朝の幻影

 ひやりと冷たい誰かの手を、いつのまにか握っていた。
 わたしは自宅のベランダにいたのだ。眠っていたはずが、何故かベランダから仄かに薄青い夜明けの空に光る金星を見ていた。となりにはいないはずの恋人がいて、吐く息は白かった。わたしのそれと、恋人のそれがふたりのあいだで混ざりあい、消えた。恋人は外国に行ったはずだった。わたしはまだ夢のなかにいるのかと頬を抓ったら、痛かった。
 幽かに聞こえるバイクの音が、町の静寂を裂いてゆく。
 恋人はいつものたばこを吸っていた。ひやりと冷たい誰かの手は、恋人の左手だった。二年ぶりに逢う恋人は、少しだけ背が伸びたような気がする。二年前はわたしの目線が恋人の顔の下、鼻と口のあたりだったはずだが、いまは頭一つ分くらい違う。抱きついたら、きっと、わたしの顔は恋人の胸に埋まり、わたしの髪が恋人の首元をくすぐるだろうと想った。久しぶりの恋人の肉体の感触を想像して、少しドキドキした。ときどき街灯が疎らに点る町から、がこん、がこん、という音がする。バイクのエンジン音のあいまに、がこん、がこん、とするので、それがポストに新聞が投げ込まれる音だと気づいたとき、もうすぐ朝がくるのだと思った。改めて思うようなことでもないことを、しみじみと思った。
(おはよう)
 恋人が、わたしの耳元でささやいた。やさしく息を吹きかけるように。
(おはよう)
 わたしは声に出さずに、心のなかで答えた。恋人は微笑んで、すっと消えた。景色に溶けこむように、いなくなった。心許なくなった右手に、左手をそっと添えた。
 町の向こう、遠くに見える山間から、光が覗き始めた頃だった。

朝の幻影

朝の幻影

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-28

CC BY-NC-ND
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