかない、情けない顔をして丸くなっている。頭部には解けかけた包帯が、だらしなくぶら下がっていた。黒人のボディガードに、御門龍介と間違えられて殴られた跡だ。
 俥座一家の囲みを抜けて、火車の仁吉がゆっくりと近づいてきた。
 10人近い黒手組を素手で叩きのめしてきた男だ。
 鋼鉄で出来た四角い箱。
 それに手足がついて歩いて来たと思えばいい。
 どんなに大きくても、人には人の気配がある。例えば、黒人のビック・ビル・アーチャーも巨大な身体をしているが、それでも人は人である。それ以上でもそれ以下でもない。
 しかしこの仁吉はどうだろう。そこから感じられるのは、到底人の気配とはいえなかった。
 たとえて言うなら深山の気配。巨木の神気。後足で立ち上がったヒグマの獣臭。
 それが正面からやってくる。
  周泰徳は悲鳴をあげた。
「た、頼む。助けてくれ・・・」
 仁吉はズイと四角い顔を、周の顔に近づけた。
「勘違いするな。俺はな、何もあんたたちを全否定する気はねえんだよ」
 そう言った。
「歌舞伎町って街はな、すべてを受け入れる懐の深さをもった街だ。あぶれ者も、敗北者も、嫌われ者も、俺らみたいなヤクザ者も。そしてあんたたちみたいな外国人たちも、な。すべてを受け入れ、雑多な中で生きていく。それでいいんだよ。俺らは役人でもないし、警察でもない。だけどな・・・」
 グイとその襟首を掴む。
「郷に入りては郷に従うって言葉がある。歌舞伎町には歌舞伎町のルールってもんがあるんだよ。それを乱す者は、ここでは生きてはいけねえ」
「・・・・」
 周は怯えて唇を噛んだ。
「西尾義一だ。奴がどこにいるか、知っているんだろ?」
「し、知らねえ」
「隠すとためにならねえぜ」
 富司が髪を掴んだ。
「本当だ。野郎は逃げやがったんだ」
「逃げた?」
「ああ、ちょっと目を離したすきに姿を消しやがった。俺たちも捜している最中なんだ」
「嘘じゃねえだろうな」
「本当だ。嘘じやねえ」
 周が情けない声をあげた。
「おい、やめとけ」
 更に問い詰めようとする富司を仁吉が止めた。
「わかったよ、周さん。今日のところはここまでにしといてやる。だけどな、先日御門龍介にやられ、今日またこんな目に合わされて、神鳴社のお偉方が知ったらどう思うかな」
 そう言って、周の身体を投げ捨てた。
「まあ、体を大事にすることだな」
 そう言って、傷心の周泰徳を置いたまま、俥座一家は悠然と姿を消したのであった。

第6章 朱雀喜重郎

 デライトコンサルティングは兜町に居を構える経営コンサルタント会社だ。場所がら顧客には政府や役所関係の客が多い。
 政治家や省庁の高級官僚の中では、関係団体や親族関連で会社を経営するケースが少なくない。そういう人たちの経営コンサルティングをするのが主な仕事だ。
 というよりは政府や各省庁内にコネクションを築くのが、渋沢統治郎の真の目的である。
 渋沢統治郎は経済ヤクザである。
 とはいえ、表立ってそれを公表しているわけでも、指定暴力団に認定されているわけでもない。だから表向きは一般企業の経営者であるのだが、その筋の者で彼をヤクザと認めない者はいない。
 インターネット接続会社のラジカルジャパン、無線通信会社の大光無線、システム開発会社の沖システムなどの乗っ取りにはかなり悪辣な手段を用いたとの評判である。
 もっともその際にも彼の名前が表に出ることはなかった。彼の仕事の裏の部分を引き受けているのは、菅原経済研究所の菅原真一であった。
 菅原真一は渋沢統治郎の家庭教師だった男で、以前は明神一家の顧問相談役を勤めていた総会屋の元締め的存在だった男である。
 菅原は統治郎の天才的な経済感覚に惚れ込み、裏の仕事を一手に引き受けるようになったのである。
 そのデライトコンサルティングの役員室に、3人の男たちが顔を揃えていた。
 デライトコンサルティング会長、渋沢統治郎。
 菅原経済研究所々長、菅原真一。
 そしてもうひとりは、鳥鎧組次期組長と噂される、鳥越時貞であった。
「この度、鳥鎧組を任されることになりました、鳥越です。今日はそのご挨拶に参りました」
 そういう鳥越時貞は、中肉中背のどこといって特徴のない平凡な中年男である。通常の会社なら万年係長、そろそろ戦力外通達を受ける窓際族といったところか。このような男がなぜ、関東最大のヤクザ組織を任されるのか納得がいかない。
 ただその瞳だけは、時折ドキリとするほどの光を放つ時がある。何気ない佇まいの合間に、そこはかない怖さを感じる瞬間があるのだ。そんなところが、この男に無言の威圧感を抱かせる部分なのだろうか。
 それに対する渋沢統治郎は、すらりとしたイケメンだ。笑うと目元に笑いじわが浮かんで何ともいえない愛嬌のある顔になる。事実、彼が表紙を飾るビジネス雑誌は、普段読まないであろう若い女性の読者で取り合いになるほどだ。
 どう見ても悪人の人相ではないが、その本質は血も涙もないヤクザ者なのである。
「それはご丁寧に。しかし何ですな、なんでわざわざ私のところへ? 挨拶をせねばならない所は、他にいくらでもあるでしょう」
 鳥越はにこりと人の良い笑顔を浮かべた。
「それはそうなんですがね。私としては、まず第一にあなたのところへご挨拶に伺いたかった。この意味が分かりますか?」
「いえ、さっぱり。第一私はヤクザではありませんし」
 渋沢も負けない笑顔を浮かべて応える。
「そう、だからなんですよ。私もあなたをヤクザとは思っていません。だがらこうして、住島連合会の縄張りにやって来れたわけです。あなたがヤクザでなければ何の問題もありませんからね」
「なるほど。そうなりますと、他に何の話があるのです?」
「だから、ビジネスの話ですよ」
 鳥越の瞳がギラリと光った。
「ビジネス?」
「渋沢さん、私はあなたの事業に投資したい」
「ほう」
 渋沢は驚いた声をあげた。
「私は常々あなたの事業に興味を持っておりましてね。何と言いましたっけ、NSS(ネットサーチングシステム)。すなわちインターネットによるビッグデーターの一括検索システム」
「それをどこでお知りになりました?」
「この世界、いやどの世界においても、最も重要なのは情報の収集です。如何に重要な情報を素早く把握するか、それによって勝負は期するといっても過言ではありません。あなたはそのためのシステムを構築しようとしています」
「はい」
「AI。すなわち人工智能。そのための開発を、あなたはすでに始めていますね。あなたはAIを使った検索システムを、あらいるビックデーターに対応させようとしている」
「その通りです」
 渋沢は平然と頷いた。
「まだ、開発途上ですが」
「それが完成すれば、世界中のあらいる情報が自在に手に入るでしょう」
「情報はビジネスの生命ですからな」
「ですから、是非お手伝いさせていただきたい」
「なるほど、お話はわかりました。しかし、鳥鎧組がネット関連に乗り気とは驚きました。あなた方は合成ドラックのほうにご執心と思いましたが」
「それは円道寺が勝手にやったことで、鳥鎧組とも極城会とも関係がありません」
「そういうことですか」
「はい。そういうことです」
 鳥越は何を考えているかわからない顔で言った。

「さて、どう思いますか。菅原さん」
 鳥越が辞した後、渋沢は菅原真一に声を掛けた。
 菅原はがっしりとした身体のスポーツマンタイプの男である。日頃からジム通いで鍛えているのだろう。頬から顎にかけての濃い髭が男性っぽい。
 しかしそれでも強面の総会屋なのである。
「正直、驚きました」
 菅原はトレードマークのモスグリーンのサングラス越しに苦笑いを浮かべた。
「NSSのことは、一心会の桜木や明神一家の西崎あたるといった連中さえ、把握していないはずですがね。見かけによらず、相当な食わせ物ですね、あの男」
「だそうだが、君はどう思うかね。万丈くん」
 役員室の横の扉が開いて万丈東天が現れた。どうやら普段は秘書たちの控え室として使っている部屋らしい。
「それを俺に聞きますか?」
 万丈は白い歯をみせた。
「でも、いいんですか? あんな話を俺に聴かせて」
「構わないさ。私は君をかっているんだ」
「そう言われるのが、もっとも怖いんですけどね」
 渋沢は万丈を、それまで鳥越が座っていたソファを勧めた。
「で、なんの話だったかな。途中で鳥越くんが来たので失礼したが」
「この男のことです」
 万丈は一枚の写真をテーブルに乗せた。防犯ビデオから転写したものだ。
「御門龍介。知ってますよね」
「ああ」
 渋沢は人懐こい笑顔を浮かべた。
「知っているよ。インターナショナル・システム・インテグレータという、うちの子会社の社員だ」
「社員? ただの会社員ってことはないんでしょ」
「ああ、実をいうと迷惑しているんだよ。黒手組とかいうんだろ、中国のヤクザたちがやって来て、その男のことをしきりと知りたがってね。こっちは真っ当な上場企業だからね、そういうのは困るんだよ。まあ、そのあたりはこの菅原さんが、うまく取り仕切ってくれたんだけどね」
「黒手組ですか」
「君がこの社員を捜している事情も、そのあたりにあるんじゃないのかい?」
 何を知っているのか、何を考えているのか、相変わらず渋沢という男は底が知れない。
「ところで、何者なんです? この御門龍介という男」
「同業者だよ、君の。始末屋だ」
「始末屋? この男が?」
 万丈は目を見張った。自分と同じようなことをしている人間が他にもいるのか?
「というよりは便利屋だな。頼まれれば何でもやる」
「でも、あなたは目の前の彼を使わず、始末屋としての俺を使っている。何故です」
「何故か・・・」
 渋沢は苦笑した。
「それは私が彼を信用していないからだよ。御門龍介はある組織と通じている。彼がうちの子会社の社員を装っているのも、うちの情報を組織に漏らすためだろう」
「スパイというわけですか? で、その組織とは何なのです?」
「それはわたしにも分からない」
「しかし、あんたはそれを知りながら奴を放っておいた。何故です?」
「向こうがこちらの情報を欲しいのと同じように、こちらも向こうの情報は欲しいからね。まあ、ウィンウィンの関係かな」
「呆れたものですね」
 万丈は心から言った。
「ところでもうひとつ、面白い情報があるんだ」
 そう言って渋沢は1枚の写真を放ってよこした。それは高級クラブのVIPルームの写真だった。店のソファーにはふたりの男たちが座っている。
「これは、一心会の桜木本部長ですね。もうひとりは誰です?」
 万丈は首を捻った。
「御子柴正義。警視庁公安部の参事官さ。どうだい、面白いだろう」
 そう言って渋沢は、クックっと声をあげて笑った。
「桜木会長が公安と継っているとは意外でした。なるほど、それで公安が動いているのか・・・」
 万丈は考え込んだ。渋沢はそんな彼を面白そうに見詰めている。
「そうそう。そういえば、君。怪我のほうはもういいのかい?」
「えっ」
「酒に酔って、店の階段から落ちたそうじゃないか」
 なんで、そんなことを知っている?
「気を付けなきゃいけないよ。まあ、骨折程度で良かったが、ひとつ間違えれば生命だって危なかったからね」
 ぞくり。
 万丈の背中に冷たい汗が流れた。
 何故そんなことを言う。この男、どこまで知っているのだ。
 渋沢統治郎。
 後にITヤクザの先駆者と呼ばれる男であった。

 初台から中央自動車道に入り、西に向かって走っている。
 リンカーンコンチネンタルのリムジンカーである。前後には黒塗りのベンツが護衛のように追随する。
 リムジン内のバーカウンターで褐色のカクテルを造り、片方を客人に手渡した。
 八坂興行の朱雀喜重郎である。
 受け取った恰幅のいい老人は、神経質そうな手振りでカクテルグラスを口に運ぶ。
「ウォッカをベースにディサローノ・アマレットを加えたものです」
 朱雀は言った。
「ゴットマザー」
 そう応えた恰幅のいい男は、元極右翼の大物といわれた西尾義一である。
「はい。ウォッカをウィスキーに変えればゴッドファーザーに、ブランデーに変えればフレンチコネクションになります」
「ふん」
 西尾はグラスを置いた。
「悪趣味だな」
「そうでしょうか」
「まあ、いい。で、どこへ向かっている?」
「安全な場所へ」
「八坂興行の本部というわけか」
 朱雀は口元に笑みを浮かべたまま答えなかった。
「しかし、まさか君が来てくれるとは思わなかったな」
「鳥鎧組に支援を頼んだのですか?」
「いや、島崎くんに、だ」
「なるほど、極城会本部ですか」
 島崎辰臣は極城会の3代目総長である。極右翼の西尾とは旧知の仲だった。
「鳥鎧組とは円道寺に個人的繋がりがあるだけだ」
「なるほど。円道寺のいない鳥鎧組には関わり合いがないということですか」
「そういうことだな」
 西尾はグラスを口に運びながら言った。
「しかし円道寺さんには実に気の毒でした」
 朱雀は赤羽駅で起こった事故のことを言っている。円道寺健壱はそこで事故死しているのである。
「よく言うな」
 西尾は嘲るように言った。
「本心からですよ。彼とはいいライバルでした」
「まあ、いい。あいつはわしを裏切ったのだからな」
 西尾は苦いものを噛み砕くような表情で言った。
「裏切った?」
「公安の手が回ったのでな、飛駒研究所を始末した。まあ、世間的には公安が潰したということになっているようだがな」
「はい。伺っております」
「それはいいのだが、円道寺のやつは肝心なロボの秘密を持って逃げた」
「設計図ですね」
「そうじゃ。それで北の連中も中国の連中も血眼になってのう」
「それがないとわかると、先生の存在価値も怪しくなりますな」
「そうじゃ、だから逃げた」
 ジロリと朱雀を見やる。
「君もそう思うだろ」
「いやいや」
 朱雀は笑いながら手を振る。
「私はそうは思いませんよ。設計図はあります。それを探せばいいだけの話です」
「しかし、円道寺は死んでおる」
「先生の話を伺って確信しました。彼は設計図をどこかに隠したはずです」
「わしは知らんよ」
 西尾は不貞腐れたように言った。
「本当ですか?」
「本当だよ。黒手組の連中にも聞かれたが、知らんものは答えようがない」
「信じますよ」
 朱雀はクスリと笑った。
「設計図は円道寺が持っているのでしょう」
「だがしかし、設計図がどこにあるかは、本人しか知らないことだ」
「心配はいりません。心当たりがあります」
 朱雀は余裕たっぷりに言った。
「心当たり?」
「円道寺のおんなは殺害される前に、ある人物と接触した可能性があります。恐らく円道寺は女を通して、その人物に品物を託したのでしょう」
「その人物とやらは特定しているのか?」
 朱雀がそれに対して何かを言おうとしたとき、その異変は起こった。
 ドン。
 という音と共に、車体が激しく揺れたのだ。

 深夜の中央自動車道で、朱雀のリンカーンコンチネンタルのリムジンカーは左右に大きく車体を揺らしていた。
「おい、どうした?」
 異変を感知した朱雀はパーテンション越しに運転席に声をかけた。
「誰かが屋根の上に飛び降りたようです」
 運転手が応える。
「なんだって?」
 高速道路の上である。飛び降りたとなれば、高速の上を通っている歩道橋からだろうが、深夜100キロ以上のスピードで走っている車の屋根に、飛び移るなんて真似が果たしてできるものなのか。
 しかし、ガサガサと屋根の上を這い回る気配は、確実に何者かがそこに居ることを示している。
「先生。椅子の陰に隠れて下さい」
 朱雀はそう指示すると、グローブボックスの中から拳銃を取り出した。
 パン。
 その瞬間、銃声がして彼の鼻先を、焦げるような衝撃が走り抜けた。
「うぬ!」
 天井に向けて引き金を引く。
 ポン、ポン。
 敵が撃って来たあたりの天井に穴が開くが手応えはない。
 馬鹿な。
 時速100キロのスピードで走る、何の手掛かりもない屋根の上で、どうやって移動しているというのだ?
「振り落とせ」
 運転席にそう指示をすると、窓ガラスを割って上体を外に出す。
 グンと車がスピードをあげた。
 車体が左右に大きくローリングする。先行車の間を縫うようにすり抜ける。
 運転手は振り落とそうと必死なのだ。
 風圧が顔を叩く。
 朱雀は上体を車の外に出して、屋根の上を伺った。
 居た。
 暗い屋根の上に漆黒のレザースーツに身を包んだ小柄な男が張り付いている。
 白々とした月光がその姿を浮かび上がらせている。
 朱雀は片手で窓枠を掴み、男の影に照準を合わせた。
 男がこちらを振り向く。
 氷のような冷酷な視線に一瞬怯んだ瞬間、男の身体がフワリと浮き上がった。
 その身体は空中を滑るように移動して、銃を構えた朱雀の腕を蹴った。
 パン。
 銃声が深夜の高速にこだまする。対向車が慌ててハンドルを切ったのか、路肩に乗り上げて大破した。
 信じられないことに、屋根を滑った男の身体は、長いリムジンの端で静止している。
 どうやら両手と両膝に吸盤のようなものを取り付け、それで身体を支えているらしい。
 男は銃口を向けている。
 パン。
 引っ込めた頭のすぐ上を銃弾が走り抜ける。
「どうした?」
 心配そうな表情で、西尾が声をかける。
「屋根の上に張り付いていますが、問題はありません」
「何者だ?」
「わかりません。ただ言えることは、普通の敵ではない。厳しい訓練を受けたソルジャーだということです」
 パンパン。
 立て続けに天井に穴が開く。明らかに朱雀か西尾を狙っている。
 いや、狙われているのは西尾だろう。
 朱雀はそう確信していた。
「おい、車体を路肩にぶつけろ。奴を振り落とすんだ」
 屋根の敵のいるあたりに銃撃を続けながら朱雀は叫んだ。
 車が激しくローリングする。
 ガガガッ!
 路肩のガードレールに車体をこすりつける。
 パン!
 鋭い銃声と共にリムジンが激しくバウンドした。
 敵の撃った銃弾が、運転手の胸を打ち抜いたのだ。
 コントロールを失ったリンカーンコンチネンタルが斜めに傾いた。
「掴まれ!」
 朱雀が叫んだ。
 それが最後だった。
 ガードレールを突き破ったコンチネンタルのリムジンは炎を上げながら、路肩の斜面を転げ落ちて行った。

 ダブルベットに並んで腰を降ろしている。
 歌舞伎町奥のラブホテルである。
 どうしてこうなったのか?
 百合愛の横で神宮匠は考えている。
 すでに彼女は服を脱いでいる。
 裸体に身につけている物といえば、真っ赤なショーツにブラくらいなものだ。それも縁どりにレースのフリルをあしらった、目で観て楽しむタイプのものだ。男を落とすときに用いる、いわいる勝負下着というやつだろう。
 確かに匠の目から見ても百合愛は魅力的な娘だ。いまでも真っ赤なブラジャーからはみ出しそうな豊かな乳房や、ショーツから延びるスラリとした美脚は据え膳ものである。
 しかしだからと言って、この娘をどうこうするという気持ちは彼にはない。
 彼女が自分に気があるとは思えないからだ。
 ここ暫くの間、彼女がしきりとモーションを掛けていることは分かっていた。頻繁にメールをくれるし、同伴やアフターの誘いも受ける。
 最初それは営業用のお誘いメールだと思い、あまり気にしてはいなかった。百合愛は人気のキャバ嬢なのだから。
 それでもあまりに数が多いと、何らかの意図があるのではないかと勘ぐるものだ。だから彼女の誘いに乗りアフターに付き合ったのだが、まさか行き成りラブホに連れ込まれるとは思わなかった。
 この娘は枕営業もするのか?
 枕営業とは身体を張って指名を取る、キャバ嬢たちの間では禁じ手である。百合愛ほどのキャバ嬢が、わざわざ禁じ手を使ってまで営業成績を伸ばしたいと考えるとは思えない。
 では、他に目的があるのか?
「ねえ、タクミくん・・・・」
 そうこうしているうちに隣の百合愛が手を延ばしてきた。ひんやりとした冷たい指先が、ワイシャツ越しの素肌に触れる。上着はすでに脱がされている。
 うっとりとした表情で、下から匠の顔を見上げる。
 近くで観るほど美しい顔だ。
 なるほど。こんな娘が、こんな表情で迫ったら、大抵の男は制御不能に陥るだろうな。
 覚めた脳裏で考える。
 匠の口すれすれに近づいた、百合愛の紅唇。ため息の香りに誘われて、その唇に触れようとした時、彼女の瞳に鋭い光が宿った。
「やーめた」
 白い掌を延ばして匠の顔を背ける。
「ちょ、ちょっと。いいところなのに」
 寸前のところで御預けを喰わされた匠は、抗議の声をあげた。
「ごめんね、タクミくん。誘惑しようと思ったけど、わたしやっぱり無理だわ」
「誘惑? なんで?」
「頼まれたのよ」
「誰にすか?」
「うーん。それはちょっと言えないなあ」
 匠はくすりと笑った。
「バレバレっすよ。どうせケイさんあたりでしょ」
 うふふ。
 と百合愛は意味深の笑みを浮かべる。そんな顔をしたときの彼女は、とんでもなく色っぽかった。
「で、どうしてやめたんです? 自分はそれでも構わなかったのに」
「わたしの目的は、君をわたしに夢中にさせることよ。でも、君は無理。わたしには夢中にはならないわ」
「何でわかるんす。自分がユリアさんの目的に気付いているからすからですか?」
 百合愛は首を振った。
「そんの関係ないわ。わたしの目的が何であれ、大抵の男はわたしを抱けばわたしを支配しようと考えるわ。もう一度わたしを抱こうと考えるし、それが重なれば、わたしを自分のおんなだと思い込む。それって、一見わたしを支配しているようでも、実はわたしにコントロールされているってことなのよね」
「そんなもんすかね」
「そんなものよ、男のひとなんて。でも、君はちょっと違うみたい」
「違う?」
「どっちかと言えば女の子タイプよね。君みたいなタイプは、わたし達みたいな水商売系の女の子にはよく居るタイプだけど、男の子にはちょっと珍しいタイプかな。だからやめたの。無駄だから」
「何のことか、さっぱりっす」
「わからなくてもいいのよ」
 百合愛は脱ぎ捨ててあった服を着始めた。
「だからごめんね」
「残念っす」
 匠は心底そう言った。それがあまりに可愛かったので、思わず百合愛はその頬にチュッとキスをした。
「でもわたし、君のことキライじゃないわよ」
「慰めになってないす。ところでユリアさん、ちょっと訊いていいすか?」
「なあに」
 百合愛は大きな目を見開いた。
「お詫びに、わたしの答えられることなら、なんでも答えるわ」
「えと、実は後輩のユキさんのことなんすけど」
「ユキちゃん?」
「彼女って、ケイさんのよく行くバーのバーテンダーさんの紹介って言ってましたよね」
「そうよ。パクさんていうの。ケイさんとは仲がいいみたい」
「日本人じゃないですよね」
「韓国人だと言っていたわ。でもそれが何だというの?」
「いえ、ちょっと」
 匠は斜め上を向いて、ちょっと考え込んだ。
 それを見て百合愛はため息を漏らした。
「そういえば、あの娘。最近様子がおかしいの」
「様子がおかしい?」
「あの娘、ケイさんの後輩のマコトくんと付き合っているんだけど、どうも他におとこがいるみたいなのよね」
「二股っすか」
 百合愛は頷いた。
「それがどうもクリスタルのパクさんみたいなのよね」
「彼女を紹介したパクさんすか」
「わたしの勘だけど」
「つまりパクさんは自分のおんなをグランフェスティバルに紹介した?」
「多分ね」
「なるほど」
 匠は腕を組んで考え込んだ。
「ねえ、タクミくん。わたしどうしよう。マコトくんはケイさんの後輩だし、パクさんはケイさんの友達だし。わたしどうしたらいいか、わかんない」
 百合愛は頭を抱えていた。
「修羅場っすよねえ」
 そんな百合愛の頭を撫でながら、不謹慎にも匠は苦笑してしまった。

「そうか、ダメだったか」
 百合愛からの携帯を受けて、花柳慧一は少しほっとした気持ちになった。
「ごめんね、ケイさん。色仕掛けはあのコには通じないわ」
 電話の向こうで申し訳なさそうに言う。慧一はちょっと意地悪がしたくなった。
「何故だい? あいつトッポいから、結構いけると思うけど」
「あのコには元の自分とは別に、常にもうひとりの自分がいて、それがこう斜め上から自分たちのことを眺めているのよ」
「もうひとりの自分?」
「わたし達みたいな水商売の女の子にはたまに居るんだけど、例えば身体を売っている時に、そういう行為をしている自分とは別にもうひとりの自分が居て、冷静にその状況を観察している、みたいな」
「意味がわからん」
「つまり自分の心を分離して自分を守るのよ。そうしないと自分の心がどこにあるか分からなくなっちゃうから」
「それって二重人格ってことか。あいつがそうだと言うのか?」
「二重人格とはちょっと違うかな。第三者的視線で自分を見れるってこと。一種の自己防衛じゃない。男の子にしては珍しいタイプだと思う」
「それで色仕掛けは効かないというのだな」
「何かに夢中になっているようでも、頭のどこかでは冷静に状況を分析しているからね」
「なるほど。そういうことか」
 それで慧一は思い当たった。
 匠のあの破天荒な行為も、何事にも恐れを知らない大胆不敵さも、そう考えれば納得がいく。つまりあいつは、自分の人生でさえテレビのドラマかなにかを観るような感覚でいるのだろう。
 それは心理学用語でいう「メタ認知能力」というのに近いものなのだろうが、もちろん慧一はその言葉を知らない。
「だから、ごめん」
「いや、謝ることはねえよ」
 慧一は電話の向こうで笑みを浮かべた。
「謝るのは俺のほうだ。実をいうとな、ちょっと後悔していたんだ」
「え?」
 百合愛の声が驚いたように弾んだ。
「お前、いまどこに居る? 店か?」
「うん? ああ、お店はまだ。その前に寄る所があるの」
「寄る所?」
「ユキちゃんがね、ここ2-3日出勤してないんだ。ちょっと心配だから・・・」
 百合愛が言葉を聴きながら、慧一はその気配に気付いていた。道路の端から、じっとこちらを見詰める視線に。
「ケイさん、どうしたの? ケイさん」
「・・・ユリア。ちょっと野暮用だ。また連絡する」
 男と向き合った。
 慧一はその男を知っていた。いや、その男の名前は知らない。ただ一度、写真で顔を見たことがあるだけだ。
 しかしその顔は決して、忘れられない顔であった。
「花柳慧一だな」
 男は言った。
「話がある。少し付き合ってくれないか」

 新宿駅東口アルタビルの壁面には大きなTVモニターが設置されている。
 そのモニターにはいま、きれいに化粧した女性アナウンサーが定期のニュースを流している。
「昨日未明、中央高速相模湖インター近くで、暴走した自家用車が路肩に衝突し大破するという事故がありました。事故車はリンカーンのリムジン。車内からは、同乗者とみられる3名の男性の遺体が発見されました。またそれとは別に、側道では別の男性の遺体も発見されています。目撃者の話では事故の直前、左右に大きくぶれるような運転を繰り返していたとのこと。また車のバックファイヤーのような音を聞いたとの情報もありました。警察では事故と事件の両面から捜査を開始した模様です」
 神宮匠と万丈東天は駅前の広場からそのモニターを眺めていた。
 新宿駅の東口は平日の夕方だというのに人が溢れかえっていた。地下の出口から吐き出された人の波は、幾つかの流れを作って思い思いの方向に散っていく。
 ひとつの流れは、新宿通りを通って3丁目方向へ。もうひとつの流れは大ガードを潜って西口方面へ。そして靖国通りを渡って歌舞伎町方面へ向かう最大の本流。
 その巨大な人の流れに逆らって、ふたりはモニターの前に立ち止まっているのである。
「あれが西尾義一だというのか?」
 人混みに押されながら万丈東天が言った。
「はい。本庁では大騒ぎっす」
「車の中には3人の男がいた。ひとりは運転手としても、もうひとりの男は誰かな」
「わかりません。死体の損傷が激しかったようで。ただ事故ったリムジンが、八坂興行の車だということがわかってるっす」
「八坂興行? 西尾は朱雀に身辺保護を頼んだということか。なんで鳥鎧組ではなく八坂興行なんだ?」
「もしくは朱雀に拉致されたか、ということすかね」
 ふたりは靖国通りを渡って歌舞伎町に向かう。
「近くにもうひとりの死体があったということだろう?」
「はい。何者かは正体不明っす。例によって公安がすべてをかっさらってしまいましたから」
「また公安か。どうにも胡散臭いな」
 万丈は苦い顔で言った。
 西日はビル街の壁面を照らして、ゆっくりと沈んでいく。日本一の繁華街に火が灯り、それは一晩中途切れることはない。
「ただ、どうやら外人らしいって話っす」
「外国人? 黒手組か?」
「さあ。自分は部外者っすし、聴いているのはあくまで噂レベルの話ですからね」
「黒手組が奪われた西尾を奪還に動いて、事故にあったとすれば辻褄は合うのだがな」
「そうすね」
 靖国通りを渡ると歌舞伎町の大ガード。
 当時正面のとっつきには、コマ劇場の大きな建物があった。ふたりは人の流れに身を任せ、人混みの中を漂う小舟のように進んでいる。
「ところで万丈さん。雨宮雫の殺害現場でケイさんが殺されなかった理由について、自分なりに考えてみたんすけど」
「ほう。興味深いな」
「犯人はケイさんを泳がせておいたほうが得策と考えた、というのが妥当と思うんすよね」
「何故泳がせたんだ?」
「それは犯人が雨宮を殺さなければならない理由を、ケイさんが知っている可能性があると考えたからじゃないですか?」
「言っていることが、よくわからないが」
 匠は考えをまとめるように、少し時間を開けて言葉を続けた。
「雨宮の部屋には僅かですが物色した痕跡がありました。もっともあの部屋には遺留品は殆どありませんでしたから、何かを捜したとしても大したことはなかったでしょうすけど」
「つまり、あの部屋からは犯人の目的とするものは見つからなかったわけだな。それを慧一が知っているんじゃないかと考えた」
「はい。他に可能性はありませんからね」
「しかし、だとすれば、その場で慧一を起こして吐かせたほうが早いんじゃないか」
「そうするには時間がなかったんじゃないすか。ケイさんはあの通り、薬でグッスリ眠ってますし、あの体格をみても普通の男とは思えない。何かを訊きだ出すにしても、それなりの時間は掛かるでしょう。殺害現場に残ってそれをするにはあまりに危険す。第一犯人は殺しのプロであって、そういうことをする人間ではない」
「それで仕方なく、慧一はそのままにして現場を離れたわけだな。とすると犯人は、当然慧一を監視するはずだが」
「そうすよね。自分もそう考えました」
 匠は嬉しそうに言った。
 コマ劇場前の猫の額程の広場に腰をおろす。
 もう陽はとっぷり暮れ、西日の明かりは人工のそれへと代わっていた。
 様々な色に髪を染めた若者。似合わない化粧に露出度の激しい衣装を身につけた女の子。それに付きまとうスカウトやホスト。宵の口から顔を染めた中年のサラリーマン。異様に日本語のうまい客引きの黒人。奇妙な格好で掃除をしているオカマ。ヤクザ。外国人の不法労働者。
 様々な人間たちがふたりの横を行き過ぎる。
「そこで面白い話を聞いたっす。グランフェスティバルのユキちゃんが、ケイさんの弟分の彼女になってるそうすが、同時に紹介元のパク・チャンミョンさんという男の彼女でもあるそうなんす」
「それってつまりそのパクという男が、慧一の情報を得るために、そのユキという女を慧一の弟分に近づけたってことか?」
「はい。ケイさんがユリアさんを自分に近づけたのと一緒っす」
「何の話だ?」
 ジロリと万丈が目を向ける。匠は苦笑を浮かべた。
「まあ、それは置いといて、そうやってパクという男はケイさんの行動を監視していたっちゅうことす」
「誰なんだ、そのパクという男は?」
「クリスタルという3丁目のバーのバーテンダーみたいっすね。ケイさんの行きつけの店で、パクとも顔見知りだったそうです。雨宮雫と知り合ったのも、そのバーだったらしいす」
「なるほどな」
「で、そのパクという男なんすが、店では韓国人といってるようなんですが、自分が調べたところに寄ると、どうやら北の脱北者らしいいんす」
「脱北者? 北朝鮮の工作員ということか」
「はい。その可能性はあると思います。北といえば西尾がロボを卸そうとしていた所す」
「なるほど、大分繋がってきたな。そのパクという男が北側の窓口で、雨宮殺しの首謀者という訳か」
「はい。恐らくパクは北朝鮮の工作員らのまとめ役みたいなもんだと思うす。で、問題になってくるのは、なんで彼が雨宮を殺さねばならなかったのかということなんすが」
「それは、多分・・・」
 万丈は言葉を切って、匠の瞳を見た。思った通り、この神宮匠は相当な切れ者だ。
 問題はどこまで事実を知っているか、だが。
「雨宮雫はロボに関する何かを、円道寺から預かっていたんだろう。パクはそれを捜していたんだ」
「いい推理っす。自分もそう思います」
 匠はニヤリと笑った。
「ところでそうなると、ひとつの疑問にぶち当たります。雨宮雫はケイさんを眠らせたあと、どこかに外出してるすが。一体、どこへ行ったんでしょうね?」
 するどい視線で万丈の顔を見詰める。
 暫くの沈黙の後、万丈は大きな息を吐いた。
「まいったな。まさかそこまで気付いているとは思わなかった」
「やっぱり、万丈さんがあれを隠すように仕向けたんですね」
 匠はにこりと笑った。
「ああ、お前の考えた通りだ。俺が雨宮に、慧一の体に隠すようにアドバイスしたんだ。ケイはこの事件にはノータッチだし、あいつなら多少のことは何とかするだろうしな」
「でもケイさん、黒手組には襲われましたよ。やっぱり連中もケイさんに目を付けていたんですね」
「ああ、ケイには悪いことをしたとは思っているよ」
「万丈さん」
 改めて匠は万丈に向き直る。
「あなた、一体何者なんすか?」
「夜の世界の始末屋、といったところかな。表には出れない汚い仕事を引き受ける便利屋だ」
「そんなところだとは思ってました」
「なんでわかったんだ?」
「最初に会った時、万丈さんは腕に怪我をしてましたよね、酔っ払って店の階段から落ちたって。あれってどう考えても不自然ですよね。バーの店主が自分の店で階段から落ちるほど酔っ払っいますか?」
 万丈は苦笑いを浮かべた。
「ああ、確かにあれは苦しい言い訳だったな。実をいうと襲われたんだ」
「誰に襲われたんすか?」
「さあな。黒手組の人間かも知れないし、お前がいうように北の工作員かも知れない」
「だから、ケイさんだったんですね」
「俺が依頼されたのはロボの後始末だ。俺はそれを雨宮から受け取ったが、俺は黒手組の人間に目を付けられていた。だから一時的にそれを慧一の身体に隠そうとしたんだ」
「それであの日、ケイさんを酔わせた雨宮はあなたから何かを受け取り、それをケイさんの身体に隠した。そのあと北の工作員がやってきて、雨宮雫は殺害された」
「まあ、そういうことなんだろうな」
「犯人はあの防犯ビデオに写っていた人物ですね。雨樋を伝って8階のベランダから侵入し、そこから脱出した」
「恐らくそんなところだな」
「そいつが西尾を殺害したんですか?」
「そこまではわからん。しかし、奴らが陰で動いていることには間違いない」
「で、なんなんです? その隠したものというのは? そしてそれをケイさんのどこに隠したんです?」
 万丈は匠をみた。そして静かに言った。
「知ってるんだろ?」
 その時、白いコートに身を包んだひとりの女がふたりの前に立ち塞がった。
 腰までかかる長い黒髪を和紙で包んで背中に垂らした女だ。顔の色が抜けるように白い。小さな顔の造形は整っているが、その顔には驚く程表情がない。まるで美しいアンドロイドを観るようだ。
「白銀玉藻と申します」
 女はふたりに頭を下げた。

 百合愛は扉の前にしゃがみこんでいた。
 新宿3丁目、バー「クリスタル」。
 花柳慧一の行きつけの店である。1日の終わり、疲れた足を引きずるように必ず顔を出す。
 バーのマスターとは10年来の友人であった。
 ふたりは高校の同級生で、まだ高校生だった頃一緒によく悪さをした仲だった。やがて家庭の事情で慧一が高校を中退すると疎遠になったが、六本木あたりでチンピラをしている頃に再開した。根無し草みたいな生活をしている慧一と比べると、彼はきちんと高校を卒業してそこそこも店でコックとして働いていた。やがて慧一が新宿に居を構えると、彼も3丁目に自分の店を持った。貸しビルの地下に3坪ほどの小さな店だ。
 いわいる幼馴染というやつである。
 そういう間柄であるから、辛いことがあったり寂しくなったりすると自然に足が向く。かと言って何を喋るというわけでもない。ただ黙って水割りを飲むだけである。それだけで不思議と気持ちが落ち着いた。
 他の店ではこうはいかない。確かに万丈東天の店にも顔は出すし、先輩の万丈とはつまらない冗談を言い合ったりはする。だけどもただそこに居るだけで癒される空間というものを彼は他には知らなかった。
 それは幼馴染という特殊な関係が、彼に言葉ではない暖かな癒しを与えるのかも知れない。
 やがて白炳哲(パク・ビョンチョル)というバーテンダーを雇うと、彼はとんと店に顔を出さなくなった。他にレストランを経営してそちらが忙しくなったから、店のほうはパクに任せているのだ。
 慧一はそれでも構わなかった。彼にとって必要なのはその空間だからである。
 韓国出身で当時留学生だった白は、勤勉で経営にも明るかったことから、ワーキングホリデービザから就労ビザに切り替えて、正規に雇うことにしたのだ。だから彼は不正労働者というわけではなかった。
 店主が店に顔を出さなくなった後も、慧一は習慣のように店に足を運んだ。必然的に彼の仲間も店に通うようになり、バーテンダーの白とも顔見知りになっていった。
 百合愛もそうである。
「ユリアさん?」
 地下に降りる階段の下にしゃがみこんで、頬杖を付いている百合愛を認めて白が声を掛けた。食材の入った大きな袋を担いでいる。開店の準備に現れたようだ。
「お店、まだです」
「わかってる。話があるの」
 百合愛はよく光る張りのある瞳を向けて言った。
「そうですか」
 白は頷いて店のドアを開けた。
「どうぞ」
 クリスタルは鰻の寝床みたいに細長い造りであった。店の中央をカウンターで区切っており、向かって右側が調理室、左側が客の座るコーナーになっている。客の座る止まり木には粗末な椅子が6脚。その後ろはすぐにコンクリートの壁である。店の突き当たりに小さな扉があって、トイレと更衣室兼事務室と小さな倉庫が設けられている。
 百合愛はカウンターの一番端に腰を降ろした。白はカウンターの一部をはね上げて中に入った。
「何か飲みます?」
「ううん。じきお店だから」
 それでも白は冷蔵庫を開けて、ウォータージャグを取り出した。
「烏龍茶、いいですか」
 百合愛はスカウトされてすぐにこの店に連れてこられた。慧一の友人というマスターは足が遠のいていたが白とはすぐに仲良くなった。白はユキというタイ人の女の子を彼女に紹介した。
 ユキは白の留学時代の友人の親戚という紹介だった。母親が病気で治療代を稼がなくてはならないが、観光ビザでは就労ができない。よくある話だが、新宿あたりのお水系の店ではそういう女の子が働くことは珍しくはない。もちろん当局に見つかればそれ相応のペナルティを負うことになるが、赤信号みんなで渡ればの例もある。そうしてユキは彼女の店で働くことになったのだ。
 そのユキが行方不明になった。
 ユキは大久保の安アパートに、同じような不法労働者の外国人と一緒に住んでいる。外側に鉄製の階段のついた昭和さながらの木造アパートだ。風呂もトイレもない6畳の部屋に4人の女の子と暮らしている。そんな部屋が2階だけで4部屋、1階には5部屋ある。トイレは廊下の隅に共同のものがあるだけだ。住民はすべて外国人の不法労働者たちである。
 百合愛はアパートへも足を運んだが、共同生活者の誰もが知らないと言った。
 ここでは良くあること。
 入国管理局に摘発される場合もあるし、雇い主とのトラブルで姿を消すケースもある。知らないうちに居なくなることは日常茶飯事、いちいち気にしていられないというのだ。
「ユキとマコトさん、付き合ってます」
 白は他人事のように言った。買ってきた食材を並べて下越らいを始める。
「うん。そのマコトくんも連絡が取れないの。パクさん、何か知らない?」
 百合愛はグラスの烏龍茶を一口飲んで言った。
「彼女とあれから会ってないです」
「ねえ、パクさん」
 カウンターの向こうで包丁を振るっている白に強い視線を向けた。
「パクさんてユキちゃんと付き合っているんでしょ?」
「何ですか」
「マコトくんから聴いたの。ユキちゃんがパクさんとホテルに入るの見たって」
「・・・・」
「ねえ、パクさん。どういうつもり? ユキちゃんと付き合っている上で、自分の彼女をうちのお店に紹介したの? だったら酷い。マコトくんは真剣だったのよ」
 百合愛は尖った瞳でパクを問い詰める。対するパクはあくまで無表情だ。
「誤解です」
「そのふたりが行方不明になった。パクさんは心配じゃあないの?」
 その時、百合愛は異変を感じた。フワリと白の顔が歪んで見えたのだ。
 あれ?
 なんか、私。おかしい。
 天井が回っている。カウンターのテーブルがぐにゃりと曲がって見えた。
「ごめんなさい」
 パクの声がどこか遠くから聴こえる。
「ユリアさん。巻き込むつもり、なかったです。本当です」
 視界が急速に狭くなる。
 そのまま百合愛は深い眠りに落ちていた。

第7章 百合愛

 高層ビルの間に登りかけの月が見える。
 下半分が透明な満月だ。登りきった月はやがて消える。今夜は皆既月食なのだ
 都立大久保病院の裏側は、夜の闇に沈み始めていた。
 この周辺は歌舞伎町には珍しく人の流れは殆どない。病院の脇道には、こちらにひとりあちらにひとり、ワケ有り風の女性が立っている。いわいる「立ちんぼ」といわれる売春婦たちだ。その殆どは東南アジア系の不法労働者たちである。通りの反対側にあるホテルで事に及ぶシステムだ。
 中国系のマフィアや日本のヤクザに騙されて、故郷の家族を支えるためにここで身体を売るしかない女性たちだった。
 病院の裏手は細長い公園になっている。
 その公園の中程に花柳慧一は、その男と3メートル程の距離を開けて向き合っていた。
 ホテル街で声を掛けられ、ここまで歩いて来たのだ。
 公園脇の街灯の光を受けて、ふたりの姿が長い影を落とす。公園にはふたりの他には誰もいない。
 細身だががっしりとした体格の男だ。スーツの上からも鍛え上げられた肉体であることは直ぐに知れた。薄暗い公園の中なのに、オリバーピープルズのサングラスは掛けたままだ。
 年齢は30前後。身長は慧一のほうがやや高い。
「名前を聞いておこうか」
 慧一は言った。
「御門龍介」
 男は短く応えた。
「ふうん。見たツラだな」
 こいつだ。
 間違いない、と慧一は思う。
 いつぞや神宮匠に見せてもらったビデオに映っていた男だ。藤井佳子と名乗っていた雨宮雫の部屋に入って行った男である。そのあと雨宮の部屋のガラス戸は、円道寺健壱の銃撃により粉々に砕かれている。円道寺が電車に飛び込み自殺する前日のことだった。
 正確には雨宮のマンションに入って行ったのを、防犯カメラで捉えられたものだ。しかしその事件のある前後に、男の姿は映っているのである。男が雨宮の部屋に居たことは間違えないといってもいいだろう。それは円道寺の放った銃弾は、この男に向けられたものと推測されるのだ。
 では、この男は何のために部屋に入ったのか? そしてその後、あとから入った円道寺との間に何があったのか。円道寺は何故この男を銃撃したのか?
「ほう、俺の事を知っているのか?」
 御門龍介と名乗った男は少し意外そうな顔をした。
「直接知っている訳じゃない。ビデオで見たんだよ」
 慧一は探るような目で男を見た。
「防犯ビデオでな」
「ほう」
 龍介の唇が僅かに綻んだようにみえた。
「奇遇だな、俺も同じだ。あんたのことは防犯ビデオで見た」
「どういうことだ?」
「雨宮雫」
 龍介はその名を口にした。
「何だと?」
「雨宮雫だ。知っているんだろ?」
「貴様・・・」
 慧一の頭にカッと血が登った。この男、何を知っている?
「マンションのエントランスにある防犯ビデオに、あんたの姿が映っていたんだよ。もっともそのビデオの映像には、削除された形跡があったようだったがな」
「貴様。警察(サツ)か?」
「彼女を殺したのか?」
 慧一の問いを無視して、龍介は探るように言った。
「知るか。第一、その事件の捜査本部は解散しているはずだ」
「へえ、詳しいんだな」
 ゆらり。
 御門龍介の身体から怪しい気配が滲み出てきた。まるで黒いかげろうのように、それは彼の周囲からゆるゆると立ち昇る。
 花柳慧一の全身がそれに反応する。筋肉が強張り、呼吸が早くなる。
 全身をアドレナリンが駆け巡る。
 間違いない。
 と、慧一は思う。
 慧一と百合愛が黒手組の襲撃者におそわれた時、暗闇に潜んでいたあの気配。人とも獣とも思えぬ凄まじい威圧感。それと同質のものをこの男から感じるのだ。
「知っていることを話してもらおうか」
 龍介は静かに言ったが、そこには強い決意のようなものを感じた。言わないのであれば力尽くでもという強い意思を、溢れ出すその気配に込めたのだ。
 それはある意味、殺意にも近い感覚となって慧一に襲いかかってきた。かと言って龍介は何をするわけでもない。ただ静かにその場に佇んでいるだけである。
 慧一の放つ殺気が、合わせ鏡のように慧一自身に跳ね返っているだけなのであった。
「てめえか」
 慧一の声は震えていた。
「とりあえず礼を言っておこうか。あの時、百合愛を助けてもらった礼を、な」
「ああ、あの時か」
 龍介は思い出したように言う。
「あんたに訊きたいことがあったんだが、あの時はとんだ邪魔が入っちまったんでな、今日になってしまったんだよ」
「へえ、そうかい。話なら、俺も聞きたい事があるんだ」
「なんだい?」
「あんたも雫を知っているんだろ? いや、あんたには藤井佳子といったほうがいいか」
「何故それを?」
「あんたと同じだよ」
 ようやく慧一は主導権を握った余裕をみせてニヤリと笑った。
「円道寺健壱だ、鳥鎧組の。知ってるだろう? そいつのマンションにあんたが入っている姿が防犯ビデオに映っていたんだ」
「それがどうしたと言うんだ?」
「雨宮雫、いや藤井佳子は円道寺健壱のおんなだった。あんたが彼女の部屋に入った直後に円道寺はその部屋を訪れ、その部屋では発砲事件が起きている。円道寺が自殺する前日の話だ」
「お前、何者だ?」
 龍介の身体から放つ気配が圧力を増した。じりりと間合いを詰めて来る。
 慧一の唇がめくり上がる。
 やる気か?
 上等じゃねえか。
「知りたきゃ、腕ずくで来い!」
 慧一の足が跳ね上がった。
 前蹴りである。
 ただの前蹴りではない。「古法体錬」の前蹴りは、相手に向かって突き出した膝先をパイロットとして、自在にその方向を変えることが出来る。
 慧一の下腿から先は、顎先に伸ばした膝を中心に、半円を描くように龍介のこめかみを強襲した。
 しかしその蹴りは、龍介の頭部には届かない。彼が蹴りの届く間合い寸前で、その歩みを停めたからだ。
 慧一の背筋を戦慄が駆け抜けた。
 空振った蹴りの隙を狙われたと思ったからだ。
「ぬう」
 両手で頭部を守りながら身を沈める。
 上体を地面すれすれまで這わせながら敵の攻撃を交わす。ボクシングでいう「ダッキング」に近いものだ。
 そのまま上体でローリングしながら踏み足を前に進める。
 攻防一体の摺り足。
 古法体錬の「獅子神楽」だ。
 神楽を踏みながら左右の掌打を繰り出す。閃光の疾さだ。
 しかし。
 届かない。
 一撃必殺の掌打は、いずれも紙一重のところで龍介の身体には届かない。
 絶妙の間合い感覚だ。
 神楽を踏みながら前に前に足を運ぶが、相手は微妙な距離感を保ったまま後方に下がる。だから、慧一のパンチは龍介には届かないのだ。
 だがしかし。このまま下がれば。・・・
 ついに龍介の背は、公園の境界の金網に触れていた。これ以上は下がれない。
 チャンスだった。
「しゃあ!」
 慧一は叫んだ。
 左の膝先をパイロットとした強烈な回し蹴り、「蛇行打」を放った。
 瞬間、御門龍介の姿が消失していた。
 慧一の蹴りは境界の金網を激しく叩いていた。
 後方を振り返ると、龍介は最初の位置から一歩も動かずに、じっとこちらを見詰めている。
「馬鹿な」
 慧一は戦慄していた。
 それまで左右のパンチを放ちながら追い詰めていたと思っていた相手が、もとの場所から一歩も動いていないことに気付いたからだ。
 では今まで自分が相手にしていたものは何だというのだ?
 慧一は唖然としてその場に立ち尽くした。
「そこまでにして置くんだな」
 その肩を叩く者がいる。
 慧一はビクリとその身を震わせた。自分の背後に人が居ることに初めて気づいたのだ。
 そこには数人の男女が立っていた。
「そいつは敵じゃあねえよ」
 万丈東天が言った。
「ま、味方でもねえけどな」

 職安通り沿いの日本料理店に入った。
 日本庭園の敷地に離れの個室を備えた、隠れ家風の和食専門店だ。韓国料理やネパール系の店が幅を利かす職安通りには、珍しい店構えであった。雪見障子の窓から庭園の夜景を眺めると、ここが新宿の繁華街とは思えない静けさがある。
 歌舞伎町とは道路を一本挟んだ向かいである。この地にあった料亭の跡地を和食料理店に改装したものだという。
 離れの奥まった一室に、一同は顔を揃えた。
 花柳慧一、万丈東天、神宮匠、そして御門龍介と白銀玉藻の5人である。
 一同は大久保公園で顔を合わせた。花柳慧一と御門龍介が睨み合っている最中であった。万丈東天と神宮匠に白銀玉藻を加えた3人が、ふたりの前に現れたのである。その後3人は大久保公園のふたりと合流し、玉藻の予約したとみられるこの店に足を運んだのである。
 白銀玉藻と名乗る女は奇妙な女であった。
 腰までかかる長い黒髪。白い小さな顔は、ひとつひとつのパーツがきれいに整っている。それだけ見れば相当の美形なのだろうが、残念なことに表情というものがまったく見られない。人としての生気が感じられないのだ。
「・・・白銀さん?」
 神宮匠が目を見張ってその美しい顔を見詰めた。
「何か御用ですか」
「はい。あなた方にお話したいことがあります」
 鈴を転がすようとはこの事かというようなきれいな声で玉藻が言った。
「話したいこと?」
 万丈は眉を潜めた。
「あなたは私達のことを知っているのですか?」
「はい。失礼とは思いましたが、少々調べさせていただきました」
「ほう」
「神宮匠さまに万丈東天さまですね」
「あなたは?」
「失礼しました。私、御門龍介の秘書をしている者です」
 そう言って彼女は名刺を差し出した。そこには「インターナショナル・システム・インテグレータ秘書室」の名前があった。
「御門龍介、聴いた名前だな」
 万丈は唇を歪めて言った。
「ご存知とあれば話は早いですわ」
「誰っす?」
 匠が万丈の耳に囁いた。
「例のビデオに写っていた男だ。藤井佳子のマンションの」
「ああ・・」
 匠は思わず大きな声をあげた。
「で、彼はいまどこに居る?」
「花柳慧一さまと会われています。先程、話があると申したのは御門のほうからです」
「なるほどね」
 万丈は了解した。
「御案内さしあげます」
 そしてこの店に足を運ぶことになったわけである。
 
「今日、君たちをここへ招待したのは他でもない」
 店の離れに通され、一通り自己紹介が終わった後で御門龍介は口火を切った。
 予想外の展開に誰しもが言葉を失っていた。ただひとり、花柳慧一のみが必然的に場を仕切るようになった龍介に、燃えるような視線を投げかけている。
「僕たちと同じように、君たちもそれぞれに情報を持っているだろう。ここはひとつ、お互いの情報を持ち寄って情報交換の場にしようではないか」
「その前にひとつ。いいっすか」
 神宮匠が予備校の教師に質問するように手をあげた。
「御門さんとおっしゃいましたっけ。あなたIT企業の役員さんのようすが、何でこの事件に足を突っ込むようになったんすか?」
「ふうん」
 龍介は匠の方を向いて口蓋を吊り上げた。
「君は確か刑事さんだったね」
「警視庁の強犯係っす」
「その君が、何で殺人犯を擁護しているのかね」
 ガタリと座椅子を鳴らして花柳慧一が立ち上がり掛けた。その腕を万丈が抑える。
「この人は雨宮雫を殺していませんよ」
「ほう。何故そう言い切れる」
「自分がそう判断したからっす」
 匠はすまして応えた。どうやらひとりだけ、この雰囲気を楽しんでいるようだ。
「雨宮雫のマンションの防犯ビデオに、花柳君の姿が写っていたはずだが」
 慧一はドキリとした。
 何でこの男はあのビデオのことを知っている。それにあのビデオの自分の部分は、匠が消去しているはずなのだ。
「あのビデオにはそんな画像は写ってなかったっす」
「へえ、そうかい」
 匠の応えに、龍介は意外な程あっさり引き下がった。
「それよりどうやってそんなビデオを手に入れたんす? あれは証拠物件として警視庁が保管しているはずっすよ」
「さて、どうしてかな」
 龍介は意味深な微笑を浮かべている。得体の知れない男である。
「話を変えますが、御門さん。あなたこそどうして事件の起きる直前、藤井佳子の部屋を訪れたっすか?」
 この事件というのは、円道寺健壱の発砲事件を指している。
「さすがは警視庁。よく調べているな」
「マンション前の防犯ビデオを解析したっす」
「なるほどね」
「その直後、円道寺健壱は藤井佳子の部屋の窓を銃撃しています。その時、あなたはあの部屋にいたはずです。あの部屋で一体何があったんですか?」
「答える必要があるのか?」
「あのう自分、一応刑事っすけどね」
 匠はバッチを開いて見せた。
「独自行動をしている君には、捜査権はないはずだろう」
「おいおい。それじゃ話にならないな」
 ふたりの会話に万丈東天が割って入った。
「御門さん。今回の趣旨は情報の交換なのでしょう。答える必要がないでは情報の交換にならない」
「いや失礼、確かに趣旨から外れているな。わかった、応えよう。俺が彼の部屋を訪れたのは、彼の持っているある物を破棄するためだった」
「それはロボのことか?」
 万丈は硬い表情で言った。
「ほう、良く知っているな。まさにその通りだ。ロボは危険なドラッグなのだ」
「そこで彼と口論なり、発砲されたというわけか?」
「まあ、そんなところかな」
「簡単に言うが、相手は暴力のプロだぞ。そんな男の銃撃からよくぞ逃れられたものだ」
「命がけだったよ」
 何事もなかったことのように応える龍介に、さすがの万丈も目を剥いた。
 一瞬の隙を突いて、再び匠が横から口を挟む。
「ちょ、ちょっと待って下さい。最初の質問に戻るす。あなた一体何者っすか?」
「何者って、いまも言ったろう。インターナショナル・システム・インテグレータというIT企業のサラリーマンだよ」
 龍介はもう一度匠に視線を戻す。
「ふざけるのもいい加減にするっす。ただのサラリーマンが、ドラッグに手を出しますか。ヤクザ者に拳銃を向けられて、ヘラヘラ笑ってられますかっちゅうんす?」
「ちょっと待て。お前いま、インターナショナル・システム・インテグレータと言ったな。インターナショナル・システム・インテグレータといえば、確かデライト・コンサルタントの子会社だ」
 それまで黙りこくっていた慧一が火を吹くように言った。
「ほう」
「て、ことはつまり、あんた渋沢統一郎の手先ってことか」
 何のことです?
 暴力団組織図に疎い匠は、万丈の耳に囁く。
 渋沢統一郎というのは経済ヤクザの大物で、六条委員会というひがし東京のヤクザ共同体の一員である。その渋沢が根城にしているのが、デライト・コンサルタントという経営コンサルティング会社だということを説明した。
「それはどうかな」
 含み笑いを堪えながら、龍介が応える。
「そこの万丈先輩に聞いてみたらどうだい?」
 こいつ!
 万丈は唸った。
 俺と渋沢の関係を知っているのか?
 先日の渋沢との会見が脳裏をよぎった。
 一同の視線が万丈東天に注がれる。
「こいつは裏稼業の人間だ。始末屋といって、頼まれればなんでもやる裏の世界の掃除人だ」
「つまりあなたは、渋沢統一郎というヤクザの親分に頼まれて、ロボというドラッグを始末しようとしているという事ですか?」
 匠は龍介のサングラスを越しの瞳を見詰めて言った。
 その瞬間、ゾクリと背筋に怪しい戦慄が走った。
「まあ、そういうことにしておこうか」
 あっさり認めた龍介に、万丈は違和感を覚えた。渋沢の依頼でロボの後始末を任されたのは自分である。それをこの男は知っているはずだ。では、何故そのことを口にしないのか?
 御門龍介はある組織に属している。その組織に情報をもたらすために、インターナショナル・システム・インテグレータに入り込んだのだ。
 渋沢統一郎の言葉が思い出される。
「問題はそのヤクザの親分が何を企んでいるかということすが」
「渋沢は経済ヤクザだ。ドラックとかドンパチは性に合わないんじゃないか」
 龍介は平然と言い切った後で、万丈に向かった。
「そうだろう万丈君。同業者である君ならわかるはずだがね」
「同業者?」
 慧一が驚いて万丈の顔をみた。万丈はやれやれというように鼻の頭を掻いた。
「まあ、隠しても仕方がない。確かにこちらさんの言うとおり、俺も裏の仕事を引き受けている。ただし、こちらさんと顔を合わせるのは今日が初めてだ。この世界に同じような仕事をしている奴がいるとは正直驚いたぜ」
「俺も驚いているよ。で、万丈君、君の依頼人は誰かね?」
 龍介は皮肉たっぷりに聞いた。まさか渋沢統一郎とは言えない。
「まあ、秘匿義務とでも言っておこうか」
「そうか、それもいいだろう。では、お互いの正体が知れたところで、雨宮雫殺人事件の話を聴かせてもらいたいんだが」
 龍介は花柳慧一を見て言った。

「俺は殺ってねえよ」
 慧一は不貞腐れたように言った。頬を冷たい汗が伝う。
「前にも言ったと思うが、殺された雨宮雫のマンションの防犯ビデオに、酔っ払った君と彼女の姿が写っていたんだがね」
 おい、大丈夫か?
 と、慧一が匠の袖を引っ張った。こいつは本格的にヤバイぜ。なんであのビデオのことを知っているんだ?
 大丈夫っす、任せて下さい。とでもいうように、匠は袖を振り払う。
「だから、そんな画像は存在しませんって」
「それは君がその部分を削除したからではないかね、神宮君」
 やはりこの男は何かを知っている。
 万丈は戦慄を覚えた。
 警察に保管されている証拠品のビデオを手に入れることなど、一介の始末屋風情に出来うる話ではない。おまけに彼は、消去されたビデオの一部分を復活までさせている。こんなことが、いかに裏稼業の人間といえど簡単に出来うるものだろうか。
 そこで気にかかるのは、渋沢の言っていた「組織」である。
 この男が属している組織とは一体何か?
 少なくともそれは、警察機構にすら何らかの影響をもたらすものであるのに違いない。
「何言ってるんすか? 刑事である自分が、そんなことをするはずないっすよ」
 神宮匠は平然とすっとぼけた。もちろん彼にしても、御門龍介の裏稼業に関する違和感には気づいているはずだ。気づいた上で素知らぬ顔をするのが、この男の食えない部分なのだ。
「まあ、いい。では、彼が犯人ではないという、君の見解を聴かせてもらおうか」
「ガイシャの頸骨は左側に損傷がありました。これは右利きの人間が、後方から激しく絞めた時に生じる損傷す。ケイさんはご覧の通り左利きっす。だからホシには成りえないっす」
「犯人は前方から絞めたとは考えなかったのかね」
「それはないっす。ガイシャはホシが持ち込んだとみられるロープで絞殺されているっす。正面からそんなもので首を絞めようとしたら、誰だって抵抗しようとするっすよ。ところが爪のネールもきれいに塗られたままで、少しも剥がれていません。相手の腕や身体を掴んで抵抗しようとしたら、少しくらい剥がれていても不思議はないす」
「彼女がそういう趣味の人間だったとは?」
「自分もそれは考えたっす。でも、残念ながら、雨宮さんにもケイさんにもSMの趣味はなかったようす」
「俺はいたってノーマルな人間なんだ」
 慧一は胸を張って言った。
「彼女が殺されたときに眠らせられた可能性は?」
「彼女の血液からはそのような痕跡は発見できませんでした」
「なるほど、それが君の見解か」
「これを見てほしいっす」
 匠はポケットから1枚の写真を取り出した。そこには公園らしき植え込みの間を走り抜ける、黒衣の男が写っていた。雫のマンション前の防犯カメラに映った映像から写真に落としたものだ。
「これはガイシャのマンション前の公園の防犯カメラから採った写真す。ここに写っている黒衣の男、よく覚えておいて欲しいす」
 そしてもう一枚の写真を取り出す。アジア系外国人の遺体の写真だ。黒いキャップ、顔には墨を塗り、やはり黒衣に身を固めている。前の写真の男は残念ながら顔までは写ってはいないが、背格好や体格は遺体の男に似ている。
「これは先日、中央高速の事故現場近くで発見された遺体の写真す。このふたり、どことなく似ているとは思いませんか?」
「中央高速の事故で亡くなったのは極右翼の西尾義一という話だったな」
 写真に目を落としながら龍介が言った。
「はい。近くで死んでいたこの男は北の工作員と見られているっす」
「つまり、この男が走っている西尾の車に飛び乗って、事故を起こしたというのか?」
「恐らく。西尾は鳥鎧組の円道寺と組んで、ロボを北朝鮮へ運ぼうと企んでいました。しかし中国の黒手組が両者の間に割り込んで、ロボの密輸を自国へと誘導しようとした。そこで北は西尾を始末したとは考えられませんか」
「つまり君は、この工作員が雨宮雫をも殺害したというのかね」
 匠は頷いた。
「はい。彼女のマンションの雨樋には、何者かがよじ登った形跡があったっす。また、彼女の部屋のガラス戸には、針の先ほどの穴が確認されました。多分、そこから細い針金のような器具を入れて、ガラス戸の鍵を開錠したと思われます。手口から見ても犯人は殺しのプロ。北の工作員なら十分にその可能性はあるっす」
「なるほど、話は概ね了解した。しかし、そうなると問題になるのは・・・」
「北の工作員が雨宮雫を殺害した動機っちゅう話っすね」
 匠はニコリと笑った。
「いや、その前に凶器のロープが残っていた点が気にかかる。殺しのプロが殺人の凶器を現場に残していくか?」
「ケイさんに殺人の容疑をかけるつもりでは?」
「プロの工作員がそんな面倒なことをするか。俺がホシなら一緒にいた花柳も殺して、それで終わりだ」
「そう。その通りっす」
 匠は嬉しそうに言った。
「犯人は何故ベットに眠り込んでいるケイさんを殺さなかったのか、それがこの事件のキモなんす。そしてそれが殺人の動機を解明する鍵になるんすよ」
「どういうことなんだ?」
「実行犯は雫さんを殺害すると共に、あるものを回収するのが目的だった」
「なるほど」
 納得した表情で龍介は頷いた。
「それはつまりロボの設計図ということだな」
「その通りす。しかし、それは彼女の部屋からは発見できなかった。だからホシはケイさんを泳がせることにした。彼女と一緒にいたケイさんなら、何かを知っていると思ったからではないすか?」
「おいおい。俺は何も知らねえぜ」
 慧一が横から口を挟む。
「わかっているす。雫さんは、ケイさんが眠っているうちに、それをケイさんの身体に隠したからっす」
「俺の身体に?」
 慧一が驚いた声をだす。匠はニヤリと笑って、
「それを彼女に指示したのは、この万丈さんすがね」
「済まなかったな、慧一。お前なら、まあ大丈夫と踏んだのだが」
 頭を下げる万丈に、慧一は不審な眼差しをむける。
「万丈さん。あなたは一体・・・?」
「そこの御門さんと同業者だ。裏稼業の人間だよ」
「・・・・」
 慧一は絶句した。確かに万丈をただの堅気の人間と思ったことはない。しかしそれでも、面と向かって告白されればショックであった。
「で、その隠し場所ということだが・・・・」
 龍介が言ったとき、慧一の携帯が鳴り出した。
 携帯を開いてみると、新着のメールが届いている。それを一目見た瞬間、慧一の顔色が変わった。
「どうした? 慧一」
 その変化に万丈が気づいた。
「大変だ、万丈さん。ユリアが拉致された」

 天空に真っ赤な、血のような月が浮かんでいる。
 ブラッド・ムーン。
 今日は満月だった。宵の口から月食は始まり、いまではすっかり地球の陰に隠れている。
 古来より、ブラッド・ムーンは不吉の前兆なのだ。
 廃棄された工場跡地の天窓から、その消えかけた月の断末魔がしずかに降り注いている。切れかけの明滅する蛍光灯の明かりを受けて、白天命は昏いコンクリの地面に立っていた。
 部屋の中には壁に沿って、木箱やダンボール箱が天井近くまで積み上げられている。その他にもボルトやナット類の詰まった袋や、なにやら分からない機械類が埃を被っている。
 彼の横には3人の大陸系の男たち、拘束されて男たちの足元に転がされている相馬誠とタイ人の少女ユキそして百合愛に、それぞれ銃とナイフを突きつけている。さらに鍛え抜かれがっしりとした体格のふたりの男たちが、花柳慧一の両横に張り付いている。
 いずれも日本人ではない。白炳哲の手下の、北の工作員たちだ。
「ひとりで来ましたか? 相変わらずいい度胸ですね」
 白はそんな慧一に冷たい視線をむける。
「そんなんじゃねえよ」
 慧一は白から目を離さずに言った。両手は肩のあたりで挙げられている。両側の男たちも、それぞれ銃を構えているからだ。
「ケイさん・・・」
 背後から腕を掴まれている百合愛が、すがるような眼を向けている。
「ユリア、大丈夫か?」
「うん。大丈夫。マコト君もユキちゃんも、みんな無事だよ。それからケイさん、ユキちゃんは本当に何も知らなかったの。ビザが切れていること、入管に報告するって脅されて、仕方なくケイさん達のこと調べていたのよ」
 百合愛に抱かれて、小さなタイの娘はしくしく泣いている。
「わかっている」
「ケイさん。・・・助けて」
「心配するな、すぐに助けてやる」
 百合愛は泣きながら頷いた。
「兄貴ぃ・・・」
 誠が泣きそうな声をだした。目蓋が腫れあがり、右の眼は殆ど見えないだろう。その他にも、顔や身体に無数の痣がみえる。
「すんません。俺がついてながら・・・こんなことに」
「マコト」
「ユキの様子がおかしかったので、問い詰めたんす。そしたらパクさんに脅されて、ケイさんのことを調べてるって。・・・ユキはそのことでずっと悩んでいて、だから俺はパクさんの所へ行って、どういうことか確かめようと思ったんす。そしたら・・・」
 誠は激しく咳き込んだ。その背中を泣きながらユキがさすっている。
「もういい、喋るな。お前たちは良くやったよ」
 慧一は相馬から白に眼を移した。
「手荒いこと、するつもりなかったです。彼があまりしつこくするので」
 白が無表情に言った。慧一の知っている彼とは別人のようだ。
「もう、いいですか? では、そろそろ本題に入ります。例のもの、持ってきてくれましたか?」
「ああ。けど、その前に煙草を一本吸わせてもらえないか?」
 白は少し笑ったように見えた。
「いいですよ。ただし、ゆっくり」
 慧一は横の工作員たちに注意を払いながら、ゆっくりとポケットに手をいれる。煙草の箱を取り出し、一本を口に咥えた。右隣の男が、それに火をつける。
「しかし、驚いたぜ。まさかあんたが、北朝鮮の工作員だったとは」
 大きく煙を吐き出しながら慧一は言った。
「すみません」
「なあ、パクよ。あんたと俺は友達だ。そうだろう?」
「友達? わたしの国のひと、友達いう言葉知りません」
「そうなのかい」
「わたしの国、ひと売ればお金もらえます。叔父が叔母を、弟が兄を、父が子を、密告すればお金もらえます。国はそうして政治犯捕まえます。わたしたちお金ない。食べ物ない。だから家族売ります。そんな国に友達いう言葉ない」
「西尾を殺ったのも、お前らか?」
「彼は同志を裏切りました。許せません」
 白は引き捨てるように言った。
「ふん。まあ、いいさ。そんなことはよう」
「例のもの、出して下さい」
 冷たい口調でパクは言った。
「わかったよ」
 慧一はアイボリーホワイトの帽子を脱ぐと、つばの裏からビニールの袋に入った小さな封筒を取り出した。
「なるほど。雨宮さん、そんなところにマイクロフィルム隠したのですね」
「ああ。この帽子は俺のトレードマークだからな」
「渡して下さい」
「わかっているよ。しかし、あんたこれが何だか知っているのか?」
「ロボの設計図です」
「ロボはただのシャブじゃねえ。人をひとでなくす悪魔の薬だぞ」
「関係ないです。それを持ち帰らないとわたしたち殺されます。わたしたちの家族も」
「そうかい、わかったぜ。じゃあ渡すから、人質と交換だ」
 慧一は強い視線で白をにらんだ。白は無表情に頷いた。
「わかってます。もともとわたし、誰も傷つけるつもりない」
 慧一が右隣の工作員にフィルムを渡すと、同時に人質の3人は解放された。
「ケイさん」
「兄貴!」
 3人が慧一のもとに駆け寄った。
「ご苦労様です。では、これで・・・」
 白の後方の工作員たちが、慧一たちに銃を向けた。
「パク! 貴様!!」
 慧一が叫んだ時だった。突然、壁際に積み上げられた木箱の裏からひとりの男が立ち上がった。
「動くな。警察だ!」
 警察バッチをかざしている。一瞬、一同そちらに気を取られた瞬間、部屋の明かりがフッと消え失せた。
 バン!
 ダン!
 肉が肉を打つ音と、甲高い女の声が闇を切り裂いた。
 パン、パン!
 ひと呼吸置いて、鋭い銃声が轟く。暗闇に火花の閃光が走る。
 朝鮮語の怒鳴り声。
 女の悲鳴。
 肉が肉を打つ響き。
 人が倒れる音。
 また銃声。
 怒号。
 ドタドタと床を踏み鳴らす足音が過ぎ去った後、しばしの静寂が訪れた。その静寂を打ち破るものは、彼方より近づきつつあるパトカーのサイレンである。
 再び明かりが点いたとき、コンクリの床には3人の工作員たちが倒れていた。
 他には誰もいない。

終章

夜更けである。
 天上の月はレビューの刻を終え、もとの青白く輝く満月に戻っていた。
 花柳慧一、万丈東天、神宮匠の3人は、神楽坂のパブスナック「東天」のカウンターに顔を揃えていた。ウィスキーの水割りを提供したのは店主である万丈東天である。
 なんとか現場を脱出した彼らは、とりあえず重傷を負った相馬誠を病院に収容した。ここ神楽坂にある万丈の息のかかったモグリの医者である。いかに奴らでも、簡単には見つけられないはずであった。
 百合愛とユキはそのまま病院に残った。ユキが眠ったままの誠の枕元から離れようとしないからだ。
 百合愛が言った通り、ユキは何も知らぬまま白に利用されていたようだった。彼女は北朝鮮がどこにあるのかすらも知らなかった。
 誠の様態が安定したのを見定めて、3人は東天に移動した。
 善後策を相談するためだ。連中がこのまま大人しくしているとは限らない。
「しかし、ヤバかったすね」
 やれやれという表情で匠が言った。
「お前な、デカなんだからハジキくらい持ってろよ」
 そう応じたのは慧一である。
 匠が拳銃を所持していれば、もっと簡単に事は済んだはずだとなじったのだ。もちろん本気ではない。
「制服じゃあないんすから、簡単には拳銃なんか持てないすよ。第一、一発撃つ度に始末書すから、やってらんないっす」
「そういうな。こいつのバッチのお陰で助かったんだ」
 そう執り成したのは万丈である。
 あの時、正面から乗り込んだ慧一とは別に、万丈と匠のふたりは裏口からこっそり忍び込んでいた。裏口に張っていた工作員は、万丈の「死神の鎌」が片をつけた。
 そして頃合を見計らって、匠が連中の注意を引く間に、万丈が室内の明かりを消すという算段になっていたのだ。
「連中、あれで引き下がりますかね」
「まあ、大丈夫だろう。奴らの目的とするものは手に入れたんだ。足が付く前に本国に引き返すだろうよ」
「ニセものっすがね」
「偽物?」
 慧一が驚いた声をあげた。
「当たり前っしょ。誰が本物を渡しますか」
 そう言って匠はポケットからマイクロフイルムを取り出した。
「連中、偽物に気づいても遅いっす。その頃やつらは海の上っしょからね」
「まったく。大したタマだよ、お前は」
 慧一は水割りをあおった。
「ところで、あのふたりはどうした?」
 思い出したように万丈が聴いた。あのふたりとは御門龍介と白銀玉藻のことである。
「さあ。自分たちには関係がないとか抜かしやがって、どこへ姿を消しやがったか」
「気になるな」
「そうすね」
 匠もうなずいている。
「奴ら何者なんだろう。万丈さんと同業者とか言ってましたけど、どうなんですかね」
「さあな、俺ら闇の人間にはそれなりのネットワークがあるんだが、奴のことは誰も知らない。よほどのモグリか、それとも・・・」
「なにやら只ならない臭いがするっす」
「ああ。御門はもちろん、あの白銀とかいう女も只者じゃない。ただ座っているだけだが、一分の隙もなかった。何かの武術を身につけているんだろう」
「武術?」
「お前の古法体錬や俺の柔道のようなものだ」
「それより気にかかるのは、彼が雫さんのマンションの防犯ビデオのデーターを持っていたことすよ。しかも自分が消去した部分まで再生していた。あのデーターは本庁の科研が厳重に管理していて、簡単には持ち出せないはずっす」
「まさか、警官?」
 慧一がハッとしたように匠の顔を見た。
「さあ。それはないと思うすが、本庁のなかには何をしてるのか分からない人間がウヨウヨしてるっす。秘匿捜査官(モグラ)なんかは、警官の履歴にすら載ってませんからね」
「潜入捜査官か?」
「まさかそれはないとは思うが、いずれ何かしらの組織に属していることは間違いないな」
 万丈が言う。匠はそれでも腑に落ちないという顔をしている。
「まだ、何か気になることがあるのか?」
 慧一がその顔を覗き込んだ。
「はい。あの男がケイさんに仕掛けた技のことなんすがね」
「見ていたのか? あれを」
 慧一は嫌な顔をした。あの男の前で、一人芝居のような真似をしてしまったのだ。あれは我ながら屈辱だった。いま思い出しても腹が立つ。
「あれはどういうことなんですか?」
「さあな。確かにバックステップを踏んでいる奴を追っていたはずなんだ。しかし気が付くと、奴はもとの場所から一歩も動かず、俺はひとりで柵の所まで行っていたってお粗末さ、笑いたきゃ笑えよ」
 やけくそのようにウィスキーをあおる。
「つまり、ケイさんは幻覚を魅せられたってことすか?」
「ありゃ幻覚なんてもんじゃねえよ、ただそう思い込んだだけだ」
「思い込んだ・・・?」
「お前、なにを考えている」
「ねえ、万丈さん」
 匠は慧一を無視して万丈に向いた。
「万丈さん言ってましたよね、ナイトランダーという殺し屋のこと」
「ああ、あの都市伝説か?」
 そう応えたのは慧一だった。
「あの男・・・御門龍介がナイトランダーだとしたら、あの幻覚を魅せる力で円道寺を電車に飛び込ませたとしたら・・・」
「まさか」
「いや、その可能性は十分にあるっす」
 匠は強い口調で言った。その時、例のマイクロフィルムをいじっていた万丈が大きな声を発した。
「おい、ちょっと待て。これは偽物だ」
「えっ?」
「何だって!」
 万丈は怒って拳を握り締めた。
「ちくしょう。いつの間のにかすり替えられた」
「しかし、何時。すり替えるひまなんかなかったはずだ」
「あの時っす。職安通りの料理屋でマイクロフィルムの話をしたとき」
 匠は遠い眼をして言った。
「馬鹿な、あのときはマイクロフィルムの隠し場所すら明らかにしていない」
「いや、あの男ならやるっす。御門龍介。あの男なら、ケイさんの帽子からフィルムを抜き取って、誰にもそれを認識させないことが出来るっす」
「まさか、そんなことが・・・」
「御門龍介」
 神宮匠は立ち上がった。
「面白くなってきたっす!」

 それから3日後、東京湾の埠頭に何体かの水死体があがった。警視庁の捜査の結果、それが北朝鮮の不法入国者であることが発覚したのである。恐らく北の工作員であろうというのが当局の見解であった。
「まさか、またお前らの仕業じゃないんだろうな」
 御子柴正義警視正は参事官室のソファに腰掛けながら、届いたばかりの朝刊をテーブルに置いた。
「何のお話でしょうか?」
 御子柴の前に直立不動で立っている白銀玉藻は無表情に言った。
 長い黒髪。白い貌。しなやかな肢体。それだけ観れば途方もない美女だが、その顔に表情がないだけに一層不気味である。
 御子柴はその顔をしばらく見やって、ため息を吐き出した。
「まあ、いい。それより龍介のやつはどうした?」
「先生は別件で失礼すると、おっしゃってました」
「ふん。忙しいんだな」
 御子柴は皮肉っぽく笑った。
「死んだ北の工作員のひとりが、あのパク・ビョンチョルであることがわかっている」
「はい」
「残りの連中もパクの手下だろう」
「マイクロフィルムの奪取に失敗したからですか?」
「そうかも知れん。その責任を取らされたか・・・。まあ、そうなるとお前たちにも、多少の責任はあるということだな」
「自分らは任務を全うしただけです」
「わかっているよ、冗談だ。それにしてもよく手に入れたものだ」
 御子柴は朝刊の横に置かれたマイクロフィルムを手に取った。
「彼らがよくやってくれました」
「花柳慧一。万丈東天。それに神宮匠か」
「はい」
 しばらく間を置いて、玉藻が問うた。
「どういたしますか?」
「どう?」
 無表情に問う玉藻に怪訝な眼を向ける。
「彼らは気づきはじめています。特に神宮匠は危険です」
「ふうん。確か神宮は強4の刑事だったな」
「はい」
「強4ねえ」
 御子柴は苦い表情をした。
「何か問題が?」
「強4の吾妻警部補は鶴田刑事部長の懐刀なんだ。まあ、タヌキだな」
「吾妻警部補がですか?」
 玉藻には何のことか判断がつかない。
「狸寝入りの吾妻とはよく言ったもんだ」
 独り言のように呟いた後、
「いずれにしても鶴田の眼が届くところでうかつな真似は出来ないな」
「わかりました」
「龍介にそう伝えておいてくれ」
「失礼いたします」
 玉藻は礼をして室内を出て行った。残された御子柴はマイクロフィルムを手に取ると窓際の明かりに透かせてみた。
 その唇に微かなほほ笑みが浮かんでいた。

「おい。もう一度戻してみろ」
 御門龍介が言った。
 うす暗い倉庫のような部屋であった。広さは6畳あまり。壁には何本もの配管が走っている。くたびれた蛍光灯が汚れた光を投げかけている。
 部屋の奥には大きな事務用机。その上には3台のパソコンモニターが様々な光を放っている。
 モニターの前には男との女ともみえぬ人物がひとり、右手一本でキーボードを操っている。衣のような衣類の袖からみえる左腕は、怪しく光る金属の腕だ。
「ここから、いいか?」
 その人物が言った。錆びた歯車が軋むような声だ。だだし声質から、どうやら声の主は女のようだった。
 女の指が凄い勢いでキーボードを走る。正面のモニターに次々と画像が表示される。
「停めろ」
 龍介が言った。
 画像が止まった。そこにはひとりのヤクザ風の男と、それに寄り添う小柄な黒衣の人物が写し出されていた。
 どうやらいずれかの駅の構内のようである。
 男の方は円道寺健壱。もと鳥鎧組最高幹部である。
 そして、もうひとりの人物は・・・
「これは・・・」
 龍介は唸った。
「神蘭じゃないか」
 モニターには振興宗教団体「陽だまりの家」の教祖・神蘭の姿が写っていた。
 そこはJR池袋駅の構内であった。この防犯カメラの撮られた数分後に、円道寺健壱は東北線のホームから飛び降り自殺を図ることになるのである。
「何か言ってる」
 キーボードを操っている女が言った。すれ違う寸前、確かに黒衣の女が円道寺になにかを囁いているようにもみえる。
「なんて言ってる?」
「わからない。襟元で口が隠れている。読心術は使えない」
「そうか」
 龍介は残念そうに呟いた。
「これまで、か」
 左手に金属の義手をつけた女は背もたれに身体を預けた。
 小さな身体。ボサボサな髪。躰をすっぽりと覆う、マントのような衣装。
「済まなかったな、いちか」
 御門龍介は軽くその肩を叩いた。
 冴木いちかは小さく頷いた。

ブラット・ムーン

ブラット・ムーン

渋谷抗争の数日後、南青山のマンションでクラブバーのホステスが絞殺された。たまたまその現場に居合わせた花柳慧一は、部屋を訪れた警視庁捜査一課の刑事・神宮匠と鉢合わせる事になる。殺人事件の容疑者となった慧一は、神宮刑事とともに事件の真相を追っていく。一方、公安の秘密捜査官・御門龍介は新型覚せい剤・ロボの行方を追って東西ヤクザ戦争と外国人裏社会の抗争に巻き込まれていく。金剛心法、御門龍介シリーズの第2弾。

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-01-12

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