わたしは劇場

 わたしは劇場だ。もう少し詳しく言うとオペラハウス、歌劇場だ。それなりに伝統も格式もある劇場で、石造りの重厚な外観と、リノベーションによって現代的に洗練された内装が自慢だ。もちろんわたしだって昔からずっと劇場だったわけではない。かつては客席に座って熱心に舞台を見る客の一人だった。
 いつの頃からかわたしは劇場になっていた。といっても始めから劇場全体だったわけではない。最初は壁だった。それも吹きさらしの外壁だ。巨大で壮麗ではあったが、それだけだ。それでもわたしは熱心に外壁の責務を果たした。暑い夏はできるだけ風を入れるように微妙に体をねじり、冬は暖房の熱が逃げないようにすき間を閉じた。体に力を入れると壁が厚く硬くなり、熱を逃しにくくなることを先輩の内壁から教わり、その効果を最大限に高めるべく日夜鍛錬に励んだものだ。そんな努力が認められ、やがて内壁も任されるようになった。内壁の先輩は、わたしの昇格と同時に舞台脇の柱に移っていった。
 外壁に加えて内壁も務めるということになれば、観客の頭越しではあるが舞台も見えるようになる。これは嬉しかった。わたしはかつてのように毎夜舞台を楽しみながら、劇場の内壁としての重責を果たすことに無上の喜びを覚えた。
 わたしはそうやって壁として、六年ほど幸せな時間を送った。日々観客を受け入れ、舞台で繰り広げられる世界を囲い込んで、観客を幻想の世界に解き放つ。オペラなりバレエなり、ときにはオーケストラの演奏会といった演目が終わって満足げな彼らを送り出す充実感は何ものにも代え難かった。なんといってもわたし自身がかつてこの観客の一人だったのだ。いま彼らを受けいるれる立場になり、彼らが舞台に感動する場そのものとなることが嫌であるはずがない。
 劇場のほかのメンバーとの真の意味での絆を結んだのもこの時期だ。特に仲が良かったのは屋根だ。壁と屋根とは常に助け合って劇場内の快適な環境を守らなければならないのだから、わたしたちが親密になるのはある意味では当然のなりゆきだった。
「なあ、あんたは屋根になる前はどんな生活をしていたんだ?」
 わたしはある日、屋根に聞いてみた。屋根と親しくなり始めた頃のことだ。
「この劇場に通い詰めていたさ。お前と同じだよ」
「あんたはオペラ派だったのか? それともバレエかい?」
 わたしはさらに尋ねた。
「オペラだ。もちろんときどきはバレエにも来たよ。だけど本当に好きだったのはなんといってもオペラなんだ。おれは昔、ショルティがここでワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を振ったときの公演を見たんだよ。あれは衝撃だった。オーケストラもとんでもない音を出していたし、あのときのイゾルデを歌ったニルソンの声といったら、ほんとに度肝を抜かれたよ」
 わたしはそれを聞いて絶句した。文字通りしばらく言葉が出てこなかったのだ。
「ショルティ、ニルソン、トリスタン……!」
 屋根はわたしの反応を見てにやりと笑った。
「そうだ。あの頃はおれはまだ学生でな、オペラなんて人に誘われればたまに観るというくらいのものだった。だがあのトリスタンは啓示だった。あれが俺の人生を変えたんだ。それ以来ここへずっと通い続けた。毎年毎年、狂ったようにここで上演されるオペラの全演目を見続けた。おれはここで人の崇高さと美しさ、醜さと愚かさ、そういったすべてのことを学んだ。現実世界よりも舞台のほうが、そういったことをより豊かにおれに教えてくれたんだ。観劇がおれの人生で、世間ですごす時間は人生の合間に心ならずも挟み込まれるテレビコマーシャルのようなものだった。そして気がついたときには劇場の玄関になっていた。それと知ったときの喜びは、まあ一生忘れることはないだろうな」
 屋根はうっとりとした表情になっていた。当時のことを思い出していたのだろうか。その顔を見ると、彼がいかに劇場としての自分に満足しているかがよく分かった。
 屋根はこの劇場では苦労人だった。玄関からクロークに変わり、ショップに移り、それから床を経てようやく屋根になった。その途中でいちどはトイレも経験しているのだと、後にもっと仲良くなってからこっそり打ち明けてくれた。彼が舞台をふたたび見られるようになったのは、屋根になった翌年に天井も兼任するようになってからだ。だが彼は、舞台が見られなかった頃からいちども文句を言ったことがない。
「天井からの舞台の眺めは、たしかに最高とは言えんかもしれん。だがな、音響は最高なんだ。歌手の声もオーケストラの声も、いちど天井に反射してから客先に行き渡るんだ。つまりおれは、オペラの舞台とピットで生み出される音を、いちばん新鮮なかたちで全身に浴びることができるんだ」
 屋根は自慢げな笑顔でそう言った。
「それにな、バレエを真上から見るってのは、あれは予想外に素晴らしいものだぞ。群舞がくるくると回りながら開いたり閉じたりする様子ってのは、上から見るのがいちばん綺麗なんだ。おれも実際に天井になってみるまで知らなかったが、あれはいいもんだよ。踊り子たちにいろんな方向から照明があたるだろ? 影が幾何学的に星型に線を引いて、踊りの動きに合わせて万華鏡のように変化するんだよ。ほんとに最高だぜ。それからジャンプのときは、花が開くようにダンサーの身体から一瞬さっと影が離れるんだ。あれを見るときの快感といったらないね。ダンサーによって影の開く速さや広さが違う。影の引き方にも個性がある。とにかく綺麗なんだ。ずっと見続けていれば、ジャンプのときの影の開き具合でダンサーの調子まで分かるようになる。もう病み付きになっちまったよ」
 嬉しそうに語り続ける屋根の言葉にわたしは羨望の念を抑えることができなかった。わたしは屋根と違い、もともとオペラよりもバレエ公演に通い詰めていた人間なのだ。わたしは壁として正面からも側面からも舞台を観られたが、真上から見たことだけはいちどもない。わたしは一日でいいから屋根と役割を交換できないものかと真剣に考えたが、劇場の規則は厳しく、結局許可が下りることはなかった。我々はなんといっても劇場なのだ。劇場は舞台を生み出す栄光の場ではあるが、同時にある種の裏方であることもまた厳然たる事実なのだ。我々は奉仕するために存在しているのであり、舞台を見る喜びはたまたま与えられる特典にすぎない。我々が劇場としての本分を忘れることは許されなかった。

 わたしはその後も、ゆっくりと年数をかけて昇進を重ねた。劇場としての最高の栄誉はなんといっても緞帳(どんちょう)だ。劇場に通ったことのある者なら誰でも幕が開いたときの高揚を知っているだろう。そして様々な人間劇の繰り広げられた後に幕が下りる瞬間というものは、観客の心に感動が満ちる瞬間でもある。つまるところ、幕こそが劇場の真髄なのだ。
 わたしは壁に加えて柱と階段を兼務するようになり、やがてついに緞帳の地位を得る日がきた。緞帳を務める者は、他のすべての任務を手放すという不文律が劇場には存在する。壁だったときには常に、心の中で緞帳に昇進する日を夢見ていたものだったが、実際に緞帳に移る日がきてみると、わたしは長年勤め上げた壁の地位を去ることが惜しくて仕方がなかった。
 これまで自分が壁として積み重ねてきた時間の長さ、そしてその時間の中で濃密に過ごした日々の記憶で胸がいっぱいになり、涙さえ流した。壁からの大量の水漏れは劇場内にちょっとした騒ぎを引き起こし、劇場で働く人間たちが何人も雑巾を持って走り回った。わたしは慌てて気を引き締め直し、涙をこらえた。わたしの涙は公演の始まる前には拭き取られたが、劇場の壁としてあまりにも迂闊な行動だった。これが上演中だったらと思うと冷や汗が出た。ふたたび劇場の人間たちが雑巾を手にし、わたしの冷や汗を拭いて回った。
 わたしは思い入れの詰まった壁の仕事を屋根に譲ろうと心に決めた。同じ譲るのなら、他の誰よりも屋根にこの役割を譲りたいと思ったからだ。
 だが屋根はしばらく迷ったような顔をしてから言った。
「いや、壁は受け取れないな」
 わたしは驚き、何が気に入らないのかと屋根に訊いてみた。そのときのわたしの声はすこし刺々(とげとげ)しくなっていたかもしれない。屋根はわたしに言った。
「気にいるとか気に入らないとか、そういう話じゃないんだよ。なんて言うのかな、それは(すじ)の問題なんだ」
「筋?」
 わたしには屋根が何を言っているのかすぐに理解できなかった。
「そうだ。おれは屋根であり、天井なんだ。もちろん大事な役目だが、誰もが望む仕事じゃない。だけどおれはいままで泥臭い仕事を積み重ねながらやっといまの地位を手に入れたんだ。そしておれはここが気に入っている。ここがおれの場なんだよ」
 屋根の声は静かだったが、いつもの彼にはない力がこもっていた。
「もちろん壁には憧れるさ。おれだって人並みに名声や栄誉を望む気持ちはある。だがもし壁になるとしても、それはお前から譲られるべきものではなくて、おれが自分の手で勝ち取るべきものなんだ。お前に世話されて壁になることは、おれがおれであるための筋が通らなくなるんだよ」
「なにを言っているんだ。みんなあんたがここまで文句の一つも言わずに与えられた仕事をこなしてきたことを知っているんだ。あんたはどんな仕事も手を抜かずに、ひとが五やるところを十やり、ひとが気づかずに放っていることも拾い上げて劇場を影で支えてきた。それを知っているからこそ、壁の仕事をあんたに任せたいと思っているんだ。僕とあんたとは確かに親友どうしだ。劇場全体がそのことを知っている。だけど、だからといって僕が壁をあんたに渡しても、それがえこひいきだって言うやつはひとりもいないよ」
 わたしは言葉を尽くして屋根を説得しようと試みたが、屋根は頑として首を縦に振らなかった。わたしは結局、壁の仕事を劇場になったばかりの新人に与えることにした。時間が許せば屋根の説得を続けたいと思ったが、劇場は毎日舞台があるのだ。壁が決まらないままわたしが緞帳になると劇場が崩壊してしまう。それは決して許されることではなかった。
 屋根との友情は緞帳になってからも続くと思っていたので、一週間も経たないうちに屋根が劇場を辞めると言い出したときには、わたしは非常に大きなショックを受けた。舞台がはけて静かになった夜に、屋根(というよりも、緞帳となったわたしには彼の天井としての側面しか見えなかったが)はわたしに話しかけてきた。
「ずっと前から考えていたことなんだ。もう何年もな」
 屋根の話を聞いて、わたしは驚かずにいられなかった。彼ほど劇場として生きることに誇りと喜びを感じている者はほかにいないと思っていたからだ。
「もちろんおれは劇場が好きだ。特にどこの劇場と限らなくてもそもそも劇場というものが好きだし、その中でもこの劇場ほど好きな場所はない。ここはおれにとっての人生そのものだったからな。おれだって、まさか自分がここを出たいと思う日がくるとは、最初のうちはまったく思っていなかったんだよ」
「じゃあいったい何が不満なんだ? やっぱり壁になりたかったというでも言うのか? それならいまからでもあんたに壁を回せるよう僕から話をつけるぞ」
「いや、そうじゃないんだ。もちろん壁をやりたいと思ったことはあるさ。だけど、いま壁になってもやっぱりすぐに、おれはここを出ることになるだろう」
「どうしてだよ」
「おれには分かったんだよ。ここはおれには大きすぎるんだ。こんな大きな劇場の屋根を務めるなんてそうそう誰にでもできることじゃない。これが実に名誉なことで、自分が本当に恵まれているってことはよく分かってるさ。でもな、やっぱりここはおれの場所じゃないんだ。おれはもっと小さなところで屋根をやるべきなんだ。この劇場にいるとおれはすり減っていく。幸せと誇りに満たされながら、一方で心の底にすこしずつ怒りとも憎しみともつかない何かが溜まっていって、どんどんすり減ってしまうんだ。このままではやがて、おれはおれでなくなってしまうだろう。誰も見向きもしないようなところでもいいから、もっと小さなところで分相応の屋根をやりたいんだ。おれにはそうするしかないんだよ」
 屋根はそう言って涙をこぼした。朝になれば人間たちがまた雑巾を持って走り回るだろうと思ったが、わたしは屋根に泣くなとは言えなかった。胸が張り裂けるような思いだったが、屋根の言い分もわからないではなかった。いまにして思えば、彼が壁を断ったときに、彼はすでに自分で自分を守ることに精一杯だったのだろう。
 わたしは彼のこの決断を心のどこかで予感していたような気がした。幸せの形は人によって違う。彼には彼の幸せがあるのだ。それを求める屋根を、浅はかな言葉で引き留めることはできなかった。
 数日して屋根は去っていった。劇場の誰もが屋根との離別を悲しんだ。壁を務めている新人が屋根も受け持つことになった。この新人の彼は明るく聡明で、誰に対しても礼儀正しく振る舞ったために既に劇場で大きな人望を集めつつあった。わたしも彼とはすぐに仲良くなったし、これまでに蓄積したノウハウを彼に惜しみなく伝えた。優秀な彼はたいして時間の経たないうちにすぐに屋根としても壁としても立派に責務を果たすようになっていった。
 かつての屋根が抜けても劇場は毎日のように公演を続け、我々は忙しく働いた。率直に言うと、屋根が替わってから劇場の雰囲気は以前よりも活発になったくらいだった。だがわたしは去っていった屋根をいつも懐かしく思った。彼の愚直な仕事ぶりは、いま思い出してもやはり尊敬に値するものだった。

 緞帳としての年月のあと、わたしはついに劇場になった。もはや劇場のどの部分というのではなく、文字どおり劇場の全体になったのだ。もちろん劇場には屋根があり、床があり、壁があって幕がある。それぞれを務めている者たちがいる。そういうもの全体をひっくるめた劇場という存在が、いまのわたしなのだ。わたしはいまも自分の内に屋根や壁や緞帳の存在を感じている。だがそれは、わたしが人間だった頃に自分の胸の中に心臓があると感じていたような、そういう認識の仕方だ。自分と異なる存在が自分の中にいるというのではなく、自分を構成する要素が自分の中にある。そういうことだ。
 公演は毎日続いている。うまくいく日もあり、思ったほどうまくいかなかった日もある。劇場になってからのわたしにとって、舞台で繰り広げられる公演こそがすなわちわたしの意識であり、意思だった。うまく考えがまとまる日もあり、そうでない日もあったということだ。
 日中におこなわれるリハーサルは、それに比べるとどこか人間だった頃の夢に似ている気がする。さまざまな想念の断片が集められ、試されて、ふたたび闇の中へ消えていく。その後わたしは目を覚まし、夢のおぼろな記憶がやがて舞台というはっきりした形に集約されていく。そのサイクルを日々繰り返し、わたしは劇場としての経験を積み重ねていった。
 総じてわたしはよくやっていると思う。時には思った以上に公演がうまく進み、わたし自身が強烈な魔力のようなものを体内に感じる日もある。そんな公演のあとでも大半の客たちは魔法からぱっと解放されて充実した笑顔で帰っていくが、中には魔法が続いたまま帰路につく客も何人かいる。いまのわたしは知っている。この魔法がかつて自分を捉え、自分を飲み込んだ果てに自分が劇場の壁になったということを。
 わたしという劇場は、劇場の魔力に捕らわれた人々の思念の集合体なのだ。ある日だれかが劇場の一部になる。その彼または彼女の想念がわたしという劇場に加えられる。わたしはそのたびに力を増し、その思念はより広く、深く、そして濃密になっていく。ときにはかつての屋根のように去っていく者もないではないが、何があろうと結局のところ劇場は人々を惹きつけ、人々に魔法をかけて彼らの思念を絡めとっていく。それが劇場に定められた道なのだ。人が劇場を育て、やがて劇場が人を育てるようになって、ある地点からは人と劇場が相互に力を与え合うようになる。
 今夜もまた幕が開く。わたしは公演に向けて徐々に目を覚まし、体内に魔法をあたためる。わたしは劇場なのだ。

わたしは劇場

わたしは劇場

友人が見た夢の中で、私がオペラハウスの壁になっていたそうなので、それを小説仕立てにしたものです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-01-11

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