波間に隨に

 冬の海には、夏の海と違った良さがあるよね。
 そう言って寒空の下の波打ち際で君が笑うけど、打ち寄せる波も、水飛沫も、ただ冷たいだけだ。こんなくすんだ藍の海の何がいいのかわからなかった。
 なのに君は、靴も脱がずにその白波の中に足を浸らせる。真っ赤なスニーカーが水を染み込んで、深い紅に染まる。そうして、やっぱり冷たいって笑う。当たり前だろう、もう雪も降り出すような、そんな季節なのに。
 ねえやめなよ。わたしは言う。戻ってきなよ。そんな深いところまで行って。君は泳げないでしょう。ねえ、やめて。お願いだから──
 ねえ。



 去年の冬、君は突然一冊の絵本を差し出してきて言っていた。

“私、人魚なんだ”

 爪弾き者が言うことだから、あまり本気にしていなかった。図書室の一番端の、窓際の席。灰の空から白雪が風に煽られながら舞い落ちる。窓に叩きつけられては校庭に降り積もる。外は息を吐けば白く染まる、身を刺すような寒さが広がっているのだろうけれど、暖房の効いた図書室は温くて、微睡むほどだった。
 煩わしくて顔をしかめるわたしと目を合わせると、君は困ったように笑っていた。

「君が人魚なら、君は声を持たないはずだけど」

 そうだね。短く答えて、君はますます困ったように視線を落として、絵本の表紙を見ていた。
 誰もが知ってるアンデルセンの書いた童話『人魚姫』。とある人魚の少女が人間の男に恋をし、魔女にお願いをして人間の脚を手に入れようとした。脚を手に入れる代償に、人魚は声を失う事となると魔女は言った。それに、男が他の女と結婚したなら、人魚の心臓は粉々になり、海の泡沫となり消えてしまうという。更に、手に入る人間の脚は、一歩あるくごとに鉄の棘で貫かれるように痛むのだという。にもかかわらず、人魚は脚を手に入れ、声を失った。

「痛みに耐えて歩いても、愛を伝える手段を持たない人魚。やがて男は別の女と結婚する。泡になるのを待つだけの人魚の元に、人魚の姉たちがやってきて、一本のナイフを差し出して言うんだ。『このナイフで想い人の心臓を貫きなさい。そうすればあなたは人魚に戻ることができる』と。……でも、人魚は男を殺せなかった。だから、人魚は魔女が言うように、海の泡沫になり、消えてしまう。残酷な話だよね」

 君は、控えめに小さく顎を引く。

「それで? 君はその人魚だと言うのか。けして面白い冗談には聞こえないけれど」

 あまり、気にしないで。積もったばかりの雪のように柔らかく笑んで、君が言う。絵本を引っ込めて、胸の前で掛け替えのない物のように抱き締める。いつもそう。君は、わたしがちゃんと向き合おうとした瞬間に目を背けるのだ。だからわからないままなんじゃないか。
 苛立って、わたしは鞄を肩にかける。二つ折りにしていた赤いマフラーを首にかけながら、出口に向かって歩いたら、後ろから腕を引っ張られた。
 あの、付き合って……ほしいの。と。
 振り向けば、迷子の子供みたいな不安そうな双眸が揺れていた。わたしはこの瞳に弱いのだと思う。振り払うことは簡単なのに、押し退け方がわからなくなるのだ。
 仕方なく、溜息混じりに問う。

「何に?」

 君は、おずおずと窓の外を指差した。校庭の向こう。くすんだ藍の海が広がっている。

“友達だから。見てて、ほしいの”

 君の言葉の意味はよくわからなかったが、不安げな子供じみた瞳が潤んで見えたから、わたしはもう駄目だった。



 海に向かう道中、君は柔らかく笑んだまま、ぽつりぽつりと話した。友達がいなかったんだ。それは少し寂しかったけれど、当然のことだから。やっぱり仕方ないよねって割り切るしかなかったの。と。
 好きな人がいたの。相手のことなんて殆どなんにも知らないんだけどね。だって、なにも聞けなかったから。何も話せなかった。と。
 それでね、私の好きな人も、誰か好きな人がいるんだって気が付いたんだ。誰なのかは、わからない。でも、確かにいるんだなって、わかっちゃった。ずっと見てたもの。ただ見つめていた私だから、わかったの。
 そう言って、君は砂浜をサクサクと歩いていく。冬の海は、砂浜までもが鈍色をしているふうに感じた。空も、海も、砂浜も、何一つ夏には敵わないように見える。そう感じるのはわたしの見方の問題であって、海自体は何一つ変わらないから。ただ夏と同じように、ザザアン、と波が鳴く。

「ねえ」

 君の赤いスニーカーは、海水を含んで真紅に染まっていた。冷たいって笑い声は、涙を堪えているようにも聞こえた。打ち寄せる波にふらつきながら、君は一歩、また一歩と前に進む。引いていく波は、君を連れ去ろうとしいるみたいで。

「……やめなよ」

 制服の赤いチェック柄も、真紅よりも深い紅に染まる。君の震える肩は、寒さによるものなのか、それとも。
 わたしの声に、君は一度だけ振り返ってみせた。
 噛み締められた唇の隙間から溢れる言葉は無い。代わりに、君の大きな瞳から零れた、硝子のような一滴は、海の泡となり消えてゆく。
 わたしは、そんな君になんて言葉をかけるのが正しかったのだろう。
 見つめ合って、言葉もないまま。やがて君は踵を返して。紺色のブレザーが海に染み込んで、濃紺にかわっていく。
 知っている。わたしは知っていたんだ、本当は。
 君は人魚だなんて言いながら、泳げないってこと。
 君はずっと一人きりでいて、ずっと寂しかったこと。
 君に、誰か好きな人がいたこと。ずっと君を見ていたわたしだから、気付いたんだ。
 それから、君の好きな人の正体も知っていた。
 もっと言えば、君の好きな人が恋していた相手のことだって、知っていた。
 なのに──届かないんだ。こんなに距離があるから。

「お願いだから……!」

 わたしの声は、夏の残響に呑まれて消えてゆく。
 それはきっと、とある夏の夕暮れ。うたた寝の中に見た幻想だから。

「…………」

 教室で一人きり。放課後の誰もいない空間を、黄昏色が染め上げていた。
 あれから半年。君はいなくなった。君がいなくなると、誰一人、君のことを覚えている人もいなくなった。最初からそこに君はいなかったみたいに、誰も彼も君の存在をなかったことにするのだ。君のことを覚えているただ一人のわたしが、逆に変人扱いされる。そんな日々が半年も過ぎれば、君の存在なんて、本当に泡沫の夢だったのではないかと思えてしまう。
 教室からは君の席がなくなっていた。
 名簿にも君の名前はなくなっていた。
 少しでも君の残渣を探そうとしたけれど、わたしの記憶の中にも君が本当にいた事を確かめる証拠は、一つもなくって。その姿と、その表情だけが色濃く残っているのに、あとは何もありはしないのだ。

 夏。独りぼっちは君だと思っていた。でも、実際独りでいるのはわたしの方で。
 あの日君が消えた海に来てみれば、黄昏色に輝く波打ち際には知らない人が数人いた。冬の海とは違って、夏の海には人がいる。遠くてぼやける人影の中に、なんとなく君を探してしまう。居るはずがないと知りながらも、希薄な望みに託してみたくなるのだ。
 ……当然、君はここにいないのに。波打ち際ではしゃぐカップルとか、貝を拾う子供とそれを見守る母親とか。そんなのばっかりで、孤独に海に佇む君の影なんてどこにもありはしない。
 わたしは独り、浜辺に座って日が沈むまで海を見つめていた。



 暗くなった海を眺め続けた。完全な漆黒の海は恐ろしくも思えたが、星と月の光が融け込んでキラキラと輝いている。だから海には海と星や月を組み合わせた名前の生物がいるのだろうか。なんて考えてみたところで、それを教える人なんて、誰もいないのだけれど。
 ただ、漆黒に融ける光は、綺麗だと思った。
 君が溶け込んでいるから、綺麗なのだろうか。

 夏は必ずしも暑いものである。それは物理的な話であって、わたしにとってのこの夏は、何処か寒々しいものだった。理由なんて、考えるまでもなく。昼のほうが夜よりも寒かった。君のいない教室は空っぽで。君のいる海はこんなに輝いている。

 わたしはローファーで砂浜を踏みしめていく。波は冬も夏も昼も夜も変わらずに同じ歌を奏でて、わたしを迎え入れてくれる。君を連れて行った波は、同じ歌でわたしを待ち構えていた。
 砂が入って気になっていたローファーも、その波に浸してしまえばもう水も砂もわからなくなる。
 海水は少し冷たい。君が笑いながらやっぱり冷たいと笑う声が、耳を掠めた気がした。水を含んで重たくなったローファーはいつの間にか波に攫われて、膝下まで浸かった足は、どうしてか震える。寒くはない。君とは違って、星の降る季節の海なのに、どうして震えるか。
 君はこの海で泡になった。ならばわたしも、同じようになりたくて。制服の赤いチェックが暗色に浸っていく。白いワイシャツも海に染み込んで、重たくなる。重たい体は、容易く沈んでいく。背中、肩まで浸かると、流石に寒いような気がしたけど、そんなのも束の間。
 真っ黒な海は、わたしを飲み込んだ。

 光の無い、漆黒の水。水面では星と月が踊っているから、戻ることは容易い。けれど、わたしはただ一つの泡沫を求めて漆黒を進んだ。息が苦しくなっても、何かを求めて馬鹿みたいに。縋りつくみたいに、海底へと藻掻いた。

“来ないで”

 岩陰に、君の声が響いた気がした。手を伸ばそうとしたが、どうにも君は遠すぎる。冬と夏で、距離は縮まらなかったらしい。
 遠いや。遠すぎるよ。
 海面に顔を出して、わたしは嗚咽を零す。
 わたしも、海の泡沫になりたかった。

波間に隨に

波間に隨に

  • 小説
  • 短編
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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-10

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