Fate/defective パラノイド【第二話 一節】
第二話 一節 二〇二〇年 三月十七日 十六時 アメリカ
アメリカ某所。広い庭をもつ大きな一軒家。そのリビングにはベネットという姓をもつ夫婦が、重い空気の中で頭を抱えていた。
夫婦はまだ三十代後半である。しかし、二人とも白髪が目立ち始め、顔はやつれ、頬も痩せこけていた。人によっては五十代の老夫婦と間違えてしまうような二人だった。テーブルで向かい合っている二人は、机上に置かれた一通の手紙に視線を落として暗い顔を見せている。
封筒には宛名と、一般人には読めぬ文字が印字されていた。夫婦は一般人ではない。魔術師だった。封筒には隠匿の魔術が施されていたが、二人がそれを解くと「聖杯戦争・招待状」と印字されていた。
一週間前、その印字を見たそのときから、二人の意識は絶望に苛まれていた。長い長い沈黙。時折、女の方は頭を両手で抱えた格好のまま呻き声を上げていたが、それだけだ。
「どうしましょう……こんな……また…」
女は震えて上ずった声で呟いた。まるでうわ言を言っているように何度も同じ言葉の羅列を繰り返す。
聖杯戦争とは、この夫婦にとって絶望だった。女の姉は聖杯戦争で伴侶と共に亡くなった。一人の娘を残して。そして引き取ったその娘からは距離を置かれた。親戚からは多くの遺産を得られて良かったではないかと、心無い言葉と共に言われた。姉の娘はそれを聞いてしまったのだろう。引き取ってから一度も心を開いてくれることはなかった。そして彼女とは成人して家を出て行かれて以来、顔を合わせていない。
そんな、夫婦と姉の娘、アリアナを不幸に陥れた聖杯戦争への招待状など、地獄への入り口に他ならなかった。例え、勝者の願いが叶う闘争でも。例え、魔術師の悲願、根源へ至ることの出来ると噂される儀式でも。
気が触れたように「どうしてなの」「どうしたらいいの」と呟き、肩を震わせる妻を見た夫は、立ち上がって妻の肩に手を置いた。
「落ち着くんだ。まだアリアナは知らないのだからこのまま――」
「あ、あなた……」
妻を宥めようとした声は、彼女の悲鳴のような声に遮られる。妻の顔は先ほどよりも色濃い絶望に顔を蒼くし、夫の肩の向こう側を震える指で指し示した。
男はゆっくりと振り返る。背筋には冷たい汗が伝った。
振り向いた先には、柔らかな亜麻色の髪を後ろで高く結い上げた女性が立っていた。薄い金色の瞳は冷たく夫婦を見下ろしている。
「あたしがどうしたって言うの? ベネットさん」
夫婦は硬直してしばらく動けなかった。しかし、男の方はなんとか立ち上がり戸惑いを押し隠そうとした固い声で、女性を迎えた。
「あ、アリアナ……よ、よく帰ってきたな。あと、そ、そんな他人行儀な呼び方はやめなさいと何度も」
「実際他人じゃない。それより、何が知らないの? 確かあたし宛の手紙が届いているはずだけど」
女性もといアリアナは、緊張を含んだ歓迎を叩き落とすように本題を提示する。砕けた口調だけは義父に対するものではあったが、言葉の棘と冷たさは隠そうともしていなかった。
男はその圧に負けて一歩後ろに下がろうとする。しかし、テーブルに脚が当たってそれ以上の後退を許さなかった。
「ど、どうして、それを」
「どうしても何も、あたし宛の手紙よ? “アリアナ・アッカーソン”宛のね」
アリアナは自分宛に手紙が来たことも、その内容が何なのかもすでに知っている様子だった。この家には忘れ物を取りに来たとでも言うような気軽さと、自分の行為が正当で至極当然であるという態度で男の前に立っていた。
しかし、男もその妻も聖杯戦争にアリアナを関わらせる気は毛頭なかった。これだけは譲れない。男はなんとしてでもアリアナを部外者にするために、この短時間で頭を捻って考える。
どんな手段でも、アリアナに手紙を諦めさせたい。数瞬で思いついたのは、言い訳に等しい鋭いナイフのような言葉だった。
「……アリアナ。それなら勘違いだ。ほらここにあるのは……我がベネット家への、手紙だ」
男がテーブルに置かれた手紙の宛名を震える指で差し示す。そこには“アリアナ・ベネット”と滑らかな筆記体の印字がなされていた。アリアナは眉を吊り上げて義父を睨みつけた。
意図に気づいた女性は、手紙を指差す夫の腕に掴みかかって悲鳴を上げた。
「あ、あなたそれは幾らなんでも酷いわ! アリアナがかわいそう」
お前はベネット家の子になるんだ、アリアナが幼い頃はそう言い聞かせていた。それを男自らがぶち壊した。両親を慕っていたアリアナにとって、名字とは両親との最後の繋がりだった。夫婦もそれは理解していた。だが、アリアナを引き取った当時は早く家に馴染めるように、家族であれるようにとベネットの姓を押し付けていた。
「かわいそうなんてあなたたちに言われたくないわ!」
声を張り上げたアリアナは、男の手から手紙を奪い取る。
「何にせよこれはあたしの手紙。返してもらうわ」
「待って! アリアナ!」
そのままリビングを出て行こうとするアリアナを、男の妻が必死に引きとめた。手紙を持つアリアナの手を、震える手で掴む。
「何? 何か用があるの?」
冷ややかな義理の娘の目に胸を痛めたが、それでも彼女はアリアナの瞳を見つめ返した。
「アリアナ……あなた、聖杯戦争に参加するつもりなの……?」
「……どうでもいいじゃない。貴方達には。関係のないことよ」
「いいえ! あるわ! 義理だとしても、娘なのよ? あなたに危険なことをして欲しくないの……お願い、行かないで頂戴……! アリアナ……!」
「私の両親は、あなたたちじゃない」
拒絶するアリアナの声に、女は膝から崩れ落ちる。しかし、腕だけは離そうとしない。男はそんな妻の背を優しく撫でながら、アリアナを諭そうとした。
「私からも頼む。アリアナ。お前が参加する理由などないだろう? ……だから」
「理由ならあるわ」
男の言葉を遮って彼女は言った。夫婦を見つめるその瞳には先程よりもさらに強い決意が宿っていた。
男もアリアナが聖杯戦争に参加する理由くらい、推測できていた。彼女が参加したがるのは魔術のためでも家系のためでもなかった。
「……両親の仇、か」
「ねぇ、そんなことしなくてもいいじゃない。あなたはこのまま平穏に暮らす権利がある。わざわざ命を懸けてまですることじゃないでしょう……?」
重く息を吐き、黙りこくった男の代わりに、女は懇願するように声を上げた。腕を掴む力は先ほどよりも強くなったが、神に縋りつくに近いそれに、悲劇を演じる役者のようだとアリアナは冷めた意識の中で思った。
「――もう十分でしょう? それともまだ欲しいの?」
「……なにを」
アリアナは深い溜息を吐いた。その顔には呆れが多分に含まれていた。
「両親の遺産も。保険金も手にして。あたしの養育手当てだって十分に貰ったじゃない。あたしも、もう成人して。アッカーソンの家から取れるものなんて何も残ってないわ」
夫婦の顔はみるみる色を失くしていく。それでもアリアナは続ける。冷淡にみえる表情は、少し疲れているように男には見えた。
「……それとも魔術のほう? 一体何があたしを保護する理由になるの? 教えて頂戴よ叔父さん。叔母さん」
「そん、な……。あぁ……」
女は項垂れた。目は赤く腫れて、頬には堪えきれなかった悲しみを涙として伝わせていた。女は力なく首を横に振る。
「ち、違うわ……アリアナ……あ、あなたの……お父さんとお母さんは……姉は……」
肩を震わせて泣き始めた妻の肩を抱く手をそっと離して、男はアリアナと向かい合った。真剣な眼差しで、アリアナを見つめる。彼女は、本当は真っ直ぐで素直で優しい子だ。ただ、周囲がそれを歪めてしまっただけで。聖杯戦争で人生を変えられてしまっただけで。
男はアリアナの心の氷を溶かそうと必死で訴えかけた。
「アリアナ。信じてくれ。私達はお前を心配しているんだ。辛い目にあって欲しくない。無事でいて欲しい。ただそれだけなんだ!」
男の言葉を聞いたとき、アリアナの纏う空気が更に冷め切っていった。男は喉をひくつかせる。
「……信じる? 信じるって? 上辺だけなら幾らでも言えるわ」
「アリアナ!」
男が彼女にかけられる言葉はもう残っていなかった。アリアナも話の終わりを見つけて、縋りつく女の腕に手を置いた。
「もういいでしょう? 離して」
「駄目! 日本に行っては駄目! 言うことを聞きなさい!」
女は必死でアリアナの腕を抱きこむようにして座り込んだ。最初こそ優しく手を離そうとしていたアリアナだったが、だんだんと力を強めて自身の腕を引く。
「離して!」
最後にそう叫んでアリアナは拘束から抜け出して、リビングを出た。その先が二階へ上がる階段だと悟った女は、色の失った顔をさらに悪くし悲鳴を上げた。
「ああ! 奥の……奥のアレだけはやめて頂戴……! アリアナ!」
立ち上がりかけて、女はその場に崩れ落ちる。もはや追う気力は残っていなかった。
「アレは、あの触媒は……あなたの……」
そう言ったきり、女は言葉を飲み込んだ。背を震わせて泣く彼女の背を、男はそっと撫でた。
男は半ば説得を諦めていた。恐らく自分たち彼女との関わりかたを間違えた。捩れて絡まった細い糸は、簡単に解けるはずもない。
……しかし、黙って終わりを見届ける気は、もう無かった。
「よし……」
アリアナは家の二階、一番奥にある物置部屋の扉の前に立つ。物置部屋の中に、アリアナの目的の物が眠っていた。今日、アリアナがベネット家に来た理由は手紙よりもこの物置部屋にあった。
アリアナ宛に聖杯戦争への招待状が送られていると気づいたのは、実は昨日の話だ。聖杯戦争が再び行われると知ったのも昨日。
昨日、時計塔のアメリカ支部へと立ち寄っていたアリアナは、そこで時計塔で有名な魔術師の工房が襲撃されたという事件を聞いた。魔術師は基本的に他人に干渉したがらない。しかし、魔術系統や思想の違いなど様々な事情から水面下で衝突することも少なくなかった。今回も小競り合いの結果だろうと聞き流そうとしていた矢先だ。「聖杯」の二文字を耳が拾ったのだ。
――噂では聖杯を造ったけど、横取りされたとか。
――横取りした奴は聖杯戦争を?
――ええ、起こす気らしいわ。でも、参加は見込めなそうよ。
――それって昔の参加者が招かれるって話だ。招待状が来るんだとか。
噂なのか真実なのか。まず、誰も知るはずのなさそうなことまでもが噂の中には混じっていた。例えば前回の聖杯戦争だとか。両親が亡くなり、必死で聖杯戦争のことを調べたが大したことはわからなかった。ただわかったのは、儀式が失敗したことと最後は監督が場を収める事態になったことだけだ。成人してからは聖堂教会にも探りを入れたが、情報は得られなかった。
それなのに、流された情報。アリアナは踊らされているような気味の悪さを感じたが、聖杯戦争と聞いていてもたっても居られなかった。
そこで、サーヴァントを召喚するための触媒の調達と、来ているかもしれない招待状を確認しにベネット家にやって来たのだった。
アリアナは蝋印を割って、招待状を読んだ。招待状の内容はこう書かれていた。
◇◇◇
招待状
アッカーソン 家 御当主
前回の聖杯戦争への御参加、誠にありがとうございました。
残念なことに前回の儀式は失敗に終わってしまいました。
ですが、十三年の歳月を経て、再びサーヴァントの召喚と聖杯の準備が整いました。
因って再び日本の東京にて聖杯戦争を執り行いたく存じます。
そして、前回の聖杯戦争にて御健闘なされた家系には、是非とも此度の聖杯戦争に参加して頂きたく招待状を御送りしました。
本来、聖杯戦争は特定の人物・団体・家系を優先させて参加を促すものではありません。しかしながら此度は、特別な聖杯により執り行われる儀式となっております。
存在を周知させ、参加者を募ることは時計塔・聖堂教会共に混乱を招くものだと判断し、特例として前回の聖杯戦争に参加された家系には招待状を御送りさせて頂きました。
御参加の場合は、二〇二〇年三月二十日までに日本の首都東京都に御越しください。
受付はサーヴァントを召喚し、マスターとなることで完了致します。
サーヴァントの触媒につきましては、今回特別に本書と共に御届け致します。触媒に御困りでしたら、そちらを御使いください。きっと心強いサーヴァントが召喚されることでしょう。
また、マスターになる方は必ずしも前回の聖杯戦争に参加された御本人である必要はございません。御子息・弟子・推薦者など、どなたでも歓迎致します。
最後に、本書は宛名以外は写しとなっておりますので、個々人の事情に沿わない場合がございます。御了承ください。
それでは御参加を心よりお待ちしております。
二〇二〇年 聖杯戦争 監督者 言峰四温
◇◇◇
美しい装飾の招待状と、アッカーソン宛の封筒の中にはもう一枚、紙切れが同封されていた。
追伸
アッカーソン家は、非常に強力なサーヴァントを召喚できる触媒を御持ちと伺いましたので、触媒は同封しておりません。触媒とは大変貴重な物。ですので、どうか御理解ください。
アリアナは追伸の紙を握り潰した。招待状を持つ手にも力が入り、手紙は大きな皺を形作る。
ふざけるな、と叫び出したい気持ちを一息で鎮めた。まるでこれから神聖で喜ばしい祭事が行われるかのような招待状と、それを嘲笑うかのような一枚の紙。どちらも彼女の怒りを買うには十分だった。
この差出人は聖杯戦争を恐ろしい儀式であると露ほども思っていない。それどころか、アッカーソン家当主であるアリアナの父が、前回の聖杯戦争で亡くなったことも知った上でこれを送りつけているのだ。でなければ、追伸でアッカーソン家の触媒について触れるはずがなかった。
……それどころか、送り主である言峰四温という人間は前回の聖杯戦争の一部始終を知っている可能性も多いにある。招待状に「どなたでも歓迎致します」などと書いてあるのがその証拠だ。前回の聖杯戦争で監督役を除く参加者全員が亡くなっていた場合、この聖杯戦争を前回の続きとすることはできない。招待状は恐らく、前回の参加者が居ないことを前提として書かれたのだろう。となれば言峰四温は十三年前の聖杯戦争の最後を知っている。それどころか、もしかしたらアリアナの実の両親を殺したのは……
そこまで考えてアリアナは、目の前の物置部屋から物音が聞こえることに気づいた。反射で顔を上げて、考えるより先に右手が扉のノブを回した。
「誰……っ!?」
鋭く高い声を上げて部屋を見渡した。その視線は自然と明かりの入る窓の方へと移動する。
長い間使われてないだろう物置部屋の埃が、斜めに差し込む夕日でうねる星となっていた。その先には、濡れた烏の羽のような艶を放つ、黒い髪を肩口で垂らした少女が背を向けて立っている。少女は中学生くらいの背で、とても華奢な体躯をそのまま折れそうで不安になる細い足で支え、裸足のまま佇んでいた。
その儚い立ち姿に一度気を緩めそうになったアリアナだが、背を向けた細い体躯からはみ出す、布に包まれた棒状のそれを見てまた気を引き締めた。
少女が手に持っている長い棒状の物体。それこそ、アリアナがベネット家で手に入れようとしたサーヴァントの触媒なのだ。
アリアナは大きく前に踏み出し、駆け出そうとした。五歩もせずに少女の元へ行けるはずだ。突進のような勢いで、アリアナは少女の肩を掴もうと手を伸ばした。
「……!」
少女はびくりと肩を揺らしてこちらを振り返った。あと数センチ程度で少女に届くはずの指は、少女の俊敏な動きで空を切った。彼女は素早く窓枠に足をかけて身を乗り出す。アリアナは息を呑んだ。
物置部屋は二階に位置している。即死するほどの高さはないが、打ち所が悪ければ大怪我をすることになる。アリアナは必死で少女の体を捕まえようとした。それが捕縛のためなのか、保護のためなのかは彼女自身もわからなかった。
しかし、少女はアリアナの焦りが届いていないのか、至って静かな顔で空へと手を伸ばした。それと同時に、無感情で無機質なか細い声が、アリアナの耳に届く。
「メランコラ」
呪文のような言葉と共に、物置部屋は光を失い暗闇を作り出す。窓からの夕日が遮られたのだ。
少女の前には黒く輝く大きな物質が揺らめき、数秒もしないうちに四肢を生み出した。呆気にとられていたアリアナは、それが黒い馬の形をしていることに気づかなかった。
気づいたのは、少女がしっかりと馬に跨りこちらを振り返ったときだった。
兎のような紅玉の瞳が、ランプのようにゆらゆらと気味悪く揺れていた。アリアナは彼女の瞳と表情の抜け落ちた顔を見て、ブライス人形のようだと思った。
黒い光が尾を引いて、一瞬窓枠から姿を消した。アリアナが外を覗いても、そこには至って平和な街並みと温かな夕日が橙に燃えているだけであった。
アリアナは先ほどの焦燥から解き放たれて、凪いだ顔をしていた。しかし、彼女の金色の瞳は固い決意を宿し、強く輝いていた。
「いいわ、参加資格すら奪おうとしたって。そうはいかないんだから」
聖杯戦争。アリアナにはそれは単なるネズミ捕りにしか見えなかった。餌となる聖杯を用意して、魔術師を弄ぶ。彼女から、両親も自分の思い描く人生も、名字すらも奪った。そして今回はネズミ捕りの仲間にすら入れてくれないということか。
ネズミ捕りを壊すには、まずはネズミ捕りに近寄らなくてはならない。だから忌々しい儀式にわざわざ参加しようとした。
彼女の目的は根源の到達などという、大それたものではない。ただの復讐だ。聖杯戦争を終わらせることに聖杯の力必要なら、それを手に入れる。他の方法があるのであれば、それを取る。基本は魔術師と同じだ。根源へ到達するためなら手段は問わない魔術師。彼女も魔術師らしく、聖杯戦争を打ち壊すことが出来るのであれば、手段は何だって構わないのだ。
ただ、そのためには聖杯戦争に触れなくては、参加しなくてはならないのだ。
Fate/defective パラノイド【第二話 一節】