
四時の悪魔
ホームの上で彼は思い出していた。
少年の彼はレコードを聞いている。とても静に。
(一時間経ったら宿題を始めなければならない)
そんなことはお構いなしにレコードの針は溝をなぞる。
(今日は雨が降っているんだ)
十七センチのレコードが回り終えると、少年の彼はステレオのスイッチを切り、緑色の表示ランプが消えるのをとろけるような目で見守った。消えた後に空白が漂っている。音楽がそこにあった何か、期待、希望、その極小さなものを運んでいってしまったみたいだ。
(今日は雨が降っていて、外に遊びに行けないんだ)
少年は漫画の本を引っ張り出して、文字通り引っ張り出してきて開いた。
(アハハハハ)
しかし、すぐ飽きた。本を放り出した。
(あと、十分)
机の上の目ざまし時計がそう言っている。この時計は、少年が五年生になったとき、記念という規則のために母親が買ってくれたのだ。ドイツ製とかで名前は立派だった。だが少年にはただ歯車が回り自分をいじめる道具。
(時計ってなんだろう)
台所でお母さんがわめいた。
「そろそろ、お勉強の容易をなさい、用意!」
「まだ十分あるよ、十分 十分」
(今日は雨が降っているんだ)
埃がたまり文字盤が黄色くなってしまった柱時計も柱に掛かっている。古い古いものでお父さんの書斎にあったものだ。
(あと九分)
少年は柱時計を見なかった。ドイツ製の金ぴか目覚まし時計をみた。
(八分、七分、六分、三分、一分)
「まだお勉強始めないのですか」
少年は机に向かった。「やってるよ」(やっているよ)「やってるよ」
あくる日も同じ。
三時近くなると学校が終わる。家に帰りつくと、少年の部屋の柱時計がボン、ボン、ボンと三時をつげる。あたかもドイツ製目覚まし時計には三時を示すことができないように。
三時、少年の体中の血液速度は生理的変化なしに早くなり、目の輝きは一等星のように、手や足の骨は弾力を増し、頬には紅がさしてくる。
おやつを食べ、時として外に冒険を求めに行き、時として静に呼吸を整えた。
四時になる。机の上の目ざまし時計は少年に眠気を呼び起こし、金色の短い針はその上、残酷にもチクリチクリと少年の脳をつつき、心臓の鼓動を刺激する。
机の上の教科書の活字を無理やり目玉の中に押し込み、それが脳に達する間近ふたたび眠気を注射し、そして、その繰り返し。
少年はそれらの拷問にも耐え中学生になった。
だが時計は変化なく時を刻む。それが時計の義務だからし方がない。
中学生になった少年には変化が現れた。口の周りには細いながらもヒゲが生え、少年の血液の中に異質な何かがしのびこんだ。それと共に少年の頭に、世の中には矛盾意外なにがあるのだろうという疑問が湧きだした。矛盾が世界、宇宙の根源物質であり、抽象的なものは存在していても不思議はなく、具象的なものは存在してはいけないものなのだ。
中学校から帰るとすぐに目覚まし時計が四時を押し付けがましく指し示すようになった。柱時計の三時の音を聞くことができない。
(とってもさみしい)
台所から母親が声をかけた。これは同じだった。
「勉強の時間ですよ」
帰るとすぐだ。
少年はさらに変わった。眉毛が黒く太くなり、肩がいかつくなり、声が重くなった。
そのうち時計にも変化が現れた。
世の中が少しずつ見えるようになった少年には、時計から何かが這い出してくるのが見えた。
(何?)
それらは少年の前に訪れた。少年ははじめてそれと会ったとき、追い払うわけでもなく、ただじっと眺めた。
四時、ドイツ製金ぴか時計の真ん中から蒼白い悪魔が這い出して来た。
少年はそいつが出てくるところを見ていた。
四時一分前、針の中心に白い小さなヒゲが生え、五十秒、四十秒、蒼白い細い胴、二本の足、二本の手が現れ、四時調度、顔がでてきた。眠くなって、あくびが出るようなヌケた顔をしていた。
時計から外に出ると、悪魔はいろいろな形になった。英語のテストの点数にもなった。どうしてもできない鉄棒にもなった。少年の前で踊り狂った。
少年は四時の悪魔を追い払おうとした。しかし悪魔は睡眠薬と覚醒剤両方をいっぺんに少年の口の中に押し込んだ。薬は交互に作用し、少年の脳と心臓は悲鳴をあげた。蒼白い悪魔は悲鳴がかなでる音楽に聞きほれ、針の突いた尾で少年の目をつついた。
休みの日の三時、少年は柱時計を見ることができた。
黒い天使が柱時計からのんびりと出てきた。ボン、顔をだし、ボン、胴体が現れ、ボン、姿を全部現した。
少年は喜んでそいつを迎えようとした。だが、なかなかそばに寄ってきてくれない。たった一粒の精神安定剤をくれると、遠くから少年を見守るだけだった。
少年は次第にその一粒の薬に心をうばわれていき、それが生涯唯一の幸福のような錯覚に陥った。
少年は高校に入った。それでも目覚まし時計はそこにあった。
(なぜ時計を壊してしまわないのか)
青年になった彼はその質問に答えられなかった。手を伸ばし放り投げれば、それだけだ、だが、それだけでいいのだろうか、はたして。
(時計って、何だろう)
彼にはこの一つの質問が一生かかっても答えられないことに気付き始めた。
四時の青白い悪魔は相変わらずだった。それに反し三時の黒い天使はなかなか現れなくなっていった。
悪魔はだんだん姿をかえた。悪魔の変化、これはダーウィンでも、ラマルクでも、ド・フリスでもない、もちろん放射能でもない。
今、青年の前に出てくる悪魔は、乳房があり、スラットした足があり、顔はいつも誰かに似ていた。毎日変わる顔だった。
四時の悪魔の拷問はこうだった。蒼白い口紅のついた口を半分開き、その柔らかい蒼白いからだを青年によりそわせ、とてつもなく長い指で青年をいたずらし、左の乳房からしぼりだした睡眠薬を、それよりちょっぴり多い目の右の乳房から搾り出した覚醒剤を、青年の彼のからだに刷り込み、その鋭い目で足の先までしびれさせ、動けなくさせてしまう。青年は無言で耐えた。それは三年続いた。
そして、今、三時、家の柱時計は針だけ動いていた。だけど壊れてしまってボンとはならない。黒い天使ははいだしてきた。
青年は受験した大学にいた。掲示板の合格発表を見た。彼の受験番号は掲示板にあった。黒い天使は青年の肩に腰かけ春の歌を口ずさんでいた。茶色の合格通知の入った袋が青年の学生服の脇に抱えられていた。
黒い天使は青年の周りを踊り、祝福し、青年の前を歩いている。合格通知の袋を抱えた髪の長い女の子にも祝福の言葉をかけた。
「おめでとう、おめでとうーーーーーーー」
黒い天使は青年と娘の間をいったりきたりして口ずさんだ。
彼はすこしばかりうきうきしてきた。
合格通知の入った袋を抱えた青年は帰りの電車を待っている。ホームには高校生が喜びと影に分かれてあふれている。青年は金のドイツの時計を思い出した。
彼にとって最後の四時の悪魔が顔を出そうとしている。
四時着の電車が滑り込んで来た。
合格通知をもらえなかった高校生のなりをした蒼白い悪魔が青年の背中をおして、精一杯祝福した。
ブレーキの悲鳴が聞こえた。
高校の黒い制服がちぎれ、光をうしなっていた金ボタンが空を舞った。
ホームの上に合格証書が残され、その上で黒い天使と蒼白い悪魔が取っ組み合いをしていた。
柱時計と目覚まし時計は完全に動かなくなった。
四時の悪魔
私家版初期(1971-1976年)小説集「小悪魔、2019、276p、二部 一粒書房」所収 IMP5
絵:著者