花酔ひの君

山城よる 作

  1. 死人花
  2. 桂花
  3. 瑞霞の庭

死人花

 真夏日の酷暑にも涼しい顔をして、冰(こおり)は奥の間に鎮座する漆塗りの仏壇の前に丁寧にあつらえた盆飾りに野菜や果物を供え、花を生ける。
 大きなぼんぼりに明かりを入れ、位牌のない空の仏壇の前でそっと手を合わせた。

 日が昇るのが早くなる夏の間は、冰よりも雪片(ゆひら)の方が早起きになる。
 早く起き、家中の扉という扉、窓という窓を開け放すのだ。そして己が管理する土間の竈に、火打石で点けた火を入れる。

 朝食の下ごしらえが終わる頃合い、とんとんとん・と裏戸を叩く音が転がり込んで来る。
 板戸を開けると誰もおらず、真菰包みがでんとあるだけだ。
 冰の伝手で毎日届く中身を金盥に据え、バスタオルを敷いて居間に設え、それが終わったら、庭の井戸から冷たい水を汲み上げ、軒先に撒いて回る。
 雪片の夏の日課であるこれが終わるころには、丁度火にかけた鍋の湯がぐらぐらと沸いている。

 杓子で掬った熱湯を湯飲みに移し、冷まして白湯にしておけば墨染めの涼やかな絽の着物にきちんと袖を通した冰がやってきて、のんびりと口にする。白湯を飲み干してから、太陽が顔を出すより前に庭の樹々や花々に冷たい水をやって回るのだ。
 冰が庭に出ている間、雪片は厨で朝食の準備を整える。
 最後に羽釜炊きのぴかぴか白米をふんわり盛る頃、ちょうど冰が帰って来る。
 土間の厨から直接上がれる畳の居間には、短い四つ足に精緻な彫刻が施された飴色の卓子があり、向かい合わせに二人で朝食をとりながら、その日に仕事があれば一日の予定を確認し、何もなければ他愛のない話をする。

 昨日は仕事はなく、冰は自室の花壜の手入れをしながらラジオで甲子園野球の実況を聞いていた。おやつ時には井戸で冷やした西瓜を食べ、夕刻素焼きの鉢で育てている朝顔の萎んだ花を取って世話をする。
 平成も終わろうというこの現代に取り残されたかのような古い生活様式を今も守り、だが丁寧な生活をしていた。

「いただきます」

 そっと手を合わせた冰がいつものようにまず味噌汁に口をつけるのを眺めてから、雪片が自分の箸をとる。

「今日はお昼を食べたら出掛けるよ。花を摘みに」
「それは私が同行しても構わないものですか」
「ああ、来てくれると助かるよ。わたしは森歩きは少し苦手だから」

 ほんのりと柔和に笑む冰は、この屋敷の主であり、俗に花浸酒(かしんしゆ)と呼ばれる特殊な酒を作って売っている。
 美しい硝子壜に最も盛りの花を浸け込んだ酒は観賞してよし、飲んでよしといった体(てい)で喜ばれている。
 昼下がり。絽の着物のまま手ぬぐいを首に巻き、麦わらのカンカン帽を被った冰と、動きやすい服に着替えた雪片とで屋敷を出た。

 舗装されていない砂地の道路の、陰の多い場所を選んで歩きながら山へ向かう。
 冰は慣れた様子で整えられたハイキングコースを歩き、すいと獣道に逸れた。野草をわさわさとかき分けながらも迷いなく進んでゆく主に黙ってついて行く。
 夏の眩しい太陽が木々の緑を輝かせていたのも束の間、あたりは霧に包まれた厳かな様子に変化した。湿気った空気に土の匂いが混じり、森というよりは樹海のような様相が増していく。いつの間にかヒトが生きる現し世から離れ、あやかしものたちの棲み処である幽り世の道に踏み込んでいた。

「何の花をお求めで?」
「咲いているといいけどねえ。時期なんだけど、時期じゃないんだ」

 問いかけに答える気のなさそうな返事が返ってくるのはいつものことと割り切り、雪片は時折滑って転びそうになる冰の背を支えてやった。

「やあ、お揃いで。墨染めの旦那」

 苔生した樹の向こう側から唐突にひょいと見知った顔が覗いたが、驚いた様子も見せずに冰は返事のかわり、こくりと頷いた。
 その男は阿波座(あわざ)といって、冰の古い友人である。そして、冰が作る花浸酒には彼から購入している硝子壜が欠かせない。

「あれを探しに来たんでしょ。ご一緒させてもらいますよ」
「来ると思ってたよ。壜はある?」
「へえ、もちろん持って来てますよ。良さげなのが吊れてるのを来るとき見かけましたが案内しましょうか」

 阿波座の提案を断り、同行を増やして先へと進む。
 森は薄暗いが気味悪さはなく、それどころかどんどんと清浄な気が濃く満ちてゆくのが雪片にもわかった。
 冰の目的が何なのか、雪片にはわからない。時折振り返る阿波座がにやにや笑みかけて来るのが鬱陶しく、何が目の前に現れても驚かないでいようとなんとなく心に決めた。
 苔生す森の中を、どのくらい歩いただろうか。「ああ」と冰が声を洩らした。

「ゆひら、おまえはあまり近付き過ぎないように」

 はい、と返事をするより先に、それが視界に飛び込んできた。清浄な気が満ちる森の中にあってはいけないもの。
 どっしりと構えた古木の枝に、黄色と黒のポリエステルロープが巻き付けられ、樹皮の苔が削げている。首吊り死体だ。

「いい具合だ。莟みがある」

 清浄な気に一切混ざらない死臭と腐臭が鼻について吐き気がしたが、なんとか堪える。持参していたタオルで鼻と口を覆い、最初からそれを目的にしていた二人がまったく平気な様子で死体に近付いていくのを見やった。
 冰は「莟みがある」と言ったが、下生えは野草ばかりで目につく花はひとつもない。
 風上に移った雪片は、自分には見えない何かを見ている二人の背を少しばかり複雑な心境で眺めた。

「あっしは枯れかけのが好きなんですが」
「あ、そうなの。ここにはないけど、あとで探してあげよう」

 死体がぶらりと下がっている場所から少しばかり離れた場所にしゃがみ込んだ冰が、すいと手を伸ばす。すぐ側に立ち、背に負っていたリュックを腹側に抱え、中に詰めてある荷を漁っていた阿波座の手からぽんと硝子壜が渡った。
 それは筒状の不透明な黒い硝子壜で、直径は十センチほど。フラスコのように窄まった形の口にはアルミのねじ式キャップが付いている。
 壜口を開け、長いピンセットを中に挿すのが冰の動作でわかったが、やはり雪片の目には花も莟みも見えなかった。

「ゆひら、荷物の中の甘露をくれるかな」

 花浸酒に使う酒の入った一升瓶と、使い込まれたブリキの漏斗を手渡す。
 慣れた手つきで酒を注がれた黒い硝子壜は雪片に手渡された。
 死体のあるところをなんとなく知っているような足取りで道無き道を歩いて行く冰の正体が何者なのか、雪片は知らない。
 大抵のあやかしものが恭しく頭を垂れる姿を見るにつけ、大妖に類されるものだろうとはわかるけれど。
 あたりが暗くなってきた。阿波座は早々に火を点けた蝋燭を提灯に入れ、適当に拾った枝の先にぶら下げ、先頭をゆく冰の背中を照らしている。

「ああ、遠かったな。おまえが喜びそうな花がやっとあった。すごい、満開だよ」

 冰が分け入っていく周辺に死体はひとつもない。暗さのせいで見つけられないだけかと考えたが、わずかな死臭もしないため、雪片は注意深く周りを見ながら近寄り、からになった一升瓶を受け取った。最後の花浸酒は阿波座の手に渡る。

「ここが一番濃いィすね。あっしにも花は見えませんけど」
「うん、おあつらえ向き。集まっちゃうんだろうね。見たい?」
「いやァ、結構ですわ。取り込まれちゃあ帰途が不安ですからね」
「ゆひら、おいで。見えるように手を貸してあげる」

 薄い手袋を取った手を差し出され、華奢な指先をぎゅっと握る。触れ合った皮膚から冰の冷たい霊気が流れ込んでくるのがわかる。
 体温が下がり、凍えるように感覚が鈍くなっていく。それが肘、肩、首とじわじわ上がって来て目に達したと思った瞬間、雪片の視界は蒼い燐光でいっぱいになった。

「っ、これは……」

 まるい水たまりの中に立っているようだった。野草が生えているだけだった足下まで隙間なく、蒼く光る花が咲いている。さあさあと小川の流れるような音をさせて花が揺れ、揺れるほどに光の粒子が風に舞って森の隙間を抜けていく。
 これまでに見たことも、想像したこともない霊妙な青の花畑。
 うつくしいといった感覚はなく、目から入り込んできた景色が脳に映し出されるほどに、胸に満ちるのは途方もないさびしさだった。

 握った手が引き抜かれたことにも気付かないほど目の前の光景に圧倒されていた。波濤のように激しく打ち寄せるさびしさに涙が溢れ、頬を焼くような涙の熱さで我に返る。慌てて濡れた頬を拭ったが、先の二人は帰り支度をしていたので気付かれてはいないようだ。

「さ、目的は果たした。帰ろう」

 視界を満たした蒼光の花の海はじんわりと闇に溶けるかのように時間をかけ、やがて見えなくなった。皮膚を介して流し込まれた冰の霊気が尽きたのだろう。
 行きはあれほど長く途方もなく感じたというのに帰りはあっという間で、途中阿波座と分かれたあとは十分と歩かず二人は屋敷に戻った。
 簡単なもので晩ご飯を済ませたのち、月明かりに照らされる縁側で冷酒を傾ける冰に勧められるまま、今日作った花浸酒の壜を開け、中を覗いて見た。
 海底から遠い水面を見上げているような、どこかの青い銀河系を眺めているような景色が広がっていた。そしてやはり、見るほどにさびしさに襲われる。

「孤独とさびしさの色だ。商用にするために死気吸いの死人花を採るのはあまり好まれることではないが、根強い人気がある。孤独も、さびしさも、哀しささえ、わたしたちのようなあやかしものは持たないから」

 また涙が流れ出て、焼けるように熱い雪片の頬を冰の指がそっと拭った。

「その心、大事になさい」

 時に煩わしささえ感じるだろう生身の感情も、冰にしてみれば眩しい宝玉のごとし。美しく、尊く、希有なもの。己は永遠に持つことのできない生命の熱。
 雪片の頬に流れた涙に触れた指先は、焼け爛れるように痺れていた。

桂花

 台風一過、そよ風の吹く心地よい秋晴れの日。
 雪片(ゆひら)が厨で朝食の片付けを済ませ、新聞折り込みのチラシを広げていたときのこと。
 ふんわりと風に乗って漂ってきたまったりとした花の香りに、秋だ、と気付かされる。ふと思い立って芳香の尾を追いかけると、縁側に出た。

「ああ、ゆひら。ちょうど良かった。手を貸してくれる?」
「金木犀ですか?」
「キンモクセイ? ああ――そう、そうだよ。現し世(うつしよ)ではそちらの方がよく知られている名前みたいだね。わたしは古くから桂花と呼んでいるけれど……うん、キンモクセイっていうのもすてきだね」

 墨染めの長着の袖を襷掛けにし、枝を抱えていたのは屋敷の主である冰(こおり)だ。
 縁側いっぱいに広げて敷いた新聞紙に、剪定したばかりの枝が山となっている。
 秋の気配を香りに乗せ、いっぱいに振り撒くまろやかな橙色の花は、まだ莟みか、五分咲き程度の状態だ。咲きがけでこれほど香るのだ。樹についた花が満開になったなら、どれほど濃厚に香るだろう。
 涼やかな風がひょうと吹きつけた。もわもわと、まるい大きな風船のような形にたち昇っていた芳香がかき混ぜられ、薄い膜や、細い糸のようになって流されていった。

「何をお手伝いすれば?」
「うん。先ずは氷砂糖を一キロと、一番大きな果実酒壜を、そうだな……四つ」

 言われたものを準備して縁側に戻ると、冰は枝からむしった桂花を井戸水にさらし、ピンセットで花に混ざり込んだ塵や小枝を取り除いているところだった。
 細かな花が満ちた水面から的確に、かつ素早くごみを取っていく手際は大変見事だ。ものの数分でそれを終えると、目の細かい笊に花をあけ、よく水気を切って綿布に平たく並べた。
 冰は季節の花を使った花浸酒(かしんしゆ)を作ることを生業としている。時折は生花を卸したりすることもあるが、こちらはごく一部の懇意にしている友人に限られる。

 花器に生けるのと同じように特別製の硝子壜に花を封じ込め、酒を注いで作る花浸酒は、観賞用にも飲用にも喜ばれる。
 冰が手ずから浸け込むことで、大妖の力が移るのか、特殊な効果が見込めるのだという。
 ぽんぽんと綿布で挟み水気を完全に拭った花を、空きの果実酒壜に氷砂糖と交互に層になるように入れていく。

「何のお酒を用意しますか?」
「白ワインを使うんだけど、阿波座(あわざ)が今日届けてくれるって言っていたから、そろそろ来ると思う。来たらこれに注いでおいてくれる? それが終わったら、阿波座の手も借りて蔵の二階に貯蔵してある五年物の桂花陳酒を全部出しておいて欲しいな。瓶詰めして阿波座に持たせるから。わたしはまた枝を切ってくる」

 枝切り鋏を手にした冰が再度庭に出て行ってから程なく、来客を知らせるチャイムが鳴った。

「お待ちィ~ありゃ、雪片さんだけですか。墨染めの旦那は庭かね」

 勝手知ったる何とやらで、表でチャイムを鳴らしてから裏手の庭に姿を現した阿波座は、きょろりとあたりを見回した。

「何ですかそれ、箪笥?」
「あっはは、こりゃあ箪笥じゃねえすよ。雪片さんみたいな最近お生まれのお若い方が知らないのも無理はない」

 阿波座が背負っている、脚付きで観音開きになる小さな箪笥のようなそれは、笈(おい)という名前なのだと教えて貰った。
 縁側の端に下ろされた笈の中には、空の硝子壜がところ狭しと並び入れられていた。

「もとは修験者なんかが山に入る時に、ほとけさんや経文なんかを入れて運んだ法具なんですがね。旦那の扱う硝子壜はちと特殊な物なんで、運搬するときなんかは気を遣うんですよ。特にあっしは拠点を現し世に構えてありますから――俗世を通ることが多いわけで、穢れを呼び込まぬよう、結界に封入して運ぶんです。ほら、内板に書きつけてあるでしょう」

 硝子壜を幾つか取り出して空いた場所から笈の中を覗き込むと、確かにびっしりと墨文字や何かの文様が描かれてあった。ごく一般的な人間である雪片にとっては初めて見る〝いかにもな〟物だ。
 それとは別に両手に提げていた風呂敷を解き、一升瓶の口を開けた阿波座は用意の済んでいる果実酒壜にとくとくと白ワインを注ぎ入れた。

「ほら、奈良に春日大社ってとこがあるでしょう。知りませんか? あすこはお清めにお香を用いる珍しい神社さんなんですけどね。旦那が扱う香りもんも同じような効能があるんです。普段の花浸酒でも充分ではあるんですが、この庭の桂花や沈丁花なんかは、他に比肩するものがないくらい、一等良いもんなんですよ」

 それ以上教えてくれる気はないのか、手近にあった氷砂糖を二つめの果実酒壜にざかざか流し込む阿波座に、雪片は頼まれごとを思い出して声を掛ける。

「蔵の五年ものを出してきて欲しいと頼まれていたんでした」
「ああ、あっしは今日そいつを引き取りに来たんですよ。ちゃっちゃやっつけちまいやしょうぜ。旦那がまだ庭ってことは、もう何度か花浸けるんでしょう?」

 阿波座の言う通り、枝を抱えて戻った冰は一度目と同じように花をむしり、塵を除いて酒に浸けた。
 指示通りに蔵から運び出された果実酒壜は五つ。どれもこっくりとした深い琥珀色が満ち、壜の中でとふんと揺れる。
 二人が水気を切って下準備が終わった花と氷砂糖を果実酒壜に詰める簡単な手伝いをする間に、冰は蔵出しの桂花陳酒を小分けに瓶詰めしてゆく。
 阿波座が笈に詰めて運んできた硝子壜は、細身で背の高い四角い形をしており、短い口はラッパ型に開いている。使い慣れたブリキの漏斗を挿し、竹柄杓で中身を移した。コルク栓をぎゅっと詰め、〝厳封〟の字を書き込んだ帯状の和紙を、コルクと壜本体を繋げるように糊で貼り付ける。

「ゆひら、グラスを持ってきてくれるかな。三人分」
「おっ! 御相伴に与れるんで?」
「氷は要りますか?」
「うん。ストレートがおすすめだけど、割っても美味しいから、炭酸水もあれば」

 あったと思います、と雪片が厨に向かう背を見送り、冰は晴れた空を仰ぐ。

「今日中に浸けを済ませないと花が満開になっちゃうな。阿波座、夕方くらいまで時間ある?」
「ええ、そのつもりで来やした。こっちの壜も追加が要りますね」
「うん、でもそれは後日でいいよ。取り敢えず今日はこの笈ひとつ満杯にするだけで足りるでしょう、多分。上手に分けてやるんだよ」
「わかってますって。追加の壜、ちょっと遅くなりますが構いませんか?」

 いつでも構わない、と冰が了承を示すと同時に雪片が戻る。三人思い思いに縁側に座し、冰が注いだ桂花陳酒のグラスを持った。

「頂きます」
「頂戴しやす」

 雪片は、ブランデーほども濃い琥珀色をした桂花陳酒をグラスの中で回して遊ばせてみた。昼の明かりが射し込み大変美しい色合いを見せる。
 鼻を寄せると、生花とはまた違った多層的な深い香りがする。とろみのある酒を口に含むと、白ワインのかろやかな果実味と爽やかさが桂花の深い芳香にうまく混じって鼻に抜けてゆく。鼻腔から直接脳内に沁みるような重い香りに、思考が痺れ飛んだ。
 冰は酒を口にした二人が美味に舌鼓を打ち、意識を深く酩酊させる様子を眺めながら、竹柄杓の余瀝を指先にとり、庭に飛ばした。
(姿なき我が御祖に)

 まずはストレートでと、そのまま口にした二人を横目に冷えた炭酸水を自分のグラスに注ぎ入れ、茶でも飲むようにこくこくと干す。
 ――冰という存在を明確に表す言葉はない。あやかしもの、大妖といった呼称も便宜上の表現に過ぎない。例えばそれらは鬼や天狗、神妖・神怪といったものに細分化されてゆくが、冰にはそれがない。あろうがなかろうが困るものでもない、と本人は思っている。
 どうしてもそういった細かな種別呼称が必要なのだとしたら、冰は己のことを〝山気結晶〟と呼ぶ。かつては人だった――筈だ、と冰は思案した。
 自我を得たとき、既に神錆び苔生した老木のうろに抱かれていた。
 樹木の体温は穏やかで優しく、草花木がみな己に好意的なのがわかる。樹の鼓動、細い無数の水脈の静かな音――草花木たちには、人間よりもよっぽど血の近さを感じる。
 空になったグラスにおかわりを注ぎ、溶けかけの硝子塊のような氷を投入した。

「あ、旦那ばっかりずるいすよ。あっしにもおかわり下さい」

 冰の目に見え、雪片には見えないものは多い。赤毛の日本狼の本性を持つ阿波座の体内が、桂花陳酒の香りによって清められていくのがわかる。現し世に拠点を持ち、人間と積極的に関わってゆく姿勢を持つ彼は、俗世の穢れを受けやすい。
 それは澱のごとく無音で、体の色に同化し、しかし着実に蓄積する。あやかしものたちが科学的なものや人工的なものを好まないのは、それらが澱となり毒となって力の根源であり生命そのものである魂魄を脅かすからだ。

 魂魄に新陳代謝がない以上、汚れを落とし、穢れを清めるのは己の務め。しかしその汚れ穢れを落とし清めることを可能にするものは、そう多くは存在しない。魂魄に干渉できるほど清浄な気に満ちる場所も、幽り世には多いが、現し世にはもう殆ど存在しなくなってきている。
 現し世に居を構えたあやかしものたちが、俗世の穢れを嫌って幽り世に移るほど、現し世の形を支えている宮座の柱たちの負担が増してゆく。
 地球の温暖化と同じで、もう歯止めは利かないのかもしれなかった。世界は刻々と過ぎ去る時間と共に姿形を変えてゆくもの。人間のあずかり知らぬところで、世界は既に加速度的な滅びの坂を下り始めているのだ。

 雪片がそれを知ったらどう思うだろうと冰は考えたが、皆目見当がつかない。
 それなりの時間を共に過ごしてはきたが、人間の心の機微はあまりにも遠い。
 彼が嬉しいこと、楽しいことに共感を示すことはできるけれど、悲しいことはわからない。雪片に血を分けた血族の人々や、友人知人が含まれる人間社会がなくなって、雪片自身がそれを見届けなければならない立場だったなら――。
 阿波座の体内にあった穢れがきれいさっぱり無くなるまで飲ませた冰は、それ以上考えるのを止めた。
 雪片はいずれ人界に返してやらねばならないだろうし、彼もきっとあちらへの帰着を望むだろう。

 己を含むあやかしものたちが瞬きする間に老いさらばえ死んでゆく、人間という命の形を思えば、雪片が人間社会の滅びを見届けることなどありえない。彼が、人間を憎み、有限の命を捨ててまで〝こちら〟に与するというというなら可能かもしれないが、それにしたって元が人間であるあやかしものは、よっぽどの傑物でなければ長くは生きられない。無間一定の自我を保つことができないのだ。
 短い有限を生死するという、遺伝子に組み込まれた常識を覆すのは並大抵の精神力では出来ないこと。精神力が魂魄に通じ、魂魄の強さだけが存在を確からしく維持する幽り世という世界では、人間という生き物はあまりにも脆すぎる。

 死を理解してしまっている。その賢明な意識こそが可能性を狭めていることを知りもせずにいる方がまだ幸せであろう、と冰は思う。
 そう――雪片も、いつかは人界に返してやらねばならない。人は人の世で生き、そして死ぬべきだ。
 生命が実は無限であることを、知ってはみても存在の全てで感じ取り、当然そうであるといった肌感覚には、到底及ばぬ生き物なのだから。
 雪片という人間の中に今もある、淀んだ俗世の穢れが、どれほど酒を飲ませても薄まる気配すら見せないことに冰は苦笑した。人間はちっぽけな力しか持たない脆弱な生物ではあるけれど、無知無感の強さだけは大妖の力も及ばない。

 その肉体の中に閉じ込められている重たい暗さが、いつかの別れを予感させた。

瑞霞の庭

 初夏の候。
 軒先の掃き掃除をしようと玄関から外に出る時、雪片(ゆひら)は棚に飾られた藤の花に気がついた。
 細枝にふくふくとした小さな花が鈴なりに並ぶ優雅さにしばし見とれる。
 藤色、としか表現のしようがないその花色は素晴らしく、僅かに青臭いようなほんのりとした甘い香りが漂っていた。

「おはよう、ゆひら。どうかな、今年の一番花は」
「おはようございます。私に花の善し悪しはわかりませんが……美しいと思います」
「どのくらい?」
「え? ええと……」

 庭に面した縁側がある廊下から足音もなく現れた屋敷の主――冰(こおり)は、つっかけを履いた足を止め、どのように答えたものか考えあぐねている雪片を見て静かに笑った。

「聞き方がいじわるだったね、ごめん。それはそうと、もう少ししたら出掛けようと思っている。先日頼んでおいたものの準備はどうかな?」
「あとは風呂敷に包むだけなので、すぐにお渡しできます」
「ありがとう。では軒先の掃除が済んだら包んでおくれ。今日は……連れて行ってやれなくてすまないね」

 屋敷の敷地が道路に面した表には椿の生け垣が整えられ、冬になるとそれはもう壮観と言うに相応しいほど見事に花が咲く。
 隣家に接する両角にはそれぞれ金木犀と桜の見事な大木が植えられ、近所の家屋の二階などから裏手にある広大な庭が見えることもあり、冰の屋敷は〝花の家〟と呼ばれていた。

 雪片は数日おきに軒先の掃除をすることにしているが、桜の花が散り、瑞々しい葉桜となってからは殆ど掃き清めるものはない。
 ささっと掃除を終えたのち、厨の調理台で準備を終え、整えてあった重箱を風呂敷に包んだ。
 牡丹紋の織り模様がある、涼しげな紗の墨染めの衣に袖を通した冰が、一升瓶だろうとわかる包みを側に置いて足袋を履いているところに持って行く。

 一週間ほど前、この日に出掛けるからできる限りの豪勢なお弁当をと頼まれた。
 いつものようにどこに出掛けるとか、何をしにゆくとか、そういった話はなかったが、なんとなく桜が終わったあとではあるが花見だろうと予想して、手まり寿司のシャリには桜でんぶを混ぜ込んでみた。
 冰の好物である牛肉のしぐれ煮はたっぷりの針生姜を加えたし、玉子焼きはだし巻きと砂糖を混ぜた甘いのと両方入れた。
 さと芋の煮っころがし、万願寺とうがらしの焼き浸しなど、他にもこれまでの食卓に出して冰の反応がとりわけよかったものをたくさん詰めた。
 漆塗りに螺鈿細工が施された、見るからに高価な重箱に入れるにはあまりにも凡庸なメニューだが、と雪片は自嘲する。

 この屋敷で冰とともに生活するようになって数年経つが、この重箱が活躍するのはこれまで正月だけだった。
 空の重箱を持って冰がどこかへ出掛けると、年の瀬に中身が詰まったものが届くのだ。伊勢海老のひげが飛び出して蓋が閉まっていない年もあったな、と思い出しながら、おせちに比べると貧相な、と考えてしまう思考を振り切った。
 足袋のこはぜを丁寧に閉じ、草履を履いた冰が重箱と酒瓶の包みを抱える。

「ありがとう。行ってくるよ」
「はい。行ってらっしゃい」

 雪片に見送られ、屋敷を出た冰は、一番近い稲荷神社の裏手に回った。
 鬱蒼としてどこか怪しく冷たい空気が漂う林に踏み込んだ瞬間、薄い膜を破ったような感触がする。奇妙な、それでいてかすかなこの感覚が、幽り世に肉体が移ったことを示す合図だ。
 下生えが左右に分かれただけの短い獣道を抜けると、砂地の細道に出た。
 どこにでもありふれた山道だが、大妖と呼ばれるものに類される冰は、道がどこでも、どんなでも、望む場所へ繋げることができる。少し歩けば見知った場所に出るとわかっていた。

 涼やかな風がひゅうと通り抜ける木立の足下に可愛らしい花が揺れる。
 群生して咲くちいさな花は、道を進むほどに数を増していった。
 あやめに似た形の小さなシャガの花は、紫と黄色の模様が入っている花弁と、無地の花弁とがそれぞれに三菱を描いて交互に並んでいる。
 冰は僅かに波打つ花弁の繊細さを眺めつつ、同じ字を持ちながら、可憐な花とは全く似つかぬ友人を思う。
 いつもならそこはがらんどうの廃墟だが、今日なら会える気がしていた。その予感のために弁当まで用意して、と思案する間に木立が途切れ、目先に寂れた屋敷が現れた。

 門は朽ちて崩れ果て、硝子がはめ込んである玄関の戸も割れて地面に散っている。あちこちにがたが来ているのが誰の目にも明らかな廃墟である。
 かつての美しい姿は微塵も残っていないが、もう見慣れていた。住人がいなくなった家屋が傷むのは早いと知っていながら、手を打たずに朽ちるに任せたのだ。持ち主のためにはその方がいいと考えて。畳が腐れ、草が生えても放置した。
 崩れた門を跨ぎ、玄関を無視して庭に回る。

 屋敷はどこもかしこも殆ど朽ちて無残だが、庭を眺める深い庇のかかった縁側だけはまだマシな状態が保たれ、かすかに往年の立派な屋敷の面影を忍ばせる。
 そこに男が一人座していた。灰色の草臥れた着流しの襟はだらしなく、片膝立てて胡座をかいているために足もむき出しだ。ざんばらな髪は短く刈り込まれ、身なりにあまり気を遣わない質なのか、顎には不精ひげがまだらに生えている。見ようによっては無頼漢のようであったが、しかしどこか霊妙な、触れがたい獰猛さを隠した雰囲気の男だった。

「射干、息災か。久しいな」
「おめえさん……何故ここに」

 屋敷のぐるりを回って庭に姿を現した冰を見るなり男は立ち上がり、驚いた表情を浮かべつつも諸手を広げた。久方ぶりの再会を喜んで抱擁を交わす。

「何年経ったか――わからんが、まあ座れ。積もる話は無くもないが、話すほどでもないからな」
「ああ……? いや、積もってるなら話せよ。流れの噂で聞いたぞ。墨染めの君ほどの御方が人間なんぞを飼っておられる、とかな」
「飼っているのではない」

 男――シャガの花と同じ字を書いてヤカンと読む――の隣に上がり込んだ冰が、早速抱えていた包みを解いて酒瓶を取り出す。
 ワイン瓶の胴を長くし、首を短くしたような形の透明の硝子壜の中には、シャガの花が閉じ込められている。同じ花が、目の前の庭を埋め尽くして咲いていた。ぽっかりと穴が空いて見えるのは鯉池があったところだ。

「盃を取ってこい、射干」
「へえへえ、了解しやした、墨染めの君殿。おめえ、どうせあれも呑む気なんだろ」
「無論だ。ここは瑞霞の庭だぞ」

 素足で草履を引っ掛けた射干が庭へ出ていく間に、風呂敷を解き三段重を広げてしまう。
 開けたときのお楽しみに、と中身を聞かないでいたのだが、蓋を開けた瞬間に思わずわあっと子どものように声を上げてしまった。

「ガキか。ありふれたもんばっかじゃねえか」
「くそ、聞かれたか。わたしの好物ばかりが詰めてあるのだぞ、嬉しいじゃないか。喜んで何が悪い。そんなことを言う奴には分けてやらんぞ。見ろ、手まり寿司の美しいこと!」
「わかった、悪かった。子飼いの人間が作ったのか?」
「飼っているのではない。ゆひらというんだ。縁あって匿っている。本人は知らんがな」
「……面倒ごとを抱えるのが好きだな。重々気をつけろよ。ただでさえおめえは穂野宮家に目ェつけられてんだ。コトが起こりゃあ分が悪いぞ」
「本当にそう思うか?」

 戻った射干の腕には壊れ物のようにそっと抱かれた大輪の花があった。たったの一輪だというのに、大の男が両手で持っても余るほどの大きさだ。
 淡く金色にほの光る白い花を受け取り、冰は挑戦的表情で射干を見やった。

「穂野宮が何人掛かって来ようが構わんさ。所詮、足で立つ生き物だろう」

 白い花の、松ぼっくりのような独特な形をした蘂の根元にたっぷりとたくわえられた、光る粒子を散らしたような水滴を、大外からちぎり取った花弁盃にかろりと注ぐ。

「なあ、知っていたか? 瑞霞(ずいか)が、大陸の方では仙丹と呼ばれていること」
「へえ。まあ、間違いではねえよな。物の怪にも、あやかしにも、人間も、お前のようなものにまで、特異な効果を顕す霊薬であることは確かだろ」
「うん。さすがに人間が不老不死になるなんて話は笑いものだが。みなが血眼になってこの庭を探しているぞ」

 手のひらからあふれるほど大きな花弁に注いだ瑞霞を、二人は先ず庭に向けて献盃した。

「ちわうに――」
「ちわう嬢に」

 声が重なる。かつてこの屋敷にあって、天上帝の住まう天津世(あまつせ)でさえ稀有な瑞霞をなみなみと生み出す花木を育てあげた女性をそれぞれに思い描き、僅かの間、彼女を悼んだ。
 それから、他愛のない話をしながら泰山木の花弁を盃に、冰が持参した花浸酒(かしんしゆ)と雪片渾身のお弁当で二人だけのちいさな宴を催した。

「おめえさん、空けた壜になみなみと瑞霞を持って帰るつもりだろう」
「当たり前だろう。わたしはちわう嬢にそれを許されている。おまえが諸国をぶらついている間のここの世話を誰がしていると?」
「道理で。たまにしか戻らねえ割に荒れてねえなとは思ってたよ」
「――庭を眺めるのが辛いのは想像に難くない。無理はするな。それを見越して彼女はわたしに入庭を許してくれたのだろうしな。……何より、おまえが庭を世話すると、花のついていないシャガまで雑草と一緒に抜かれて、庭が禿げ上がってしまう」

 主の許可無くしては、総てを治める天上帝でさえ踏み込むことが叶わぬ強力な壽咒(じゅじゅ)によって守られている庭である。
 射干とちわうはかつてこの庭で、生きるも死ぬるも共にすると誓願を立てた。二人きりの完全世界を希い、天恵によって叶えられた。しかし彼女は、先に死んだ。呆気なく。
 あまりに強い効能を持つために、悪用すれば世の理の均衡をいとも容易く崩してしまえるほどの瑞霞が、なみなみと採れる庭である。今やこの庭を保ち、守ることが、射干に遺された唯一の生存理由となっていた。
 ともに生き、ともに死ぬと誓ったはずだった。ちわうは己が愛した世界のため、己を愛した世界のために、赦された誓願を自ら破り、庭を守って欲しいと言い遺して去った。一方的な願いを投げつけるだけ投げつけて逝ったちわうを、射干は今も愛している。そんな女だから愛したのだともわかっている。美しい女だった。その名の通りに。

「たまの世話は任せてくれて構わないが、わたしは持ち主にはなれんぞ。お前に死なれて困るものはここにもいる。生き延びてくれ、何としてでも」
「ああ――おれがあいつを愛してるうちは死なんさ。最期の頼みが聞けねえで何が伴侶か。誓いは破られたが、そんな些末なことで尽きるよな気持ちなんぞ、ハナから持ってねえ」

 空になった重箱を包みに戻した冰は、煙管に挿した紙巻き煙草を吹かし始めた射干に一応の断りを入れてから泰山木の木に登った。
 空になった花浸酒の壜に瑞霞を集めるのだ。

 もう何度目か知れない。ちわうがこの世から喪われてどれほど経ったのか思い出すのはとてつもなく億劫だ。それほど長い月日が過ぎ去っていった。
 もともと大きかった泰山木だが、その枝振りや花付きはかつての何倍にもなり、今では一升瓶では到底足りぬほどの瑞霞が一度に採れてしまう。
 シャガの花と、泰山木の花はもともと同時期に咲くものではあるが、それがゆえ、身を持った花の片割れがもうどこにもいないことを冰は物足りなく感じた。

「冰、息災でな」
「お前の方こそ。たまにはうちに寄れ。ゆひらも紹介したい」
「ああ、気が向いたらな。……甘い玉子焼き、気に入ったと。よろしく伝えてくれ」
「早くに気が向くことを祈ってるよ。ゆひらは人間だからな」

 さよならは言わず、冰は来たときより軽い荷を抱えて瑞霞の庭を後にした。

「体良くあいつにやっちまって、とっとと去ぬろうかと思っていたんだがなあ」

 先に釘を刺されちまったよ、と話しかけるように一人ごちる。
 応えるものはなかったが、紫煙をくゆらせる射干を眺める泰山木の花だけが、静かに、風に揺られてくすくすと笑った。

花酔ひの君

花酔ひの君

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-11-11

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