冬が来たら

 シーナは人間だった。細く白い腕が二本あり、足が二本あり、澄んだ褐色の瞳を持っていて、空気を吸って呼吸ができた。そして今、シーナは仰向けに春のつめたい海に浮かんだまま、長い、長い眠りから覚めたような朝を思い返そうとしていた。ただ、覚えている感情の一つを浮かべながら。

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 シーナはかつてひとりぼっちだった。海が見える、長い坂を登った先の洋風の館で暮らしていた。柔らかく光の差し込む部屋に、真っ白なシーツをいくつも広げて、そこで寝るのが好きだった。朝は遅くまでぐっすりと眠って、昼下がりには外に出る。誰もいない静かな街並みを、ぼろぼろの錆びの浮いた自転車で下って、街の図書館へ行く。そこで、ゆったりとした午後を過ごして、めぼしい本を見つけて、それを坂の上の家へ持ち帰る。
 シーマは文字を理解することができた。それだから、本を読むことで退屈することなく過ごすことができた。

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 ある秋の日、よく晴れた日の午前中。空は、矢車菊の花弁を散らしたように青く、透き通ったビードロのようだった。
 シーナはまた本を読んでいた。古いおとぎ話だった。主人公の人魚は、人間の王子に惹かれ、声を差し出す代わりに魔法で人間になり、王子と結婚しようとするが……たぶんそんなような話だった。

 「遠くに行けばさ、誰かに愛されるかな」

 物語の最後の数ページは、破られていた。人魚は結局どうなったのかわからないまま、シーナはおとぎ話に感化され、声が出ないまま心のなかで呟いた。風に吹かれてひらひらと揺れるページのかけらは、季節の変わり目に枯れて、しおれた花みたいだった。
 シーナだって分かってはいたのだった。この街には、この世界には。ずっと誰ひとりいない。好きな人も、嫌いな人も、どうでもいい人も。それだから愛も恋も存在し得ない。
 寂しさも、愛も、恋も。物語の中でしか知らないはずのそれにやけに焦がれていた。いちばん綺麗な朝焼けを見た時の心のざわめきも、ずっと続いた雨があがったあとの、晴れて澄みきった空の感動も、伝える相手もいないから心の底にしまい込むだけだった。
 自分は、本当はどうしたいのかな。そう思いを巡らせると、不意に涙が零れそうになるのに。それでもこの感情にどんな名前がついているのか、どうすればいいのか、シーナにはいつもわからなかった。

 たしか、昔はひとりじゃなかった。思いを巡らせる。シーナは言葉も文字も理解できる。それが、その証明だった。

 星の色はずっと変わらない。星座のかたちも、月の場所も。止まってしまった時間の中で呼吸だけが終わらない。シーナにとって、誰かと生きることを想像することは難しくはなかった。しかしそれも、海のなかを泳ぐさかなの群れを岸壁から見下ろして、群れのなかで生きることを想像しているだけのことだった。海の中に沈んだ、赤錆びた鉄の構造物に絡みついた海藻が、波に唄うように揺らいでいる。

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 シーナがその少年と出会ったのはそんな時だった。海のそばで偶然見つけたベンチで、本を読んでいた時だった。
「おや、これは珍しい」
 突然の声に驚いで、シーナは読んでいた本を放り投げて、とっさに声のしたほうから弾け飛ぶように離れた。あたりに転がっていた重たい金属の棒を握りしめて、ベンチの陰にぱっと身を隠した。
「ああ、いや。驚かないで。ただの隣人だ」
 そんなこと、言われましても。シーナはおそるおそる、ベンチの陰から顔をだして、声の主を観察した。もちろん、両手はしっかりと金属の棒を握りしめたままだ。
 短い褐色の髪に赤い瞳。凛々しい顔立ちをした少年が、岸壁の上に座っていた。
「人間なんてもう、いないと思っていたのだけど」
 ばしゃん、と水しぶき。足というものが無くて、そこがさかなのひれになった少年が言った。

 ***

 それから、シーナは海に通うようになった。ベンチに座って本を読んでいると、少年が海からばしゃんと顔を出す。そして、そばにやってくる。初めは少し離れて。しばらく経って、岸壁でとなりに座るようになった。
 言葉を交わすことは出来なかったけれど、そばに居るだけでシーナはなぜだか嬉しかった。これが恋なのかな、シーナはいつしかそう思うようになった。

 「私はカイ。見ての通り人間じゃない、わけだけど」

 かい、名前を頭の中で反芻して、空想の音にする。響きがどこか懐かしく感じた。せっかく教えてもらった名前を呼びたかったのだが、言葉は喉でつっかえて外に出ない。不器用な音は、ぐずったような空気の震えになって外に出るだけだった。意味を持たない息が漏れるだけで、言葉はやっぱり話せなかった。
 古い船が、水の上に半分だけ顔を出して、錆色を海から吹く秋の風に晒している。大きな大砲が空のほうを向いている。遠い昔、世界が全員けんかした名残りだと、カイが教えてくれた。

 ***

 シーナはカイのことをもっと知りたいと思うようになった。伝えたいことを、言葉にして伝えないと。そう思ったシーナだったが、シーナには声が無かった。声を手に入れるために、何日も図書館で本を探した。
 結局、シーナには声が無いことが改めて分かっただけだった。口から音が出ないのだ。
 しかし、声の代わりに、文字を使えばいいと思いついた。こんな簡単なことになんで気が付かなかったんだろう! と思いながら、シーナはまた図書館で本を探した。そして、青いインクの作り方が載せられた本を見つけて、早速それを作った。

 ***

 波打ち際で拾った小さな瓶に入れたインクを、鳥の羽根で作ったペンで掬って、紙に言葉を記す。青く紙に滲んだ文字を、拾って、心の中で音にする。かい、初めて手に入れた言葉だった。

 ***

 二人で過ごす日々をいくつも重ねて、季節は変わり始めていた。時折吹く冷たい風が、重ね着をした真っ白なワンピースを揺らす。
 「何か覚えてないの?」
 シーナとカイは、話をしていた。シーナは、今までの日々、具体的には幼い頃のことを何も覚えていなかった。白、が広がるだけで、他には何も無いのだった。シーナは首を横に振るしかなかった。ぼんやりと頭の上に浮かんだ満月が、二人を照らして、静かに揺れる水面に、影を作っている。
 「何も」
 一言だけ、紙に記した。文字が滲んで揺れた。
 「忘れたいことだったら、忘れてしまったほうがいい」
 カイは、それを見ると、なぜだか寂しそうににきっぱりと言いきった。シーナには古い記憶がなかった。思い出そうとしても、なぜだか霞がかかったように想い出に触れることは阻まれる。

 「それじゃあ、私の番」

 カイの話はとても面白かった。海の中の人魚の国のこと、魔法使いのこと、呪いのこと、そしてカイが犯した罪のこと。
 カイは殺しをした、らしい。シーナには正直それがいけないことだとは思わなかった。生きるために殺すのは仕方がないことだと。それだから生命は儚く尊いのだと。それでも、たくさんの人の中で生きていくのに、それをすることはいけないのだと本の中の知識で知ってはいた。

 「君は本当は人間じゃない。私は本当は人間だ。このままだと、元に戻れなくなる」

 突然、カイが呟いた。何をからかっているの、と、書こうとしたところで、ペン先のインクが掠れた。小さな瓶の底に、薄くこびり付いた青が広がっていた。

 ****

 「この世界では人間はもう生きられない。汚してしまった。だから、上の世界には誰もいない。だったら、しないといけないことはひとつだ」
 カイは身につけていた短剣を差し出した。銀色の、飾り気がない精悍な刃物の根元にひとつだけ光っていた真珠が、月明かりを妖しく跳ね返していた。
 シーナは一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。数秒ののち、刃先の白を見て、言葉の意味を理解した。必死に首を横に振る。そんなこと、できるはずがない。
「じゃあ、いっそ二人仲良く死ぬか? 私はそんなのごめんだ」
 必死に首を横に振る。何か言葉にして、叶うなら声にして伝えたかった。そうだ、このまま、二人死んでしまってもいい、そう言いたかった。しかし、シーナにはずっと声がなかった。頼みの綱だった青いインクが入っていた小さな瓶が、空しく転がっている。口をぱくぱくとさせ、声にならない声を出すので精一杯だった。
「最後の魔法使いが、一昨日死んだ。この短剣で命を奪った血は、すべての魔法を打ち消すことができる。でも、この満月までしか使えない。」
 カイは短剣をシーナの手に握らせた。
「君はあの魔法使いの『作品』だから、もう時間がないんだ」
 カイはシーナの白い手を覆うように両の手で優しく握って、自分の心の臓の上に刃先を当てて、少し滑らせた。鮮やかな赤が筋に沿って漏れる。カイは寂しそうに目を細めて、短剣を震える手で握りしめたままのシーナを思い切り強く抱きしめた。そうすると、そのまま刃の全体がカイの胸に深く刺さった。
「お元気で、」
 カイはとびきりの笑顔で、掠れた声で言った。ナイフの真珠が月明かりを集めて、一際明るく輝いた。鮮やかな色を浴びて、シーナが着ていた白いワンピースは夕焼けの赤に染まった。そしてその勢いでふたり絡まるように、一緒に冬の冷たい海に落ちた。カイの身体は、海に触れると、さかなのひれが無くなって、そこが二つの足になった。そして、泡に包まれ、かたちが崩れて、カイを包んでいた泡が無くなるのと同時に消えてしまった。

 ***

 一瞬の出来事だったから、シーナは何が起きたか理解できなかった。ただ、どうしようもない悲しさと寂しさだけを抱いて海を漂っていた。思いきり冷たい海水を飲み込んで、むせ返る。水を思い切り蹴って、浮かびあがる気力も、意味も、理由も、シーナは持ち合わせていなかった。このまま沈んでいこう、そう思った。そして、鮮やかな花弁を散らしたような、言い換えるなら雪が舞ったような。そんな青の中でそっと目を閉じた。

 ***

 どれくらい時間が経っただろうか。シーナはそう思いながら目を開けた。そっか、私は死んだんだ、といつものように心に呟いたら、声が出た。口から泡が浮かんで、弾けた。シーナは真っ白なうつくしいさかなのひれで、まとわりついていた水を蹴った。どうしようもない悲しさと、寂しさにむせ返って、口から最後のひとつの泡が弾けた。シーナは水を大きく吸い込んで息をして、身体を捻った。海の中をぐんぐんと進んでいく。水面で揺れる月が遠ざかって、青が濃くなっていく。ちょうど、眠りに落ちていくように、胸がなぜだか苦しくなる。感情の名前が、一つ浮かんだ。覚えているのは、ただそれだけだった。

 ***

 シーナはかつて、そして今もまた人魚だった。白く、細い腕が二本あり、足は無くさかなのひれがあり、水の中でも呼吸ができる。

冬が来たら

 この「冬が来たら」は、「世界観の中に小説を登場させた音楽をつくり、それにMVをつける」という合作の初めの段階の小説として書いたものになります。音楽がしばしニートなのでさんで、映像は私(302)です。ぜひ観て、聴いてください。(下にリンクを貼っておきます)

2999 / しばしニートなので

niconico https://nico.ms/sm34341777
Youtube https://youtu.be/dLnPvZnoTT0

冬が来たら

冬が来たら、あの満月が終わるまで。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-19

Copyrighted
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