マイ スウィート ヌガー ( 1 / 12 )

1年くらいかけて初めて書いた小説です。全部で12まであります。

1.

うらぐちさんと初めて話したのは、うちで飼っていた犬のくまが死んだ日だった。
土の上に横たわっているくまのことをじっと見ていたときに後ろから話しかけられた。うらぐちさんというのは、うちの裏にある一軒家に住んでいるおばさんのことで、本当の名前は他にあるのだけど、そう呼んでいる。本人には言っていないけど。

 その日は、小学校の夏休みの最後の日だった。わたしは、夏休みの間かよっていた隣町のプールまで一人で自転車をこいで、修了書を受け取りに行った。
プールに着くと、受付の人が担当のリーダーを呼んでくれた。担当は田中という女の人で、背が高くて声が低くて、おまけに極端にガニ股で歩くので、一緒に通っていた佳奈子ちゃんはその人のことをこっそり「ミスター」と呼んでいた。わたしも、その呼び名はぴったりだと思っていたけれど、女の人に「ミスター」は失礼かなと思って言わなかった。だって、ミスターの携帯のストラップはリボンのついたボンボンだったのを、わたしは見たことがあるから。
受付の椅子に座ってしばらく待っていると、奥の部屋から出てきたミスターが廊下を歩いてくるのが見えた。ガニ股でわしわし歩いていた。
修了書には、「よくがんばりました。あなたのきろくは365メートルです」と書いてあった。ちょうど一年間の日数みたいで面白いわねって言いながら、ミスターは笑って修了書をわたしに差し出した。二学期も続けて教室に通ったらいいわよ、すごく上手になったし、平泳ぎまで泳げるようになるわよ、と低い声で勧められたけど、わたしは、まだわかりません、と答えて、チラシだけもらって、プールを出た。

「遠い。」
プールは家からこんなに遠かったのだな。息が荒くなる。はあはあ。
水泳教室に通うようになったのは、佳代子ちゃんのお母さんからうちのお母さんが誘われたからだ。夏休みの間は、佳代子ちゃんのお母さんがいつも車で連れて行ってくれていたから、プールがこんなに遠いなんてわからなかった。行きも帰りも佳代子ちゃんと喋っていたのでいつもあっという間にプールに着いた。時々、佳代子ちゃんのお母さんが、今日はやけに信号につかまる日ねえ、と言う時があって、そんな時は本当に何回も信号で止まって、その度に外を見ると、家の数が多くなって、それから建物の種類が家からお店や会社に替わる。そしてさらに建物が高層ビルになり、道が広くなって人や車が一気に増えた。だから、自分の家のまわりとは風景が違うなと思ったことはあった。今思えば、それだけ遠いところだったのだとわかるけど、そのときはエアコンの効いた涼しい車の中から見ているただの風景だった。
佳代子ちゃんは夏休みが終わったらもう水泳教室にはもう行かないと言っていた。ピアノとトランポリンを習っているから水泳まで習う時間がないそうだ。佳代子ちゃんが行かないから、わたしも同じく行かないことになった。行くなら今日みたいに自分で自転車をこいで行かなければならないし、第一、もっと泳げるようになりたいか、自分でもわからない。

記録会では365メートル泳いだ。365メートルといったら、25メートルのプールを14回往復したってことだ。15回目の途中で、足がものすごく重くなって(例えるなら、磁石の黒くて重い固まりみたいなものが自分の足首にとりつけられたみたいな感じ)、これ以上バタ足が出来ない。腕だけでどうにか進もうとしたけれど、そのうち手首にも同じように重くなって、息継ぎするための顔が水の上に上がらなくなった。もう、あとは息が続くだけ泳ぐしかなくて、最後の力を振り絞って、腕をミスターに習った動かし方とは全く違うように振り回した。必死過ぎて、ずいぶん長い間振り回していたように感じたけど、気が付いたら、足がプールの底に着いていた。胸と肩が素早く上下して、腕と足は引きつる直前くらいに痛かった。

佳代子ちゃんはすでにプールサイドに上がって、お母さんと話していた。佳代子ちゃんの頭の上に手を乗せて顔を覗き込むお母さんと、嬉しそう見上げる佳代子ちゃん。見つめあう二人の周りは、わたしがいるこのプールの水温より確実に温かそう。
「頑張ったね、佳代子、すごいわね、ってか。」
そのまま水の中でゆっくり背中から後ろに身を預けて漂った。荒かった息が徐々に収まって、一回大きく深呼吸すると、すっかり息は静かになった。
そのまま、後ろに手を大きく伸ばして足をゆっくり上げると、体が水面に浮かんだ。顔の上の部分だけ出して耳が水中に入ると、周りの音は聞こえなくなった。ただ、水の中でゴーンゴーンという音が聞こえた。その音を聞きながら、ぴかぴかに晴れた青空を見て、しばらくゆらゆらと漂った。水面に反射した太陽の光が眩しくて目を閉じた。

そんなことを思い出しながら自転車をこぎ続けていたら、いつの間にかまわりが見覚えのある風景になっていた。
「ふう。」
やっと着いた。家の前で自転車から降りると、いつも自分の部屋で聞いている騒がしい蝉の大合唱がして、さらに暑苦しく感じた。
喉がカラカラに乾いていたけど、お父さんのバイクが置いてある横にいつものようにきちんと自転車を並べて、玄関に入ろうとした。その時ふと、いつもわたしが帰ったら喜んで小屋から出て来るくまが出てこないなと思った。どうしたのかなと思って、向きを変えて入ろうとした庭の入り口に、くまが倒れていた。

最初見たとき、まるで小さなぬいぐるみが落ちているみたいに見えた。誰かがいつも抱っこして、何処へ行くにも連れて行って、寝る時も一緒に布団に入って、よだれや鼻水やいつか食べたスープなんかが染み込んで、まだらに黄ばんでいるような、そんなぬいぐるみ。本当に誰かが落としていったんじゃないかと思ってしまうほど、ぬいぐるみに見えた。
だって、いつも見ていたくまとは毛の感じが違ったし、それにとても小さく見えた。それからすぐにくまだとわかったけど、ただ倒れているのではなくて、もう死んでいると思った。今になってみると、だからぬいぐるみに見えたのだろうと思うけど、そこに倒れているくまは、もう命が入っていないという、そんな感じがした。

わたしの体はまだ熱いまんまで、汗も体から流れ続けている。決まった量が出終わるまでは止まらないんだ、きっと。
見た途端、まわりの音が一気に止んだ。さっきまでうるさかった蝉の大合唱も聞こえない。聞こえるのはわたしの息の音だけで、プール教室の記録会のときみたいに、荒い息をして一人で漂っているみたいだった。だから、あのときと同じように、一回大きく息を吸って吐いた。自分の息が静かになったら、くまの息が聞こえてくるかもしれない。耳を澄まして、僅かな音でも聞き逃さないようにして。待とう。待とう。
後ろから声をかけられたのは、その時だった。

「じょうちゃん、大丈夫?」
一斉にまわりの音と蝉の声が耳に入ってきた。眩しい日差しも目に入ってきて、一気に頭の中が騒がしくなって、前に映画で見たタイムリープした人みたいに、違う時間に降り立ったような気分になって辺りをきょろきょろと見渡したくらいだった。
そして声の方へ振り向くと、一人のおばさんがブロック塀越しに、肩から上だけを出して立っていた。それが、うらぐちさんだった。

「ねえ、大丈夫?」
「えっ。あ、はい。」
うらぐちさんの顔から目が離せなかった。うらぐちさんは、顔がおまんじゅうのようだった。肌の色がとても白くて、ふっくら丸い。つやつやした真っ黒な髪の毛がくるくるにカールされて、その丸いまんじゅうのような顔の上に乗っかっていた。特に目が行ったのが口だ。顔の大きさにしては小さい口に真っ赤な口紅が濃く塗られていて、その口紅の赤さによって、余計に肌の色が白く見えた。

「汗すごいけど、大丈夫なの?顔も真っ赤だよ、じょうちゃん。」
「あ、はい。えっと、その。修了書をもらいに自転車で行ってきたから。」
「え?修了書」
「あ、はい、水泳教室の。」
「水泳教室に行っているんだ。泳ぐのが上手いんだね、じょうちゃん。」
「あ、いえ、もう水泳教室には行ってないんですけど、最後の日に休んだから、今日修了書をもらいに行ってきて・・。」
やっと納得がいったという顔をして、ああ、そうなのと言って、うらぐちさんは、にっこり笑った。笑ったら、ほっぺたの肉がむくっと盛り上がって、目が一本の線のように細くなった。ますます柔らかいおまんじゅうみたいに見えた。
つい、その柔らかさを想像して見とれていたら、うらぐちさんは急に表情を変えて、眉毛を八の字に下げ、真っ赤な口をきゅっと小さくつぼめた。そして、
「じょうちゃんのワンちゃん、可哀そうだったねえ。」
と、言って、倒れているくまを見た。
わたしもくまを見たけど、わたしがうらぐちさんに話しかけられる前から、くまは一ミリも動いていなかった。そうか、やっぱりもうくまは死んでいるんだ。

くまの横にしゃがんで顔を覗き込んだら、くまはうっすら目をつぶっていた。そして、口のまわりと鼻の先が乾いて白くなっていた。
「今朝から、ふらつきながらその辺りをうろうろしていたから、ひょっとしたらって思っていたんだよ。」
と、うらぐちさんは言った。
「うろうろ?」
「そうだよ。犬は死ぬ前になると自分でわかるから、死ぬ場所を探すんだ。」
そんなこと初めて聞いた。
「見られたくないからね、犬は。」
と、うらぐちさんはくまを見ながら言った。
「え?」
「ご主人様に、死ぬところ見られたくないんだよ、犬は。」
「あの・・。」
「ん?」
「どうして見られたくないんですか?」
「そりゃあ、だって、飼い主が心配するからだよ。」
うらぐちさんは、そう言いながら、ねえ、そうだよねえとくまに向かって話しかけていた。それに対してくまが返事することはもちろんなかったけど、まるでくまには聞こえているかのように、うらぐちさんは、くまの方を見てうんうんと頷いた。
うろうろしているくまを想像してみる。すぐに駆け寄りたい。でも、くまが心配かけたくないと思っているとしたら。ブレーキがかかる。

「埋めてやらなきゃ。お父さんかお母さんに言っておいで。じょうちゃん。」
「あ、はい。あ、でも、お父さんもお母さんもまだ仕事から帰ってきてなくて。」
「そうか。じゃあ、せめて日陰に移動してやるといいね。」
「あ、そうします。」
くま用の小屋の中からいつも中に入れてあるタオルケットを持ってきて、日の当たらない木陰に広げた。それから、くまをそっと抱きかかえた。くまの体はぴんと突っ張って固まっていて、ものすごく重く感じた。いつもなら抱っこすると足をばたばたさせたり、体をくねらせて逃げようしていた。それでもわたしが離さないと、今度は背すじをピンと伸ばして顔を近づけてきてわたしの口をぺろぺろと舐めた。
今のくまは四本の足をまっすぐ伸ばしたままで、もう関節も固まって曲がらないように見えた。わたしに顔を近づけてくることもなくて、腕の中にそのまま体の全ての重さを預けて、横になっているだけだ。
広げていたタオルケットの上にくまをそっと置いた。
「ああ、気持ちよさそうになったね。」
と、うらぐちさんはゆっくり頷いた。
広げたタオルケットの余りの部分を折ってくまの体に布団のようにかけた。そして、庭にあったブロックをひとつ持ってきて、くまの横に置いてわたしは腰掛けた。それから、くまの首のところをゆっくり撫でてやった。いつもはゴシゴシ撫でていたけど、今日はゆっくりそっと撫でた。くまはいつも気持ちよさそうに目をつぶっていたけど、もう今は全く動かない。
「気持ちいいよ、わかってるよ、ワンちゃんは。」
と、うらぐちさんが言うのが聞こえたけど、返事をせずにそのままくまの方を見て撫で続けた。

しばらくすると、お母さんが帰ってきた。お母さんはくまを見て驚いて、それからどうしようか困っていた。お父さんが帰ってきたらお墓を作ってもらいましょう、捺も家に入りなさい、と言って、買い物してきた食材を冷蔵庫にしまいに部屋に入っていった。でも、わたしは家には入らずにそのままくまの近くに座っていた。ふと、うらぐちさんがいたブロック塀のほうを見ると、もううらぐちさんはそこにはいなかった。
それから少しして帰ってきたお父さんの顔を見た途端、涙がぽろぽろ出てきて、お父さんに抱きついてしばらく泣いた。涙が少し落ち着いた後に、庭の隅に穴を掘ってそこにくまを埋めてやった。それから、木につなげていたくまのオレンジ色のリードを外した時に、ここにいつもつながれていたくまがいなくなったんだと実感して、また泣いた。お父さんのシャツでゴシゴシ顔を拭いたり鼻をかんだりしたから、お父さんのシャツはしわくちゃになった。

たくさん泣いて、やっと泣き止んだ後もぽっかり胸に大きな穴が開いているような気分がしていた。それでも夜になると、いつものようにお腹が空いていて、ちょっと申し訳ないというか、自分が嫌になった。
夕飯の時間になって、食べ始める前にふと喉がカラカラに乾いていることを思い出した。あんなに喉が渇いていたのに帰ってきてから水を飲んでいなかった。グラスに注いであった水を一気に飲み干したら、たくさん汗をかいてたくさん泣いたから、水がどんどん体に染み込んでいった。
その日のおかずはハンバーグだった。ハンバーグは、中に入っている玉ねぎが時々大きすぎるのがあって嫌だな、と思ったりしたけど、美味しかった。
お父さんは、いつもは夕飯時にテレビをつけてプロ野球中継に見るのに、今日はテレビをつけなかった。とくとくとく、と音がして、目の前のコップにビールが注がれて、上から泡が少し溢れてグラスの側面にそって垂れ落ちた。お父さんは、コップに顔を寄せてそれをずずっと音をたてて美味しそうに吸いこんだ。

「捺、お前の担任の先生、名前何だった?」
「本田先生だよ。」
「いや、苗字じゃなくて、下の名前。」
「桃子。」
「ああ、そうだ。桃子。顔に似合わない可愛い名前だよなあ。」
「そう?」
「桃子というより、芋子って感じだよな。じゃが芋の。」
じゃが芋は美味しいけど、じゃが芋に似ているっていうのは褒め言葉じゃない。
「うちの会社にもいるんだよ。そういう、名前と顔があってない人。」
「どんな名前?」
「えっとなあ、えーっと、誰だっけ。」
「・・・。」
「ちょっと待て。今、思い出すから。」
「・・・。」
「また、思い出したら言う。」
「うん。」
お父さんはわたしを慰めるために面白い話をしようとしているのだな。すぐにわかる。でも、何だかそれが面倒に感じて、そのまま黙ってハンバーグをつついた。すると、お父さんも黙ってしまって、しばらくするとテレビのスイッチをつけた。クイズ番組があっていた。二人でそれを見ながらご飯を食べた。

下を向いてハンバーグをつつきながら、ふと、うらぐちさんのことを思い出した。
「あ、あのさ。」
「ん?」
「裏にある家って、この前誰か引っ越してきたよね?」
「裏?ああ、堀さんかぁ?」
堀さんっていう名前なのか、と思って、顔を上げた。すると、お父さんが、
「どうして?」
と、言ってビールのコップを置いて、こっちを見た。
「いや、誰か住んでいるなあって思って。前は誰も住んでなかったよね。」
わたしはまた下を向いて、切っていたハンバーグをさらに半分に切った。
すると、流し台の前に立って小ねぎを刻んでいたお母さんが、背を向けたまま言った。
「あの人は、昼間は出ていらっしゃらないから。」
包丁がまな板にあたるトントントンというリズミカルな音がした。
「いないの?何で?」
わたし、昨日会って喋ったのにな、お母さんの背中を見ながら思った。
「あの人は、夜に仕事しているから。だから、昼間は寝ているんじゃないかしら。」
と、一瞬包丁の手を止めて言って、言い終わるとまた小ねぎを刻み始めた。
お父さんは、ああそうだったな、と言いながらテレビのチャンネルを変えた。自転車で日本を旅行する番組があっていて、美味しそうなみたらし団子を食べているところだった。

 その団子を見ながら、うらぐちさんの顔を思い出した。真っ白な肌。真っ赤な口紅。あのおばさん、夜に仕事しているんだ。お酒飲ませるお店だろうか。
「おれは、堀さんと話したことあるぞ。庭にいたときに話しかけられた。」
と、お父さんが言った。
「え、そうなの?何て話したの?」
「何だったかなぁ。きれいに手入れされていますね、とかそういう感じの。」
「手入れ?」
「庭の手入れ。あと、その花きれいですね、私も好きな花なんですとか。」
「へぇー。」
 今日話したことを言おうと思ったときに、お母さんが切った小ねぎをお父さんのお豆腐にのせに来て、そのまま椅子に座った。とっさに言うのをやめた。
 言いかけた口を開けたままにしていたらお父さんと目が合った。わたしは慌てて、
「お父さん、犬って死ぬ前に自分で死に場所探すって本当?」
と、聞いた。すると、
「え、犬が?」
と、お母さんが少し驚いたように言った。
「えっと、犬は自分が死ぬときに飼い主が心配しないように別のところで死ぬって。犬は自分で死ぬ時がわかるって。」
 誰から聞いたのかって聞かれるかなとちょっと心配になったから、学校の図書室の本で読んだって言おうとしたときに、
「ああ、そうだよ。」
と、お父さんが言った。
「おれが子どもの時に飼っていた犬も、そうだった。昔は放し飼いにしていたから、急にいなくなって帰ってこないと思ったら死んでいたってこともあったなあ。近所のおじさんは運んできてくれたよ。」
それを聞いたお母さんが、
「うちのくまはつないでいたでしょう。」
と言って、サラダをお父さんとわたしの皿につぎ分け始めた。
「そうだなぁ。行きたくても行けないな。」
と、お父さんは言って、テレビのチャンネルを替えた。プロ野球中継があっていて、それを観て今日の先発は金田かぁと言いながらビールを飲んだ。ごくごくと音が鳴った。

しばらくして、
「ほんと、今日はあなたが早く帰ってきたからよかった。」
と、お母さんが自分の皿に取り分けたサラダに胡麻ドレッシングをかけて、それをじっと見つめて混ぜながら言った。
「ああ。」
と、お父さんは言って、お母さんの顔を見た。
「いつもみたいに遅かったら、どうしようかと思っていました。」
「今日は、早く仕事が片付いたからな。」
「そうじゃなくて、仕事が終わってもそのまま飲みに行くこと多いでしょ。」
「そうでもないだろ?」
「多いわ。」
お母さんは混ぜていたサラダは食べずに、お椀に持ち替えて味噌汁をすすった。お椀でお母さんの顔が隠れたときに、お父さんはさっと視線をテレビに戻して、またビールを飲んだ。今度は静かに飲んだ。

それから、またしばらくして、
「それにしても、飼い主に心配かけないなんて、犬って偉いわね。」
お母さんが味噌汁の具のじゃが芋をゆっくり噛み締めながら言った。
「そうかー?」
お父さんは視線をテレビに向けたままそう言って、つまみの枝豆を二、三個まとめて口に入れて食べている。
何故だか、わたしは何も言うことが思いつかない。
「くまはつながれていて出来なかったけど、本当はそうしたかったのかしらね。」
とお母さんは言って、わたしの顔を見た。
それから、お母さんはつぎ分けたお父さんのサラダに胡麻ドレッシングをかけて、わたしのサラダにも続けてかけた。ゆず味のほうがよかったと思いながら、胡麻ドレッシングのつやつやしたベージュ色に覆われた自分のサラダをしばらく見つめた。

 お父さんのビールが無くなって、お母さんがビールを取りに冷蔵庫に立った。
「お父さん。」
「ん?」
「くまは死ぬときに一人で寂しくなかったのかな?」
 お父さんは少し驚いたような顔になったけど、すぐにいつもの顔に戻って、
「そうだなぁ。でもくまはつながれていたから死ぬ場所はさがしてはいないんじゃないかなぁ。」
「くまも心配かけたくないって思っていたのかな?」
喉がきゅーっとつまる感じがして、声がお相撲さんみたいにこもった。
「うーん、くまの気持ちまではわからんなぁ。お前、そんなことまで気にして優しいなぁ。」
そのときお母さんがビールを持って戻ってきて、お父さんは、
「まぁ、犬はそういうもんだ。」
と言ってビールを受け取ると、ふたを開けて今度はまたごくごくごくと音を立てて美味しそうに飲んだ。

わたしは、だまってまたハンバーグを一口食べた。それから、胡麻ドレッシングがたっぷりかかったサラダを多めに口に入れて、あまり噛まずに水を飲んで流し込んだ。
 そして、また、うらぐちさんの顔を思い出そうとした。くまが死ぬ場所を探していたって話していた時のうらぐちさんはどんな表情していたかな?と思い出そうとしても、口紅の赤さがぼんやり浮かんでくるだけだった。
 皿に残っていたサラダの山を全て口に入れた。その後すぐにご飯を口に追加して入れたら頬がいっぱいに膨らんだ。それを何回も何回も噛んで飲み込んだら、頭に浮かんで何となくもやもや曇っていたものも一緒に飲み込んで忘れてしまった。
 365メートル泳いだ修了書はまだリュックに入ったままで、見せていなかった。

マイ スウィート ヌガー ( 1 / 12 )

マイ スウィート ヌガー ( 1 / 12 )

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-12-07

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