天秤、ばかり、

しとしと、といった風情のあるものではない。夏の終わり特有の、じわじわ肺を蝕むような不快な夕立が降る。先程まで聞こえていた烏の哀愁ある呼び声も、かき消されたか潰えたか、今はもう聞こえなくなっていた。
「それでも君は来るんだね、人殺し」
そんな中を傘もなく走ってきたのであろう青年が、私の墓標に傅いて粗野に十字を切った。ずぶ濡れて捨て猫のように逆立った栗毛がべっとりと頬に貼り付いている。
「遅いよ」
言うなれば、私は彼の命の恩人である。また、十数年を共にした仲でもある。であるのに、彼は私を見捨てた。見捨てて逃げて、今もこうしてのうのうと生きている。
彼は暫く何も読み取れない顔で黙りこくっていたが、ようやくからからの口を開いて、喉でか細く息を吸い込んだ。
「やっと、やりとげたよ」
やけにのろのろと、彼は血とサビの臭いのするぼろのナイフを目の前に置いた。華美な装飾から実戦用に作られたものでないことがわかるそれは、しかし今となってはただの汚らわしい人殺しの道具に成り下がっていて、ちっとも美しくない。
「レオルもグリードも、フアも、勿論シスターも……みんな無事だ」
そのみんな、に私は含めて貰えなかったのだ。それを解っていて言うほど彼が賢くないのは百も承知だが、それにしたって腹が立つ。私は眉をひそめた。
彼は分かっていない。死んでしまったら、もう後に何が残ろうと何とも思えないのだ。利益も損も何もかも、「これから」が無くなった死人にとって意味があるものではない。現に私はここに居ざるを得なくて、その何人か羅列された名前の人たちとはもう一言も交わせない。仇を討たれたとて、それを喜ぶ理由もない。
だというのに、彼は唇を薄く引き伸ばして私の墓に笑いかけた。それがまた癪に触った。
彼はそんな思いを露知らず、語る。
「僕は始め、思っていたんだよ。君は勇敢で、優しすぎるくらいにお人好しだったんだって」
過去形に込められたのは、恐らく私と同じ思い。それも、よほどたちの悪いものだ。
「逆だったんだ。君は逃げたんだろう、僕を置き去りにして」
彼は半ば八つ当たりのような勢いでナイフの錆を墓石に擦り付けた。錆がぱらぱらと降りかかり、何に由来するかもわからない鉄臭い臭いがぷんと漂った。銀色を跳ね返す刃の背に沿うように、私の名前がラテン語で綴られているのがわかる。
「君はあの日から英雄になったんだ。シスターは君のことを神の御使いだとすら呼んでいたよ」
錆は落ちたというのに、彼はまだ大理石を切りつけている。
「僕の命を助けたのは、未来に繋げるためじゃない。自分を過去に縛り付けて、神格化して、そして僕を生け贄にするためだろう」
最後に顔を見たあの時から、随分と生傷が増えている。頬もこけたし、目付きはギラギラとしていて攻撃的に宙を睨み付けている。変わってしまった、何もかも。
「苦しくて逃げたくて、だから君は全員を見捨てて「魔女」になることを選んだんだろう?」
ああそうとも。私は逃げた。
──教会に彼らが踏み込んできたあの日、私はあの人たちの前に立ちはだかってみせた。それから「皆」を逃がすために魔法を使って、そこで捕らえられた。広場の火刑台で生きたまま焼かれたりもした。そうすることに、幾らか自分のなかにいくらか破滅的なヒロイズムを見出していた。
それに陶酔したまま、私は役目を終えた。私は「ゴール」に辿り着いた。
さて一方彼は、命からがら皆を連れてうまく逃げたのだろう。泥を啜るように、地を這うようにじわりじわりと蕀の道を歩き、ついには彼らを討ってみせたのだろう。きっとそうだ。だって、私は彼とそれを「約束」したのだから。
しかし彼はまだ進まなければならない。天の使いにもなれないまま、無責任に全てを背負わされたまま、自らの処刑台までゆっくりと歩いていかなければならない。
「僕は人殺しだが、加害者は君の方だよ」
そう言う声は震えていた。腹の内はどんな蟲毒か知れなかった。
「なあ、そうだろう、お前は最低なやつだ」
けれど、彼の声もどこか自身に対する満足感で満ちていた。不幸である自分にありたけの憐憫を塗りたくれることが、気持ちよくて気持ちよくて仕方ないという目をしていた。
だからこそ彼は成し遂げたのだ。そして、これからも逃げることはない。自身を悲劇のヒロインたらしめるために、ひたすらに奈落へと往く。
だからこんなことを口走るのだ。
「だけれど、僕は、君のことが嫌いになれなかったんだよ」
これはきっと恋ではなかった。ただ、醜い人間が二人、利害を一致させて各々幸せになったことを添い遂げたとは誰も呼ぶまい。

天秤、ばかり、

天秤、ばかり、

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-11-09

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