私の成長は、時計との引き換え。

「やばい、寝坊した!」
時計の針を見ると、時刻は午前10時半。
彼との約束の時間は十時。
もう既に遅刻である。

スマホには彼からのLINEの通知が何件も。
うわ……、電話5回もしてきてる。そりゃそうか。
ヤバいって、絶対怒ってるよな、啓太。

もうこれで何回目だろうか。
私は今の彼氏である啓太とのデートに良く遅刻をする。
いや、今の彼氏だけではない。
元カレの龍一のときも、健太郎のときも、ほぼ毎回のように遅刻を繰り返していた。
遅刻し過ぎて、あきれられていた。
龍一なんかは、「お前、どうせ遅刻するから一時間遅く来てたわ」などと言われる程だ。
そう言われても懲りない私は遅刻をし続けて、結局彼らに振られてしまった。

焦りと、今回の遅刻が原因でまた振られるハメにならないだろうかと、急いで彼との待ち合わせ場所に向かった。
最寄り駅まで全速力で走った。
電車の中でも、「もっとスピードあげてよ。もう、各駅停車とか勘弁して」と自分のことを棚に上げて、心の中で電車を急かした。
当たり前だが、遅刻癖が治らないたった一人のだらしない少女のわがままを聞いてくれるほど、車掌さんは優しくはなかった。

やっとのことで、啓太との待ち合わせ場所に到着した。
当然のようにそこには啓太の姿があった。
彼の元に、私は駆け寄った。
荒い息を呑み込んで。
できる限り急いで。
私の存在に気付いた彼と目が合った。
「おつかれ」
穏やかなトーン。
それが彼の第一声だった。
今度こそ怒られると思い込んでいた私は、彼の言葉が頭に入っていなかった。
とにかく謝らないと!
その思いが先走り過ぎて、全力で頭を下げて謝罪した。
「ホンットにごめん。毎回毎回」
啓太は時間に対して、途轍もなく几帳面だった。
常に腕時計を持ち歩き、約束の時間に一分たりとも遅刻をしたことはなかった。
だからこそ彼に対する謝罪は、誰よりも深いものであった。
今度こそ嫌われる。
でも嫌われたくない。
今まで振られ続けてきた彼氏のことが思い出されて、涙が出そうになる。
そんな私に向かって、彼は言った。
「いいよ、読書してたから」
そうだ。
啓太はいつもこう言って私を気遣ってくれる。
毎回遅刻をする私なんかを許してくれる。
だから私は、いつも優しい彼に甘えてしまう。
遅刻して、物凄く後悔はするのに、それが治らないのは、彼への甘えだ。
「治さなければ!!」と思うのに、啓太はまた「いいよ」って優しく言ってくれるんだろうな。
また、私を安心させてくれるんだろうなって。
彼と一緒にいた経験が、「私はきっと啓太に許される」と心のどこかで思ってしまう。
いつも決意は脆く崩れ去る。
時間に律儀な人ほど、私のことを嫌いになった。
友達だってそうだ。
たった一回、遅刻をしただけで一緒に遊んでくれなくなった。
3回遅刻をしたら、高校の仲良しグループから外された。
5回遅刻をしたら、元カレに別れを告げられた。
しかし、啓太はどうだ?
私が遅刻した回数は、優に10回を超えている。
なのに、私への優しさを一貫して守り抜いている。
私を非難しないし、後で文句を言うこともない。
ずっと私のことを好きでいてくれる。

「じゃあ、とりあえずご飯食べに行こうか」
啓太は自分の腕時計を見ながら言った。
時刻は12時15分。二時間十五分の遅刻だ。
彼が時計を見る仕草は何度も見た。
慣れた手付きで腕をまくり、目から約30cmのところで腕を固定。
その仕草を、会う度に数十回と見るから、今や彼が腕時計を見る一連の流れを、脳内再生できるようになってしまった。

ファミレスに入り、いつものように談笑をしていた。
彼はとても聞き上手だった。
話がすぐに飛んでしまう私の会話にも、笑顔でついて来てくれる。
バイト先の上司の愚痴や、親に怒られた話。
大学単位を落とした話。
いつも話を受け入れてくれる彼に甘えて、普段は友達には言えない不満も存分に話した。
私にとって彼は、生きる上で欠かせない存在になっていた。

彼といると時間はあっという間に過ぎてしまう。
また時計を見る彼。時刻は18時半だそうだ。
彼は唐突に「百道浜に行きたい」と言った。
いつもの穏やかな笑顔を浮かべて。
もちろん私は「いいよ」と言った。
彼と一緒に入れるなら、私は何処にでも行く。
理由なんて必要ない。彼がいるから私もそこへ行くのだ。

沈んでいく太陽が、空を茜色に染めていた。
海に映る大きな光の球体に、私たちは見とれていた。
不意に私の口から「綺麗……」と言葉が漏れる。
彼は小さく頷き、海岸のベンチへ向かった。
目の前の美しい光景に引き寄せられるかのように。
私はそんな彼に着いて行った。
そこからはしばらく無言が続いた。
でも退屈ではなかった。
大好きな彼を隣に感じながら、大きくて温かな光に、私は包まれていたから。
私は、彼と太陽が同化しているかのような錯覚に陥っていた。
彼は、日常では、私の太陽そのものだったから。
遅刻しても怒らない。
私の話を何でも聞いてくれる。
聞き上手な彼は、私の暗い心を何度も明るく照らした。
植物が生きていく上で、永遠の暗闇は辛すぎる。
光合成ができずに枯れてしまうだろう。
私も同じだ。
彼がいなければ枯れてしまう。

また、彼が時計を見た。
空は赤紫に色を変えていく。
太陽がさらに深く沈んだ頃、それが会話の始まりだった。
「美咲」
彼が私の名前を呼んだ。
「何?」
彼は、何かを伝えようとしていた。
何か、大事なことを。
「俺……、実はね」
「うん」
私は、深刻な顔をしている彼の顔を見つめていた。
そのまま、しばらく時間が経過して、彼はまた時計を見た。
「ごめん、急用を思い出しちゃった」
そう言って、彼は立ち上がり、走り去って行った。
私は、あまりに突然のことで、彼を追い駆けることができなかった。
いや、この時に感じた嫌な予感が、私が彼を追い駆ける邪魔をしていたのかもしれない。
こうして、この日のデートはお開きになった。

翌朝、LINEに届いた一通のメッセージ。

啓太:昨日は急に帰ってごめんね。どうしても面と向かって伝えたれなかった。明日、百道浜に10時に来て。絶対にだよ。

昨日行った海岸と同じ場所。
昨日のことを思い出すと、それは何かのメッセージとしか思えなかった。
言いたくても言えない何かを、私に告げようとした。
今回だけは、絶対に遅刻ができない。
絶対に遅刻しないを心に言い聞かせた。
その甲斐あって翌日、私は朝の八時に目を覚ますことができた。
この時間なら、十分間に合う。
メイクや着替えをして、私は家を出た。
八時に起きたのだから、余裕で間に合う。
百道浜なら西新が最寄り駅だ。
そして、私は西新駅に9時半に到着した。
そして、百道浜にもちゃんと十時に到着した。
そこには啓太がちゃんといた。
「なんだ、時間、守れるじゃん」
「え……」
私は、啓太の言っていることが呑み込めなかった。
「いつも遅刻するからダメもとだったけど、試してみて良かった」
「試す?」
試すとはどういうことだ。昨日の悲痛な表情も。途中で帰ったことも。深刻な雰囲気のLINEも。
何もかも、私を試すためにやったことなのか!?
「うん。どうすれば美咲の遅刻癖が治るのかなって、実験してみたの。やっぱり危機感があればいいみたいだね」
啓太のこの発言に、私は怒りを覚えた。
怒りを全身で示そうとしたときに啓太は言った。
「なんてね。本当は別れを告げに来たんだ」
啓太の発言に頭が追い付かなくなった。
何? 別れ?
「今まで言い出せなかったけど、俺、今日からイギリスに留学することになったんだよね。飛行機が12時に出るから、もうすぐに行く」ちょっと、待ってよ。
てことはもう会えないってこと。
もう啓太は私の彼氏じゃなくなるってこと。
「一年間はもう会えなくなる。だから最後の最後に美咲と会いたかったんだ。ごめんね、本当は昨日言うつもりだったのに、俺に勇気がなくて。でも、最後の最後に時間を守ってくれてありがとう」
最後なんて言わないでよ……。
「でも、これで美咲は時間が守れるって証明されたね」
突然のことで頭がついていけなかったが、ようやく状況を理解した。
しばらくは、啓太とお別れということだ。
そして、今日時間を守らなかったら、大好きな啓太の見送りができなかったということ。
すると、啓太は自分の腕時計をポケットから出した。
それは、まぎれもなくいつも啓太が持っていたものだった。
「時間を守れるようになった、美咲にプレゼント」
そう言って、啓太は自分の腕時計を私の手首に巻いた。
「これを俺の形見だと思って、これからは時間をきっちり守るんだよ。俺がイギリスから帰って来て、お迎えする時は遅刻なんてしないでね。遅刻したら没収だから」
私は、気付けば涙を流していた。
いろんな感情が混ざり切って、自分の心の状態が分からない。
いきなり「別れを告げに来た」なんていうから、また振られるんじゃないかって思った。
本当は、今までの彼氏みたいに私の遅刻を怒っていたんじゃないかって思った。
でも留学のことを言われて、少し安心した。
そして「お迎えする時は遅刻なんてしないでね」と言われ確信した。
まだ啓太と付き合ってもいいんだ。
遠距離にはなるけど、啓太はこれからも私の彼氏なんだ。
涙の理由は、寂しさよりも安堵の涙だった。
感情のままに、私は啓太に抱きついた。

啓太をイギリスへ送る飛行機を見ながら、ひんやりと冷たい金属製の時計から、啓太のぬくもりを感じていた。
時間を守れたご褒美。
その中には、これからは遅刻しないという期待も感じられた。
何度遅刻しても怒ることのなかった啓太。
でも本音は私の遅刻癖を治そうとしてくれていたことが分かった。
怒るのではく、時間を守れるようになるにはどうすればいいのか考えてくれていた啓太が、今まで以上に愛おしく感じられた。
だからこそ、私はこの時計に決意を刻み込んだ。

もう二度と遅刻はしない。
時計を没収されたくないから。
啓太の期待に応えたいから。
必死になれば私でも変われるんだって分かったから。

ありがとう、啓太。
この時計はずっと私が持っとくね。
お返しは、成長した私。

私の成長は、時計との引き換え。

私の成長は、時計との引き換え。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-20

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