夢に見る犬

一夜
 犬が此方を見ている。
 暗闇の中犬が此方を悲しそうな顔で見ている。
 何でそんなに悲しそうなんだい?
 心が揺れる。
 頭を撫でて慰めたくても、手を伸ばしても届かない。
 体を動かしたくても動かない。
 ただ犬は此方を悲しそうに見て、私はただ見詰め返す。
 ずっと見詰めて思い出す。
 あれは、昔飼っていた犬ランだ。

 目が覚めた。
 六畳一間の煎餅布団の上で目を覚ます。
 今日も生きるための一日が始まる。
 受験戦争、就職氷河期、リストラの嵐。
 幾多の波瀾を乗り越えて、気付けば私は生きることだけが目的となっていた。
 何も戦争中の国だけが生き死にの世界じゃない。
 私はいつも生きるのに必死だった。
 この日本で? 努力が足りないんじゃない? と皆口を揃えて私を嘲笑する。
 足りないのは努力じゃない、才能だ。
 人より足りない才能で、生き残るため人の倍努力だけを続け。
 青春も結婚も何もしている余裕はなく、ただ生き残ってきた。
 恋も遊びも無い人生クソじゃん、なんで生きてるのと馬鹿にされる。
 だがそんなことどうでもいいほどに死が怖い。
 だから私は必死に努力して今日も生き残る。

二夜
 揺れる電車
 がたんごとんと揺れる心地良さ
 電車に人影はなく、窓の外は暗く車内の光景を写しだす。
 長椅子の端の手すりにもたれ掛かる私
 長椅子の逆端には犬がいる。
 犬は心配そうに此方を見ている。
 その顔を慰めてやりたくて
 尻尾を振って喜ぶ顔を見たくて手を伸ばす。
 だが届かない。
 必死に手を伸ばしても届かず、体が引き裂かれるような痛みに耐えて伸ばしても届かない。
 そんな私を犬は此方を悲しそうに見て
 わんっ
と吼えた。
 
「はっ」
 目が覚めれば終電の電車の中、一人長いすの手すりに凭れていた。
 今日も終電までタイムカード切って働き鉛のようになった体を引き摺ってアパートに帰る僅かに許された憩いの時間。
 この時間の睡眠で夢を見るのは久しぶり。脳にそんな余裕があるのは久しぶり。
 もうすぐ駅に着く。歩いて帰ってシャワーを浴びて眠りにつく。
 余暇を楽しむ余裕のないいつもの一日が終わる。
 何の意味も無い人生。
 なぜ自殺をしないのか不思議。
 友達もなく、妻もなく、次世代へ繋ぐ希望の子供もいない。
 生きている意味など全くないのは思考するまでもない事実。
 でも死ぬのは怖い。
 生きる意味は無くても死ぬのは怖い。
 惨めに社会の負け組として惨めに耐えて生きているが、死の恐怖だけは耐えられない。
 夜空を見上げ、夢に見た犬を思い出し涙が流れた。

三夜
 あれから仕事をしていても夢に見た犬が頭から離れない。
 仕事に集中しているときはいいが、ふと間が空いたとき犬の顔が浮かんでくる。
 なぜ私はこんなにも犬に惹かれる。
 あれは確かに昔飼っていた犬。
 人生負けっ放しの私が唯一勝ち負けに関係なく心から楽しめた時間。
 ああ、あれは俺の幸せの象徴だったんだ。
 そのことに気付いてしまった。
 気付いてしまったらもう怖くない。

 川の向こうに犬がいる
 悲しそうな顔で此方を見ている。
 近寄ろうとするとこっちに来るなと吼えて威嚇する。
 だが構うものか、もう決めたんだ。
 俺は人生で初めての生きるためでなく幸せに成るための決断をした。
 えいっと川を飛び越えた。
 吼えてくる犬に飛び込んで力一杯抱きしめた。
 抱きしめられた。
 犬は吼えるのを辞めて優しく俺の顔を舐めてくれた。
 ああ、幸せだ。

 大都会、勝ち組共が急がしそうに行き来する大通りに設置されたテレビにニュースが流れる。
 勝ち組の美人アナウンサーが澄ました顔でニュースを読み上げる。
『本日、アパートで男性が首を吊っているのが見つかりました。
 近所から異臭がするとのことで警察が入ったところ発見されました。
 男性はアラフォーで独身のアパート住まい。
 人生を悲観してのことだと警察は見ていて事件性はないようです。』

「人生の負け組、こうは成りたくないですね」
 勝ち組コメンテイターがしたり顔で述べる。
「そうですね」
 勝ち組美人アナウンサーが自然に答える。
 誰一人気に止めることなくニュースは流される。
 社会的人生の負け組の自殺、ただそれだけのこと。

 ただ首を吊った男の顔は満ち足りていたらしい。
 人生に負け家族も財産もない男、故に未練なく人生を終えられた。

夢に見る犬

夢に見る犬

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-12

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