
スケルトン
男は歩道の上で突然立ち止まった。しゃれた小さなアクセサリー店の前である。
「おい、言うことを聞け、そっちにいくな」
彼は右足に言い聞かせた。もちろん口に出していったわけではない、近頃、困ったことに左手と右足は彼の指図通り動いてくれない。理由はいくら考えても分からない。街の中でこれが起きるとどうしてよいかわからず悲しくなる。
左足は気持どおりに進もうとしているのに、右足が勝手に後ろに行こうとする。こんなとき、どんな気持がするか他の人に分かってもらえるだろうか。どうも従順な左足より身勝手な右足のほうが強いようである。
彼は仕方なく右足に逆らわず後ろに行くことにした。そこで彼は後ろ向きに歩き始めることになる。だんだん歩く速度がはやくなっていく。まるで、フィルムを逆回転させたようだ。
道行く人々は彼を見るためにだれしもが立ち止まった。
彼は角のポストのところまで後ろ向きで走るといきなり止まり、今度は全速力で前に走り始る。アクセサリー店の前まで戻ると立ち止まった。まだ続く。また同じように後ろ向きに歩き始め、戻り、を三回繰り返した。
彼の目はうつろになり額から汗がしたたり落ちている。
アクセサリー店の女性の店員が、不思議そうに彼を窓越しに眺めている。店の主人がにやっと笑った。
男はいつものように眠くなってきた。急いで帰らなければ、この発作が起こるとその後に訪れる睡魔は抑え切れない。彼は家に向かって歩きながら、まぶたがダラーンと垂れ下がってくるのを感じた。
白く動くものが彼の目の前をかすめ、青色の光が流れ、星が踊る。急がなくては。彼は黒く動いてくるものに手を上げた。
半分寝たままそれに乗り込み行き先を告げた。
いびきをかき始めた。彼の目の中では白いものが蠢いている。
「どうもすみませんでした・・・」
「いえ、旦那さん酔っているようにはみえませんでしたが、五百五十円です」
「はい、どうも」彼は財布から代金を払った。
彼は半分目を開けた。どうやら自分のベッドに寝ているようだ。上から赤いものが彼をながめている。両目を開けた。丸い大きな目が顔の上から覗き込んでいる。
「あなた、またなのね」
「うん」彼は申し訳なさそうに答える。
「どこでなったの」
「街の中、アクセサリー店の前だよ」
「いやあね、あそこの主人あなたと同級じゃないの」
「うん」彼はつらそうに目をしょぼつかせた。
「精神科の医者に見てもらったらどうなの」
「いやだね」
「しかたがないわね、当分家にいなさいよ、やせちゃって、栄養剤を持ってきておくわね」
彼はまた目を瞑るといびきをかきはじめた。
目の中では薄茶色の汚れた棒がカタカタと踊っていた。
しばらくして、彼は目を覚ました。
「おーい、お前」
「なーに」
隣の部屋から彼の妻の返事が聞こえた。
「目刺しあるかい」
「あるけど、どうするの」
「焼いてくれよ」
「えー?」
「焼いてくれないか、食べるんだよ」
ベッドの中に捨て猫でも入れているのではないかと、妻が不思議そうな顔をして部屋に入ってきた。
「あなたあ」
彼女は彼の顔をしげしげと見つめた。
「やっぱり、精神科のお医者に見てもらいましょうよ」
「大丈夫だよ、なんだか、ちょっと食べたくなっただけなんだ、もう、いいよ」
彼は残念そうな様子で横を向いた。
「いいわよ、今焼いてあげる」
彼女は思案にくれて台所に行った。生命保険を増やそうかしら。
しばらくすると、皿に盛られた目刺しが彼の前に運ばれてきた。妻は彼がどんな格好でそれを食べるのか気にしている。喉をごろごろさせて食べるのではないかしら、などとも思っていた。
彼女の頭の中では尾っぽの短いトラネコがあぐらをかいて目刺をくわえていた。
彼は目刺しを見ると顔をしかめた。
「目刺なんて食えるか」
彼はそう思ってみていたのだが、左手が目刺をつかむと彼の口に押し込んだ。
「喰いたくない」と思いながら彼の歯は美味しそうに目刺を噛み砕いていた。
ポリポリカリカリ、顔をしかめながらもあっという間に、山盛りの目刺を飲み込んでしまっていた。
それを見ていた妻は心配そうにベッドの脇によった。
「あなた、ギロギロね。目刺もいいけど蛋白、脂肪、澱粉質もとらないと」
彼女は彼の手に触れた。意外としっかりとしているので少し安心したようだ。
「あなた、痩せ始めたのは何時からだったかしら」
「去年の秋だよ、秋の風は骨身にこたえる、と言ったら、お前が、骨と身のどちらが本質的な自分だろうか、などと考え込んでいただろう」
彼は落ち窪んだ頬に、さらに笑窪をよせて笑った。
それを聞いた彼の妻は自分の肥えた腕を見て恥ずかしそうに笑った。
彼はふっくらした彼女の頬を左手でなでた。
「何か食べたいな、そうだ、ししゃもが食べたい」
そう言ったが、心にもそんなことは考えもしなかったのだが。
妻はまたかという顔をした。
「明日買いに行くわ」
「うん、たのむよ」
彼は再び睡魔に襲われた。
彼は身体中の力がどこかにすっとんでいってしまったようなだるさを感じ、真夜中に目をさました。
闇の中に山になったものが見える。目がはっきりしてくるに従い、それが自分の左足だということに気がついた。
彼はあわてて右手で左足を押さえつけた。すると左手が持ち上がってきて、彼の鼻をつまんだ。それを右手でとめようとすると左足がとびあがり、ベッドの上で彼と自分の手足のレスリングがはじまった。
とうとう彼は抑えるのをあきらめてしまい、手と足に勝ちをゆずることになった。
ベッドの上でぐたんとなってしまった彼は身体中がかっかとしてくるのを感じた。疲れかというとそうでもなさそうだ。細胞という細胞が堕落してしまい、まるで重力に逆らって生きているのは馬鹿らしいと言った様子だ。細胞たちはベッドのうえにへばりつき、彼が身体を動かそうとしても動かない。彼は昔を思い出し、何とかうつぶせになると、はいはいを試みた。ベッドの上で数センチは移動することができた。
そんな彼を見て誰かが笑った。
「ひゃひゃひゃ」
なんて笑い方だ。そう思って顔を上げると、彼の目にはベッドのわきにいる薄茶色のカタカタしたもの映った。
焦点があってきた。頭蓋骨だ、脊柱だ、骨盤だ、それに手足の骨、骨格だ。
そいつは、歯をカタカタ言わせて笑っている。
彼は叫んだ。
「お前は誰だ」
そいつは目玉のない黒い穴を彼に向けた。
「お前の骨だ、もうお前などと一緒に生きていけるものか、お先真っ暗だ」
「俺の骨だって」
彼は青くなって顔を持ち上げようとした。ところが、水溜りの水のような彼のからだの中を目玉がズルーと動いただけだった。
「俺はどうなっちまったんだ」
彼の呟きを聞いて骨はますます笑った。
「お前はアメーバーのようだ、どろどろの中に目玉が二つ浮いているんだ」
彼は動こうとしたがズルーと目が動いただけだった。
骨は大声を上げた。
「これから俺が俺で、あんたは俺じゃないからな」
「なに、骨のくせに、お前なんか笑っても笑窪はよらないし、泣いても涙がでないじゃないか」
アメーバーになった彼は両端に二つの窪みを作って笑った。
骨はククーと笑って「それが笑窪か」と、アメーバーになった彼を持ち上げた。
そこに、彼の妻が入ってきた。
アメーバーの彼の表情が晴れやかになった。目玉は彼の妻を見て期待した。
ところが案に反して彼女は言った。
「あら、骨のあなたって頼もしいじゃないの」
アメーバーを抱えた骨が立っている。骨は彼女を見るとカタッとあごの音を立てた。笑ったつもりである。
「すばらしい」
骨はアメーバーの彼を部屋の隅にあったくず箱に放り込むと、ぎしぎしと妻に歩み寄り、彼女からおでんの串を引き抜くように骨を抜き取とった。妻の骨をくず箱に投げ捨てると、アメーバーになった妻を手に抱えた。
彼の骨は彼の妻の肉体を目の前に吊り下げて、「ふー」とため息をもらした。
そして踊りだした。
ゴミ箱の中では、妻の骨がもそっと動くと、彼のアメーバーと目を合わせ微笑んだ。
肉の塊の彼は妻の骨に絡みついた。
「ふー」とため息をついて、妻の骨を愛撫しはじめた。
新しくできたカップルは夜明けの光の中で、一組は部屋の中で激しく、もう一組はくず箱の中で静に踊っていた。
スケルトン
私家版初期(1971-1976年)小説集「小悪魔、2019、276p、二部 一粒書房」所収 IMP
挿絵:著者