どうしたって俺は「人間」だった

 俺は人を殺した。
 俺は公開殺人者だった。
 俺は無慈悲な、冷酷な、そして何より無意味な存在だった。


 夏の容赦ない日差しも落ち着き、辺りに湿った匂いが立ち込めていた。空は朱と藍が混じり合ったような、不思議な色をしていた。雨が降るのだ、そう思った。
 帰る場所はあるものの、自分の中に帰る気力が見当たらない。高台の上にあるひっそりと静まり返った公園で、気休めの煙草を一本吹かした。家で待っているであろう温かな晩ご飯が、徐々に冷めて干乾びて行く様を思い浮かべて、吐きそうになった。
 人間なのだ、俺は。どうしたって、只の人間なのだ。

 ピーピーピーピー――。
 不快な電子音で目が覚める。ぼんやりとする意識を無理やり一点に集中させ、枕元の携帯電話に手を伸ばした。
 アラームを切り、新着のメールが無いか確認する。そんなもの無いと頭では分かっているのに、確認せずには居られない。一年間であっても毎日続けていた習慣とは恐ろしいものだと、いつものように思った。

 俺は先月仕事を辞めた。それからずっと同じ夢を見ている。初めての仕事を終えた、夏の夕暮れの夢だ。
 あの日の、辺りを漂う空気の匂いも空の曖昧な色合いも、滅多に吸わなかったはずの煙草の苦味も、全て鮮明に思い出せる。
 否もしかすると、鮮明すぎる夢に引き摺られて、少しずつ、記憶の何処かは改変されているのかもしれない。それでもやはり、あの日あの場所で確実に感じていた、自分がどうしようもなく「人間」であるという、あの感覚だけは、思い違いではないはずだ。
 俺はあの日、初めて人を殺したのだ。

 八月七日、日曜日、朝の九時半。携帯電話に新着のメールが入り、俺は初仕事の依頼を受けた。デパートの屋上で標的を殺せという内容だった。本文と共に地図が添付されており、幸い家から然程遠くない場所だと分かった。バイクを走らせれば十五分も掛からない。
 俺は急いで身支度を整えると、車庫から真新しい緑色に輝くバイクを引き出し、素早くヘルメットを被り、颯爽と街路へ飛び出した。夏の日差しは既に街中を焙り始めていて、風が異様に生温かかった。
 デパートの屋上に着くと、どれが標的なのか直ぐに理解できた。一人のまだ幼い子供を盾に、訳の分からぬことを喚き散らしているのがそれだ。怯えた目で標的を見つめる他の子供たちと、我関せずと言った表情の大人たちの目前に、奴は立っていた。
 日常と非日常が混在するその場所で、何処からか漂ってきたポップコーンのバターの香りが鼻を擽る。その時鳴った腹の虫だけが、俺には現実味を帯びて感じられた。
 俺がやらなくては、唯そう思った。仕事だからというだけの理由ではない、俺の中の倫理観や正義感が、あの子供を助けなければと告げていた。
 標的が俺の姿に気付き、その醜悪な手を子供の胴に回した。
「助けて!」
 子供の悲痛な叫びを遮るように俺はその場を飛び出し、標的の意表を突いて背後に回り込んだ。
 飛び散る俺の汗と引き裂かれる標的の身体。それはほんの一瞬の出来事のような、それでいてとてつもなく長い物語のような、妙な感覚を俺に植え付けた。
 任務を全うした瞬間だった。
 飛沫を全身に浴びた子供は、初対面の俺の名前を何度も呼びながら、満面の笑顔で去って行った。俺は、何処からか現われた見知らぬ美女に称えられ、野次馬たちからの気のない拍手を受け、そうしてその場を去った。

 帰りは河川敷に沿ったあぜ道を、バイクを押しながら歩いた。いつの間にか空には雲が掛かり、夕日と夜とが共存するように、不思議な色を作り出していた。風に乗って、雨の匂いがした。
 自宅へと続く街道に出る横道に差し掛かり、迷わず正反対の上り坂を選んだ。
 坂を登り切ると、そこは開けた平坦な土地になっており、下の街を見下ろすような格好で公園が備えられていた。俺は真っ直ぐ中央のブランコを目指すと、その四角い小さな板の上に腰掛けた。
 今日あったことが自然と思い返された。俺はあの子供を助けたのだ。俺にしか出来ない、俺だけの崇高な使命だったのだ。
 あの子供の、最後に見た笑顔の異様さが、俺の頭から離れなかった。自分の真後ろで、つい先ほどまで怒鳴り続けていた声が一瞬で消え去ったというのに、次の瞬間には無残な抜け殻になっていたというのに、あの子供は満面の笑みで俺を迎えたのだ。
 標的にも家族が居たのかもしれない。守るべき子供だって居たのかもしれない。あの喚くような訴えも、よくよく耳を傾ければ高尚な思想だったのかもしれない。それでも俺の仕事は、あの標的の抹殺、それだけだったのだ。
 止め処なく回り続ける思考を落ち着けようと、気休めの煙草を一本吹かした。家で待っているはずの俺のための晩ご飯が、徐々に冷めて行き、遂にはあの抜け殻になってしまう様が思い浮かんで、思わず吐きそうになった。
 人間なのだ、俺は。どうしたって、人間離れした憧れや理想とは程遠い。そう痛感した。

 それでも俺は、その仕事を一年は続けた。その次の一年も、新しい名前を冠して再度やってみないかと持ち掛けられたが、俺は二つ返事で断った。今では別の後任者が、その名を背負って日夜殺戮を繰り返していることだろう。
 俺はもう、あのバイクに跨り、あのヘルメットを被り、非情な子供たちの前で公開殺人を犯す「ヒーロー」にだけは戻れないし、戻りたくはないと思っている。

 しかし、やはり俺は今夜も同じ夢を見る。
 そして明日の朝も同じように目を覚まし、日課のように携帯電話の新着メールを確認して、次の標的の居場所を知ろうとするのだろう。何処かでそれを望んでいる俺を、待っている俺を、俺は知っている。

どうしたって俺は「人間」だった

どうしたって俺は「人間」だった

――「俺」は殺したことがある。 過去の記憶を引き摺った、とある男の回想録。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-18

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