*星空文庫

あわいの酒場

荒れ野 作

あわいの酒場

 彼女に初めて会ったとき、僕は懐かしさと奇妙さが入り混じったような不思議な気持ちになった。頭の中にあった印象と目の前の現実とが、予想もしないところでぴたりと一致した気がしたからだ。そこは場末の細い通りにある小さな居酒屋で、昔からある不動産屋のありふれたビルと何の特徴もないコンビニの隙間にひっそりと隠れたような、目立たない構えの店だった。
 実際このあたりは僕の会社から徒歩圏内なので普段からよく行き来しているし、隣のコンビニには何度も入ったことがあるのに、それまで僕はこの居酒屋にまったく気がつかずにいたのだ。僕がこの店に入ったのもほとんど偶然のようなもので、仕事で遅くなった冬の日の帰りに夜風のあまりの寒さにコンビニでおでんでも買おうかと考え、そのとき隣にふと「居酒屋あわい」という赤い看板を見つけて、急にちゃんとしたところで何か食べたくなってこの店に入ったのだった。
 狭い店内には五人ほどが座れるカウンター席があり、あとは申し訳程度に二人掛けの小さなテーブルがひとつだけ置かれていた。ずいぶん古い店のようで、カウンターの奥の冷蔵庫は数奇な巡り合わせで奇跡的に昭和から現在まで生き延びたというような代物だったし、換気扇のフードにも、恐らく今となってはどうしても取ることのできない染みや汚れがこびりついている。天井板には何かの煮汁をわざわざ天井に向けてぶちまけたのかと思うような汚れが色濃く染みついて、床のタイルもあちこちが欠け、あるいはひびが入っている。
 だが店の居心地はよかった。設備の古さを除けば店内は清潔に保たれていたし、壁のお品書きもときどき貼り替えられているらしく、紙が変色したり剥がれかかっているようなものはない。そもそも店に入ったときに暖かい空気といっしょに煮物や焼き物の優しい香りに包まれる感覚が何ともいえず、僕は店に足を踏み入れた瞬間にもうこの場所が好きになっていたほどだ。そしてこの店の彼女が作り出す独特の温和な雰囲気が、もう何年も通い詰めているなじみの店のような親密さを作り出していた。
「あら、いらっしゃい。こちらにどうぞ」
 僕が店に入ったとき、カウンターの向こうにいた彼女はそう言って自分のすぐ前の空いたカウンター席を手で指し示した。その声は柔らかくて潤いがあり、耳に快く響いた。彼女は恐らく僕よりは少し若く、三十を少し過ぎたくらいだろう。端正な顔立ちで化粧は薄く、自然な笑顔には人をほっとくつろいだ気分にさせるものがあった。頭を白い布で覆い、肩の下ほどまでの長さの髪を後ろで束ねている。鮮やかな赤いセーターの上から真っ白な無地のエプロンを着けていて、セーターの袖を両腕の肘あたりまでまくっている。下はスリムな青のジーンズを履いていた。
 僕は手袋をはずしてコートのポケットに入れ、それからコートを脱ぎ、マフラーといっしょに壁のハンガーに掛けてカウンター席に座った。ひとつ席を空けた向こうには灰色のスーツを着た年配の男性がひとりで刺身をあてに日本酒を飲んでいる。客はこの男性の他にひとりもいなかった。
「お飲み物は何にします?」
 そう聞かれて僕は生ビールを頼んだ。彼女はすこし顔を傾けてにっこりと微笑み、千切り大根の小鉢をカウンター越しに僕の前に置いた。彼女の控え目ながら自然に人を惹きつける表情に僕もつい笑顔になったが、初めて会ったはずの彼女の雰囲気は間違いなく僕には覚えがあるものだった。誰の印象だったかなと考える間もなく、すぐにそれが直接知っている人のものではないことに思い至った。考えてみれば不思議な話だった。その印象はある意味では根拠の怪しいものだったからだ。具体的に言ってしまうと、ちょうどそのときメールで仕事のやり取りをしているある会社の購買担当の女性に対して、僕は目の前の彼女とまったく同じような印象を抱いていたのだ。
 その仕事の相手は吉崎さんという人で、直接会ったことがなく向こうの年齢も容姿もまったく知らないのだけれど、メールの文面はいつも丁寧で誠実だったし、メールの最初や最後にちょっと入る挨拶の言葉に素敵な人柄が表れているようで、僕はいつしか吉崎さんのことを自分より少し若いくらいの魅力的な女性だと想像するようになっていた。吉崎さんからメールが来るとちょっと嬉しかったし、彼女への返信は他のお客さんへの返事よりも丁寧に書くようになっていた。
 だからこの居酒屋の彼女を見て僕は想像上の吉崎さんがいきなり現実の姿を取って現れたように感じ、目にしている状況がなかなか飲み込めずに混乱したまま、しばらくカウンターの向こうの彼女の顔をじっと見つめていた。彼女はビールをジョッキに注ぎ、きれいな泡の乗ったビールを僕に手渡した。
「ご注文はお決まり?」
 じっと彼女を見つめる僕を意に介する様子もなく、彼女はやさしく微笑んで言った。その言葉にようやく僕は我に返り、もずく酢と鶏つくね焼きと肉じゃがを頼んだ。
 なんとなく気になって彼女に名前を聞くと「キョウコというのよ」と教えてくれた。苗字ではなく下の名前で答えが返ってきたのは少し意外だったけれど、少なくとも吉崎さんの下の名前とは違っていた。吉崎さんの名は「正子(まさこ)」というのだ。キョウコとはどんな字を書くのかと聞いたら、彼女はいたずらっぽく笑って言った。
「あなたの好きな字をあててくれたらいいわ。京都の京でも、杏仁豆腐の杏でも」
「杏仁豆腐?」
「ええ、そうよ。木という字の下に口と書くの」
「いや、それは知ってるけど、『杏仁豆腐の杏』という言い方が珍しいなと思ったんだよ。たいていの人は『アンズの杏』みたいに言うような気がするな」
「あら」
 彼女はそう言うと笑い声を上げた。季節外れの春風を運んでくるような明るく心地よい笑いだった。
「確かにそうかもね。わたし杏仁豆腐が大好きなのよ」
 彼女の表情につられて僕も思わず笑顔になった。
「じゃあ杏仁豆腐の杏子さんにしよう。それでもいいかな?」
「ええ、もちろん。理想的な名前じゃない。嬉しいわ」
「もしかしてデザートに杏仁豆腐を置いてたりするの?」
「以前は置いてたんだけど、杏仁豆腐を食べていく人があまりいなくて置かなくなったのよ」
「そうか、残念だね。余ったら自分で食べられただろうに、その口実がなくなっちゃったんだ」
「大丈夫。家の冷蔵庫にはちゃんとあるから」
 僕と喋りながら杏子さんは大きな鉢から手際よくもずく酢を器に盛り、柚子の皮を細く刻んで散らした。まな板の上で柚子の皮を刻むときに、杏子さんは右手に包丁を構え左の肩を前に出して少し前かがみになった。その姿勢は毎日この仕事をしている人らしく実にしっくりと包丁の動きと馴染んでいて、見た目にも快かった。職人の研ぎ澄まされた技というのともまた少し違って、杏子さんの動きには長年連れ添った仲のいい夫婦が自然にくつろいでいるような落ち着きがあった。
 杏子さんがカウンター越しに僕の前にもずく酢を置き、僕はすぐに器を手にとってもずくを口に運んだ。柚子の香りがふわりと鼻腔を満たした。酢の匂いがきつくなく、かといって味が甘すぎることもない。杏子さんその人と同じように品があって感じのいいもずく酢だった。普段であれば僕はもずく酢を一気にかき込むようにして食べてしまうのだけれど、このときは香りを楽しもうと間隔をおいて少しずつ口に運んだ。
 僕がもずく酢を食べていると灰色スーツの年配の男性が遠慮がちに「杏仁豆腐さん」と言った。杏子さんが可笑しそうに笑いながら立ち上がってその男性客の方を向いた。おあいそを、と男性が静かな声で言うと杏子さんは伝票を手に取り、電卓で手早く計算して「二千八百五十円です」と言いながら伝票に値段を書き込んで男性に渡した。男性は千円札を三枚杏子さんに渡すと、「ちょっとだけど、お釣りはいいから」と言って壁にかけていたコートを羽織り、「ごちそうさんでした」と言った。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」
 そう言った杏子さんの口調はとても親密で、聞く人の心にすっと入り込む柔らかさがあった。横で聞いている僕までがいまの言葉をまた聞くためにここへ来ようと思うくらい、とても気持ちのいいお礼の挨拶だった。
「ここは杏子さんのお店なんですか?」
 店内で杏子さんと二人きりになって、僕はくつろいだ気分で聞いた。
「ううん、違うの」
 杏子さんは鶏つくねの串を焼きながら笑顔で言った。
「ここは長いんですか?」
「どうなのかしら。わたしが来る前は別の人がいたし、どのくらい前からあるのかな。でもこの冷蔵庫なんか相当な年代物だし、お店は古いんでしょうね」
 僕は杏子さんがここに長くいるのかと聞いたつもりだったが、杏子さんはお店のことと勘違いしたらしかった。でも僕は彼女の思い違いを訂正せずにおいた。彼女の柔らかな笑顔には「いや、そうじゃなくて」と話の腰を折るのが不粋だと思わせる雰囲気があったからだ。彼女が連ねる言葉の流れに身を任せておけば会話は自然に親密なものになるのだ。その心地よさを僕の方から乱そうとは思わなかった。
「僕はこの近くに会社があって、このあたりもしょっちゅう行き来してるんだけど、こんな居心地のいいお店があるなんて今まで気がつかなかったな」
 杏子さんはにっこりと笑った。真冬のさなかに思い描く春の陽差しのような笑顔だった。
「今日はなんだか静かだけど、普段はきっともっとお客さんが多いんだろうね。これだけ居心地がいいんだし」
「お客さんは日によっていろいろね。忙しい日はもうびっくりするくらいお客さんが途切れないし、かと思ったらその次の日はとても静かだったりもするのよ。最初のうちはお客さんが多い日はずっと繁盛したらいいなと思ったし、お客さんが来ない日はお店が潰れないかと心配になったんだけど、長く続けてるうちに毎日のお客さんの数に一喜一憂しなくなってきたの。もう慣れちゃった」
 杏子さんはそう言いながら焼きあがった二本のつくねの串を細長い皿にのせ、千切りキャベツと半分に切ったミニトマトとパセリを添えて僕の前に置いた。僕は串を一本手にとって口に運んだ。つくねの外側には香ばしい焦げ目がつき、中は驚くほどしっとりと焼きあがっている。ただ単に火を通しましたという焼き方ではない。
「杏子さんは独身なんですか?」
 少し酔いが回ってきた勢いもあって僕は聞いてみた。普段僕はそういうことをあまり人に質問しない性格だし、特に初対面の女性に独身なのかと聞くことはまずない。でも杏子さんと話していると自然にそういうことを聞きたくなったのだ。
「ええ、独り身よ」
「へえ、なんだかもったいない話だな」
「わたしは結婚できない人間なのよ」
 杏子さん突然の言葉に僕はかなりびっくりした。結婚できないってどういうことだ?
 彼女は僕の思いを読み取ったように言葉を続けた。
「何ていうかな、それはわたしという人間の成り立ちの問題なの」
「成り立ちの問題?」
 僕には杏子さんが何を言っているのかさっぱり理解できなかった。
「そう。わたしは現実の人と結ばれることはないのよ。でもわたしは間違いなくある人の気持ちとつながっていて、ずっとそこに留まっているの」
 杏子さんは相変わらずくつろいだ様子でそう言ったが、僕には彼女の言葉がどうしても理解できず、杏子さんが急に遠い世界の人になったように感じた。まるで杏子さんが古代の巫女のように遥かな神話世界に身を置いて、世俗の人間である僕がどんなに手を伸ばしても届かないというような感覚だった。ある人の気持ちとつながってそこに留まるというのはどういう意味なのだろう。かつて彼女には将来を約束しあった恋人がいて、何かの事情でその人を亡くしてしまい、いまでもその恋人を想いつづけているのだろうか。途絶えることのない彼女の素敵な微笑みは、そういうつらい出来事を乗り越えた末に獲得したものなのだろうか。
「なんだか踏み込んだことを聞くようで失礼かもしれないけど、それは過去に何かつらいことがあったということなの? いや、迷惑なら無理に答えなくてもいいんだけど」
 僕はそう言ってみたが、杏子さんはなにも言わずににっこりと笑った。それは過去の傷といった暗い影とは無縁の、夏の渓流のように澄んだ笑顔だった。僕はもうそれ以上突っ込んだことを聞くこともできずに黙り込んだ。
 止まってしまった会話を気にする様子もなく杏子さんは肉じゃがを鍋から器によそい、木の芽をあしらって「どうぞ」と僕に差し出した。それからほとんど空になっているビールのジョッキを指差して、「もう一杯飲みます?」と言った。僕は頷いてジョッキの底にわずかに残ったビールを飲み干し、空になったジョッキを杏子さんに手渡した。杏子さんは新しいジョッキを僕の前に置き、僕の仕事のことを尋ねた。そこからまた杏子さんとのくつろいだ会話が始まった。僕は自分の仕事や職場について話しながらビールを飲み、肉じゃがを食べた。いい具合に味が馴染んでいて、しかも牛肉とじゃがいもの風味がふわりと香り立つ素敵な肉じゃがだった。
 この日は他に客は来なかった。勘定を済ませて「また来ます」と言うと杏子さんはにっこりと微笑んで「ありがとう、また来てね」と送り出してくれた。その言葉は先に帰っていった灰色スーツの男性への挨拶よりもずっと親密に響き、僕は自分が特別に扱われたような誇らしい気持ちになった。
 僕はいい気分で電車に乗り、四つ離れた駅で降りて自宅に戻った。昼間ずっと無人だった家は冷え切っていたので暖房を入れ、すぐに風呂に湯を張った。湯船に体を沈めて目を閉じると杏子さんの笑顔が思い浮かんだ。あの店を出てからずっと杏子さんのことを考えているなと僕は思った。

 僕は結局その翌日と翌々日も「あわい」に通った。杏子さんは毎日僕を暖かい笑顔で迎えてくれて、僕は店の心地よい空気にすっぽりと包み込まれた。二日目は客が多く、僕が店に入って二十分もすると満席になったが、三日目はまた客がほとんどいなくなり、店は静かになった。混んでいても空いていても居心地のよさは変わらず、僕はもうこの店から離れられないなとビールを飲みながら何度も思った。
 僕は杏子さんのことをもっとよく知ろうと思い、他の客がいなくなったときに彼女自身のことについて尋ねてみた。
「ねえ、杏子さんの趣味って何なの?」
「わたしの趣味?」
 杏子さんは笑顔のまま顔をすこし傾けて言った。
「そうねえ、絵を見るのは好きよ」
「絵っていうのは、美術館にあるような?」
 僕が聞き返すと杏子さんは頷いた。
「そう。わたし高校の時は美術部だったのよ」
「へえ、ゴッホとかピカソみたいな絵を描いてたの?」
 僕はそう言ってみたけれど、この話題は内心すこし居心地が悪かった。正直なところ僕はゴッホとピカソ以外に画家の名前をよく知らないのだ。
 僕の言葉に杏子さんは笑って答えた。
「そんな立派な絵は描けないわよ。学校の近くの風景の写生だったり、部員同士でお互いの肖像を描いたり、あとは机の上に物を置いて静物画を描いたり、そんなことをしてたの」
「いまでも絵を描くの?」
「ううん、いまは見るだけ。家で画集を開いたり、美術館の展覧会に行ったりね」
「実を言うと僕は絵のことなんてまったく分からないんだけど、絵のどういうところが面白いのかな?」
「わたしも別に絵に詳しいわけじゃないのよ。ただ絵を見ているのが好きなだけなの。有名な画家の絵ももちろん素敵だなって思うけど、そうじゃない地味な絵とか、訳のわからない現代美術なんかでも、とにかくそういうものがあるところに身を置くのが気持ちいいなって思うのよ」
「考えるより感じるってこと?」
「うん、そうかもね。きっとわたしは他の人が頭の中で想像したイメージに囲まれていると心地よく感じるのよ。これに囲まれていると幸せだなって思うものが、たぶん誰にでもあるでしょう?」
「たしかにそうだね。僕は週末に車であちこち行って、ちょっと小高い峠道なんかで車を停めてさ、それで街を見下ろしながら広い空に囲まれていると嬉しくなるね」
 杏子さんは笑顔で頷きながら空のジョッキを下げ、グラスに水を注いで僕の前に置いてくれた。
 僕は杏子さんのことを知ろうと思って話を始めたはずなのに、気がつくと週末のドライブで自分が行ったことのある土地の話に熱中していた。ふと我に返って絵を見る以外にどんな趣味があるのかと話を振ってみたけれど、また知らないうちにカーオーディオの音が良くなる方法について僕自身が熱く語っていた。どう進んでも必ず出発点に戻ってきてしまう迷路のように、僕は杏子さんのことを尋ねれば尋ねるほど、どういうわけか自分自身のことを杏子さんに詳しく話していた。
 杏子さんはどんな話題でも笑顔を絶やさず、彼女にとっても興味深いことのように話を聞いてくれたので、それでよけいに僕は自分のことを事細かに話していたのかもしれない。なんども杏子さんに近づこうと試みながら、僕は結局同じところをぐるぐると回り続けていた。
 自分についてのいろいろな話がひと区切りついたところで、僕は最後に吉崎さんの話をした。
「その吉崎さんという人が、わたしに似ているの?」
 杏子さんは相変わらず穏やかな笑顔でそう言ったけれど、僕には彼女の目が一瞬鋭く輝いたように思えた。でもそれはもしかすると気のせいだったのかもしれない。そのときの僕は「あわい」の雰囲気と杏子さんの笑顔にすっかり馴染んでしまい、上機嫌で少々飲み過ぎていたからだ。
「そう、正確に言うと、まだ直接会ったことのない吉崎さんに対して抱いている印象というのがあってね、杏子さんにここで初めて会ったときに吉崎さんの印象がそのまま現実の存在として目の前に現れたような気がしたんだよ。頭に思い描いていた小説の登場人物が実際に目の前に現れたような感じと言ってもいいかもしれないな。それもさ、小説をテレビドラマ化したものだと脚本家が想像した登場人物像が自分のイメージと違ってたり、その役を演じる俳優の個性が強かったりするから見ていて違和感があったりするでしょ? そうじゃないんだ。ほんとうに自分の頭の中の印象が直接形になったよう気がしたんだよ」
 こう話しながら、僕はまたなんとなく杏子さんが遠い世界の人になったような気がした。杏子さんと僕の距離は、何かの拍子にとても簡単に近づいたり遠ざかったりするようだった。いまの杏子さんはまるで神話世界と現実世界の狭間に立ち止まって、どちらの側へ足を踏み出そうかと思案している人のように見えた。
「まあ、その吉崎さんには明日会いに行くことになってるから、僕の印象が合ってるかどうか確かめてくるよ」
 僕は急に変化した杏子さんとの距離感に戸惑ってごまかすようにそう言った。僕の言葉を聞いた杏子さんの表情に、かすかではあるけれどほんの一瞬影が差し、それからすぐにまたいつもの優しい笑顔に戻ったような気がした。僕はなんだか焦って調子が狂ったようになってしまい、何か別のことを言わなければと慌ててビールをもう一杯頼んだ。
 僕が翌日吉崎さんと会うというのは本当のことだった。少し遠くの取引先を訪問する用事ができて、たまたま吉崎さんの会社もその近くにあるので挨拶に行くことにしていたのだ。仕事のメールを送るついでに吉崎さんの会社を訪問したい旨を書き添えておいたところ、吉崎さんからは明日お会いできることを楽しみにしていますという丁寧な返事をもらっていた。
 このあとしばらくしてから僕は店を出た。なんだか不思議な夜だった。時計を見ると三時間ちかくも杏子さんと話をしていたのに、杏子さんとの距離が縮まった気はしなかった。もう少し杏子さんと近づくことができたらいいのにと思いながら家に帰った。

 実際に会った吉崎さんはやはりとても好感が持てる人だった。でも僕が抱いていた穏やかな印象の若い女性というのとはまったく違い、とても活発でさばさばした五十前後の人だった。会社の地味な制服を着た彼女はショートヘアにパーマをかけ、大きな声で元気にしゃべった。その話し振りもあっけらかんとしていて、こちらが聞いてもいないのにどんどん自分の家族のことを話してくる。あとひと月半ほどで下の娘に子供が生まれ、ついに初孫ができておばあちゃんになるのだと嬉しそうに教えてくれた。
「それはおめでとうございます。お孫さんは無条件にかわいいものだって言いますよね。ずいぶん嬉しいでしょうね」
「そりゃあ嬉しいわよ。うちの旦那なんかもうすっかり浮かれちゃってさ、どこへ行っても誰に会っても『孫が生まれるんです』としか言わないのよ。そりゃまああの人も嬉しいんだろうけどさ、いつもそればっかりだとこっちが恥ずかしくなっちゃうよねえ」
「うちの祖父も僕が生まれる前はそうだったらしいですよ」
「男の人ってみんなそうなのかなあ。うちの人なんて普段はいつもビクビクしたような、人目ばかり気にする気の弱い人なのに、孫の話をするときだけは急に元気になるんだからねえ。二人の娘が生まれたときも喜んでたけど、娘がだんだん大きくなったら二人の顔色ばかりうかがって、娘の一人でも機嫌を損ねたら本当におどおどしちゃってさ。どっちが親だか分かりゃしないんだよ。孫ができてもきっと三歳児にでも頭を下げてるよ、あの人は」
 僕は吉崎さんの話を聞きながら、勝手に吉崎さんの旦那さんの姿を想像していた。小柄で痩せていて髪の薄くなった男が、気の弱そうな表情で三歳児に向かって「あのう、すみません」と話しかけている。僕の頭の中の彼は皺の多い丸顔で、目は細く両端が垂れていた。少し猫背でいつももじもじと両手を体の前で合わせ、自分の孫に対しても常に懇願するように話す人だった。
 僕は三十分ほど吉崎さんと話をしてから電車に乗って会社に戻った。車内は乗客がまばらにいるだけで、僕は空いた席に腰を下ろして窓の外の風景に目をやった。真冬の寒々しい街の景色を眺めながら僕は吉崎さんのことを思い返し、これほどメールの印象と実際の人柄が違うこともあるのだなあと半ば感心していた。
 でも吉崎さんがきちんとした性格の持ち主であることはその話ぶりから分かったし、改めてその性格と照らし合わせても彼女のメールの丁寧な文面は本人にそぐわないものではなかった。いつもちょっと気の利いた一言が添えられていたのも、考えてみれば吉崎さんは開けた性格で頭の回転も速い人だから、感じたことを躊躇せずに文章に書けてしまうのだろう。きっと文章のセンスのいい人なのだ。僕が勝手に想像していたような人柄ではなかったけど、嫌味のない気持ちのいい人であることは間違いなかった。いつもおどおどしているという旦那さんともいい夫婦なのだろう。
 それでもいままで抱いていた吉崎さんの印象が失われてしまったことには一抹の寂しさがあった。僕は吉崎さんのメールの文面から思い浮かべていた穏やかな人柄に、ある意味では一方的に惚れ込んでいたのだ。そんな想像上の吉崎さんは、いまは実際の吉崎さんの記憶に上書きされ、急速に消え去ろうとしていた。いままで間違いなく自分の心の中にいた人が急にいなくなるというのは不思議なことだった。
 そんなことを考えているうちに僕は無性に杏子さんに会いたくなった。今日は金曜日だし、できるだけ早く会社を出て「あわい」に行こう。僕は電車の窓の外のどんよりとした冬空をながめながらそう思った。
 夕方の六時頃に会社を出て「あわい」の扉を開けたとき、僕は瞬間的に店の雰囲気が変わっていることを感じ取った。店構えも内装も何も変わっていない。でもカウンターの向こうに立っていたのは、杏子さんではなく小柄で痩せていて髪の薄くなった男だった。男はおどおどした様子で「あの、いらっしゃい」と言った。いまにも消え入りそうな頼りない声だった。男は五十前後で顔の皺が多く、細い目の両端が垂れ下がっている。僕が勝手に想像していた吉崎さんの旦那さんに瓜二つだった。男は体の前で頼りなさげに両手を合わせて言った。
「あの、もしよろしかったらその空いているカウンター席にお座りいただいてもいいですか。いやあの、そちらのテーブルがよろしければそっちでもいいんですけど」
 僕はいつものようにコートとマフラーを壁にかけてカウンター席についた。
「杏子さんは今日はいらっしゃらないんですか?」
「杏子さん? いや、あの……」
 男は申し訳なさそうな表情で言い淀んだ。でももちろん聞くまでもないことだった。僕はこのときようやく、この酒場がどういう場所で杏子さんが誰であったのかを理解したのだった。もうここは杏子さんの場所ではない。杏子さんはいなくなってしまった。いなくなり、消えてしまってもう二度と会うことはないのだ。
 いつも杏子さんがいた場所に別の人間がいる。その事実が僕の胸を強く締めつけた。「あわい」にはいまもまだ、杏子さんがいたときの記憶がかすかな残り香のようにただよっていた。でもそれは虚ろなこだまのようにつかみどころがなく、この店にふたたび穏やかな居心地の良さをもたらすことはなかった。そして杏子さんの記憶もやがて時とともに薄れていき、ときどき何かの拍子に断片的に思い出すだけになっていくのだろう。
 僕はビールを頼み、すぐに出てきたジョッキを半分ほど一気に飲んだ。心にぽっかりと空いた大きな穴を、杏子さんの柔らかい声の記憶が吹き抜けて消えていった。

『あわいの酒場』

『あわいの酒場』 荒れ野 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-12-07
Copyrighted

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